競技会の草創期から発展期(昭和21年~昭和61年)

● 当初は単科競技で、初代チャンピオンは若林直治

北海道の社交ダンス競技会は、北海道社交舞踏教師協会結成以前に行われている。第1回は札幌のグランドパレスで昭和21年に開かれた。この時は若林直治がチャンピオンの座についた。この第1回以降、30年代前半までは単科の競技会で、もちろんラテン種目はなく、モダン4種目で行われていた。つまり、タンゴ、ワルツ、クイック、フォックストロットでそれぞれのチャンピオンが誕生したが、そのうち2種目以上をとればその年のチャンピオンということだった。しかし、これも定期的に行うのではなく、その時の事情にによって、それも種目ごとに会場を変えたりして行っている。例えば今日、札幌でやったら、明日は小樽という具合であった。当時はプログラムなども作らず、はっきりとした記録もないから2位以下の成績は知る術もないが、20年代に生まれたチャンピオンは前半が若林、後半は日向省二の二人だけである。話は変わるが現競連北海道総局長の赤塚文彦は30年代後半にチャンピオンの座を独占するが「ダンスを志すならチャンピオンに教えを受けよう」と旭川から札幌に移って日向の門を叩いたという。

     競技大会の開会式(昭和24年)

     優勝の表彰を受ける若林直治

● 北海道社交舞踏競技連盟ができる、会長に松田武雄

ところで、当時は競技連盟というものがなく、HATDが主催して行っていた。競連ができたのは28年である、中央にも競連ができたのだから北海道にも作ろうという理由だけだった。この辺はHATDニュース58年7月号”北海道競技ダンスの今昔”と題する下鳥忠の記述に詳しいから、これを引用しながら歴史を振り返る。以下「」内が引用部分「北海道でダンス競技会が行われたのは昭和21年ころからで、まだ競連は東京にも北海にも発足していない。主催者が勝手にオール北海道タンゴ選手権とか、クイック・タンゴ選手権大会などのタイトルをつけて行われた。選手権制が確立されたのは連盟ができてからである。昭和22年HATDが発足してからはHATDが主催した。ラテンは無くモダン4種目のみ。級別もゴールド(現在のA級)シルバー(現在のB級)ブロンズ(ノービス)といい、ミック(プロとアマが一緒に踊る)競技会だったから、アマが優勝したときもあった。昭和25年東京に日本舞踏競技連盟が発足してからまもなく北海道にも競連ができ、競技会を主催するようになった。そのころ東京でも競技会はフロリダ(新橋)や美松(銀座)など、キャバレーやダンスホールを会場として行われていたが、28年6月28日第1回サンケイ杯を後楽園アイスパレスで開催し、一般大衆に認められる大成果を挙げた。この大会で優勝したのが三桝良一で、2位が毛塚鉄雄、道雄兄弟の父、毛塚睦雄先生であった。この二人は助川五郎先生の門下で、良きライバルとして常に優勝を争っていた。

● 小樽出身の三桝良一全日本チャンピオンに

三桝良一は商船学校出身。戦時中、海軍将校だったが戦後帰樽して、20年10月に南小樽駅前にオープンしたボールルーム住吉に堤一郎などと一緒にいた。ダンスは商船学校当時覚えた。しかし、白人と黒人のトラブルがあり、「住吉」はオフリミットとなったため、そこを辞めて東雲町の杉バレー教室に移った。堤一郎は戦前、北海道でただ一人の競技ダンサーであった。倉田の持っていたアレックス・ムーアのフィルムを松田、久保、杉山らが研究するのに、三桝が試験台にされた。三桝は26年、フォックストロットで全日本優勝して以来、27年のワルツ、28年の四種目総合、同年サンケイ戦の四種目総合に優勝した名選手であった。

