【戯曲】夢幻回路2003 作:升孝一郎

・2003年 升孝一郎事務所で上演 :仙台演劇工房 10-BOX BOX-3

声 接続確認。…潜行を始めます。

暗転。音楽

シーン1

明転すると、一人の男が立っている。立ちながら眠っているようでもある。やがて、目覚める。そこは、殺風景な部屋である。箱が二つと、ラジカセが一台置いてある。男、ラジカセを操作してみる。反応無し。

男 ここはどこだ。

答えは無い。

男 誰かいないのか。

答えは無い。

男 何故こんなところにいるんだ。俺は。…俺は?

と、ラジカセから声がする。

声 おはよう。…聞こえなかったのかね?おはよう。

男 なんだこれ。

声 なんだこれだと?なんだその言い草は。君はあいさつもまともに出来ないのかね。

男 え?

声 おはよう。

男 お…おはよう

声 よろしい。

男 …テープだよな。

声 だったらどうなんだ?

男、辺りを見回す。

声 なにやってるんだ。

男 …どこかに監視カメラがあるんだろ。

声 無いよ。

男 無いわけない。

声 強情だな。なんなら巻き戻してごらん。

男、テープを巻戻し、再生してみる。さっきからの男のセリフが繰り返される。

声 どうだい、普通のテープだったろ。

男 なんなんだ。なんなんだ、これ。

声 君が目を覚ました時、伝えておきたいことがあったのでね、こんな形で失礼と思ったが残させてもらったんだ。

男 伝えておきたいこと?

声 そう。極めて重要なことだ、

男 ちょ、ちょっと待ってくれ。その前に、ここはどこなんだ?

声 その通り。

男 え?

声 それも、君の存在そのものに関わることだといっていいだろう。

男 いや、あの、俺が聞きたいことは

声 そうさ、存在そのものにさ。うふうふうふうふ。怯えてるね。大丈夫だよ愛しい人。僕の言う通りにすれば、なんの問題もないんだから。

男 …あー…

声 そうさ。僕は君を愛しているんだ。世界中のあらゆる人々はもちろん、君自身より愛してると言っていいだろう。

男 あの、俺、ノーマルだから男は嫌いなんですけど、

声 そんなことは気にしないよ。君のことを一番理解しているのは僕だ。壊れてしまった今でも、君を見捨てたりしないよ。

男 壊れてって、どういうことだ。

声 そのままの意味さ。忘れてしまったのかい?

男 …。

声 そうだね。その方がいい。

男 俺は狂ってない。

声 それは、この際問題じゃない。

男 俺は狂ってない。壊れてない。

声 そうさ。君は狂ってないし壊れてない。

男 さっき、狂ってるって言ったばかりじゃないか!

声 嘘だよ。君をからかっただけさ。僕は君の信者だ。崇拝者だ。僕には君が必要だ。

男 馬鹿にするな!!

声 おお、馬鹿になどしていません、麗しの君よ。あなた無しでは、私は一瞬たりとも生きては行けません。だから、だからどうかここに、私の傍にいて下さいませ。いつまでも。とこしえに。

男 は?

声 うふうふうふうふ。話が逸れまくって申し訳なかったね。そう、それが君に伝えたかったことさ。ここを出たりしない方がいいよと伝えたかったんだ。さもないと、君と言う存在に極めて危険なことがおこる可能性があるからね。

男 存在の危機ってなんだ。

声 そう、例えば。君の名前はなんていうか覚えているかい?

男 え?

声 名前だよ。人には一つ以上名前があるものだ。君の名前はなんだ?

男 俺は…俺は…え?

声 ほら、これさ。

男 え?な、なんだ?

声 君は今、極めて危険な状態にある。あっさりと致命傷を受けて、この世界から消え去る可能性すらある。それを避けるには、ここを出ないことだ。ここにいれば安全だ。

男 なんのことだ。あんたはさっきからなにを言ってるんだ。

声 それもわからなくていいよ。下手にわかるとかえって危険だ。さ、伝言は終りだ。僕の言いつけ、しっかりと守っておくれよ、僕の愛しい人。うふうふうふうふうふうふうふうふうふうふうふうふうふ…。

声、唐突に切れる。

男 おい!!…おい!!聞いているんだろ?…あんたの言葉は疑問だらけだ。納得できる理由説明もない。…はっきり言って、訳わかんないんだよ!!…こんな部屋にずっといろって?いてどうしろって言うんだ。こんな、なにもない部屋でオナニーにでもふけってろって言うのか?え!?…おい!!…聞こえてるんだろ。返事しろ!!

声、唐突に始まる。

声 キヲツケロキヲツケロキヲツケロキヲツケロ(いつまでも繰り返す。)

男 気をつけろ?

と、女が入って来てラジカセを止める。

女 目が覚めたか。

男 …あんたは?

と、女ツカツカと近づき男を張り倒す。

女 質問をしているのはこっちだ。自分の立場をきちんとわきまえて頂きたいものだ。

男 立場?

女 君の部隊は全滅した。一人も降伏すること無く、全員戦死した。気絶していた君を除いて。…どうだ。思い出したか。

男 全滅…したのか。

女 そうだ。

男 何故、俺を殺さなかったんだ。

女 君は証人だ。君の部隊が行った非人道的な行為についての証言をしてもらう。

男 俺たちが何をした。

女 君達は、幾つかの村落で掠奪を欲しいままにし、全村民を皆殺しにし、家々を焼払った罪で告訴されている。罪を認めるか。

男 そんなことはしていない。…してたとしても、戦闘の範囲内でのことだ。それを罪だと言うのなら、戦場に罪人でない人間などいるものか。

女 残念ながら、その主張は通らない。君達の虐殺行為については反証が行える被害者が残っていない。だから君にも反証は認められない。そうでなければ平等ではない。

男 …つまり、…もういいよ。

女 よろしい。では、判決を言い渡す。被告等の犯した非人道的な行為に対し死刑を言い渡す。

男 そうか。

女 死刑だ。お前は死刑だ。

男 あんたみたいな奴に言われたって怖くないよ。いいからもう行ってくれ。殺す準備が出来たら呼びに来れば良い。

女、男を鞭で打つ。何度も何度も打ちつける。

女 何だその態度は。それが死を宣告された人間の態度か。

男 …そうだよ。

女 ふざけるな。

女、男を鞭で打つ。

男 何をそんなに必死になっているんだ。

女 なに?

