日本の社交ダンスの歴史
● 鹿鳴館ダンスは欧風化運動の一環だった
日本の社交ダンスの歴史は、あの「鹿鳴館」を外して語れない。明治16年、東京日比谷(現在の帝国ホテルの近所)に竣工した鹿鳴館は、明治政府(伊藤博文首相)の諸外国に対する”社交”の場となった。当時は外国との条約がことごとく日本に不利で、この不平等条約に対する国民の非難が高かった。これを少しでも解消するべく時の外相井上馨は、日本人の生活を欧風化しようと心がけた。その産物が鹿鳴館であった。このように外交政策上の必要性から始まったが、伊藤博文の醜聞もあり鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こりました。そして明治20年鹿鳴館時代は終わりを告げ、一般大衆に浸透するところまでは至らなかった。一般には鹿鳴館はダンスばかりやっていたように思われがちだが、洋服の着方や西洋料理の講習会なども盛んに行われ、特権階級とその子弟に対する生活欧風化の場であり、ダンスもその一環として行われたのである。音楽はもっぱらワルツやポルカで、蓄音機がなかったので。外国人によるピアノや、陸海軍の音楽隊の演奏によって踊った。単なる舞踏会だけでなく仮装舞踏会なども催された。記録によると、井上外相の「三河万才」三島警視総監の「児島高徳」渋沢栄一の「山伏姿武蔵坊弁慶」などの仮装が見られた。
しかし鹿鳴館時代は、ごく限られた上層階級のダンスであって、一般庶民とはまったく無縁であった。
庶民のものになったのは大正デモクラシーの思想を受けた大正末期であり、これとても静かに日本の一部にひっそりと上陸したもので、ブームなどというには程遠かったし、「男女7才にして席を同じうせず」といった教育が浸透していた当時としては、ダンスは、男女が抱き合ういやらしいものという見方しかされなかった。警察もダンスを目の敵にしてその取り締まりはきびしかった。ダンスは格好の娯楽であった反面、こうした見方から、とても発展は望めなかった。