2007年度教師会日記

瀋陽日本人教師の会日記 2007年度

2008年1月13日 (日)  12月定例会の記録で書かなかったこと 山形 達也

2007年12月の定例会で会則文言の変更が討議された機会に、山田さんからHP係と編集係の二つを一緒に したらどうかという提案があった。これは5月の日本語文化祭の記録が両方に寄せられ、その結果としてHP係が、日本語クラブの記事を盗用した、剽窃したと 山田さんに非難されたことに端を発しているものと思われる。

すべての事情が明らかになった今でも山田さんは山形(達)を非難することを止めないので、ここに状況を明確に書き残しておきたい。

日本語文化祭の記録をHPに残すために、2007年の文化祭実行委員長だった田中義一氏にまとめを書いてくれるようにHP係から頼んであった。一方日本語クラブでも日本語文化祭特集を組もうということで、原稿提出を呼びかけていた。

田中さんからまとめが届いたので、それと、プログラムおよび当日の写真を「2007年度日本語文化祭の記録」として私はHPに載せた。

田 中さんは実は日本語クラブにも同一原稿を送っていた(ことがあとで分かった)。HPの「2007年度日本語文化祭の記録」は日本語クラブ26号よりも(た またま)前に公開された。日本語クラブ編集係の山田さんはこれを見て、HP係の山形が日本語クラブの原稿を盗ったと言い出した。山形(達)宛どころか、会 員、さらには日本人会幹事会のメンバーにまで公開のメイルを送って「山形 達也は日本語クラブの原稿を盗んだ」といって非難したのである。

HP係の私は山田さんから言われて、HPに載せた田中さんの原稿が日本語クラブに送った原稿と同一らしいと分かったが、私は事前には知らされていなかったし、事前には気づかなかった。最初から知っていたのは田中さんだけである。

HPに田中さんが書いて送ってきた原稿を私が載せたからと言って、私が「盗用した、剽窃した」と言って非難される理由は全くない。根拠のない言いがかりである。当たり前の常識を持っている人なら直ぐに分かることである。

またたとえ、日本語クラブと教師の会のHPの「日本語文化祭の記録」に同じ記事が載ったとしても、目的が違うのだから、大して不都合はあるまいと、わたしは思う。

でも、あまりに山田さんの攻撃が激しいし、こちらの説明を何度言っても全く受け付けようとしないので、HP編集係としての私は田中さんに断ってこの田中さんの原稿を載せるのを止めた。代わりに日本語文化祭の最後に挨拶をした南本会長にその時の挨拶を貰って、それを載せた。

これで一件落着かと思ったが、そうではなかった。山田さんのもう一つ、2007年度の執行部への言いがかりを付けていた。7月はじめ緊急に会員が集まって協 議し、「新執行部役員はそれまでどれほど教師の会に貢献してきたかが大事である」という山田さんの意見を退け、山田さんもそれを受け容れた。

一方、山形に対する彼の非難は根拠が間違っていることは何度も山田さんに言った。しかし、山田さんが誤っていることをこれ以上本人に明確に分からせるのは、彼が物事を正常に判断する理性を持たないことを理解させるのと同じであり、なんど試みても無駄だった。

だれにでも、身体の病気と同じように心の病気が起こりうる。しかし心の病気は本人は自覚しにくいし、他人もあからさまには言いにくい。とても難しい問題で私の手に余る。

と言うわけで、山田さんとは口をきかない関係が続いている。この先どうして良いか分からないと言うのが正直なところである。

2007年12月26日 (水)  南本さんがまた中国に来た 山形達也

12月15日(土曜日)の私たちのジャーナルクラブの時、二人の演者の間の休憩時を見計らったかのように電 話が鳴った。たまたまその時私は「もしもし」と日本語で言って電話に出たら、「もしもし、こちらは南本ですがね。お久しぶりですねえ。」と懐かしい南本さ んの声が聞こえるではないか。

南本さんはこの7月に帰国するまで1年半に亘り瀋陽日本人教師の会の会長だった。私はその間彼と一緒に引っ越しその他のいろいろの仕事をした。とても懐かしい相棒である。

私の頭の中では、とっさに「日本からだろうか、中国からだろうか。日本だったら悪い報せだろうか、いやこの声音ならそんなはずがない。」とめまぐるしく分析をしている。「ワーーーオ?どこからなのですか?」

