第17号

 第17号目次

4年間の中国での日本語教育

稲田 登志子 (遼寧教育学院)

私の最初の中国滞在は96年から98年までの2年間で、JICAの協力隊員として、中国医科大学に派遣されました。

医大には日本語養成センターという、全国の医療機関から派遣された日本での医学研修前の医者や研修コースの受験を目指す看護婦の短期研修をする機関があり、そこで、日本語を教えました。

当時、瀋陽市内には20名ほどの日本人教師がいて、不定期に集まっていましたが、日本人会会長が弁論大会の発足を提案し、その準備を中心に教師会の活動が活発になっていきました。まだ資料室はない頃だったので、医大の専家楼や遼寧大学の会議室を使って、たびたび全員が集まって会議をしていました。大きな大会を開催する場合には、日本人だけでは許可されないとのことで、中国の団体との共催で行いました。こうして、試行錯誤しながら、第1回、第2回の弁論大会が開催されました。

今回の二度目の瀋陽滞在は2002年7月から2004年8月までの2年間で、国際交流基金から遼寧教育学院に派遣されました。中国を希望したものの、瀋陽派遣は偶然のことで、本当に不思議な縁を感じています。

遼寧教育学院は遼寧省の小中高教員研修、教材開発などの初中等教育の教育向上を目的とする機関で、三年制の短大も併設しています。私は短大で教えながら、教員巡回指導や教師研修会開催、教材編集をしています。

この数年、小学校での外国語教育が普及しつつあって、英語教育を実施している学校が多いですが、農村部を中心に日本語教育を実施している学校もあります。去年、中国人の同僚が小学3年から6年までの4冊の教科書を完成し、私はその校正と5、6年の教師用指導書の執筆をしました。今は指導書の校正段階で、6月に完成予定です。

月1、2回の出張があって、省内の僻地を訪れることも少なくありません。電気も水道もない農村の小学校で、私達が編集した教科書を使って、熱心に勉強する小学生の姿には感激しました。また、研修会で教えた教授法を用いて、授業をしている教師を見ると、この仕事にやりがいを感じます。

今では日本語資料室で定期的な教師会の会議も行われ、弁論大会も多くの学校が参加し、盛大に行われるようになり、教師会の活動が大きく発展しました。教師会の先生方、日本人会の方々、領事館の方々など皆さんの尽力のおかげだと感謝しています。

今後も日本語教育に従事していくつもりですが、瀋陽での4年間はこれからの自分にとって、意義のある経験になると思います。帰国後も中国の日本語教育の発展と皆様のご活躍をお祈りしています。

(写真は阜新県蒙古族架其営子蒙古小学というモンゴル族小学校に巡回指導に行ったときのものです)

さらば瀋陽

呑山 猛(瀋陽師範大学)

1.思いがけない中国赴任

瀋陽に来て5年が過ぎようとしている。思えば奇しき縁である。教職を定年退職して2年目、瀋陽師範大学(当時は学院)の張徳祥学長(現遼寧省教育庁庁長)から日本語教師のお誘いを受けた。不意のことなので、一か月間迷った結果引き受けることにした。それまで中国にはさして興味はなかったし、中国語はまったく分からない。ただ私が関係しているボランティアグループ「中国に本を送る会」が旧知の張先生の学校が日本語科を立ち上げたのをきっかけに、日本語の本を送るようになった。そういう関係があったのである。

さて、中国行きが決まった。中国語を解さなくても 大丈夫だとは言われても、何も知らずに行くわけにはいくまい。あれこれ中国語の研修団体を捜したところ、日中技能者交流センターの存在を知った。研修に参加させてくれないかと古川常務理事に掛け合ったところ、二つ返事で受け入れてくれ、11期生の仲間に加えてもらった。

そんな経緯で1999年8月、瀋陽師範大学に赴任した訳である。

もとより中国語はチンプンカンプン、一人で街へ行くこともできない。日本語科の中国人教師と学生が頼りである。信号機のほとんどない道路を横断するのも命がけである。学生が背中を抱えるようにして一緒に渡ってくれた思い出が懐かしく蘇ってくる。

