協会設立前後の事情とその後の流れ


● 自称教師が続々と統一のために協会設立へ

 前述したように、戦後、猛然と襲ったダンスブームは、進駐軍の上陸とともに拡まった。

・証言1(若林)進駐軍は、真駒内に基地が完成するまで、小樽と函館に1万5千人が駐留した。進駐軍の要請もあって小樽に5ヵ所、函館に2ヵ所、進駐軍と日本人用のホールができた。


 ダンス熱はとどまるところを知らないかのように都市といわず農漁村といわずに高まっていった。当然のことに習う側に対して教える側の需要も急がれた。統一団体のない当時、正規の資格をとりにくかったせいもあったが、教師と自称するダンスマニアが多数出現した。

・証言2 (日向)自分勝手に教室の看板をあげていたのが大勢いた。結果は、あの先生はこういった。あの先生は違うじゃないかとバラバラで、ハッタリをきかせたものが偉そうな顔をしていた時代で、その実スタンダードもわからないのがいた。


 こういう時代にはある程度仕方がなかったかもしれないし、それはそれなりにダンスの底辺拡大には役に立ったものと思われるが、技術的には幼稚かつでたらめだったから、CIEあたりが憂いて乗り出したのも無理はなかった。協会設立の動機はダンスを業とするものの技術的統一と、教師相互間の連携を目的としたものである。一方当時の混乱した世相の中で、物資の不足もその極をきわめ、ダンス教室やホールの建築も思うにまかせない。

・証言3(日向)終戦後は臨時に建築を制限する法律があって、不要不急の業種には資材が配給されなかった。私は自分の貸家を改築して教習所を造ったが、この法律に引っかかって閉鎖された。こういう問題もあり、ダンスを職業とする者たちが、混とんとした世の中で、社会の偏見に立ち向かっていこうということから、戦争中の徴用で帯広に残っていた杉山先生も折を見ては札幌へ出て来られたと思う。


 岩見沢の酒井幸子は、師の田口光雄(函館)のアドバイスもあり、東京に出て中原光夫(現NATD会長)に札幌の杉山安次を紹介される。

・証言4(角尾<旧姓酒井>幸子)中原先生には、君が北海道で仕事をするなら、札幌に杉山という戦前からダンスをやっている人がいるから、杉山と相談して教師協会を作れ」と言われた。ちょうど私は22年8月15日に岩見沢で教室を開くので、手続きのため道庁の行政課に日参していて札幌に出る機会が多かったから、杉山先生と会ってその話をした。


 杉山は22年、ニューグランドに移って営業を開始、ダンスの盛んだった小樽に協会設立の話を持ち込んだ。久保、倉田、松田、針谷らも加わって発起人会が持たれた。

・証言5(若林)協会を作り、会員を認定するためのジャッジ(審査員)

をどうするかが問題になり、結局、久保、倉田、松田、針谷、田口光さんが決まった。中原-酒井さんの話はそのあとだった。発起人会はニューグランドで開いた。