男 俺たちがあの村でしたことを教えてやろうか。

女 …。

男 なにもしなかったのさ。

女 嘘をつくな。

男 嘘じゃない。反証する人間はいないんだろ。なら黙って聞いておけよ。…俺たちがあの村についた時、俺たちの武器も食料も尽きかけていた。もし村人達が少しでも本気で抵抗して来たら、俺たちの終りはもっと早かった。だが、奴等は抵抗しなかった。俺たちがガチガチに緊張しながら村に入るのを黙って見ていた。俺たちが村の中心に達した時、村人の一人が手にしたナイフで自分の子供を刺し、自分ののどを切り裂いた。別な村人は銃を口に咥えて引き金を引いた。それがきっかけだった。死神の鎌に薙倒される様に村人達はつぎつぎ死んでいった。何人かが家々に火を放った。まるでサイレントムービーのようだった。俺たちは何かに取り憑かれたようにそれを見ていることしか出来なかった。全てが終ったあと、あんた達の部隊が俺たちを取り囲み、蹂躙した。あとはあんた達の方が知ってるだろ。

女 嘘だ…そんなことあるはず無い。

男 あったんだから仕方無い。

女 そんな偽証をして、罪が軽くなるとでも思っているのか。

男 事実を述べただけだ。

女 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

男 あんたには、あの村人達の気持ちがわからないんだな。あいつらは、やっと終れたんだよ。

女 なに?

男 あいつらだけじゃない、俺も、たぶんあんたも、心の底でずっと終りを待っているんだ。俺たちはもっともっと早い段階で終るはずだった。人の一生なんて終りの一瞬だけが意味がある。栄光の勝利でも、屈辱の敗北でも。…終りが来ない一生なんて苦痛なだけだ。

女 それはお前だけの考えだ。村人達は恐怖していたのだ。お前等に象徴される暴力を恐れ、逃れられないことを知って絶望し、集団自決に踏み切ったのだ。お前達が侵攻しなければ村人達の死は無かった。それは事実だ。

男 逃げようはあったさ。俺たちに追撃する余裕なんか無かったんだからな。でも、あいつ等は逃げなかった。俺たちから逃げず、世界から逃げたんだ。

女 詭弁だ。村から出て、彼らが無事生き延びられる保証など無い。

男 だからって、死ぬことは無かった。

女 もういい。不愉快だ。

男 まあ、いいさ。死刑にしたらいい。別にいいんだ。

女 …。

女、銃を取り出す。

女 逃げないのか。

男 は?

女 この独房に鍵は無い。ここだけじゃなく、この収容所中に鍵は一つしか無い。

男 へえ。…一つってのは?

女 所長の部屋の…トイレだけだ。出て行こうと思えばすぐに行けるぞ。

男 何故、鍵をかけないんだ?

女 無駄だからだ。…ここにいる奴は、誰も逃げようとしない。

男 そうか…そうだろうな。

女 逃げないのか。

男 逃げてどうする。

女 生きればいい。

男 生きてどうする。

女 そんなこと、お前が考えろ。

男 なら、生きろなんて言うな。

女 …お前もか。

女、男に銃を突き付ける。

女 死ぬのは怖くないのか。

男 …怖くないと言えば嘘だろう。でも、それにあらがうのは無駄なことだ。無駄な生から無駄な死へほんの一歩移るだけだ。全ては無駄だ。生きていることと死んでることと、どんな差があるっていうんだ?

女 生も死も同じか。

男 少なくとも奴等にとってはそうだったんだろう。

女 お前の死はどうなんだ。

男 同じさ。

女 …なら、これも同じか?

女、拳銃を自分に突き付ける。

男 …なにを考えているんだ。

女 永遠に、苦しめ。

暗転。銃声。

シーン2

明転。と、女が一人で座っている。ゆっくりと目を開ける。

女 …どこへ行ったのかな。

女、注意深く周位を見回し、立ち上がる。と、ラジカセから声。

声 貴様は誰だ。貴様は誰だ。

女 私は私です。

声 嘘つけ嘘つけ。お前は私じゃない。私じゃない。

女 いいえ、私です。

声 なにをする気だ。ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロ。

女 なにもしません。

声 ウソダウソダヤメロヤメロウソダウソダヤメロヤメロ。

女 本当です。危険なことなんてなにもありません。むしろ、あなたを救うためです。

声 ウソダウソダヤメロヤメロウソダウソダヤメロヤメロ。

女 信じてください。もう、時間が無いんです。

声 ウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダウソダ…。

男、出て来て何やら動物を宥めるようにラジカセを宥める。

男 …よーしよしよし。よーしよしよし。怖くない。怖くない。う。

ラジカセの声が止まる。ラジカセに噛まれたらしい。

男 ほら、怖くない。…怯えていただけなんだよね。

女 怯えるんですか。

男 当り前じゃありませんか。この子はこう見えて結構繊細なんです。よしよし、…さて、よくおいでくださいました。旦那さんの主治医のマーです。マーと呼んでください。

女 よろしくお願いします。ええと、マー先生。

男 さて、今日来ていただいたのは他でもありません。先日、検診をさせていただいた結果をお伝えしたいと思いまして…。

女 なにか、悪いところがあったんでしょうか。

男 その前に、旦那さん、何日か前にネコの泣き声を真似しませんでしたか?