「今度、研修所に頼まれましてね。二ヶ月泰山の麓の泰安という街にきたのですよ。」泰山というと山東省だ。孔子の生まれた街で名高い曲阜も近い。

南本さんは元もと日中技能者交流センターから中国に派遣されたから、帰国したあと、中国からの企業研究生に日本語を教える研究所の日本語教師を2か月務めたと聞いていた。

企業に研修のため派遣されてくる中国人は、先ず中国各地にある日本語の研究所で2か月日本語を学び、そのあと日本の岐阜と愛知の二カ所にある日本語研修所で 日本語の講習を受けるのだという。南本さんは日本で中国人に教えているうちに、日本語をもっと教えようという気持ちにとりつかれて、中国行きを志願したに 違いない。

電話でひとしきりおしゃべりをしてから3日経って、インターネットが繋がったと言うことでメイルが届いた。次の便で尋ねたところ「公開して良い」という返事が届いたので紹介する。

『やっとメールが通じるようになりました。返事が遅くなって申し訳ありません。

私は12月14日午後4時ごろ青島空港へ着きました。会社差し回しの自動車で高速道路を120 Kmか時には130 Kmくらいのスピードで約4時間かかって泰安市(泰山のある町)にやって来ました。ここには日中技能者交流センターから派遣され、2月15日まで企業研修 生に日本語を教えます。

今住んでいるところはやたらに広いところで、寝室(Wベッド付き)兼書斎、居間(食卓)兼客間(とにかく広く大き なソファーと大きなテレビがあります)、台所、それに使用しない部屋が2部屋、ベランダ(洗濯機および物干し場)があります。エアコンは寝室兼書斎と居間 兼客間しかありませんが、とにかく居間兼客間が広すぎるものですから、事務所用の大きなエアコンが設置してあります。したがって夕方料理を始めるために IH電磁炉、電気釜等のスイッチを入れると、この棟(?)が時々停電します。

そのうえ、大変待遇がよく、自炊道具(中国にしては立派な電 子レンジがあります。)、調味料各種はもちろん揃えてありますが、驚いたのはこれまた大きな冷蔵庫に各種野菜、牛肉の丸太(約3-4 Kgはあろうかと思います)でぎっしり詰まっていました。中には中国野菜でどのように料理したらよいか分からないものもありますが・・・・。一人で自炊す るのでどのように食べたらいいか戸惑っています。

他にも、牛乳が24パック(1パック 250 ml入り 中国では常温で賞味期限は8ヶ月です。)、缶ビール1ダース、駄菓子、インスタントラーメン5袋、各種麺類等が所狭しと台所においてありました。

私は当然、自炊の食材等は自分もちだと思っていましたのでびっくりしたしだいです。

また、1週間に1回は掃除をしてくれるそうです。自転車も新しいものを提供されました。

15日には給料先払いでお金を貰いました。その時に、まだ必要でしたら言ってください。もう少しあげますよといわれたのには、またまたびっくりしました。

私の授業は月曜日から土曜日まで毎日8時に始まり、午前中で終わります。昨日、午後、私の宿舎から歩いて泰安の繁華街まで行ってきました。途中寄り道しましたので2時間かかりましたが、まっすぐ行けば1時間半ぐらいの距離です。もちろんバスはありますが・・・・。

寒い時期(と言っても今のところ気温は私の故郷山口県とほとんど変わりません。)ではありますが泰山に登ってみようと思われればどうぞいらっしゃってください。

藤平先生から早速こちらへ来たいというメールをいただきました。

加藤先生も私の同じように、今長春へ行っておられるようです。

では向寒の折柄どうぞ御自愛ください。』

日本の教育不在と言われるような荒れた学校で教えるのは大変なことだろうが、日本語を学ぶ意欲に燃えている若者に日本語を教えることほど、教え甲斐のある仕 事はないに違いない。日本語を学びたい人たちが全世界で増えている。意欲と能力のある若い人たちも、ぜひ南本さんたちに続いて欲しいものだ。

2007年12月16日 (日)  今期最後の定例会 山形達也

12月15日は2007年度前期最後の定例会が集智ビル8階の日本語資料室で開かれた。

集まったのは:石原、安部、多田、中野、熊倉、斉藤、伊藤、田中、渡辺(文)、宇野、藤平、野崎、池本、松下、土屋、西岡、中田、瀬井、巽、山田、山形(達)、そして新入会員の嘉部(東北大学)の22名。

