座談会 40年を振り返って
座談会 40年を振り返って
出席者 赤塚文彦 (HATD理事、日本競技ダンス連盟北海道総局長)
浅井信博 (HATD苫小牧支局長)
五十嵐匡俊(同理事)
池田徳雄 (同試験委員会)
亀岡 巌 (同旭川支局長)
田辺慶治 (同釧路支局長)
村井清次 (同試験委員)
山口 勤 (同理事長、帯広支局長)
司会 高橋新平
● ダンスに魅せられて
(高橋)まず皆さんとダンスの出会いから。
(山口)学生時代(日大)スキー部にいた。これでも小樽出身の私は中学の時にはスラロームで全国制覇したこともある。このスキーのトレーニングに格好だったので。
(宮川)ただ好きだったから。この(出席者)の中では一番早かったと思う。昭和21年東京の大森で習いました。品川のパラマウント、五反田のカサブランカ等で毎日のように踊ったものです。24年北海道に帰ってきたんです。教師資格をとったのが26年ですから、その前に教室を持ったことになります。
(田辺)当時私は滝川の国鉄にいましてね。町の人たちが盛んにパーティーをやっていて、それを見てオレもやってみようと思った。
(浅井)私は当時は辺地だった増毛で、ニシン漁の帳場をやっていたんですが、北大の学生だった友達が冬休みに帰ってきて仲間を集めて消防団の2階で練習を始めた。昭和20年です。先生についたのは岩見沢から若い先生に来てもらったとき。そのうちの一番うまい人が、もしその気があるなら、一生懸命やれば食べていかれるよと言ってくれたんですね。それですっかりその気になったんです。ふだん先生はいないが、北大の松田武雄先生の書いた「社交ダンスの常識」を丹念に読んで練習した。角尾政俊(岩見沢)先生のところへ行ったのは昭和27年でした。
(亀岡)20年代に協会の顧問をしていた工藤熊男さん(歯科医)に習い、その後旭川の上海ダンス研究所に行って、プロになりました。
(五十嵐)昭和22年、進駐軍のダンスをみてダンスは楽しいと思った。大連でダンサーをしていた小川光子さんという先生に習っていたが、田口光雄先生(函館)にすすめられたことからです。
(池田)動機はアマ時代、宮川先生と田辺先生にすすめられて競技にでたら、いきなり優勝。そのほか北見市長杯、美幌町長杯、網走市長杯などすべてに優勝しました。プロの試験は27年。宮川先生より1年遅かった。札幌の下鳥教室に出たのが32年ごろ。ダンスというのは、ただ踊るのではなく、キチッとした理論があるのを知ってガク然としたものです。
(宮川)とにかく素質はあったね。
(村井)私は美唄の市役所に22年9月から1年ほどいましてね。駅前に「みゆき」というダンスホールがあって、そこでアルバイトをしました。その前は札幌の電気関係の会社の会計担当をしながら駅前の「若草」の近藤さん(弓夫氏、現若草企業代表取締役)に習ったんです。
(赤塚)私は、北海日日新聞社にいるときに習いはじめたんですが、本格的にやろうと思ったのは三桝良一さん(小樽出身、元全日本チャンピオン)の踊りをみて、やる気になった。アマでは道北選手権で優勝したことがある。
● 頑張ったものが生き残った
(高橋)当時の社会情勢を含めて、ダンスにはいろいろ問題があったことと思いますが、例えば雨後の筍のように出現したダンス教師が昭和30年ごろには、どんどん脱落していったという事実があります。その辺を切り抜けて生き残ってきたのは、あるいは今日の隆盛の担い手となったのにはどんな事情があったのか、後進のためにもぜひお聞きしたい。
(浅井)一口にいって、今残っている人たちはダンスと真面目に取り組んできたということでしょう。
(山口)稽古事だから奥が深い。やってもやっても意欲が出てくる。それに取りつかれていつの間にか歳月が経ってしまったということも言えますね。
(五十嵐)函館には加藤兵五郎さん(さむらい呉服店主、宝塚の振付をやっていたこともある)という方が、熱心に応援してくださった。昭和30年代には、30人くらいいた教師が3、4人に減った時期がある。みんなダンスではくえないから転職または脱落していったんですが、私は会計事務所に勤めていたので辛うじて残れました。
(池田)学生がパーティーをやって、部活の資金稼ぎにした時期もあったし、中島スポーツセンターでは床を荒らす。風紀上問題があるということで、貸館しなくなったことがある。もちろんダンスに対する評価でもあったわけです。
(山口)ダンス教師はホストのように思われていましたね。享楽性を帯びているということで。
● 7軒も下宿を断られた
