【戯曲】狂猫病 作:升孝一郎
・「夢幻回路2003」の中の一編を短編戯曲として編集しました。
イスが2つ、床にラジカセが置いてある。女が入ってくる。
女 ごめんください。…ごめんください。
とラジカセから猫の声。と、男、出て来て何やら動物を宥めるようにラジカセを宥める。
男 …よーしよしよし。よーしよしよし。怖くない。怖くない。う。
ラジカセの声が止まる。ラジカセに噛まれたらしい。
男 ほら、怖くない。…怯えていただけなんだよね。
女 怯えるんですか。
男 当り前じゃありませんか。この子はこう見えて結構繊細なんです。よしよし、…さて、よくおいでくださいました。旦那さんの主治医のマーです。マーと呼んでください。
女 よろしくお願いします。ええと、マー先生。
男 さて、今日来ていただいたのは他でもありません。先日、検診をさせていただいた結果をお伝えしたいと思いまして…。
女 なにか、悪いところがあったんでしょうか。
男 その前に、旦那さん、何日か前にネコの泣き声を真似しませんでしたか?
女 ネコ…ですか?
男 ええ。(やって見せる。)
女 …したかもしれません。あ、一緒にサスペンスドラマ見てて、家政婦が出て来た時、
男 しましたか。
女 ええ。また見たんだニャアって。
男 そうですか。
女 それがなにか?
男 …ええ、まあ。その、
女 はい。
男 旦那さんの血液中からHWウィルスが検出されました。
女 HWウィルス?
男 はい。
女 …特に具合悪そうじゃありませんでしたけど。
男 そうでしょうね。
女 どんなウィルスなんですか?
男、写真を見せる。
男 これがハローワールド、略してHWウィルスです。
女、手でその形を表現する。
女 こんな形ですか。
男 いえ、こんな形です。で、こうして動くようです。
男、その形を作って見せる。
女 動くんですか。
男 動くんです。
女も、動きをまねする。男、咳払い。
男 ええと、HWウィルスに感染した人が発症すると、まず、神経系の混乱が始まります。自分の意識が身体からずれ、世界との間に厚い壁が出来たように感じるのだそうです。外部の環境の変化に対する反応が出来なくなり、全てに対して虚無的になります。
女 精神に作用するんですか?
男 正格には、精神に作用するホルモンの分泌障害を引き起こすのです。発症から一両日中に、約95%が自己破壊行動に出るとされてます。ありていに言えば、強度の欝病を引き起こすウィルスと言えるでしょうね。
女 そんな…そんなウィルスがあるんですか。
男 はい。
女 あの、治せるんですか?
男 ウィルスを駆逐できるかと言う質問なら、不可能です。現在、このウィルスを駆逐できる薬は存在しません。
間。
女 …助からないんですか。死んじゃうんですか。
男 あなた次第ですね。あ、すいません。
男、くつを片方脱ぐとそれを携帯のように耳に当てる。
男 ハイもしもし。…ああ、これはどうも。…そうですか。それは賢明です。では、入院の準備をしてこちらにおいで下さい。…ええ、はい。では。
男、携帯を切り、靴を匂ってみて、また穿く。
女 私次第っていうのはどういうことですか?
男 その前に…あなたは秘密が守れますか?
女 秘密ですか。
男 ええ。
女 守ります。守りますから、どうしたら助かるのか教えて下さい。
男 意志を持ったウィルスというのを、あなたは信じますか。
女 意志…ですか?
男 そうです。HWウィルスは意志を持つウィルスなのです。
女 …なにを考えているんですか。そのウィルスは。
男 新しい世界を築くことです。
女 新しい…世界。
男 ええ。
女 どんな世界を、…まさか人間に取って変わろうとか。
男 凄い夢想ですね。でも違います。その世界でも、主役は人間です。言ってしまいましょう。彼らは人間の間引きをするのです。新しい世界に残るべき人間だけを残して。
女 …そんな…おかしいですよ、そんなの。
男 ええ、私もおかしいと思います。でも、事実なんです。
女 何故、意志を持ってるなんて断言できるんですか。
男 そう言う風に生み出されたからです。
女 え?
男 作られたウィルスなんですよ。これは。
男、さっきの動きをして見せる。
女 誰が。誰がこんなものを作ったんですか!?
男 それはこの際あまり問題じゃありません。今後半年の間に、世界中のほぼ全ての人々に感染すると思われます。感染を防ぐ手段はありません。遅からず、あなたも感染するでしょう。私もね。そして、発症の三日前にネコの泣き真似が出ます。そのため中国などでは狂猫病などと呼ばれ隔離治療が行われてますが、感染予防にあまり効果が無いようです。
女 …じゃあ、あの、
男 ただ、生き残る方法はあるんです。対処療法ですが。
女 …本当ですか。
男 ええ。そして、おそらくそれがこのウィルスの作り手達の目的だったと思われます。
女 どうすればいいんですか!
