【戯曲】夢幻回路 作:升孝一郎
・1997年6月 升孝一郎事務所で上演 :OCT/PASS STUDIO(仙台)
沈黙の闇。微かに微かに機械音。チリチリ、ピリピリ、ガンガンガン。未来派の音楽の様に、やかましく響く。それが強まるにつれて、心臓の鼓動音が重なる。その音に合わせて、視界が血の色に明滅する。ドクン、ドクン。
舞台中央に男が一人。胎児の様に丸まり、鼓動の音に合わせて脈動している。まるで心音から血液を全身に受けている様。音、うねる。男、のけぞる。それがピークに達するや、ピー!!という甲高い音が全てを飲み込む。
男、しばし身を震わせていたが、やがて、目覚めた様に上体を起こし、辺りを見回す。そこは、ボゥッと蛍光色に照らされた殺風景な部屋だった。窓も扉も無い、硬質な灰色の壁に囲まれている。舞台上に机と椅子。机の上には電話機、封書が一通。机の下にラジカセ。ピー!!という音は受話器の外れた電話機から出ていた。男、それを戻す。音止む。それらを観察するしばしの間。男、床のラジカセのテープを回してみる。絹を引き裂く様な女の悲鳴と殺害の音。狼狽する男。止めたいが止められない。耳を押さえうずくまる。やがて音が止む。男、恐る恐る近づくと、ラジカセから人工的な甲高い笑い声。
声 おい、聞いてるか…聞いてないのかイチマル…いや、違うかもしれないな…違っても良いさ。お前がイチマルであれ誰であれ、そんなことはかまわんのだ。うふふ。聞いてなくてもかまわんのだ。つまり、このテープがここにあり、こうして回っているって事だけで十分なのだ。」
男 な、何を言っているんだ?
声 ”何を”だって?下らない事を聞くな。こーゆーことだ!
殺害の音。
声 お前が感じている通りの事だ。
男 ひ、人殺し!?
声 ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!人殺しか!!なるほどそうだ。俺は人殺しって訳だ。殺人鬼。虐殺者。良い響きだ。文字を思い浮かべただけで、背筋がゾクゾクする。いいね。いいよ。
男 お、お前は…。
声 失礼だな君は!!ひゃひゃひゃひゃ…他人に名前を聞く時は自分から名乗るものだよ。ええ!?
男 僕は…。
声 ”ぼくは”…なんだい。君は誰だ?ん?是非拝聴したいね。僕をお前呼ばわりする、君の名を。さあ!!
男 僕は…あ…え…。
声 ほらほら。誰なんだ君は。黙ってちゃわからんよ。沈黙は金か?喋って得る富に比べたら端金だ。さあさあ、名乗ってくれたまえ。僕の方は名乗りたくて先刻からウズウズしているんだから。
男 うるさい!!急かすな!!…そう、ちょっと度忘れしているだけだ。すぐに思い出す。
声 すぐに…思い出して頂きたいね。そうしなきゃ、君と言う存在は無くなってしまうんだから。
男、殺されるのかと、恐怖に顔を歪める。
声 どうした。だってそうだろう。君と他人とをわかつものは一体なんだ?人と人の違いなんて、実にあやふやなものだよ。身体つきか?性格か?なるほど、それは良い。先天的に君に与えられたものだからね。だが、整形という手がある。洗脳という手もある。後天的に修整が効く世の中だ。そして、ここには君と比較すべき他者が存在しない。名前は他者によって後天的に与えられたものだが、それは君の全てを内包する言霊だ。君がもし"佐藤八郎"なら、整形しても、狂っても、死んで土に帰っても"佐藤八郎"のままだ。
男 佐藤八郎だ!それが僕だ!!
沈黙。
声 いいのか?佐藤八郎でいいのか?
男 うそです。ごめんなさい。
声 まあいいさ。僕は君の名前を知っている。
男 なに!?
声 でも、言わない。君の口から聞きたいなぁ。
男 教えてくれ。
声 そーゆー他人に依存する態度はいけないなぁ。君らしくない。
男 う、うるさい!!僕がどんな奴かなんて知りもしないで。
声 じゃあどんな奴なんだ。僕は君を知っている。
男 僕だって、僕を知っている。
声 へえ、じゃあ…。
男 待ってくれ!もうすぐ思い出すから。…そうだ、君こそ名を名乗れ。礼儀だろ。
声 うふうふうふ、言うと思った。いいだろう。僕は佐藤八郎だ。
男 うそだ!!
声 うそだ。本当はシュトルム=フォン=ミュンヒハウンゼン男爵だ。
男 それもうそだ!!
声 しかしてその実体は!?
男 実体は?
声 …やめた。
男 え?
声 どおだって良いよ。僕が誰だって。
男 良くはないよ!名乗れ!
声 おやおやだ。自分の名前さえ分からん御仁が。…うふうふうふ。まあ、君のそんなところが好きなんだけどね。
男 なに!?…ぼ、僕はノーマルだ。
声 そんな事は気にしないよ君のことを一番理解しているのは僕だ。壊れてしまった今だって、君を見捨てはしないよ。
男 こ、壊れてなんかいない!!
声 かわいいなぁ。慌てちゃって。ああ、壊れていない。僕は信じているとも。だから、僕のお願いも聞いてくれるね。
男 お願い?
声 そうとも。簡単なことだ。…そこを今すぐ脱出して僕のところへ来てくれたまえ。そうだな…三十分以内で。良いだろう?
男 無理だ!
声 何故無理だと?