12 月9日には日本人会のクリスマス会がホテルマリオットで開かれた。今では殆どの教師が日本人会に加入しているので、このクリスマス会で顔を合わせている。 クリスマス会の実行委員会には山田、熊倉先生が参加したし、当日の受付には請われて、中田、安部、瀬井、斉藤先生が参加してお手伝いをした。

熊倉先生は余興の時の司会役で3時間殆ど出ずっぱり、喋りっぱなしの大役だった。さらに余興では教師会からの初めての演しものとして「線路は続くよ」があった。

と言うわけで集まったときからそれぞれ「とても良かったですね」など声を掛け合って、良い雰囲気だった。

この「線路は続くよ」は、宇野浩司先生がとんでもない芸を持っていることから始まった。彼はいわゆる鉄ちゃんという鉄道マニアである。誰かが駅の名前を言う と、その鉄道の急行の名前はもちろんその沿線の駅の名前、名物、駅弁、街の表情まで克明に記憶していて、それがたちどころに蘇り、鮮やかに口から吐き出さ れるのである。

これは前年度最後の6月の送別会の時に披露された。あまりにも凄い芸だし、これなら誰もクリスマス会に向けて練習する必要はないので、クリスマス会の演しものとして申し込んだのだった。

クリスマス会当日のステージのバックコーラスは、菊田領事、石原、巽、池本、安部、中田の6人。宇野さんは学生が50元で本物そっくりに作ってくれたという 金色の二重帯に輝く車掌の帽子をかぶり、白手袋をして「本日はご乗車ありがとうございます」と言う挨拶から始まった。会場でサンタ姿の藤平さんが会員の誰 かに「あなたの出身の駅は?」と訊いてまわり、宇野さんがその駅についてのうんちくを次々と述べたのだった。

司会の熊倉先生もステージの上で素敵に輝き、このクリスマス会の大きな会場で私と妻は一番遠いテーブルが指定されていたのでステージが良く見えないとぼやきつつも、教師会に入っていることを誇らしく思ったものだ。

定例会のあとは、「異香風味灌湯色酒店」というレストランで忘年会が開かれた。多田さんが欠席で、キャノンの葉さんが参加して22名。司会は渡辺、西岡先生。

ここでも宇野さんの芸が披露されたが、もう一つ皆の関心を集めたのは任期満了で来年2月には帰国する安部先生だった。安部先生は瀋陽で知り合った人と12月 3日に日本で入籍したというニュースでみなを驚かせた。葉さんが、「その相手は日本人ですか中国人ですか」と訊いたけれど、答えは不是。ナイジェリア人だ そうで、皆ますますびっくり。

司会役が余興で用意した○×クイズがあり、○で勝ち残った人は、今年で記憶にのこる一番幸せなことを話す。×で最低になった人は、今年一番困ったことを話すということになった。

クイズで勝ち残った土屋さんは、日本で定年になったあと瀋陽に来て先生をやって本当に良かったと実感を込めて話した。×ではじゃんけんでビリを決めたけれど、池本さんが「話したいです」と志願して、つい最近ビザの申請で大変な目にあったことを話した。

