うるさい人々

相変わらず、葬儀の仕事をしております。

しかし、どうしてこう最近は葬儀中に五月蝿い人が多いのでしょうか。

焼香時になると、さも終ったかのようにガヤガヤと騒ぎ出し他のお客さんと社交の挨拶をしたりおしゃべりしたり。ひどいのになると、導師の読経中も故人についてああだこうだ話している人もいる始末。

まあ、別に「罰が当たるぞ!」とは思いませんが、どうもなんか勿体ない気がしてなりません。

葬儀に限らず"儀式"とは何故生まれ現代に残っているのでしょう。

と言うことを話し出したら、それこそ何百枚と論文が書けてしまう程深い話題でしょうし、そこまで掘り下げるつもりもありませんが、その仕組みが分析され、白日の下に晒されて久しいにもかかわらず、様々な形で儀式は生き残り、現代人にも必要とされています。不思議と言えば、実に不思議な話だと思います。

特に日本では、ここ半世紀で既存の儀式の多くが失われ、残ったものも大きく変容しています。それでいながら根絶されないのは何故なのでしょうか。

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仕事では様々な宗派(もちろん主に仏教ですが)の葬儀をみることが出来ます。

共通している点もあり、著しく違う点もあり、実に様々です。

その違いを見ていて思うのは、お釈迦様の教えと言う一つのものを、様々なニーズに合わせて読み直し、整え直したものが宗派の一番大きな差なのではないかということです。

以前は、政治的なものが大きいと思っていたのですが、政治で派閥は作れても一宗まで作った例は実は少ないのです。

大きく分ければ禅宗と念仏宗、それと密教系に分かれるでしょうか。禅宗と密教系は、修業によって自ら仏の境地に至る方法を探り、念仏宗は仏にすがる無垢な気持ちを通して仏に至る。結局は仏の世界に至るのが目的で手段、ルートが違うだけ。そしてそのルートの差が、各宗派の違いになっているのです。

葬儀は、本来死んだ人が仏に至るための手伝いとして行われます。死んでしまい、声は出ず体も動かない死者に代わって、導師から戒を授かり仏に帰依する誓いを立てたり(禅宗)浄土への道を示して念仏で後押ししてやったり(念仏宗や密教系)するわけです。

しかし、本気で死者が仏に至る道を探していると考えている人は、今どきほとんどいないと思います。にもかかわらず、高い金払ってあいかわらず葬儀は行われています。

葬儀の意味でもう一つ大きいのは、残された家族の"喪の作業"という一面でしょう。

"喪の作業"とは心理学の言葉らしいのですが、大切なものを失った際の精神的な衝撃を受け止め、きちんと回復に向かわせるための行為のことを言うそうです。

一番分かりやすいのは、泣くと言う行為。悲しみを受け止め解消する際に、泣くと言う行為はとても効果的です。様々な実検でも精神的にストレスがある状態が、泣くことで和らぎ解消されることが実証されてます。

しかし、あまりに強すぎる衝撃を受けると泣くことすら出来ません。そこで葬儀の出番です。

葬儀の課程では、様々なやらなければ行けないことが目白押しで、喪主は気の休まるひまがありません。そのくせ、妙にぽっかり時間が空くこともあります。特に導師の読経中。お経にはアルファー波を出す効果があると聞いたこともあります(もちろん巧い人が読めばでしょうが)。バタバタと疲れた神経がクールダウンされる。そしてまたバタバタと忙しくなる。この繰り返しの中で、最初の衝撃はマッサージされたように散らされ、愛する人の死を少しだけ受け止めることが出来るようになる。

そうして、出棺。生身の身体との最期の別れ。

ここが悲しみのピークとなります。泣く、棺に縋る、離れない。止めに入った人も泣き崩れて動かないといった出棺もありました。

炉に入り、出て来た時には「物」になっている。それを見ると、すっと少し冷める部分があるようです。

"一夜愛した美少女は、朝日に崩れるされこうべ"といったところなのかもしれません。

葬儀が終っても、7日7日の供養や一周忌三周忌、やがてどんどんその期間も空き気味となり…。そうしたペースによって、死の衝撃をしっかりと受け止める。

こういった作業を"喪の作業"というのだそうです。

これもまた、葬儀が様々な形でいまだに残っている大きな理由の一つだと思います。

以上二つの理由は、葬儀の存在意義としてよく言われていることですが、でももう一つ、死者でも家族でもなく参列者にとっても葬儀は大事な意味があると思うのです。

それは、葬儀という"非日常"を経験するということによって"日常"を見つめ直すことができる、ということです。

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非日常とは、日常的でないあらゆる状態を指しますが、ある程度ルーチン化された生活様式で様々なものが処理されて過ごされる時間を日常とするなら、そのルーチンで処理できない事態を非日常と言うことが出来るでしょう。

葬儀は、非日常の最たる物と言えます。(私にとっては半ば日常になりかけてますが、これが身内の死となれば話は別でしょう。)

そう言う意味でも、葬儀はお祭り等と同列の存在だと言えます。事実、今でも田舎の方に行くと近所総出のお祭り騒ぎとなることがあります。

非日常を経験すると、日常が見えやすくなる。パソコンの再起動みたいなものです。パソコンが定期的に再起動が必要なように、人間にも、立ち止まって日常を見つめ直す時間が必要です。

他人様の葬儀に参列すると言うことは、実は自分の再起動のためでもあるのではないかと思うのです。

しかし、現代日本においては、日常に刺戟がみちみち日常これ皆非日常と言わんばかりの状態になってます。再起動しっぱなしです。

その結果、日常と非日常の垣根は益々朦になり、再起動効果は相対的に弱まって来てしまいました。

それが、最初に書いたようなうるさい人々の蔓延する理由なのではないでしょうか。

彼らにとって、葬儀はもはや日常と同じ亜日常とでもいう程度のものになっているのでしょう。

そうして騒がしくすることで、他の人の再起動効果を阻害し葬儀の意味を弱めていることをあの人たちは気づいていないのでしょう。

葬儀を粛々と進めること、それに協力すること、信じてもいないが念仏を唱えて合掌すること、そういった気遣いが、結局は自分のためだということを気づいて欲しいものです。

2002/10/22