【戯曲】アケルダマの

一人芝居用の短編戯曲の第一稿です。書き換えるつもりですが一先ず晒し。


【登場人物】

・亡者(ユダ)


 暗い中で声がする。だんだん明転。

亡者 おい…おい!…大丈夫かお前。…はははは。大丈夫。お前死んでるから。これ以上もう死なねえよ。

 崖下の共同墓地。崖には幾つか洞窟があり、その中も古代の墓所として使われてる。

亡者 …うん?…だから死んでるんだって。…(相手を指差す)お前。…冗談言って俺に何の得があるんだよ、俺はね、こう見えても割と真面目な男よ?

 …え?俺?ここの大家みたいなもんだよ。ま、今はただの地縛霊だけどな。…ここ…知らねえのか?「アケルダマ」。「血の土地」って意味だな。元々陶器を作る職人が粘土掘りをしていた場所なんだが、粘土が取れなくなって荒野になってたのを俺が買い取って共同墓地にしたのよ。外国人だとか金がねえとか、縁者がいねえとか宗教が違うとか、色々あって普通の墓に入れねえやつを葬るための墓地だよ。どんなヤツだって死んだ時ぐらいは墓に入りたいだろ?

 …知らねえよ。俺が見つけた時には、もう死んでた。…落ち着けよ。まあ、いきなり死んだらびっくりするよな。でも今更慌ててもどうにもならねえ。お前は死んだ。それはもう変わりないんだ。諦めて受け入れろ。ここには、お前みたいに死にぞこなってるやつが他にもいる。ゆっくり、生きてた時のこととか死んだ時のこととか思い出しながら、気が済むまでここにいたらいいよ。

 …俺か?…まあ、俺もそうだな。死にぞこないの一人だ。…だいぶ長いよ。かれこれ二千年近くなるな。…そう二千年。…すごかねえよ。ただ眠れねえってだけだ。…お前は大丈夫だろ。普通の死にぞこないなら、長くて数日。色々あるやつでも何年かすると死を受け入れて、いつの間にか眠ってるもんだ。大丈夫。安心しな。

 …地獄行き?…罪を犯してるから?…ああ、まあそれはしょうがねえよ。でもな、地獄もたぶん、そんなに悪いもんじゃないぞ。…例えばお前、酒も飲まず女も抱かず、優しくほほえみ世界の真理を語り合う、なんてことできるか?やってる自分を想像できるか?本当に天国に行けるのはそういうやつだ。ってことはだ、まかり間違ってお前が天国に行ったら、そういうやつらの中で暮らすんだぞ?しかも永遠に。それに比べたら、焼かれたり刺されたりしても、似た様なやつらと暮らす方が気楽じゃないか?

 …俺?俺も行くとしたら地獄だろうな。…俺の罪か?そうだな。一言で言えば「ペテン」だな。価値のない物を価値があるように見せたり、価値がある物を価値がないように見せたりして人を騙し、信用を裏切る罪。

 知ってるか?裏切りの罪は一番重い罪でな、地獄の中でも最下層、第九圏のコキュートスに落とされて、堕天使ルシフェルにガジガジ噛まれ続けるんだとよ。たぶん噛まれても噛まれても死ねねえんだろうな。酷いよな。

 でもなんで裏切りがそんなに重い罪なんだろうな?そりゃ、俺は人々に、真実とは違う物を見させたかも知れねえけど、人は元々、自分の見たいものを見、信じたいものを信じる生き物だ。俺は、ただあいつらが見たいもの信じたいことを、見させ信じさせただけだ。欲しがってる人に欲しがってるモノを与えるのは悪か?じゃあ「求めよさらば与えられん」なんていうやつも悪だろ。違うか?

