犬の人 第一話「ジェイ」

腐ってる。

この街に来ると、いつもそう思う。

視界を埋め尽くす薄汚れた人の群れ。狭い道の両側にどこまでも続く汚らしいテントや屋台。頭上には、穴だらけの申し訳程度のアーケード。その隙間から見える暗い空から、臭い酸性雨がボトボトと音を立て、ビニールのテントに降り注ぐ。

原色の看板。屋台の下からは、もうもうと立ち込める湯気。肌にへばりつく湿気。なんだか知れぬ食材を料理するやかましい音。怒鳴ったり、わめいたりするいろんな国籍の人々の怒号。こぼれた酒の匂い。ぷんぷんする合成調味料の匂い。反吐の匂い。

“活気があって素晴らしい”

一昔前の似非グルメならそう言って、ここのひどい料理に舌鼓を打つだろう。そして、次の日には細菌に犯されてコロリだ。清潔都市(コロニー)の中の連中と同じように。

すぐ横を、やかましく鈴を鳴らして電動自転車がかすめる。その自転車は、すぐそこで子供を跳ね飛ばすと、子供を怒鳴りつけて人込みの中を走り去っていく。その時だけ、一瞬人込みが割れるが、すぐにまた何も無かったように元に戻る。

子供は怪我したろう。打ち所が悪ければ死んだかもしれない。もし、死んだとしても何が変わるわけでもない。親が見つければ、葬儀が行われるかも知れない。でも、火葬され、埋められる所は孤児と同じ共同墓地だ。

ここの連中は、死んでもここから自由になれない。

ここの連中だけじゃない。みんな、自分の場所から自由にはなれない。

この街は、天幕街と呼ばれてる。

“清潔都市”の北にある廃虚に、都市に住めない連中が勝手に住み着いて街を作った。都市の警察は幾度と無くこの街を焼き払い、住民を追い払ったが、二月もすると、街は元に戻る。

「まつろわぬ人々の生命力のなせる技だ。」

昔、俺の友人がそう言っていた。そいつはそう言った次の日、天幕街に引越し、一年後には共同墓地に引っ越した。

生命力と言えば、そうかも知れない。ここの連中は少なくとも、都市の連中より必死になって生きている。必死さを失ったとたん、死ぬだけだからだ。

酸性の雨。放射能やダイオキシンを含んだ大気。紫外線たっぷりの陽光。大量に生まれる奇形児や未熟児。原因不明の伝染病や性病。死の危険はたくさん控えてる。無いのは幸せな老衰死ぐらいだ。

それでも、都市にいられない連中はここに来る。居場所を求めて。

俺だってそうだ。

“黄昏館”という薄汚れたビルの残骸の入り口から地下街に入る。

急に静かになる。明かりはほとんど無いが、その暗闇を人が静かに行き来しているのがわかる。かつては美しく整備されていたのだろう地下街を、今は胡散臭い奴だけが闊歩している。所々にランタンの明かりに照らされて屋台らしいものがある。それは、全部地上では扱えないものばかりだ。盗品、麻薬はもちろん、内臓や子供、核物質なんかも金さえ出せばここで手に入る。もちろん、本物かどうかの保証はないが。

俺は奥へ進む。

怪しげな出店も途絶えた闇の中に、一軒のバーがある。昔からの店舗をそのまま使ったのだろうか、あるいは、昔からあったのか、辺りの荒廃した光景からひどく浮いたその店が俺の目的地だった。

20世紀初頭のデザインだと聞いたことがある。落ち着いた作りだ。ぼんやりとした電光が、ガラスのドアの枠の影を地面に投げかけている。

ドアの横に小さな看板があり、かすれた金文字で

「J's Bar」

と書かれている。俺は、ドアを開けた。

ドアを開けた途端、むっとする匂いに包まれる。

独特の、古本の匂いだ。

店の中は、落ち着いた調度のバーだ。テーブルセットがいくつか並び、奥にカウンターがある。カウンターの後ろの壁には、色々な色や形の酒瓶が整然と並んでいる。客はまばらだが、皆目の前に何冊も色々な本を積み上げ、静かに、しかし妙に真剣な眼差しで、本を読み耽っている。時々、パラリとページをめくる音がする。どのテーブルのコーヒーも酒も、ほとんど手をつけられてない様だ。

