エシャッぺ 神様と握手 田邊慶治

エシャッぺ

 もう5年も前の話である。定山渓の理事会終了後の会食の席での事である。私の隣の席には旭川支部長の亀岡先生が座っていた。

「亀さん此れ何という野菜なんだろうね?」と私が聞くと、亀岡先生は

「何だ先生、こんなもの知らないの。此れエシャレットと言うんだよ」

「ふーん。釧路ではあまり見かけたことがないんだよなー」

「旭川のデパートや大きな店の食料売り場なら、どこにでも置いてあるよ」

「俺、こういうクセのあるの好きなんだよなあ、アイヌネギとかさ」

会話はそこで終わったが、私の心の中に何かしら引っ掛かるものが残った。

それから1年半たったある日の事、其の日に限って寝つきが悪く夜中に何度も目が覚め、半ば寝るのを諦め、何となく枕元にあったラジオのスイッチを入れた。スピーカーからは心地よい音楽が静かに流れてきた。「タンゴである」それも曲はフェリシアである。「しばらくぶりに聞くなー」と、其のときである。私の脳裏に或ることが突然閃いた、「エシャッぺ」そうだ”エシャッぺ”だ。私の1年半に亙った”もやもや”が消えた。エシャレットで引っ掛かっていたのはエシャッぺだったのである。そこで私の思考は中断した。そしていきなり、その思考は電撃の如く50年前へとタイムスリップしたのである。そこで”もぞもぞ”と布団から抜け出した私は、居間にある書棚から色々なダンス用語集を引っ張り出して調べだした。”あった”(エシャッぺ)フランス語の逃げる、すり抜けるの意。もともとはバレー用語。タンゴのプログレッシブ・リンクの別名となっている。

 昭和22、23年頃から、昭和30年迄、日本で踊られていたモダン4種目と現在踊っているモダン4種目の中では、タンゴほど大きく変貌を遂げたダンスはない。当時の一般的なタンゴの踊り方はタンゴポジションから左足大きく後退”S"→右足に体重を戻す”S”→プログレッシブ・サイド・ステップ(PSS)→右足を”S”で前進し、女性をPPに開き左足を右足の横に置き(シンプル・リンク)”S&”→オープン・プロムナード→ナチュラル・プロムナード・ターンの3,4歩を”SS”と踏み、左足PPで体重をかけずに横に置き→オープン・プロムナード→中央斜めにオープン・リバースターン・レディ・アウトサイド・オープン・フィニッシュ→PSSと云うように踊るため、両足をクローズする場面が少ないので、現在のタンゴのような、シャープで、スタッカートな踊りにはならず、非常に優雅な踊りであった。そこで”エシャッペ”の登場となる訳で、先輩からもっと有効に”エシャッペ”を使えと、よく叱られたものである。

(註)エシャッペは現在のプログレッシブ・リンクとは違い、男子2歩目PPで横少し後ろではなく、2歩目少し後ろにクローズ、PPであり、今のようにシャープな踊りではなかった。

だが、此の日本人が英国の文献だけを頼りに開発した優雅で素晴らしいタンゴも昭和30年、当時の世界チャンピオン「レン・スクリブナー」来日を機に永久に消え去り、したがってあの懐かしい”エシャッペ””シンプルリンク”も二度と日の目を見ることがなく、一条の夢物語となってしまったのである。


神様と握手

 これは昭和30年の出来事である。朝起きて戸外を見る。何と4月だというのに雪である。それもかなり強い。一瞬暗い気持ちなったが、気を取り直して顔を洗う。今日は私にとって記念すべき特別な日なのである。それは今まで夢にまで見た、生まれて初めての東京見物の旅行であると共に、世界チャンピオン、レン・スクリブナー夫妻のダンスを見るため出立する日なのである。いまだに日本の一流の選手の踊りを見たことも無いというのにである。それを思うと沸々と気持ちが高ぶり一瞬の暗い気持ちも何処かへ吹き飛んでしまった。

8時30分、雪はもう止んでいる。列車は静かに釧路駅を発車した。これから30数時間の旅である。明日金曜日の夜7時頃には東京に着いている筈であろう。朝6時30分に函館へ到着した。そして心配した船酔いもせず4時間の船旅を得て、青森に上陸、再び列車に乗り換え無事定刻上野駅に到着した。

