少年は果てなき荒野を行く

今、仙台では夕方の再放送番組の時間帯に、あの名作「母をたずねて三千里」を再放送しています。で、そろそろ最終回近く。

やっぱり、いい。

涙無くしては見れません。

なんて言ったって、今の日本アニメ界の大御所、高畑勲、が演出をし、絵コンテを富野善幸(ガンダムの監督さんですね。名前の字がまだ違う頃です。)が描いてたりします。

レベル的にとても高い作品です。最近、こういった良い作品が減りましたね…。(なんて書くと爺臭いですが。)

話は、いよいよ最後の旅。草の海を越えて行く短くて長い旅を続けているところです。

その直前、「これで汽車に乗ればすぐお母さんに逢えるよ。」と人に貸してもらった大金を、知り合った貧民窟の女の子が肺炎になり死に瀕しているのを見るや、それを差し出し、「これであの子に出来る限りのことを。」

金が無い貧乏人と侮っていた病院の人間は大慌てで往診へ。医者に言う「僕がおねがいしたってこと、言わないでください。」

カッコ良い。カッコ良いぜマルコ!!

少女の症状が一段落したと見ると、何も告げずに笑顔で去り、自分は汽車に忍び込む!

これが、かつてイタリアで、父親が旅を許してくれなかったからと、切れて泣いていた子かと思うと、感慨もひとしおです。

マルコは、確実に少年から「男」へと成長していってます。

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ロードムービーというジャンルの映画があります。

老若男女、様々な人々の様々な旅を描く映画です。

この「旅」をテーマにした物語は、映画に限らず小説、漫画等、ありとあらゆる表現ジャンルに存在します。(演劇にも存在します。)

旅をテーマにする理由には、色々なものが考えられますが、その中でも大きいのは、やはり旅人が、あるいは旅人が訪れたところの人々が、その出会いの中で(必ずしも成長と呼べないかも知れませんが、)変化して行く様を描きたいと言うものがあると思います。

旅をモチーフにすると、物語の発端や展開、結末を旅の過程に合わせて作れる点が、旅をテーマにする魅力の一つだあると言えます。

最近、その手のもので大きなジャンルを形成しているのは、ロールプレイングゲームでしょうか。

ドラクエ、FFなどしか私はやったことありませんが、あの手のゲームが成立しているのも、旅と言う要素を積極的に利用している部分が大きいと思います。

ただ、ゲームにおいては成長を表す際、どうしても数値的なものに頼らざるを得ず、一昔前のRPGは物語とは別の「ひたすらモンスターを殺戮し、金品を奪い、ポイントを上げる。」というヤクザ真っ青な行為を延々続ける必要があり、私はそれが苦手だったため、まともに終らせたRPGはありません。

他のジャンルにおいても、この変化の表現は非常に難しいものがあり、モチーフとして使いやすい「旅」の泣きどころと言えます。

まさか、主人公に「僕、間違ってたよ。~は~なんだね。」とテーマを言わせて終るわけにいきませんからねぇ。

その点、「母をたずねて三千里」は、実に巧みです。

マルコのちょっとした言動や表情の変化で、マルコの内面の変化を如実に表現しています。

ああ、羨ましい。

あんな旅がしてみたい。

あんな表現してみたい。

今日見た場面では、マルコは草原をいくキャラバンに加わって旅を続けているのですが、その中でもまれながら、「男」から、さらに「漢」へと成長していこうとしています。

で、なんだか思うのですよ。

母をたずねる旅は、結局母から離れる旅なのではないでしょうか?

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イタリアを出る時、マルコの内に秘めた想いはただ「お母さんに逢いたい」だけだっただろうと思います。

船に乗りそこにいけば、お母さんがいてハッピーエンド。それくらいに思っていたはずです。

しかしその後、様々なトラブルやアクシデント、色々な境遇や性格の人々と出会いもまれる中で(本人の望むと望まざるとに係わらず)マルコのそれまでの世界は一気に壊され、再構築され、拡大されました。

幼少のときの世界は、生まれ育った町内だけでも十分大きな世界で、そこは両親や近所の(自分を知る)人々によって守られた安楽な世界です。

この世界は、生まれる前の母の胎内のメタファーと言えるかも知れません。

生まれ出た後も長く親の庇護を必要とする人間独特の、バーチャルな子宮と言っても良いかも知れません。

成長につれ、人はいずれこのバーチャルな子宮からもう一度誕生する必要があります。

このもう一度の誕生を人工的に行うために、古今東西の部族、民族に、様々な通過儀式が存在しました。この儀式を通過することで、子供は始めて成人し、部族の一員として認められるのです。そして、この儀式には旅の形を取るものが多くあります。

ある深い洞窟に行って帰る。聖なる山に登る。彼方の島まで泳いで戻る…。ギリシャ神話のミノタウロスの迷宮の話も、当時、ミノス島で行われていた通過儀式がモチーフとなったと言われます。

マルコの旅も、マルコにとっての通過儀式として作用したのは容易に想像されます。

そして、母の元に達したとき、マルコの儀式は終了し、マルコは父や母の庇護を必要としない大人となる。

もちろん、すぐ全く庇護が必要無くなるわけはないのですが。少なくとも、「庇護の下にない状態」を過ごしかつそれを乗り越えた経験は、大人として、成人としての大きな一歩だったはずです。

出発前、マルコにとっての目的は母に逢って十二分に甘えることだったでしょう。

今、マルコにとっての目的は、甘えることよりも、そこに達すること自体に変化しているように見えます。

そこが、さらなる旅の-人生と言う旅の-スタート地点だと知らずに。

マルコの母アンナは、きっと、久しぶりに逢ったマルコを見て、嬉しさとともに、驚きと、一抹の寂しさを感じたのではないでしょうか。

自分を慕って遠い距離を来た息子が、もはや自分を必要としないしっかりした「男」になっているのを知って…。

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私自身は、マルコの様な旅はしてきませんでした。

強いて言えば、芝居との出会いや、妻との出会い、結婚が旅に匹敵するでしょうか。

しかし、それを経験したのは18、9から20代全般にかけてです。

マルコに比べたら(そして、結構多くの人と比べて)遅すぎるくらいでしょう。

そして、その経験を以てしても、「きちんと通過儀式を越えた」とは、自分自身、自信をもっては言えないです。

未だに、色々なことに迷ってばかりいます。

息子が生まれてからはだいぶ減りましたが、それでも気が付けば上に書いたバーチャルな子宮に閉じ籠って現実をシャットアウトしたい欲望に駆られます。

情けない…と思います。(ただ、そのバーチャルな子宮が、創作意欲の子宮でもあるような気がして複雑な気持なのですが…。)

息子には、マルコの様に、その時が来たら、きちんと「旅」をやりきって欲しいと願います。

心から願います。

2001/6/6