 まあいいさ。俺だって慈善事業をやってたわけじゃない。欲得ずくでやってたんだからやっぱり罪なんだろうな。

 …聞きたいのか、俺のこと。お前、珍しいやつだな。俺はな、商人だった。貧乏子沢山の末っ子でな、生まれ故郷のイスカリオテにゃ耕す土地も住む場所も無かったから、村に立ち寄った行商人のキャラバンに紛れ込んで旅に出た。俺は腕力も無かったし見た目もこんなだったが、口と頭はよく回ったから、見様見真似で商売を学んだ。売れそうなものを見つけ出して買いたたき、買いそうなやつを見つけて売りつける、そうやって稼ぎまくって、気がつきゃ自分でキャラバンを率いるくらいになっていた。

 でもな、ある頃から言いようのない苛立ちを覚えるようになった。当時俺らの国はでっかい帝国に支配されてた。自前の王様はいたが自治権は無かった。日々の暮らしにゃ色んなしきたりがあって、それを司る祭司連中が幅を効かせてた。俺たちは、帝国の支配者や祭司どもに首根っこを押さえられて、自分たちの思うように生きる事が出来なかった。稼げば稼ぐだけごっそり持って行かれる。不満そうな態度を取れば痛い目に合う。事なきを得ようとあいつらに尻尾振る度に、心が乾いて削れていくようだった。

 そんな時、先生の噂を聞いた。その頃俺は、ガリラヤのカぺナウムって町で商売をしてた。湖のほとりの港町で漁師が多かった。

先生は元々そこに住む大工の息子だった。「世界の終わりは近い!悔い改めよ!」が決まり文句のヨハネから洗礼を受けたって言うから、どうせ似たような堅物だろうと思って話を聞きに行ったら、全然違ったよ。

 ※以下、二重鉤括弧書きは聖書の言葉。「マタイ○章○節」などの部分は出典。プロジェクターなどで表示するか音読する。(音読の場合は出典は読まない)

 『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

     マタイ五章三-五節』

亡者 なんだこれは!?って思ったね。そんな事言う律法学者も祭司も今までどこにもいなかった。ユダヤ人以外には死を撒き散らし、ユダヤ人であってもしきたりを守らなければ罪人として地獄に落とす。それが俺たちの神様だった。なのに、先生は違った。

 『もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。

     マタイ五章三九節』

亡者 先生の言葉は真逆だ。神様は俺たちを愛してると、愛することが真理だと言った。

 『敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

     マタイ五章四四-四五節』

亡者 罪を犯している者も、いや、いっそ、罪を犯してる者だからこそ救われると言った。

 『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。

     マルコ二章一七節』

亡者 俺は興奮した。身の内が震えるようだった。こいつだ!こいつなら行ける。この先生なら、世界の仕組みを変えてくれる!だから俺は、その場で先生の弟子に加えてもらったんだ。

 当時先生には俺の他に11人の弟子がいた。漁師の子供や徴税人だった男、熱心党の活動家、ヨハネの弟子崩れ。俺も含めて、当時としちゃどう考えても聖職者になんかなれねえ連中ばっかりだった 。先生に付いて回る信徒も似たりよったりで、みんな貧乏人や病人、怪我人、浮浪者、チンピラ、犯罪者、そんな連中ばかりがうじゃうじゃ。でも先生は、そんなやつら一人一人に微笑み、話しかけ、悩みや怒りや悲しみを聞き、慰め、諭し、癒やした。

 『ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。 すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった。

     マルコ一章四〇-四五節』


亡者 そう、特に癒やしの技はすごかった。血の病の女を癒やし、盲人の目を開き、中風で歩けない者を歩けるようにし、死んだ娘を蘇らせた。中には先生の服の裾に触れただけで治るやつまでいた。どこの村でも町でも、先生のところに病人や怪我人が列を成して待っていた。

