世界の平和とモラトリアム

大層なタイトルですが。

仕事が続き過ぎでおかしくなってます、今日この頃。

仕事先の人が読んでいたりするので好き勝手書けなくなるなあとか、好き勝手書いてないじゃないかとか考えてます。

世界は平和になりませんね。

ますますキナ臭くなるばかりです。

でも、人間死ぬまでは生きてるわけです。頭上でドンパチやってても、腹が減ったら食い物を手に入れなければならないわけです。

私は、なにをしていきたいのか。と、最近よく考えます。

私は、これまでもずっとそのことを考え続けて来たつもりでした。その時点その時点では常に本気で考えて来たつもりです。そしてどうにも答えが出せずに生きて来ました。

なぜ答えが出せないかは、その都度理由らしいものを見付け、その都度解決法らしいものを見付け、今度こそと思いつつ結局答えを出せずに来ました。

結局、これ、モラトリアムの渦中にいるからなのではないかと、さっき思い付きました。

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モラトリアムとは言ってみれば執行猶予のことで、心理学の小此木啓吾氏は日本における若年層の子供から大人になる狭間で停滞している状態を「モラトリアム人間」と表しました。

親の庇護と監視の下におかれる子供から、自由と責任を持って自立することが求められる大人。かつての社会においてこの間には通過儀礼だけが有り、子供は通過儀礼を通して一気に大人の仲間入りを果たしていました。

もちろん精神的肉体的成長、成熟は別ですが。

近現代、先進国において中間に属する層が現れだします。端的に言えば学生達ですが、彼らは大人の責任を背負う義務を免除されつつ、ほぼ大人に等しい自由を与えられ、そのくせ実生活においては多くが親の庇護を与えられつつ、ある程度監視の対象から外されるという、極めて特権的な状態にあります。

本来は、最終的に大人になることが約束された状態なのですが、そこで踏み止まってしまう人々が現れます。

大人になることを猶予された人々。これをモラトリアム人間と言うわけです。

昔、小此木氏の本を読んだ時、自分がモラトリアム人間であることを強く感じ、そこから脱することを願いました。

でも、今思うと、あの時期はモラトリアムで良かったんじゃないかとも思います。

むしろきちんとモラトリアムを享受しておけば良かったのではないかと思います。

あの時、大人になる道として見えたのは芝居の道でした。

しかし、芝居の現場はむしろモラトリアムであることを求められる場でした。

もちろん本当の意味で現実的な大人としてあらねばならない芝居の現場もありますが、私はそういう場に身を投ずることを避けました。

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結局、私に取っての脱モラトリアムは結婚や出産以降のことになりました。

それもそれをきちんと認識せず、

なんというか、

いつかその状態が終わって、またモラトリアムな日々が帰って来ることを、無意識に願っているのじゃないかと、そんな気がしています。

だから、答えが出ないのだと。出してしまったらモラトリアムには戻れないから答えを出すのを躊躇って来たのではないかと、そう思います。

でも、モラトリアムな時代に戻ることなんてありえないわけです。

死んでも戻れないわけです。

絶対戻れないと言う現実を受け入れてから、これからのことを考えようと思います。

これからのことって言うのは、結局、今自分が背負うべき責任と果たすべき義務、求めるべき自由とあるべき姿、それも自分の身体に染み着いたスーパーエゴな呪縛を出来る限り取り除いた形で結論を出したいと思います。

2004/10/20