● スクリブナーで日本のダンスが変わる

昭和30年、英国からグレートチャンピオン、レン・スクリブナー、ネリー・ダカン組を迎えて、初の外人単独審査が行われた。戦前、戦後を通じて、本だけに頼っていた日本のダンス界が初めて本場イギリスのダンスに接したのである。それまでの日本のダンスは足で踊るダンスで、スクリブナーのデモを見ても理解できず、チャンピオンの三桝が「あのスクリブナーは偽物だ」と言ったことは有名なはなしである。三桝だけではない。道内の教師も戸惑った。今までは男性と女性はへそを合わせるのが正統な踊りとされており、こうすると動きが鈍くなるのは理の当然で牛若丸のように動き回るスクリブナーを見て驚いたという。スクリブナーの単独審査によって、30年の全日本はそれまでトップの座にあった毛塚は入賞も出来ず、無名であった伴野八郎が一躍チャンピオンになった。その後、伴野は全日本・サンケイを合わせて三度制している。

スクリブナー、ダカン組

● 伊坂英夫の活躍、全日本アマ5度日本一に

また、この大会で頭角を現したのがアマ3位となった伊坂英夫であった。伊坂は札幌一中(現札幌南校)を出て浪人中の26年6月、札幌南3西6、下鳥忠もいた杉山のニューグランド(後のボールルームスギヤマ)でダンスを始め、四か月後の10月の競技会に出場する。三桝のデモを見て感動したのが動機だったが、ブロンズ(今のノービスかD級)に出て2位となった。翌27年から30年までアマの全道を連続制して30年念願の全日本に出場する。以後31年サンケイ戦(ソニー・ビニック単独審査)32年の全日本(ジャック・マグレガー単独審査)34年サンケイ戦(ソニー・ビニック単独審査)同年全日本(札幌開催)36年サンケイ戦(ジャック・マグレガー単独審査)に優勝。5回優勝の輝かしい成績を収めている。

 このころ、日競連は全国統一されていて東部と西部は総局、北海道は東部傘下の支局として運営された。後に北海道は九州と共に中部に先駆けて総局となるが、伊坂の活躍によるところ大と言わなければならない。アマでは37年に大和富夫(札幌下鳥教室)が伊坂を抜いて3位になったのを始め、吉田定男(今井百貨店)田中和馬(朝日新聞)=いずれも赤塚教室=がラテンで、近藤幸人がモダンで全日本に入賞したのは特筆に値する。

1961サンケイ杯優勝の伊坂組。右はプロ優勝の桝岡組

      伊坂英夫氏

● 内閣総理大臣杯、旭川で開催、苦労した村井清次

昭和32年9月29日、自由民主党旭川支部青年部が主催する文化祭と銘打って、内閣総理大臣杯(岸信介自民党総裁)が旭川市民会館で開かれた。この大会は日競連公認で行われ、プロチャンピオン広瀬謙一とアマチャンピオン伊坂のデモが大会を盛り上げた。岸信介の”文化祭に集える青年諸君へ”と題する挨拶は「国家発展は青年の力による」「共産主義の脅威は無視できない」「強力国家ではなく福祉、文化国家を実現せよ」など文化祭の行事は多種であったにしろ、ダンスのダの字もなかった。

 村井清次(当時旭川支局長)はこの大会の準備と開催運営をダンス界側の代表となって、ほとんど一人できりもりした。なにしろ自民党主催だからダンスのわからない人たちとの折衝ははかどらないし、旭川で初めて開く全道大会とあって32年正月ごろから開催まで自分の仕事はほとんどできなかった。おまけに開催直前になって出場者や審査員のトラブルもあり大奮闘であった。現在のように多くの会員がそれぞれに係りを担当して整然と行われている競技会と比較すれば、規模的には小であっても村井の苦労は想像に難くない。この大会には下鳥、赤塚、亀岡巌、浅井信博、有本勝敏らが出場している。結果は優勝を下鳥と東京から参加の浜田純一が分けたほか村井と浅井は入賞している。音楽は陸上自衛隊第二管区総監部音楽隊が出演。翌日の新聞には「いかめしい名前のダンス競技会」と見出しがついたのも面白い。

      内閣総理大臣杯開会式

      内閣総理大臣杯決勝戦

◇ コラム 昭和32年頃の道内の教室 (25軒)