2.実践の中から

授業は2年生の作文、3年生の論文演習、4年生の総合日本語であった。以後4年間変っていない。授業以外の仕事もあって多忙であった。が元々国語教師なので、授業の勘はすぐ取り戻すことができた。とにかく学生が素直であり、一生懸命学習するのでやり甲斐がある。こちらもついつい一生懸命になる。多忙は慣れている。多忙と言っても日本にいる時のように管理面や授業以外の雑務に追われていたのとは違って国の体制の違いに戸惑うことはあっても、子供の指導に専念できるのでむしろ充実した生活だったと言えよう。

しばらくして、学生たちは素直で一生懸命勉強しているが、勿論これは立派なことだが、受身の姿勢に少々疑問を感じるようになった。子供の頃から勉強ができて、ひたすら勉強に励んで来た子供たちである。教師の指示通り動くのは教師側にとってやりやすい。しかしこれでいいのかという疑問に囚われるようになった。ある教師が学生は何も言わないと勉強しない。だから苦しめるくらい勉強をやらせるのです、と平然と言ったことも引っかかった。この子たちは将来自らの生き方を切り開き、主体的に生きることができるのだろうか。

自立的に生きる子を育てるとは、と日本にいる時しきりに考え、議論してきたことが思い出されてくるのであった。そんな疑問があったので、新たに4年生にはガイド実践学習という単元を取り入れてみた。自ら学ぶ姿勢づくりの試みである。自ら資料を漁り、日本語らしいガイド文を作り、仲間を観光客に見立ててガイドをし、北陵公園に出向いて実際にガイドを実践する。どのようにガイドをしたら観光客の興味を引くことができるか互いに議論しながら実践をさせた。これは学校が郊外に移転するまで続けた。自分たちで考えさせ、実践させてみると学生は興味を持ってやり遂げるのである。そんなことがやってみて分かった。

また、3年生に環境問題を他人事でなく、自らの問題として考えさせるために、学生の環境意識調査というものをアンケート調査と観察調査によってまとめさせた。これは論文演習の一環として行ったものだが、これも環境問題を自らの問題として考えさせるのに意味があった。面白かったのは、校内にあるゴミ箱の数である。あるグループは足りないといい、あるグループは十分あると言う。例えると、500元持っている場合、あるものは500元しか持っていないと言い、ある者は500元も持っている、と言う。その類いである。なぜゴミ箱が多いと感ずるのか、なぜゴミ箱が少ないと感ずるのか、ここから又互いの考えをぶつけることができる。興味ある学習であった。

余談であるが、日本人教師はゴミを見つけるとひろって棄てる、ゴミを道端に棄てる学生がいるとどんどん注意する。家庭のゴミは分類して棄てている。これからの中国の環境美化を考える上で見習うべきでないか、と学生たちの意識が変わってきたことは、うれしい副産物であった。何でも文化の違いと片付けるのでなく、地球の環境汚染を心配するのはよいが、我々は身の回りからやるべきことはやっていこうという意識が芽生えたことは実践学習を通しての大きな収穫であった。自ら考え、自ら律することは他人のためにもなる。人の振り見てわが振りを直すことは素直な学生たちだからこそ体得できるのだと実践を通して思ったものである。

 

3.貧しさにめげない学生たち

日本語学部には農民出身の学生が多い。ほとんどが貧しい。家に電話が付いて間もないという家庭もある。彼らと話していると、今自分が勉強しているのは一番目は親のためである。二番目は自分自身のためである。と本気で言う。大学を卒業して働くようになったら、親を引き取って生活を楽にしてあげたいと。実に親思いである。日本人からみると昔話のような話である。

辛いできごとがあった。

3年前、ある女子学生が授業中、後部座席で涙ぐんでいることがあった。この学生の家は貧農で、その上母親は自律神経失調症で寝たり起きたりの状態であった。そんな家庭なので、私はささやかながら個人的にいくばくかを援助していたのである。気になるので、放課後なぜ泣いていたのかを尋ねると、実は母が自死したとのことであった。自死した親の心中と残された家族を思うとき、何とも辛い出来事であった。

