オーデュボンの祈り:伊坂幸太郎

近所の図書館では伊坂幸太郎の本は割と人気があるらしく、棚にあるのを初めて見た。

内容的には、現実性活のすぐ横にあるちょっとずれた世界に来た人を軸にした世界が少し変わるといった内容で、もろに好み。

明るい村上春樹と言うか、ドラマティックな椎名誠と言うか。

伊坂作品には、「人間の恣意性(欲望?)への怒りと諦めと願い」が通底しているような気がしているのだがどうか。

「唐突で有無を言わせぬ発端」から始まる話も多いような。

巻末の解説で、乃南アサ氏が「主人公が仙台におきっぱはしにしてきている現実が、もっとリアリティを持ってバランス良くかけていて欲しかった。」と書いてるが、それは作者の頭の中にそれがリアルな映像としてあったのではないかとも思う。

確かに恋人と祖母のことを除けばほとんど語られてはいないが、敢えて削ったのではないかと。

「現実」の舞台は仙台で、現地に住んでいた人間にしてみれば、割と容易くイメージ出来ることが、他の地域の人にはそうではない。当たり前。

これが東京や大阪であれば、地名や二三の言葉でイメージ出来ることはさらに増えるだろうが。

「JRの秋葉原駅のガードを抜けると、電器店の店員のマイクパフォーマンスが響き、視界にゲームやアニメのキャラ達の看板が飛び込んでくる。」

と言うのと、

「駅前のペデストリアンデッキでは夕方の情報番組の野外レポーターが派手な法被や扇子で着飾った踊り手と祭りの話で盛り上がっていた。」

というのでは、

たぶん前者の方がわかる人は多いだろうと思う。

でもだからと言って、他の地域の人が「仙台の人生」をきっちりイメージできるほど書き込むのは戯作としてどうなのか。

どこか映像的と言っても良いこの作品のテンポを阻害してしまうのではないか。

作者はそこを敢えて切り捨てたのではないだろうか。

この作品は、ドロッとした残虐性を秘めながら明るい。

その明るさの底には諦めと受容がある。

面白かった。