2006年度教師会日記

瀋陽日本人教師の会日記 2006年度

2007年7月15日 (日)  異例の臨時教師の会 山形達也

教師の会にはいろいろの役がある。年度は学校のカレンダーに合わせて9月から始まるのでその最初の会合の時にいろいろの役を選ぶ。しかし今年度は南本先生が7月のうちに帰国することが分かっていたので、次期会長を決めて置いた方がよいねということになった。

次期会長が今の副会長から出れば良かったのだろうけれど、私も、もう一人もそれぞれ理由があって現会長から頼まれても固辞した。それでこれを根回しというのだろうが、現会長が努力して日本人補習校の校長をしている石原先生が引き受けてくれることになった。

6月16日の今期最後の定例会で、石原先生が推薦を受けて新会長に選ばれ、彼が副会長を指名してこれも承認された。ところが、ところが、である。6月末に山田先生からメイルが来た。公開質問状と題して「今度の会長は会にどのような貢献があったのか、どんな実績があって選ばれたのか説明をしてくれ。」つまり現および新執行部に対する不信任案がぶつけられた。

今の会長の先生にしてみれば会長職のあいだ公私をなげうって会のために奉仕をし、次の会長のなり手を探すのに苦労してやっと引き受け手を見つけたのだ。次期会長は人物識見十分と見てお願いしたのに、彼の判断も、新会長そのものも、あるいは今の会員全体の信頼感もすべて根底から否定する反対意見である。

次の日曜日、私は資料室の当番で、その時の相棒がこの山田先生だったが、彼は午後用事があって朝のうちだけ出てきた。それで現会長が資料室にやってきて、私もあとで加わって3人で話をした。話してみれば彼は納得したふうで、話のあとで私たち二人はこれで問題は済んだと思っていた。

ところがまたメイルが来た。話では駄目だ、文字がいる、密室政治は見たくない、という。まだ納得していない。一方で現および新役員は不信任を言いつのる山田先生にどのように対処するかを考え、メイルのやりとりでは話はこじれるだけだから早急に集まれる人たちだけでも集まって臨時会議を開こうと言うことになった。石原先生はすっかり嫌気がさして、もう会長をやる気がなくしている。

それで7月5日木曜日夕方6時、山田先生も含めて19人が集まった。彼がいないと話にならないのだから彼の出席を確認してから開いたわけである。

会議では現会長の南本先生が状況を説明し、どのように対処しようか皆さんの意見を伺いたいということで始まった。山田先生が主張を述べ、ほかの人たちがいろいろな意見を言った。1時間半の話で、結局山田先生は自分の主張が間違っていたことを全面的に認め、関係者に謝り公開質問状を撤回した。したがって、先日選ばれた新役員は改めて全員一致で認められたのである。

今の規則では9月に新年度に新しいメンバーで決めることになっているが、来たばかりで会長を選べと言われたって難しい。これからは、会長は前年度最後の定例会で決めるとした方が良いのかもしれない。

この教師の会は利益団体というわけでもなし、根回しがあっても何の差し障りもないだろう。もし問題があれば後からメールなどでなく、その場で発言するべきだっただろう。こういうことの発言はし難いのかも知れないが、顔が見えないから言うことが出来るとしたら、メールは怖い。このメールは日本人会長事務局長にまで飛んでいったのだ。

通常2,3年で入れ替わるメンバーなので、1年もここにいれば会長の資格は十分である。何を功績というのか分からないが実績も功績もあるはずがなく、会長になって本当に苦労を背負うことになるわけだ。会長を引き受けて下さった方には本当に感謝、感謝、感謝なのである。

教師会は初めて瀋陽に来て困っている時に、生活の面でも授業の面でも助け合うことが目的である。その為に月1回、集まって知り合いになることは大事なことである。集まるための資料室も必要である。部屋を借りるとなると資料室を管理したり会計が必要だ、人数が30人もいれば会長も必要になってくる。

皆が、集まってそれぞれが出来ることをして会を成り立たせている。ここは会社の営業所ではない。一番働いて功績を挙げた人が会長にふさわしいなんて考えられないことだ。人物がこの会の会長にふさわしいかどうかの判断基準だ。

互いに助け合おうと集まっている人たちの気持ちが連綿と続いて、この会には20年近くの歴史がある。それを壊すのは一瞬でいい。大昔のことは知らないがここ十年の間、石井康男先生が根気よく育て、そして多田先生、南本先生がそれを引き継いで発展させた教師会がこれからも”気持ちの良い出席したい会”として維持されるよう、願ってやまない。

2007年6月30日 (土)  日本語文化祭の記録を載せて 山形達也

今年の瀋陽日本語文化祭は民間の施設である北方伝媒ビルの4階ホールを使って開かれた。席が出場する学生の総数320名にあわせて設営されていたので、ほかの誰でもが座れるわけではなかったが、原理的には市民の解放されていた。このようなことは画期的と言って良い。その開放感も手伝って日本語文化祭は日本語学ぶ学生ののびのびとした楽しい心が会場いっぱいに発散して、大成功だったと評価されている。

このように日本語文化祭は歴史を重ねているし、今では教師の会も関係しているので、これを教師の会のホームページに記録として残したい。昨年は日本語クラブの中道編集長の音頭の下に、文化祭関係者の間に交わされたメイルが日本語クラブに収録された。今年からはもう少しきちんとした形で記録を残したらどうだろう。昔の記録を出来るだけ集めて残しておきたい。

というわけで、文化祭の前に今回の実行委員長の田中先生にお願いして、今回の文化祭の記録すべてを残しておいて、先生が最後にまとめを書いてそれらと一緒に送って欲しいと頼んでおいた。

文化祭のあと田中先生から文化祭の反省も含めて資料が届いた。そして幸いなことに北方伝媒が総力を挙げて作成した写真CD(とDVD)もたまたま私の所に来ていた。山田先生が北方伝媒の作成した映像記録を受けとって南本会長に届けようと言うとき、彼が不在だったので私が受けとるという偶然があった。そのためこれらのコピーを作成する責任も負ってしまったが、それは別の話だ。

ともかく文化祭の資料と、写真があったので、ホームページ用の原稿を編集した。写真は私が撮った中からも選んで使った。今年の文化祭の記録の中心は、田中先生の書いた「日本語文化祭を終えて」という一文が生き生きと躍動感があり、これが目玉となった。このほかにプログラム、議事録、反省などを加え、写真を鏤めて出来上がった。そしてもちろん、ホームページの記録なので、今年の分が載れば、昨年、そしてその前と記録を加えていくことが出来る。

日本語文化祭のホームページが出来たことを27日水曜日に会員に知らせたら、すぐに山田先生からメイルがあった。「せめて田中先生の文章の出典を示して欲しい」と書かれていた。私の手元に「日本語クラブ26号」はなかったが、6月16日発行の「日本語クラブ26号」が日本語文化祭の感想を集めて載せているので、同じものが載ったのだろうかと心配になった。

加藤編集長に確認すると、全く同じだという。「日本語クラブ」も4年前からは紙の出版物だけではなくwebにも載せている。と言うことは、同じ教師会のホームページに、片や「日本語文化祭」の今年の分の記録として、そして片や「日本語クラブ26号」の一部として、田中先生の書いた全く同じ文章が載ることになる。

私は、それぞれ目的が違うし、読む人の目的も違うだろうから(実際、「日本語クラブ26号」を私は見たはずだが、同じものであるとは思いもしなかった)、同じものだとしても良いと思った。

聞いてみると会員の中には同じでも良いという意見もあった。しかし、ケチが付いてしまったので田中先生の名文を載せるのをあきらめて、ほかの実行委員からそれに相当する今回のまとめ的な文章が欲しいと思ってお願いしたけれども誰からも返事がない。

仕方なくたまたま会った南本会長に状況を話して、彼が文化祭の最後にした挨拶を原稿にして書いて欲しい、それを載せたいとお願いした。この挨拶は短く、かつ要を得た名演説だったことを覚えていたのだ。北方伝媒に対するお礼の気持ちが見事に込められていた。

幸い快諾されて、帰国を控えて忙しいのに南本先生がすぐに原稿を届けて下さった。それで、日本語文化祭の今年の記録の中のまとめの目玉を取り替えることが出来たわけだ。忙しい数日間だったけれど、ほっとしたところである。

と同時に、ホームページをほとんど一人で切り回している私がいろいろと弊害も生んでいるのかもしれない。「確かによくやっているけれど」と思われていることにしたいが、それだけに「誰も何も言えなくなってしまう」という状態となっているのではないか?それが爆発すると今回のようなとんでもない言いがかりになる?

ただし、私の言い訳は、この瀋陽日本人教師の会は日本語弁論大会とか、日本語文化祭とかいろいろな行事に責任を負っているけれど、本質的は親睦の団体である。日本から中国の瀋陽地区に来た人たちが互いに異境の地の生活を助け合おうというものである。そのような会が成り立つためには、会長にしろ、ホームページにしろ何にしろ、何も代償を求めずに一生懸命に働く人も大事なのではないだろうか。

とまた自己陶酔に浸っている。バカに付ける薬はないと世で言う通りだ。

2007年6月24日 (日)  瀋陽を去る仲間に贈る(替え)歌 山形達也

教師会2006年度送別会に当たって送る側の替え歌を作るように、レク係の渡辺文江先生に頼まれた。軽い気持ちで引き受けて作っているうちに、妻も参加して以下の30曲からなる替え歌ができあがった。6月16日の送別会の最後に送る側全員が皆の知っている「オタマジャクシは蛙の子」の節で一緒に歌った。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

曲は「幼なじみの思い出は」を頭に置いて作りましたが、「鉄道唱歌」の方が良いかもしれません。「オタマジャクシは蛙の子」でも元気があります。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

1.

瀋陽来てみて おどろいた

日本語教える 日本人

北関街(ベイグアンジエ)の一部屋(ヒトヘヤ)で

仲むつまじく 教師会

2.

月に一度の 定例会

みんなまじめな 顔をして

弁論大会 文化祭

命をかけて 話し合い

3.(女声のみ)

こんな真面目な 会合に

私はついて いけないわ

わたしがほんとに 欲しいのは

みんなと気楽な おしゃべりよ

4.

そうこうするうち 突然の

資料室の 立ち退きで

途方に暮れる 私たち

路頭に迷って すべ知らず

5.それまで何も 知らないで

皆で集まる 一部屋(ヒトヘヤ)も

歴史を開くと 大勢の

好意が支える 資料室

6.

日本人会の 総会(アツマリ)で

寄る辺のない身を 訴えて

それまで知らない 中国の

人たちが寄せる 好意の輪

7.

多くの人に 助けられ

振興街(ジェンシンジエ)の 六階の

以前の倍の スペースに

のびのびくつろぐ 私たち

8.

好事魔多し 半年で

再び悲しい 家なき子

日本人会 領事館

総出で 会の 場所探し

9.

一緒に集まる 場所もなく

月に一度の 領事館

二階で開く 定例会

忘れてならない パスポート

10.

総領事からの 手紙にも

受け入れ渋る お役人

良いと言っては 駄目と言い

手玉に取られた 私たち

11.

困ったときは お互いね

助け合うのが 朋友(ポンヨウ)さ

中国人も 日本人も

区別はないよと 親切に

12.

言ってくれたの 思いだし

半年ぶりに 電話して

頼んでみると あっさりと

どうぞ 使って 無料(タダ)でよい

13.

新華(シンホア)広場の 八階に

安住の地を 与えられ

放浪生活 幕引いて

みんなで協力 引っ越した

14.

艱難(カンナン)汝を 玉(タマ)にする

苦労は 仲間の 潤滑油

定例会の 最後には

いつも一緒の 食事会

15.

毎年(まいとし)巡る 四月には

こころを合わせて 日本語の

弁論大会 運営は

表に陰に 教師会

16.

日本語学ぶ 学生が

演じる劇や 歌 踊り

市内で開いた 文化祭

楽しく笑って 大成功

17.(女声のみ)

半期に二回の お当番

来る当てのない 学生を

待って一日 資料室

アシ アゴ 全部 自弁です

18.(女声のみ)

初めは嫌々 教師会

何時の間にやら みな仲間

今では二胡に 中国語

書道に 篆刻 食べ歩き

19.(女声のみ)

老辺(ラオビエン)餃子は 一押し(イチオシ)で

馬家(マアジア)シュウマイお値打ちで

緑色(リュウサア)生態 自然食

雪花(シュエホア)ピイジュウ 欠かせない

20.

老いも若きも 勢揃い

心ときめく バス旅行

行くは岫岩(シュウイエン) 玉(ギョク)産地

アカシアの里の 別世界

21.

道々拾うは 玉石(ギョクセキ)か

宝を集めて 帰り道

蜂蜜売りの 兄さんに

急に感じる 恋ごころ

22.

一億五千 万年の

太古の恐竜 思い馳せ

貝やゴカイや 木の化石

夢中で拾う 一時間

23.

小学唱歌に J-ポップ

民謡 童謡 賛美歌も

英語の歌に 中国語

千曲越える うたの本

24.

緑の表紙の 厚い本

歌が好きでも 嫌いでも

思いの丈を 歌に載せ

みんなそろって チイパッパ

25.(男声のみ)

歴史好きの 先生が

率いて歩く 瀋陽市

60年の 時を経て

歴史の静かな 証言者

26.(男声のみ)

頭(コウベ)を挙げれば 丸い屋根

満鉄マークが くっきりと

足下見れば マンホール

蓋には 右書き 「電信」と

27,(男声のみ)

土曜日曜 路上市

一元二元の 石を買い

喜び勇んで 彫る判子(はんこ)

世界に一つの 芸術品

28.

鬼の厳しい 催促に

渋々書いた 原稿も

一年三度の本となり

気づけばわたしの 滞在記

29.(送る人たちのみ)

いよいよ別れの 日が迫り

一緒に支えた 教師会

皆さん ほんとに ありがとう

どうか どうか お元気で

30.(帰国する人たちは)

二年契約 月満ちて

帰国に思う 教師会

私の第二の ふるさとよ

皆さん ほんとに ありがとう

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

教師会を知らなければ意味のない歌ですが、一緒だった仲間はこれで楽しかった一緒の時を思い出してくれるでしょう。。。

2007年6月17日 (日)  今期最後の定例会 山形達也

6月16日は今期最後の定例会だった。 2時に会議が始まる前、コンシェルジェの田中さんが6月号の雑誌を持って現れた。3月に第二子を日本で出産して、今小学生と赤ちゃんの子育て真最中の母親である。

さらに先日の日本語弁論大会の会場だったインターコンチネンタルホテルのマネージャーが南本さんの紹介で訪ねてきて、ホテルの宣伝。五つ星のホテルなので7-800元くらいするところだけれど、「日本人会の先生方とその紹介者は朝食、サービス料込みで500元にします。私に直接電話してね」と激安の売り込みである。「400元にしたら?遼寧賓館は今290元くらいじゃない?」と言ってみたけれど、「五つ星ですからね。」とかわされてしまった。でも、「隣の四つ星のホリデイインは350元でいいね。これも直接連絡を呉れればいいですよ。」ということだった。

今日は鳴海さんが初めての司会だった。いつもは弁論大会の連絡があるの、弁論大会のやり方の討議があるの、など言って司会を逃げていたが、とうとう回ってきたわけだ。もっとも彼女が司会をしたら、今日は沢山討議することがあったはずなのに、休憩を入れても2時間足らず。何と4時前に終わってしまった。

出席者(33名):安部玲子、池本千恵、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、小柴裕子、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄 、中田知子、中野亜紀子、鳴海 佳恵、野崎勉、長谷川宗武、林与志男、林八重子、藤平徳雄、前田節子、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山形貞子、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江

このうち新参加者:小柴裕子(東北育才外国語学校)、長谷川宗武(東北育才外国語学校)

特別参加:峰村夫人、加藤さんの妹さん

欠席:南本みどり(在日本)、石井みどり、菊田悦二

日本語文化祭の反省: まとめ役は田中先生だった。今回の文化祭がいろいろな面で評判が良かったので、皆から褒めそやされて嬉しそうだった。実行委員会の石井、藤平、渡辺先生はもちろんほかの先生たちも文化祭演目に大いに協力したけれど、それにしても新人の田中先生はよくやったと全員が思っている。

弁論大会会計報告:会場費などを除いて、教師の会で引き受けた分だけで約3万元の支出明細の報告があった。ただしこの中には、賞金171,000元も含まれている。文集作成費が300部で3600元。このような明細が教師会で報告されたのは今回が初めてのような気がする。

日本語資料室の今後の取り組みについて:6月8日に日本人会幹事会が開かれたので、それに合わせて資料室係、セミナー係が集まって今後の方向を打ち出して幹事会に出した資料が皆に回された。文化発信を年2回、さらに2ヶ月に2回程度のビデオ鑑賞会をして日本文化を紹介したり、折り紙、茶道、華道などの紹介をすると書いてあって、皆鼻白んだみたいで、はかばかしい意見も出ない。

この資料室の目玉というか中心は日本語図書だから、皆で知恵を出し合ってどのようにして図書を増やすか有効な方法を練ることがまず必要ではないかという気がする。

次期執行部:この7月に現会長が帰国するので、現会長から9月に正式に決めることだが次期会長を決めたいと言う発言があり、石原先生(遼寧大学)が推薦された。会長予定者の意向で、次期副会長として、安部玲子、池本千恵、松下宏、山形達也の4人が仮に承認された。

このあと、歓送会が5時から8時半まで、資料室近くの川韻蜀香3階で開かれた。歓迎は菊田領事、小柴、長谷川両先生。

すでに、中村、金丸の両先生、森領事が今期半ばで帰国したが、この夏、あと15名が帰国する。今までにない大量の入れ替わりを迎えることになった。今まで一緒に資料室の苦難を乗り越え友情を培ってきた仲間の別れに、去るものも、送るものも、心引き裂かれる思いでこの会に臨んだ。会費ひとり60元。

日本語クラブの印刷で大変お世話になったキャノンの秋山さんをこの会に招待したところ、快く出席されただけでなく、彼の至芸が披露された上に、この送別会の時に彼が撮った写真のアルバムがあとで皆に送られるという嬉しい出来事があった。

今期でこの瀋陽を去る人たち:

加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、鳴海佳恵、林与志男、林八重子、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、若松章子

みなさま、大変お世話になりました。どうか、どうかお元気で。ごきげんよう。

2007年6月16日 (土)  7月1日航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧ツアー企画 6月17日瀋陽歴史探訪ツアー企画 山形達也

山田先生によると、ノースメディアからの提案による【航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧ツアー企画】が次のように進んでいる。

ノースメディア社の親切な申し出は、会員からは過剰とも感じられて戸惑いが隠せないが、ノースメディア社(国際事務部)としては自社のメセナ活動の一貫として日本人との交流を深めていきたいという考えがあるらしい。すぐに成果を求める接近ではなく長期戦略にもとづくものだろう。お互いが個人的に知り合い仲良くなることは、企業の間でも国家の間でもそれが商売・友好の基本だから、こちらもそれに乗ろう。

今回は【プレオリンピック 女子国際サッカー大会の観戦】は別にして、今回は【航空博覧会+ オリンピックスタジアム観覧1day ツアー企画】のみの企画を立てることにした。先方は全額ノースメディア社負担との申し出だったが、すこしでも対等であるために、こちらが博覧会のチケット代とバス代を持つことで話がまとまったという。

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[五輪競技場見学]

五輪競技場の見学は、人脈を通じて行われるものなので、「経費はゼロ」とのこと。

[車について]

希望者が14名以下であれば、ノースメディア社のワゴン車を二台、無料で出してくれるので、チケット料金30元程度が参加者の負担。

[スケジュール]

10:30 North Media 出発

航空博覧会 見学

昼食 (見学後/ノースメディア社・ドライバー分負担)

五輪競技場 観覧

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6月16日の定例会で調査したところ、教師の会の参加者の数はワゴン車で十分間に合い、7月1日の日曜日にこのツアーが実施されることになった。

私は7月1日の日本語資料室の当番なので、ツアーには参加しない。

「ひとりさびしく 資料室

あなたのおいでを まってます」

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なお6月17日には瀋陽歴史探訪ツアーが計画されている。

主催 瀋陽日本人教師の会

「2007年度 瀋陽歴史散歩」について

1 日時 6月17日(日)午前10時?13時 雨天中止

2 集合場所 三経路と中山路が交差する角

(大きな建てかけのビル、瀋陽日報社、遼寧日報社がそれぞれの角にある)

中山路を277、220、125、環、129、114路バスで来られる人はバス停「遼寧日報」下車。。三経街を265、280、221、258路バス利用の場合はバス停「遼寧日報」下車。三経街を265、221、220、280、114路バス利用の場合はバス停「八一公園」下車。

3 講師 加藤正宏先生(瀋陽薬科大学日語教師)

4 内容

北の市府大路から南の十一緯路までの間、東の青年大街から八経街及び和平大街の間に点在する、旧郵政管理局、旧領事館(現存は日本及びフランス、ロシア?)、旧新聞社跡、満州電信電話株式会社跡、公館、倶楽部(張学良関与、満州国時代には洋画の映画館)、旧張作霖の第五夫人宅、旧(満州国時代及び最近まで)博物館、旧満州航空株式会社、旧独立守備隊本部、最後にイギリスの匯豊銀行を見学。(十一緯路を挟んで、この銀行向かい側の「新南国美食」で、会食後解散予定)。

