マルジの人
秋は魔の季節なのでしょうか。最近仕事が立て続けにあるのですが、目立って多いのが"マルジ"。つまり、自殺です。
先月だけで16件近くあったとか。他の葬儀社さんも入れたらかなりの数に上るのではないでしょうか。
長く続く景気低迷、下がらない失業率。社会的にしんどい時代が続いてます。暑い盛りには勢いで忘れていられたことが、この急激な冷え込みで身に堪えだしたということかもしれません。
自殺の理由は人様々ですが、マルジの葬儀の情景は似通ってます。
一言で言ってしまえば"暗い"。
悲嘆に暮れてるのは普通の御葬家も同じ。でも、寿命で亡くなったとか、どうしようもない事故で亡くなった場合、暗い中にも諦めの軽さのようなものが見え隠れするものなのですが、マルジの場合それが無い。
故人を恨む以外、諦めら切れない。
また参列者も、妙によそよそしい。お悔やみを述べながらも深くは突っ込まない感じです。
以前、友人のお父さんが亡くなったので御葬儀に参列したのですが、話していてなんかおかしい。パズルのピースが一つ欠けてるような感じがしました。後で聞いたら、自殺だったそうです。
宗教の考えの一つに、"死者の霊は、死んだままの状態でさまよう。"というのがあり、それに基づいて、懺悔というシステムが生み出されたと言います。
この考え方によれば、自殺者は死ぬ直前の苦しみをずっと引きずり続けることになります。
これは、ご遺族の心情そのものでもありましょう。
自殺は、自他共に一番引きずる念のこもりやすい死に方と言えるでしょう。だからこそ、歴史的に社会的責任をとる手段の一つとして、あるいはより強い呪をかける手段として認識されてきたのでしょう。
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以前は、私自身なにかというと自殺することを考えたものでしたが、今にして思うと、なんともリアリティのない"死の概念"を弄んでいただけだったように思います。
「人間にとって、概念上の死は肉体の死に勝る。」と言った人がいたとかいないとか。
ストレスから自殺する動物は他にもいますが、概念に殉死できる動物は人間だけでしょう。だから、死を概念として捉えるのは人間らしいと思っていたように思います。
しかし、"概念上の死"と"死の概念"では全く別物です。
今、マルジの人々を捉えている死神の正体はなんなのでしょう?不景気や秋風だけが原因なのでしょうか?
90年代から続く闇雲な生の肯定は、混沌とも言える多様性の受容を強要し、結果、かえって個的なものの弱体化、生の空洞化を加速してしまったように思います。
絶対的な概念の否定が20世紀後半の世界を彩るカラーでした。それがもたらしたものが、自由の旗手を自任するアメリカの一人勝ちであるように、無闇な"個性"の称揚が、境界線上の人々を個性競争の敗北者の地位に追いやり、存在しえない絶対的な個性への追従、あるいは生そのものへの痙攣的な否定ー自殺へと駆り立てているのではないでしょうか。
自殺そのもの、あるいはマルジの人々を否定する気はありません。
しかし、少なくとも今の世界では、かつて以上に自殺者の魂に行く場所はない様に思います。
自殺後に安らげる場所を作れるのは、マルジの人本人であり、その遺族です。
そして、それが出来る位なら自殺する必要はないでしょう。
多くの人にとって、自殺は発作的なものだろうことは想像に難くありません。
でも、その瞬間に自分がこれから行く所のことをちらっとでも思ってほしいと、そして行くなら行くで、しっかりと行くべき道の確信を持って行ってほしいと思うのです。
残される全てのより小さきもののためにも。
2002/11/11