男 笑うんです。
女 …笑う…んですか?
男 そうです。
女、微妙な笑みを見せる。
男 違います。スマイルではなくラッフィング。声を出して笑うんです。笑うことによる、免疫物質や副腎皮質ホルモンなどの物質の分泌が活性化することは実験で確かめられてますが、このウィルスの活動を抑制する物質も分泌されているらしいのです。それが見付かれば、効果的な治療が可能でしょうが、それまでは、対処療法に頼るよりありません。
女 つまり、どうすればいいんでしょうか。
男 ですから、笑うんです。
女 笑うって。
男 だから、がっはっはと声を出して笑うんです。笑う内は、発症を防げます。この治療法を予言していた古の言い伝えが日本にはありました。笑う門には福来たる。昔の人は偉大ですね。
女 どうやって笑えばいいんですか。
男 だから、声を出して、
女 それはわかってます。そんなこと言ってるんじゃないんです。
男 じゃあ、なにが問題なんです。
女 あの人、…笑わないんです。
男 …笑わないんですか。
女 ええ。
男 バラエティ番組とか、落語とか見てもですか?
女 見ません。家に居る時はずっとパソコンにばっかり向かってます。時々、何か見て笑ってるようですけど、こんなんなんです。
女、引きつった溜め息みたいな笑みを見せる。
男 それじゃあ…ねえ。じゃあ、今日の帰りに薬局でビデオをお出ししますから、それを旦那さんに、
女 駄目です。見ません。見ても、突っこみが甘いとか、ネタが古臭い、とか難しいこと言って難しい顔してるのが落ちです。
男 そうですか…笑いに餓えている地域では、流行が本格化した際の被害が大きくなるだろうと言われています。こういったものは、地域の気風のようなものがありますから、一朝一夕でどうすることも出来ません。しかし、生き延びるためには、それを撃ち破る必要があるのです。私達の病院では、そのためのカリキュラムを用意しています。どうでしょうか?旦那さんにそれを受けて頂いては?
女 …難しいと思います。…どうしたらいいんでしょうにゃあ。
間。
男 今、
女 え…今のが、そうなんですにゃあ。
男 奥さん。
女 私、私、
男 大丈夫です。笑うんです。笑うんです。
女、無理矢理笑う。男も笑って見せる。
女 無理です。理由も無しに笑えません。
男 じゃあ、これでどうでしょう。ベストセラーになったジョーク集のジョークです。読んでみて下さい。
女 NASAの科学者が大統領に報告した。やりました!ついに火星に知的生命体を発見しました!すると大統領が言いました。よくやった。では、今度は議会議員の中から知的生命体を見つけてくれたまえ。その方が容易いだろ。
男、笑う。
男 あの、これはつまり、知的な人が議会にはいないということで、
女 先生、面白くありません。
男 じゃ、これはどうですか?
女 倦怠期のユダヤ人夫婦がラビに相談した。ラビが言った。若い屈強な青年にあなた達の営みをセコンドさせるのです。早速二人はそうしてみた。興奮はしたものの妻は悦びを味わえなかった。そこでもう一度ラビに相談してみた。ラビが言った。なら選手交替してあなたがセコンドに徹してみなさい。選手交替。屈強な若者が奮闘すると、妻は絶頂に達することが出来た。夫が言う。どうだ若僧、セコンドって言うのはこうやるんだ。
男、笑う。
男 ええと、これはユダヤネタですね。ユダヤ人にとってユダヤ教の司祭であるラビと言うのは絶体で、
女 笑えませんにゃあ。
男 駄目です。笑うんです!にゃあ。
女 …先生。ふにゃあ。
男、女からジョーク集を取り、読む。
男 子沢山の中国人が、旅行中に子どもを一人見失ってしまった。帰って来てそれを知り、溜め息ついて一言。あー、また作らなくちゃ。
男、笑う。が、ジョーク集を打ち捨てる。
男 笑えるかー!!
女、気がつくとネコの真似をしつつ、虚無的な表情になっていく。
男 奥さん!駄目です。笑うんです。
男、笑う。女、無理矢理笑う。ひたすら笑う。空間、暗く怖くなっていく。笑いは中味の無い、辛いものになっていく。やがて、二人疲れ果て崩れ落ち、虚無的な表情に。
男 にゃあ。
女 にゃあ。
男 にゃあ。
女 にゃあ。
二人、ネコの泣き声を続ける。暗転。
終わり
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