 ○ 札幌地区

    ボールルームスギヤマ     札幌市南2西4        杉山安次

    しもとりダンス教室      札幌市南14西7      下鳥 忠

    ボールルームマルヤマ     札幌市南1西20      日向 省二

    エルムダンス教室       札幌市南2西7        横山 俊雄

    東会館ダンス教室       札幌市南3東3        山口 雅子

 ○ 小樽地区

    グリーンクロスダンススタジオ 小樽市緑町1丁目     田口敏彦

    O・D・Bサークル       小樽市稲穂町産業会館 若林直治

 ○ 函館地区

    バオンダンススタジオ     函館市松風町     田口泰一

    田辺ダンススタジオ      函館市蓬来町     田辺一郎

 ○ 岩見沢地区

    岩見沢ダンス教室       岩見沢市1-4          角尾正敏

 ○ 旭川地区

    上海ダンススタジオ      旭川4-7          大西康文

    ミス旭川所属スタジオ     旭川3-8          津辻義春

    モンテカルロダンススタジオ  士別大通西8       工藤熊男

    国際ダンススタジオ      留萌開運町      赤松豊裕

    ロンドダンススタジオ     留萌開運町      佐藤憲三郎

    留萌ダンススタジオ      留萌錦町       木村治三郎

    ミス稚内ダンススタジオ    稚内仲通り      伊藤儀郎

 ○ 室蘭地区

    ニューオリオンダンススタジオ 室蘭本町55      加茂勇一

    ボールルーム中央会館     室蘭輪西       一ツ橋孝子

 ○ 帯広地区

    ダンススタジオ坂本会館    帯広西2南9      坂本圭司

    ダンススタジオ る・もんど  帯広西3南10       加地モト

 ○ 釧路地区

    シルバーダンススタジオ    釧路大通り      中村ハル

 ○ 北見地区

    キングダンススタジオ     北見3条西3      宮川直信

 ○ 滝川地区

    オアシスダンススタジオ    滝川明神町      清正次

● 全日本選手権の北海道初開催

昭和34年10月3日(土)北海道が総局に昇格した記念行事として全日本戦が札幌で開催された。北海道放送がHBC会館の落成記念行事として共催をかってでてくれた。会場は札幌中島スポーツセンター。4総局から選手が出場した。当時としては東部(東京)西部(大阪)以外で全日本を開催するのは初めてのことであった。また民放がテレビ放送を始めたばかりで、HBCが会場にカメラを据えて競技は生放送された。0時15分から午後3時45分までは道内放送で、3時45分から4時50分までは全国ネットで、計4時間30分の生放送は今では夢のような話である。テレビを見て会場に駆け付けた人も多数いたと聞く。競技会の収支は100万円ほど赤字を出して北海道放送さんにご迷惑をおかけしたが、裏話として「あんな素晴らしい画面が放映できたのだから赤字は仕方がない」と言っていただけたのがせめてもの救いとなった。この大会でアマの伊坂が優勝した。競連はこのHBCの恩義に報いるため、48年の全日本の主催者(全日本は毎日新聞と日本競技ダンス連盟の主催)に北海道放送を加えるという後日談がある。その後、この48年と59年にそれぞれ札幌で全日本が開かれたが、48年には三笠宮ご夫妻も熱心にご観戦になった。

      昭和34年初の全日本戦

● 毎日杯、助川杯、道新スポーツ杯

毎日杯は30年代最後の39年、ダンス界不振に活を入れる意味もあって起死回生の策として計画された。経緯は前出の通りである。第3回から3年にわたってオープン制をとり、いずれも東部の選手が上位を占めている。新聞社が主催して行った競技会は道内では初めてのことであった。しかし助川五郎(札幌市出身、別項)の他界により「助川杯大会」を設けることになり、46年からは時期や規模をこの大会に譲り、全日本が毎日新聞社主催なので、この予選を兼ね、秋に行う全道選手権を「毎日杯」としたのである。

 助川杯は46年、助川のダンス界に残した偉大な足跡をしのんで出身地札幌で第1回を開催、第1回こそ道内選手のみで行われたが、翌47年からはオープン制がとられ全国から一流選手が参加するようになった。これは当時低迷していた北海道の競技ダンスに活を入れるとともに、技術指導と競技内容の充実を計ってオープン制にふみ切ったものである。当初、道内の選手から「出る幕がない」と苦情もあったが、今にして思えば道内競技ダンスを盛んにする口火となったことは明白である。