(宮川)話が飛ぶようだが、私なんか、ダンス教師というだけで、下宿を7軒も断られたという記憶があります
。
(池田)職業を聞かれて”ダンス教師”だと素直に答えられなかった。
(五十嵐)私はいま函館の短期大学の体育部の講師をしてます。大学の教科の中に社交ダンスが採り入れられている。変わったものです。
(亀岡)今昔の感といえば、競技会の出場者が浅井君と僕のたった2人。いまの押すな押すなの状態を考えればね。
(浅井)妙なもんですよ。一人が優勝で一人がビリ(笑)
(五十嵐)ところで飛行機が札幌-東京に就航したのも影響しました。それまでは東京のえらい先生は札幌へ来るのに必ず函館に寄って、技術面の指導やパーティーなんかも開いたものです。例えば助川先生なんか。ずい分と刺激になりました。ところが上(上空)を通るようになって、それまでのようにはいかなくなった。何軒かが撤退していった原因の一つでしょうね。
(村井)一時、教師協会が南と北に分かれたことがあります。今の協会のほかに道北社交舞踏教師協会というのが。昭和24年でしたか、杉山(安次)先生のところへあいさつにいったところ、HATDの支局をすぐ作ってくれといわれまして、26年に結成しました。25年に資格をとった人は40数名いたんですが、現在残っているのは私と亀岡先生ぐらい。旭川から出た人は、赤塚、有本、山口、宮川、鎌田(秀昭、協会常任理事)、原田(和彦、協会常任理事)さんたちがいますが、みんあマジメな人ばかりが残っています。みんな、ほかには負けないぞというファイトの持ち主ばかりです。
(山口)そうだそうだ(爆笑)
(赤塚)15年ほど前に僕は家を建てた。教師の評価がまだまだ低かったころだった。家を建てること自体は、誰でもやることですが、僕はダンスの教師でも家を建てられるんだぞという意地を見せたかったんですよ。
(亀岡)経済的には苦労した人ばかり。
(五十嵐)函館の田口(泰一、協会副会長)先生なんかも、役員会の旅費を人から借りて行ったといいますからね。
● 燕尾は質屋に
(亀岡)競技会に着る燕尾は質屋に入っている。それを受け出して、競技会が終わるとまた質屋に入れる。その繰り返しだった。
(赤塚)質屋に行かないと燕尾はなかった。貸衣装にはモーニングはあるが燕尾はなかったですね。ダンスの教師とヴァイオリン弾きですか。
(五十嵐)燕尾があるよといわれて行ってみると、函館出身のダンスの先生の質流れ品だった(笑)
(村井)二重マントやフロックコートを燕尾に改造したね。
(山口)それでもお客さんは素敵だといってくれた。
(亀岡)三角のところをつぎはぎしたりしましたね。女性のドレスはカンレンシャ。
(村井)キャバレーのホステスが着ているような、ネグリジェみたいなもんだった。
(宮川)北見は3軒しか教室がなかったけれど苦労はたくさんありました。収入面では普通のサラリーマンの半分くらい。お正月にお酒の一升瓶が買えなかった。教室だけでは食えないから、ダンスホールをやりました。若者ブームにあやかって何とか生き延びましたが、一銭の貯金もなかった。
(田辺)昭和24年以前には釧路市の公安委員会が教師の免状を出したんですね。私は23年のを持っているが、協会のは25年に受けてます。当時は教師もたくさんいて、ダンススタジオが5,6軒あったのが30年代にはダンスホールが1軒だけ、教室はみんなつぶれてしまった。そのダンスホールもなくなってしまいました。私は国鉄に再就職してダンスと両方で食べていましたから辛うじて残れた。何とか頑張った。
(村井)さっき言ったように私は美唄の市役所にいましてね、駅前に”みゆき”というダンスホールがありました。その前は札幌の”若草”の近藤さん(弓夫)のところでダンスを習った。札幌では電気関係の会社の会計担当で経済的にはあまり苦労はなかったし、それに麻雀が好きで、強かったから、随分と勝たせてもらった。美唄市の統計課では22年9月で日給月給で129円50銭、出張や残業で4,000円くらいになりました。下宿代が2,500円で1,500円しか残らなかった。ダンスホールの入場料が50円、習いたい人はそのほか30円とっていたらしくて、それを私にくれる。夕方6時から10時くらいまでやると、月に8,000円~10,000円になりました。でも役所ではダンスは不良のやることで役所をやめるかダンスをやめるかといってきた。収入の面からダンスの方が良かったし、将来も仕事としてやれるという見通しと死ぬまでやれると信じ込んで、役所をやめて札幌の狸小路3丁目の”花園”というところで働いて、ひと月に18,000ぐらい収入がありました。昭和23年の春でした。
