私のダンス人生      佐藤伴幸

 私が10歳の時母が、そして17歳の時父が亡くなり私は高校を中退し当別町の山奥の親戚に引き取られましたが、私はそこが嫌で家出をし、当時付き合っていた優子(現在の妻)の家に転がり込みました。ダンスホールを経営していた優子の母も快く迎え入れてくれました。

私は建築会社に勤めましたが、給料で足りないくらい毎夜飲み歩いていたので優子が近所の手芸店等でアルバイトをして助けてくれました。戦後の当別町は農村地帯の小さな町ながら航空自衛隊のレーダー基地があることから進駐軍(アメリカ軍)や自衛隊の隊員が数多く滞在していたので、映画館やパチンコ店、芸者さんがいる割烹、バーやスナック、ダンスホール、その他飲食店等が多くあり一晩中人が歩いている活気のある町でした。優子の母が昭和35年頃ダンスホールをオープンすると連日満員で床が抜ける日もあったとの事です。しかし時代の流れと共に私が転がり込んだ昭和42年頃には商売も下り坂で閑散としていました。

その後立地の良い所に移転する事となり優子の母からホールを手伝う様頼まれ、カウンター内のバーテンということで引き受けましたが、女性客が大変多かった為ダンスを覚えて女性の相手をする事となりました。私のダンスへの第一歩です。昼は建築会社、夜はダンサーを2年程続けていましたが、優子の母から若い頃ダンスの競技会に出るのが夢だったが大病をして実現出来なかったので、優子と二人でカップルとして一度で良いから競技会に出てほしいと言われ、一度だけならと出る事にしました。母は若い頃からボールルームマルヤマに於いて赤塚文彦先生や鎌田秀昭先生に指導を受けていたので鎌田秀昭先生が独立をしたのを機に私達は鎌田先生に指導を受ける事になりました。2年間のアマチュア選手生活の後昭和49年にプロに転向し北海道社交舞踏教師協会に入会しました。

私も昼は鎌田教室に勤務、夜は母のホールでダンサーを10年間続けてきました。この間の10年、母は鎌田先生のレッスン代はもちろんの事、東京や海外のコーチャーのレッスン代を全て出してくれていたのでお金を気にする事なく受ける事が出来ました。また車も2年に一度車検を取る事なく買ってくれました。特に大先輩の小泉保夫先生が最後の大会となった時、小泉先生に勝ったら当時乗れる人が少なかったトヨタのクラウンを買ってくれるとなり死ぬほど踊り込みゲットした時は非常に嬉しかったです。保夫先生からも「俺は伴(バン)の事を尊敬している」と言っていただき更に嬉しかったです。令和410月に母は亡くなりましたが私が今あるのはダンスを勧めてくれ全てにおいて応援してくれた母のお蔭と心より感謝しております。

私がまだチャンピオンになる前、鎌田先生や東京の田中忠先生から「チャンピオンになりたかったら優子痩せろ」と言われていましたが、そのうち先輩が引退すればチャンピオンになれると思っていましたが、秋の毎日杯で単独審査にいらした桝岡肇先生にモダン、ラテン共一次予選で落とされました。競技終了後、鎌田先生と桝岡先生に話を聞きに行ったら「踊りは優勝だがパートナーがスリムじゃないので絵にならない、美に欠けるので最初から審査の対象から外した」と言われたので、そこから次の年の春まで優子の涙ぐましい猛烈なダイエットが始まり、皆からパートナーを変えたのかと言われるぐらい誰か分からないほど痩せました。そして春の大会でチャンピオンとなり優勝が続く様になりました。桝岡先生にその後お会いした時「痩せて踊れなくなった人を沢山見て来たので体に気をつけてくれ、俺の責任になるから」と言われましたが私は「いえ、桝岡先生のお蔭でチャンピオンになれました」とお礼を申し上げました。それからも多くの優勝をさせていただきましたが辛いダイエットに耐え頑張ってくれた優子に感謝しています。

ただ私達の選手の時代は東部の選手は自分達とは違うレベルの人達と思え、全国大会では周りの選手の雰囲気や会場の雰囲気に呑まれ、自分を出して踊る事が出来なく惨めな思いが多かったので、引退後全国に通用する選手を育てたいと強く思いました。そしてその頃鈴木教室の野村組、井川組、大友組が全国で活躍し始めたので負けられないという気持ちで私も頑張りました。そして多くの選手を育てましたが特に米田組、小野組、三宅組、大西組が全国で活躍する選手に育ってくれました。私も鈴木先生同様多くのスタッフと一緒に喜び苦しみを分かち合えた事が最高に幸せな事でした。

なおダンス界に於いて非常に残念に思う事は平成4年に文部省から財団法人の認可をいただいた際ダンス界の分裂がおきた事、昨日までの仲間が急によそよそしくなり会っても挨拶をすることもなく敵意を感じるほどでした。大会に大人数で乗り込んでこられた事もありましたが、私と鈴木先生は去る者は追わず戻るものは拒まずという事で多くの人達に復帰していただきましたが、早くダンス界が一本になる日を願っています。