生と死はどこにある

暑い日が続きます。

ところで、皆さんが、生と死を最初に感じたのはいつでしたか?

私が人間の死を最初に目の当たりにしたのは、小学六年生の時でした。

母方のお祖父ちゃんが何年か入退院を繰り返し、一年近く寝たきりになっていたのですが、最後にお見舞いに行った次の日に亡くなりました。(実のところ数日前に脳死状態になっていて、いつ生命維持装置を止めるかという状態だったようです。)

でも、死んだと聞いてもただ悲しいだけで“死”そのものは、まだ遠かったように思います。

本当に“死”を感じたのは、火葬され、お祖父ちゃんが白い骨になったのを見たときでした。それは、漫画やTVで見た骸骨より何倍もちゃちで、でもリアルでした。(当たり前か)それまで、ペットの死んだばかりの死体くらいは見たことがありましたが、人間のそれは初めてで、まして、白骨などお化け屋敷くらいでしか見たことがありませんでしたから、そのちゃちでリアルな、からから音がするものは、確かに“死”を感じさせました。

もちろん、その当時そうはっきり考えたわけではありませんが…。

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さて、何故急にそんなことを書いたのかというと、昨日、庭にネズミが死んでいたのです。

近所の猫が捕まえて、うちの庭に置いていったようです。

妻が昨日の夕方に見つけたときは、まだそれは“ネズミ”で、それに蛆や蠅がたかっているという状態でした。

それが、あまりに生ゴミくさいので回収して生ゴミに出そうと今朝私が見てみると、形がない。

溶けている。

微かにネズミのものだったらしき毛皮の断片はあるものの、もはや原型を止めていない。

そして、蛆、蛆、蛆。

蛆の塊が蠢いている。

微かに残った毛皮の内側にもたぶん蛆が充満して躍動している。

つい、見とれてしまいました。

実は、過日客演した舞踏演劇の公演で、「蛆に喰われていく樹木」をイメージして踊った部分があったのですが、あまいあまい!大あまでした。

庭で見たそれは、どうしようもなくリアルな「生と死」でした。

今日、仕事から帰ってきたら、それはもう存在しませんでした。

わずかな骨と、皮を残して。

「自然って凄い」妻も言いました。

これが自然なんですねえ。

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昨今、子供達から“死”が遠ざけられていると言われています。

私達の世代でも、近親者の死くらいしか接したことのない人は多いでしょう。

生と死は表裏一体ですから、生を語るなら死も語るべきなのに、それはただ闇雲にいけないものとされて、子供達から遠ざけられています。(大家族が崩壊して、死に接する機会自体が減ったという点もあるでしょうが…。)

かつて、仏教の説教に使う絵巻物で、名前は忘れましたが「小野小町が死んで腐り、骨となり、それも散って塚だけが残る。」という有様を描いたものを図書館で見たことがあります。

昔の僧侶はそれを見せながら、生と死、全てが無常であることを説教したのでしょう。

その絵は、今の私達にはあまり上手い絵とは見えませんが、それだけに妙にリアルで恐いものと感じられ、死と無常がイメージとして、理屈でなく直接侵入してくる気がしました。

庭で見たネズミも同じです。それはどうしようもなくリアルな死(そして、蛆達の生)でありました。

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今回は、息子に、その生と死を見せることは出来ませんでした。見せてもまだわからないような気もしたからですが、今思うと、見せてやるべきだったかもしれないと思います。

きっと、理屈抜きのなにかが残ったのではないかと思うのです。

生と死は結局は理屈で語るものではなく、感覚で直接感じ取るものだと思うからです。

次に機会があったら、見せてあげたいと思います。

2000/8/10