犬の人 第二話「アキ」
「早速、仕事の話に入りましょう。」
アキと名乗る女はそういって、俺の前に座った。
「残念だがお断りさせてもらうよ。」
俺がそう言うと、女は怪訝そうな顔をした。
「何故?私はまだ何を探して欲しいか言ってないはずよ。」
「だから今のうちに断ると言ってるんだ。」
「どういう事?“ハリネズミ”さんはあなたを随分薦めていたわ。肝が 据わった男だって。そうじゃないの?」
「ああ。ひどく怖がりな質でね。“ハリネズミ”の後を追う気は無い よ。まだ生きていたいんでね。」
「“ハリネズミ”さんがどうかしたの?」
「知らんのか?」
「ええ…。!?まさか、」
「…ああ。」
女は俺が言おうとしたことに気付いたようだ。驚いたような目をした が、やがてつらそうな顔になり、やけに白い手を組みあわせ、ギュウっと 握り締めた。しばらく、静かな時間が流れる。かすれた音のバイオリンの 曲がかかっている。ジェイの趣味だ。やがて、女が言葉を絞り出す。
「…そうですか。」
「あんたが何を依頼したのかは知らんし、知りたくも無い。しかし、そ れだけの危険があるものだって事だけはわかる。この仕事は、もちろん非合法だからどんなブツを探すんでも危険は付き物だ。だが、だからこそ、危険を感じたら身を引くのが鉄則だ。」
「…。」
「だから、お断りする。」
「でも、謝礼は弾みますよ。」
「市民じゃなきゃ、金で命は買えないんだよ。」
「…どうしても駄目なの。」
「ああ。」
女はまた黙り込んだ。と、すうっと身を引く。女が俺を直視する。
「“ハリネズミ”さんは、腕が良かったの?」
「ああ。あれだけの売人は他にいなかったよ。そのハリネズミで駄目だったんだ。」
「その“ハリネズミ”さんが、何故引き受けようとしたかわかる?危険 を感じたら身を引くのが鉄則なんでしょ?」
確かにそうだ。あの“ハリネズミ”が、危険とわかってなお深追いするとは考えられない。それ以前に、危険を察知して駄目なら手を出さない男 だ。
「…さあな。」
「その鉄則を破ってまで、私の依頼を引き受けてくれた。何故だと思 う?」
「知りたくないね。」
「それだけ価値のあるものなのよ。私が探して欲しい物は。」
「何にします?」
ジェイがメニューを持って立っていた。珍しこともあるもんだ。こんなことついぞしたこと無い男だ。
「え?」
女が不思議そうな目でジェイを見る。
「何にします?」ジェイはぶっきらぼうにまた聞く。俺は、ジェイの手からメニューを受取る。紙切れが一枚挟まっていた。女もメニューを手に取るが、ろくに見もせず横に置く。
「何にします?」
「何でもいいわ。」
「じゃあ、コーヒーで良いですか?」
「俺はウオッカ。」
「すんません。ウオッカは品切れです。」
ジェイは、俺の手からメニューを取ると、女のメニューも重ねて持っていってしまった。
紙切れには一言だけ書いていた。
“やれ。”
「いいこと?それがどういうものかあなた興味無いの?」
女が話を戻す。
「わかったよ。」
「え?」
「引き受けよう。」
女が黙り込む。何かを探るような目をする。
「どういうこと?」
「引き受けるって言ったんだよ。」
「何を企んでるの?」
女が言う。
「企んじゃいないさ。それとも引き受けない方が良いのか?」
「そうじゃないけど。…だって、さっきまで嫌がってたじゃないの。」
「あんたが言う通り、“ハリネズミ”が勝算の無い戦いするわけが無い。何かあったはずだ。それに賭けてみたいと思ってな。」
「それがなにか、あなたにわかってるの?」
「それを探すのが仕事さ。だから、洗いざらい話してもらいたい。どんな細かいことも全てだ。一見関係なさそうなことから、突破口が見つかることもあるからな。」
「…わかりました。」
女は怪しむのを辞めたらしい。何かを吹っ切るように居ずまいを正すとこう言った。
「探して欲しい本は、『犬の人』っていう本よ。」
「『犬の人』?」
女は静かに肯いた。聞いたことの無い名前だ。
「著者は?」
「早瀬構造...。」
「ハヤセ・コーゾー?」
「私の父よ。」
「あんた、作家の娘だったのか。」
「義理のね。」
「義理というと?」
女は言葉を詰まらせた。
「...それが本探しとなんの関係があるの?」
「対象に関する基礎知識さ。“ハリネズミ”も同じ様な事聞かなかったか?」
「聞かれたわ。」
「本ってのは昔なら本屋で買うものだった。著者名と出版社がわかって、在庫とルートがあれば、まあ大抵手に入った。でも、今は違う。ちゃんとした在庫も確立したルートも無い。俺達売人は、自分の嗅覚で本の在処を捜し、手に入れるしかない。そのためには、対象に関する、情報を少しでも多く仕入れておく必要があるんだ。正確な書名、著者名、出版社名はもとより、どんな装丁で、誰が表紙やイラストを手掛けたか。印刷会社、出版年月日、卸は何処がやったか。どんな縁で知ったのか、読んだのか、どんな内容か...。」