男 出られない。
声 試しもしないでよく言うね。頑張りたまえ。頑張らない奴は嫌いだな。…この娘も何かと言うと"できない"ばかり言ってはサボってばかりいた。もう、一生サボっているしかなくなっちゃったよ。…君もこうなりたいか?
殺害の音。
男 やめろ!やめろ!
声 さあいいね。三十分だ。それ以上は待たないよ。…忘れるな。僕は何時でも君を殺せる。その力がある。君の主に相応しいのは僕だ。奴には渡さん。…待っているよ、愛しい人!!ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ…。
笑い、高まる。やがて、テープ止まる。
男 なんなんだ。誰なんだ君は。殺す?殺す!?死にたくない!!いやだ。僕は。僕は誰なんだ?待ってくれ。教えてくれ。僕は本当は何も出来ないんだ。ここを出て行けないんだ。なあ、頼む。なにか言ってくれ!
ラジカセから声。
声 甘える奴は嫌いだよ。
男、飛び退き混乱する。
男 出せ、出せよ、ここから、助けろ、僕を、殺される、僕を、奴が、男が、開けろ、出してくれ、ここから、ここ、ここ、殺す、殺す、
と、壁の向うから声。
声 どうしました?
男 殺す、殺す、
声 落ち着いて下さい。ほら、…
声、男に変なポーズを指示する。男、言われたとおりのポーズをとる。
声 最後に、ゆっくり深呼吸!…ほら、落ち着いたでしょ。
男 はい。
声 どうしました?
男 あの、あの、だから、ころ、ころ、いや、男があの、
声 まだ足りませんね。
声、更に変なポーズを指示する。
声 はい、落ち着きましたね。
男 はい。
声 どうしました?
男 殺される!!
声 誰が?
男 僕が!!
声 大丈夫、殺されません。
男 だって、殺すって言ったもん!!
声 誰が?
男 男が。
声 どこにいるんです?
男 え?
男、部屋を見まわす。
声 ここは、あなただけの部屋ですよ。
男 でも、男の声が。
声 それより思い出しましたか?
男 え?
声 名前です。あなたは誰ですか?
男 僕は…
声 あなたは?
男 …わからない。僕は誰ですか?
声 答えは、常にあなたの中にあります。
男 僕の中に?
と、電話。男、びくつきつつ出る。
男 もしもし。
と、すぐに切れる。
男 先生に気をつけろ…?
男、受話器を戻す。と、背後に人の気配。振り向くと、そこに白衣の男。
男 あ…あんたが先生だな。いつのまに。どこからここに入って来たんだ。
先生、一歩近づく。
男 何をする気だ。来るな!!
先生、立ち止まり、解説を始める。
男 …入院?僕が?何故?…僕は気狂いじゃない!!…みんなそう言うって、気狂いはなんと言い張ったって気狂いだ。でも、僕は狂ってないんだから、狂ってないって言ってなにがおかしい!!…自家撞着?どこが。…そりゃ客観的じゃないが、じゃあ僕のどこが狂っているって言うんだ。さあ、言ってみろ!!…どこでもいいって事無いだろ!!どこが狂っているか言えないくせに、僕を気狂い扱いするのか?…あんたの判断?…あんたこそ狂ってるんじゃないのか?そうか。そうだ、あんた狂ってるんだ。だから正常な人間が気狂いに見えるんだ。さっきの電話!さっき電話で「先生に気をつけろって」って言われた。先生って誰だ。あんただ。何故気をつけるんだ。狂ってるからだ。どうだ気狂い先生!!まだ、僕を気狂いだと言い張るか!!
先生、男に変なポーズを指示する。つい、やってしまう男。先生飛びかかる。
男 うわ!卑怯だぞ!!
男、先生と格闘する。ラジカセから声。
声 殺せ!!
男、椅子を振り上げ、先生の頭に打ちつける。何度も何度も打ちつける。先生、死ぬ。でも、一仕切り打ちつけ続ける。落ち着くと、ラジカセから声。
声 うふうふうふうふうふ。よくやった。それでこそ君だ。…これからは僕だけが君の主だ。さ、そこから出ておいで。
男 …え、…いや、やってない。僕じゃない。
声 現実を直視したまえ。君はもはや人殺しだ。僕と同じなんだよ。
男 ちがう。僕は違う。やってない。殺してない。
声 じゃあなんだ。人殺しですらない君は、何者なんだ?
男 僕は…僕は…
声 ほら!!グズグズしてるから奴が生き返ったぞ!!
先生が、グジャグジャになりながら男の足を掴んでいた。
男 うわ!!離せ。僕は、行く。行くんだ。自由になるんだ!!
声 そうだ、そして僕の下に来るのだ。
男 うるさい!!お前の所にも行くもんか!!離せ、離せ!!
男、椅子を振り上げ、叩きつける。と、激しい電子音。暗転。激しい音楽。やがて、音楽に重なり虎の遠吠えが聞こえ、音楽を切裂く様に通過列車。列車が過ぎると明転。どこかの駅らしい。ベンチがある。男がベンチに座っている。男、ボゥとしていると初老の男が声をかけてきた。
男 はい!?…虎?…虎が出るんですか?…はぁ、あの森から…へぇ、駅の改札から…線路の向こうから。賢い虎ですね。
初老の男、顔をしかめる。
男 あー…その、毎日出るんですか?…毎日、同じ時刻に。
初老の男、自分の時計を見せてその時間が近いことを告げる。
男 あと一分も無いじゃないですか!嫌な所だなぁ。なんでそんなの放って置くんですか。よく我慢出来ますね。
初老の男、坑議する。
男 どうしろって、そうですねぇ。あの森をもっと見晴らし良くするとか。ほら、うっそうとしていていかにも恐ろしい獣が出て来そうじゃないですか。
二人、森を見る。と、一陣の風が吹き抜ける。
男 …なんだか風に揺られて少しずつ動いているのを見ると、ほら、丘全体が大きな獣の背中みたいじゃないですか。ザワザワ毛を波立たせて、今にもワッと飛びかかろうとしているようだ。あんなのがいたら、僕達なんかペロリですね。あ、来た。
と、汽車が通過して行く。
男 通過列車ですね。(初老の男を振り返り)どうしました。…今の汽車に!?