女 ネコ…ですか?

男 ええ。(やって見せる。)

女 …したかもしれません。あ、一緒にサスペンスドラマ見てて、家政婦が出て来た時、

男 しましたか。

女 ええ。また見たんだニャアって。

男 そうですか。

女 それがなにか?

男 …ええ、まあ。その、

女 はい。

男 旦那さんの血液中からHWウィルスが検出されました。

女 HWウィルス?

男 はい。

女 …特に具合悪そうじゃありませんでしたけど。

男 そうでしょうね。

女 どんなウィルスなんですか?

男、写真を見せる。

男 これがハローワールド、略してHWウィルスです。

女、手でその形を表現する。

女 こんな形ですか。

男 いえ、こんな形です。で、こうして動くようです。

男、その形を作って見せる。

女 動くんですか。

男 動くんです。

女も、動きをまねする。男、咳払い。

男 ええと、HWウィルスに感染した人が発症すると、まず、神経系の混乱が始まります。自分の意識が身体からずれ、世界との間に厚い壁が出来たように感じるのだそうです。外部の環境の変化に対する反応が出来なくなり、全てに対して虚無的になります。

女 精神に作用するんですか?

男 正格には、精神に作用するホルモンの分泌障害を引き起こすのです。発症から一両日中に、約95%が自己破壊行動に出るとされてます。ありていに言えば、強度の欝病を引き起こすウィルスと言えるでしょうね。

女 そんな…そんなウィルスがあるんですか。

男 はい。

女 あの、治せるんですか?

男 ウィルスを駆逐できるかと言う質問なら、不可能です。現在、このウィルスを駆逐できる薬は存在しません。

間。

女 …助からないんですか。死んじゃうんですか。

男 あなた次第ですね。あ、すいません。

男、くつを片方脱ぐとそれを携帯のように耳に当てる。

男 ハイもしもし。…ああ、これはどうも。…そうですか。それは賢明です。では、入院の準備をしてこちらにおいで下さい。…ええ、はい。では。

男、携帯を切り、靴を匂ってみて、また穿く。

女 私次第っていうのはどういうことですか?

男 その前に…あなたは秘密が守れますか?

女 秘密ですか。

男 ええ。

女 守ります。守りますから、どうしたら助かるのか教えて下さい。

男 意志を持ったウィルスというのを、あなたは信じますか。

女 意志…ですか?

男 そうです。HWウィルスは意志を持つウィルスなのです。

女 …なにを考えているんですか。そのウィルスは。

男 新しい世界を築くことです。

女 新しい…世界。

男 ええ。

女 どんな世界を、…まさか人間に取って変わろうとか。

男 凄い夢想ですね。でも違います。その世界でも、主役は人間です。言ってしまいましょう。彼らは人間の間引きをするのです。新しい世界に残るべき人間だけを残して。

女 …そんな…おかしいですよ、そんなの。

男 ええ、私もおかしいと思います。でも、事実なんです。

女 何故、意志を持ってるなんて断言できるんですか。

男 そう言う風に生み出されたからです。

女 え?

男 作られたウィルスなんですよ。これは。

男、さっきの動きをして見せる。

女 誰が。誰がこんなものを作ったんですか!?

男 それはこの際あまり問題じゃありません。今後半年の間に、世界中のほぼ全ての人々に感染すると思われます。感染を防ぐ手段はありません。遅からず、あなたも感染するでしょう。私もね。そして、発症の三日前にネコの泣き真似が出ます。そのため中国などでは狂猫病などと呼ばれ隔離治療が行われてますが、感染予防にあまり効果が無いようです。

女 …じゃあ、あの、

男 ただ、生き残る方法はあるんです。対処療法ですが。

女 …本当ですか。

男 ええ。そして、おそらくそれがこのウィルスの作り手達の目的だったと思われます。

女 どうすればいいんですか!

男 笑うんです。

女 …笑う…んですか?

男 そうです。

女、微妙な笑みを見せる。

男 違います。スマイルではなくラッフィング。声を出して笑うんです。笑うことによる、免疫物質や副腎皮質ホルモンなどの物質の分泌が活性化することは実験で確かめられてますが、このウィルスの活動を抑制する物質も分泌されているらしいのです。それが見付かれば、効果的な治療が可能でしょうが、それまでは、対処療法に頼るよりありません。

女 つまり、どうすればいいんでしょうか。

男 ですから、笑うんです。

女 笑うって。

男 だから、がっはっはと声を出して笑うんです。笑う内は、発症を防げます。この治療法を予言していた古の言い伝えが日本にはありました。笑う門には福来たる。昔の人は偉大ですね。

女 どうやって笑えばいいんですか。

男 だから、声を出して、

女 それはわかってます。そんなこと言ってるんじゃないんです。

男 じゃあ、なにが問題なんです。

女 あの人、…笑わないんです。

男 …笑わないんですか。

女 ええ。

男 バラエティ番組とか、落語とか見てもですか?

女 見ません。家に居る時はずっとパソコンにばっかり向かってます。時々、何か見て笑ってるようですけど、こんなんなんです。

女、引きつった溜め息みたいな笑みを見せる。

男 それじゃあ…ねえ。じゃあ、今日の帰りに薬局でビデオをお出ししますから、それを旦那さんに、

女 駄目です。見ません。見ても、突っこみが甘いとか、ネタが古臭い、とか難しいこと言って難しい顔してるのが落ちです。

男 そうですか…笑いに餓えている地域では、流行が本格化した際の被害が大きくなるだろうと言われています。こういったものは、地域の気風のようなものがありますから、一朝一夕でどうすることも出来ません。しかし、生き延びるためには、それを撃ち破る必要があるのです。私達の病院では、そのためのカリキュラムを用意しています。どうでしょうか?旦那さんにそれを受けて頂いては?