なお、これらの内容は以下のHPに紹介していますので、御覧ください。

http://www.geocities.jp/mmkato75/ の「瀋陽史跡探訪」の『湯玉麟公館(奉天独立守備隊本部)』『旧遼寧省博物館と張作霖の五姨太太の別荘』『各国の旧領事館及び界隈の公館』

5 出欠

当日参加も歓迎しますが、おおよその人数を把握したいので、6月10日(日)までに下記宛ご連絡ください。

担当係り:瀋陽薬科大学 峰村洋 E-mail TEL 携帯

◎交通上の危険も考えられますので、小さいお子様の参加はご遠慮ください。

今の時期の大学は年度末なので、学部生の卒業論文発表、修士学生の論文審査、博士の学位審査会が目白押しである。わたしは、17日日曜日には私たちの修士学生の学位審査会が開かれることがその数日前に決まり、ツアー参加を断念するしかなかった。

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6月18日月曜日、山田先生経由で、ノースメディアから「2007年日本語文化祭DVD」および「写真集」が教師会に届いた。DVD制作には5千元掛かっているけれど無償で私たちに下さるという。先方でコピーすると高いので、教師会の方で必要なだけ自分たちでコピーして皆に配布して良いという大変ありがたいメッセージが添えられていた。非常感謝。

2007年6月15日 (金)  化石見学旅行 その二 山形達也

北票市の化石基地から朝陽市に戻って、「三燕古生物化石展覧館」にバスが着いた。団体一人10元である。綺麗な額に入れた化石を壁に掛けて展示しているが、聞くと展示品を売るという。試しに訊いてみると10センチくらいの魚の化石が400元だという。「高いよ」と言うと額に入っていない、そして少し見劣りするのを持ってきて150元だという。二つを100元にしたら買っても良いというと、大いに軽蔑した顔をしてさっさと手から引ったくって行ってしまった。

ガイドさんはここは自由市場じゃないのだから値段の交渉は出来ませんよと私をたしなめる。しかし化石を商売をする店が展覧館という看板を掲げて入場料を取るなんて、私たちの感覚では信じられないことだ。教師の仲間は皆同じ思いを抱いたようで、それぞれ憮然としていた。

そのあとは10分くらいバスは走って郊外に近い緑色生態苑に着いた。体育館よりも広い建物は内部には背の高い植物が生い茂り、中のそれぞれの部屋のしきりは全部植物である。瀋陽にあるこの手の店は独自の畑を持っていて、無農薬野菜の供給が売りである。私たち一同は3つのテーブルが入っている一隅に案内されて、食事を楽しんだ。美味しかった。仲間とのおしゃべりも楽しかった。

泊まりは朝陽駅からまっすぐの目抜き通りにある聖都酒店だった。二人一部屋200元。バスタブはなく、電気湯沸かしによるシャワーが付いていた。ベッドは硬かったけれど、すぐに寝てしまった。翌朝聞くと、南本先生の部屋は相方がいなかったこともあって、私たち一行の半数に当たる14-5名が集まって酒を飲みながら遅くまで楽しんだという。

翌日8時に宿を出たバスは市内を北東に向けて少し走り、止まったところは北塔博物館の駐車場だった。建物を回り込むと北塔が見えた。13層の仏舎利塔である。まず博物館の中に誘い込まれて、前燕か後燕時代のこの街の模型を見た。瀋陽よりも遼陽が古いとは知っていたが、その遼陽よりもこの朝陽は古い街なのだそうだ。その時代には今の北塔の場所に木造の塔があったという。

大修理をしたときに12層目の中にあった大きな石の箱(天宮と言うそうだ)の中の宝物も取り出したようだ。一緒に出てきた舎利の入れ物の一つは天宮に残し、あとはこのあと案内された博物館の地下階に展示してあった。その舎利の入っていた瑪瑙の壺が納めてあった箱の外側に描かれていた釈迦の涅槃像が、この博物館の1階に巨大な仏像として安置してあった。絵は10センチくらいの小さなものだったが、仏像は5メートルくらいの大きなものである。

この地下室には多くの宝物が展示してあった。イラン渡来のギヤマンの壺もあった。係員が5人くらいいて、私たちの挙動を見張っている。誰かがフラッシュをつけて写真を撮ったら早速撮影禁止が申し渡された。地下室の奥には特別室があって、そこには本物の舎利が展示してあるという。靴を脱いでまるで法事みたいに畏まって中には拝礼できるような座布団敷きになっていて、正面のガラスの小さな入れ物が中の照明で光っていた。これが舎利らしいが、きちんと見えるわけではないし、ちかちかと明るいのはどうも戴けない。

外に出て正面に北塔に臨む。ゆったりとした塔はそれだけで落ち着いた存在感を持っていた。100元払った地下宮殿に入るという。入ってみると何のことはない。礎石の周りを巡るだけであった。礎石の間に、北遼の時代の煉瓦、とか、前燕時代の礎石とかの説明が書いてあった。裏に回ると細い通路が塔の中心に伸びていて、これは盗掘者が掘ったあとを固めたものだという。やれやれ。

そのあと階段を上ると北塔の二階に出た。北塔の南側には昔の建物の結構が作られている。さらに目を上げて南を臨むと遠くに南塔がみえる。昔を復元して今後の観光に資するという考えのようだ。実際のこの博物館の作りと展示は大変凝った金のかかったものである。中央政府、遼寧省政府、朝陽市政府が金を出したと言うが、半端なものではないだろう。

このあとすぐ近くの「関帝廟」を見学した。あとでわかったことだが最初はもっと遠くの「鳳凰山」山麓にある「関帝廟」に行くはずだった。どこかでごまかされたらしい。近くだったため時間が節約できて、これも市内の住宅団地の中の普通のアパートにある化石の卸商のもとに行った。ちっちゃな化石が一つ70元にまで下がったので二つ買った。「この箱から出して持って行けば大丈夫かも」なんてガイドさんが言っている。

食事を済ませて瀋陽に向かったのが1時で瀋陽の遼寧賓館についたのが5時過ぎ。ずっと高速道路だったので蜂蜜は買えなかった。

皆さんお疲れさまでした。特に、旅行計画を立て旅行社と交渉し、皆に知らせて準備万端整えた峰村先生、そして道中皆を楽しませようと努力して下さった石原、渡辺先生、本当にありがとうございました。

2007年6月14日 (木)  化石見学旅行 その一 山形達也

今年の教師の会の1泊2日バス旅行は、遼寧省西部にある朝陽市近辺の化石を見るのが目的だった。なぜ化石か?この一帯は恐竜と鳥をつなぐ孔子鳥と呼ばれる化石の出土で世界中から注目されている地域なのだ。ドイツで昔出土した始祖鳥なんか眼じゃないのだ。遼寧省は恐竜のほかにも、哺乳動物のプロトタイプなど沢山の出土がある。

参加者は28名:

1加藤正宏・文子、2林与志男・八重子、3山形達也・貞子、4中道秀毅・恵津、5佐藤るみ子、渡辺京子、6安部玲子、石井みどり、7中田知子、森林久枝、8池本千恵、鳴海佳恵、9前田節子、若松章子、10藤平徳雄、田中義一、11辻岡邦夫、長谷川宗武、12松下宏、石原南盛、13南本卓郎、14峰村洋・尚代、15渡辺文江

計画を立てて旅行社と交渉に当たったのは、レク係の峰村先生を中心として石原、渡辺(文江)両先生。旅行社は昨年と同じ、「世紀国旅」(遼寧世紀国際旅行社有限公司)で、添乗のガイドさんはこれも昨年と同じく陳瑞濤さんをこちらから指名してお願いした。

今年の旅行でもう一つ特記すべきことは、昨年4年間の瀋陽滞在を終えて帰国された中道恵津・秀毅ご夫妻がわざわざこのために中国に来て参加されたことである。恵津先生は昨年の、教師の会の歴史で初めてという岫岩市への玉見学旅行を企画したとき、旅行の間中皆の気持ちを盛り上げた立役者だった。

6月9日土曜日の朝7時に中山広場の遼寧賓館(昔の大和ホテル)前に集まり、40人乗りのデラックスバスに乗った。一人あたりの費用は560元。昼ご飯の朝陽市まで二本の高速道路(沈京高速および錦朝高速)で約3時間だった。その間、私と池本先生の用意した歌の本を配った。思った通り一番最初に「僕は歌いたいよ」と言ってマイクを握ったのは秀毅先生だった。秀毅先生が話し出すと皆がほんわかと楽しくなる。以前とちっとも変わらない雰囲気だ。その後指名を受けてそれぞれ好きな歌を歌って楽しんだ。

朝陽市はのどかな地方都市といった感じだが人口は340万人とのこと。行政区としては日本の四国よりも広い(2万平方キロメートル)と言うことで、広すぎて私の掴みうる感覚を越えている。昼ご飯の後はまたバスで北票市に向かった。約1時間半掛かって「四合?化石基地」に到着。台状の起伏が見渡す限り広がっている。バスを降りた場所の足下から二百メートルくらい帯状の低地があり、向かいには掘られた形跡のある10メートルくらいの高さに層状の岩盤が露出していた。それと向かい合った手前にある建物は化石の展示場だ。

層状岩盤の足下には破片が散らばり積み上がっている。ガイドさんの話では、中国の化石は国法で勝手に掘ることも、国外持ち出しも止されているが、ここで落ちている岩石の破片を拾って持って帰ることはここの許可を得ているので自由だという。皆の声にならない声がさざ波のように間を走り、それぞれが下を向いて歩きながら岩石の破片を拾い始める。

表面に貝の化石が出ているものもあり、割ると出てくるときもある。頁岩と言って、薄く堆積が積もって出来た岩の地層である。道具もないので、ほかの石にぶつけるしかない。思ったところの頁岩を剥がして割るのは難しい。横に割れてしまうことが多い。それでも、貝のほかに、ゴカイのような虫、シダの葉のような跡の化石など出てきて、皆それぞれに夢中だった。広場の一角には木の化石が集められていた。

40分くらいそこで化石探しをしただろうか、ガイドさんにせかされて展示館に向かった。左手の大きな空間では、奥は堆積岩をそのまま利用した10メートルくらいの壁が露出している。部屋の内部には、始祖鳥と今の鳥類を結ぶという孔子鳥の化石が数体置いてあった。右手の展示場は、草食の恐竜化石の骨格標本が組んであって70%は本物の化石だという。この展示場専門のガイドさんの説明を陳さんが日本語で繰り返してくれた。今改修中で本来は見せないというこの化石展覧館の入場料は50元。この建物は綺麗で、展示もよく、期待以上だった。アメリカのDinosaur Museumに行ったことがあって、恐竜の骨の発掘現場そのものが博物館になっている。実際に人々がそこで骨の発掘作業をしているように見えるのが楽しかった。毎日掘っては、毎日埋めているのだろうけれど。

この化石基地には1時間半いてから朝陽に戻った。朝陽市も北票市も5-6階建ての住宅団地の屋上に、太陽熱温水器が沢山置いてあったのが珍しいものとして記憶に残った。

(この稿つづく)

2007年6月4日 (月)  ノースメディアの人たちとの交流 山形達也

6月2日の土曜日に、山田先生から会員にE-mailで連絡が届いた。金曜日の夜の日本語文化祭慰労会の席上で、ノースメディアの趙さんから以下の二つの提案があったという。記録のために日記に残すことを山田先生に了承して貰った。

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日本人教師の会、会員のみなさま

6/1(金)の晩、5月の定例会と日本語文化祭でお世話になりましたノースメディアの趙さんを始め、ご協力いただいたスタッフの皆さんへの慰労会へ出席いたしました。その場で、趙さんから教師会の皆さんがご希望されればと、下の二件の申し出がございました。

少しでも早く日程をご検討いただきたいこともあり、趙さんと同い年で、隣席にいて会長とともに直接お申し出を伺った山田が、本件の連絡係を買って出ることとなりました。レク係の皆さんを差し置いた対応で誠に申し訳ございません。

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【航空博覧会 + オリンピックスタジアム観覧1day ツアー企画】

北陵公園北で開かれる航空博覧会と、オリンピックスタジアムの事前観覧を取り計らっていただけるとの申し出を受けました。移動のためのバスも North Media から出していただけるとのことです。

うろ覚えで恐縮です。誤りがございましたらご訂正ください。瀋陽は中国で初めて航空(戦闘!?)機を造ったり、ボーイング社の工場があったりと航空機技術が盛んな街でもあるそうです。

そこで南本会長とお話した上でお伝えいたします。予定が立て込んでいることを考慮し、6/30(土)か7/1(日)に昼食を挟んで1day ツアーとして二箇所を周ろうと企画してます。尽きましては、当方では6/16(土)の定例会の場で日程をいずれかに決定し、翌17(日)に趙さんへ日時と人数をご報告する運びで考えております。

尚、定例会をご欠席される方は、どなたかにご伝言をしていただくか、6/16(土)午前10:00までに山田宛でご連絡ください。

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【プレオリンピック観戦】

プレオリンピックとして7/4-7/11に開かれ国際女子サッカー大会観戦についても、ご希望が揃えば、話をつけていただけるとのことです。本件は後日、もう少し日時や料金等を調整し、上記1day ツアーとは別件として詳細を流したいと思います。

試合は複数ございます。が、分散してお願いするのは、趙さんや先方の皆さんにご迷惑をお掛けいたします。また、会員の皆さんで揃って観戦した方が楽しいでしょうし、記憶にも残ると考え、団体行動をしたいと思います。ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

夏の二弾企画係 山田 高志郎

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ノースメディアの人たちは日本語文化祭の時、椅子や机を並べるという会場設定や受付から、本職の照明、音響、ビデオ撮影まで20人というスタッフを動員して文化祭成功に大きな力を与えてくれた。

さらにこのように日本人教師会に積極的に接近して、私たちとの友好関係を築こうとしている。

どうしてだろう。いろいろと聞いてみるとノースメディアは日本の電通のような広告作成会社でもあり、TV作品の製作会社でもあるようだ。将来は日本語の情報発信も視野に入っていて私たちとの連携を重視しているのかも知れない。教師の会は教師一人一人が自分の考えで日本語教育に従事していることだけが共通項で、教師の会としての高邁な理想や目標はないが、会員の親睦と日中友好も旗印になっている。ノースメディアの人たちと仲良くすることは、会員の親睦と日中友好の促進に役立ちそうである。

2007年6月3日 (日)  日本語文化祭の慰労の会 山形達也

5月31日の木曜日、教師の会の田中先生からメイルが入った。『明日、6月1日(金)午後5時、新洪記で、ノースメディアの趙さんのご苦労さん会を、文化祭係りの先生方で、行う事になりました。その後、ノースメディア側から、さらに、御三方参加したいとの連絡が有りました。これは、この会が、歓迎されている事の証拠です。ですから、私の経験から言っても、中国人は日本人以上に酒宴を大切にする事を体験しておりますので、来年も友好的に事が進むように、有志の先生方に御参加いただければ幸いです。』

5月26日に開かれた日本語文化祭は、その日の係の日記に書いたように大成功だったと思う。それを受けて慰労会を持とうというのは大変結構なことである。教師の会はこの文化祭の主催者ではなくあくまで協力者のはずだが、世話になったノースメディアの方達を招いて食事をするという案はなかなか良い。

私は5月27日から6月3日までの1週間、日本から友人の教授が薬科大学を講演と研究交流のために訪ねていて、6月1日の夜には彼の講義が予定されていた。それで、残念だったけれど出席出来なかった。

この慰労の会の翌日の土曜日には田中先生からメイルが入っていた。内容は以下の通りである。

『目的:ノースメディアの趙さんの教師会に対する親身の御協力への感謝の気持ちと今後の友好増進のため

参加者:菊田領事、趙さん、ノースメディアの美女軍団御二方。教師会からは南本会長など9名

出費:瀋陽日本人教師の会から(470元)

6月1日、5時半より、新洪記にて、文化祭担当係り主催の、趙さんのご苦労さん会を開催。菊田領事をはじめとして、有志の先生方の御出席もいただく。会は、極めて友好的に進み、趙さんの方から、お願いもしないのに返礼のお言葉をいただきました。そして、来年は、今年以上に良いものにしましょう、と言う事でした。その後、会員は、南本先生の宿舎にお寄りし、同宿舎の峰村先生と共に、宵の宴を通じ、家族的雰囲気の中、先生方相互の親睦を深めた。』

このメイルを貰って、ご苦労さん会で集まった人々が互いに親睦を深めたと言うことはとても結構なことだが、『出費:瀋陽日本人教師の会から(470元)』と言うのが気になる。

新洪記の料理は美味しいが決して高い店ではないので、470元というのは13人全員の分だろう。教師の会を代表して世話になったノースメディアの人たちと歓談したのだから、教師の会が持つというのは恐らく世間的常識だろうと思う。

しかし、しかしだ。教師の会は親睦のための集まりで、親睦のための経費しか集めていない小さな会である。教師の会では誰かが教師の会の活動を代表してどこかに出掛けたり、折衝したり、場合によっては相手と食事をしている。しかし、交通費は会から出すことがあっても、会員の食費までは出したことはないはずである。理由は簡単で、教師の会にそのようなゆとりがないからである。

私の場合を書くと、私は日本人会幹事会に教師の会を代表して2ヶ月に一度開かれる幹事会に出席している。毎回往復のタクシー代が掛かっているし、時によっては1回200元位の食費も出すけれど、今まですべて自分で払っている。

せ っかくの楽しくそして実り多かった集まりに文句を付けて済まないと思ったが、私たちは小さな会にはそれを払うゆとりがない。招いたノースメディア側の3人の分は教師の会が持ち、会員は一人一人自分の分を自分で払うというのが現状では筋ではないか、と田中先生に書き送った。

日曜日になって田中先生から電話が掛かってきた。考え直して、慰労会に出た会員9人はそれぞれ自分の分の勘定を持ち、菊田領事とノースメディアの合計4人分は教師会から出したいと言うことだった。ま、こんなところが落としどころだろう。

2007年6月2日 (土)  教師の会の歌の本 山形達也

瀋陽日本人会が3年毎に出している会員生活ハンドブックが丁度この春新版となって発行された。薬科大学で印刷出来ないかと頼まれて、大学の印刷所を利用している峰村先生に案内をお願いして印刷所の張主任に会ったのが昨年12月だった。

見積もりを取って編集委員会に報告すると、それまでの所よりも大分安く半額に近いという驚きでもって迎えられた。それで、薬科大学の印刷所に頼みに行ったが、実際は中国も堪能な全日空の高山さんの交渉を見ているだけだった。印刷所の張主任は、高山さんや同じく全日空の牛さんがすっかり気に入ったみたいだった。高山さんが「この紙をもっとよくするといくらになるのですか」とか「カラー印刷ページが1枚増えるといくら高くなるのでしょう」などと言うと、「あなた達みたいな若い美しい女性は値段なんか気にしちゃいけないよ。大丈夫、心配しなくても、うーんと負けてあげるから」などと相好を崩している。

会員生活ハンドブックは700部印刷。134ページで3,808元。カラー6ページで400元。表紙350元。糊など製本代72元。合計4830元で、1冊あたり6.9元と言う計算である。

このやりとりに同道して、本の印刷は意外に安くできることを知って、日本人教師の会の歌の本の第2版はここで頼もうと思い決めていた。

教師の会の歌の本というのはこう言うことである。2006年の春に教師の会初めてという1泊バス旅行を計画して、瀋陽から車で3時間離れた岫岩市に出掛けた。中国は玉を産し、玉は高貴な印として古代より尊ばれている。中国の玉の約8割はこの岫岩近辺で産出される岫岩玉であることを知って、その産地を訪ねることにした。会員に声を掛けてみると合計27名の参加希望があった。

それで最終的には中道先生経由で旅行社に頼んで、岫岩市に出掛ける計画が出来た。その片道3時間のバス旅行を退屈しないで過ごすには、歌が欲しい。しかし中国のバスには日本の歌のカラオケは用意されていない。各自が歌の本を持っていくと言ってもそれぞれてんでバラバラだと、一緒に歌うというのに難がある。どうしたらよいかと考えているうちに、歌の本を編集してしまおうと思いついた。

思いついた歌をインターネットで集めたが、私だけの選曲では限られてしまうので、中道秀毅先生、小林豊朗先生にも歌を推薦して貰って追加した。戦後の歌と、それ以外の歌でそれぞれ二百曲を集めてコピー製本して、旅行に間に合わせたところ結構楽しめた。旅行に参加できなかった会員にもその後で配って、集まりの時には全員が同じ本で一緒に歌えるようになった。

ところがこの歌の本は教師の会の歳の若い会員には評判が良くない。「何ですか、これ。歌の本って言ったって、知っている歌は『仰げば尊し』だけですよ」という具合である。今の人気の歌を知らない私たちが作ったのだから当然だけれど、若いお嬢さんたちにそっぽを向かれたくない。

それで教師の会の全員が知っている歌を入れて第二版を作ろうと私は皆に約束をして、若い人向けの歌集めを若い中村直子先生や、池本千恵先生にお願いした。槇原敬之「どんな時も」や、井上陽水・奥田民生「ありがとう」などがあったので、私も新しいジャンルの集曲に力を入れた。そうこうするうちに2000曲近く集まったが、もちろん最大公約数の歌を選んで曲を減らさないと多すぎる。