男、時計を見ると時間どうりだ。
男 汽車に乗る虎とはなあ…どこ行くんですか。ちょっと待って下さいよ。
初老の男、逃げようする。と、線路の向うに虎らしき影が見える。
男 !!あ、あれ。あそこに。
初老の男、いない。
男 おじさん、どこへ行ったんですか?おおい。ちょっと、誰か。あれ。あれ。
虎もいない。
男 消えた!
しかし、虎の気配は確かに、静かに近づいている。男、逃げようとするが、足が動かない。自由がきかない身体で逃げて行くと、突然、目の前に虎がいる。
男 はろう…あろはぁ…あいむ、ぐらっと、とぅしぃゆぅ…はっはっは。
虎、吠える。男、逃げる。走り回る。気がつくと虎はいない。
男 ここは、…森の中か?
男の言葉に、溢れ出す森の音、虫の声、獣の気配。ジャングルのごとし。男、しばし、森の気配に身を浸す。
男 …なんだか、懐かしいな…来たことは無いはずなのに…人の気配など無いのに泣きたくなるほど懐かしい。昔、急になにかに突き動かされて家を飛び出したことがある。どこに行こうというのでもなかった。なにをしようというのでもなかった。ただ、自分を呼ぶ気配について行っただけだった。気がついたら、どこまでも拡がる田圃のまん中にいた。ツンッと音がするほど静かだった。よく見れば、いなごが跳ね回り、トンボが飛び回っていた。太陽は黄色とオレンジの中間だ。影が妙に間延びして時間を歪ませていた。そこはとても寂しかった。でも、とても懐かしかった。…ここも…。いや、浸ってる場合じゃない。急いで逃げないと虎が来る。
と、目の前に虎。虎、吠える。逃げ回る男。気がつくと、また一人。
男 また消えた。
男、道を戻ろうとする。木が邪魔してうまく進めない。
男 ここに、木は無かったはずなのに…。
男、道をさがす。進む道、進む道、全て大岩や木に遮られる。と、突然道が開けたかと思うと、そこは絶壁だった。
男 ふぁぁぁぁ…落ちるところだった。…下は川か…飛び込めば活路が開けるかも。
男、飛び降りようとするが、直前で日和る。
男 やっぱり、止めて…
しかし、男の身体は落ちかけ、崖になんとかつかまる。
男 …さて、どうしよう。…そうだ、ジャングルと言えばターザンだ。ターザンを呼ぼう。ターザン!!来てよターザン!僕のところへ!あ、来た。
ターザンの雄叫び。ターザン、男につかまる。
男 うわ!!なにやってんだよターザン。落ちるじゃないか!…手が滑べった、じゃないよ!!はやく助けてよ。…放したら落ちるって、君、ターザンだろ。…ターザンだって人間なのはわかってるよ。君なら、こんな崖なんかさっさと登れるだろ?…つたが無い。さっき掴んでた奴は?…切れた。そりゃ切れるよこの体重じゃ。なんでこんなに太ってるんだよ。ダイエットしろよ。大体、なんでこんなところにターザンがいるんだ?偽者じゃないのか?…そりゃ呼んだけど…本家ターザンと、元祖ターザン。君は?…分家ターザン。あ、そう。いいから助けろ!助けられないなら、せめて手を放せ!重いんだよ。…チータ?ああ猿ね。最初から、さっさと呼べよ。早く!!
ターザンの遠吠え。答える、猿の遠吠え。チータ飛んで来て、男にすがりつく。
男 ぎゃぁぁぁ!!…なにやってんだよ、この馬鹿猿!!…チンパンジーだぁ!?いいから放せ、お前ら放せ、落ちる、落ちるー!!
と、虎が吠える。ビックリしてころげる男。気がつくと夜の道にいる。
男 ここは?…いつのまに夜に。
おそるおそる道を行くと、誰かがついて来る気配。
男 …誰だ?…誰だ!…兄だと?僕は一人っ子だ。兄などいない。
男、歩きだす。気配、ついて来る。
男 まるで犬だ。…野良犬だ。…ワン!!…泣いているのか?何故泣くのだ。なにを泣くのだ。…だから、僕に兄など無いから、あなたはやはり兄ではないんだ。…死んだ兄?死んだ兄など知らない。…兄ならどうだと言うんですか。
気配、彼方を指さす。男、見る。
男 あれは?…私達の家?僕の家はこんな所には無い。…何故、あんな所に帰らなきゃならないんですか。あなただけで行って下さい。…放して下さい。僕は行かなきゃならないんです。…だから、泣いてないで一人で帰ったらいいじゃないですか。
男、気配を振り切って行こうとすると、母親がいる。
男 お母さん!何故こんなところに。…違う。そうじゃない。あなたもこいつと同じだ。あなたは死んだんだ。去年の夏。癌におかされて。
母親、気配、男を掴み沈みだす。
男 いやだ!放せ!僕は行くんだ!!放せ!!
