怒ること叱ること
寒い日が続く今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
雪がしんしんと降りしきる中、年上の会社の新人さんを叱りつけて自己嫌悪に陥っている水天堂です。
年上と言っても十歳以上は上です。新人とは言え人生の先輩ではあって、またこれまでに培って来たプライドも持っている方なわけで、若輩者の私が叱りつけるのはとても失礼なことなんだと思います。
叱った内容については言って当然、言われて当然の内容だったと思ってはいますが、正しいからといって何を言っても何をしても良いわけではないわけですし、まあ、これからはもうちょっと言動に気をつけて温かく見守っていくことにします。
はふ。
つくづく、人を叱ると言うのは難しいことですねぇ。
私は、人に言わせると"滅多に怒らないので怒ると恐い"人なんだそうです。
私自身は、極めて気が短い方だと思ってます。気は短いけど恐がりなのでそんなにそれを外に出さないだけだと思います。いじめられッコだった習性でしょうか。
自分としては感情に任せて"怒る"のではなくきちんと間違いを指摘して改めてもらうための愛情のこめて"叱る"ようにしているつもりですが…息子に対してはついつい怒りまくってしまいます。おかげで息子には私に怒られるのがとても嫌だと言われるようになりました。お父ちゃんは恐いと…。とほほ。
私の父は滅多に私達を怒りません。少なくとも、物心ついて此の方、怒られたり叱られた記憶がありません。
その代わり、母が怒ったり叱ったり罰を与えたりしてました。父がフォローしてくれるわけでもないので、怒られるともう一人で孤立するしか無い状態でした。(少なくとも私はそう感じていました。)
父は滅多に自分の意志を出さない人で、母とはよく喧嘩していましたが、私に自分の意志を打ち明けたのは一度二度くらいしかありません。ときどき、「これはこうすべきだと、俺は思う。」と言うことを言いますが、それを人に押しつけることはしません。
とても損な性格だと思いますが、同時に狡い性格だとも感じます。
そして確実にそれを受け継いでいるなぁとも。
ため込むことを父に、徹底的に追い詰めるような叱り方を母に。
もう少しましな受け継ぎ方は無かったのか。(^^;
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私が、ついつい追い詰めるような叱り方をしてしまうのは、職場で新人を教育する際が多いと思います。
職場、仕事の場では、やらなければいけないこと、やるべきことがありますが、それをこなしただけではうまく回らないのがどんな職場でも言えることだと思います。
マニュアル通りのことを伝え、コツを伝えただけですぐにできる人はまれですが、それでも繰り返すうちに一通りできるようになるのが普通のレベルだと思います。
仕事ができるようになるというのはどういうことなのでしょうか。
どんな整備されたマニュアルにでも不備が存在します。
それを、判断して埋め合せ、処理できると言うことが、仕事ができるという状態だと思います。
判断するには、その仕事の持つ意味や目的がわかっている(ゴールがわかっている)必要があります。処理するにはその仕事だけに限らない広い知識は経験のネットワークが必要で、それが広いほど処理の手段、引出しをたくさん持っていることになりますから、最適な処理の方法を瞬時に選択することができます。
仕事を覚え、できるようになるとは、こういうことを身に着けていくことだと言えるでしょう。
少々語弊のある言い方をすれば、その人の生き様がその人の仕事能力だと言うこともできるでしょう。
であるため、(であると私は思っているので、)何回仕事を見聞き経験しても仕事ができるようにならない人は、何を教えても無駄だと言う気持ちになってしまいます。
そういう人に欠けているのは、知識や技術ではなくイメージ力であり、イメージ力は生活の中でしか、それまでの生活の中でしか身につかないものだと思うからです。
そういう兆候が見えただけでは叱ったりしませんが、今日叱りつけてしまった年上の新人のような、自分で判断することを放棄している言動が多過ぎると、言わずにいれなくなります。
そういう人に言いたいのは、本当はただ一言「言い訳する前にイメージしろ。」と言うことだけなのですが、それでは伝わらないので言葉を重ねているうちに、割と追い詰めてしまうのです。
私自身、追い詰められるのが苦手な質なもんで、追い詰める方法がわかってしまうんですよね。母の影響もあるでしょうか。たぶん、その人のそれまでの生き方そのものに刃物を突き付けるような叱り方、追い詰め方をしていると思います。
でも私としては、追い詰めたくて、泣かせたりしたくてやってるわけではないのです。あくまで、変わって欲しいから叱っているのです。そうでないなら、こんな気力も体力もいることしたくないです。
それが伝わらなかったとしたら、つまり、あの新人が諦めて仕事を辞めてしまったとしたら、悲しいですね。
愛が無ければ叱れないとよく言います。
私は、自分が嫌いな人ほど叱っていると思っていますが、今日叱った新人を見ていて、そうではないような気がしました。
愛があるからというのは抵抗がありますが、自分に似ている人、自分の嫌なところを同じ様に持っている人を見ると、なんとかしてそれを直してやりたいと感じるのではないでしょうか。
他者の中に見る自分がどうしても気に入らず、それを修正することで自分の同じ嫌な部分を修正してしまいたいと思う。自分を他者の中に投影しているとも言えるでしょう。
私は、別な人に対しては今日の新人のように、ビクビクおびえて顔色見てばかりいたり、自分でイメージしたり判断することを放棄してしまったり、そのくせ妙にプライドばかり高くて言い訳ばっかりしまくっていたりしていて、だから、ついつい、それを直したい。直すきっかけを与えたいと思うのではないかと思います。
ナルシシズムですね。げ、気持ち悪い。
叱った後、自己嫌悪に陥ったのはそのためでした。他人から見たら、私はあの新人のような存在なのだなと。
私にどれだけの怒る権利があると言うのかと。
ともあれ、明日やはり仕事がひどかったら、たぶん注意するでしょう。
注意してダメなら…それでも注意するでしょう。またいつ仕事で組むかわからないわけだし。
そしてその中で、自分自身が変わっていくための何かを掴みたいと思います。
要するに、「人のふり見て我がふり直せ」ですね。諺は偉大だ。(^^;
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息子に対してついつい怒ってしまうのは、理屈で割り切れない部分が日々の生活で絡んで来てしまうからだと思いますが、きっとそんな私の姿を見ながら育つ彼は、私の悪いところも良いところも吸収して育つのでしょう。
「良いところだけ吸収してくれ。」とは親の我がままですね。そう願わずにはいられませんが…。
悪いところを吸収して欲しくないなら、やはり、息子に映る自分を鏡として、より良く変わって行かなければなりませんね。
息子や妻のためにも、そしてなにより自分のためにも。
2005/2/3