戦前から協会設立までの北海道ダンス界
戦前から協会設立までの北海道ダンス界
● せっかくできた愛好会は弾圧で、翌日解散
さて北海道のダンスの歴史となると、いつ、どこで始められたのか、ハッキリしない。何らかのキッカケで、東京でダンスを習った人たちが集まって愛好会的なものを作り、楽しんでいたようだ。例えば久保信(註①)は昭和2年、明大スケート部に在籍しているとき、ダンスを覚えた。夏場のトレーニングのためにランニングと、動きは遅いがフィギュアに必要と音感と体の動きが体得できるとしてダンスを選んで、たまたま玉置信吉(註②)と親交ができたことから水道橋にあった玉置の教室へ通ったし、杉山安次(註③)は調理見習いのため、帝国ホテルで修行中に習い覚えた。杉山の兄も妻もダンスはうまかった。久保は、昭和4年に全日本スケート選手権大会にチャンピオンをとった際、玉置の教室で優勝カップで乾杯をしたというから、学生時代はダンスに熱中したと想像できる。昭和5年倉田誠純(註④)松田武雄(註⑤)久保(昭和5年帰札)杉山らが相はかって札幌の松竹座(南4西3、現第三グリーンビル)地下にあったビリヤード場2室を、お互いに金を出し合って、ボールルームに改造し、北海道で初のダンスクラブが誕生。昭和5年当時の金で80円くらいだったというが、昭和初期の物価からすれば、大変な金で、登記人はいずれも良家の出であることがわかる。フロアのはり替えなども済ませ、職員も女性2人を雇い、ダンスを仕込んで札幌の愛好者から会員を募集、会員の夫人たちにも来てもらって、開場した翌日、早速警察が踏み込んで、「お前たちは怪しからんことをやっている」とレコードなども証拠物件として押収されてしまった。満州事変の勃発した前年でもあり国は軍国化へまっしぐらという時局下で、これには軍の意見も入っていた。札幌のダンス弾圧事件である。しかしこの会には村田という大弁護士が後援していたことから、村田はこの弾圧を行き過ぎだとして警察に抗議、結局取り締まった警官は退職せざるを得ない状況に追い込まれた。数年後なら有無をいわせずというところだろうが、まだデモクラシーの余韻が残っていたのであろう。この弾圧事件で、発起人たちも「そこまでやられて、踊っていられるか」と折角金を出し合って造ったホールをあっさりと放棄してしまった。
註① 久保信
元北海道スケート連盟副会長。昭和2年明大時代フィギュアの日本選手権を獲得したスポーツマン。協会設立に寄与、設立総会で議長をつとめた。松田武雄の「社交ダンスの常識」刊行に当たって資料収集に尽力・戦後、倉田、針谷、田口光雄らとともに道公安委員会から教師試験委員を委嘱された。
註② 玉置信吉
日本ダンス界の草分け。戦後のダンス教本は久しくこの人以外のものはなかったので大変なベストセラーとなった。音楽にも造詣が深かった。
註③ 杉山安次
戦前からの教師、協会初代理事長 四代目会長
註④ 倉田誠純
戦前アレックス・ムーアの映画や、世界の有名な舞踏家たちの文献、ダンシングタイムスなど、広く資料を集めて研究。札幌のダンス弾圧事件のあと自宅の二間をボールルームに改造して愛踏家に提供した。
註⑤ 松田武雄
北大名誉教授。北海道舞踏教師協会三代目会長。戦前から熱心なダンス研究家として知られる。
左から倉田、松田、杉山、針谷、久保の各氏
● 自宅をホールに改造、ひそかにダンスの研究を
だがこの人たちはダンスそのものは諦めなかった。倉田は自宅の二間をホールに改造、以後ひそかにこのホールで家族的なダンスに興ずるとともに、倉田の持っていたアレックス・ムーア(註6)のくしゃくしゃになっていたフィルムを丹念にほどいて上映、研究を続けた。警察も担当係官が退職させられたということで、それ以後はやたらに取締らなくなった。それに、ホッペタをくっつけている踊りとは違うという印象を取締側も持ったらしい。あとは戦争にまっしぐらの時勢で、北海道のダンスも、小樽に木曜会(会長北海道印刷社長吉田精一氏)や函館で田口光雄(協会初代副会長)らがさむらい呉服店の加藤兵五郎氏の後押しを受けて、官憲の目を逃れながらダンスに興じたほかは、とり立てて歴史的な材料はない。
註6 アレックス・ムーア
1984年までICBD(国際ボールルームダンス評議会)会長をつとめた。理論派でダンスの世界的指導者。「セオリー・アンド・テクニック・オブ・モダン・ボールルーム・ダンス」(1-9集)はダンス界の指針となった名著。英国人。
昭和5年上京して社交舞踏教師となる。戦後、帰道して昭和22年北海道舞踏教師協会を設立し理事長となり昭和43年に会長に就任。また日本ダンス連盟北海道総局長の長年にわたり務めた。
● そして終戦、教室やホールも続々