 翌日、東京の知人から頂いた紹介状を持って、山家義雄先生のレッスンを受ける事にした。小柄なとても親切な先生で良い勉強になった。明日の競技会のチケットを購入し、帰ろうとすると何を思ったか、先生は「君々田辺君、今夜河野という選手のデモがあるんだが、よかったら見に行かないか」「ありがとうございます。頂きます」河野選手といえば当時の日本では1,2位に位置する選手である。有難くチケットを頂き帰途についた。

 いよいよ河野選手のデモの始まりである。司会者の声と共にそれまで喧噪を極めた店内が急に静かになった。同時にそれまで暗かった照明も徐々に明るくなってきた。それでも完全に明るくなったわけではなく、間接照明とでも云うのであろうか、青白く染まった店内は何とも幻想的な雰囲気である。踊りが始まった。タンゴである。胸が”ドキドキ”する。見事である。1歩1歩のウォーク、まるで猫である。リズムの限界まで残す後ろ足、猫が鼠を狙う時のようなウォーク、女子をくるりと回転させPPに、そしてオープンプロムナードへ・・・。踊りが進むにつれ時々見せる”コントラチェック””オーバースエー”そして時々効果的に使う”エシャッペ”等々・・・・、其の度に私の神経は私の意図とは関係なく「ピクリ・ピクリ」と私の体を動かすのである。瞬く間に踊りは終わった。何という素晴らしさなのであろう。これが本物のタンゴなのだ。明日はこのように素晴らしい選手が何組も何組も踊るのである。明日への期待に胸をときめかせながら帰路についたのである。

 翌日全日本選手権はアイスパレスで開催された。広い会場はもう大観衆で埋め尽くされ、そしてフロアーの上では選手が思い思いに練習をしている。「いるいる。昨夜私にあれほど感激をあたえてくれた河野組」プログラム片手にゼッケンを照合しながら有名選手を探しては其の踊りに見惚れていたのである。

 さあいよいよ競技開始である。うっとりしながら時間のたつのも忘れ見とれていた。まさに羽化登仙の境地とは此のことであろう。いよいよ上位決勝である。そして私は愕然としたのである。「いない、河野組がいない」さらに驚いたことに当時の一流選手が一組も入っていないのである。これは一体どういう事なのであろうか・・・・。

 そして本日のメーンイベントである。レン・スクリブナー&ネリー・ダガン組によるデモンストレーションの始まりである。私ばかりではなく会場の大観衆、競技選手、コーチャー等々生まれて初めて見る世界チャンピオンの踊りを今や遅しと固唾を呑んで見守っていた訳であります。踊りが進むにつれて会場から軽い溜息が漏れ始めた。それは称賛の溜息ではなく、いわば軽い失望感の溜息であった。それは私たちが予想していた踊りではなかったからである。私たちが期待しているのは、私たちが今踊っている踊りの最高のもの、要するに今の日本のトップの踊りの延長線上にある素晴らしい踊りを期待していたのである。情けないことに当時の私の貧弱な技術ではスクリブナーの踊りは到底理解できなかったのである。

 それから7年後の昭和37年、今度は妻との二人旅である。真新しい出たばかりの8ミリカメラを持って、当時の世界チャンピオン、ビル・アービン夫妻の踊りを見るための旅である。もう私はプロの競技選手として競技性活をしていたので、7年前のようなことはなかった。ダンスの神様とまで云われたアービン夫妻の踊りをかの河野選手の踊りを始めてみた時以上の感激を持って鑑賞することが出来たのである。それにしても返す返す残念なのは、7年前今だけのダンスを見る目があればスクリブナーの踊りを理解することができたのに・・・。帰りはアービン夫妻のデモの余韻を残しながら妻との新婚旅行ならぬ、結婚12年目にしてはじめての旧婚旅行である。京都、大阪、奈良を見物し充実した気持ちで帰路についたのである。

 平成10年8月27日、今日は今は亡き函館の出口先生の教師生活40周年記念の祝賀パーティーの日である。午後6時、入り口で記帳を終え係の方に案内され席に着こうとし、ふと隣のテーブルを見ると、何と夢にまで見たかのダンスの神様アービン夫妻がいるではないか。呆然として突っ立ってる私につのついたアービン先生は何を思ったか、立ち上がって手を差し伸べているではないか。おそらくどこかで会ったことのある日本人だろうと勘違いをしたものと思われる。そして私は思わず握手してしまったのである。

 嗚呼、これが今から40年前であったなら・・・・・残念・・・