財団法人設立と分裂
● 財団設立
平成4年、ダンス業界隆盛をバックに更なるダンス文化の普及を目的に日本競技ダンス連盟を発展解消して財団法人日本ボールルームダンス連盟(以下JBDF)が設立された。それに伴い同年、日本競技ダンス連盟北海道総局が(財団法人)日本ボールルームダンス連盟北海道総局(以下JBDF北海道総局)として新たにスタートをした。この法人化は文部省の管轄に置くことで風俗営業からの脱却、学校教育への参加、アマチュアを包括する団体などを目指したが、これに反対する勢力が全日本ダンス教師/ダンススポーツ議会(以下AJDT/DSC)を同時に設立、これにより昭和25年設立の日競連が分裂し、40年余りの歴史に終止符を打った。このAJDT/DSCがICBD( 国際ボールルームダンス評議会=現在の世界ダンス議会WDC ) に、 JBDFに先駆けて加盟して日本で世界選手権が開催できる唯一の団体となったため、様々な憶測を呼んだが結局は杞憂に終わった。 このことは全国の総局へと波及し、北海道でも財団法人移行に懐疑的な声も上がった。
● 財団法人移行と北海道の動き
現JBDF相談役の鈴木昌憲氏と佐藤伴幸氏に当時の状況を聞いた。
(森下)財団設立前後の動きを伺いたいと思います。
(鈴木)日競連を財団法人化する構想を創り上げたのが、林健太郎氏(財団初代会長)、玉井清氏、原潔氏、桝岡肇氏らで、目的はダンス教師の地位向上だったんです。そこに佐野さん(理事)が入ってきて骨子を作ったんです。そして財団設立準備委員会が出来、北海道からは僕と、久木実先生が委員として入っていったわけです。そこで練った話を北海道に持ち帰ったわけですけど「はい、わかりました」とはいかず、色々と軋轢が生まれました。しかし当時北海道総局長だった赤塚文彦先生は積極的に賛同し、実現に向けてリーダーシップをとったんです。
(佐藤)その時の説明では文部省の管轄下になることで、市町村の体育館、施設が優先的に借りられるとか学校教育に参加できるとかという話がありました。
(森下)財団法人化はいいことずくめの話のように聞こえますが、反対派の理由は何だったのでしょう。
(鈴木)物事を変えることや時代が変わることに不安や抵抗を感じたのかもしれません。私と佐藤先生は新しいダンス界をつくるため財団法人化が必要というスタンスでしたが、2人の関係を対立、悪化させ、この話を頓挫させようとする動きもありました。結局、総会で賛否をとったら賛成500、反対100で承認されたわけです。
(佐藤)この反対100名はやはり東京の反対派の先生と関係の深い先生ですね。それと北海道の重鎮と言われる人にとって日競連北海道総局は北海道ダンス教師協会の下部組織という認識でしたから、下部組織が主流派になってダンス界をリードしていくのは抵抗があったのかもしれません。その頃、私は総局に入って日が浅かったのですが、日競連北海道総局が何かやろうとするときに北海道ダンス教師協会に話を通して許可をもらう必要があったような感覚を持っていました。
(鈴木)北海道の第1世代が日向先生、下鳥先生、若林先生らで第2世代が赤塚先生、宮川先生、山口先生、第3世代に鎌田先生、小泉保夫先生、そして私らがいたんですが、その頃、第2世代が日競連北海道総局を動かしていました。世代間での対立があったようです。私が赤塚教室にいたときも赤塚先生と第1世代の先生と電話でよく揉めていました。
(佐藤)何事にもメリットとデメリットがありますが、反対派はデメリットばかりことさら主張してましたね。
(森下)そもそも東部総局での反対派はなぜ反対だったのでしょう
(鈴木)まず、全ダ連(高岡氏)が反対でした。教師の技術級とか風俗営業撤廃に関して意見の相違があったようです。高岡先生は北海道の日向省次先生とつながりが深かったようです。
(佐藤)聞いた話ですが、毛塚鉄雄先生は当初財団に入ったのですが、父親の睦男先生が理事に入っていなかったことや自身の処遇の不満から財団を出たと聞きます。それなりの立場があれば出なかったと思います。斎野先生も説得したそうですが駄目でした。
(鈴木)私と毛塚鉄雄先生とは親交があったのですが、不満を漏らしていましたね。「10年も外人の荷物運び」だと。桝岡先生も「もう少し我慢をしろ」と言っていたようですが。中川先生は切れる人だから自分の技術団体ごと出て行ってしまった。東部総局は厳格な序列が存在していて自分に順番が回ってくるまで待つのは我慢ができなかったようです。小島先生は色々な理由で主流派ではなくなったので、出るしかなかったのかもしれません。ただ中川先生も小島先生も英語が堪能で世界で人脈を作るのが上手く、いつのまにか日本の代表のようになってしまった。結局、その後のICBD(WDC)では重要な地位を務めました。
(佐藤)中川先生には私も留学中にお世話になったりして親しくさせてもらった経緯があって、中川先生が技術団体を作った時に誘われました。入ろうかなと思いもしたのですが、入っていたらその後の分裂の時に苦しい思いをしたかもしれません。
