自由とダメ出し
先日、AZ9の稽古で、演出にダメ出しを受けました。
御存知の方もいると思いますが、ダメ出しとは、芝居の稽古などで演技について「こうして欲しい」とか、「ここはダメ。」とかの注意を受けることを言います。
芝居は(映画も含めれば)なんだかんだ言って劇団を辞めてからも続けているわけですが、この日のダメ出しは、何だか久しぶりにダメ出しらしいダメ出しに感じました。
その役は疲れている青年であり、その疲れがある記憶を取り戻すことで癒されていくという感じの話なのですが、私はそれに対していかにも疲れて夢と現の境がぼんやりしている様な役作りで臨んでいたのですが、演出からは、「そういう部分を表面に出すのではなく、あくまで奥に秘め、演技ははっきりくっきりやってくれ。」と言われました。
それが、とってもガツンと来ました。
何というか、今まで芝居を続けて来て、ここしばらく忘れてきたことを突きつけられたような、そんな気持ちでした。
強いショックの後、メラメラとやる気が起きてきました。
良いダメ出しを受けると、これがあるので嬉しいです。
でも、昔はダメ出し嫌いでした。
と言うか、怒られること、注意されることは何でも嫌いでした。「ここがダメ」と言われると、それを自分への攻撃と取ってしまう性分だからです。
それが変わるきっかけとなったのも、実は今回演出をしている米澤 牛さん(芸名です。芸人ではありません。仙台を代表する演劇人です。)に演出を受けたことでした。
劇団に入ったばかりの頃の新人公演。作・演出を先輩の牛さんがすることになりました。
その演出は、それは厳しいものでした。
大きな流れから、本当に細かいことまで徹底的にダメ出しされました。
しかも、使う言葉が牛さんの役者体から引き出される言葉で、とても感性的というか、感覚的というか、役者言語だったもので、その時はもう誤解に誤解を重ねつつ、言われたことを1割もこなせぬまま、ひたすらにやるしかありませんでした。
そして迎えた公演で、私は舞台上で、自分が、自分であって自分でない自分を見つけました。
「この役は、こう。」じゃなく、「私ならこう。」とやることが全て役らしいものになっていたのです。
それは、快感でした。
なんだか、とても自由を感じたのです。
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毎年、出席者の蛮行で話題になる成人式ですが、先日の成人式でも、性懲りもなく蛮行が行われましたね。
どこそこの知事が帰れコールを受けてそいつらに怒鳴りつけて祝辞を投げつけたとか、祝辞を述べる市長に最前列の連中がクラッカーを打ち付けたとか。(これは市当局から刑事告訴されたらしいです。)
そこまで直接的でなくとも、大多数が携帯を持っていて、式の最中もメールやら通話やらしていたと言います。
ああいう事件を見るにつけ、情けなさや馬鹿らしさを感じるとともに、「彼らは自由なんだろうか?」と言うことを考えずにいられなくなります。
よく、非行やいじめや問題行動は、子供達のメッセージであると言われ、それを闇雲に排除するのではなく、理解してあげることが肝要だと言われます。
子供達は、様々な校則や規則や大人のつけるレッテルによってがんじがらめになり、自由を奪われてる。それが、問題の源だと。
しかし、そうなのでしょうか?