と、虎が吠え、死人を蹴散らす。死人から解き放たれてクルクルと回る男。落ちる。と、初老の男が声をかけてきた。
男 はい!?…虎?…虎が出るんですか?…はぁ、あの森から…へぇ、駅の改札から…線路の向こうから。賢い虎ですね。
初老の男、顔をしかめる。
男 あー…その、毎日出るんですか?…毎日、同じ時刻に。ああ、僕、聞いたことあります。汽車に乗って来ることもあるんでしょ。今何時ですか?
初老の男、自分の時計を見せる。
男 汽車は遅れてるんですか?…よく遅れるんですか?…そうですか。…あ、来た。
男、ポケットを探る。切符が無い。汽車が入って来る。駅員が男をせかす。
男 あの、切符が無いんです。先刻はあったんです。…あったと思います。取りあえず乗せて下さい。…だめ?行くところがあるんです。あとでちゃんと出しますから。…だめ?なんでだめなんですか。汽車は人を乗せるものでしょ。どこで買えばいいんですか。買って来ますから。…待って下さい。待ってったら。待て。待てこの野郎!!
汽車は去っていく。
男 戻ってこーい!!おーい!!
男、がっくりとベンチに座り込む。と、目の前の線路を歩いていく人影に気がつく。痩せこけた男が女を背負い、静かに静かに通り過ぎようとする。
男 …ちょっとあんた。
人影、止まる。
男 線路をずっと行くの?事故にあったらどうするの。背中の人も具合悪そうだし、その、少し休んでいったら?
男、水を求める。
男 水?…わかった、汲んで来る。
男、ホームの水道で水を汲み、男に差し出す。男、一口飲む。背中の女にも飲ませる。男、おじぎをして静かに静かに去る。
男 …僕は、あの夫婦を知っている。…あの夫婦の家に、ある日一人の男がやって来て、出迎えた妻に、私はもうすぐ疱瘡で死ぬから、末期の水を飲ませて欲しいと言った。妻は、男に付いて家を出た。それを知った夫は妻を探して町を歩くが、いくら歩いても見付からない。町の寂しい方に出たら、白い服の坊主が逃げるように飛び出して来た。その路地と言う路地に、疱瘡神の厄除のお札。逃げようとした男の前を、ギシギシと重い音を立てて葬式の行列が通り過ぎる。白い服の四人の棺担ぎが同じリズムで腕を振り、同じ格好の男たちがやかましく笛や太鼓を鳴らす。その行列の向うから女の声が聞こえた。男は慌てて言えと言う家を探して回ったが、どの家も死人と病人だらけ。男も女も老人も子供も、皆、顔中におできを吹き出して苦しんでいる。やっとみつけた家には、今にも死なんとする男と、疱瘡にかかったおできだらけの妻がいた。「この人はもうじき死ぬから、ちょっとだけ待って。」と妻は言ったが、夫はむりやり妻を背負って外に出た。死にかけた男は、おできから血を流しながら、うらめしそうに男を見ていた。男は、闇の中を駆けた。
男の背に女が飛び乗る。男、弾かれたように走り出す。
男 闇の中から鼓笛の音がして、また葬式行列とすれ違った。妻は背中でうなり続けた。そうして口の中でなにかわからないことを言いながら、時々声を立てて泣いた。生暖かい涙がうなじから背筋へするするつたって流れた。俺は恐ろしくなりながら歩き続けた。気がつくと、辺りは静まりかえっていた。その時、
背中の女、男にしがみついて叫ぶ。男、振り返る。
男 狐だ!!五、六匹、すぐ後に固まって、長い舌をベロベロ出して舌舐めずりしている。きっと、疱瘡のかさぶたを食いに来たんだ。どーん!どーん!あっち行け!どーん!どーんどーんどーん!!
男、ひたすら音を繰り返し、走り続ける。ふと、気がついて背中の女を見る。
男 おい、大丈夫か?狐はもういないぞ。…具合悪いのか?しっかりしろ。死んじゃだめだ。せっかくここまで来たのに。せっかく、あの男の下から連れて来たのに。…こんなことなら、あの男に末期の水を飲ましてやるんだった。あの男は今頃死んだろう。こいつに末期の水を飲ませてもらいたいばかりに、疱瘡にかかってからわざわざ頼みに来たのだ。それなのに、俺はそれを見捨てて来てしまった。あいつはどんなにか俺を恨めしく思っていただろう。…重い。もうここに置いて行こうか。…いや、置いて行ったら狐に食われてしまう。置いて行くわけにはいかない。
男、ふらふらと二、三歩歩くがやがてくずおれる。背中の妻を抱きしめ、泣きだす。
男 だめだ…今にあの男のようになって死んでしまうんだ。私が死ぬ時も、末期の水を飲ませてくれるものはいないのだ。
男、倒れ伏す。女、起き上がり離れる。虎が吠える。男、混乱しながら走り回る。気がつくと、一軒の店の前に立っている。財布の中味を確かめて、中に入る。
男 …こんばんわ。…僕の顔になにか付いてますか?…そうですか。…ラムネを下さい。
男、ラムネの開く音に一瞬ビクッとする。お金を支払いラムネを受け取る。
男 ぬるいなぁ。
男、店主の方に振り向く。店主、目を逸らす。幾度か繰り返し、フェイントをかけて振り向く。目が合う。
男 何故、目を逸らすんですか。なにか変ですか。…どこからって、ええと、あっちからです。…こっちへ、かな。…なんのためって、行かなくちゃならないんです。それだけです。…だから、…本当はって、本当もなにもあっちから来たんです。…墓場?あっちに?…嫌だよ。振り向くのは。…光りものってなんです?…虎が行った後に出るんですか。ならそれは鬼火じゃないですか?虎に食われて死んだ人がさ迷っているんですよ。…本当もなにも、そう考えるしかないでしょ?…僕がどうしました。…馬鹿言わないで下さい。どうやって呼び出すって言うんですか。…嫌ですよ。何故振り向かなくちゃいけないんですか。
男、しぶしぶ後を振り向く。と、気配達が男に迫って来た。
男 来た。追いつかれた。行かなければ。もっともっと先へ行かなければ。もう、汽車を待ってはいられない!!
