自由時間
今、一人で家にいます。妻と、息子は妻の郷里にいます。
と言っても、もちろん「もうこんな生活イヤ!!実家に帰らせて頂きますっっ!!」というあれじゃありません。
単なる里帰りですので、御心配無く。
戸にも角にも、約十日間に渡って、自分だけのために時間をたっぷり使える独身生活をエンジョイできるわけです。
今日はその中日を過ぎたあたり。
ここまでにやったことは、Linuxの調整くらい。
気が付くとただボーッとして、だらだらとネットやっていたりします。だらしないことこの上ない。
いつもは、「じっくりパソコンやる時間が無い!更新できない!ネタはあるのにぃ!!」とか、なんでも時間が無いせいにしていましたが、結局、やる気の問題なのだなと、反省せざるを得ません。
しかし、なんでこんなにやる気が起きないんでしょう。結婚する前は、これが当り前だったのに。
あの頃は、どうやってたか思い出してみることにします。
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一人暮らしは大学入学以来十年近くやっていて、状況も様々でしたが、基本ラインは、「芝居の稽古と職場(学校)との往復。」か「何もすることが無い休みの日。」の二つに分けられると思います。
前者は、サークルの頃と劇団に入ってからでは若干時間帯が違います。
サークルでは夕方6時位から稽古が始まり9時頃で終り帰宅。
劇団では8時位から始まって、11時位までやって、それから帰宅。
劇団に入ってからは、帰り道にお酒を売ってるコンビニがあったり、酒好きな劇団員がいたため、酔っ払って帰るか、家に着いてすぐ飲むことが多かったです。
飲む量にもよりますが、大抵そのまま、本読んだり音楽聞きながら、風呂にも入らず寝てしまうことが多かったような気がします。
サークルの頃は、これより時間がありましたし、飲んで帰ることも少なかったですが、帰ってからの暇な時間、結局、漫画や小説だらだら読んで、音楽聞いて、TV見て、酒飲んで寝ると言う感じでした。
稽古が無い休みの日もほぼ同じ。
外出しても、芝居見に行ったり、立ち読みがてらの散歩だったりする程度。
なんだ、やっぱりやってること変わんないじゃないか。(笑)
でも、なんか大きく違う気がします。
あ、酒か。酒は飲む量が断然減った。おかげでめっきり弱くなりました。
でも、なんのかんの言っても結局時々飲んでるし、今も、水のような水割飲みながら書いているからそのせいとも言えない。
じゃあ、一体なんだろう。
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結婚する前と後で、一番大きく変わったのは、なんと言っても"結婚している"と言うことだ。
当り前ですね。(笑)
結婚して大きく変わったのは、家族が出来たこと。
家族が出来て大きく変わったのは、自分の言動が、自分だけのものでなくなったこと。
寝たい時に寝て、読みたい時に本読んで、買いたい時に買いたい本買って、飲みたい時に飲む生活。
それは、もう許されません。
(やって出来なくは無いでしょうが、それをすれば多大な精神的経済的犠牲を、自分に、家族に、強いることになります。)
結婚した当初は、それでも芝居を家族と同列、ないし家族より優先する傾向がありましたが、今は、趣味の範囲内で、仕事や家族のことを出来るだけ優先させてやってます。(「そーお?」とか妻に言われそうですが。(汗))
やりたいことがあって、それが自由に出来ない状況。
でも、それって不快なだけのものでしょうか。
もしそうなら、家庭生活なんて営めなかったろうし、とっくに崩壊していたことでしょう。
むしろ、今この瞬間のこのあり余る(と言う程は余ってませんが)自由は、私に閉塞感と不安定感を与えているような気がしてなりません。
何故?
結局、一人でいることは、「帰らない」ことだからなのかもしれません。
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芝居に精を出し始めた頃は、イコール親との対立が激しくなった時期でもありました。
実家にはほとんど帰らず、親から電話が来てもほとんど話さない。
私がその頃の芝居で追い求めていたことは、「今いるここから、より遠くへ。」であり、「自分でないなにかへ。」でありました。実家の親は、そんな私にとって切捨て、無いものにすべき者だったように思います。
昔を、日常を、あるがままの自分を切捨て、違う自分を、違う世界を追い求めていました。
そうすることでしか、自由は得られないと思っていました。
でも、気がつくと、結局元に戻っている自分を見付けて愕然とすることもしばしばでした。
切捨てても、遠くまで逃げても、逃げ切れない。無くならない。変わらない。
溢れる自由の中で、どうやったら変われるのかを、ただもう、悶悶と考えてばかりいました。
見付けた答えはいつもループへの入口。
何故でしょう。
今思えば、帰る場所が無かったからではないでしょうか。
「初心忘るべからず」と言う言葉があります。
最初に考えたことを忘れるな。初志貫徹せよと言う意味で用いられがちですが、本来は、「始めの頃の自分を覚えておくと、後になってどれ位自分が成長したかわかるから、始めの拙い自分を忘れるな。」という意味です。
私は、この言葉で言うなら初心を忘れ、忘れ、忘れを繰り返すことで、新しい状態へ行こうとしていたと言えます。
始点を決めずに線を引こうとしている様なものです。前進出来るわけない。
今現在、私には帰る場所があります。
帰る場所とは、もちろん、物理的に帰るべき家であるこの借屋ではなく、妻と息子のことです。
そのせいで、勝手がきかず悶悶とすることもありますが、その分、限られた時間にやることはどれも充実している様に思います。
始まりがしっかりしているから、進んだ一歩が良くわかるのだと思います。
この数日は、その帰るべき場所が急になくなったせいで、途方に暮れてしまったというのが、だらだら感の元だったのかもしれません。
帰る場所から逃げようとして、迷走していた状態と、
帰る場所を見失って、困惑した状態。
一人の時と今の大きな違いは、ここにあったのでしょう。
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今さっき、妻から電話がありました。
いつも、おやすみの頃に電話してくれるのですが、息子が必死になって、少ないボキャブラリー駆使して私と話そうとするのを聞いていて、「単身赴任ってこんな感じなのかなぁ。」とか感じました。
うちはここなのに、帰るべき場所は、妻と息子がいる所なんでしょうね。
でも、これって、
妻や息子は、どう感じてるんでしょうね?
2000/12/7