2000曲近く集めた候補の歌の中から最終的な1254曲を選びだすのに、林先生、安部先生、南本先生、そして昔は長髪のフォークシンガーだった森領事も協力してくれた。池本先生は曲を演歌、フォーク、ニューミュージックなどの種類に分類する作業を引き受けた。峰村先生は漏れている童謡を集めてくれた。学生の王毅楠くんには中国語の歌を集めてもらった。

ここまでは年末に出来上がったけれど、その先が私の手元で進まない。そうこうする中に年度末も間近になり、今年度のバス旅行も6月9-10日と決まった。歌の本はそれに間に合わせるしかない。最後には池本先生と手分けして、印刷のための編集作業に当たった。印刷所に届ける日の前の10日間は、池本先生は忙しい中を2回も午後いっぱいを薬科大学で過ごし、二人で文字通り眼を腫らして頑張った。

苦労はあったけれど、多くの方々の協力を得てこうやって出来上がった歌集が役に立てばとても嬉しいことである。

印刷原版を作るための最終打ち出し原稿を印刷所に運んだ昨日、張主任は厚い名刺の束をめくって、高山さんの名刺を嬉しげに見せて「とても綺麗な人だね」と眼を細める。私は「彼女は美人で、しかも私の朋友さ」と自慢した。すると張主任はあっさりと、「高山さんは昨日もここに来たよ」という。張主任は『昨日彼女に会ってもいないお前が朋友のはずはない。』とは言わずにニコニコしていたけれど、嘘がばれた私はすごすごと退散するしかなかった。

2007年5月26日 (土)  第3回日本語文化祭 山形達也

日本語文化祭を見に行って帰ってきたところである。地元の情報誌コンシェルジェのために写真を撮るよう頼まれたので、今日は大きな顔をして一等席に陣取った。ステージに向かって第1列の、通路を挟んで右隣が菊田領事で私は左という最高のかぶりつきの席に座って4時間、歌と踊りと劇を楽しんだ。スピーカーも近いので音も大きく、今でも頭の中で、『夢のしずく』が、『未来』が、『世界の約束』が、リフレインしている。『太陽の一日』のダンスが、『ロックソーラン』の踊りが目に浮かぶ。奇想天外な仕掛けを作った『小林ピンポン』の黒子で動かされる舞台転換が脳裏によみがえる。『蛙の王子』の達者な台詞と凝った演出を思い出して改めて感心する。日本語を習ってよかったと喜び、心の底から楽しんでいる学生たちののびやかな声と笑顔にどっぷり浸かって、私も心から楽しんだ午後だった。

空の隅々まで晴れ渡った5月26日の土曜日の午後、第3回日本語文化祭が開かれた。遼寧大学で開かれていた時代の文化祭を数えると何回目になるのだろうか(遼寧大学の2005年に予定されていた日本語文化祭は反日デモのあおりで中止された後企画が消えた)。開催母体が日本国総領事館の主催となって開かれた2005年の文化祭を新生第1回と数えると、第3回となる。

会場は青年大街と文化路の交差点東南側に建っている新築29階建てのノースメディアビルの4階ホールだった。昨年までは総領事館の敷地内の別館で開催され、それはそれでとても立派なところだったが出入りが自由でなかったので、出演者も参加者も今回は遙かにのびのびと楽しんだようである。

最後に総括した南本会長によれば、

第1回の参加は7校で、演目が15。

第2回の参加は9校で、演目は17。

今回の参加は10校で、演目は31という具合に、飛躍的な発展と充実だった。

参加した教師会のメンバーは口々に今回の文化祭は大成功だったと言っていた。私は文化祭を初めて観に行ったが、出演する学生たちの輝きに目を奪われ、彼らの習得した日本語を使って自分たちを演出している喜びに心を奪われた。日本語文化祭の試みは完全に成功したと言っていいだろう。

これは第一に、何よりも会場が圧倒的によかったことがある。約300のいすが用意してある会場の正面には大きなステージがありステージ環境がよいだけでなく、ノースメディアが受付も用意し、照明、音響、ビデオ、マイク係などのスタッフ(合計20名)が総出で演目の進行を助けて呉れたことが大きい。ノースメディア側の十全な協力が第一の成功要因である。

したがってこの会場を借りて文化祭を主催した総領事館の判断は、称賛すべきもので、これが第二の成功要因である。実際に学生を出演させた日本語教師の作っている教師会は、共催者としてなくてはならぬ存在ではあるけれど、教師の会は総領事館とノースメディアに今回の成功のお膳立てに心から感謝の意を表明している(最後の南本会長の挨拶はこのように締めくくられていた)。

第三に挙げたいのは準備に当たった文化祭実行委員(勿論教師会)の準備の良さである。出演者が10校の、しかもクラスを考えればもっと多い単位になる出演者による31もの演目を何一つの滞りもなく進めることができたのは、事前の準備に当たった田中、渡辺(京子)、藤平、石井先生の委員会の功績であろう。発表を劇や合唱などのジャンルごとで分けていた最初のプログラムにそれでは面白くないと文句が出て、組み替えられた最終プログラムの送付が前日だったことを考えると、ますますその感を強くする。瀋陽に赴任して初めて文化祭の開催を担当した田中、藤平両先生には特にお疲れ様でしたとその労に感謝したい。

勿論、歌、踊り、劇の発表に参加できる嬉しさで弾む心を通奏低音として、真剣さ、ひたむきさと熱意をもって演じられた内容こそが、この文化祭の成功の最大原因であったことは言うまでもない。全体で、独唱が4曲、合唱20曲,器楽3,エアロビックスなどのダンスが7曲、劇が5つあった。どれも楽しかった。どの出演者も輝いていて、4時間の熱演に堪能した。

遼寧大学主催の時代の文化祭を知らないが、それが形を変えて総領事館主催の文化祭となって良かったに違いない。しかも、世の中の空気が変わってきた。昨年は領事館の敷地内で開催され外部からのアクセスが自由ではないので外の会場を借りて出来ないかという意見が多かった。しかし日本人の団体が瀋陽市内に場所を借りて、不特定多数が参加する集会を開くなんてとても考えられないのが一年前だったのだ。それが、今はこうやって街の中の普通の施設を借りて文化祭が開かれた。ご尽力頂いた森領事に改めて感謝する次第である。

来 年も是非この熱気を再現させてほしいと心から願いつつ、初夏の瀋陽の街を家路についた。

2007年5月13日 (日)  5月の定例会 その二 山形達也

3. 日本語文化祭

日本語文化祭は元々が遼寧大学で毎年一度開かれていた日本語学習効果の発表会だった。10年前までさかのぼると聞いている。それが年々発展して瀋陽のほかの日本語学習校からも参加して、劇、踊り、歌などを発表するお祭りとなっていた。

しかし、反日デモの高まった2005年に遼寧大学の日本語文化祭は中止に追い込まれた。さらに弁論大会も中止され、その代わりに総領事館でジャパンウィークの中の一日として弁論大会最終選考会出場者が作文の口演をした。

その年の夏にそれまでの中心だった遼寧大学の石井康男先生が寧波へ転任されたこともあって、日本語文化祭はもう遼寧大学で行われることはなくなってしまった。そのかわり2006年5月には在瀋陽日本国総領事館主催のジャパンウィークの催し物の一つとして開かれた。瀋陽から8校、遼陽から1校の9校の参加だった。このときの準備期間は10日間しかなく、それを仕切った岡沢先生と石井みどり先生の努力と貢献の活躍ぶりは、未だに皆の語りぐさになっている。

在瀋陽日本国総領事館主催の今年のジャパンウィークは長春で開かれると言うことである。じゃ、日本語文化祭は?ということになる。その日本語文化祭はやはり在瀋陽日本国総領事館が主催して瀋陽で今年も開くという。5月26日土曜日にNorth Media Buildingが予約してある。つまり日本語文化祭は在瀋陽日本国総領事館主催の催し物として定着したのだ。実際には日本人教師のいる学校が動かないと出来ないので、日本人教師の会は協賛というかたちになっているという。それで教師の会は手回し良く、すでに日本語文化祭担当委員を決めて用意をしてあった。今年度の委員長は9月から新着の田中先生である。

田中先生によれば、今年も昨年と同じく、東北育才学校、東北大学、遼寧大学、瀋陽薬科大学、瀋陽大学、瀋陽師範大学、中国医科大学、遼寧航空学院、遼寧大学外国語学院、の9校の参加だそうである。午後1時から5時までの4時間なので、1校あたりの持ち時間は約25分。約300人が会場には入れるので1校あたりの出場者は40名、とアナウンスされた。

今回は昨年までの総領事館とは違って出入りが自由なので、各校からの参加者に40名という上限を設けなくてもいいのではないかという質問があった。田中先生の返事は『立ち見が出てもいいですから、大丈夫ですよ。薬科大学は90名ですね。』

『消防法で立ち見の数の制限があるのではないですか?』という質問に、田中先生は『大丈夫ですよ』。このメディアビルに誰でもどんどん入れるのですか。田中先生は、これにも『大丈夫ですよ』。。

4. 旅行

昨年の初めての玉見学のバス旅行が楽しかったので、今年もまた行きましょうと言うことになって、行き先は朝陽の化石と決まった。峰村先生が係を務めて旅行社と私たちの間に立って折衝を重ねておられる。6月9-10日の土日。今のところ参加希望者は26名という。昨年の旅行の立役者で、夏に帰国された中道先生ご夫妻も、このためにわざわざいらっしゃるとのことである。

今年度初めての、そして最後の瀋陽フィールドワーク『瀋陽歴史探訪』が6月17日(日)午前10時-午後1時に計画されている。講師は何時もの薬科大学加藤先生。この催しは教師の会の主催だが、日本人会にも呼びかけることになっている。その場合は共催か、後援か、協賛か。

5.教師会主催第2回セミナー

題:「共生循環型社会を目指して」

演者:野崎勉氏(東北大学)

4時15分から1時間、同じ会議室で研究セミナーが開かれた。

教師の会の33名のほか、日本人会からの参加者、東北大学、メディアビルからの参加者約30名近くが集まって、合計約60名の聴衆で会場は一杯だった。

内容要約

『二十世紀は人類がかつて経験したことのない変革の世紀であり、科学技術が急速に発達し、それが人類に与えた恩恵は測り知れないものがある一方、これは科学技術とは無縁の人類以外の生物にとっては、最悪の受難の時代でもあります。

粗大ゴミで代表される大量消費時代の中で、地球温暖化、オゾン層の破壊、水質汚染、酸性雨など、環境問題は地球全体の問題として考えなければならないときが来ています。科学技術はそれを享受する人々の総意によって発展してきました。地球環境に優しい技術も、また、人類の総意によって生み出されねばなりません。先進国はこれまでは地球に厳しい国であり、発展途上国は今までは地球に優しかった国なのです。

私たちの生活の中でも、日々多くの資源とエネルギーを消費しています。この美しいかけがえのない地球を守るには、一人ひとりのこころがけが必要です。少しでも地球へのいたわりを考える一助となるよう、地球温暖化と沙漠化についてお話します。』

6.終了後近くの新洪記で食事、23名参加。一人30元。

2007年5月12日 (土)  5月の定例会 その一 山形達也

文字通り風薫る5月12日土曜日、好天に恵まれた5月の定例会は青年大街と文化路の交差点の南200mに29階建てで聳える新築のNorth Media Buildingの4階会議室で開かれた。これは5月末に開かれる予定の在瀋陽日本国総領事館主催のジャパンウィークがこのビルを借りて開かれることになっていて、教師会ではこの日の定例会のあと会員の野崎氏が講演を行うことになっているので、それならばよい会場が必要だろうと言って、森領事が私たちのために借りて下さったものである。

定例会の始まる前にビルの見学会があり、4階の一部には約300人が入る平土間の会場があった。ステージも広い。これがジャパンウィークの時の『日本語文化祭』会場になるもので、メディアビルの名に恥じず、ビデオ収録のための照明、音響施設が万全のように見受けられた。昨年度までの日本語文化祭は総領事館内の施設で行われたので、出場者、参加者は事前登録と当日のチェックがあり、決してオープンな催しとは言えなかった。人々の出入りが自由なら、今年の日本語文化祭はきっと賑やかなものになるだろう。

ただし、私が1時半頃このビルに来ると、外には身分証を付けた女性二人がいて中に入る人をチェックしている。つまり用事がないと入れない。回転ドアの中に入っても屈強な男性3人がいて、同じように用向きをチェックしている。私はたまたま一寸先にビルに入った田中先生を見掛けていたので、彼の後ろ姿を指さして『一緒ですよ』といったら、それだけで中に入ることが出来た。ジャパンウィークの時は、一般の入場者をどうするのだろうか。4階で開かれるジャパンウィークに出たいと言うだけで、入れて貰えるのだろうか。

4階の私たちの定例会の開かれる会議室は、120平方米くらいの広さで会議でも、講演会でも使える。スクリーンと講演者の机を中心に放射状かつ階段状に机が設けられていて、約40人の席があった。机には二人に一つのマイクロフォンが設置してある。マイクの下のスイッチを押すと赤いランプが付いてこのマイクが生きる。となりにもう一つランプが付いていて、こちらには招請と書いてある。これは議長が『あなたに発言をお願い』とでも言って手元で操作してマイクをアライブにするのだろうか。

ともかく教師の会の5月の定例会でこの豪華な会議室を使えるのは、森領事とNorth Media側のご好意のおかげである。

この日の出席:菊田悦二領事

安部玲子、池本千恵、石井みどり、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山 皚、加藤正宏、加藤文子、河面弥吉郎、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、鳴海佳恵、野崎勉、林与志男、藤平徳雄、前田節子、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江、小柴裕子(新入会)、長谷川宗武(新入会)

合計33名の出席

欠席:林八重子、南本みどり(在日本)

山形貞子(この日3時半に瀋陽空港に戻ってきて、食事会にのみ参加)

このほか、読売新聞瀋陽支局長・末続氏が傍聴。

1. 南本会長から資料室係への要望

『先般の教師会で説明したように「瀋陽日本語文化センター」等へ名前を変えること等も含めて「日本語資料室の今後の展望」について資料室係と教師の会役員の間でご検討いただきたい。

そして、出来れば6月の定例教師会に「改訂版、日本語資料室の今後の展望」と「年間計画」的なものを出していただき、皆さんの了承が得られたら瀋陽日本人会へ提出したいと思うので、よろしく。』

2. 日本語弁論大会の反省

すでに鳴海実行委員長のもとにそれぞれから今回の大会の反省が集まっていて、それが要約されて発表された。これは来年度の実行委員に渡されて再度検討される。

そのほかに、すでに日本人会側からの改革案として以下の提案が出されている。

○ 最後の御礼の挨拶は日本人会代表者が行うのが筋だろうし、講評は日本人会メンバーよりは教師の会の方が行うのが筋ではないだろうか?

○ 即席スピーチは与えられるテーマの運不運もあるので、例えば即席スピーチをやめ、舞台でパネルディスカッションを行わせるのはどうだろうか?あるいは、テーマを絞って、おなじテーマを話させると違いが出るだろう。

○ せっかく日本人会がスポンサーなのだからアトラクションをやめ、例えば約1時間ほどを法人企業の会社説明会にあてることもできるだろう。

○ 終了後にビユッフェスタイルで、たとえば上位入者の学生との交流会を行うのはどうだろう。

2007年5月12日 (土)  ノースメディア見学会 編集係A

ノースメディア、一体ここは何するところ?というのが、行くまでの気持ちでした。だって、入り口付近に窓拭きをしている人形が置いてあるんですよ!この人形、本物だと思っていたのは、わたしだけではないはずです。「会社の顔」ともいえる入り口付近にこんな人形を置く会社ってなんなんだ。と思ってました。

で、何をする会社かというと、メディアってゆうくらいですから、放送です。北京オリンピックのときには、ここから世界へ向けて放送するんだそうです。

すみません、これくらいしか会社のこと聞いてません。 会社のことよりも、心を捉えたのは、おしゃれな内装。インテリアショップかと思うくらい。部屋の中を小川が流れてるんですよ、琴まで置いてあって。いったいあの部屋は何に使うんだろう?トイレもきれいだし。(←ここ重要)あと、上から見下ろす瀋陽の街って、けっこうきれいなんですね。意外に緑も多いし。

とまあ、会社のことよりも、オブジェと内装が気になったノースメディア見学会でした。行かなかった人にはさっぱりわからない内容ですね・・・。

2007年4月23日 (月)  第11回瀋陽日本語弁論大会 その二 山形達也

第11回日本語弁論大会は主催者の日本人会が資金を出し、瀋陽市人民政府府の承認を取り付けて、会場と交渉した。協力の瀋陽日本人教師の会は実行委員会を作って半年前の前年の11月から計画を練り、12月には各学校に通知を出し、2月には弁論大会の詳細を知らせ、3月には応募作品を集め、3月終わりにはそれらの審査をして4月22日に州際飯店で開かれる最終審査(壇上での発表)に臨む38作品を選んだ。日本人教師の会はさらに最終選考会当日の運行すべての責任を負った。

私は今回は大学一部、高校生の部、表彰式の司会役だった。初めて弁論大会に臨んだ2004年の第8回のときも司会、2005年は急遽中止となって、2006年の第10回の時も司会だった。司会というと目立つので大変な役だと思われるが、実際は原稿が実行委員会の手により作られているので、発表者の順番や読み違えたりしないよう気を遣うけれど、さほど大変ではないと思われる。弁論大会には当然審査員がいるわけで、司会としては審査に影響を与えてはいけないから、自分の思うことは一切述べられない。司会をやるなら「欣ドコ」の欣ちゃんみたいその場を仕切って喋りまくりたいところだが、それは禁じられている。実行委員の作った原稿通り粛々と読み進めなくてはならない。

ところが人生が思ったように進まないのと同じように、弁論大会も台本通りには進まなかった。

司会者原稿では、9時に司会が開会を宣言すると最初に主催者を代表して瀋陽日本人会長の挨拶が予定されていた。主催者の挨拶なので、話しが終わっても司会は「ありがとうございました」とは言いませんよと、一番前に座っている高木会長に言うと、「え、最初に私の話があるんですか、終わりにもあるので初めのはないと聞いたけれど」というのである。あわてて実行委員に聞くと「当然挨拶が予定されている」という。話がどこでどうなったのか知らないが、後10分で大会が始まるという時になって高木さんは挨拶をすることを知ったわけだ。

開会5分間になって、開会の時の来賓として挨拶が予定されていた在瀋陽日本国総領事が遅れるらしい。10分、いや20分遅れそうだという情報が入った。開始予定時刻の9時5分前のことである。急遽集まって、と言っても高木会長、森領事のほか誰がそこにいて一緒に相談したのか、今となっては思い出せないくらいだから、だいぶ私も慌てていたと思う。それでは会の開始を総領事の到着に合わせて延ばすか、いや、時間通り始めて、時間に未着ならそこは跳ばすしかない、それなら、森文化担当領事 が代わりに挨拶をするかを急遽話し合った。森領事は総領事が後で来られるなら絶対代理で話すことは出来ないともっともなことを言われるので、二者択一の中で、大会は時間通り始めて、もし総領事が挨拶時に未着ならそこは跳ばすと決めた。開始1分前。総領事は来られないことになって、必然的に森領事が代わりの講演をすることが決まった。

9時の時間通りに、第11回瀋陽日本語弁論大会を司会の言葉で開会した。最初は主催者を代表して高木会長の挨拶である。「急に挨拶をすることになって、学生の即席スピーチ並みの5分間で話を用意することになりました。」と言って皆を笑わせての挨拶だった。引き続き来賓として森領事も、「総領事がやむなく急に来られないことになって、急遽私が挨拶をすることになり、私も5分の猶予しかもらえない即席スピーチです」と言って皆を笑わせた。

この後瀋陽市人民政府外事弁公室の郭副主任の挨拶があり、それは同じく外事弁公室の閻副主任によって見事な日本語に翻訳された。これを思うと、「即席スピーチ」では難しいけれど、この次は日本語の挨拶は中国語にも訳して話した方がよいのではないだろうか。

挨拶と来賓紹介が済んだ後、一部の来賓が退場し、会場の一番前の机が審査員席に模様替えになった。これに3分くらいの時間がかかり、おそらくこれは予定していないハプニングだったろう。

想定外のハプニングというと、午後の大学生二部の時だった。発表が15人いるので審査結果の集計を8名の後で行うために審査用紙の回収が行われる。そのためのちょっとの中断の後、また次の学生が壇上で話を始めた。小学校の時彼女の同級生が盗みの疑いを受けてとうとう自殺したという話だった。話は佳境だった。突然この部の司会が叫んだ。「突然のことで申し訳ありませんが、審査員が席に戻っていません。ここで止めて、また再度初めから始めて下さい。」なんと、ほんの一寸の間を利用して審査員二人が席を外していたのだった。

このほか、二部の審査員の所属大学を間違えていた、最後に入賞者の名前を読み違えた、アトラクションの時に下げた演台を講評のときに戻すのを忘れたなど、いくつかの小さな不備があったけれど、総合的にみれば満足のいく大会だった。