 俺は教団の金庫番をするようになった。俺は金が好きだったし他の誰より金の扱いは上手かった。他の弟子どもは足し算すらロクに出来ねえやつが多かったし金勘定を嫌ってた。徴税人だったマルコなんかは向いてたんだが、弟子入りとともに「金は汚らわしい」と言い出した。馬鹿な話だ。金は人の欲を形にして扱うための道具だ。汚らわしいのは使う人間であって金そのものじゃない。大事なのは使い方だ。

 俺は、信徒が寄進してきたモノを商人に貸したり、穀物の先買いで殖やし、殖やした金は先生の活躍のための資金にした。例えば、ほうぼうで効きそうな薬を買い集めておいて、先生の技だけじゃ治らなかったやつに先生からと言って施したりした。一人治れば十人、十人治れば百人の信徒が集まる。信徒が増えればそれは力になる。少々金がかかってもこれは投資だ。

 こんな事もあった。ある時、先生は湖の畔で集まった連中に説教をしていた。五千人近くいた。みんな貧乏だ。食べる物もロクに持たず、先生について行けばなんとかなるとそんな甘いこと考えて着いてきた連中ばかりだった。周りに街はない。俺は先生に言った。

 この辺は寂しいとこだし、だいぶ遅くなりました。ここらで解散させて、近くの街に食い物を買いに行かせませんか?


 『あなたがたの手で食物をやりなさい。

     マルコ六章三七節』


亡者 ええ!?先生、こいつらに行き渡らせるだけパンを買うには二百デナリはかかりますよ?それを俺たちが買うんですか?


 『パンは幾つあるか。見てきなさい。

     マルコ六章三八節』

亡者 パンは五つと魚は二匹だけだった。それを持っていくと先生は、信徒どもを草の上に座らせて、残されたパンと魚を手に取り天を仰いで祝福した。そうしてパンを裂き弟子に配らせ、魚もみんなに分け与えた。と手から手に渡るうちにそれはどんどん増えていき、そこにいた連中みんなに行き渡った。奇跡だ!

 もちろん。これは俺の仕込みだ。予め食料を荷物に隠して無いふりしておいて、先生が動き始めたらそれに合わせて食料を出したんだ。これでまたどっと信徒が増えた。食べ物の奇跡は特に効く。

 『人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる

     申命記八章三節』

亡者 先生は俺の小細工に気づいてるみたいだった。聖書のそんな言葉で俺を嗜めたが、それ以上は何も言わなかった。信徒たちのためになるならと黙認してくれてるようだった。

 ペテロ達も黙ってた。裏じゃ俺のことを金に汚いペテン師だ、教団の金に手を付ける泥棒だ詐欺師だとけなしていたみたいだがね、別に気にもしなかった。それに、やつらにとっちゃ、誰が教団で一番偉いかってことの方が大事だったようだ。何かというと先輩風を吹かせて、俺が、俺が、俺が誰より先生に近いとそれだけに躍起になって、時には取っ組み合いの喧嘩をしては先生に怒られていた。

 『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

     マルコ一〇章四四節』

亡者 俺たちは、あっちこっちを巡って説教の旅を続けた。どこに行っても、群衆が先生を待ちわびていた。みんな先生に期待していた。先生の癒やしを、清めを、教えを請うた。やつらは先生を預言者だと、救世主・キリストだと呼んだ。ペテロ達もそう主張した。

 だが先生は、それを聞くといつも困ったような顔をして、人に話さぬようにと口止めをした。先生は自分が「預言者」とか「救世主」と呼ばれることを嫌がっていた。俺はそれが不満だった。実際、人を救ってるんだから救世主を名乗って何が悪い。でもその理由は後でわかった。

 ピリポ・カイザリヤの村々で説教を行っていた時、先生は言った。

 『人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう。

     マルコ九章三一節』

亡者 それは聖書に描かれた救世主・キリストの運命だ。救世主としてこの世に生まれたものは、人々の罪を背負い、迫害を、罵倒を、自らを殺そうとする殺意を受け止めなければならない。信徒たちの顔がひきつった。それを感じて、ペテロが先生を嗜めようとすると、先生は言った。