俺は、まっすぐカウンターに近づく。

カウンターの中には、妙に顔の長い、色の黒い男がブスッとした顔でグラスを磨いてる。

「ジェイは?」

俺が聞くと、男はいかにも大儀そうに俺を見て、重い荷物でも運ぶように顔をしゃくった。そっちには、地下への階段がある。俺は、男に軽く手を振り、階段を降りた。

階段はギシギシ言った。一段降りる毎に、古本の匂いはどんどん強まった。

階段を降りきる。目の前には、手を伸ばしても届かない程高い本棚が所狭しと並び、本棚はどれも様々な本で埋め尽くされてる。古今東西の文学や小説、エッセイ、哲学やら経済学やらの学術書、歴史書、HowTo本、詩集や戯曲、絵本、漫画、写真集、エロ本や官能小説、受験用の虎の巻、今じゃ何処にも売ってないゲームの攻略本まで揃ってる。ちょっとうろうろすれば、誰でも一冊くらい惹かれる本が見つかるだろう。

ここに有るのは、全部貸本だ。

客は、ここで読みたい本、見たい本を選び、上のカウンターで借り出して、コーヒーや安酒を飲みながら、ゆっくり楽しむってわけだ。この店は、二十世紀末期に日本で流行ったマンガ喫茶みたいなものなのだ。もちろん、非合法だ。

人が二人やっとすれ違えるような狭い通路を進み、俺は奥に向かう。両脇の視界を埋め尽くす本達は、どれも一様に古びて、どっしりとした風格さえ漂わせてる。しかし、どの本にも、埃一つ、塵一つ積もってない。ここの主の性格そのものだ。

いくつか本棚を過ぎ、角を曲がると、一際薄暗いコーナーの奥にぼんやりと、やけに立派な机が見える。

繋ぎを着た、ボサボサ髪の背の低い男が机に向かい、本にやすりがけをしている。机の上や周囲には、男の作業を待つ様々な本達が積み上げられている。

「売る気は無いと言ったろうが!!」

独特のだみ声が飛んでくる。俺は、近くの本棚をノックする。男が振り向いた。カエルみたいな顔だ。いつもそう思う。ギョロリとした大きな目だ。こんな目で睨まれると、まわれ右して帰りたくなる。

「あんたか…。」

「誰だと思ったんだ?」

「ろくでなしさ。あんたより比較的な。」

「ブローカーか?」

「知らんよ。で、あんたは何の用だ?例によって、うちの売り上げに貢献しやしないんだろ。」

「あのコーヒー飲むくらいなら、薄めたおたふくソースの方がマシだ。本が無きゃ詐欺だな。」

「いいんだよ。誰も飲みゃしないんだから。それに、あんたはどうも勘違いしてるようだが、うちは貸本屋なんだ。コーヒーやら酒やらは本当は出したくないんだ。こぼして本を汚す奴もいるしな。」

「じゃあ、何で出すんだ?」

「カモフラージュさ。決まってるだろ。」

俺は、床に積まれた本を一冊取り上げた。

『人、犬に会う』

動物学者の本だ。遠い遠い昔、人が最初の犬と出会った時の話だろうか。

「俺は待ち合わせさ。」

「迷惑だな。」

「迷惑はかけんさ。」

「そう思い込んでる所が一番迷惑なんだ。あんたみたいな怪しげな奴がうろうろしてると、怪しげな奴が集まってくるんだ。そうすると、そいつらに目をつけてる連中もやってくる。せっかくのカモフラージュも意味無くなっちまたらどうする気だ。」

「その時は逃げちまえば良いだろ。」

「逃げるくらいなら、こんな仕事はじめるものか。」

男は、話してる間中も、作業の手を止めることは無い。男の手にかかると、さっきまでゴミの様に見えたものが美しい古書って奴に変わる。鮮やかなもんだ。

この男がこの店の主、ジェイ・サンダースだ。ここにある、何千冊という本の持ち主であり、管理者である。日常的な事には、衣食にさえ気をつけないくせに、殊、本の事となると、神経質で口やかましくなる。

一度、ここの整理を強制的に手伝わされたことがあるが、とにかく人使いが荒い。

「ほら、これをそっちへ持っていってくれ。そこじゃない!その上だ。違う!その上!その赤い本の隣。右側だ!!汚いなあ。何だその並べ方は!君は整理するって言葉の意味を知らんのか!こんなんじゃ、生まれたての子供の方がよっぽど役に立つ。ほら、次はこっちだ!ぐずぐずするな!そんなだと、いつまでたっても終らないぞ!!」