男、全速力で駆ける。
男 来る。やつらが来る。殺される。殺される。
男、掴みかかる気配達を振り切りながら逃げる。と、彼方に初老の男がいる。
男 おじさん!ここにいたんですか。汽車は。汽車はまだ来ませんか!?
と、男の足が止まる。
男 あなたは…先生!!
踵を返そうとする男。飛びかかる気配達。ひきずり倒されそうになる男。
男 助けてくれ!!
じょじょに暗転。と、虎の咆哮。音楽。明転すると、そこは研究室風の部屋。白衣を着た男が机上の端末に向っている。と、人の気配に振り向く。
男 なんだ君は、ノックくらいしたまえ。…まあいい。ご苦労さん。どうだった?…そうだろうよ。つまらん患者だ。少し暴れてくれりゃ面白いのに。…かわいそう。僕が?…彼が。何故かわいそうなの。君、彼の親友なの?恋人なの?…じゃ、何故かわいそうなの。おかしいなあ。君、看護婦になって何年?…五年!?五年もやっていてかわいそうなんて言ってんじゃないよ。彼は患者だよ?…だから?ああそうか。君、普通の病院に勤めていたんだっけ。ああいう所は、口先だけの金の亡者と偽善者しかいない。基礎研究が、一人の風邪治すより最終的にどれだけ人々のためになるのか分かっちゃいない。まあ、患者もみんなエゴイストだからね。千人死のうが万人死のうが、自分の風邪さえ治れば良いと思っているんだから、どっちもどっちだ。良かったよ、君。ここに来て。…「でも」じゃない。大体、精神医学は治るということがありえない分野だ。何年も彼らを見ていると、僕らの方が狂っているような気がすることもある。彼らはとにかく、自分の感じたことを好き嫌いせず全身全霊をかけて信じている。一方僕らは自分の感じたことを疑ってかかるのが正しいことだと思っている。それが常識や社会通念や流行に反するなら、平気で自分をごまかす。理性的と称してね。馬鹿な話さ。人間は、自分の感覚器が感覚し脳内で知覚し統覚した情報の中でしか生きられない。それがその人の世界の全てなのだ。そして、それが真にリアルな実存の世界であると、その人自身が証明することは出来ない。だから、僕らは内心いつもビクビクし、絶対的な根拠を追い求める。宗教、政治、あるいは細かな流行。それにすがりついている限り、僕らは安全なんだ。そして、今度は異質なものを狩り出し始める。異常、気狂い、変態、病気、臭い、汚い、弱い、天才、なんだって良いんだ、異質であれば。ここは、そうして追われて来た人々の最期の逃げ場なんだ。…牢獄?ははははは。じゃあ僕のやっている実験は拷問か。…誰だ、その野口先生って。僕知らないな。…優しいねぇ。そりゃ、男はセックスするためならいくらでも優しくなれるさ。
男、看護婦に頬を張られる。
男 痛い。…へぇ、患者を人間扱いするねぇ。で、どうするの?治してあげるわけか。彼らを痛めつけ、苦しめる人々の中に返してあげるわけだ。ふざけるな!!
男、看護婦に掴みかかる。
男 治るということが有り得ぬものを治すとはどういうことだ?その人だけの掛け替えの無い想念を、世界を、歪め、削り取り、破壊することだ。そんなもの本当に治療と言えるのか?…いいか、君は僕じゃない。君は彼じゃない。君に、僕や彼が何を感じ何を考えてそこにあるのか、真に理解することは出来ない。野口とか言う奴にしてもそうだ。分かるのは自分が感じ得たことだけ。患者も僕達も、互いの完全なコミュニケーションが不可能だと言う点で平等だ。違うか?