 『サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

     マルコ八章三三節』

 『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従がってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失ない、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

     マルコ八章三四-三七節』

亡者 みんなシンッと静まり返った。それまでだって先生は、悟ろうとしない俺たちを嗜めるような言い方をすることはあった。でも、この時の言葉はなんだかいつもとは違っていた。先生の中に蠢いてる「生きたい」という想いが漏れてる気がした。先生は聖なる犠牲の話でまとめて、説教は解散となったが、この日から先生と俺たちの間がなんとなくギクシャクするようになった。みな、先生に対しなにか感じていたが、ペテロみたいに叱られるのを恐れた。先生も、自分の想いにより一層フタをするようになった。

 そんなある日の夜、みんなが寝静まったあと、ふと目を覚ますと先生がいなかった。

 俺は外に出た。月が出ていた。月明かりを頼りに先生を探した。

 先生は近くの森の中で祈りを捧げていた。俺が近づくと先生は気がついて頭を上げ、俺に振り向いて、言った。

 『あなたがたはわたしをだれと言うか。

     マルコ八章二九節』

亡者 ペテロなら迷わず言ったろう「あなたはキリストです」と。でも、俺は先生の目を見て喉が詰まってしまった。苦しそうだった。何百何千という連中の苦しみを取り除こうとしてきた先生が、荒野をさまよう迷子みたいに俺を見ていた。俺は、間違ってたんだ。この人は人を癒やし、奇跡を起こす人だ。でも、どうしようもなく人間なんだ。ただの人間なんだ。

 先生、あなたはただの人の子です。カペナウムの大工の息子だ。あなたがただの人の子として生きることを望むなら、今からでも全てを捨ててお逃げなさい。弟子たちも、信徒どももみな捨てて。なんとでも言い訳はつけられる。そうだ、あなたは天に帰ったということにすればいい。なに、みんな最初は悲しんだり怒ったりするでしょうがね、そのうち忘れちまいますよ。人間なんてそんなもんです。あとは人の子として生きなさい。癒やしも救いも忘れて、最後の審判のことも忘れて。なんならほら、あなたに惚れてるマグダラのマリアと結婚したらどうです。あなただって憎からず思ってるんでしょ?

 俺はあんたにこれまでさんざん注ぎ込みました。あんたなら世界を変えてくれると思ったからですよ。でも諦めます。あんたにゃ無理だ。このまま無理に進めたって、あんた最後にビビって泣き入れるに違いない。そんな様ぁ見たくない。

 さあ、行きなさい。行ってマリアとヨボヨボになるまで暮らしなさい。もしあんたが明日になってもここに残ってたら、あなたが覚悟を決めたものと俺は判断します。今度はもう諦めませんよ。あんたが泣こうが喚こうが、俺を恨もうが、なにがなんでも、この生命を悪魔に売り渡してでも、あんたを救世主にしてみせます。

 今思えば、なんであんなこと言ってしまったんだろうと思うが、言うだけ言って、俺は先生に背を向けて、みんなが寝てる小屋に戻って毛布にくるまった。これですべて終わったと思った。

 次の日の朝、目が覚めると先生はいなかった。だが、先生だけじゃなくペテロとヤコブ、ヨハネもいなかった。先生が連れ立って近くにある高い山に登ったという話だった。いつも山頂に雲がかかっているその山から帰ってきた時、先生は明らかに違っていた。四人は山の上で何があったのかを語ろうとはしなかったが、俺は、先生の目を見て確信した。先生は覚悟を決めたのだと。

 俺たちの説教の旅の最終目的地は、いつしかエルサレムになった。各地を巡りながら過越しの祭りに合わせてエルサレムに向かった。エルサレムに着いたのは祭りの直前の日曜日だった。先生は近くの農家で手に入れたロバの背に乗ってエルサレムに入城した。