女 …難しいと思います。…どうしたらいいんでしょうにゃあ。

間。

男 今、

女 え…今のが、そうなんですにゃあ。

男 奥さん。

女 私、私、

男 大丈夫です。笑うんです。笑うんです。

女、無理矢理笑う。男も笑って見せる。

女 無理です。理由も無しに笑えません。

男 じゃあ、これでどうでしょう。ベストセラーになったジョーク集のジョークです。読んでみて下さい。

女 NASAの科学者が大統領に報告した。やりました!ついに火星に知的生命体を発見しました!すると大統領が言いました。よくやった。では、今度は議会議員の中から知的生命体を見つけてくれたまえ。その方が容易いだろ。

男、笑う。

男 あの、これはつまり、知的な人が議会にはいないということで、

女 先生、面白くありません。

男 じゃ、これはどうですか?

女 倦怠期のユダヤ人夫婦がラビに相談した。ラビが言った。若い屈強な青年にあなた達の営みをセコンドさせるのです。早速二人はそうしてみた。興奮はしたものの妻は悦びを味わえなかった。そこでもう一度ラビに相談してみた。ラビが言った。なら選手交替してあなたがセコンドに徹してみなさい。選手交替。屈強な若者が奮闘すると、妻は絶頂に達することが出来た。夫が言う。どうだ若僧、セコンドって言うのはこうやるんだ。

男、笑う。

男 ええと、これはユダヤネタですね。ユダヤ人にとってユダヤ教の司祭であるラビと言うのは絶体で、

女 笑えませんにゃあ。

男 駄目です。笑うんです!にゃあ。

女 …先生。ふにゃあ。

男、女からジョーク集を取り、読む。

男 子沢山の中国人が、旅行中に子どもを一人見失ってしまった。帰って来てそれを知り、溜め息ついて一言。あー、また作らなくちゃ。

男、笑う。が、ジョーク集を打ち捨てる。

男 笑えるかー!!

女、気がつくとネコの真似をしつつ、虚無的な表情になっていく。

男 奥さん!駄目です。笑うんです。

男、笑う。女、無理矢理笑う。ひたすら笑う。空間、暗く怖くなっていく。笑いは中味の無い、辛いものになっていく。やがて、二人疲れ果て崩れ落ち、虚無的な表情に。

男 にゃあ。

女 にゃあ。

男 にゃあ。

女 にゃあ。

二人、ネコの泣き声を続ける。暗転。

シーン3

椅子に座る男。女がコートを来て入って来る。

女 ここ、よろしいですか?

男 え?…あ、どうぞどうぞ。

女 すいません。

男、上体を起こし、女、箱に座る。と、汽笛、汽車の出発音。二人は汽車に乗っているらしい。間。

女 …もしかして、ザリナン教授ではありませんか?

男 え?

女 やっぱり!こんなところでお逢いできるなんて光栄です。

男 いえ、違います違います。

女 どちらに行かれるんですか?

男 いえ、その、

女 あ。

女、急に息をひそめ辺りを見回す。

女 すいません。亡命中なんでしたよね。

男 いや、気にしなくていいですから。

女 私、先生の著書は大好きで、全部読んでます。過去の政治制度から現代を鋭く批判した論文…あれ、ええと、なんでしたっけ…あれ好きなんです。何回も読み直しました。

男 ああ…そうですか。

女 素敵ですよね。なんて言うんでしょう。理論家の先生にこんなことを言うのはどうかと思いますけど、とてもロマンチックだなぁって思いました。

男 ロマンチックですか。

女 ええ。歴史という人類が描いてきた絵を幾重にも重ね合わせたコラージュを見ているみたいでした。それでいて、現代を見つめる視線はあくまで冷たく鋭くて、

男 ロマンなんて求めたことはありません。

間。

女 …ごめんなさい。

男 いえ、いいんです。すいません。

女 あ、あの、ロマンチックって言っても理性的でじゃないと言ったわけじゃなくて、

男 わかってます。わかってますから。

女 いえあの、私が言いたかったのは、素敵だなって。とにかく、先生の書く文章はとても素敵で、

男 もういいですから。

女 いえ、よくありません。本当にごめんなさい。私、言葉知らないんです。馬鹿なんです。無知なんです。

男 そんなことはありません。

女 いえ、先生は知らないんです。私がどれだけ脳無しか。

女、男の手を握る。

女 先生。お願いです。私を導いてください。スポンジ脳の考え無しの私を、先生の知性の光で導いてください。

男 …しかし、私は亡命中なんです。

女 わかってます。私、先生のお供をいたします。一人の旅より、二人の旅の方が安全です。私が先生を守ります。私、少しですけどお金も持っているんです。だから、お願いします。連れてってください。先生の弟子にしてください。

男 …だめです。危険です。それに、親御さんが何と言うか。

女 大丈夫です。うちの親は認めてくれます。

男 …遊びじゃないですよ。

女 わかってます。お願いします。

男 …。

女 先生。

男 わかりました。一緒に旅をしましょう。あなたがいいと言うところまで。

女 ありがとうございます!!

男 とにかく、…次の駅で西行きの列車に乗り換えましょう。西の方がいくらか安全ですから。

女 はい!

男 ところで、…どうしましょうか。つまり、私達の関係は。

女 関係、ですか?