男 良いものを見せてやろう。ほら、読んでみたまえ。いい、遠慮するな。…じゃあ僕が読もう。宛名は”壱丸君へ”とある。差出人の名前は無い。”前略。もう手遅れでないことを祈る。彼は、僕に対し気をつけろと君に言っているだろうが、そっくり言い直そう、彼に気をつけろ。彼は君以上の気狂いだ。彼は奇抜な方法で君にメッセージを送ってくるだろう。愛してるとかなんとか。それは嘘だ。彼は君を愛してなどいない。彼は君を利用し、苦しめることしか考えてはいない。ここに君を送り込んだのも彼だ。君の味方は僕だけだ。僕が行くまで気をしっかり持っていてくれ。 - 先生。”不思議な内容だろ?これだけじゃ何が何だか分からない。それからもう一つ、このテ-プだ。
男、テ-プを再生する。アップテンポの曲が流れてくる。男、一仕切り踊りまくり、唐突に切る。
男 何の曲だと思う?…そう、彼が毎日かけている曲だ。この曲とこの手紙は、彼の中で不可分につながっている。その理由、彼を「かわいそう」と言う君に分かるか?…わからない。だろうね。…生憎、僕には非常によく分かっている。…「そんなはずが」あるんだな。僕の研究の成果。極秘事項だが特別に教えてあげよう。これだ。
男、なにか奇妙な物体を大事そうに取り出し、見せる。
男 苦労して育て上げた有機回路だ。この回路のオリジナルを彼の脳に埋め込んである。この回路は、脳内で発生したある種のパルスを増幅し、知覚神経にフィ-ドバックする機能を持っている。つまり、ど-ゆ-ことか。想像したこと、実際は感じたが無意識に抑圧していたこと、あって欲しいこと、あって欲しくないこと、慾望やコンプレックス、様々な雑念、夢や幻覚を、目で見、耳で聞き、匂いを嗅ぎ、味わい、触れたように感じることが出来るのだ。僕はこれを”夢幻回路”と呼んでいる。
男、傍らの端末を示し、
男 彼の知覚している世界は、この端末に逐一表示される。彼は、この音楽から彼を愛する殺人鬼の声を聞いている。手紙の主が気をつけろと言う”彼”だ。二人の対立の中で彼は苦しみ、何処へか脱出しようとするが、いつも最後にはあの病室に連れ戻される。…凝ってるよね。まあいいさ。どっちにしろ、いわゆる現実ではないんだ。見たまえ。
男、手紙を見せる。白紙だ。
男 何も書いてないだろ。…怒るなよ。さっきの様なことを、彼がこの紙切れから読み取っているのは嘘じゃない。いいか、リアルかどうかは関係ない。問題なのは、彼がどうしてそんな状況を、人物を、物語を必要としたかということだ。追われ、迫害され、脅迫され、しかし強く求められ…その無限の繰り返し。終わりの無いおとぎ話。何度でも復活するキリストだ。彼はしたくて苦悩している。かわいそうなんて言っている方がいい面の皮だ。死ぬまでその輪廻から解脱することは無いだろうね。だって、この幻の苦境にこそ、彼はリアルを感じているのだからね。…助ける?何故助けるんだ。いいか、助けるということは、彼の世界を破壊するということだ。そんな権利は誰にも無い。…なんのため?決まってるじゃないか。僕の知的好奇心を満足させるためだよ。
と、電話が鳴る。男、受話器を取る。
男 はい、もしもし…そうだが君は?…わからんね。ここはこども電話相談室じゃないんだ。名前くらい名乗りたまえ。…一丸君の恋人?誰だ一丸君って。…とぼけちゃいないよ。…ほお、隠してるとして、その一丸君に何の御用かね。…時間切れ?何の?…今から?もう面会時間は終ってるぞ。…関係ない。こっちには大有りなんだよ。ここにいるのは、みんな自分の時間と自分の世界を大切にしているノーブルな人々だ。いらぬ刺戟は困るんだよ。…終らせる?何を。…脅迫か。皆殺しね。いいだろう。やってみろよ。受けて立とうじゃないか。君をふん捕まえて、実験台にでもなってもらうことにしよう。
男、受話器を置く。
男 しかし、世の中にはいるものだな。こういう奴こそ夢幻回路の実験台にうってつけなんだがな。…あぶない?そこが良いんじゃないか。あぶないということは、自分の中の抑制をなんらかの形で取り外しているということだ。それを感覚情報化してフィードバックした時、一体どんな世界が展開するのか、興味湧かないか?
と、電話が鳴る。男、出る。
男 はいもしもし。…あ、先生。どーも。…電話ですか?ええ、ありました。一丸君の恋人とか名乗る気狂いから。…はあ。…殺せ?物騒な話ですね。今の実験にうってつけの素材なんですが。…命令ですか。はあ、そうですか。先生の御命令じゃしようがありませんね。代わりにいい実験台、振ってもらえるんでしょうね。…別な話じゃありません。被験者10号は今一つ反応悪いんで、このままだと論文の危機…そうか。10号。一丸号か。ということは、つまり。
男、受話器を置き、端末をいじる。
男 …ほらみろ。やっぱりだ。俺が、出てやがる。強めの薬だから、朝までブラックアウトしてると思ったら、夢の中で再開してやがった!!
男、看護婦に飛びつく。
男 すごいぞ!僕の予想をぶち破る大成果だ!夢幻回路にこんな作用があったんだ!!わからないか?越えたんだよ。夢と現の壁を越えたんだ。夢幻回路が作りだした彼の想念の世界が、外の世界に流出し始めたんだ!!
と、唐突に爆発音。ブラックアウト。甲高い警報。
男 なんだ。どうした。
男、電話をかける。
男 もしもし。もしもし。…内線にもつながらない。君、ちょっと事務局に行って様子を見て来てくれ。…どうした。
看護婦、外を指さす。男、見る。と、赤々と燃える町が見える。飛行の爆音や、爆撃音が段々強まる。
男 …町が、燃えているのか?なんなんだ。戦争でも始まったって言うのか?…まさか!!
男、端末をいじる。
男 これも、10号の想念なのか。奴め、世界を焼き払おうとしている。そうか、脱出に象徴されていた自己破壊欲求の矛先を、自分を守るために外に逸らしているのか。無意識にだろう。調子に乗りやがって。止めさせてやる。…夢幻回路を自爆させてやる。…死ぬだろうな。痛みを感じる間も無く。…まだ言っているのか?可哀想。なら君は、奴に殺されてもいいのか。…言ったさ。彼の世界を壊す権利は誰にも無いって。同じさ。窮極の自由とは窮極の不自由。俺の世界を壊す権利は誰にも無い!!