 道新スポーツ杯はスポーツとレジャーを内容とする同紙の創刊(57年)を記念して翌58年から実施されたものだが、これには道新のダンス講座を担当していた赤塚文彦や池田徳雄、清佐三男(当時ステレオホール経営、後に清佐ダンス教室主宰)らが橋渡し役となった。道スポ側は古内一成氏と東邦夫氏が窓口になった。古内に強力な助言者となったのはダンス愛好者である恭子夫人だという裏話もある。以後、ダンスブームが訪れ、どの競技会も年を追うごとに盛況で、入場券も当日売りが早々に売り切れるほどで、昔を知る人たちにとってはそれこそ今昔の感にたえないところだろう。

● 14年ぶりの全日本選手権大会

 昭和48年、全日本ダンス選手権大会が、札幌市真駒内アイスアリーナでに三笠宮、同妃両殿下をお迎えして、14年ぶりに開催された。毎日新聞社と北海道放送との共催で大会委員長杉山安次、大会実行委員長は日向省二を中心として運営された。プログラムを見ると、挨拶が3氏、祝辞が10氏、回想文が2氏から寄稿されている。全国から期待と注目のほどが知れる。また全審査員の「私の審査観」と題したものが掲載されている。ゲストとして歌手の金井克子を迎えている。プログラムの広告を見ると当時の世相が感じられる。ススキノのホテルが2件、ナイトクラブ、スナックが10件、地方都市の夜の飲食店が4件、道内のダンスホール5件の広告が載っている。ススキノのホテルが1泊1,800円~、フジタのモダンドレスが2万円~、ラテンドレスが1万円~とある。セキネの女性用シューズが2,900円~となっている。昭和47年から48年はインフレで物価が高騰している頃のものだが、この値段が高いのか安いのかは現在の人には理解しがたいであろう。なおこの大会が終わった10月にいわゆるオイルショックといわれる狂乱物価の時代が始まる。

北海道選手はプロモダン8組、プロラテンが3組、アマモダン24組、アマラテン4組、アマオールドボーイズ10組であった。プロモダン出場者は佐々木克夫・和田恭恵組、八木忠・渋谷加代子組、清佐三男・前田悦子組、鎌田秀昭・菊池昭子組、橋本弘・橋本範子組、鈴木昌憲・鈴木洋子組、中畑弥撤夫・大泉祥子組、木村雄一・小川タカ子の8組。プロラテンは有間正幸・有間のり子組、橋本弘・橋本範子組、中畑弥撤夫・大泉祥子組の3組。そしてアマチュアの部に前塚昇・前塚洋子組、佐藤伴幸・優子組、近藤幸人・近藤典子組の名が見える。

● 世界に道を通した審査員、日向、杉山

昭和49年、当時競連の副局長だった日向省二がインターナショナル日本代表審査員として初めて海外に派遣されたのは画期的なことであった。日向はその後も51年にヨーロッパ選手権、翌52年には再びインターナショナルの日本代表審査員となっている。これで世界に道をつけた日向は54年西独に留学、「ニュー国際社交ダンス」の普及につとめることとなる。当時総局長の杉山安次も50年世界選手権日本代表審査員となっている。

● 世界チャンピオン続々来道

一方、毎日杯や助川杯が開催するに及んで外国選手、特に世界チャンピオンの来道が相次いだ。大会の審査をする他、それぞれにデモンストレーションを行い観客を魅了した。現在までに北海道を訪れた主な外国選手は次の通りである。

マイケル・ニーダム(英)、アンソニー・ハーレー(英)、ピーター・イグルトン(英)、マイケル・ステリアノス(英)、アラン・フレッチャー(オーストリア)、アレックス・ムーア(英)、ゲルド・ハードリッヒ(西独)、ルディ・トラウツ(西独)、リチャード・グリーブ(英)、エスパン・ソルバーグ(ノルウェー)、ロビン・ショート(英)、ボビー・ショート(英)、スティーブン・ヒリア(英)、ドニー・バーンズ(英)

 チャンピオンの座についた人たち(昭和22年~昭和61年)