男 ええ。師弟関係と言うのでは、ばれないとも限りません。その…恋人。いやいや、夫婦と言うのはどうでしょうか。

女 夫婦ですか。

男 あ、嫌ならいいんです。嫌ですよね。

女 いえ、そんなことは無いです。

男 いえ、やめておきましょう。夫婦って言うのは不自然ですよね。ええと、

女 私が秘書と言うのはどうでしょうか。

男 秘書ですか。

女 そうです。先生がボスなんです。どうですか。

男 子供っぽいですね。

女 そうですけど…。

男 いいです。あなたは秘書とボスの関係がいいんですね。

女 あ、でも、どうしてもと言うわけじゃないんです。先生がお望みでしたら、その…夫婦と言うことでも私は構いません。

男 構うとか構いませんとかじゃないんですこういうのは。心なんです。

女 え?

男 いいですか、何故私達は間柄を偽称するんですか。私がザリナン何某であるとばれないためです。私の身分がばれれば関係の無いはずのあなたまで迷惑を被ります。あなたを守るためには、私を守る必要があり、そのために関係を偽るのです。構わないです。とかいう気持ちではいざという時、ボロが出かねません。だってそうでしょ。例えば、この汽車の車掌が私達を怪しんだとします。で、私達にそれとなく関係性を訊いてくるでしょう。一緒の時はなんとかなります。でも、あなたが一人の時はどうですか?あなたがトイレに行く。出て来たところを狙って車掌があなたに尋ねる。あなた達はどんな関係なんですか?さあどう答えます。

女 え…あの、私は、…どっちでしたっけ。

男 はい。もう駄目です。次の駅に着いた時には憲兵が私達を取り囲んでいることでしょう。いや、その前にこの汽車に乗っている秘密警察員が私を暗殺するかも知れない。あなたの、一瞬の戸惑いのせいでです。

女 すいません。

男 …いいんです。でも、そういうことなんです。私達自身が互いの関係を信じ切ることが出来なければ、そうなるんです。

女 すいません。

男 さ、どうしましょう。どんな関係が私達にピッタリくるでしょうか。

女 はい。

男 堅苦しく考えることはありません。こういうことは、むしろインスピレーションに頼った方がいいんです。

女 ええ、その、じゃあ

男 私は、男と女の組み合せの場合、それなりの関係の方が怪しまれにくいと思います。

女 それなりと言うと?

男 だから、さっき言ったじゃないですか。

女 …じゃあ、夫婦で。

男 じゃあ?

女 いえ。夫婦で行きましょう。それがいいと思います。

男 無理してませんか?

女 いえ。むしろ、光栄です。

男 そうですか。…少し歳が離れ過ぎて見えませんか?大丈夫でしょうか。

女 …大丈夫じゃないでしょうか。

男 そうですか。そうですね。

男、そそくさと女の隣に座る。

女 あの、

男 夫婦が離れて座っていてはおかしいでしょ。

男、女の手を握る。沈黙。

女 あ。

男 な、なんですか。

女 すいません。お腹空きませんか。私、なにか買って来ます。

男 大丈夫です。お腹空いてません。

女 あ、でも、なにか飲み物かなにか。

男 いいから、ここに座ってなさい。

女 …はい。

男 あなたは一人で歩くべきではない。買い物する時は私も一緒に行きます。

女 でも、その方が目立つんじゃないでしょうか。

男 私に教えを請うていたのではないのですか、あなたは。それともあれは嘘ですか。いつでも一緒の夫婦はいます。おかしいことじゃない。むしろ、私とあなたの年令差から見たらその方が異和感が無い。私はあなたの夫でありかつ庇護者なんです。そういう年令差なんです。どうです。そこまで考えましたか。

女 いえ。でも、

男 いいですから。お腹が空いたら一緒に行きましょう。いいですね。

女 はい。

間。

男 怒ってるんですか。

女 いいえ。

男 一緒に旅をしたいと言ったのはあなたですよ。

女 怒ってませんから。

間。

男 なら、何故黙っているんですか。黙っているとかえって不自然です。

女 何を話せばいいのでしょうか。

男 あなたが話したいことを、あなたらしい言葉で話せばいいんです。

女 …先生は、

男 先生じゃない。

女 あ、すいません。あ、…なんて呼んだらいいんでしょうか。

男 え?…あなた。いや、軽すぎるな。旦那様。意味合いが違うな。お前さん。時代錯誤だな。

女 普通に名前で呼んではどうでしょうか。

男 名前?

女 ええ、私のことはチェシカと呼んでください。

男 私は、

女 ザリナンとお呼びします。あ!

男 意味がありませんね。

女 すみません。

男 そう…こういうのはどうでしょうか。もちろんあなたが良ければですが。

女 なんですか?

男 …その、ダーリンというのは。私はあなたをチェシカと呼びます。どうですか?

女 ダーリン。

男 いや、あくまで侯補ですが。

女 私は構いませんが。

男 また!あなたはすぐそれだ。私が、遊び半分にこんなこと言ってると思ってますね。

女 すみません。

男 そうじゃありません。私は、謝って欲しいんじゃないんです。細心の注意を払って欲しいだけなんです。私達を取り囲む情况は極めて緊迫した危険な情况なんです。あなたが、

男、急に口をつぐみ何食わぬ顔を装う。車掌が来たらしい。

女 …先生?

男 そう、先生。先生は元気でしょうかね。

女 え?先生は、痛!!

男、女の太股をつねる。

男 え、いた。いましたか。どこにいたんでしょうか。いませんよ。え?

