社交ダンスの再ブーム到来
● バブル景気
アメリカの対日赤字を解消する目的で、ドル高是正のための為替操作を要求された昭和60年のプラザ合意により急速に円高が進行し、対策として低金利政策を実施した。その結果、企業は多額の融資を受けことが可能となり、その資金を投機に向けていった。その結果、土地や株式が高騰していったのがバブル経済の始まりである。昭和62年の東京都の地価上昇率は前年度比85.7%で、銀座では1坪1億円を超え、東京23区でアメリカが買えるとも言われた。安田海上火災がゴッホの「ひまわり」を53億円で落札したり、横井秀樹氏 がエンパイアステートビルを買収したことが話題になった。日本の外貨準備高が世界一になり、国民の資産も大幅に増加した時代である。就職は売り手市場、「土地は絶対に上がり続ける」という土地神話もあり、多くの人が将来に全く不安を持っていなかった時代で、資産のある人は財テクに夢中になった。しかし、そのバブル経済は融資の上限を定めた総量規制や公定歩合の引き上げによって平成2年に終焉を迎えた。
● バブル景気と社交ダンス
バブル景気の間、「きらびやか」「華やか」なイメージを持つ社交ダンスは世の中の風潮に合致していた 。教室には新規入会者が多数押し寄せた。教師は朝から晩まで忙しく働き、一日20レッスンは普通で24レッスン働く猛者もいた。個人レッスンは空き待ち、サークルも定員を超え、順番待ちというときもあった。教室のパーティーでもデモンストレーターに事欠くことはなく、生徒全員がメダルテストを受けるという状況でダンス教師の収入も同世代の会社員を遥かに超えていた。昭和32年に25軒しかなかったダンス教室も昭和62年には100軒近くまで増加した。教室のチェーン店化も進み、鈴木ダンススクールは南1条、駅前、三愛デパートに教室を構え、別にダンスホール1軒も擁した。最大30名の教師が名前を連ねた。佐藤伴幸ダンススクールも滝川、江別、南郷と教室を拡大していった。この昭和50年後半から昭和60年代前半は毎年40名ほどの教師資格取得者が誕生したが、それだけ需要があった、もしくは見込まれていたという事である。この頃からプロの道に進む大卒者が多くなり、北海道大学、北海学園大学の競技舞踏部出身者が新卒で入ってくるようになる。現在の連盟、協会の幹部はいずれもこの時代にダンス界に入ってきた人達である。その後、平成2年にバブルは崩壊しても影響は少なく客足は変わらなかった。経済的にゆとりのある個人の顧客が中心であったためだろうと推測する。世間から富裕層が通っているとみられていたダンス教室には趣味と自身の営業(商売)を兼ねて通う人もいたり、中には詐欺まがいの人も出入りした。旅行会社は社交ダンスをパッケージした商品、温泉ホテルのダンスツアーからブラックプールツアーまで多くのダンスツアーを企画した。多くのダンスホール、パブやホストクラブと言った店も社交ダンスを売りにして営業していた。また当時、教室のパーティーに出演するアマチュアデモンストレーターはドレスを新調するのが主流で、ドレスメーカーも活況を呈した。平成7年10月1日には真駒内アイスアリーナで「ダンスマイライフフェスティバル」が開かれ、史上最高の1万人の参加者を集める大盛況で地方都市からバスを連ねて多くのダンスファンが集まった。生涯学習の名に相応しい様々なダンスの楽しみ方が披露された。 北海道の主要な温泉地にも競技会が誘致された。登別の第一滝本杯、定山渓のビューホテル杯、洞爺の天翔杯である。このブームによってダンス教室が潤うと同時に関連産業も一緒に潤った時代であった。