2007年4月22日 (日)  第11回瀋陽日本語弁論大会 その一 山形達也

高校の国語の教科書で読んだ「読書は経験を予想する」という言葉は高名な人の言葉のようだが、それが誰だったのかいまは覚えていない。たとえば小説を読んで、出てくるシーンに書かれていることは、読者にその経験があってこそよく理解できる、というものだろう。

これは読書に限らない。物事にぶつかったときにどのようにそれを受け止めるかは、その人の経験に懸かっている。今日の第11回瀋陽日本語弁論大会に出て学生の日本語のスピーチを聴いた人は、これを初めて聴いたか二度目なのか、聴いた人が中国の学生なのか日本人なのか、日本人でも、日本語の教師なのか、大会の主催者の日本人会の側の人なのか、そうでないかなどの様々の立場に分けられるが、それぞれに受けた印象が違うだろう。

だから人によって評価は違うだろうが、あえて一言で総括すると、日本語のスピーチをする学生の日本語のレベル、話し方、内容は実に見事なものであり、大会運営も大成功だった。

第11回瀋陽日本語弁論大会は五つ星ホテルの一つである州際飯店で開かれた。日本語を専攻する大学生(大学一部15名)、それ以外の大学生(大学二部15名)、高校生の部(8名)の3部に分かれて日本語スピーチを競った。

審査はそれぞれ6名の審査員により行われ、大会の最後に入選、入賞の発表があって表彰が午後5時半から行われたが、それに先だって審査員を務めた日本人会会長・伊藤忠商事(株)瀋陽事務所長の高木純夫さんから講評があった。

この講評の中で印象に残ったのは、今日の弁論大会でスピーチをした学生に、「それぞれ話し方も内容も素晴らしかった。君たちの努力と成果には感銘を受けたし、それを指導した先生方の努力にも大いに感服した。さらに言うならば、この先三つのことを念頭に置いて日本語と自分にもっと磨きをかけて、中国のため、日中友好のため、そして自分自身のために研鑽に励んでほしい」という言葉だった。

その第一は、日本語には日本語の語調という特徴があるので、それを覚えてほしい。英語の強弱のアクセントおよびイントネーションの感じを取り入れたり、中国語の四声や抑揚を日本語の話し方に持ち込むと、それは日本語としては正当な話し方ではなくなる。アメリカ大統領ブッシュの英語を話してみせて「この語調で日本語を話すとやはり違うでしょう?」と言う実演もして見せた。「日本語の語調は英語とも中国語とも違うことを知って、少しでも日本語の語調をマスターするように努力すると、それは料理の最後の一振りの味の素みたいなもので日本語が格段によくなるのですよ。」

第二には、「言うまでもなく言葉は最終的な目的ではなく手段なのだから、日本語が話せるようになったら、話すことがあるよう自分の教養を高めることが必要ですし、それを使って将来どうしようかという目標を高く持って欲しい。」自由に使えるようになった日本語を仲立ちにして日本人との付き合いに、そして国と国の理解に「どのように貢献できるか、どのようにしたら役立つかをよく考えて自らを高めて欲しいのです。」

第三に、日本語には多くの外来語、特に英語がグローバリゼイション、言語思考の共通化というボーダレスな波に乗って取り込まれている。これらの外来語は日本語的な発音のカタカナとなって使われているので、カタカナで外来語に出合っても英語を知らないと意味がまるきり分からない。「だから日本語だけではなく、英語もどうか一生懸命勉強して覚えて下さい。これも日本語の上達には必要なことです。」

高木さんは演説ではなしに目の前の学生たちに平易な言葉で語りかけ、日本語を学習している学生にさらにモチベーションを与えることに成功したと思う。彼らが習得した日本語をさらに向上させ、日本人と接して日本人と個人的にも友人となり、日本を理解し、そして両国の真の友好の礎となることを期待してやまない。

2007年4月8日 (日)  本日の資料室 編集係A

今日はぽかぽか陽気。だんだん春らしくなってきましたね。

今日は弁論大会の即席スピーチのための、ボランティア指導の日でしたが、学生さんは一人も来ませんでした。 ビデオを返しに来た一般会員の方が1人こられただけでした。

ボランティア指導という今日の目的は果たせませんでしたが、スタンプ押しと、本をあいうえお順に並べることは、はかどりました。やっぱり、きれいに並ぶと気持ちがいいですね。

2007年4月1日 (日)  作文審査 編集係A

今日は弁論大会大学Ⅱ部の作文審査がありました。28の応募作文がありました。9時から12時頃までかかりました。

そのあとは、実行委員の皆さんがボーダー審査をされました。どの作文が選ばれたのでしょうか。

22日の最終審査に向けて、着実にすすんでいる感じがしますねえ。

みなさま今日はお疲れ様でした。

2007年3月25日 (日)  資料室当番 編集係A

今日は資料室当番。10時からの当番に間に合わせるために、8時30分には学校を出なければならない。タクシーで行けば30分くらいの距離だが、バスだとすっごく遠回りをする。目の前でバスを逃してしまった。ちっ、ついてない。走ったけど、止まってくれないし。最近のバスは冷たくなった。

10時について、さあ掃除!と思ったが、なんだかとってもきれい。人が来て汚れるかもしれないから、掃除は帰る前にすることに。まずスタンプ押しと書籍の整理をした。1月の当番のときにもスタンプ押しをやったけど、まだ残っていたのね。さすが1万冊ははんぱじゃない。

茶を飲みながらおしゃべりしてたらもう1時。そろそろ掃除でも始めるか。きれいに見えてもやっぱり汚れているもんですね。

さて、今日の来館者は?ゼ、ゼロ・・・寂びしすぎるよ資料室。

帰りはバスがなかなかこなくて、学校まで2時間かかった。往復4時間は時間の無駄。でも往復タクシーに乗るのももったいないし。時間をとるか、お金をとるか。3秒くらい悩んで、やっぱりお金が大事。当番の回数は減ったけど、1日潰れてしまうのはなんだかなあ。あっ、でもこれは、うちの学校がヘンピな所にあるからか。

2007年3月17日 (土)  HP講習会 編集係A

時代はちょいワルオヤジからちょいダメおっさんにシフト中って御存知でしたか?ちなみにちょいダメおっさんとは、リリーフランキーや森本レオみたいな脱力系オヤジのことだそうです。

ではこの方はどんなカテゴリーにあてはまるのでしょうか。

てゆうか、おっさんだなんて思ってませんけどね。

お年を推測(聞いてません)して、びっくりしました。

その方とは、本日のHP講習会の講師、山形先生です。レベルも要求もさまざまな参加者5名を、みごとにさばいておられました。

HP作成ソフトとパソコンの相性が悪く早々にお帰りになられたT先生。

山形先生の鮮やかな指導の下、約2時間ほどで、HPの作り方を覚えたW先生。

今度こそはと、気合を入れたA先生。

初心者4人とはあきらかにレベルが違ったK先生。

そして、手取り足取り(しかも2回目)教えていただいたにもかかわらず、いまだに何もできない編集係A。

教師会のHPに議事録を載せられないのは、私のせいです。皆様ご迷惑をおかけしております。

山形先生、手伝ってくれた学生さん、今日は本当にありがとうございました。

2007年3月16日 (金)  初・係の日記 編集係A

HP係になって約半年、今まで仕事らしい仕事してなかった気がします。その代わりというわけではありませんが、これからはここにちょくちょく登場します。(するはずです)みなさまよろしくお願いします。

疲れてるとか、徹夜したとかで、テンションあがっているときでないと書けません。なので、みょーな文章で読みづらい部分があるとは思いますが、見逃してください。まじめな日記は山形先生にお願いして、私は私のキャラで書かせていただきます。真似しようと思っても、無理ですから。

明日は、HP作成の講習会です。講習会の様子はまた明日ここで報告します。

2007年3月10日 (金)  3月の定例会 山形達也

今年の春節が2月18日という遅い日だったので、2007年の新学期は薬科大学では3月5日に始まった。東北育才学校では1週間早かったらしいが、おおかたは今週が始業だったようだ。しかし3月4日に1951年以来という吹雪を伴う大雪が瀋陽に降って、月曜日は市内の学校は公式に閉鎖されてしまった。空港も48時間閉鎖されて、日曜日に日本から戻るつもりの先生方は飛行機の欠航のために、早くて火曜日になってやっと瀋陽に到着した。同じように、月曜始業のつもりでぎりぎりに故郷から帰ってきた学生は汽車が途中で止まってしまい、早くて火曜日、遅くて木曜日に瀋陽に戻ってきた学生もあるという話しなので、今年の新学期は学校によっては、全員が揃うのに時間が掛かっただろう。

ともかく、新学期の教師の会の定例会は3月10日土曜日だった。この集智ビルの日本語資料室で定例会が開かれるのは今回が初めてである。秋は資料室がなくて、ずっと領事館の一室を借りて開かれていた教師会である。やっと、12月に新しいところが見つかって12月9日に引っ越したので新しい場所で開催が出来た。昨年9月まで借りていた開元ビルの150平方米はもちろん、昨年4月までいた小北関街の一室よりも狭い所である。

いつもは2時から始まるのだが、今回に限って1時開催だった。というのは、日本人会の幹事会の三役の方たちが、この日の4時に教師の会の役員と会談を持ちたいと申し入れてこられたので、教師の会の開催時間を繰り上げるより他なかったのだった。

1時からの繰り上げ開催ですよという知らせは木曜日の夜になって会長から届いたけれど、10日の1時には総出席者26人のうち何と24人が揃っていたのだった。瀋陽在住の教師の人たちにとって教師の会が大切な存在になっていることを意味していよう。

出席

森信幸、安部玲子、池本千恵、石原南盛、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、加藤正宏、加藤文子、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、鳴海佳恵、野崎勉、藤平徳雄、松下宏、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、渡辺京子、渡辺文江

欠席

石井みどり、河面弥吉郎、南本みどり、若松章子

瀋陽に不在

坂本豊、林与志男、林八重子、山形貞子

4月22日に予定されている弁論大会の準備が一番大事な通達事項だったが、教師の会としては、日本人会との関係が最大の関心を持って討議された。

これは、日本語資料室が12月から集智ビルに部屋を借りたことに伴って、部屋の管理費約3100元と、光熱費900元をあわせて4000元という出費が増えたことによる。昨年4月までいた小北関街の一室は日本企業の借りていたビルの一部で、関西NPOのご好意により、部屋代、管理費、光熱費は全てその関西NPOが負担してくれた。5月から移った開元ビルは、オ-ナ-の好意で提供されたもので、部屋代は無料だった。教師の会は、部屋を維持するのに当たっていま初めて年間4千元の出費を工面するという問題に直面したのである。

私(山形達也)は教師の会と日本人会との橋渡しをしているが、正確に言うと日本人会幹事会のオブザ-バとして幹事会に参加している連絡係という立場である。これは2005年秋にその時の代表だった多田先生が都合で出られないというので代わりに出席するように頼まれ、その後多田先生が南に移転されて2007年3月に南本先生が新たに代表になったときに、教師の会の正式な決定で幹事会に派遣される連絡係となっている。私はそれ以来幹事会で教師の会の立場をのべ、要望やお願いを述べてきたが、12月の日本人会幹事会の席上では、教師の会にとって予想外のこの出費の出所を日本人会に求める発言をしたのだった。

12月の教師の会では、教師の会として日本人会にお願いするという形で意見が纏まっていたけれど、会員一人一人が、この事態をどのように考えているかの充分な話し合いはなかった。それで、午後4時からの日本人会との会談に先立って、会員が今後の4千元という出費にどのように対処したら良いと考えているかを話し合った。

日本人会に出費を負担して貰えばきっと見返りに何か要求されるだろうが、今以上に何が出来るだろうか。それくらいなら、自分たちで会費を値上げしてもやっていこう。と言う意見もあれば、この資料室を拠点に書籍を貸し出して、日本語の普及を図っていることこそ、日中友好の地域貢献の社会活動そのものだから、この意義を日本人会に理解して貰って堂々と支援を受けたらいいじゃないかと言う意見もある。日本人会に支援を受けられるなら言うことはないが、受けられないなら、会費が上がっても自分はいいですよと言う意見もある。

ともかく会員の意見を聞いたことで会員諸氏の後押しを得て、私たちは日本人会の幹部諸氏との会談に臨むことになった。

2007年3月07日 (水)  日本人会との連絡 山形達也

2月9日に日本人会幹事会が開かれたが私は出席できなかったので、池本先生に代わりに出ていただくよう、池本先生と幹事会の双方から了解を取った。

2月11日には池本先生から幹事会の話しについて、教師会の役員にメイルで報告があった。

幹事会の前に世古会長は「幹事会は人数も多いし、もし、反対意見が出て混乱したら、教師会の代表で来ている方が、教師会と日本人会の板ばさみになるかもしれないから、教師の会の申し入れを今回は議題にはしない」と池本先生に言われたとのことである。大人としての暖かな思いやりが感じられる。

4月に始まる新年度の日本人会事業計画では、新規活動案の1つに「社会貢献事業・生活インフラ向上事業への支援(日本語資料室等)」という1文が入っていて、もちろん、まだ日本語資料室への支援が決まったわけでないけれど、次年度には資料室についても考える可能性が盛り込まれている。

さらに「3月に入って、日本人会幹事会の一部のメンバーと教師会の代表が集まって、話し合いの場を設ける」ということを世古会長は提案されて、それが承認されたと言うことである。

2月28日付けで世古会長から、3月10日の午後6時から日本人会幹事会三役会議をする予定なので、その前の4時に、教師会の代表メンバ-と日本語資料室で会って話しをしたいという申し入れがあった。

2007年1月13日 (土)  日本語資料室の一日 山形達也

1月13日の土曜日は日本語資料室の当番だった。先の12月から当番は二人、交代なしで午前10時から午後2時までになった。それまでみたいに一日二交代で複数制だと、当番が頻繁に回ってくるので当番を負担に思う人たちがいると言うことが考慮されたらしい。この新しいやり方だと、もし誰もが均等に当番をやるなら、2ヶ月に1回という計算になる。

借りている本の他に、南本先生が朝日新聞瀋陽支局から貰ってきた新聞を私の所に「先生新聞読みたいでしょ」と置いていった古新聞がリュック一杯ある。このほかに、新しい資料室に寄贈したい手持ちの本も20冊以上あったので、本を返しに行きたいといううちの学生の楊方偉くんにリュック一つを持って貰って一緒に行った。バスなら1元、タクシ-で12元。前の開元ビルよりは遠くなった。タクシ-に乗って、新華広場、西南角、集智ビルというと、直ぐに話が通じたが、楊くんが直ぐに分かって彼が中継したのだった。

今度の資料室は86平方米の広さだ。前の開元ビルは二部屋あわせて150平方米あったから、ここを見たときは「あれ、狭い」と思ったものだ。でも、もう見慣れて我が家みたいなくつろぎを感じる。入口から入ると部屋は細長く続いているが、奥の方は本棚で仕切って教師用の部屋にしてある。したがって手前がぐるりと本棚に囲まれた閲覧室で、そして会議室も兼ねている。

10時には今日の相棒の池本先生も現れて、先ず部屋の掃除。電気掃除機を掛けて、その後モップで水拭き。いま外は雪で汚れているから、部屋の中まで靴の跡が残っている。一緒に来た楊くんが途中から床ふきに加わってくれて、私たちは大分楽をした。やがて若松先生がひょっこりと現れたが、このあと新年会をやることになっていて、その場所が分からないからあとで一緒に行くためにここに現れたという。でも、その前に大福源というス-パ-にお土産を買いに行くわと言って出ていった。

電話が掛かってきて学生がこれから来たいという。最初の男子学生は、両親と一緒で、理科系の高校2年生。日本留学を目指していて、質問があるという。この質問には中国語も堪能な池本先生があたってくれた。どういう勉強をしたらよいか、日本にはどういう専門学科があるか、どんな大学がいいか、果ては日本で大学を出てから就職できるだろうか。中国籍だから不利と言うことはないか、そしてどういう会社に就職できるだろうか。などと、日本語勉強のためにはどのようにしたらよいかと答えていた池本先生の手に余ることを、やがて聞き始めた。親も真剣なまなざしで池本先生を見つめている。

私の所から行った学生が修士課程を出てカネボウに就職したが、日本の企業が国籍で区別をしているとは思われなかった。参考までにと思ってそのことを言っても、カネボウなんて知りません、という。ばかばかしくて私は相手にするのを止めた。池本先生は真面目に相手をしている。

このほかにも女子高校生が二人来た。文化系学生で、本を借りて帰りたいというので利用証を作成した。利用証のためには写真を持ってくることになっていて、このことを当然知っているはずなのに、一人の学生が持っている写真はキティちゃんが印刷されている小さなタックシ-ルである。学生証も持っていないが、中野先生と若松先生に習っているという。若松先生はもうすぐ戻ってくるだろうから、いいか、と言うので利用証を作った。

もう一人の女子学生も同じように利用証を必要としたので作ったが、彼女の写真はあまりにも幼いので、池本先生が訊くと小学校6年生の時の写真だという。自分で気に入っていて6年前の写真を使っているのだ。何とも驚きだが、国が違えば考え方も違うのかなあ。私もこの先は老顔になる一方だから、ここでは古い写真を活用してみよう。

学生は昼までに帰り、私たちは2時までが持ち時間でも実際はあとの都合もあって3時半まで、図書の整理などをしながら資料室にいた。

タクシ-で九香堂餐庁という名前のレストランに移動した。池本先生の友人の経営するレストランで、店長には日本留学経験があって、専門はインテリアデザインだが、アルバイトで覚えたという彼の打つソバが絶妙に美味しい。と言うわけで、ここを時々利用させて貰っている。今日は年が明けても瀋陽に残って仕事をしている先生たちの新年会の日。

7人集まった顔触れは中堅層が厚く、教師会の若手と高年者組の二極分布と違って、珍しい顔触れが一堂に会したという感じだった。そして、日本語の教え方、学生の反応とか試験、採点とかの苦労が話題になった。こういうくつろいだ話しが出来るために教師の会があるのだろう。哈爾浜の氷祭りに夜行往復した経験や、瀋陽郊外のスキ-行きの話しもでた。みんな積極的に瀋陽生活を楽しんでいるようで、嬉しいことである。

2007年1月2日 (火)  日本語資料室の役割 山形達也

12月22日に日本人会幹事会が開かれたときに、私は日本人教師の会の代表として、教師の会と資料室の置かれている現状を述べ、日本人会からの資金援助を訴えた。

これは、今度借りることになった資料室はビルの持ち主の好意により部屋代は無料になったけれど、管理費と電気代4千元を毎年負担しなくてはならなくなったためである。教師の会の財源は会員の会費だけから成り立っている。年間50元の会費は今年度から100元になったが、その値上げにも大変な議論のやりとりが必要だったことから見て、今の会費を2倍以上にすることには問題がありそうに思う。

新しく加入する人の立場になってみてみよう。日本から瀋陽に日本語の教師に来たときに、瀋陽に教師を助ける会があると聞いて入る人たちが殆どである。会に入ってみると、弁論大会、文化祭、ホ-ムペ-ジ、資料室などいろいろな役割があって、それぞれどれか一つは分担しなくてはならないと言われる。

資料室というとても役立つ図書館があると知って、それは大変結構と思っても、入ったばかりなのにその運営に責任を持たされるので先ず驚く。それだけではなくその金銭的負担まで強いられる、となるとこの瀋陽日本人教師の会に入ることに二の足を踏む新会員が増えるのではないか。会員が必要経費を負担したときに、会員数が減れば一人当たりの金銭の負担は増える道理である。悪循環になる可能性がある。出来ればこれを避けて、教師の会の会員は運営だけに骨折って欲しい。

そういう思いで、日本人会幹事会に出て、資料室運営に対する援助をお願いした。それに対して、幹事から様々な意見が出た。その時はそれ以上教師の会の立場を説明する時間がなく、会長から教師の会から改めて日本語資料室の存在の目的と意義、そしてその必要性を、今後の運用と活動計画(予算、事業内容)と共に訴えなさい、ということになった。

幹事会で出された意見を要約すると以下のようである。一つは、日本人会の中に資料室の存在意義を位置づけられるだろうかというものである。

○資料室の存在が日中友好に本当に役立っているという証拠があるのか。

○ 教師の会が資料室を持つことで日中友好をする価値と意義があるのか。

○日本人会との関係が分からない、資料室を支援して日本人会にとってどのように役立つのか。

もう一つは、教師の会が本当に資料室を必要としているのだろうか。なくたって良いじゃないか、ともう一度考えてご覧。なくてやっていけるならこの問題は根本的に解決するよと言うものである。

○資料室を開くための当番などが先生たちの負担となっているとも聞いている、この際、資料室の持ち物を捨てて身軽になれば問題は全て解決するのではないか。

○ 財産を持たなければ、教師の会が集まるだけで済むわけで、資料室を持つ必要があるのか。

このあとの発言は教師の側の意見もよく知っていると思われる、日本語弁論大会にも関わった幹事から出たものである。聞いた途端にはびっくりしたけれど、発想の転換、提案を逆転の発想で吟味するというのはこの頃は何処の企業でも当たり前のことであることに気付いてみると、なるほどと思う。同時に、まだまだ説明の足りないことに気付かされる。