もう一人は、父親の事故死である。父親が暗い山間の道をオートバイで走っている時崖から転落して亡くなった。生活が苦しい上に戸主を失った母親は間もなく農を棄て、韓国へ出稼ぎに行った。その学生は故郷を失い、一層苦しい生活になったが何とか卒業はできた。

現 在、二人は大連、上海と元気に働いているが、二人の未来に幸あれと祈らずにはいられない。

今の3年生にも貧農の学生が多い。殆どが銀行ローンでやりくりしている。長期休暇は帰省しないでアルバイトをしている学生も多い。気持ちが安らぐのは、いずれの学生も貧しさに負けず、学業に励んでいることである。遼寧省の山間部の農村は水不足で悩んでいる。これは地域の問題であり、かつ国家の問題でもある。貧富の格差が益々広がっている中国で、農村の生活のレベルアップは大きな問題となっている。貧しいからといって農業をすてるのでなく、安心して農業が続けられる国にしてほしいものである。

 

4.大学院で学ぶ学生たち

瀋陽師範大学日本語学部は4回生まで卒業している。中国の大学院を卒業して、すでに大学教師になった教え子もいる。日本の大学院に留学している学生は12名を数える。経済学を専攻している者、社会福祉を専攻している者、日本文学、日本言語学を専攻している者とさまざまである。やがて彼らは卒業したら、中国に戻って国を支える一員として、また日中の掛け橋として活躍するだろう。それを思うと私の夢は広がってゆく。

 

5.結び

私はこの7月で瀋陽を去る。

思えば、懸命に学ぶ学生たちに囲まれて5年間は充実して幸せであった。はじめての異国で夢中に指導した1年目、学生の実態を見つめながら指導できた2、3年目、そして5年間マンネリにならずに指導を続けることができたのは、学生たちの素直で真摯な学習態度のお陰である。子供たちに生かされた5年間であった。

 

短歌 中国にて 20首

むしろ子らに支えられ来てしみじみと夜半の蛙の声に聞きいる

わが意欲ひきだす笑顔のスウさんは最前列できょうも受講す

柳絮ならぬポプラの絮(わた)の舞い落ちるアレグロとなりわが風の街

速足のわれを見て言う学生は高度成長見るがごとしと

茶を入れてペットボトルで冷やす夏淡々と過ぐ単身2年目

アカシアの香りのような笑み浮かべ卒業論文娘(こ)は抱きくる

帰省せぬ娘(こ)ら集いきてはしゃぎいる年越しの夜シャブシャブ囲み

母の自死、貧農の父持つ春蘭の筆跡やさし「春蘭」の文字

ふるさとを懐かしむ娘(こ)の目の中に節高き指持つ農父の姿

春節を待つふるさとへ帰る子ら母亡き春蘭その中にあり

鶏を一羽丸ごと子に託す農父の思いありがたく受く

不揃いのリンゴなれども果肉美(は)し、子のふるさとは農にて生きる

雨降らず乾きたる川道となり辺境の村喘ぎいるなり

学業は親のため一,二番めはわが身のためと学生は言う

五度巡る厳冬の風頬刺すも痛み懐かし去る地と思えば

いつの間に眠っていたのか日だまりに胡蝶の夢をまさぐりている

温もりて異郷の床に李白読むページ半ばにきょうも眠りぬ

地を染めて亡びのときの陽を見つむ われの背後に月白く屹つ

突風に鍔あおられて身を離る帽子はひとり地をさまよえり

風に舞い枝にからまるビニールをしばし見ていつ吾(あ)の行く末を

愛しき日々を♪

八木 万祐子(遼寧中医学院)

瀋陽で過ごした2年3か月、喜び、悲しみ、驚き、楽しみ、悩み、怒り、感動し、感謝し、たくさん笑って、たくさん泣きました。まだ帰国するという実感はありませんが、日本に帰ったら、冷凍の老辺餃子(白菜味がおいしい!)が食べられない、学生の「らおしー!」って声が聞けなくなるんだと思うと、ちょっと切なくなります。

教師会では、弁論大会をはじめ、たくさんの貴重な経験をさせていただき、先生方には本当にお世話になりました。

中国で、瀋陽で、出会った人、過ごした月日、そして、遠くから見守っていてくれた人たちすべてに感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました!