そう言いながら、ジェイはチョロチョロとげっ歯類のように本棚の隙間を歩き回り、手にした本をポンポン本棚に放り投げていく。まったく“放り投げる”といった勢いだ。それなのに、綺麗に本棚に収まっていくから不思議だ。

「で、誰と待ち合わせなんだ?」ジェイは、手を休めずに聞いてきた。

「迷惑なんだろ。」

「迷惑だからだ。」

「俺も知らないんだよ。」

「初めて取り引きするのか?」

「“ハリネズミ”の“繋ぎ”だ。」

「なら直接会う必要も無いだろ。そのための“繋ぎ”じゃないか。」

「依頼するだけして、いなくなっちまったんだよ。」

「“ハリネズミ”がか?」

「ああ。」

「買い出しじゃないのか?あいつも“漁り”はするだろ?」

「買い出しで、店ごと無くなるか?」

「店ごと?」

ジェイが、振り向いた。唯でさえ大きい目がグワッと見開かれている。俺が何を言いたいかわかったのだろう。

「そうさ。奴等に狩られたんだ。」

「確かなのか?」

「ああ。あの仕事は、“奴等”だ。」

「…上に行こう」

ジェイが言った。俺達は、本の迷路を抜けて一階へ上がった。

店は時が止まっていたように、さっきと何も変わってなかった。ジェイはさっさとカウンターの中に入ると、後ろの棚から合成ウオッカの瓶を取り、止まることなくするするとカウンターから出て来て俺の先に立って隅の方のテーブルへ行き、ソファにかけたと見えた瞬間には、もう瓶に口をつけていた。ただ休憩したかったんだろう。俺も向かいのソファにかけた。

「奴等がまた活動始めたってのか?」

俺は、ジェイのウオッカの瓶を取り上げ一口あおる。焼け付くような刺激が、喉を通り、食道を胃へと下っていく。アルコール度は90%はある。滅多に手に入るもんじゃない。自分が飲む分だけは高級品を用意するのがジェイの流儀だ。

「ああ。」

ジェイは俺の手から瓶を奪い取る。

「今更何の必要があって活動再開するって言うんだ。また一斉検挙でも目論んでるって言うのか?しかし、例の「大掃討作戦」で大きな組織は全部壊滅したし、小さい所だって大体は消えちまった。残ってるのは、コロニーの官僚が使う所か、うちみたいな投機や活動をしない所ばかりだ。危険は無い。」

「危険だと思い直したかもしれんさ。」

「考えにくいな。」

「とにかく、何故かなんて俺は知らんよ。とにかく、“ハリネズミ”の店は奴等にやられた。」

「“消された”のか?」

「ああ。」

“ハリネズミ”の店は天幕街の北の外れにある。前時代の鉄道駅の駅前広場があった辺りだ。天を突くような巨大なビルの廃虚がいくつも並び、穴だらけのアーケード街は、ガラクタで埋め尽くされている。人気は少ない。撤去されずに残ってるビルが多いのに人が住み着かないのは、ボツリヌス-テロがあった所だからだ。今でも、たまに感染して死ぬ奴が出る。自然に生息するものではないと言うから、培養施設でもあるのかもしれない。

“ハリネズミ”がそんな所に住んでいたのは、仕事柄もあるが、彼のひいじいさんの代からの家があるのだ。彼の一族は代々古本屋をやっていた。「大掃討作戦」の時いらん本だけ持っていかせ、大事な本は家の地下に埋めて隠し、ほとぼり冷めてから仕事を再開したそうだ。筋金入りの本屋って奴だ。

“ハリネズミ”は、無口でいつも不健康そうな顔色をしてる男だった。だが、“漁り”の腕は確かで、奴が「ある。」と言った本は絶対何処からか手に入れてくる。奴が忙しい時には俺にも仕事を廻してくるが、見つけるのが難しい分、ギャラは確実に良い。だから、今度の仕事も二つ返事で引き受けた。

ところが、詳しい説明を聞こうと彼の店にやって来た俺の前には、見たことも無い古びた建物がひっそりとたたずんでいた。空き家だ。多分、服屋かなんかだったんだろう。ハンガーを掛けるためのラックがそこかしこにあり、白く埃が被っている。俺が立ち尽くしていると、隣の家からよぼよぼのジジイが顔を出した。