大体、瀋陽に日本人の日本語教師が来た頃には、自分が持ってきている資料以外に何も頼るものがなかったわけである。日本語を教えるための教え方の教材、辞書、辞典、字典も沢山あるが一人の先生が用意するには限りがあり、誰もが足りなくて口惜しい思いをしただろう。日本語を勉強する学生には、教科書以外の読み物が必要だろう。真面目な副読本も大事だろうが、それが漫画だっていいし、ニュ-スの載っている新聞でも週刊誌だっていいわけだ。つまり日本語の読み物ならなんでも役立つはずである。

このような日本語教師たちの思いが結集して、日本語の図書を揃えようという大阪の特定非営利活動法人 日中ポランティア活助センターの設立となり、そこが中心となって2000年6月に日本語図書5千冊を揃えた日本語資料室が瀋陽市に発足したのだった。

私は日本語教師ではないが、教師の会に最初に行ったときにこの資料室がどんな苦労と善意で作られたかをその時の会の代表の石井先生から聞いた。『資料室が何とかぼそい線で支えられているのか』と驚いて教師の会を私の出来ることで助けようと思ったのだった。だから、教師の会や資料室の意義は私にとっては自明のことだったけれど、日本人幹事会にとっては、どうということのない話である。身を入れて聞く気になって貰うためにすら、こちらは努力を払わなくてならないわけだ。

日本人会幹事会に働きかけて支援をして貰うためには、日本語資料室の存在の意義を最初からゆっくりと説明し理解して貰う必要がある。ここのところを急いではいけないのだ。

2006年12月24日 (日)  資料室の本のこと 山形 達也

瀋陽日本人会の幹事会にオブザ-バとして領事館と、瀋陽日本人教師の会が参加していて、私は昨年秋から教師の会の代表として出ている。12月22日に開かれた幹事会では、教師の会の資料室の経過報告をしてさらに、教師の会が日本語資料室の運営費の捻出に苦労している内情を話したところ、幹事から色々と意見が出た。

ある幹事からは、日本語資料室にはこれといった本がないではないか。それで十分に利用されていると言えるのか。こんな資料室を苦労して持つ必要があるのか、という意見があった。

いまは教師の人たちが図書の回収に悩んでいることに話を絞ってみたい。

2000年の資料室の開館以来、日本語のめぼしい本が殆ど失われてしまったと、私たちは昨年まで7年間この教師の会を守り育てきた石井先生から聞いている。

教師の会の集まりでは、日本語の図書を学生や一般の人たちに利用して貰いたいけれど、一方で図書がなくなる現状をどうしたら防げるかと何時も議論している。日本の図書館では図書への書き込み・いたずらが問題になっていると思うけれど、ここの資料室みたいに、貸した本が殆ど返ってこないという悩みはないだろう。

これは中国の国民性にあるといって良い。お金がそうだ。借りた金は返すというのが日本人の間では当然の感覚だが、ここでは違う。豊かな人が貧しい人を助けるのは、それが当然という感覚が長年の庶民感覚だから、貸すと言うことはあげると同じだ。ちなみに中国では、貸すと借りるの言葉の区別はない。どちらも借である。お金でそうだから、借りた本は貰ったことと同じと思う人が多いことになる。

もう一つは、共産制のためかどうかは分からないが、私有財産という観念が乏しい。人のものでも必要なときに誰でも使う。研究室でも最初の頃は、私たちの机からハサミ、ペン、定規、本、何でも置いてあれば持って行ってしまって、返ってこない。私たちは、使っても良いけれど断って持って行きなさい、そして必ずもとの所に戻しなさいと、しつこく繰り返し言い続けた。

今ではものがなくなることはない。彼らも何か良いものを自分のものにするという悪意ではないのだ。必要だから、黙って使うだけなのである。

本も同じで「貸してください」と言われて貸すと、返ってこない、返却を催促するともう誰か他の人に貸しました、今は誰が持っているか分かりません、と言うことになる。したがって研究室の本は室外持ち出し厳禁、実験室に持っていくときも備え付けのノ-トに記入しなくてはいけないことになっている。

資料室の本がなくなるには別の理由もある。学生は移動するわけだし、先生方の瀋陽滞在が平均2年だから、先生がここを去るときまでに返却されていないと、学生の移動は辿りようがなく本も行方知れずになる。

この問題は貸した本の原簿を見てうるさく督促をするにしても、根本的に本がなくならないようにするための対策が、会員の間で真剣に話し合われた。

本を借りるための身分証の発行の時に、50元の発行料と50元の預かり金を申し受け、預かり金は身分証と引きかえで返還する、という案が資料室係から提案された。実際、瀋陽の公共図書館で本を借りるときには、50元あるいは100元のdepositをとり、本を返さない限り金の返却には応じないという。

ところが教師の会で議論されると、金を預かる方はよいが、いきなり返還を求められたときに当番の先生が立て替えなくてはならないという問題がある。日本人が金を取っているのだと言う噂だけが広がると、あとでどんなことになるか分からない。資料室の当番が金を受け取ると、そこに現金があるわけだから、悪い心を誘発するかも知れない。

このように問題点ばかり指摘されて、大体が本はなくなるものですよ、仕方ないじゃないですか、いままでどおりいきましょう、但し(教師会会員・日本人会会員および)日本語教師の教えている学生以外の素性の分からない人には貸さないことにして会員の紹介者ならいいことにしましょう、と言うことになった。

しかし、会員の紹介者が本を借りて、その会員が帰国してしまい他の先生が本の返却を催促すると「一体アナタはどんな権限で本をかえせというのですか」と逆ねじを食らわせられたという話も聞いている。

この方式ではとても危ない。ますます本が減っていくだろう。良い対策がない以上は、本を増やすように考えなくてはいけない。日本人会の会員にお願いして、帰国時に本を寄付していただくのもその一つであろう。日本から本を送りたい善意の人たちは沢山いるけれど、送料の高いのが大きなネックになっている。せめて教師の人たちが休暇のあと瀋陽に戻ってくるとき、本を出来るだけ持ってくることも役立つだろう。

2006年12月17日 (日)  続いて送別会兼忘年会 山形達也

12月16日の定例会の終了後、領事館近くのレストラン登瀛泉大漁港2階の瀛泉庁で、教師会の忘年会と、1月に瀋陽を去る二人の先生の送別会兼用の会が開かれた。

野崎、藤平の二人の先生が所用で抜けて、森領事と苫谷日本人会事務局長も加えて総勢24名。三つのテ-ブルに別れて座った。

幹事は峰村、渡辺文江、石原先生の3人だった。会長挨拶、苫谷さんによる乾杯、食事のあと、先ず峰村先生のハ-モニカによる曲のイントロクイズがあった。三つのテ-ブルで競うものである。

いつでも夢を、雪山賛歌、オ-ルドブラックジョ-、もみじ、里の秋、荒城の月などよく知っている曲ばかり26曲。驚いたことに自称音痴の南本先生が一人で10曲近く当てて、そのBテ-ブルが12曲正解で優勝。私のいたAテ-ブルは声の大きい、つまり曲が分かったときに手を挙げると同時に大きな声でハイハイと絶叫していた森林先生と私がいたために8曲で2位、Cテ-ブルは幹事3人が抜けたけれど健闘して6曲を当てていた。

余興は優勝のAテ-ブルから始まり、「世界に一つだけの花」を全員で歌った。Bテ-ブルでは、山田先生と私が替え歌を用意していた。発想は、瀋陽に来て印鑑作りを始めた自分たちのことをからかったもので、どうせ歌うならもっと増やそうと2、3番を私が朝急いで追加したのだった。原曲は「北の宿から/都はるみ/阿久 悠作詞/小林亜星作曲」である。

レ-ション:『瀋陽へ来て、作詞家 阿久 悠さんの才能の素晴らしさを改めて実感しました。みなさんは、どんな「北の宿からを」お過ごしでしょうか。お聞きください。私たちの「北の宿から」。』

あなた変わりは ないですか

日ごと寒さが つのります

押しはもらえぬ 印鑑を

寒さこらえて 彫ってます

男心の 未練でしょう

あなた恋しい 北の宿

吹雪まじりに 汽車の音

すすり泣くよに 聞こえます

見てはもらえぬホ-ムペ-ジを

涙こらえて書いてます

男心の 未練でしょう

あなた恋しい 北の宿

あなた死んでも いいですか

胸がしんしん 泣いてます

一人淋しく資料室

貴女のおいでを待ってます

男心の 未練でしょう

あなた恋しい 北の宿

この「北の宿」と「瀋陽」がぴったり重なるのがいい。どうせ見ては貰えぬHPを一生懸命書いている、という空しさもいい。資料室を皆に役立てようと教師会がりきんでいるのに誰も来ないという淋しさもいい。瀋陽で知った印鑑づくりをせっせと励んでも、上げたところで使って貰えぬ悲しさもいい。雪がしんしんと降る瀋陽の静けさと、あきらめを突き抜けた心境とが奇妙にマッチする。

これ、瀋陽日本人教師の会のテ-マソングにならないか。文字通り自画自賛だけれど。

お別れの中村先生は、はじめは寒くておびえた瀋陽も2年いると大好きになって別れがたい、それには教師の会の存在が大きな中心だったというものだった。彼女はこの春の弁論大会実行委員会の中心人物として活躍した。

金丸先生は、初め本渓にいる頃は瀋陽に来て教師会に出るのが唯一の楽しみだったのに、瀋陽師範大に移ってからのこの1年は教師会も、あ、またかという気分になってしまって、お別れでも涙も出ませんという何とも賑やかな彼女らしいしまらない話だった。

この夏に瀋陽を去った先生の中に中道秀毅先生がある。それまでは、送別の先生がある度に中道秀毅先生は、恵津先生が「あなた、いい加減にしなさいよ」というのも聞かばこそ、率先して前に出ていって彼女に捧げる歌を歌っていた。彼女というのは、女性の先生にだけ歌っていたわけだ。

秀毅先生の跡を継ぐと決めている私は、このときも前に出て行って、二人の先生のためにそれぞれの名前を読み込んだ「思いでのソレンツアラ」を歌った。

歌のうまい妻がいると、私の歌を彼女は「死んでも止めてみせる」のだが、妻は今日本に行っているので、私はのびのびと自由に振る舞えるのである、他の先生の迷惑を顧みなければ。

私が最初に歌えば、それを聴いた誰もが安心して歌う気になることは今までの長い経験が証明している。

このように賑やかに5時から8時まで続いた宴会は、最後の森領事の「足を90度に開いて俵を持ち上げるように下から突き上げる」万歳三唱、鳴海さんの「お手を拝借、三本締め」で終わった。終わって分かったことだが費用は森領事が払ってくださって、全員が感謝。せめてそれなら、というので教師会の基金として全員がそれぞれ50元のカンパをした。こんな具合にいけば、資料室の維持費が私たちで捻出できるかも知れない。

2006年12月16日 (土)  森領事の講演 「寒冷地技術を利用した環境対策について」 山形達也

12月16日今年最後の定例会が、在瀋陽日本国総領事館の一隅で開かれた。

出席者:石井、池本、石原、宇野、加藤(正)、加藤(文)、金丸、佐藤、田中、辻岡、中村、中野、中田(知)、中田(時)、鳴海、野崎、林(輿)、藤平、松下、南本(卓)、峰村、森林、若松、渡辺(文)、山形(達)

特別参加:森領事、苫谷日本人会事務局長

欠席:山形(貞)、安部、片山、林(八)、渡辺(京)、南本(み)、河面、岡沢

1. 日本語資料室が集智ビルの811号室を借りて再開されたことが報告された。

2. 領事館森領事から連絡:2007年は日中友好35周年に当たるので文化・スポ-ツ交流年と名付けて行う企画を外務省が募集している。いいね。教師の会のHPを外注恰好よくする費用を出して貰えないだろうか。

3. 日本語弁論大会実行委員から:最終弁論大会を予定していた4月29日(日曜日)は出勤日の可能性があると指摘されたので、22日に変えるために場所をあらたに探しているとのこと。したがって12月半ばには各単位に弁論大会の日程を通知する予定だったが暫く延期。

4. 資料室係から:半年近く閉鎖していたので、1月13日まで週末開館。開館時間は10時-2時。

5. 今まで多くの本が戻ってこないので、貸し出す相手を制限したい。貸し出しは、教師の会の会員とその紹介者、日本人会員と家族に限る。

6. 山形達也から:教師会の愛唱曲集1と2に替えて、新しい歌を加えて決定版を作る計画している。今度の費用は各自負担して貰えるだろうか。OK。

7. 山形達也から:12月22日に開かれる日本人会幹事会に出席して、教師の会の現状を訴えて援助を求める計画で、当日配布予定の資料を配った。

午後4時からは、森信幸領事の講演で、題して「寒冷地技術を利用した環境対策について」。3階の大ホ-ルで行われた。

森領事は元来国土交通省北海道開発局の出身で、今まで寒冷地対策というと、温暖地方と同じように生活が出来るように、防寒、断熱、水道の保温、排水処理に力が注がれてきたが、それには多額の費用がかかり、結局生活は温暖地のスタイルを真似しているわけで、住むなら寒冷地以外の方がよいということになってしまう。逆に寒冷地であることを利点に出来ないかという逆転の発想で、寒冷地に冬季には豊富にある雪や氷を利用して快適な生活ができるではないかという提案だった。

実際に北海道の美唄市の例が示された。老人ホ-ムの一画に大きな断熱性の良い倉庫を造って、年間降雪8mもある雪を冬季に運び込み、これを夏の冷房に使っているというものだった。

言うまでもなく夏が暑ければ電気利用の冷房を何処のうちでも使うわけで、部屋は快適な温度になるけれど、室外は暑くなる。これが都会のヒ-トアイランド現象といわれているもので、暑ければク-ラ-をつけ、都会の気温は上昇し、暑くなれば更にク-ラ-をつける家庭が増え、外気温は上昇して悪循環になる。ク-ラ-のエネルギ-源である電気は、火力発電なら石油資源を使い、空中の炭酸ガスを上昇させる。

冬場に無尽蔵に出来る氷を夏まで置いておければそれがク-ラ-のただ同然のエネルギ-として使えるというのが、この説である。夏の北海道から東京への貨物輸送は4分の1が空荷なので、それを利用して実際に、北海道の氷を東京に運び東京の夏場の冷房に使う実験が始まっているそうである。

瀋陽は札幌に比べて夏は暑く、冬は平均10度以上低い。冬場には十分の氷ができる。瀋陽の冬は地域暖房で、石炭を焚いてボイラ-の湯を循環させてその地域の建物を暖房している。そこに大きな地下貯氷槽を作って、冬に氷を入れておけば、暖房のため配管がそのまま利用できる。夏場の冷房がまかなえるはずだという。北海道の美唄市の夏の暑さを知らないが、瀋陽が例に出ればよく分かる。夏は東京ほどではないにしても、結構暑くて冷房が必要なのだ。

森領事の話で具体性を欠くのは、瀋陽のように断熱性の高い建物で、その容積の何分の1の体積の(地下倉庫を造って)冬場に氷を溜めればよいのか、その計算と、エネルギ-採算性、コスト計算のバランスが出ていないことだった。しかし、これはこれからの話で、瀋陽市の東北大学がこの話に乗り気で具体的な実験を始めるのだという。

この壮大な話は、夏場の電気代の節約というだけでなく、エネルギ-消費を抑え、炭酸ガス放出を抑え、いいことづくめである。しかも瀋陽だと冬場の氷の切り出しと貯蔵という人出を必要とするので景気対策にもなる。

大変結構な話である。中国のようにトップが一度決断するとことが速やかに進む国で、この話を理解して壮大な実験プロジェクトができるといい。実際に地下貯蔵庫を持つ建物を造って、ほらこの通りという具体例を示せれば話は早いだろう。森領事、がんばれ!!!

2006年12月11日 (月)  瀋陽日本人会のクリスマスパ-ティ 山形達也

12月10日は瀋陽日本人会のクリスマス会だった。毎年12月はじめに開かれるクリスマス会は日本人会の年間の行事予定の中では会員に一番の関係の深いメインイベントである。毎年、五つ星ホテルのマリオットホテル(万豪酒店)の豪華な大広間を借りて開かれている。クリスマス会については私が前に「日本語クラブ」19号に書いた文章がある。

『教師会の定例会のあるとき、実行委員会のメンバーから年末のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はあちこちのテーブルにバラバラに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。きっと楽しいですよ。」とおっしゃる。』

『たしかに初めての時、私達が割り当てられた席はwife と二人のほかはすべて初対面という厳しさだった。私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。何とかしなくちゃと思いつつも、ばつの悪い時間だけが流れる。おまけに、皆が同じように白紙ならともかく、ほかの人たちは互いに話をしているのに、こちらはその話に入っていけない。やむまく隣の会社の人と話そうとしたけれど、会話はぼそぼそとして全く弾まなかった。』

しかし、瀋陽在住の日本人が互いに皆を知っているわけではない。10人のテ-ブルで初対面同士が顔を合わせた時に話の糸口を探るのはお互い様だろう。仲間だけで集まりたいというのは、教師が世間から隔離された特殊な職業なのだということの反映かも知れない。

今年のクリスマス会は、瀋陽日本語補習校の生徒たちのクリスマスの歌で幕開けだった。低学年の子どもたちは一生懸命歌うのだ。とても可愛い。つい引き込まれてしまう。指揮をしているのはサンタの恰好をした東北大学の岡沢さんで、彼は補習校の校長も兼ねている。歌が終わると岡沢さんがマイクを持って子どもたち一人一人にインタビュ-をしている。「どうでした。難しかった?」なんて訊いている。岡沢さんは普段は照れ屋なのかぼそぼそとしか話せない人だが、へえ、やるときにはちゃんと出来るんだ。

昨年まではクリスマス会の演し物は外部から呼ぶ雑伎団が主なものだったが、今年の準備委員会は趣向を変えて会員手作りのクリスマス会という方向を打ち出したのだ。それで外部のプロは獅子舞だけだった。

二人ひと組の獅子舞が二組。横浜の中華街の春節で馴染みの、というかジャッキ-チェンの映画で馴染みのというか、雄壮な踊りの獅子舞で、これは良かった。昨年までの雑伎団は子どもの曲芸が多く、その器用さに感嘆するけれど、やはり小さな子どもにこれだけの演技を強いた残酷さは拭えず、見ていてやりきれない気持にさせられたものだった。

次は赤いサンタの服を着た人がステ-ジに立って、空気で膨らませたゴムの細長い袋を手際よく折っていって、子どもたちにプ-ドルを作ったり、キリンを作ったりし始めた。良く大道芸人が見せる芸である。どう見ても本職の芸人と思ったのだが、付け髭を取ると何と彼は三菱に勤める森さんだった。子どもたちは喜ぶし、皆もびっくり仰天でその至芸に引き込まれた。

その後の圧巻は、幹事会メンバ-が登場したのど自慢大会の趣向だった。水戸黄門姿で阿部総領事、助さんの恰好の日本人会長の世古さんが審査席に並び、鐘つき係におかしなアメリカ縞模様の服を着た田代さん。司会役が付け鼻と眼鏡とちょび髭の、トニ-谷こと苫谷さんというわけ。出てくるだけで満場が湧いた。予選を勝ち抜いてきたという口上で出てくる人たちが、どれもずっこけ演技で笑いに笑った。衣装に凝りに凝ったのが良かった。

食事はこの値段にしてはまずいという不満が今までは鬱積していた。準備委員会では150元の会費を200元に値上げした食事を試食したと聞いている。事前の情報では会費が200元に上がると言う話だったが実際には以前と同じに150元に抑えられていた。その食事は、値上げをしなかったにもかかわらず、昨年までの不平不満が嘘みたいに上等になっていた。文句は言ってみるものである。

クリスマス会の最後に委員会に人たち全員を集めてそれぞれを紹介するという場が今年は見事に設定されていた。皆が実行委員たちに拍手を心から送ることが出来て、とても良かった。

実行委員の方々、ありがとう。会員手作りのクリスマスという路線が早めにでていたら、三十数名を擁する教師の会でも何かできたと思う。来年を目指して頑張ろう。

2006年12月5日 (火)  集智ビルの日本語資料室 山形達也

12月4日午後、瀋陽日本人教師の会は集智ビルの李暁東さんと部屋の貸借契約を交わした。

12月5日朝、南本さんから以下のmailが教師の会の全員に届いた。

8月末から話のあった「和平区国際科技孵化器」への移転は、話し合いをはじめてから約3ヶ月経ちましたが、一向に埒が明かなく、話が進展どころかむしろ後戻りをしている状態でした。そこでこの話は凍結して、他にもあたってみようということになりました。

3月に移転の話が出たときに、瀋陽で資料室を探していると言う記事を朝日新聞が 取り上げてくれ、東京版に載ったことがあります。その際に中央大学教授の「李廷江」先生から、友人の瀋陽市のビル「集智大厦」(瀋陽市和平区南京南街150号)の オーナーである「李暁東」社長を紹介され、ビルの1室を家賃を無料で貸してやろうと言うことで、会ってお話を伺ったことがあります 。そのときには今回のようなことになろうとは夢にも思わず、いろいろと考えて現在の「開元大厦」へ決めて引越しをしたわけです。

その、「集智大厦」へもう一度移転の話を持っていったら、気持ちよく引き受けてくださることになりました。話し始めてからわずか10日足らずで契約をすることができ、今日(12月4日)無事に契約を交わしましたのでお知らせします。