(森下)北海道に話を戻しますと、幹部の先生方でも財団設立に賛成、反対と意見が二分したわけですが、どのような色分けになりましたか。
(佐藤)反対派は日向、下鳥、加茂、池田の各先生ですかね。若林先生は微妙ですね。田口、宮川、山口、亀岡、田邊、浅井の各先生は賛成派です。
(鈴木)田邊先生も中川先生と関係が深かったのでとにかく説得しました。
(佐藤)少し若い世代では東部の反対派と関係の深かった忠鉢敏、藤田孝幸、宮川登美子、斎藤順二の各先生が結局、財団と袂を分けました。選手の中でも、財団側にいても競技に勝てないという理由で離れていった人もいました。
(鈴木)私と佐藤先生と将来のダンス界についてをよく話をしましたが、ダンス界を生まれ変わらせようという思いがありました。そしてお互い切磋琢磨して頑張ってきました。ダンスの先生が経済的、ステイタスも含めて夢を持てる社会、ダンスが少しでもメジャーに近づくという事を考えていました。そのために競技会を改革したり、全国で通用する選手を育てるという事を考えていました。
(佐藤)鈴木先生と同じ理想をもって行動し、北海道を割らないという考えが大事だったと思います。
(森下)北海道も色々あって分裂を避けられなかったわけですが、他総局と比べると財団法人化賛成が多数を占めてスタートを切ったわけですね。
● 風俗営業法改正とプロダンスインストラクター協会の設立
平成10年に風俗営業法が改正され「国家公安委員会指定団体が認定したダンス教師が営むダンス教室は自主規制の下、風営法の適用除外とする」ということになった。この指定団体とは全国ダンス協会連合会(以下全ダ連)と財団法人日本ボールルームダンス連盟(以下JBDF)である。そこで平成11年にJBDFの下部組織としてプロ・ダンス・インストラクター協会(PDI)が全国都道府県に設立された。平成11年3月21日に北海道プロ・ダンス・インストラクター協会(以下HP/DIA)が設立された。ここに全ダ連-北海道ダンス教師協会(HATD)とJBDF-HP/DIAの二つの選択肢のどちらかを選ばなくてはならなくなる。HP/DIAの初代会長は宮川直信、副会長に亀岡巌、田邊慶治、鎌田秀昭の各氏が就任した。
● プロ競技団体の三つ巴とアマチュア競技団体
このAJDT/DSCは平成8年に競技部門が独立して日本ダンス議会(以下JDC)となった。さらに平成9年には日本プロフェッショナルダンス競技連盟(以下JCF)がJDCから分離・設立された。また、昭和52年に設立されていた日本アマチュアダンス協会(JADA)は元々、日競連東部総局のアマチュア部として活動していたが、平成10年に日本ダンススポーツ連盟(JDSF)としてスタートした。平成12年には JBDF、JDC及びJCFの3者で日本プロダンス協議会 (JNCPD)を設立し、「プロフェッショナル統一全日本ダンス選手権大会」が開催されるようになり、この結果により世界選手権の代表派遣選手が選考されるようになった。世界との繋がりでは世界ダンス議会(WDC)サイドにJBDF,JDC,JCF, 世界ダンススポーツ連盟(WDSF)サイドにJDSFという図式になった。JNCPDは平成26年に解散となるが、その後同じ役割でNDCJ が設立される。
● 風俗営業法改正とプロダンスインストラクター協会の設立
平成10年に風俗営業法が改正され「国家公安委員会指定団体が認定したダンス教師が営むダンス教室は自主規制の下、風営法の適用除外とする」ということになった。この指定団体とは全国ダンス協会連合会(以下全ダ連)と財団法人日本ボールルームダンス連盟(以下JBDF)である。そこで平成11年にJBDFの下部組織としてプロ・ダンス・インストラクター協会(PDI)が全国都道府県に設立された。平成11年3月21日に北海道プロ・ダンス・インストラクター協会(以下HP/DIA)が設立された。ここに全ダ連-北海道ダンス教師協会(HATD)とJBDF-HP/DIAの二つの選択肢のどちらかを選ばなくてはならなくなる。HP/DIAの初代会長は宮川直信、副会長に亀岡巌、田邊慶治、鎌田秀昭の各氏が就任した。
● その後の競技団体
平成15年には日本プロフェッショナルボールルームダンサーズ協会(JPBDA)がJCFから分離・設立され、平成26年にはNew-JDCがJDCから分離・設立された。平成28年、JDSFにプレミアディビジョン(PD) 部門が設立され、一部のJBDF役員、選手が移籍した。JPBDAとNew-JDCは平成30年までJDSFのアマチュア競技会の全国統一級に同調し協力体制にあった。国内のプロ3団体(JBDF、JDC、JCF)の協議機関としてNDCJが設立され、3団体の合意のもと活動を続けてきたが、令和2年、JDCがWDCから脱退し、新たな組織・世界ダンスオーガナイザーズ(WDO)への加盟を決定したのに伴い、NDCJからも脱退することになった。