 北海道社交舞踏教師協会が設立する前の昭和21年に開催された競技会でチャンピオンになったのが若林直治であったのは前述のとおりであるが、その後の資料は断片的である。少ない資料の中から紹介すると昭和26年に小樽北海ホテルと札幌グランドホテルで2日間にわたり開催された全北海道オープン4種目では1位から順に、日向省次(札幌)、若林直治(小樽)、田口敏彦(小樽)、田口進(函館)、下鳥忠(札幌)、加茂勇一(室蘭)、小野正男(小樽)、大隅一昭(函館)、田邊一郎(函館)、下野康男(札幌)とある。札幌3名、小樽3名、函館3名、室蘭1名である。当時のダンスの盛んな地域がうかがえる。昭和20年代、30年代の詳細な記録はないが、その間チャンピオンの座についた人は若林直治、日向省次、下鳥忠、浅井信博、田口貴久、池田徳雄である。昭和39年に第1回毎日杯が開催されてから昭和61年までの間、赤塚文彦、小泉保夫、鎌田秀昭、山田耕司、後藤忠則、鈴木昌憲、橋本弘、有馬正幸、水戸哲生、清佐三男、森口修、忠鉢敏、佐藤伴幸、小泉學、練合拓泰、らがチャンピオンとして名を連ねている。

昭和61年時点での優勝回数は次のとおりである。

 ・毎日杯(第1回~第23回)

   スタンダード

     3回 鎌田秀昭・菊池昭子 組

     3回 小泉保夫・小泉美笛 組

     3回 佐藤伴幸・佐藤優子 組

     3回 忠鉢敏・忠鉢栄子 組

     2回 赤塚文彦・赤塚美津子 組

     2回 小泉 學・睦子 組 (その後3回優勝)

     1回 山田耕司・佐野深雪 組

     1回 橋本弘・橋本範子 組

     1回 清佐三男・伊藤清子 組

   ラテン

     4回 佐藤伴幸・佐藤優子

     3回 小泉保夫・小泉美笛

     2回 鈴木昌憲・鈴木洋子 組

     2回 有間正幸・有間のり子 組

     2回 森口修一・森口ちずる 組

     1回 鎌田秀昭・菊池昭子 組

     1回 後藤忠則・大谷房子 組

     1回 水戸哲生・兎沢範子 組

     1回 忠鉢敏・忠鉢栄子 組

     1回 小泉 學・睦子 組(その後1回優勝)

     1回 練合拓泰・鈴木晶子 組

   両部門同時優勝

     第 7回       鎌田秀昭・菊池昭子 組

     第17・22回   佐藤伴幸・佐藤優子

     第20・24回   小泉 學・小泉睦子 組


昭和58年から始まった道新スポーツ杯は東部からの審査員を入れて開催された。

 ・道新スポーツ杯(第1回~第4回)

   スタンダード

     2回 佐藤伴幸・佐藤優子  (その後1回優勝)

     2回 小泉 學・睦子 組 (その後2回優勝)

   ラテン

     4回 佐藤伴幸・佐藤優子

   両部門同時優勝

     第 2・3回      佐藤伴幸・佐藤優子 組

 昭和50年代後半からプロ選手が急激に増加し、昭和61年道新スポーツはではスタンダード47組、ラテンアメリカンは31組のエントリーがあった。当時D級N級はベーシックのみという規定もあり、オープン戦にはほとんど出場していない。出場しないD級以下の選手は会場係に回された。当時のD級競技会はベーシック競技会でスタンダード40組、ラテン30組ほどが出場していた。合わせるとプロ選手の登録は80組くらいあった記憶がある。この頃、クラス別競技会で頭角を現してきた若手プロがその後、平成の時代と共に全国で活躍するようになるのである。

   若林 直治

   日向 省二

下鳥 忠

浅井 信博

赤塚 文彦

   池田 徳雄

小泉保夫・深笛組

鎌田 秀昭

鈴木 昌憲

橋本 弘

有馬 正幸 

水戸 哲生(兎沢範子)

清佐 三男

忠鉢 敏

佐藤伴幸・優子組

小泉 學

練合 拓泰

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