詳しいことは今度の教師会でお話させていただきます。

新しい資料室の場所は「集智大厦」(瀋陽市和平区南京南街150号)で、東北開放記念碑からはそんなに遠くなく、バス停で言えば、新華広場と太原南街の間の高架になっているところです。

後は、安全局(公安関係を含む)との話し合いが残っていますが、それも領事館のお世話で近いうちに日時等が設定されるものと思っています。

つきましては引越しを12月9日(土) 9:00から行いたいと思います。「開元ビル」に9時前にお集まりいただいて「集智大厦」へ運ぶことになりますが、当日お手伝いいただける先生は12月7日(木)までに峰村先生へ連絡をお願いいたします。(学生にも手伝いを依頼する予定です。)

当日の予定は下記の通りにしたいと思います。

引越し日時

2006年12月9日(土)

* 9時に、業者および教師の会の先生で都合のつく方集合

* 業者名:「多摩運輸」 担当者:朴紅梅さん(日本語堪能)、携帯:138-4018-9430

* すぐに作業開始。地下の倉庫(鍵は南本が持参)から、業者のトラックへの積み込み。

教師側は、壊れ物に注意をするよう、監視?のみで、軽い物以外運搬はしない(原則)。

したがって、係りは、か弱い?女性でも可。

?A 「集智大厦」へは、10時頃一便が到着予定。できたら「開元大厦」出発時に「集智大厦」の賀さんへ一報入れる。

* 当日、「集智大厦」では、トラックは地下のエレベーターの近くまで行けるそうです。

* 第2便が必要な場合は、二人は「?元大厦」に残って、荷物の保管、運搬の指示等を担当し、最後に「集智大厦」へ来る。

「集智大厦」では、8階までエレベーターで荷物を運び、811号室

に入れる。その後、室内の整理をする。

年末のお忙しいときではありますが、お手伝いいただける方はどうぞよろしくお願いいたします。一段と寒さが厳しくなってきますが、どうぞご自愛ください。

南本卓郎

2006年12月4日 (月)  集智ビルとの契約 山形達也

 

2006年11月29日 (水)  日本語資料室の新たな移転先 山形達也

日本語資料室の移転問題で、当てにしていた和平区孵化器ビルの態度が頑なで私たちを受け入れるとは思えない状況になった。私たちは他を探さなくてはならない。和平区孵化器ビルの話を持って来てくださった伊藤忠高木さんが、又他のところを探す努力をしてくださるだろうけれど、今まで教師の会は何の能力もなく、全て高木さんと領事館のかたがたに交渉をお願いするしかなかった。

私たちにも出来ることは何だろう。私たちで日本語資料室の移転先を見付けられるだろうか。このような状況で思い出すのは、開元ビルのオーナーの好意的な提案があったときに、別のビルのオーナーからも貸して良いという話があったことである。

3月末の日本人会総会で日本語資料室の移転先がないと教師会が訴えたときに、朝日新聞が「草の根交流ピンチ 日本語資料室の行き先がない」と言う記事を載せてくれた。これに対して中央大学の李廷江先生が、自分は日本人に世話になっている、自分の友人にビルのオーナーがいるからそこに話をして無料で部屋を使って貰おうと申し出て下さった。

4月3日に私たちがその集智ビルのオーナーに会ったところ、自分の友人の李廷江先生が日本人の窮地を見かねて無料で部屋を貸してあげて欲しいと言っている、友人の言うことだから私も無料であなた方に部屋を貸す、どの部屋でも良いが、部屋の管理をしている別の会社へ管理費・光熱費は払って欲しい。この管理費が1年約2千元と言うことだった。

このあと伊藤忠の高木さんの友人である開元ビルのオーナーから部屋を無料で使って良いという申し出を頂き、管理費・照明費も不要で自分の電話代だけで良いという寛大な条件だったので私たちは開元ビルを選び、そして集智ビルのオーナーには事情を話して丁重にお断りをしたのだった。

あれから半年経っている。再度集智ビルのオーナーに部屋を頼めるだろうか。駄目かも知れないが、私たちは部屋探しが出来るところを他に知らないのだ。先ずここから始めよう、と言うことで、鳴海さんが集智ビルのオーナーに連絡したところ、「いいよ、何平方米の部屋が要るの、見に来ませんか。」と言う返事が直ぐにあった。11月24日金曜日のことである。

状況を高木さんにも領事館にも報告して、27日月曜日午後4時集智ビルに私たちは出掛けた。森領事、伊藤忠からは馮さん、教師会の南本、峰村、鳴海、そして私である。オーナーは不在だったが係の人が直ぐに次々と部屋を見せてくれた。140平方米は立派で広すぎる、86や110平方米では狭いね。120平方米のところが場所もいいし、これにしよう、などと仲間内で相談して、オーナーの部屋に行ってオーナー代理と話をした。

部屋は前に言ったように部屋代は無料で貸そう。しかし管理費は1平方米あたり毎月3元必要で、電気代も別途払う必要があることが分かった。120平方米だと毎年4320元だ。とんでもない。一番小さい部屋が86平方米なのでこれでも毎年3096元だ。たまたま教師の会は今までの蓄積で現在は3千元を持っているが、私たちにその先毎年3千元を払う財源がない。しかし、資料室の閉鎖が3ヶ月も続いているのだから、もう選択の余地はない。

毎年3千元の財源は別途考えることにして、先方が良ければここを貸していただくようにお願いしよう、と私たちは即座に決めてオーナーの李暁東さんに電話をした。この電話は伊藤忠の馮さんにお願いした。馮さんは阪大工学部卒で日本語堪能な好青年である。馮さんは出張の予定があったのに、高木さんの配慮で参加して貰えたのだった。

オーナーは良かろう、私たちの教師の会の存在を公安と安全局が別に問題にしないなら、契約しよう、契約書については今までのひな形をこちら(教師の会)が送ってくれれば、それを検討しよう、と言ってくれた。公安と安全局には領事館に出張っていただいて別途お願いすることになっている。

以上のことが馮さんから高木さんに報告されて、高木さんが早速契約書のひな形を作成して下さった。高木さんがこの契約書のひな形を集智ビルのオーナーの李暁東さんに送ったところ、11月29日にはこれでいいから何時でも契約しようという返事が来た。

あとは両者の時間の都合をすりあわせて一緒に出会って契約書を交わすだけである。

2006年11月26日 (日)  賑やかな薬科大学の教授室 山形達也

11月25日土曜日午後2時から薬科大学の私の教授室でホ-ムペ-ジ作成のための講習会が開かれた。どうしてこのような話になったかというと、私はHPの係をずっとやって来てコンテンツを色々と広げてきかが、いまでは一人で全部をまかないきれなくなってきている。それで、前期はほかのそれぞれの係にお願いして、それぞれ担当の原稿を作ってもらってそれを載せていた。しかし今期からは、それもそれぞれにお願いしたいという希望を述べておいた。

定例会記録がこのところHPに載っていないので、係の中野先生にお願いしたところ、原稿は出来ているからwebsiteへの載せ方を教えて貰えば自分でやります、と言うことだった。すご-い。それならば、何時か土曜日に大学に来てくださればお教えしましょう、と言うことになった。と言う行きがかりで、Windows音痴の私がホ-ムペ-ジ作成の手ほどきをすることになったのだ。

土曜日にも何かと用事があって延ばしのばししていたけれど、とうとう11月の定例会には中野先生のあの目で見つめられて、何時教えていただけるんですか、と言われて、とうとう「じゃ2週間後の土曜日の2時に」と約束をしてしまった。その時山田先生も横にいて、「私も行きますから」と言うことになった。さらにこの話を聞きつけて、他の先生もいらっしゃりそうなので、HPの掲示板にも公開しておいた。

土曜日は、中野、安部、池本、若松、山田先生が来られたが、このほかに日本語クラブの増刷りをしたいという加藤先生と文子夫人、その手伝いをしようという南本先生も来られて私の部屋はいちどに賑やかになった。

若松先生は土曜日午前中の中国語の学習で安部先生と一緒なので付いて来たけれど、元々野次馬らしく、私たちの建物の2階にある卓球台で峰村先生が遊んでいると聞くと、直ぐにそちらに飛んでいってしまった。山田先生の技術はUnixを使って直接HPに書き込むというやり方なので初心者には難しく、私がソフトを使うhtml文書作成をおしえた。

フォルダ-に一つ原稿を作ってindexと名付け、もう一つ写真を入れたfileを作って相互にリンクを張り、ここまで出来れば、サ-バにサイトを作って実際にサ-バにアップロ-ドするだけである。安部先生は実際にYahooにwebsiteを登録して、これで自分のHPが始められると張り切っている。

横では加藤先生が黙々とコピ-機相手に日本語クラブの増刷りを行い、文子さんがそれを助け、池本先生は「あら、ホントは私の仕事ね」と言いつつも、私の頼んだ別の仕事に掛かりきりである。この別の仕事とは、教師の会で愛唱曲集を今までに第1集と第2集と発行したが、近いうちに第3集を発行ししよう、今度は欲しい歌は全部網羅しようという計画で、1000曲を越える歌の歌詞を私が集めたのだ。歌を集めすぎてしまったし、私個人の好みなので皆で希望する曲を選部必要がある。30ペ-ジに及ぶ歌のタイトル、と歌詞から欲しい歌に丸を付ける作業が池本先生を待っていたのだった。

6時頃今日の作業の終わる目処が付いたので、学生の陳陽くんに近くのレストランに電話をして貰った。近所のイスラムの又一飯店は前夜薬科大学の面子で行ったばかりなので、湘香餐庁に部屋を取った。それなりのレストランに、しかもこの近間で10人の部屋を直前に取るとなると余り選択の余地がないのだ。辛いのと高いのがこの店の欠点だが、もちろん味は上等である(一人あたり47元だった)。

陳陽くんも加えて割合珍しい顔触れで話もはずみ、激辛料理を楽しんで店を出たときは小雨が降っていた。このあと寒くなりそうだ。

2006年11月23日 (木)  三ヶ月振り回されて 山形達也

開元ビルにオ-ナ-の好意で入れていただいていた日本語資料室の移転が必要になったときに、開元ビルのオ-ナ-の口利きで、和平区政府が自分のところの孵化器ビルに入って良いですと言ってくれたのこの8月だった。

それから何度私たちは交渉に出掛け、朗報を待ち望んだことだろう。相手は和平区政府なので私たちに出来ることは何もなく、実際上は伊藤忠瀋陽支店長の高木さん(及び馮さん)と、在瀋陽日本国総領事館の森領事、川端領事が全ての交渉をやってくださっていた。

総領事からは相手の局長宛に公文書も一度送られた(10月9日)。それでも局長は教師の会を受け入れることに首を縦に振らない。日本国阿部総領事からは瀋陽市副市長宛に「日本人教師の会はこれこれこのように御地の日本語教育のために力を尽くしている教師の親睦団体で、決して怪しいものではないことを日本政府が保証するから、和平区政府の孵化器ビルに彼らの資料室を置かせてやって欲しい」と言う公文書も送られた(11月9日)。

副市長はそれに和平区の局長に「よしなに計らえ」と添え書きを付けて送っている。このような状況を受けて私たちは11月16日に日本総領事館川端領事、高木さん、馮さん、日本総領事館通訳翁さん同道の元にふ化器ビルを訪ねたが、面談の約束があったにもかかわらず局長は不在だった。代わりの部長が私たちに応対して、「契約をしても良いが、契約書には、『3ヶ月以内に日本人教師の会は登録申請をする』と言う条項を入れる」と述べた。

日本人教師の会を何処に登録申請して、許可を貰うのか、と言うのが焦点になるが、誰も、つまり日本側も、さらには驚いたことにはそれを主張する中国側も何処に申請して何処で許可が貰えるのか、大体そんなことが可能なのかを知らないのだ。瀋陽日本人会だってその意味では「非合法団体」になるわけだ。

このときはそれが焦点で、しかも局長不在であり物別れだったが次の月曜日の11月20日は先方から会談を求めてきた。その時の状況はすでに20日の日記に書いているが、中国企業を保証人にしようというものだった。それでその提案を受けてその時は、めでたしめでたしで終わった。しかし実際に契約書を交わすために高木さんと馮さんが契約書の検討に入って先方と連絡を取ると、先方の躊躇がますます顕著になり、引き受けると言った中国側の総経理も弱腰になってきて、結局、ここで無理して教師の会を引き受けて貰っても、本質は日本語資料室を受け入れたくない気持が見え見えである以上、絶えず不安を抱えることになるから、断念するしかない、と言う結論が出された。

和平区が引き受け、直ぐにでも移って良いと言うことだったから、私たちは9月17日には荷造りをし、移転を待っていたのだった。つまりその日以来資料室は閉鎖されているのである。実際にビルの改装開始で開元ビルを最終的にでる日限は10月末日だった。

「瀋陽日本人教師の会は非合法団体」だから局長は自分の責任でビルに入れることを認めることが出来ないのだろう。東北三省は日本語教育に力を入れ、日本企業の進出を待ち望み、大歓迎しているにもかかわらず、日本語教育に自分の時間と身を捧げている日本語教師の集まりに、このような冷たい仕打ちしかできないのだ。

間に入って先頭に立って交渉をしてくださった高木さん(そして馮さん)、森領事・川添領事には、私たちはただただ感謝の言葉しかない。本当にありがとうございました。当事者でありながら私たちは当事者能力に欠けていて何も出来ずに全部頼り切りだった。

結果が、うまく行かず実に残念でしたし、又この先も行き先探しにお世話になりますが、どうかこの先もよろしくお願いいたします。再度、ありがとうございました。

2006年11月20日 (月)  デッドロックにとうとう打開策 山形達也

11月20日先方から指定されて、午後2時の会見時間に間に合うように孵化器ビルに出向いた。会議の出席するこちら側は総領事館から森領事と、通訳の翁鉄軍さん、伊藤忠瀋陽支店長の高木さん、通訳も兼ねる馮さん、教師の会の南本先生と私。先方は科技局の印局長、朱部長の他、初めて会う賈輝さん、正体の分からない若い人。賈輝さんはこのビルにいるソフト会社の社長だそうだ。

印局長は、和平区は受け入れを決めているし自分も日本人教師の会と日本語資料室をこのビルに歓迎する気持が大いにある。しかし、この教師の会が団体として認可されていることを求める気持は変わらない。

印局長が賈輝さんに訊いたところでは、中国の団体が何かを企画したり主催すれば、申請の手続きも簡単だし、許可も下りやすい。日本の団体では無理なことでも中国企業が主体なら可能である。したがって賈輝さんが表に立つという形ではどうだろう。そうならば全面的に援助する気である、と言う発言だった。

これを受けて賈輝さんは、印さんに言われてここにきたが、中国で活動する団体は合法的な団体でなくてはいけないが、教師会にはその資格がない。教師の会を中国で通る形の団体にするために、印さんからご指名を受けて全面協力する気でいる。

説明では賈輝さんは瀋陽の名門大学である東北大学を卒業して、日本にも10年留学したという。日本を知る身として、日本のためにも故国のためにもなりたいと思い、教師会の保証をしよう、後見人となろうということらしい。

私たちは初めて聞く話で、どのような形であるかと言うことに疑念が残ったが、高木さんが真っ先にお礼を述べ、森領事も印さん、賈輝さんのおかげで、このように日中の架け橋として活躍している教師の会が拠点を持って活動を続けられることは誠にありがたく、と言ってお礼を述べた。引き続き、南本会長も、感謝の言葉を述べている。

印局長は契約書に前に主張したように認可団体登録を3ヶ月以内に申請すべしという文言を盛り込むという。賈輝さんの会社は当然認可されているわけで、その下部組織にたとえば図書館という形で潜り込むなら、独立の団体として認可を受ける必要はあるまい。認可申請と言うことは、下部組織ではなく、認可を可能にする何らかの方法を使うのだろうか。この辺のところが私には良く飲み込めないまま、話は明後日の契約書交換、引っ越しは今週の金曜日という具合に進んでいった。

帰りは領事館の車で送ってもらったので、森領事に聞いてみた。この話は領事館の口利きなのですか?返事はそうですと言うことだった。なるほど。私たちが相手側企業を知らないだけで、お膳立てが出来ていたので、疑心暗鬼で異様に思ったけれど、先の開元ビルのオ-ナ-の、日本にいるとき日本に世話になったから今度は困っている日本人に恩返しする番ですというのと同じような人が現れたと言うことだろう。

私はこの話が壊れた場合には、侠気に富んだ日本企業(会社)を探して、そこの図書館でも、日本語資料室でも名前は何で良いけれど、そこの庇護の元に入ってやっていく道はないかと思っていた。それが何と、日本企業ではなく中国企業がそれを買って出てくれたわけである。

2006年11月19日 (日)  瀋陽探訪ツア-の参加者から 山形達也

南本 卓郎

昨日は楽しい探訪をさせていただきありがとうございました。これを企画された山形先生、よくもあんな人の家まで入って行って、瀋陽の歴史を物語る建造物などを見ることができたものだと案内された加藤先生に改めて御礼申し上げます。

その後私たちは、東関教会と周恩来元首相が通った小学校を見て帰りました。

今後もこのような機会がありましたら、ぜひ参加したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

若松 章子

瀋陽に来る前から日本人教師のホームページなど覗いていたので、旧跡を調べていらっしゃる先生がいらっしゃることは知っていましたが、めったにお近づきになれるチャンスもあるまいと思っていたのでこのようなツアーに入れていただけてうれしい限りです。特に元東北銀行の石碑(?)の「日本帝国主義投降後云々」などの文言が街のど真ん中にあるのなど、よかったといったらおかしいですが、ああいうものをみて実感したかったわけです。

古物市場で買った挿絵入り講談本、帰ってから学生に話したら、1970年代くらいの古くて数が少なくなっているものは一冊千元ほどもするそうです。また行っていろいろ見て詳しく知りたくなりました。このようなツアー私の中では貴重な「またとない機会」になっていますが、ぜひとも「またの機会」を願いたいところです。

山形 達也

全部で17名が10時に大西門に集まりました。最初に張学良の創った同澤女子中学校を見ました。古い建物で趣のある作りです。その後午前中は故玩城の近くにでている路上市を先ず加藤先生に案内されたあとは思い思いに散って、好きなところを探索しました。古本を探したり、DVDを買ったり、印鑑のための石を探したりと、様々でした。

昼は歴史の長い金の店を見てから、1796年創設の馬家焼麦に行きました。二つの大きな丸テ-ブルをくっつけて良い感じでした。焼売4種類2kg(作る粉の量で量ります。通常パスタは一人あたり100gです)おかず4種を取って、ビ-ルも10本、ヨ-グルト、一人あたり22元でした。

そ の後は、清朝の高官の私宅を外から見ていたところうちの人が中を見ても良いというので、思いがけず、中庭の広いしっかりとした200年くらい古い家を見せて貰えました。その次が圧巻の瀋陽城壁の残骸です。城壁の石垣が20メ-トルくらい続いているところが、古物商の仕事場の中に取り込まれて外から全くうかがえないのですが、今日は幸い入って良いというので、狭い通路を順に交代で通って石垣を見てきました。

この瀋陽の城壁を壊したときにでた石を自分のうちに取り込んでいる家を見たりして路地の中を歩き回りました。近代化している瀋陽にこんな暮らしが残っているのかと驚くような庶民の暮らしを垣間見ました。

そのあと、瀋陽城よりも古く1318年にできた中心廟、中国人が1928年に作った春天百貨店、中華民国時代の東北銀行、長安寺を見て3時半お開きになりました。

導師の加藤先生、本当にありがとうございました。

2006年11月16日 (木)  日本語資料室の移転交渉 山形達也

教師の会の日本語資料室の中身は荷物となって、今は開元ビルの地下の倉庫にしまわれている。開元ビルのオ-ナ-がビルをホテルに貸すことを決めたとき、彼は和平区政府と交渉して和平区の持つビルに日本語資料室が移転する話はほぼ決まっていた。挨拶に行けばそれでよいという話だった。

8月に在瀋陽日本総領事館森領事、伊藤忠瀋陽支店の高木所長および馮さんに率いられて挨拶に行ったとき、和平区の招商局長は大歓迎だと言ってくれた。その後和平区政府の所有する孵化器ビルを管理する部長も私たちに貸す部屋を見せてくれた。孵化器を管理するところは科技局で、この部長に会ったところ、契約できれば明日にでも越せるけれど、日本人教師の会と日本語資料室の説明文書が欲しい、ということだった。

私たちはそれを直ちに日本語で用意して、中国語訳には、今までの交渉で全てお世話になっている伊藤忠瀋陽支店の高木所長および馮さんが当たってくださった。9月の初めには先方の要求する書類を出したのに、その後いっこうに音沙汰がない。高木所長および馮さんが先方に訊いてみると、初めは二階で水漏れがあってその修理が大変だとか言っていたようだが、結局「認可されていない非合法団体を入居させることは出来ない」と主張しているようだった。

それで、高木所長と森領事は在瀋陽日本総領事館に働きかけて、教師会と日本語資料室の内容と意義を説明して、保証をした総領事の公式文書が総領事館から局長宛に送られた。しかし、相変わらず公式には何の返事もない。それで、さらに在瀋陽総領事から瀋陽副市長宛にお願いの公式文書が届けられた。瀋陽副市長からは「よしなに頼む」と言う添え書きがついて、科技局長のもとに送られたのが11月9日だった。