 『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。

     ゼカリヤ書九章九節』

亡者 月曜日、先生は神聖な神殿を縄張りにする商人どもを蹴散らした。

 火曜日、古臭い慣習を押し付けたり引掛け問答で足をすくおうとする律法学者どもを巧みな言葉で遣り込めた。

 水曜日、ベタニアのシモンの屋敷で歓待を受けた。その席にはマグダラのマリアも来ていた。元々は悪霊に取り憑かれた身持ちの悪い女で、先生に憑き物を落してもらって以来先生を慕いついて回っている女で、先生も気に入っている。その日、マリアはナルドの香油で先生の足を清めようとして、誤ってそれを頭からぶちまけちまった。弟子の誰かが怒鳴った。高価な香油をこんなにむだにしやがって。こぼした分を売ったら三百デナリ以上にはなる。それを貧しい人に施したらどんなに良かったかと。すると先生が言った。

 『なぜ女を困らせるのか。わたしによい事ことをしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに 

油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである

     マルコ一四章六-八節』

亡者 マリアの顔が喜びから驚愕に、そして悲痛に変わった。この女も先生の覚悟を知ったのだ。

 その夜、俺はひそかに屋敷を抜け出しエルサレムの神殿に行った。祭司長どもが先生の生命を狙ってるという話を聞きつけたからだ。俺が先生を引き渡すことを持ちかけると、やつはあからさまに怪しんだ。だから言った。いくらくれます?と。あの先生は優しいが優しさは金にならねえ。俺は商人だ。儲けが出るなら何でも売りますと。するとやつらは安心したようだった。銀貨三〇枚。奴隷一人分ぐらいにしかならない端金だ。それでいい。端金で引き渡される悲劇は救世主の運命にふさわしい。

 木曜日、過越しの日、俺たちは先生を囲んで晩餐の席を持った。先生は食事の前に、俺たち一人一人の足をお湯で洗って清めてくれた。慈しむように。その暖かさにほだされて、俺は後悔し始めていた。今ならまだ間に合う。この優しい先生を街から脱出させるべきだ。

 そんな想いにとらわれながらの晩餐の席で、先生が言った。

 『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを 裏切ろうとしている。

     マルコ一四章一八節』

亡者 弟子たちが騒然となった。

 『十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。たしかに人の子は、 自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。

     マルコ一四章二一節』

亡者 俺は思わず先生を見た。みんながお前か、いや俺じゃないと喚く中で、先生は俺をじっと見ていた。その目はこれから罪を犯す俺への哀れみがあった。そうだ、なにを今更血迷っていたんだ俺は!俺は成すべきことを成さなければならない!

 食事の後、先生はみなを連れてオリーブ山にあるゲッセマネに向かった。そこで長い祈りを捧げることになっていたのだ。俺はすっとみなから離れ祭司長の屋敷に駆け込んだ。

 俺が祭司長や長老に率いられた群衆と一緒に戻ると、先生はペテロたちと話しているところだった。俺は先生に声をかけた。その身体を抱きしめ、その頬にキスをした。

 それを合図に群衆が先生を取り囲み縄でふん縛った。祭司長がつばを吐き罵倒を浴びせた。弟子の一人が剣を振るって切りかかったが、先生がそれを止めた。弟子たちはみんな逃げ散った。祭司長どもは先生を連れ去った。俺は、去って行く先生をただ見送った。

 明けた金曜日、人々の罵倒、祭司長や律法学者の憎悪、不条理な裁判の果てに、先生は十字架刑に処されることになった。帝国の役人もそれを認めた。服を剥ぎ取られ、いばらの冠を被らされ、自らが架けられる十字架を背負わされてゴルゴダの丘まで歩かされた。左右に人殺しと盗人に挟まれて十字架に架けられたあの人は、必死に苦しみに耐えている様だった。日が暮れようとした時なにかを呟いた様だった。それが最後で、その後、見張りの兵士が槍で突いても血は出ず水のようなものが出ただけだった。そうして、あの人は、先生は死んだ。マグダラのマリアは十字架を見つめて泣いていた。信徒どもも泣いていた。先生の死体は篤志家のアリマタヤのヨセフが引き取って、彼が用意した墓穴に収められた。

