田邊慶治先生の思い出と釧路のダンス事情
田邊ミサ子、田邊慶一、田邊裕子
(森下) では、田邊慶治先生とミサ子先生の生い立ちをお聞かせください。
(ミサ子) 慶治は昭和3年2月に芦別で生まれ、尋常高等小学校を卒業後に15歳で国鉄に就職しました。勤務地は滝川機関区でした。ダンスはその頃覚えたようです。その後、札幌にあった機関士の養成所に2年間入所し、18歳で機関士になりました。その後、釧路に転勤。そして21歳で釧路市の資格、22歳で現在のダンス教師につながる資格を取得しますが、それまでの間、杉山先生に師事、赤塚先生、宮川先生とも親交をもちダンスの勉強をしたようです。しかし遠隔の地であるため、習うという以上に文献や後には8ミリで研究するといった日々でした。
私は昭和8年釧路市生まれです。釧路市の洋裁の学校に通っているときに釧路市にもダンス教室ができたという事で、学校の仲間と一緒に教室に見学に行きました。そこで教師だったのが慶治でした。昭和25年、慶治が22歳、私が17歳の時でした。
(森下) 先生と生徒という関係で知り合ったわけですが、ほどなく親密になったという事ですね?
(ミサ子)困りましたね。ただ、付き合い始めて父に紹介したところ「考え方がしっかりしている」と大変気に入ってくれましたので結婚を意識しました。結婚したのは慶治が24歳、私が19歳の時でした。すぐに子供ができましたのでしばらくは専業主婦をしていました。子供が小学生の中頃になってからダンス教師の資格を取って、競技会にも出場し始めました。
(森下) 昭和25年頃、当時の釧路市民はダンスに興味を示してくれましたか?
(ミサ子)娯楽といえば、その頃は映画しかありませんでしたから皆さん飛びついてきました。映画が50円、ダンスも50円でした。習いに来る人がすごかったです。市の成人学校の応募をしたら、あっという間に100人が集まるといった状態でした。
(森下) 昭和22年にキャリアをスタートして以降、教師活動や教室経営でご苦労されたことはありますか?
(ミサ子) 苦労したことはないですね。1軒しかなかったので教室経営は順調でした。慶治が国鉄と兼業していたこともあって経済的に苦労したことはありませんでした。
(小野寺)その頃、教室で教えていたダンスの種目は何だったでしょうか?
(ミサ子)ブルース、マンボ、ジルバから始まってワルツ、タンゴ、クイックを教えていましたが、ラテン種目が入ってくるのは昭和30年以降になってからと思います。ルンバ、チャチャチャ、サンバの3種目です。
(森下) ここに昭和41年のラテン競技会4位の写真がありますが、慶治先生は精悍な顔をしてますね。やっぱり慶一先生と似てますね。
(慶一) ラテンもやってたんだ。
(森下) 慶治先生は自ら技術書を執筆されるほどダンスに対して造詣が深く、同じダンスの先生からも大変頼りにされていたわけですが、日頃のダンスに対する取り組みはどのような感じでしたか
(ミサ子)勉強家でした。家でも常に机に向かって、いろいろなダンスの文献を読み漁っていました。東京の先生とも電話でよく技術に関することを話していました。それは亡くなるまで続きました。
(小野寺)昭和24年のニューパレスからダンス教師としてのキャリアが始まり、その後ダンスホール・スワンを経て、昭和45年に現在の田邊ダンス教室を設立したわけですが、前塚先生、中川先生は田邊教室出身ですが、和田先生はどうなんですか?
(慶一) 北大通のあだち靴店さんの地下でやってましたが、出身はうちではないです。和田かつお先生と言ったかな。あけみ先生と言う人もいたね。
(小野寺)和田先生以外は皆、田邊教室の系統なんですね。
(森下) 慶一先生は家業がダンスというわけですが、身近でダンスをどういう風に見てましたか?
(慶一) とにかく気持ち悪かった。男がなよなよして、全然スポーツ的じゃなかった。私は野球をやっていてスポ根時代に育ちましたから。あまり好きじゃないから、だから東京の大学に行ってるときも親父から毛塚鉄男先生のレッスン代を貰ったけど、ほとんど行かないで使っちゃった。でも釧路に帰ってきた昭和52年頃は若い人がすごい増えていて、なんかかっこいいなと感じた。そこで少し意識が変わった。28・29歳の時に競技会を見ていて無性にやりたくなった。「裕子とラテンだけ組ませてくれ」と親父に言ったらすごく怒られた。そこで遠藤さんと言う人と競技会に出て、アマチュア2位でした。1位は北沢先生だったと思う。
(森下) 裕子先生は如何ですか?
(裕子) 私も全然興味がなかったんですが、用事があって教室に行ったときに若い人がいっぱいいてビックリしました。そしてスタッフだった平英男先生にマンボを習ったのが始まりです。
(森下) 次第にプロの競技選手も増えてきたわけですが、釧路の先生は皆さんほとんどがA級で活躍されていましたね。
(慶一) 札幌への対抗心じゃないかな。釧路の先生は中川勲先生に習っていた人が多かったのだけれど、それも強くなった理由かな。
(小野寺)1番は田邊慶治先生のお陰じゃないかな。
(森下) そうですね。さて、ここに田邊慶治先生の教師生活50周年の写真がありますが、大盛況でしたよね。パパライネンが来た時ですね。
(慶一) 冷房のないヒルトップで1,000名入ったからね。
(森下) 暑い日でしたね。座っているだけで汗が止まらなかったです。
(小野寺)その頃がダンス界盛況のピークでしたね。現在、全国全道でもそうだけど、釧路のダンス界も少し寂しくなったよね。現役選手もいないし、先生も生徒も高齢化したし。
(ミサ子)若い人が来てくださらないかしら。
(慶一) いずれ来ると思うよ。
(小野寺)その日を期待して、我々ももう少し頑張りましょう。
(森下) そろそろ時間となりました。それでは本日はお忙しい中、ありがとうございました。ミサ子先生は今年90歳となりますが、今なお、教室でレッスンをしているとの事。これからも体をいたわりながらお元気でいてください。