このような状況なので話は進むだろうと言うことを、私たちは11月の定例会の時に森領事から聞いて一安心したのだった。

先方に高木所長が電話したところ木曜日に会おうと言う返事があった。それで、高木所長および馮さん、森領事の出張で代わりに川端領事、そして教師会私たちが孵化器ビルに顔を揃えたのは午後3時過ぎだった。会見の約束は3時半である。ビルの部長はにこにこと私たちを迎えてくれた。

時間になってロビ-から6階の会議室に場所を移したが、局長が現れない。暫くすると、急用が出来て来られなくなったという説明で部長が代わりに説明をしますと言うことだった。

科技局としては日本語資料室を歓迎する。和平区もすでに許可している。あとは契約書を交わすだけである。この契約書は開元ビルで使っているものと本質的に同じでよいが、入居して3ヶ月以内に団体の認可申請をして許可を取って欲しいという条項を付け加えたい、という。

瀋陽日本人会も瀋陽で15年活動してきて、市当局から交渉相手として扱われているが認可を受けていない。中国で認可を受けているのは北京の商工会議所だけだという話を私たちは高木所長から聞いている。

局長の言う団体認可申請を何処にして、何処で認可を受けたらよいと言っているのか、日本人側では領事館も、高木所長もそれを知らない。結局これがこの交渉の焦点である。こちらは何処で認可がなされるのか全く情報を持たないのだから、局長がそれをこちらに提示する必要がある。それを通訳を買って出ている伊藤忠瀋陽支店馮さんが部長に言ったが、ここでは答えが出ない。

私たち教師の会の団体としての目的と活動範囲、そしてその質、安全性、有用性は総領事の公式文書で日本側としては最大の保証をしているわけだし、副市長もそれを認めたから和平区に、話を進めるように命じている。それをこの局長は蹴っているわけで、話は最初から一歩も前進していないわけだ。「非合法団体をこのビルに入れるわけにはいかない。」

頑固と言えば頑固だし、彼の内実はこうなのに今日話し合いが出来るようになったから会おうと言うなんていい加減と言えばいい加減だ。結局今日の話は物別れで、次には川端領事と高木所長が団体認可問題をこの局長とさしで話して見るということになった。教師会の問題だけれど高木所長と在瀋陽日本総領事館、及び領事に頼り切りの情けない教師会である。しかし客観的に見て私たちにはその能力が全くない。窮地の私たちを一生懸命助けてくださって、私たちは本当に感謝している。

2006年11月12日 (日)  11月の定例会つづき 山形達也

11月の教師の会の定例会は別項に書いたように在瀋陽日本総領事館で開かれた。

出席:森 信幸(特別顧問)

安部玲子、池本千恵、石井みどり、石原南盛、加藤正宏、加藤文子、金丸恵美、佐藤るみ子、田中義一、辻岡邦夫、中田時雄、中田知子、中野亜紀子、中村直子、鳴海 佳恵、野崎勉、藤平徳雄、松下宏、南本卓郎、南本みどり、峰村洋、森林久枝、山形達也、山田高志郎、若松章子、渡辺京子、渡辺文江

特別参加:金倉美佐恵(総領事館勤務)

欠席:山形貞子、宇野浩司、岡沢成俊、片山皚、河面弥吉郎、林与志男、林八重子

一番の関心は日本語資料室がどうなるかというものだった。日本語資料室はすでに2ヶ月も閉鎖していて、本棚も中の本も荷物となって片付けられて倉庫の中である。和平区との交渉に当たった森領事から、移転予定先のビルの上部機関の局長が難を唱えている、総領事からの手紙にもうんと言わなかったけれど、総領事が副市長に公式の依頼の文書を送り、それに添え書きがついてその局長の下に送られたので話は進展するだろう、と言うことだった。まだ決まったわけではないけれど、先の暗闇が少しは明るくなったかなと言う感じである。

このほかの議題として、市政府当局は瀋陽日本人会と定期的に交流していて、日本人会からの商工業の上での苦情を聞いて対処していることを知ったので、この教師の会でも、生活上の苦情や提案があれば、日本人会経由で市当局に伝えることができる。と言うので、会員から言いたいことを訊いてみた。

一番多かったのは郵便物に対する苦情だったが、これはそれぞれ状況をはっきりさせないとただの水掛け論で終わってしまう。しかも市当局に言うことでもないようだ

市のタクシ-運転手の乗務交代が夕方の6時なので、夕方のタクシ-を止めても自分の会社の方面に行くのでないと乗車拒否されることが多い。夕方という一番使いたいことが多い時間帯にこういうことがあるのは困る、と言う意見があった。その通りだ。これは伝えよう。

山田先生が、日本語放送をたとえ5分でも良いからやって欲しい、と言う意見が出た。意図が分からず、彼の顔を見ると、日本人である自分たちが聞きたいというわけではなくて、学生に生の日本語を聞く機会を与えたいというものだった。なるほど。だけど、これを市に言ってどうなるだろうか、全く先が読めないと思うけれど。

定例会の終了後、私たちはいつものように、と言っても3回目だけれど今回は森領事が予約してあった水上漁港というレストランに向かった。全部で23人が一部屋に入って二つのテ-ブルに分かれて座った。たまたま私の右隣には森林先生、左隣には山田先生が座った。森林先生とはクリスマス会のことを話し、左の山田先生とは先ほどの日本語放送のことを話すことになった。

先ほどの発言を取り上げて市当局に日本語放送をして欲しいと言ったとしても、それを何処が受け入れるのか読めないし、どう扱ってくれるかも分からない。それよりも自分で出来ることで始めたらどうでしょう、と言うのが私の提案である。

この瀋陽で自分が勝手に放送を始めたりしたら、即刻お縄頂戴になりそうだ。放送に代わるものとしてinternetがある。自分で自分のサイトを運営して、そこを訪ねれば、日本語の放送が聞こえるというのはどうでしょう。Internetのサイトで、音声付きビデオが見られるからビデオにして送り出すようにすればいい。あるいは紅さんの中国語講座のように、クリックすると声が聞こえてくるやり方もあるじゃない。あのようにして、自分でHPを作って、その中に音声を入れたたらいいんじゃないでしょうか。

山田先生は載せるニュ-スはここに朝日新聞もあるし、読売新聞もあるし、元を明かせて載せるならどちらも喜んで話を提供してくれるのではないかという。中国ネタならサ-チナと言うのがinternetに載っているから、然るべき手続きを踏めばそれを日本語の音声で読み上げるサイトだって作れるかも知れない。

それじゃ、もう直ぐにも出来るじゃないですかと私。すると、山田先生はデジタルレコ-ダがあれば直ぐにも出来ますねと言う。言われて思い出したが、私もデジタルレコ-ダを持っている、5年前だけれど、色々なアイデアを思いついたとき忘れないよう直ぐにも録音しておきたくて買ったのだ。買った頃には、もうアイデアが湧き出でて困ることなくなっていて、その後は長くしまってあったのだ。たしかソニ-製で、PCにfileが移せるものだった。きっとこれで、山田先生の夢が手作りながらもともかくも始められるぞ。うちに帰ったら探してみよう。そう、何でも先ず出来ることから始めることが大事なのだ。

2006年11月11日 (土)  在瀋陽日本総領事館 山形達也

11月11日の土曜日の教師会定例会は在瀋陽日本総領事館に場所を借りて開かれた。在瀋陽日本総領事館葉瀋陽市の地図を見ると真ん中よりもちょっと西南に寄っていて、運河に近い風明の地にある。東隣がアメリカ領事館、その北が韓国領事館。在瀋陽日本総領事館の北は北朝鮮領事館である。この一画は二重の有刺鉄線の塀に囲まれ武装警官によって警備されている。

入場者はあらかじめ総領事館に届け出ている。その名簿が守衛に渡されていて、彼らが、私たちのパスポ-トと照らし合わせて入る許可が出る。届け出がないときは、領事と一緒だとしても、必ずパスポ-ト番号が控えられる。

数年前に北朝鮮の脱北者が日本総領事館に駆け込み、その時の日本側の対応が生ぬるいと行って非難囂々であった。門のところで駆け込んできた脱北者が掴まっている間、数人は間隙を縫って領事館の建物の玄関ないにたどり着いたにもかかわらず、武装警官は玄関まで入り込んで彼らを捕まえて引きずり出してしまった。これは日本の主権の侵害であるといって領事館の弱腰が非難された。この騒動の間に武装顕官が構内に落としていた帽子を領事が拾って渡している写真まで掲載されたから、ますます日本の弱腰外交といって声高に難じられたように思う。

でも、門の外の警備を請け負っているのは警備の武装警官である。彼らの手落ちで人が中に入ってしまった場合、それを止めるのは彼らの責務であろう。彼らが脱北者であったから同情的な日本の論調は「日本の主権を侵す行為だ」といって不満を鳴らしたけれど、彼らが襲撃者だったと考えれば、警備の武装警官の行為は是認できるはずだ。彼は無届けの不審人物を中に入れないという責務が与えられていて、その職責を果たしたに過ぎない。

勿論、警備にも関わらず、警備の手に捉えられずに塀の内部に入り込んだものは日本政府の保護下に置かれるという取り決めがあったなら別である。それなら、警備の行動はやり過ぎである。人権侵害といって責めてよい。しかし多分、このような取り決めはないのではないか。

この日私は加藤夫人と薬科大学からバスに乗って領事館目指して出掛けた。彼女は日本語クラブ編集の加藤先生の夫人で、加藤先生から新しい日本語クラブ24号を集まりに届けるように預かっている。加藤さんは朝からいつものように古物商巡りに出掛けていてその足で集会に出るつもりだから、荷物になる日本語クラブは邪魔で彼女に預けたのだ。私は手伝ってあげたかったけれど、私も日本人会の新入会員に届けるために預かった沢山の重い書類があって、出来なかった。

バスを降りて領事館目指して歩いていると正門の方から加藤さんが歩いてくる。私が気付いて両手を挙げて振ると、加藤さんは照れ笑いを浮かべて脇見をしながら近づいてくる。夫人めがけて大きく手を振ってニコニコするのは照れくさい年頃らしい。

領事館の鉄格子の潜り戸のところには、私たちの到着を待ちかまえた警官がメモと一緒にいて私のパスポ-トと照らし合わせてOKを出してくれた、二重の門をくぐると中には森領事を始め少し前に到着した教師会の先生たちが集まっておられた。

これでひとかたまりの人数が揃ったようで領事に率いられて建物に入る。玄関を入って直ぐのドアを開けると数人しか入れない空間があり、この中に入って今のドアを閉めないと次のドアが開かないという仕掛けになっている。厳重な仕掛けで不審者は中に入れないという仕組みらしい。だけど内部が火事だったら外に出るのに手間暇掛かりそうだ。外から大きな荷物を運び込むときはどうするのだろう。色々と気になることがある。前に来たときは、このドアを入る前に携帯電話をロッカ-に入れて置いてくる仕組みになっていた。つまり、携帯の種類によっては内部の音(電波?)を拾って外に発信する、盗聴器みたいな携帯があるということらしい。

領事に率いられて廊下を歩くとあちこちで曲がる。昔の道が真っ直ぐでなくあちこちで曲がって見通しの悪い城下町を歩いているみたいだったが、また、さっきの落とし戸みたいな仕掛けの小部屋を通る。ここをでると、廊下も広く真っ直ぐ歩く距離も長くなり、「あ、これが昨年出来た新館か」と納得した。森用事に聴くと、そうですという答え。日本語文化サインでキュ雄牛かの多くの会員はここを知っているけれど、私は初めてだった。だから突然大きな広間に出て、そこには日本の風俗が大きなガラス棚に入れられて展示してあるし、浮世絵だのタコだのが壁に掛かっている。雛壇もある。あれ嬉しいとおひな様に近づいたら、どうも足許の感触がおかしい。見ると、いつの間にか何と私は靴のまま畳の上を歩いていたのだ。「これじゃ、まるで中国人じゃない?」と自分のことを言い訳しながら畳を降りたけれど、中国の方々、ここで引き合いに出してごめんなさい。

(つづく)

2006年11月5日 (日)  日本語クラブ24号の編集作業 山形達也

日本語クラブ24号は、前年度までの中道恵津編集長に代わって加藤正宏新編集長の下で発行される2006年度の第1号で、発行日は11月11日の予定である。順調なら日本語資料室にある機器を使って発行されるわけだが、日本語資料室が閉鎖されて資料・機器はすべて倉庫の中という状況では印刷ができない。

というわけで11月4日土曜日の午後、薬科大学の私たちの教授室を提供した。何度か書いているように、私たちの教授室は60平方米あって、コンピュータはWindowsが3台、Macが3台あり、レーザープリンタ、スキャナプリンタ複合機、コピー機などもそろっている。土曜日午前中のセミナが終わった後ならば編集作業で何時間占領してもかまわない。

ちょうど午後1時になって「お邪魔します」と、加藤、池本、山田、佐藤先生4人が到着して、挨拶もそこそこに日本語クラブの作業が始まった。幸い、加藤先生は何度もここに来ておられて勝手知った場所なので、私がいちいち説明に煩わされることもほとんどない。2時頃には妻も用事から帰ってきて「頼まれたお菓子、いいのがないのよ、でもないよりましでしょ。」とクッキーを差し出した。これと紅茶のティバックを用意して、後は自分で自由にということになって、作業環境が整った。

見ていると、これから編集というわけではないようだ。皆から集まった原稿は最終的に池本先生のところで編集そして写真も加えて割り付けが済んでいて、プリントアウトした原稿を今日ここで皆が集まって校正して、最終版をプリントしてコピーしようという段階みたいだ。これなら二三日かかることもなく、今日一日で終わるだろう。

しかし、構成が終わったところで原版を直すのは一人の作業だし、編集後記も残ったページにあわせてそれぞれが書かなきゃと言うわけで、結構皆が忙しそうに時間が経って行く。4時頃にはすっかり空が暗くなって、秋雷の襲来があった。窓を開けて下をすかしてみると傘が歩いている。雨なのだ。

編集作業が終わる頃か、一段落した頃に大学の外に一緒に食事に行こうと私たちは考えていたので、「5時頃に食事をどうしましょう。雨だから近くでは学生食堂しかないけれど。」と言ったけれど、何しろ雨だし、原版からのコピーが始まったばかりだし、はかばかしい返事がない。それじゃ、出前にしようか。「出前を頼むにもねえ、最近大学がうるさくなって持ってこないのですよ。心当たりの店の電話は知らないし。」

ここで思いついたのは私の研究室の陳くんで、今修士課程の1年生になった陳くんは学部の頃から加藤先生と親しい。とても親切だし、頼めば雨の中でも出前を頼みに行ってもらえるのではないだろうか。というわけで電話をしたら陳くんは快く頼みを引き受けて雨の中を、大学の正門近くにある招待所の餐庁にいってくれた。

「中身は何でもいいよ。ごちそうを食べようと言うわけではないんだから。」というわけで、頼んだのは餃子3人前、炒飯3人前、ニラと卵炒め、豆三鮮。雨に濡れて戻ってきた陳くんは、「ほかに、先生が好きだから、ガーダー湯もたのみましたよ。」

6時半頃届いた出前に陳くんも入れて7人が集まって食事になった。支払いは66元。一人あたり11元。招待所の食事は学生食堂よりはましだけれど、普段ならちっとも感心しない味だ。しかし、見ているだけでも共同で何かやっている気になっているし、こうやって仲間と仕事をして食べる食事はそれ自体が美味に感じられる。その間も、コピー機が1ページのコピーを終えるたびに山田先生は次のコピーを続けて手をちっとも休めない。

食事の後、遠方の佐藤先生とこの後で用事のある池本先生が二人先に帰って、それでもコピーがすべて終わったのが9時だった。後の製本は学生さんを呼んでやりますからと加藤先生。雑誌発行がこんなにスムースに進んだのは今回が初めてだとのことだという。編集の実務担当の池本先生が慣れて、全員が集まるまでにほぼ完全に割付まで終えていることが大きかったのだろう。加藤先生が新しく編集長になったためではないのだ。

私としては、3年続けてやってきた日本語クラブをwebに載せる仕事から降りるけれど、山田先生の仕事ぶりを見ていると、彼が完全に肩代わりしてやってくれると言うだけでなく、HPの運営そのものも任せられそうに思える。日本人教師の会の将来が明るく見えて、とても嬉しかった。

2006年11月2日 (木)  瀋陽日本人会クリスマスパ-ティの準備会 山形達也

瀋陽日本人会という瀋陽在住の日本人が作っている組織がある。法人で約70社、個人会員300名くらいが登録されているという。領事館に登録している日本人だけで3万人、短期出張を入れれば5万人を超えるだろうと言われている大連には遠く及ばないが、人数が少ないだけにまとまりが良いかもしれない。

この日本人会の大きな行事は瀋陽日本語弁論大会で、最終選考会は毎年4月にホテルの大きな会場を借りて開かれる。今年で10回を数えた。日本人会のもう一つの大きな行事が12月に開かれるクリスマス会である。これは会員、その家族も含めて集まって食事をしながら楽しむという会だから、会員にとっては弁論大会よりも恐らく大きな意味のある会だろう。

11月はじめには日本人会の幹事会で幹事会社から1名ずつ出てクリスマス会実行委員会を作って準備を始める。日本人教師の会にも毎年3名くらい出てくださいと言われている。

2003年9月に私たちが教師の会の集まりに初めて出たとき、色々の役を決める時に私の妻がクリスマス会の委員に手を挙げたら、中道恵津先生から「実行委員には若い女性になって欲しいと言われていますので、それなりの方でないと」といって断られてしまった。妻はそれでひどく落ち込んだし、わたしもそれ以来、このことを「根に持って」いる、というと大袈裟すぎるが、誰が教師会の実行委員になるか関心がある。

結局その時は誰もなり手がなく、11月になって会の代表があれこれと相談して、その時70歳代の女の先生と60代前半の男の先生を選んでいたっけ。

昨年は事前に実行委員を決めていなかったので11月始めに直ぐ委員を出すように言われて、その時の副代表の南本先生がやむなく実行委員になった。相変わらず、若い女性からはほど遠かった。

今年は9月の定例会の時に、この委員も決めて置こうと私は主張したけれど、正直いって誰が希望するか皆目見当が付かなかった。私は「実行委員には若い女性になって欲しいと言われていますけど、」なんて余計なことは言わなかった。

幸い直ぐに手が上がって、森林先生が私がやりましょう。同じく東北育才学校の若松先生も、じゃ、私もと続いて志願してくださった。男の石原先生も(あとで東北育才学校の若い山田先生に代わった)手を挙げて、これで3人。若い女性を中心に、実行委員が決まったのだ。

10月末に日本人会事務局から教師の会に実行委員を3人出して欲しいという依頼があった。私は直ぐに3人の名前と連絡先を書いて送った。入れ替わりに実行委員会で中心になる幹事会社の人から、「それぞれの会社から出てくる実行委員は男ばかりなので、教師会は是非妙齢の女性を3人選んで欲しい」というmailがあった。

何だか、セクハラ気味の発言じゃないかと思わないでもないが、「教師の会からの実行委員はすでに決めていたので、後の祭りですね」と書いて返事を送った。実は言うまでもなくこちらから参加する先生たちは、選りすぐりの若い妙齢の先生たちなのである。

12月10日のクリスマス会に向けて、実行委員会の初会合は明日開かれるが、教師の会から参加した先生たちを見てきっと他の委員たちは心豊かにクリスマス会の準備を進めることが出来るに違いない。

3人の先生たち、お疲れさま、ありがとうございます。

2006年10月29日 (日)  日本語資料室の荷物の移動 山形達也

10月29日の日曜日午後1時引っ越しというか荷物の移動開始ということで、私は峰村先生と一緒に12時半頃開元ビルに6階の資料室に着いた。日曜日の昼と言うことでバスは結構混んでいる。何と、私は席を譲られてしまった。今日は暑くも寒くもなく、働くには手頃な日である。

私たちが着いて5分後には南本卓郎・みどり先生に率いられた薬科大学の1年生、屈強なと言っていいほど大きな男の学生が9人。そしてかわいらしい3年生の女子学生が1名到着。

今の時期は、2年・4年生は12月3日の日語国際1級試験に備えて勉強中なのを邪魔できないから、1年生を連れてきたというのが南本先生の弁。だけど、日本語の学習を始めたばかりで、日本語が心許ないから通訳として3年生1人も連れてきたとのこと。

みどり先生によると、「『行きます』は教えたから分かります。でも『行きましょう』とか、『行って下さい』といってもまだ分からないんですよ」ということだった。実際、その通りだったけれど、働き出すと荷物を運ぶという明確な方針は伝わるから、彼らはじつによく働いた。

「学生さんが頼もしいし、60才以上は遠慮しましょうか」と、私は言ってみたけれど、実際は6階から荷物を地階の倉庫に運ぶというのは若者9人くらいでは出来るわけない。最初に荷物を出してエレベ-タで下に運んだあとの彼らは、二つに分かれてエレベ-タで6階から地階まで運ぶ作業と、峰村先生に率いられて地階の倉庫に運び込む作業に従事し、私たち(つまりの応援の教師たち)は6階にいて資料室から荷物をエレベ-タまで運び出すという作業に没頭した。