確かに、校則という奴には矛盾したものや、意味不明なものも多いし、「今の若者は…。」みたいな捉え方では何も解決しないのは分かり切ってます。
でも、学校を出たって規則や決まりはあります。一人で無人島にでも住まない限り、決まりや規則から逃れることは出来ません。また、そういう所に行ったら行ったで、生活に関わるあらゆることを自分でやらなければならず、束縛はむしろ増えるように思います。
昔やった芝居で、「自由とはどこかにあるものじゃない。選ぶことなんだ。」という台詞がありました。
その伝で言うなら、蛮行青年達に欠けているのは、選択能力であると言えるような気がします。
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私も、成人式には参加しましたが、祝辞はどれもひねりが無くつまらないもので、彼らのような行為を、全く考えもしなかったと言えば嘘です。
でも、成人式なんて、結局他人が用意したイベントなのですから、ああいった行為によってなにが変わる訳でもないことは馬鹿でも分かります。
成人式が嫌なら、出ない自由がある。
祝辞が嫌なら、聞かない権利を主張して退出すればいい。
酒が飲みたいなら、飲み屋にでも行った方が便利だ。
成人式で偉いさんがつまらない祝辞を延々語ることに象徴される社会の構造が気に食わないなら、いくらでも変革の方法はあるだろうし、あの場でするなら、もっと具体的かつ説得力がある方法を探る必要があった。
彼らは、これらの何も選んでない。
結果的に、ただその時の自分の感情や情動に振り回され、躁状態で興奮することを選んだ。
ある意味、最も自分が変わらなくて済む、楽で、安全な方法を選んだと言えるでしょう。
私達が「自由」と聞いて、最初に思い浮かべるのは、そういった楽で安全な状態ではないでしょうか。
それは間違いではありませんが、「自由」の全てでもありません。
彼らは、おそらく、「自由」について何も学んでこなかったのではないでしょうか。
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自由とは、「自分を由来とする。」ということだろうと思います。
由来とは、全ての根元です。だとすれば、「有る」も「無い」も自由の内だと言えます。
不自由も選択するなら自由です。本当の自由が有り難いように、本当の不自由も存在し得ない。
芝居をしていて良くあるのですが、体調も万全で、準備も十分出来て、乗りに乗って「今日はやれた!!」と言う日は、得てしてお客さんに不評で、逆に、熱があって体もだるかったり、どつぼにはまって「もうだめだ、死のう…。」とか思ってるときの芝居の方が好評だったりします。
おそらく、ハンデがある分、それを乗り越えようとして、いつも以上に集中力が高まったり、感覚が研ぎ澄まされたりして、いつもの自分から自由になっているからかもしれません。
不自由は、自由の原動力なのだと思います。
件の新成人達の問題は、全てが彼ら自身が原因とは言えないのは確かです。
闇雲な自由や寛容が、彼らに本当の自由を学ぶきっかけを与えてくれなかったと言うことは言えるでしょう。
でも、大脳が肥大し、精神状態が他の動物に比べ生きていく上で重要な要素である人類にとって、精神構造の強化、安定、更新といった行為は、食べるとか寝るとかと同じくらい大切なものです。
人類として生まれたものの当然の責務と言っても良いでしょう。
他人のせいで済ませても、何の足しにもなりません。
私の愛読書でもある坂口安吾の『堕落論』の中で、安吾は「堕落せよ!」と訴えかけてますが、「人は永遠に堕落し続けることが出来るほど強くない。」とも言ってます。
堕落することに耐えられなくなった時、本当の価値のある建設が始まるのだと。
表面を取り繕い、平穏と安全の中で、傷つかないようにダラダラと堕落するのではなく、徹底的に堕ちて堕ちて堕ちまくることで、耐えられなくなった時に見える真実を目指すことが、必要なのだと。
新成人達は、しっかり堕ちることが出来るのでしょうか?
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最近、息子がグングンわがままになって来てます。
自分の力を少しでも発揮したがり、自分の思うとおりにならないと、物投げたり、叩いたりします。
危ないことをしたときは、きっちり怒鳴りつけてるつもりですが、時々自信が無くなります。
「この程度で怒って良いのだろうか?これくらいは普通のことじゃないのか?」と思ったり、「もっとしっかり怒ったり教えたリすべきではないか?こんな状態で良いのか?」と思ったり、本当、ダブルバインド・トリプルバインドのがんじがらめです。
先生やもう少し上の子供をもった親御さんなどは、もっともっと悩んでいることだろうし、私達もこれからますます悩むことだろうと思います。
正解は、無いのでしょう。
私達は、息子に、本当の自由を感じ取らせてやれるでしょうか?
2001/1/12