「何だねあんた…」

俺は、コロニーの役人を名乗ってここに住んでいた人物について尋ねた。

「そこは、ワシが若い時から空き家だよ。ずうっとな。」

そう言って、ジジイは俺に淀んだ眼差しを向けた。

俺は、そそくさとその場を離れ、その足で、ジェイの店に来たって言う訳だ。もちろん、尾行の危険を考え、十分回り道してから。

あんな風に“消された”店や人を俺は何人か知っている。

「大掃討作戦」の時だ。その作戦名の勇壮な感じとは裏腹に、作戦は密かに静かに、そして瞬く間に展開され、終結した。ほんの数日で、本の流通組織も密売組織から、個人の売人までの大部分がこの世から消滅したのだ。そして、それ以来、奴等の活動は聞かなかった。

活動する必要が無くなったため、解体されたらしいのだ。もちろん確認したものはいない情報だ。しかし、それが信じられるほど徹底的に、本に関わった者の大部分が消されたのだ。

「信じないのか?」

俺はジェイに尋ねた。ジェイはウオッカの瓶を掴んだまま口を真一文字に結んでいる。

「…信じたくはないな。だが、事実なんだろうな。」

「あくまで状況証拠だけだぞ?」

「奴等が証拠を残すとは思えんよ。」

ジェイが瓶をあおる。

向うの椅子にかけていた男が立ち上がり、カウンターに借りていた本を置き、地下室への階段に向かう。別な本を選びに行くのだろう。多分常連だ。見覚えがある。

この店で一見の客を見る事はあまり無い。ほとんどは常連だ。新しい客は必ず常連の紹介を受けて来店する。別にそれを強要してる訳じゃないが、暗黙のルールという奴だ。

他にもいつのまにか通用している暗黙のルールがいくつかある。

例えば、飲み物のコップをテーブルの角においた場合、“同じ奴をお代わり”のサインだ。

本を交互に縦横とクロスさせて積むと、“相席はお断り”。

一度、客を装った賞金稼ぎが潜入した時があった。その時は、その客以外みんな赤い表紙の本だけを積み上げていた。もちろん、赤い本を積み上げるのは“警戒せよ”のサインだ。

「で、どうする気だ?」

ジェイはしばらく瓶の中の透明の液体を見つめていたが、

「…どうも出来んな。」

そう言ってウオッカをあおる。

「投げやりだな。」

「じゃあ、どうするってんだ?奴等が何故活動を再開したかわからんのに、何が出来る。下手に動けば余計な騒動を起こすだけだ。」

「まあな。」

話が途絶えた。と、店のドアが開く。ジェイがそっちを見、俺に顎をしゃくって見せる。俺が振り向くとドアの所に、赤いコートを着たやけに肌の白い女が立っていた。女はぐるりと店内を見回していたが、俺達に気付き、コツコツとヒールの音を立てながら近づいてきた。

「“起り”らしいな。」

ジェイがそう言って立ち上がり、カウンターへ去る。

女は怪訝そうにその様子を見送り、気を取り直して俺に向き直した。

「あなたが“犬”さん?」

俺は胸ポケットから煙草を取り出し、一本口に咥えて火をつけようとする。と、女は煙草を取り上げ床に落とすと、靴で踏みにじった。

「何するんだ、無け無しの一本を。」

「私、煙草嫌いなの。それに、屋内で煙草を吸うのは非常識よ。」

「“清潔都市”ではな。」

「何処でも同じよ。それより、私の疑問に答えて下さらないかしら?」

「あんたが、アキさんか?」

「ええ、アキ・ハヤセ・ティンダウスよ。」

「ティンダウス?随分遠出したんだな。市民にとっては冒険だったろう。」

「だから、無駄な時間は取りたくないの。」

「そうだ。俺が“犬”だよ。特徴は言ってないのに良く分かったな。“ハリネズミ”に聞いたのか?」

と、女は一瞬、間が抜けた表情をし、次いで小さく笑い出した。

「だって、あなた“犬”何ですもの。どう見ても。」

俺は何と無しに壁を見る。小さな鏡に文字が書かれた小物がかかってる。鏡には、コートを着、帽子を目深に被った犬の顔をした男が写っている。

これが俺だ。犬頭の闇本売人“犬”。それが、俺だ。

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