● 最初の公安委員会の試験は24年
(高橋)随分とよく覚えていらっしゃいますね。
(村井)それから昭和24年6月4日に北海道の第1回の公安委員会の試験がありました。旭川には当時公認の先生がいなかったので、誰か旭川に行って支局を作ってくれる者はいないかと杉山先生にいわれて、私が名乗り出たわけです。8月17日から9月16日までの1ヵ月間の収入は、1人教えて30円だったけれども、39,640円。当時としては破格で。
(高橋)私の東京の新聞社の給料は、残業代を入れて確か1万円を越す越さないか、それでも高いほうでしたから、4万円というのは凄いですね。
(村井)赤線の人たち、僕らはオヒメ様と呼んでいたのですが、当時百円のチケットで12曲踊れたのですが、その人たちは6曲で200円もくれたし、そのほかに300円くらいポケットに入れてくれる。半日働いてズボンのポケットが一杯膨らんだものです。
(山口)あの人たちは気前がいいし、”今日は山口先生買い切り”といった具合でした。(笑)
(宮川)先生を買うという意識があったね。
(赤塚)僕らのときもワンレッスン100円で、教室が6分、教師が4分という配分だった。
(田辺)1曲4円という時代もありましたよ。22年ごろでした。
(山口)26年以降は100円。
● 先輩のくつ磨きと床掃除
(高橋)いろいろの思い出がおありでしょう。
(五十嵐)三桝先生は音譜の下にフィガーの名称を入れていましたね。当時としては誠にビックリ。今でも恐らくいないでしょう。
(村井)29年に東京にスクリブナーが来て踊って見せたが、スエーやCBMと、はじめはふざけて踊っているんじゃないかと思った。今ここにいたと思ったら、もうあっちで踊っている。スピードがあって、まさに流れるようでした。自分の踊りが恥ずかしかった。
(亀岡)最初習ったときに男女は真正面に向かい合う、へそとへそを合わせろと言われましてね、オープンポジションなんか窮屈でとてもできない。松田先生の「社交ダンスの常識」にも真っすぐと書いてあったし。だから上手な人ほど下手で、僕らみたいのはどうしても体がズレるから結果的には上手い。(笑)
(浅井)女子の外側に出るのは大変だった。
(山口)私は大学時代に東京で踊っていて、帯広に帰ってから針谷さん(謙二)杉山さん、久保さん(信、元道スケート連盟理事長)にすすめられて、教師資格をとった。飛び入り的に受けたのでゼッケンも紙で貼って56番だったのを覚えています。教師資格を取っても営業前にウォークを2時間くらい、資格のないときは先生たちのくつ磨きと床掃除、随分やらせられましたよ。ダンス教師になるのは親には反対されましたね。それでもダンスをやりたかった。真剣でした。
● 目標の札幌を破った
(田辺)強烈な思い出は、やはり我々がコーチした生徒が競技会に出てもせいぜいD級どまりだった。いつも札幌にいたのが、昭和46年に全道オープン戦で4組走らせたところ、決勝に4組残ったこと。札幌勢のA級が下位6組だったんです。ピーター・イグルトンの単独審査でした。
(山口)それまでの審査員が偏っていたね。
(田辺)地方の選手が入賞した試しがなかったのが、初めて優勝したことですよ。
(山口)それから帯広、旭川、小樽といったところが札幌つぶしにかかった。それまでは顔で点数がついたもの。
(田辺)いまはまったくわからない。
(浅井)切磋琢磨していた
(村井)地方の選手は全道的なレベルにアップしようということをテーマに。
(赤塚)どうも分が悪い話になってきた。(笑)
(山口)いや、そういう意味じゃない。赤塚先生がせっせと東京へ行って勉強してきたものを生徒に教えるんだから、そういう生徒が勝つのは当たり前。先駆者に追いつけ追い越せの精神だった。
(赤塚)もって冥すべきというところか(笑)
(浅井)28年だったと思うが、狸小路のグランドパレスに競技会を見に行った。ワルツとタンゴだったけれども優勝が日向、2位下鳥、3位加茂だったと思う。この時のプロの気迫というものに魅せられましたね。いつかはこの先生たちと一緒にフロアに立ちたいと思いました。それが旭川の総理大臣杯のときに、日向先生は引退していたけれども、下鳥先生と同じフロアに立てたんです。嬉しかった。
