1. 前塚昇、洋子
(森下)本日はお時間をいただきましてありがとうございます。では前塚先生、洋子先生の生い立ちからダンスに出会うまでのお話を伺いたいと思います。
(前塚)僕は十勝の芽室出身です。地元の高校を卒業後、国鉄に採用されて釧路機関区に配属になりました。あの頃は採用が遅く19歳の時でした。同期は縁故採用が多かったなという印象です。そして釧路機関区で整備と事務を担当しました。しばらくして仲間の誘いもあって釧路の成人学校でに行ってみたんです。実は僕の叔父さんと言うのがヒラナベと言って帯広でダンスをしていまして、競技会にも出ていたんです。それもあってダンスに抵抗はなかったんです。そこでダンスの指導をしていた田邊の親父さん(田邊慶治氏)と面識を持ったわけです。そしてある日、機関区の事務所に田邊の親父さんがいるわけです。「この人、なんでここにいるのかな」と思っていたら、田邊の親父さんは「俺はここで機関士をやっているんだ」と言って、ダンスシューズをくれたんです。それまで真面目にダンスをするつもりもなかったけど、「親父の親切を裏切れないな」と思いダンスを本格的に始めました。そして22歳から洋子ちゃん(前塚洋子先生)と競技会に出場し始めました。
(森下)国鉄での勤務は如何でしたか?
(前塚)当時、国鉄には労働組合が乱立し、組合同士の対立も多い時代で、僕はたまたま配属されたポストで、そこの先輩が入っている労働組合に自然な流れで入ったんです。当時は同じ機関区でも労働組合が違うと口も利かないという状況でした。そんな状況が3年くらい続きました。同じ組合の仲間とは終業のベルと共に事務所で酒盛りです。勤務中に酒を買いに走らされました。そして寮に帰る途中も赤ちょうちんが一杯ありましたから、よく飲みました。国鉄にずっといたら、とっくに死んでいたでしょうね。そんなある日、私のところへ機関区長が来て、「国鉄にもコンピューターを導入することになり、新設する情報管理室に行け」と言われたんです。
(森下)順調に昇進してきたのですね。
(前塚)情報管理室に配属になったタイミングで、ダンスは止めようと思ったんです。この年、結婚も決まっていたし、国鉄の管理職になったこともあり仕事に打ち込もうと思いましたし、ダンスの方はぱっとしなかったこともあって田邊の親父さんにも言っていたんです。そして最後の試合と思って出場した昭和47年の第2回助川杯でアマの部で3位になったんです。会場は札幌グランドホテルでリチャード・グリーブの審査でした。釧路から決勝に3組入りました。1位が信成栄治・北条栄子組、2位が前塚昇・小林洋子組 5位が渡辺貞夫・佐藤洋子組です。これでダンスに自信がつき続けようと思ったわけです。その年の11月に結婚しました。
(森下)これでプロでやっていけると自信がついたわけですね。
(前塚)いや、プロには全くなるつもりはなかったですね。国鉄は当然副業禁止ですし。でも何年かしてから、田邊の親父さんから「教師資格をとらないか」という誘いを洋子ちゃんを通じて言われました。外堀を埋められて結局、昭和51年に資格を取りました。昭和56年教室開業と共に国鉄を辞めました。ようこちゃんはその翌年、昭和57年に資格を取りました。
(森下)当時の釧路のダンス事情をお聞かせください
(前塚)当時、帯広支部もなく、ダンスについては釧路が道東の中心だったと思う。北見や帯広からも田邊の親父さんに習いに来てたよ。その後、北見や帯広にも支部ができて、宮川先生や山口先生が支部長としてまとめていきました。