看護婦、男にメスを突き立てる。
男 …なんだこれは。君、どうして。…可哀想?まだ言ってるのか。これが同情だって言うのか。こんなこと、彼を救う邪魔でしか無いことがどうしてわからないんだ!!…どこへ行くんだ。待ちたまえ。
看護婦出て行く。
男 …血が止まらない。メスごときで。…よっぽど上手く刺したんだな。さすが看護婦だ。…身体に来てる。このままじゃ死んじまう。死んじまうよ。
と、壁の向うから声。
声 どうしました。
男 …助けてくれ。死ぬ。
声 だから、どうしました?
男 看護婦に刺された。急所に入ったらしい。動けない。血が止まらない。
声 刺された?そんなはずありません。
男 刺されたんだよ!早く来てくれ。
声 許可されてません。
男 許可?誰の許可だ。
声 野口先生の許可です。
男 そんなの関係ない。いいから早く。
声 また、わすれましたね。あなたの主治医です。
男 なんのことだ。
声 あなたは誰ですか?
男 君こそ誰だ!看護婦なら僕を知ってるはずだ。
声 知ってますよ。
男 なら手当てを。
声 二四時間の間、あなたの病室に入ることは禁じられているんです。
男 なに?
声 危険とみなされたんです。あなたは強い興奮状態にあるため、二四時間の間外部との直接接触を禁じられてます。
男 なにを言ってるんだ!
声 静かに、みんなもう寝てますよ。おやすみなさい。
男 待ってくれ、手当てを。死んじまう。おい!
声の主、行ってしまう。
男 …死ぬ。…死ぬのは嫌だ。…みんな、世界が破滅してしまうんだぞ。奴が、…外を見ろ。町が燃えてるだろ。みんなには見えないのか!?…世界が、壊れて行く…。
戦闘音大きくなっていき、暗転。音が切れる。明転すると元の部屋。
男 夢?…なんともない。…夢だったのか。無茶苦茶な夢だったな。いくら、夢幻回路に力があったって、奴一人の想念で世界を破壊なんて、妄想にしたってひどいな。
男、端末をいじる。
男 …何故、この光景が記録されてるんだ。馬鹿な。僕の夢だったはずだ。…やっぱり奴の想念の流出が起きていたのか?いや、だったら、町がなんともないはずが無い。でも、…奴と僕が偶然同じ夢を見たとしたら。…馬鹿馬鹿しいが、それが一番有り得る話か。被検者と実験者の関係でシンクロニシティが起きることは、ざらにあることだ。
と、電話。男、出る。
男 はいもしもし。あ、先生。どーも。…10号ですか。寝てます。…と思います。どうしたんですか?…いえ、僕も少し居眠りしてしまったものですから。…先生、なんでそいつのことを知っているんですか!?…ええ、報告はしました。でもそれは夢の中の話で現実には、…はい。…はい。警備を強化します。
男、受話器を置く。机の上のメスで手の平を軽くつついて見る。
男 痛い。…夢じゃない。あれは現実だったのか。でも、あの直後に俺は刺されて、…夢のはずだ。夢のはず。」
と、ラジカセから声がする。
声 夢で片付けないでくれよ。…うふうふうふうふうふ。約束通り来てやったよ。
男 貴様は!!
声 ずいぶん警備がずさんだね。少し警備を強化した方がいいね。
男 今、どこにいるんだ。
声 決まってる。愛しい一丸君の所さ。
男 よし、待ってろよ。
声 うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!
男 なにがおかしい。
声 いや、失礼。僕をどうこうするつもりなら無駄なことだ。僕の用件を済ませる方が速い。
男 用件?
声 言ったろ。全てを終らせるんだよ。
男 どうするんだ。爆弾でも仕掛けたのか。
声 そんな不粋なまねはしないよ。たった一突き。それで終りさ。
男 ほう、詳しく教えて欲しいね。
声 教えると思うか?
男 教えたいだろ。さもなきゃ、もったいぶらずにとっとと終らせているはずだ。
声 ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。さすがだね。君みたいな奴、好きだよ。
男 そりゃどうも。
声 一丸君だよ。一丸君の手に刃物を握らせ、自分の喉笛を切り裂かせるのさ。
男 何故、あんた自らやらないんだ?見せ場だろ。
声 美学だよ。
男 10号を殺したところで、終るのは奴の世界。あんたや、先生や、その他諸々の10号の夢の住人が消えるだけだと思うが。
声 そう思うか?
男 どういうことだ。
声 君は、一丸君になにをした?
男 …まさか。
声 今こうしている君自身をふくめ君の感じる全てのものは、一丸君の一睡の夢。今や世界は一丸君の想念と不可分につながっている。
男 お前だって消えるんだぞ!!
声 そうとも、そのために僕は存在しているんだ。さあ、終りにしようか。
と、虎の咆哮。
声 貴様!!また邪魔をするのか!偽善者め。いつもいつも邪魔しおって!貴様の様な存在が苦しみの源なのに。貴様に、一丸君は救えない。いいか、貴様がどうがんばったって、僕を救うことは出来ないんだ!!
ラジカセから断末魔の声。壁の向うから声。
声 入りますよ。
壁の向うから虎が現れる。
男 やったのか。奴を殺したのか。
虎 ええ。
男 僕も食べる気か。
虎 あなた、美味しいの?
