杉山安次を偲んで
杉山安次は北海道ダンス界にとって大きな存在であった。戦前こそ東京で教師をつとめたが、戦後、札幌で教習所”ニューグランド”を主宰。協会設立に際しては実務上の中心人物となり、初代理事長として以後38年間、道踏界に君臨する。現在、協会及びダンス連盟幹部として活躍の人たちで杉山氏の息のかかった人が数多くおられます。また、北海道が誇るアマ全日本チャンピオン伊坂英生を育て、それまで歯牙にもかけられなかった本道のダンスが中央に認められるキッカケとなった。
杉山氏は昭和5年上京して社交舞踏教師となり、昭和10年東京和泉橋ダンスホール主任教師として活躍、戦中のダンス禁止令によりやむなく帰道、戦後の時流に沿って昭和22年には北海道舞踏教師協会を設立して理事長となり、昭和43年には会長に就任、またJBDFの前身日本競技ダンス連盟北海道総局局長の要職を昭和34年から長年にわたって務め、全国ダンス界でも大御所的存在として重きをなした。この様に一貫してダンス界のトップにあって自ら陣頭に立って全国に正しい社交ダンスの普及と競技ダンスの発展に尽くしてきた。この間、昭和48年には西独及び英国における世界選手権大会には日本代表審査員として参加、また昭和26年以来札幌市成人学校ダンス講座の講師を務め、札幌市民文化奨励賞を受賞した。昭和52年、日本舞踏教師協会顧問に選出され、昭和56年1月には健康上の理由によりHATD会長を辞任したが、名誉会長に推挙された。しかし昭和58年、3年来の病が薬効むなしく5月16日入院先の札幌市内西丸山病院で逝去され、80歳であった。葬儀は長男直氏を喪主に、HATD葬として札幌中央斎場で行われたが、道内はもとより全国から各界著名人多数参列の中で行われた。
常に信念を持って事に当たり、献身的に舞踏界の難問を次々に解決して業界発展の因をなした手腕は”北海道に杉山あり”と全国に名を馳せた。また弟子に対しては大変厳しい方で、プロと言うものは人の技術を盗むものだという自立の精神を叩きこんでいった。杉山氏は股関節リュウマチで、脚に故障があったにもかかわらず、ダンスを踊るときはそれを感じさせない技術は今でも関係者の尊敬をするところである。杉山氏の性格はまがったことが嫌いで、生真面目で、厳しさを持っている反面、後輩を大変可愛がった人でした。
杉山氏の心残りは数多くの世界チャンピオンの来道をみながら名選手ビル・アービンを一度も北海道に迎えることが出来なかったことだという。杉山という巨星は今でも天空の一角にあって北海道社交舞踏界の正しい歩と発展を見守っているに違いない。