男、車掌に注意される。

男 うるさい。…すいません。はい。静かにします。はい?…あ、切符ですか。

男、ヘラヘラと笑いながら切符を取り出し、見せる。

男 ほら、君も出したまえ。

女、男に促されて切符を出す。明かに違う切符。

女 ええ、次の駅で東線に乗り換え…いえ、西、西ですよね?(男に)

男 ええ。西です。西に乗り換えるんです。

車掌、怪しんでいる。

男 え?…観光です。世界で一番高い寺院を見たくて…見に行けないんですか。何故。…封鎖、ですか。い、いつまでですか?…でも、急ぐ用事があるんです。本当に急ぐんです。なあ、僕達は急ぐよな。

女 はい、先生。

間。

男 違いますよ。先生じゃないです。何を言ってるんだ君は。

女 すいません。そうですね。違います。

男 え?…どちらからって、南からです。南から逃げて、旅して来たんです。旅です。観光です。そうだよな。

女 そうです。色々見ました。寺院とか。

男 …南に寺院は無い。

女 …え?あの、じゃあなんだったんでしょうか。

男 ええ、その…図書館。図書館です。あと、役所です。

女 あ、そうですね。古ーい図書館と、

男 違う、最新のデザインの奴だよ。

女 そうですそうです。勘違いしてました。だ、ダーリン。

男 しょうがないな、チェ…チェシカ。

二人、こわばった微笑みを見せる。車掌、怪しみながら去って行く。居なくなると、二人、脱力。

男 なにやってるんだ。なにやってるんだ君は!だから…だから言ってたじゃないか。細心の注意を払って欲しいんだって。

女 でも、

男 でもじゃない!!おそらく、あの車掌は疑いを持った。秘密警察を呼びに行ったはずだ。…もうおしまいだ。

女 そうでしょうか。

男 そうでしょうか、だって?そうに決まってるじゃないか。さっきの会話のどこがリアルだったって言うんだ。まったくとんちんかんな答えばっかりしやがって。

女 でもそれは、

男 わかってる。僕が悪いって言いたいんだろ。僕がきちんと君に言うべきセリフを伝えるべきだったって。僕が無能だったからこういう事になったと言いたいんだろ。

女 そんなこと、

男 思ってる。君は思っているんだ。だけど、それを言ったら何故君は僕につきまとう事にしたんだ。結局、そこに行きつくんだ。君が、変な好奇心を僕に抱かなければこんなことにはならなかったんだ。

女 …そうです。私が悪いんです。

男 …そうやって、反省してるふりして。

女 ふりじゃありません。

男 君はすぐすいませんすいません、かまいませんかまいません、すいませんすいません、かまいませんかまいません、もううんざりだ。放っておいてくれ!!

女、立ち上がる。

女 わかりました。…ご迷惑お掛けしました。

間。女、去ろうとする。と、男、女にすがりつく。

男 いや、待って。待ってくれ。

女 …いえ、もう、おそばにいることはあきらめます。

男 あきらめなくて良い。あきらめないでくれ。え、おかしいじゃないか。ここであきらめるって事は、さっき君が言ったことは全て嘘だったってことだよ。嘘つきになるよ。

女 仕方無いです。

男 だから駄目なんだ。嘘はついちゃいけない。一度言ったことは嘘にしないために努力するべきなんだ。

女 だって、先生が。

男 言ったさ。うんざりだって。でもそれは、仕様が無いじゃないか。生命の危機を招いたんだよ。そうでしょ?

女 それだって、私がいなければ良かったんでしょ。

男 ちがう、君は悪くない。悪いのは僕だ。そうだ。全部、僕が悪いんだ。

女 そんなことありません。

男 そうやって、僕を追いつめるな!じゃあ、どうしろって言うんだ。君の無実を証明するために何をしたら君は納得するんだ。

女 私はなにも、

男 嘘だ。嘘だ。嘘つきだ。なにもかも、君に捧げれば良いのか。そうなんだろ。

女 先生。私の話を聞いてください。

男、窓を開ける。大きくなる走行音。飛び降りようとする男、羽交い締めにする女。

女 先生!駄目です!!やめてください!!先生!!

女、無理矢理男を引きもどす。男、床に座り込む。女の膝に伏して泣き出す。

男 頼む。もう捨てないでくれ。助けてくれ。僕は死んでもいいんだ。だから、僕を責めないでくれ。お願いだ。

女 …わかりました。先生、わかりました。

暗くなる。女、男の頭を抱く。汽車の走行音大きくなって行き、唐突に切れる。

シーン4

ローソクがともされる。一つ、二つ…。黒い段ボール箱がローソクの灯りに浮かび上がる。ローソクを点けていたのは男。床に、パンと大福のようなお菓子とお茶がお盆に乗って置いてある。全てを点け終ると、黒い箱に触れる男。と、箱の中から女の声。

女 触らないで。

男、離れる。

男 ご、ごめん。

女 なに。

男 お、おはよう。もう、朝だよ。

女 そう。

男 …今日はとても、晴れて、いい天気だよ。こんなにいい天気は久しぶりだ。…うん、すごく青く晴れて、雲一つ無い、

女 だから、なに。

男 だ、だから、ちょっと外に出てみないか。

女 いや。

男 …でも、すっごく青いんだよ。青の上の青っていうくらい青いんだよ。

女 嘘つき。

男 い、いや、青いのは本当だよ。…いや、いいんだ。無理にどうしろこうしろってわけじゃないんだから。

女 なら、始めから言わなきゃいいでしょ。やっぱり嘘つきじゃない。

男 …そう。そうだね。嘘だね。

間。

男 あの、お腹空いてる?