俺は色々と列挙したが、女は特に聞いてないようだ。俺は言葉を切り、煙草を取り出し、一本口に咥えたが、なんとなく吸い出せず咥えたまま背もたれに体を預けた。
「...母が、早くに亡くなって...私が三歳の時だったわ。引き取られたのよ。」
「お母さんとはどういう関係に当るんだ?」
「仕事の同僚だって聞いたわ。」
「へえ...」
「何?」
「いや、いまどき珍しいと思ってな。都市の住民なら、孤児だろうとなんだろうとあんまり不自由しないはずなのに、それも他人の子をわざわざ引き取るってのがさ。」
「珍しくないわよ。父は孤児院を経営していたんですもの。」
「公立のか?」
「ええ。」
「っていうことは、生活管理局の課長クラスじゃないか。そんな人が、何故出版なんかに手を出したんだ?」
「本を出したのは、統制が始まる前よ。」
「1900年代か?」
「2020年よ」
「ギリギリだな。で、どんな本なんだ?」
「知らないわ。」
「知らない?」
「ええ。」
「ジャンルは?」
「それも。」
「あんたの父さんが書いた本なんだろ。わからないのか?」
「だって、私が引き取られる前の話だし、それに物心ついた時には全部没収されてたんだもの読みようが無いわ。」
「じゃあ、何故題名を知ってるんだ。」
「...教わったのよ。父の友人から。」
「誰だ?」
「坂口さんっていう人よ。」
「下の名前は?」
「知らないわ。一度しか会ってないんですもの。」
「そいつと会った時のことを詳しく話してくれ。」
女は、軽くため息を吐いて語りはじめた。
父が亡くなってから一月ほど経った頃かしら。
父の遺品や持ち物を整理していると、電話がかかってきたの。出てみると、知らない男の人で、坂口と名乗ったわ。
「あんたが義理の娘か?」
私がそうだって答えると、軋るような笑い声で
「そうか!そいつは良い!」
って。腹が立ったから、電話を切ろうとしたら、
「『犬の人』は何処だ?知ってるんだろ!?」
って聞いてきたの。本に関わる生活なんてしてなかったし、それが本の名前だとも思わなかったから、なんて答えていいかわからずに居ると、
「本だよ、あんたの親父が書いた本だ。知ってるんだろ?何処に隠してるんだ?」
って。
「何のことです?」
「とぼけるなよ。あんたがアキなんだろ?だったら知ってるはずだ。」
「知りません。」
「知らない?」
そうしたら、男は急に声を低くしたわ。
「なあ、アキさん。あんたが俺を怪しむのはわかる。俺はあんたとは面識無いからな。だが、俺はあんたの親父とは親友だったんだ。構造とは一緒に修羅場を潜り抜けてきた。機関を抜けてからも、何かあったら助け合
おうって誓い合った仲なんだ。これは信じてもらっていい。」
「あの...。」
「なんだ?」
「とにかく、私、坂口なんて人のこと、父から全然聞いたことありません。だから、何も言えません。失礼します。」
「死ぬぞ。」
「は?」
「あんた、自分は蚊帳の外だと思ってるんだろうが、勘違いも良い所だ。一番危ないのは、あんたなんだぞ。わかってるのか?」
「何のことです?」
「わからんで良い。わかったらかえって危険だ。とにかく時間が無い。また電話する。それまでに、『犬の人』を用意しておけ。いいな。」
そう言って、男は電話を切ったわ。
それから何日かしても電話は無かった。悪戯だったんだなと思って忘れかけた頃に、小包がうちに届いたの。これよ。
そう言って女は、小汚いボール紙の箱を取り出して、俺に差し出した。
手のひらに乗るサイズだ。表面には、特に何も書いてない。よく都市の運送局がこんな物運んでくれたもんだ。
「開けていいか?」
「ええ。」
俺はボール箱の蓋を開けた。
中には、白い紙がぐしゃぐしゃと詰められ、その中に白っぽい棒状のものが入っていた。俺は、紙を開いて、白いものを取りあげた。
それは、指だった。
人の親指だ。
切断面には、血が黒くこびり付いていた。詰め込まれていた紙に何か書いてある。赤黒い文字。
who is a next dog?
「どういう意味だ?」
「わからないわ。だから、こうしてあなたに本探しをお願いしてるのよ。」
「警察に依頼した方が良いんじゃないのか?」
「本のことも含めて?」
「...。」
俺は嫌な予感がしてきた。絶対碌なことが無いに決まってる。
でも、引き受けて、ここまで聞いた以上やるしかない。
「あんたの父親のことをもっと教えてくれ。」
俺は、咥えていた煙草を箱に戻した。