鈴木昌憲先生に聞くダンス人生
私は昭和42年に北見の宮川先生のところに勤めたのがダンスキャリアの始まりです。昼間はダンス教師の見習いで夜は宮川先生経営のダンスホール富士でレコード掛けです。当時、ダンスホールはいつも大盛況でイモ洗いの状況でした。宮川先生はだいぶ儲かったんじゃないかな。店には態度の悪い客もいて、それをつまみ出すのも仕事の一つでした。そのうちに洋子(鈴木洋子先生)と付き合いだして、二人で札幌のアマチュア競技会に出たんです。一発落ちでしたが、赤塚先生に「音楽と関係なく動いているけど、将来性がある」といわれて、赤塚教室でプロになることを決めました。昭和43年にプロになってからの成績は良かったですね。でもいつだか4位になった時に審査員に「何が悪かったんですか」と詰め寄ったんですが「その態度が生意気だ」と言われて、その後はだいぶ割を食いました。当時のチャンピオン鎌田先生に「もう少しうまく立ち回った方がいいよ」と言われてから、少し気を付けるようにしました。赤塚教室は最低保証が20,000円でアパート代が8,000円でした。部屋は風呂なしですから冷たい水で体を洗っていました。そしてうどんばかり食べていました。うちの嫁さんには苦労をかけたと思います。でもつらいとは思いませんでした。また、なけなしのお金で東京の競技会に行ったときに、サバ寿司が50円と安くて、また大好物だったのでよく食べていましたが、それが当たったのか腹が痛くて翌日の競技会は大変でした。その頃北海道の選手は東京の大会でいつも一発落ちでした。武道館で荷物をかたずけていたら周りの選手は「またね」と言って2次予選に出かけていくんです。その悔しさが引退後に「全国に通用する選手を育てたい」という気持ちの根源です。あといろいろな人のお世話になりました。教室を開業する時には顧問の佐々木さんと栗林さんに保証人になってもらいました。その後、スタッフが全日本で活躍するようになったり、その時のスタッフが現在、連盟や協会で活躍するのをみて「自分のやってきたことが少しはダンス界のためになったかな」と思っています。そして「夢に向かって駆け抜けた人生だった」と振り返っている今日この頃です。