女 …別に。

男 …朝ごはんにパン

女 いらない。

男 いや、ごはんはいいんだ。それと、もう一つ用意したんだ。…これ。辛子大福。すごく探したよー。なかなか見付からなくてさ。前に食べたいって言ってたじゃない。だから、

女 冗談だったんだけど。

男 …いやいや、でもね、あったんだよ。けっこういけるよ、これ。甘さと辛さのアンマッチの妙って言うのかな。

女 いらない。

男 でも、一度…

女 いらない。

間。

男 昨日、『新世紀預言書』を読んでみたんだけど、なかなかいい事書いてるよね、先生って。…”亡びは人の心の中から始まる。”って、本当にそうだなって思ったんだ。だってやっぱり、まず心が根本だからね、人の生活って言うのは。我思うゆえに我有りって誰が言ったんだっけ?…誰だったかな。ルターか。ルターだね。

女 コギト・エルゴ・スム。デカルト。

男 そう!コ、コギトだ。

女 デカルト。我思うゆえに我有りはフランス語でコギト・エルゴ・スム。

男 す、すごいね。そうなんだ。

女 あなたが馬鹿なだけでしょ。

男 う、うん。やっぱり馬鹿だね。つくづくそう思う。

女 馬鹿には理解できないから、もう読まないでいいから。

男 …でも、僕も理解しようと思ってさ、

女 馬鹿なんでしょ。

男 いや、わかるよ。わかりやすいもの。

女 また嘘だ。

男 …いや、これは、

女 先生の本を理解できたっていうのなら、なんでそうやって私の邪魔をするわけ?

男 邪魔って…邪魔をしてるわけじゃなくて、

女 邪魔。欝陶しいから、もう二度とこの箱に近づかないで。お願いします。

男 …それは、

女 お願いします。お願いします。もう、放っておいて。私の幸せを祈るなら、もう二度と私に近づかないで、追善供養の祈りを捧げて下さい。先生のお言葉を理解できたって言うなら、そうして下さい。お願いします。

男 あのね、

女 やっぱり嘘だったんだ。嘘つきは嫌い。

男 …先生は、どうなんだ。

女 先生は嘘をつきません。先生のお言葉はいつも真実です。

男 インディアンみたいだね。

女 ばーか。

間。

男 なんで。なんでなんだ?…なんでお前が、ミイラにならなきゃいけないんだ。

女 …まだいたの。

男 これまでの苦労は一体なんだったんだ!!馬鹿じゃないか。まるで馬鹿じゃないか!

女 馬鹿でしょ。

男 …あの女を、もっと早く追い出せば、こんなことには、

女 関係ないよ。

男 あの女にたぶらかされたからだ。それしか考えられない。

女 そう考えておけば。

男 …じゃあ、なぜなんだ。納得できるように説明してくれ。

女 何度も説明してるはずだけど。

男 そうだけど…でも、やっぱりわからないんだ。納得できないんだ。

女 馬鹿だから納得できない。納得できないから説明しても無駄。以上。

男 逃げるな!それは逃げだ!

女 逃げてるのはそっちでしょ。

男 逃げない。もう逃げないから。

女 いいです。もういいですから。逃げて下さい。ずっとずーっと遠くへ逃げて下さい。で、私を放っておいて下さい。

男 …どうしてミイラなんだ。同じ死ぬんだって、他にいくらでも方法はあるじゃないか。

女 即身成仏。

男 同じだ。

女 全然違います。

男 …ふざけているとか当てつけなら、もういい加減にしてくれ。このままじゃ、本当に死んでしまう。

女 死にません。

男 死ぬんだよ。この間、お前とおなじことをしていて死んだ人のことを新聞でやっていた。その人は十日間で死んだ。カラカラに干からびて、黒ずんで、顔なんか崩れて見られたものじゃなかったって書いてあった。お前もそうなるんだぞ。

女 その人は失敗したの。先生のお薬を飲み忘れたんでしょ。

男 あれはただのビタミン剤だって書いてあった。

女 それは嘘です。それからその人は、たぶん未練が残ってたんでしょ。

男 …お前には未練が無いのか?

女 …無い。

男 嘘だ。それこそ嘘だ。いざと言う時、未練の残らない人間なんかいるもんか。

女 あなたの基準で計らないでください。その人だって、先生を信じ続けていれば、そんなことになるはず無かったのにね。

男 なんでそう思えるんだ。

女 だって先生は真実しか言わないもの。

男 何故、真実だと言えるんだ。

女 真実だと私が感じたからよ。

男 その実感が間違いだとは思わないのか。

女 その実感が間違いなら、間違いだと思った実感だって間違いだから、間違いのはずが無い。

男 …それは屁理屈だ。

女 屁理屈だって理屈です。

男 あんな奴、ペテン師じゃないか。真実っぽいことを言って見せてるだけで、本当は嘘ばっかり言ってるんだぞ。

女 …これまで、私があなたを信じられる様にするために、どんな努力を払ってくれた?例え、みんなにとって嘘だったとしても、その努力だけで十分信じる価値はあるわ。あなたの言葉より。

男 …お前が信じてくれないから、信じようとしてくれないから、全てが嘘になるんだ。

女 私のせいなんだ。

男 そうじゃない、そうじゃないけど。…じゃあ、どうしたらいいんだ。信じてもらえるにはどうしたらいいんだ。

女 それは私が教えることなの?教えたらその通りにするんだ。で、それで終り。あなたはなにも変わらない。あなたは目覚めない。

男 目覚める。目覚めるから。…努力するから。

女 無理です。

間。男、箱に近づき箱を開けようとする。

女 触らないでって言ってるでしょ!!

男 でも、これしか無いじゃないか!!

女 無理矢理やったら、死ぬからね。

男、離れる。

男 …でも、このままでも死ぬじゃないか。

女 即身成仏だって言ったでしょ。もういい。

間。男、笑い出す。

女 おかしくなった。

男、ひたすら笑い続ける。

女 うるさい。…うるさい。うるさい。…うるさーい!!