沈陽進行形

酒井 和重(東北育才学校)

ぼくは今年(04年)の6月末に日本へ帰りますが、この原稿を書いている現在はまだ沈陽にいるし、そして6月以降もぼくと中国、とりわけこの沈陽との時間はまだまだ続いていく気がしています。というのはぼくはここ沈陽で、数こそそれほど多くはないけれど、かけがえのない中国人の友人ができたからです。

日本に戻って後も、また度々中国に訪れるつもりだし、ぼくの友人達もまた日本へ訪れることもあるでしょう。いや、現在すでに日本にいる友人もいます。ですから日本に戻れば中国の生活など存在しなかったかのように日本での生活が始まり、日々暮らしていく・・・のではなく、ぼくには依然中国の時間が流れ続けることでしょう。思い出ではなく、今この沈陽で流れている時間が進み続けることでしょう。

まだまだ沈陽に残られるみなさんも、せっかくの機会ですから1人でも多く中国人の友人をつくり、中国を堪能してください。教師会のみなさんには、すでに沈陽から離れられた方を含め、ぼくにおつきあいくださったことにたいへん感謝をしています。どうもありがとうございました!

瀋陽にて

澤野 千恵子(東北育才学校)

中国の美容院

女の人が外国に来てまず困るのは、美容院の問題だ。

私の宿舎はもと千代田小学校の校庭の一角にあるが、半世紀前の建物ですべてにガタがきており、お湯が出るのは夜9時から10時の間ぐらい、それもぬるい日が多く、たまに熱いお湯が出ると話題になるほどなのだ。自分で洗髪が大変なこともあり、また髪が多く自分でうまくセットできないせいもあり、美容院をやっと見つけて、今一週間1回通っている。日本人団体がよく泊まる新世界ホテルのすぐそばで、学校からも5分、店も広く従業員も10人もいるまあまあの店だ。その上、シャンプー、セットをして貰い、20元(約260円)という安さで、東京の値段を思うと、安い私のお給料でも大丈夫。ただしカットは、一度我慢が出来ないほど伸びて、カットしてもらったら、1ヶ月泣きたい思いの日を過ごしたので、絶対日本に休みで帰るまで我慢する。

もう2年以上通っているので、従業員も私に馴れ、私も彼らに馴れた。だがはじめの頃は外国人はまず来ないので、まず私への質問から始まった。中国人一般に言えることだが、会うとまず何国人か、そして何歳かと聞く。また仕事を聞いたうえで、給料はいくらかまで聞く。いろんな初対面の中国人にこのような質問をされ、お国柄によって失礼な質問かどうかの基準がこんなにもちがうことを知る。 

あるとき髪の仕上げをしながら従業員の韓さんが私の年齢を聞いた。1928年に生まれ瀋陽で育ったというと、彼はきっとなって、あなたの男友達たちは中国人を殺したかと鉄砲で突き刺す真似をした。私ははっとして、中国人の心の中をのぞいた気がした。これは仕立て屋の王さんにも同じような質問をされた。小泉首相の靖国参拝のたびに、昔の戦争の写真がテレビに出て、日本のこのようなことは決して忘れることは出来ないし、許すことは出来ないといわれる。どんなに親しくしても、真の日中友好はありえないのかと思うことがある。

さて話しがかたくなったが、その美容院で私が驚くのは従業員の態度だ。ここでも下働きと上の仕上げクラスとは別だが、朝すいているとき従業員たちが、私の隣の椅子で足を広げて新聞を読んだり、なかには朝ごはんを食べたりしている。先輩が私の髪を巻いているのをただ見ているだけで言わなければ手伝いもしない。それどころか自分の髪を洗ってセットをしたり、化粧したりする者も多い。日本の美容院だったら一日で首になるのにと毎回見ながら思う。急ぐときは手伝ってもらってと頼むと、何も仕事もなくてブラブラしている女の子が呼ばれてピン取りをする。ただ人が多く給料も安い中国では、しょっちゅう人が変る。皆腕のある人は給料のいい所にいくのだろうし、中学校を出たばかりで役に立たないと思われる子たちは、すぐいつの間にかいなくなってほかの子がいるという具合である。