男 まずいと思うよ。
虎 ゲテモノ食いもたまには良いわね。
男 嘘!!
虎 嘘。ねえ。私、虎に見えますか?
虎、すっと手を差し出し、男の頬に触れる。男、火傷でもしたように離れる。
男 まさか。
虎 そのまさかです。
男 でも、マリは。
虎 いいえ。私はマリです。忘れたの?
男 …忘れるものか。あの時彼女は同じ様に僕の頬に手を当てて言った。
虎 強くなりたいなら、甘えちゃいけない。逃げちゃいけないよ。
男 やめろ!なんのつもりだ!?
虎 わかってるはずよ。
男 知るものか。
虎 いつまでさ迷い続けるつもりなの、一丸君!!
男 なに言ってるんだ。僕は、
虎 なぜ同じ夢を見たのか。何故同じ世界にいるのか。一番単純な答え、あなたが一丸君だからよ。
男 違う!僕は医者だ。夢幻回路の研究者で、奴の担当医で、
虎 そう、それはあなたにとって掛け替えの無い現実の一つ。ここでは、どんな現実でも存在し得る。だから、なにが夢でなにが現かは問題じゃない。問題は、あなたがなにを望んでいるかだけ。
男 暴走だ!夢幻回路が暴走しているんだ!
虎 いいえ、正常に作動しています。続けましょう。あの後、私達はどうしましたか?
男 どうでも良いだろ。僕を放って置いてくれ。
虎 このままでいいの?この世界に閉じ込められたままで。
男 うるさい、うるさい、うるさい、
虎 一丸君。
虎、男に近づき、男の手を取って首にあてがう。
虎 思い出して。
男 あ…。
虎 さあ。
男 …じりじりととろ火で焼かれているようだった。なにかしなくちゃいけない。でも、何をしたらいいか、わからない。結局何も出来ず、何もしないうちに日が暮れる。無駄な人生だ。生きる価値も無い。もう、今すぐ死んでしまった方がいい。
虎 なら、私を殺してごらんよ。そうすれば、人一人の生き様がどれだけ重くて軽いものかわかるから。
男 馬鹿言うな。そんなこと出来るか。
虎 甘い。
男 君に、僕の気持はわからない。僕は、ずっと一人だった。安心して人と接する事が出来ず、こんな狭い閉じた世界で灰色の虚無を見つめて生きて来たんだ。脱出することも出来ず、脱出してどうしていいかもわからずに。そんな不安が、君にわかるのか?
虎 わからないわ。でも、あなたにも私の気持はわからない。私が、どれだけ多くの影を、虚無を、苦しみを見て来たかを知らない。知って欲しくもない。私は、そんなところをさ迷っていたくないもの。知って欲しいのは、私の中で渦巻いている小さくて微かで、でも確かな生きていたいっていう想いだけ。でも、きっと百万語費しても、言葉であなたに伝えることは出来ないと思う。だから、あなたに感じて欲しいの。生きたいっていう想いの脈動を。さあ、もっと力を込めて。リアルな生命を指先に刻んで。
男、手に力をいれる。虎の手が男の頬に触れ、落ちる。
男 …おい…マリ…死んじゃだめだ…死んじゃ嫌だ…嫌だ。こんなのは嫌だ。こんなのが生きるっていうことなのか?
男の目に、壁の模様が蠢いて見え出す。
男 なんだ。何なんだお前達は。やめろ。そんな目で見るな。なにを言っているんだ。うるさい、黙れ!!
男、迫り来る気配達を切り裂いていく。それはどんどん重なる。ノイズ。その音は男の手から聞こえている。
男 ここか。…止まれ。止まれ!!
男、メスで手首を切り裂く。狂笑。プツンとブラックアウト。電話が鳴る。虎が起き上がり電話に出る。
虎 …はい。
虎、電話を切る。男を胸に抱く。
虎 そうして、あなたはここに運ばれて来た。手首の傷は大したこと無かった。問題は精神状態だった。それが身体の回復まで妨げ衰弱させている原因だった。だから私は、開発中の夢幻回路を使うことにした。下手をすれば悪化を加速するかも知れない。…でも、あなたの中の想いに賭けた。きっと、太古の海で生まれた最初の有機体が抱き、分裂や交尾、あるいは食物連鎖の中で伝えられ、増幅され、拡がっていった想い。遠い先祖から、私達が生まれた時に受け継いだはずの想い。この世にある限り、微かで小さくても、確かに存在している想い。…聞こえるでしょ?私達は、この世にある限り無限に拡がる可能性の迷路に転がり続ける石。大切なのは、どこに行きつくか、なにが起きるかではなく、自分がどうしたいか、よ。
男 …僕がどうしたいかだと。
男、虎の首を掴もうとする。虎、離れる。
虎 一丸君!!
男 鳥は卵から抜け出ようとして戦う。卵は世界だ。生まれ出ようと欲するものは一つの世界を壊さなければならない。
男、虎にメスで切りつける。
男 どうしたらいい。無限に続く悪夢を断ち切る方法は!
虎 これが答えなの?
男 そうさ、もう君らの好きにはさせない。
虎 無駄よ。
男 無駄じゃない!!僕は行くんだ。より、僕であるために僕は戦う!!
男、虎を突き刺す。と、ラジカセから女の悲鳴と殺害の音が聞こえる。ノイズ、様々な音が折り重なり、混沌と化していく。溶暗。くずおれる虎を抱き締めつつ呆然と沈んでいく男。
男 助けてくれ!!!
劇終。