いたずらっ子と失楽園

唐突に、書き始めました私、森茉莉の夫、人呼んで水天堂でございます。

このコーナー、いつまでたってもアップしないので、勝手に私が書くことにしました。

森茉莉ファンの方々には「何故勝手をするか!」と物投げられそうですが、まあ、優しいお心をもって笑って読み飛ばしていただければ幸いと存じます。

なにとぞよろしくお願いします。

さて、本日は題して「いたずらっ子と失楽園」です。

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我が息子も気がつけば一歳四ヶ月を超え、どんどん人間になっていってるように感じます。自我の芽生えの過程をじっくり観察できるのは、親にだけ与えられた特権でありましょう。

息子の成長を見てると、自分の記憶の果てに追いやられていた幼少の頃の記憶を思い出します。その記憶は、どちらかというと感情や感覚の記憶であります。

先日、妻と息子と一緒に大型電器店に行きました。

息子は、大量に展示されたディスプレイやテレビを夢中になって見つめ、しきりに指さしてました。

私はうちのパソコン用のボードやCPUを見ていました。

と、息子がとことことやってきて私の袖をつかみ引っ張っていこうとするのです。

「嗚呼、相手して欲しいのだな。」と思い、息子と一緒にそこへ行き、しばらく見て話しかけたりして、また、元の売場に行って見ていると、またとことことやってきて、くいくいと引っ張る。

それを何度も繰り返すのです。

私が一通り見終わって、息子の手を引きながら別な売場に行こうとすると

その手をもぎ離して、急に大声で泣き始めました。

彼に何が起こったのでしょうか?

思うに、自分の体験した偉大な発見、驚きを、共感して欲しかったのではないでしょうか?

大型量販店の壁一面のディスプレイなど、私達は見慣れてます。

「ああ、いっぱい並んでるなあ」とは思っても、基本的には値段とか性能にしか興味を持ちません。

しかし、息子にとっては違ったのでしょう。

うちには、テレビとパソコン、ディスプレイらしい物は二つしかありません。それが、大量に並びそれぞれに様々な映像を映している。

息子の目には物凄い異界と見えたことでしょう。

私達は、そんな驚きをいつしか忘れてしまっているのではないでしょうか。

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しまった、話がそれた。そういう話をしたかったのではないのです。

タイトルの”失楽園”は、あの不倫のナニではありません。聖書です。創世記に語られるアダムとイブのロストパラダイスと子供の成長のことを書きたかったのです。

エデンからの追放の話を読むたびに、なんでこんな話が生まれたんだろうかと考えてしまう私でした。

息子の成長を見ていて、「これか!」と思いました。

失楽園の話は、子供の成長過程から書かれたのではないでしょうか?

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エデンで何不自由無い生活をしていたアダムとイブは、蛇に化けた悪魔にそそのかされて、禁断の知恵の実を食べ、その罪によりエデンを追放されます。

逆に言えば、エデンにいた時は知恵を持たない、ただ全てを受け入れ諾々と世界を受け入れるだけの受動的な存在だったのでしょう。

これは、胎児の状態を表現しているのだと思うのです。

胎児はへその緒で子宮とつながってます。イコール世界と一体であると言えるでしょう。

何不自由ない、悩むことも、考えることもない状態。

そして、人は生まれ出た瞬間、世界と分断されます。

そして、自らの力で世界を感じ、判断し、行動していかなければならなくなります。

そこで必要なのは知恵でありましょう。

創世記とは知恵と誕生が前後していますが、似てませんか?

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息子は最近、かなりいたずらっ子になってきました。

散らかす、壊すはもちろん、勝手に捨てる、汚す、どっか行く。

知恵も付いてきて、以前は開けられなかった引き出しをすんなり開けたり、鍵かけた玄関を開けて勝手に出ていたりします。テレビやパソコンも勝手につけたりいじったりします。

怒られるととぼけたフリしたり、大げさに泣き崩れて見せます。

”知恵が付いてるなあ”と、つくづく思います。

彼も、生まれて数ヶ月は世界中のあらゆることを知っていそうな雰囲気を醸し出していました。

その落差を「堕落」と見ることで、失楽園の物語が生まれたのではないでしょうか?

そういえば、キリスト教では、全ての人が”神の子”とされます。

あの表現は、こんな考え方から出たものなのかもしれませんね。

2000/3/25