(池田)27年に免状をとって、その後、札幌に出て下鳥先生のところに4年、小樽の若林先生のところに3年いて、現在のところ(札幌市中央区南4条西3丁目)に独立したのが41年2月。その頃は杉山、マルヤマ、そもとり、赤塚、それに山口さんという女の先生がいた東会館があったが、これは1年で止めまして、札幌に5軒しかなかったんですね。札幌で働いていたときは経済的にも苦しかった。だからメダルテストでしゃにむに58人を引っ張ったんですよ。それで初めて上下の洋服を作ったという思い出があります。思い出と言えば個人的なことになるけれども、総会で小樽からの帰り、生徒さんの車で事故にあい、顔を中心に全治2か月の重傷を負ったこと。いまでも眼鏡を外すと傷が残ってます。第2にレアードというラテンの世界チャンピオンが来て、講習会をやったんですが、レアードのパートナーにいきなり名指しで呼ばれて実地にやらされた。今思うと、オープン・ヒップ・ツイストからファン・ポジションに戻るところだったんですが、その迫力に圧倒されました。
(赤塚)道内の優勝であまり感激したことはないけれども、34年に北海道から全日本に3組か4組出ました。結果は僕が一番良かったが、成績よりも全日本に出場できたというのが1番の思い出ですね。
● 暴力団には悩まされた
(山口)暴力団には悩まされた。僕は帯広警察の暴力モニターをやっていたから、何かあると山口いるかと因縁をつけられましたよ。ダンス云々ということではなくて金をねだりにくるんです。いつでも時計を外して出て行ったものです。もちろん中には金を出していた連中もいたけれど、私は絶対に出さなかった。
(池田)脱落した人たちにはそういう人が多かったと思います。それを横目でにらみながら黙々とやってきたものが残っているとも言えますね。
(山口)だから、特に地方では暴力団との闘争の歴史ともいえます。
● いろんな人と出会えたね
(高橋)ダンスの効用について、どう思われますか。
(五十嵐)健康管理というか、ダンスは健康産業ですよ。北大の名誉教授で中風で倒れた方がダンスをやって3年で回復されたという事実もあるくらい。
(山口)そういう人はたくさんいますね。
(高橋)ダンスをやっていて人生に何か得るところがあったと思いますが。
(宮川)私ごとで恐縮ですが、市民学園を20年やって40年、北見市の文化賞をもらったことは本当に嬉しかったし、ダンスをやっていてよかったと思いました。これもいい先輩に恵まれたからと思う。HATDもいいムードになって、これからますます発展するでしょう。
(田辺)普通の職業の人と違って、いろんな人と知り合って人生勉強ができたことですね。
(浅井)私は北海道からどこにも出ないで勉強しました。角尾先生のコーチだけでね。一生懸命やれば田舎にいてもある程度のことはできるという自信を得たこと。
(池田)たくさんの人を教えて、こっちが顔を忘れても向こうが知っている。常に看板をしょっている。身を慎まなければいけないということを学びました。
(赤塚)私は競技ダンスが好きで、これでいいということのない深さに魅せられた。常に研究が大事だということ。
(亀岡)私もたくさんの知己を得たことです。
(山口)努力です。苦しさを乗り越えるということも。
(村井)一生懸命やればいつかは報われるということでしょうね。
(高橋)どうもありがとうございました。
北海日日新聞に勤務している頃にダンスを始め、プロになってからは全道チャンピオンの座につくこと6回を数える。第2代日本競技ダンス連盟北海道総局長を務める。赤塚ダンス教室を主宰し、多くの後進を育てた。
昭和20年、増毛のニシン場の帳場をしている時にダンスに出会う。しばらくは本を読んで独学するが、その後角尾政俊先生に師事し昭和27年資格を取得する。HATD苫小牧支局長を務め、地区のダンス発展に力を注いだ。
ダンスの出会いは進駐軍のダンス。会計事務所勤務のかたわら昭和26年にダンス教師になる。その後、函館短期大学体育部の講師も務めながらダンスワールド・イガラシを主宰した。
池田徳雄
昭和27年教師資格を取得。下鳥教室、若林教室勤務を経て、昭和41年に池田ダンス教室を設立。HATD理事、試験委員を務める。
昭和27年教師資格を取得。旭川の上海ダンス研究所に勤務する。その後、亀岡ダンス教室を設立しHATD旭川支局長を務める。現在HP/DIA名誉会員。
国鉄に勤務しているときにダンスに出会う。昭和25年に資格を取得。田辺ダンス教室を主宰しながらHATD釧路支局長を務める。理論に造詣が深く、多くの後進を育てた。
昭和23年美唄の市役所に勤務しながらダンスを副業としていたが、役所を辞めて昭和25年教師資格を取得。昭和26年に旭川に支局を作る。
東京の大学時代にダンスを覚える。親に反対されながらも昭和25年に教師資格を取りプロ生活を始める。帯広地区のダンス発展の中心となる。