司会役の西岡先生の好意で貰ったその時の問題を載せましょう。

1.来年の12月15日は月曜日である。

2.宮崎県串間市市来海岸に浮かぶ「幸島」は野生猿の研究で有名になりました。この研究は京都大学が中心になって行っている。

3.ここの研究員は、猿一頭一頭ごとに名前を付け、正確に認識できる。

4.ここの猿は芋を海水で洗い、味を付けて食べることで有名になったが、最初にこれを始めたのは群を支配するボス猿である。(×)→子どもの猿がこれをはじめた。

5.「幸島」の猿は海を泳ぐことができる。

6.この島の猿は潮が引いたとき潮だまりの魚やタコなどを採って食べる。

7.中国の都市部の人口は総人口の50%を占める。×→40%

8.中国の都市の中で一番人口が多いのは「上海」、2番目が「北京」である。×→一番人口が多いのは「重慶」で3000万人である。

9.沈陽の人口は740万人である。

10.日本での瞬間最大風速は、秒速84,5メートルで、1961年9月16日に高知県室戸岬で観測された。 ×→85.3m(宮古島) 1966.9.5

11.日本で一番大きな渓谷は黒部渓谷で、次が奥入瀬渓谷である。×→その逆。

12.日本最大の砂丘は「鳥取大砂丘」である。 ×→「九十九里浜」

13.日本で最も潮の流れが急なのは、来島海峡である。 ×→①鳴門海峡 ②早鞆の瀬戸 ③長崎 ④来島海峡

2007年9月2日 (日)  森領事の歓迎会? 山形達也

3年間教師の会の顧問だった森領事が仕事で瀋陽に1週間来られるという連絡があった。森領事は5月に3年の 任期を終えて帰国している。それじゃ是非お会いしましょう、いつがいいですかというやりとりをして、9月2日日曜日の午後5時日本語資料室で出会って一緒 に食事をしましょうとメイルを送った。彼の出国直前の8月31日のことだった。

一方新学期の会長に予定されている石原先生に了解を得て、会長の名前で森領事を囲む会をするのでご都合の付く方は5時までに資料室においで下さいと全会員にメイルを送った。

9月の新学期が始まったばかりだから、ちょうど集まりにくい時期だ。それでも、資料室には14名が集まった。このうちの5名は今期初めて教師会に顔を出した新人である。

新学期からの会長と副会長は、すでに6月の集まりで会員の承認を受けている。正式の規約では新学期に役員選出と言うことになっているので正式の役員ではない けれど、私たちはその日午後3時に集まって新年度の最初の定例会に向けて準備をした。2時間もあれば打ち合わせが出来ると踏んでいたけれど、あっという間 に4時半になり、5時からの集まりに参加する人たちが集まりだした。

森領事はこの日なら大丈夫というので、歓迎会をすることになったのだが、5時を過ぎても現れない。こちらからは森領事の昔の携帯の番号しか知らない。掛けてみても音楽が流れるだけだ。

こちらは森領事の連絡方法を知りたい。私の携帯に領事館の川端領事の電話番号があるのを見つけて電話を入れたら、「いま会議中です」と言われてしまい、謝りつつ電話を切った。

次には領事館の緊急電話を見つけて電話をした。「今日本から瀋陽を訪問中の、5月まで領事館におられた森領事と会う約束になっているのに、現れません。森領 事の連絡方法が分からないので、もしも総領事館で分かったら、教えて下さいませんか?」と言うのがこちらの主旨だ。しかし、相手にしてみると私が誰だか分 からないわけで、いろいろなことを言わされた。電話で話しているだけだからある意味では不審者なわけで、当然だろう。先方は「それではこちらで調べて此方 から電話を入れるようにします。」と言ってくれたが、「そちらのお名前は?」と訊いたら、「規則で言えないことになっています。」とぴしゃりやられてし まった。ま、そうかもしれない。

安部、池本先生は9月8日の集まりのための会場予約をするからと言って先に資料室を出ていった。したがって、森領事が現れないけれどこのまま皆で今日の会場に行くという連絡を入れようと思って、私のケータイで番号を探した。

すると一番最初にAbeと言うのがあったのでボタンを押した。すると男の声で「アベです。」と返事があるではないか。私は思わずのけぞってしまった。これは 総領事なのだ。同じアベでも間違えて総領事に電話をしてしまった。「ごめんなさい」と見えない阿部総領事に頭を下げつつ、平謝りするほかなかった。

イケモトを探して、森領事の到着をあきらめてこれから会場に向かうと電話を入れて、私たちは30分遅れでレストランに行った。ここは池本先生が新しく選んだ 四川料理の店で、店は綺麗で明るい。私たち一行14人が丸いテーブルを囲んで席に着き、料理を選んでいる時に、森領事から電話が掛かった。

「今 どこですか?」と訊くことから話が始まったが、どうも話がちぐはぐだ。それで分かったのは、8月31日に此方から出した「9月2日に日本語資料室で落ち 合って食事をしましょう」というメイルが届いていなかったのだった。そして今は人に会っているところで、とても此方に来られる状態ではない。と言うことで 二三日あとに改めて会うことにして、今日は残念ながら森領事不在の晩餐会となった。

と言うわけで森領事歓迎会が思いがけず内輪の新任教師歓迎会になったが、それはそれで楽しかった。

伊藤、多田、田中、土屋、西岡(以上は新人)、石原、松下、池本、安部、中田、藤平、渡辺(京)、山田、山形(達)の14人。

場所:酔桃源 一人あたり30元