男、笑いから、泣きへ。やがて、ぼうっとする。

男 …昔読んだ本に、こんな話があったんだ。火星が最低限の改造を施されて空気だけは何とかなったけど水が無くて、砂漠のままでやがて放置された未来が舞台なんだ。そこは地球の犯罪者を放り込む処刑場になっているんだ。そこに送られて来る犯罪者達には、一つの球が渡される。それは玉子みたいな形をしていて、上にボタンが付いていて、下半分がコップになっている。そのボタンを押すと空気中の微量な水分を圧縮してコップ一杯の水を作ってくれるんだ。乾燥食料をその水に入れれば、栄養豊富なスープが出来る。でも、その球をある回数使うと、爆発するんだ。しかも、その回数は犯罪者には伝えられない。受刑者は、いつ来るかも知れない死におびえながら、その球を使い続けるしかないんだ。ある人は、罪が重い程早いと言う。ある人は、罪が重い程長いと言う。ある人は、みんな同じ回数だと言うし、ある人は完全にランダムだと言う。でも、火星から帰った人はいないし、死の回数がわかった瞬間には死んでるんだから本当のところはわかるはずが無いんだ。主人公はなんと言う理由もなく人を殺してしまった男で、男は他の受刑者のように、びくびく怯えながらコップ一杯の水にすがり続けるんだけど、ある時気がつくんだ。

女 …なにに気がついたの?

男 …なにも変わらないんだってことに気がつくんだ。地球で生活してることと変わらないんだって。そう気がついた途端、男はボタンを押すのが怖くなくなるんだ。

間。男、見えない玉子のボタンを押す。と、立ち上がり箱を無理矢理こじ開けると、中から女を引きずり出す。女、箱に戻ろうとするが、それを押え込み、抱き締める。女、必死に抵抗し逃げようとするが、男、放さない。

女 馬鹿みたい。無理矢理こんなことすれば何とかなるとか思ってるの?

男 同じなんだよ。同じだったのに、僕はわからなかったんだ。

女 なにが同じなの。いいから放して、邪魔をしないで。

男、女を押え込む。

男 この中にいても、引きずり出しても君は死ぬ。同じだ。生きてるなら、無視されても嫌われても、同じだ。

女 なにを言ってるの。いい加減にして。…やめて。やめてよ!

男、傍の大福を取ると、女の口を無理矢理開けさせ中に押し込む。女、声にならない悲鳴を上げ抵抗するが、男、女を放さない。そして、コップの水を飲ませる。女、飲み下す。男、の手がゆるむ。女、男から離れ、何度も何度も叩く。やがて疲れ、女、男から離れる。

女 こんなことしたって、無駄なんだから。なんにも変わらないんだから、またやるんだから。

男 なら、何度でも、何度でも何度でも、堕落させる。堕落させ続ける。

女 …気狂い!…ケダモノ!…先生!助けて下さい。私を清浄な地へ導いて下さい!この変態から私をお救い下さい!!

男 さあ、行こう。始まりの闇へ。

男、ロウソクを取るとそのまま女に近づく。そして、フッと吹き消す。暗転。音楽。

エピローグ

ブーンと言う高電圧の電気の放電するような音がする。ゆっくり明転する。と、黒い箱が閉じ、その前に女が立っている。女の首から一本のケーブルが伸び、一端が黒い箱の中に入っている。女、目をゆっくり開く。自分の首のケーブルを抜き取る。と、携帯の着信音。女、ポケットからぬいぐるみを出して椅子に置き、本物の携帯を出して出る。

女 はい?…ああ、お疲れ様。…そうね…一進一退ってところね。…彼自身が、それに気がつき始めているから、もう一押しってところでしょうね。…そう、簡単にはいかないわ。まだ、あくまで子宮箱内での話だし。こっちに戻して上手く行かなかったら取り返しがつかないんだから。…誰よ、そんな無茶なスケジュール組んだの。…教授が?馬鹿じゃないの。無理に決まってんじゃないの。…上だろうとなんだろうと、無理は無理。六年前の失敗を繰り返す気じゃないなら、そのスケジュールでは無理だって言っといて。…そうね。年末まではかけるべきね。…言わせておけばいいのよ。論文自体ほとんど私が書いてるんだし、嫌なら、手を引かせてもらうわ。…優しくするわよ。優しくしてくれるならね。…大体ね、私達が扱ってるのは病気じゃなくてもっとデリケートなものなんだから、治るとか治らないとか持ち出すこと自体おかしいのよ。…それを気狂いだって言うのなら、私も教授もあなたもみんな、りっぱな気狂いよ。…適応ねえ。あのさ、これだけ狂った時代に適応できてるってことは、十分狂ってるってことじゃないの?…そういうのを韜晦って言うのよ。漢字で書ける?…自分から目を逸せる気狂いと逸せない気狂いがいるってだけで、…あなたにも、わからないのね。…別に。…じゃあ、まだやることあるから。

女、携帯を切る。

女 …わかった気になってる奴が多すぎる。強い光を当てるほど、濃い闇が生まれる。これは、あんた等が思ってるようなものじゃない。光も闇ももろともにグツグツと煮込む魔女の坩堝、混沌を孕む子宮みたいなもの。夢に秩序を求めれば世界は生命力を失う。

と、箱の中から音がする。

女 …目が覚めた?私の声、聞こえる?

と、箱の中からネコの泣き声が聞こえる。微笑む女。

女 …そう、それでいい。今はそれでいい。…堕落させ続ける、か。何度でも何度でも…。

箱からネコの泣き声。女、黒い箱を撫ぜる。

女 胎児よお前は何故踊る。母の夢分かって怖いのか。いいえお前は夢の中、六道七世の夢の中、グルグル回る夢の中。

音楽。女、ケーブルを自分に接続する。暗転。

声 接続確認。潜航を、始めます。

終劇。

原案:「ドグラ・マグラ」夢野久作著

この作品を上演したい方はこちらをご覧下さい。