【小説】月
俺は丸い水面を見ている。
洗面器に張った水は固い水晶の様に凝っている。
表面に丸くて白い月が写っている。
欠ける所の無い満月だ。
俺は、その時を待っている。時が固まったようにぴくりともしない鏡面を、じわじわとそれが動いていく。
と、それが唐突に欠けはじめた。
針の穴ほどの欠けが、徐々に広がっていく。
あっという間に、半分が闇に呑み込まれた。
さらに欠けが進んでいく。白い光はやせ衰え、細り、弧を描く線となり、
消えた。
俺はこの時を待っていたのだ。
俺は両の手を固い水面に近づける。焦ってはいけない。だが、急がねばならない。また月が現れる前に済ませなければ。
手は水面に近づく。あと10センチ。
あと5センチ。
あと1センチ。
あと3ミリ。
額に油汗がにじむ。背筋を冷たい汗が伝う。
俺は思いっきり息を吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。肺の中の空気を残らず吐き出す。見えない月が蠢く。
今だ。
俺は両手を、固い水面に突き立てる。
水がビクビクと震え、ぎゅっと引き締まり全力で異物に抵抗する。
俺は構わず手を突き入れる。
ズブリ、ズブリ。
やがて、水が弛緩する。だらりと、無生物に戻っていく。
波が静まっていく。俺は、ゆっくりと“それ”を持ち上げる。
“それ”は確かに、両手の中にある。
水は力無く、束縛の腕を放していく。
やがてそれは、水上に出る。
黒い、丸い、闇の固まり。
ボトボトと水が滴り落ちる。
と、手の中の“それ”の端に白い線が弧を描いて走る。
その線はどんどん太く、広くなっていく。弧は、やがて半円となり、楕円となりやがて、綺麗な球体となった。
表面の、無数の細かい穴や、黒いしみも御愛敬だ。
空を見ると、月は何処にも見当たらない。
俺は会心の笑みを浮かべる。
さて、これをどうしてくれよう。
“こんな事して只で済むと思うのですか?”
それが呟いた。
「なに?」
“早くもとに戻しなさい。今なら許してあげます。”
俺はむかついたので、“それ”を床に叩き付けた。
ぎゃっと、それが悲鳴を上げる。ちょっとヒビが入ったようだ。
俺はあわてて拾い上げる。
「生意気言うからこうなるんだ。いいか、お前は俺が捕まえたんだから、俺の好きにするんだ。」
“誰か助けて..。”
俺は更にヒビに指を当て力を入れる。
“それ”が声にならない悲鳴を上げる。
なんだか楽しくなってきた。
俺は部屋の机に行ってカッターナイフを取り上げる。
カチカチ..。
“それ”の光にカッターの刃が煌く。俺はそれを、“それ”に近づけ、あてがう。
ツゥ..。
観念したのか“それ”は何も言わなくなった。
つまらないので、刃を突き立てようと、力を込めると、何か呟いた。
“....。”
「何?」
“...来ました。”
「何が?」
“だから言ったんですよ。”
と、何かが背中から俺にかぶさってきた。それは、冷たく重い無数の腕で俺を捕らえ、包み込み、呑み込もうとする。
俺は逃げようともがいたが無駄だった。
それが黒い巨大な顎を開く。
意識が無くなる前に、ゴリッという音が聞こえた気がした。
完