私たちというのは加藤先生も含めて薬科大学の5人、医科大学の渡辺京子先生、東北育才の若松先生、ワ-ク語学学校の池本先生などである。少しして、東北大学の石井みどり先生、岡沢先生も参加。瀋陽師範大学の金丸先生も終わる前には間に合った。

地階の倉庫は1室を借りることが出来て、峰村先生は最初は全部の荷物は入りきらないと思ったらしいが、そこは差配よろしく、全部が収まって感激だった。終わったのが2時45分。この1年生の実力は全く大したものだ。本当にありがとう。そして、今日資料室に駆けつけてくれた先生たち、本当にありがとう。お疲れさまでした。

若松先生はこのあと元気に二胡を下げて、三好街近くのレッスン場目指して歩いて行った。大したものだ。私はうちに帰ってうとうとしてしまったのに。

2006年10月27日 (金)  資料室の引っ越し荷物の一時保管 山形達也

日本語資料室の移転は、和平区政府所有の孵化器ビルへの移転の話が出ていて、8月28日に会いに行った和平区政府の朱招商局長は大歓迎といってくれた。しかし、ビルを管理する別の部門の局長に合って、先方の要求する書類も提出したが、水が漏れたとか何かの理由を言われて、なかなかOK がもらえない。

その局長が『日本人教師の会という非合法団体を入れて、自分は責任を取れない』ということらしく、認可してくれない。

教師の会の顧問役である森領事及び伊藤忠の高木さんの奔走で、『日本人教師の会というのは中国の瀋陽地区で日本語教育研究に携わる日本人の先生の任意の集まりで、特定の思想に染まらず、地域の発展と友好のために活動している団体である』という在瀋陽日本国・阿部総領事による公文書が10月9日に先方に届けられたにもかかわらず事態は進展しない。

開元ビルの改装は11月から始まるので店子は10月末までにでなくてはならない。開元ビルのオ-ナ-はそれで私たちの引っ越し先を早めに手配して見付けておいてくださったのだが。

行く先の見通しが立たないので、ビルのオ-ナ-は2階の改装中のビルに倉庫を用意した。28日土曜日に日本語資料室の荷物を動かすようにという手配もしてくれた。南本先生が26日木曜日に現地を見に行ったところ、その倉庫も工事中で、やっている工事の人も、事務の人も30日までは終わらないという。工事中に運び込むことは危険だし、工事中に運び込んだら、運んだ荷物がなくなることだってある。しかし30日にはもう事務の人たちはビルから撤収しているし、こちらだって授業がある。

南本先生、工事の人、事務の人、伊藤忠の高木さん、ビルの尚総経理の間に電話が飛び交い、ともかく29日の日曜日に荷物を動かすしかないと言うことになった。

一応28日という連絡が教師の会に廻ったが、29日という会場が大至急廻っている。29日に倉庫が落ち着いていて荷物が運び込めるといいのだが。

11月11日に予定されている教師の会の定例会は、森領事から総領事館を使って良いという申し出を頂いている。

2006年10月22日 (日)  松井菜穂子さんのソプラノリサイタル 山形達也

21日夜には松井菜穂子さんのソプラノリサイタルが遼寧大劇院で開かれた。

松井菜穂子さんは東京音大出身のソプラノ歌手で、中国語の美しさに魅せられて中国が好きになったいう。昨年上海でコンサ-トを開いたそうだし、今度が中国2回目のリサイタルだそうだ。中国語の勉強も本格的に始めて3年だそうで、舞台では中国語で挨拶、うたの解説、おしゃべりが展開した。隣りに座っていた中国語に不自由しない峰村先生が大いに関しておられたから、結構なものだったらしい。

歌は、日本のサクラに始まり、ロシア民謡、新疆民歌、モツアルトのモデット、ハレルヤ、そして最後はテノ-ルも加えてヴェルディの椿姫から二重唱、乾杯の歌、巴里を離れて、ああそは彼の人か、で豪華絢爛に終わった。柔らかな叙情味のある良い声の人だった。瀋陽で初めて聞く本格的な音楽で、こちらは大いに感激だった。

300人入るという小ホ-ルには、教師の会からも沢山の会員の姿が目立った。日本語を教わっている学生たちも詰めかけて満員のはずだったが、真ん中の良いところに結構空きが目立った。市の文化局の主催なので、お偉方には券が渡され、しかし当日になって当たり前みたいに欠席したのだろう。勿体ない話だけれど、招待席がある以上防げないかもしれない。薬科大学の学生でも180人の希望者に対して30枚の券しか回ってこなかったという。この次には大ホ-ルでやって欲しいものだ。

会場で在瀋陽日本国・阿部総領事の姿を見かけて、資料室の引っ越しに際して先方に公文書を書いて下さったお礼を申し述べることが出来た。しかし、移転については先方から色よい返事がなく、10月末には開元ビルの改修工事が全面的に始まるというのに、全く先が見えない。

2006年10月14日 (土)  10月の定例会 山形達也

10月14日土曜日、定例会が開元ビルの日本語資料室で開かれた。この場所ではこれが最後。9月17日に9月中の引っ越しに備えて荷造りをしてしまったから、広い閲覧室はダンボ-ルだけ。会議室は新しいところには持って行けないために解体されずに残っている大きな机と、椅子があるだけである。

出席:池本、安部、中野、若松、森林、中田(知)、宇野、峰村、渡辺(京)、坂本、南本(卓)、南本(み)、松下、中田(時 新人)、加藤(正)、加藤(文)、河面、中村、野崎、藤平、田中、佐藤、金丸、岡沢、山形(達)

欠席:山形(貞)、辻岡、片山、林(輿)、林(八)、石原、渡辺(文)、鳴海

一番大きな関心は資料室が、何処に引っ越せるかである。引っ越しの期限は10月末までと切られている。引っ越し先予定地の和平区政府の孵化器延町と局長宛に、10月9日休暇明けの在瀋陽日本総領事館からの公文書が届けられている。これは伊藤忠商事の高木さんと馮さん、日本総領事館の森領事のご尽力によるものである。

この書簡を先方に届けるのに立ち会った南本会長によると、先方はこのような総領事館によるお墨付きを手に入れたがっていて、これで安心だと思ったようだという。しかし、ともかく先方から受け入れOKという返事があるまで、何も決まったことにはならない。

もし10月中にOK の返事がなかったらどうしよう。考えたくもないことだし、実は考えてもどうしようもないのである。その時は領事館に泣きつこう。

前回の定例会の時会員のうち8名が瀋陽日本人会に加入申請をした。今日の定例会では更に6名の加入希望者があったので会費を預かった。今月の瀋陽日本人会の幹事会に持っていって手続きをお願いしよう。これで殆どの先生は日本人会に加入したことになるのではないだろうか。

東北育才学校に中田時雄さんという新人が到着。とてもおしゃべりな先生である。

3時には話が終わって各係の会合に移り、4時には東北大学の近くの羅香魚館に行った。18名が入れる部屋がなく、二つに分かれて宴会。メニュ-から料理を選んだのは、森林、池本の両先生。とても良い選定だった。一人43元。終わったのが7時。

次回は11月11日土曜日、勿論和平区孵化器ビルの予定なのだが。

2006年10月1日 (日)  資料室の移転交渉が進まない 山形達也

日本語資料室は移転が迫られている。オ-ナ-が新しい移転先を見付けてくれていて、私たちはそれに乗って移転するつもりになっていたが、移転先の和平区政府は契約書をとりかわすというところまできて、その先が進まない。

資料室の内容は、今は瀋陽日本人教師の会のものであり、瀋陽日本人教師の会がこの契約を結ぶ主体である。中国政府はこの会を公認していない。聞いた話では中国政府が公認しているのは北京の日本人会だけで、じつは瀋陽日本人会も公認されていないという。

この公認されていない団体に部屋を貸すのはいかがなものかと、和平区政府の役人が考え込んでしまった可能性がある。ただでさえ始終両国の間ではきしみがあるのに、地方政府が非公認団体に部屋を貸してしまうと、その責任者がいつか足を掬われることになるかも知れないと考えてしまう可能性は大である。

政府が公認しない団体と付き合うことが問題になる社会、じゃ、公認とは何なのか、色々と考えてしまう。

日本領事館に出張って貰う必要がありそうだ。日本政府も中国政府と対話を復活して両国の友好に努めて欲しいものだ。

2006年9月24日 (日)  教師会新人歓迎瀋陽ツア- 山形達也

9月24日のツア-で新人の参加者は、遼寧大学の藤平、石原両先生と東北育才学校の松下、中田両先生、それに薬科大学の坂本先生の5人。旧人は案内役の加藤先生、その夫人、私たち山形・山形の4人の合計9人だった。故宮のバス停で待ち合わせて、先ず故宮の前にある土産物屋を覗く。篆刻用の寿山石,巴林石を置いている店は定価販売で絶対に負けないという話なので、石を眺めて眼を養うだけ。

土産物屋の裏に日本が満州国を作る前の時代の張作霖時代に東北三省を統括した役所の二階建て建物が残っている。使われなくなって久しく、大分痛んでいて接近禁止と壁に書かれている。市役所はこの建物を歴史建物として保存したいけれど修復の金がないように見受けられた。

直ぐ近くに公共厠所があって、瀋陽初めての先生ひとりが社会見学と言って中に飛び込んだ。使用料を集めるらしい人が建物の前にいなかったから無料トイレだろう。外まで匂いが来ていないから結構綺麗にしているのではないだろうか、ここは観光地のまっただ中だし。

故宮の横を通って中心廟にいく。14世紀に作られたもので、この故宮のある瀋陽城の中心に建てられたお寺である。前に加藤先生に案内されて初めて来たときはまだ閉鎖されていて中に入れなかった。最近公開されたと言うことだ。小さな、小さな本堂だが、次々と参詣の人が来て太い線香に火を点け祭壇に捧げてぬかづいていた。ひと組の参詣人には黄色の衣装を付けた坊さんと思われる人が小声で教典らしいものを唱えていた。

次に中街の目抜き通りにある1928年建設の瀋陽春天デパ-トに行った。店に中は昔の御徒町のアメヤ横町的に細々と仕切られて個人商店の競演になっていたけれど、ここは中国人資本で建てられたもので、床のモザイクタイルが美しい。

10時になってやっと中街の一画の古玩城を中心に出来ている路上市にたどり着いた。壊れたカメラ、時計、置物、玉の飾り、壺などの古物を売っているござを覗き、篆刻の練習用の石を買い、篆刻の実際を目の前でみてその見事な術に驚き、買おうとした彫刻刀が、2本が3本になっても絶対に負けようとしないおばさんのしたたかさと、交渉を引きと取って3元負けさせた加藤さんの見事な駆け引きに感心したりした路上市の二時間だった。

DVDが1元で売っている?あっ、これ日本のだ。欲しいし、安いけど心配だなあ、と中田先生。プレイヤ-が壊れちゃうかも、と松下先生。その一刻は二度とないこと、欲しいと思ったときはためらわずに買うこと、人生一期一会だよ、などと人生哲学を口を出して、新人の中田先生をけしかけた私。

昼には中街西北にある馬家焼麦という瀋陽のどのガイドブックにも載っている超有名レストランに行った。この店と並んで老辺餃子館が載っているが、後者は高くて美味しくない。馬家焼麦は気取りがなく、安くて美味しいのだ。

餃子5種類(一篭250g)おかず4種類、ス-プ1種類を頼んで、9人で飽食した。これで一人あたり21元。

どのくらい飽食したかというと、私はうちに帰ってひたすら眠く、夕方目覚めた後もお腹がまだ一杯で夜食をスキップしたくらい。

食事の後でバス停まで行く間に人混みの中で互いにはぐれてしまい別れの挨拶は出来なかったが、このツア-の試みは成功したと思っている。

2006年9月20日 (水)  瀋陽路上市見学ツア-の計画 山形達也

3年前に瀋陽に来て瀋陽日本人教師の会に入ったが、この会になじむには半年以上掛かった。つまり、はじめから顔見知りとか親しい人がいるわけではなく、会に出て互いに顔を見ているうちに、そして発言を聞いているうちに話のきっかけが出来てくるわけだけれど、1ヶ月に1回集まるだけだと互いに親しみを覚えるのに半年は掛かるというわけだ。

今年の第1回の定例会に集まった東北育才学校の先生は3人とも新人で、遼寧大学の2人も新人である。つまり彼らには同じ学校に身近な先輩がいない。きっと瀋陽と言う異国の地に来て心細いに違いない。

それで路上市のツア-を思いついた。路上市は昨年の5月に薬科大学の加藤先生に案内されていったのが最初で、それから何度も相変わらず加藤先生にくっついて出掛けている。加藤先生の好きな古本に私は興味ないけれど、篆刻の練習用の石や、本物用の石、あるいはすでに店のおじさんが自分で彫り込んだ唐詩が側面に刻まれている石など、見ていて楽しいし、買うのも楽しい。硯も、筆もあるし、勿論画や書も売られている。このようなところを一緒に歩くと瀋陽に親しみを感じるだろうし、何よりも私たちと親しくなるだろう。

朝9時頃出会って中街の路上市を巡って、11時半頃馬家焼麦(1796年開業の由緒ある店である)で食事をしよう。

そう思って、先ず加藤先生にお伺いを立てた。今度の日曜日の午前中は大丈夫、付き合いましょうと言う返事だったので、東北育才学校の先生は3人と遼寧大学の2人にmailで誘った。遼寧大学の2人からはすぐに参加するという返事があった。こちらの好意に直ぐ即応して返事があるのは嬉しいことである。私たちも今度の日曜日を楽しみにしている。

2006年9月18日 (月)  HP係の仕事 山形達也

教師の会に新しい会員が加わったし、今年度の新しい名簿が必要である。というわけで、朝一番に係の名前も書き込んだ名簿を、先ず作成した。

この新しい会員名簿をホ-ムペ-ジにも載せなくてはならない。今までの会員名簿も直して、この1年に去った人たちを旧会員ペ-ジに移さなくてはならない。

教師の会の歴史をたどるうちで明らかになった10年くらい前の会員の名前も、3名を旧会員のペ-ジに書き入れた。

などなどの仕事を始めたら、とうとう丸一日これに掛かりきりだった。ほかの先生の講義にも出ようと思ったのもパス。研究に関係あることというと、暁艶に彼女の研究の手ほどきの話しをしたのと、大勇の蛍光染色試料のために蛍光顕微鏡の調整をして、検鏡を一緒にやったことくらいである。その蛍光顕微鏡の調整では、眼を痛めたみたい。

なお、新しくした会則があるのでHPを更新。そして今回やっと気付いて、前回の会則を別の場所に残した。今まで更新だけをしてきたから、昔の会則は消えてしまって、たどりようがない。大した会ではないから、いいとして貰うより仕方ないけれど、これからは更新する度にその前のもsaveして、残すことにしよう。

会員には新しい会員名簿を校正のために発送した。追加情報と変更が今日のうちに3件寄せられた。

2003年度には日本語クラブの編集をしたし、日本語クラブをHPに載せる作業も私がもう3年もやってきた。最近、日本語クラブを編集した原稿からHPを作るのが何故かとても面倒なことになっている。編集していない原稿と写真からなら簡単なことが、やけに面倒になっている。

この春から日本語クラブをHPに載せる作業を私は2006年度からはもうやらないと言い続けていたが、幸い有望な新人が日本語クラブ編集係に加入したので、私はこの作業からは抜けられそうである。

2006年9月17日 (日)  資料室再度の引っ越し準備 山形達也

日本語資料室が開元ビルに越したのが今年の5月で、定例会をここで開いたのは、いままでに6月24日、そして9月16日の二回だけである。

10月中にここから越さなくてはならない。和平区政府が私たちの面倒を見てくれることになっていて、契約書の交換の前段階まで漕ぎ着けたけれど、まだ契約に到っていないため、何時引っ越せるかが分からない。

私たちの最初の心積もりは9月19日には引っ越しというものだったが、それは延期となった。しかし、一旦決めたことのすべてはご破算には出来ないので、今日の日曜日17日は、引っ越しの準備である。資料室の中の本をダンボ-ルに詰め、そのほかのものもパックしてしまい、何時でも専門の引っ越し業者が来れば運べるようにしようというものである。

資料室に今まで心を砕いてこられた峰村先生の指揮のもとで、

片山(航空学院)学生2名

山田、中田、松下(東北育才学校)

宇野、中野、若松、池本、鳴海、

峰村、峰村夫人、南本、加藤文子、山形達也

薬科大学学生10の名

が集まって9時から10時半まで働いたら、全てのものはすっかりダンボ-ルにパックされてしまった。

後は、何時の日になるか分からないけれど、ここから業者が運び出して新しい資料室に入れて整理するだけとなった。みな様 大変お疲れさまでした。

昼を山形達也は薬科大学の峰村、峰村夫人、南本、加藤文子さんたちと近くの呉師伝餃子で一緒に食べた。

今の資料室の近くには食べ物屋が沢山あり、あちこちで食べたけれど、ここがしずかで一番落ち着ける。ここに来るのもきっと今日が最後だ。ビ-ルは別で一人あたり15元。

大した労働でもなかったと思ったけれど、この後うちに帰って2時間昼寝をしてしまった。食べ過ぎだったからかも知れない。

2006年9月16日 (土)  9月定例会のあとで 山形達也

第1回の9月16日の定例会の後は、新年度の全員の懇親会。

歓迎会だけれど、新会員も同じように会費を払うので、懇親会と呼んだ方が良さそう。

5時過ぎに3軒東の香味堂(6月の24日に日本人会の幹事さんたちを招いて謝恩会をしたところである)に移って、懇親会。

司会は薬科大学の峰村先生。お見事。

テ-ブルは大二個、中一個。参加者30名。

挨拶:

南本会長

森領事

余興として、各学校別に唄の演し物があり、薬科大学からは加山雄三の「君といつまでも」 池本さんもここに参加

「ぼかあ、しわせだなあ。。。」の台詞は加藤正宏さんが文子さんに向かって述べて満場の拍手と大爆笑。

森さんは、10月に結婚する鳴海さんに僕の妹が結婚するみたいと言って、「かぐや姫」の「妹」を歌った。今日はかつらなしの熱演だった。

このほか、「上を向いて歩こう」「朧月夜」「おいらはみんな生きている」「瀬戸の花嫁」「世界にひとつだけの花」などなど。

食事はテ-ブルののセットメニュ-を注文した。森領事から寄付があって会費一人40元。会員でない人たちは60元。

なお、定例会の時に、南本会長から、会員の懇親を深めるためにこれからは定例会の終了後には、都合のつく人たちで何時も一緒に食事をしましょうという提案があり、好感を持って迎えられた。

2006年9月16日 (土)  9月定例会記録 山形達也

9月16日土曜日午後2時 新年度の教師の会定例会が開元ビルの日本語資料室で開かれた。

出席者:

森 信幸領事 特別会員・本会顧問

安部 玲子 遼寧省実験中学

池本 千恵 和亜久外国語培訓中心

石井みどり 東北大学

宇野 浩司 瀋陽職業技術計算機学院

岡沢 成俊 東北大学

片山 皚 瀋陽航空工業学院

加藤 正宏 瀋陽薬科大学

金丸 恵美 瀋陽師範大学

河面弥吉郎 東北大学

坂本 豊 瀋陽薬科大学

辻岡 邦夫 東北育才外国語学校

中野亜紀子 東北育才外国語学校

中村 直子 瀋陽市朝鮮族第一中学

鳴海 佳恵 遼寧教育学院・遼寧省基礎教育教研培訓中心

林 与志男 瀋陽航空工業学院

南本 卓郎 瀋陽薬科大学

峰村 洋 瀋陽薬科大学

森林 久枝 東北育才外国語学校

山形 達也 瀋陽薬科大学

山形 貞子 瀋陽薬科大学

山田高志郎 東北育才学校

渡辺 京子 中国医科大学

渡辺 文江 遼寧大学外国語学院

新会員:

石原 南盛 遼寧大学

加藤 文子 瀋陽薬科大学

佐藤るみ子 瀋陽師範大学

田中 義一 瀋陽大学 (本日欠席)

中田 知子 東北育才学校

藤平 徳雄 遼寧大学

松下 宏 東北育才学校

若松 章子 東北育才外国語学校

特別参加者:

貴志豊和 瀋陽薬科大学客員教授

辻岡夫人

欠席者:

岩田 敏和 撫順市朝鮮族第一中学

野崎 勉 東北大学機械工程及自動化学院

林 八重子 瀋陽航空工業学院

南本みどり 南本夫人

出席34名

先ず会則の改正が審議された(司会は前回の渡辺文)。

新しい会則に従い会長が選出された。副会長は会長が若干名指名した。

会長

南本 卓郎

副会長

池本 千恵

鳴海 佳恵

峰村 洋

山形 達也

教師の会の会員はそれぞれが必ず何かの役割をすることになっている。

研修・レクリエ-ション係

書記・会計係

ホ-ムペ-ジ係

資料室係

編集係

弁論大会係

クリスマス会係

日本語文化祭係

全員が以上のどれかに入った。

担当の詳細は、ホ-ムペ-ジの会員のペ-ジに載っている。

なお、教師の会日記の過去版は、「活動の記録」の中をたどると見つかるようになっている。

たとえば、2005年度の日記は以下のURLである。

http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/records2005.html

どうかよろしく。