昭和20年8月15日、終戦を迎えた日本は、新しいデモクラシーに熱狂する。社交ダンスは進駐軍と共に上陸する。進駐軍は札幌真駒内に基地が完成するまで小樽に駐留したが、小樽ではこれに対応するためすぐダンスホールが生まれた。住吉ホール(黒人占用)花園町の中島屋(白人)海陽亭(同)ニュー銀座の中のEMクラブ(進駐軍用)稲穂町のグランド小樽は日本人占用のホールだった。住吉ホールは後に、戦前東京銀座のナンバーワンの教師で、本道のダンス界に関わりの深い堤一郎が帰ってきた。グランド小樽には協会設立時副会長となった黒崎や、ジャッジをやった針谷謙二(杉山安次の門下、早大時代に教習を受けた戦前のアマ)若林直治(現小樽支局長)らがいた。このほか函館に日本人用のニュー函館があり、この時点では札幌にはダンスホールがなかった。つまり戦後のダンスは港町から始まったのである。
札幌には、21年満州から引揚げてきた近藤弓夫(現若草企業代表取締役)時夫(北海道信号科株式会社社長)兄弟が札幌駅前若草社交ダンス教習所をつくり、これは26年まで続いたが、近藤の話のよれば、引揚げて金もない職業もない状態のとき、大成建設の知人が、フローリングの資材などを寄付してくれたので、どうやら始められたという。若草には、杉山、松田、久保、倉田といった戦前派や、日向省二(現協会会長)らも出入りしていた。若草と前後してできたのが、狸小路の花園(小樽から戸井準吉ら6名くらい)杉山安次のニューグランド、山口雅子の東会館、日向省二のボールルームマルヤマ(当時円山社交舞踊研究所)、いくよ(進駐軍占用ホール)、ゴールデンゲート(ホール)、エルム(ホール)であり、小樽では進駐軍の移動後、グリンクロース(佐原義之)、ニュー銀ホール(犬神某)、港会館(若林)もなみ(小沢-名前不詳)、函館ではニュー函館(教授部長田口光雄)羽生ダンス教室(加藤兵五郎)のほかにパオン(現パオンの前身)など7、8軒ダンスホールがあった。旭川ではハルピン市のロシア人のキャバレーで教授部長をしていた佐原義之がいち早く教授所をつくったし、このあと上海ダンスホールができる。釧路にも教室ができた(コロナ・ダンスホール。後の白鳥)この人はのちに室蘭に移る。室蘭で働いていたのが下鳥忠(協会相談役)加茂勇一(同副会長)である。岩見沢では角尾正敏(同)酒井幸子(現角尾夫人)が22年8月15日に教室を開いている。
戦後は人心も国情も不安定だっただけに、若者は、新しく得た自由をむさぶることにより、将来への曙光を見出した。娯楽もその一つだった。映画館は身動きできない程、ダンスホールは芋を洗うような盛況。職場では講習会が開かれ、都会だけではなく、農村や漁村でも公会堂や学校がパーティー会場となるなど、松田武雄はその著「社交ダンスの常識」の中で「まさに燎原の火の勢い」と書いている。ダンスの普及は、同時にダンス教師を数多く生んだ。教師といっても別に資格があるわけではなく、ちょっとうまくなると教える立場にまわるという自称教師である。もちろん正式に技術を習得した人たちもいたにはいたが、ごく僅かであった。技術もマチマチだったし、教師間の連絡もない。個々バラバラに教えるという状態が続いた。(一部前項と重複)
● 協会設立へCIEもサゼスト
こういう状況ではダンス界の真の発展は望めないと心ある人たちは憂いていた。米国のCIEも、ダンスは社会教育上シビアでなければならない。特に異性同士が組んで踊るのだからマジメにやらないと間違いが起こる。東京も大阪も協会があるのだから北海道でも作ったらどうかと久保や倉田、松田に話を持ちかけた。一同は、どうせやるなら、ホッペタつけて踊るダンスじゃしようがないから正道をゆくダンスをやろうと即座に引受けた。
・ 久保信の証言
1937(昭和12年)にアレックス・ムーアの原書を手に入れた。私はスケートのフィギュアをやっていて、フロア・ビアランス(リンクに出たときに観衆をつかむような力と技巧)などのこともかいてあった。中でもステップよりボデー・ムーブメントが大事だということ。スケートは止まっている瞬間がなく、常に動いている。それだけにボデー・ムーブメントで表現することは大事だ。いまはみんなやっているけれど。昔はステップばかりやっている。やるならこれをやろう、と倉田さんや杉山さんも賛成してくれました。
久保や倉田、針谷、杉山、松田はこうして協会設立に関係する。一方、同じような理由で、教師の現場でも大同団結を目論む声があった。岩見沢の酒井幸子(のちの角尾幸子)は東京で資格をとった22年、中原光夫(現NATD会長)に「札幌には杉山がいるから、帰ったら協会設立について相談してみろ」といわれて、22年4月ごろから、自分の教室の申請で札幌に出るたびに杉山と会った。杉山が動いて協会設立の話は急速に進み、同年8月20日に協会設立の運びとなる。このときの議長は久保である。会長に柳壮一(北大外科部長)、副会長松田武雄、黒崎某、吉田精一、田口光雄 理事長に杉山安次である。こうして北海道社交舞踏教師協会は誕生をみたのである。その前後の事情については、現HATDの幹部の証言と、座談会を基調に記述を進める。