 土曜日。俺は、自分の金でここの土地を買い、近くの連中を墓守に雇って共同墓地として運用するよう指示した。そしてその夜。俺はヨセフの墓をこじ開けて、中から先生の死体を盗み出した。

 先生のこったから、もしかして本当に復活するかもしれねえ。でも、念には念を入れるのが俺のやり方だ。俺は先生に約束したんだ。必ず救世主にしてみせると。そのためにはなにがなんでも復活してもらわなきゃ、否、復活したように見えてもらわなきゃならねえ。元の墓穴は、まるで先生が生き返って出ていったみたいに偽装し、先生の遺体はここに隠した。

 そして明けた日曜日の朝、先生が蘇って墓を抜け出し、故郷のガリラヤに向かったという噂を流した。噂は広がり、弟子どもや信徒どもがこぞってガリラヤに向かった。もちろんそこにも先生はいないが、それでいい。眼の前に死体が無けりゃ蘇りは否定されない。蘇ることが救世主の証。先生は、否定されることのない、本物の救世主になったんだ。あいつらの中で。

 こうして、俺の一世一代のペテンは成功したんだ。

 …本当の遺体?ああ、今でもそのまま安置してるよ。そこの洞窟の奥に。…救世主の墓に見えない?それがいいのさ。先生の墓だなんてわかったら、人が押し寄せちまうだろ。

 …俺?死んだよ。その後、あの崖から飛び降りてな。先生が復活した噂を流した後、俺はそこの洞窟に籠もっていた。ペテロ達が俺を狙ってるって話もあったし、それよりなにより先生のことが気になった。だって、いつ復活するかわからないだろ?復活した時、一人だったら寂しいじゃねえか。そう思って先生の死体の世話をしていたんだ。が、先生は一向に目覚めやしない。その内身体から蛆が湧いて、気がつきゃ骨と干からびた皮だけになっていた。

 そん時、気がついた。先生は逝っちまったんだって。復活しやしないんだって。そして、俺が、俺だけが外れちまったんだって。先生が、復活して、救世の約束が結ばれて、死後の救いが約束されて、そういう先生が語っていた物語の全てから。俺だけが。

 で、あの崖から飛び降りた。死体は野犬やカラスに食い散らかされて、臓物は引っ張り出されて血まみれの酷い有様だった。「アケルダマ」って地名はその時付いたもんだ。やがて死体は朽ちたが、俺の魂は眠れなかった。その時以来ずっと。眠れるわけ、ねえじゃねえか、なあ。

 と、話し相手の死者が見当たらない。

亡者 …ん?おい?なんだ、どこ行ったんだ?…ああ、眠ったのかな。そうか、よかったな。次に起きた時は最後の審判だ。

 亡者、突如湧き上がる絶望に言葉にならない咆哮を上げ崩折れる。と、かすかに奥の方から、ひたひたと足音がする。亡者、怪訝な顔で起き上がる。

亡者 …おい、そっちにいったのか。(洞窟の中に)止めてくれよ。そっちは先生の墓所だ。入ったところでどうなるってわけじゃねえが、出来れば、先生の眠りの邪魔はしねえでもらいてえな…。なあ、おい…。

 ひたひたと足音が近づいて止まる。その者の姿を見て、亡者、声にならない声を上げ、跪く。

亡者 …え、あ、あなたは…。

 『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。

     マタイ二八章二〇節』

 暗転。

おわり


参考文献
『聖書』(日本語口語訳)
『イエス』 安彦良和
『ユダとは誰か』 荒井献
『駈込み訴え』 太宰治