もっともそれこそカットが5元とか、染めが20元なんて店もある。いつか太極拳の仲間で髪の形がいつもいい年配の人が親切にも彼女の美容院に連れて行ってくれた。何か、雑貨屋の店の後ろの狭い狭い一部屋でそれこそゾッとするほど設備も悪い汚いところだった。五十過ぎの、腕は私の美容院よりはるかに上手だとおもう女の人がやってくれたが、いくら上手で安くても二度と行きたくないと思った。

逆にそれこそ従業員が皆ピンクの清潔なガウンを着て、ええ?これが中国なのと思うほど気持ちのよい美顔専門店もある。清潔なベッドで綺麗なバックミュージックを聞きながら、顔だけでなく、肩のマッサージまでしてくれて、値段も80元(約1,000円位)で、予約はいるがここに来ると心身が本当に休まる気がする。そしてここに来ると、ああ、中国の人でもこんなに美容に気を使うクラスもあるのだなと思わされる。

 

親切な中国のおばさんたち

近頃の瀋陽の街の表通りの建築ラッシュぶりは凄まじいスピードでそれこそあっという間に、今まであった店やアパートがなくなっている。現に私が2ヶ月の冬休みで帰国して帰ってきたら、学校の曲がり角にあったケーキ屋さんも、時計屋さんもなくなってしまって、表通りから私どもの学校の裏側が丸見えではないか。

同様に道路の拡張も、容赦なく道路際の建物を取り壊し、グングン進められる。今桃仙飛行場までの高速道路が片側5車線に広げられて立派になったのはいいのだが、市内への車の流れがとても多くなり、信号の余り無い広い道を横切ろうと思うとそれこそ決死の思いである。ある日、バスを降りて向かい側のビルに用事で行こうとしても、信号が無く、車の切れ目がなくて、どうしても渡れずただただ立ち尽くしていた。すると後ろから中年のおばさんが、私の腕を掴むやいなや何とその車の流れの中をスイスイと横切り始めたではないか。実に慣れたものでその度胸とその熟練した技に、私はただただ感心しながら、彼女にしがみつく様にして渡りきった。地獄で仏のような感じだった。

またあるときバスに乗ったはいいが、どうも間違えたらしく途中で気がついたので、周りの乗客にこれは馬路湾まで行くかと、下手な中国語で聞いた。すると何人かがガヤガヤ喋っていたが、ひとりのおばさんが、私についてきたら大丈夫だと言ってくれた。そしてその乗り換え場所までわざわざ私を連れて行ってくれて、自分はまた道路を渡って違う方向に歩いていった。私のためにこのバス停まで連れてきてくれたのだ。

私の学校の若い生徒たちは自分の受け持ちでなくても、凍った路で滑らないように腕を支えてくれたり、荷物を持ってくれたり、とても気持ちがやさしい。けれども全く知らない中国人からの親切は本当に嬉しいし、私も日本で困っている外国人を見たらお返しをしなければといつも思う。

 帰国のご挨拶

河野 美紀子(前遼寧省実験中学)

2001年9月からの2年半、今振り返ればあっという間の月日だったように思います。遼寧省実験中学で初めて日本語を教えることになり、当初は苦労も多かったのですが、その苦労も含めて2年半の間、本当にいい経験をすることができました。

実験中学に着任してまず驚いたのは、学生達の毎日の授業数の多いこと。赴任前から進学校とは聞いていましたが、朝の7時半に登校して、夜の9時半まで学校で勉強するというハードな日課は、私の予想をはるかに越えるものでした。そんなハードな日課にもかかわらず、学生達は昼休みの時間や休日も惜しんで日本語の勉強に励んでくれました。そういう彼らの姿に私も励まされ、また教師会の先生方にも助けられ、1年で帰国する予定だったのが、2年、更に半年と延長し、学生達にもっといろんなことを教えたいと望むようになりました。

授業以外にもパーティを開いたり、校内の学芸祭に参加したりと楽しい思い出をたくさん作ることができました。今年の夏には日本語班第1期生が卒業します。彼らは今後それぞれの道を進んでいくわけですが、これからもどこかで日本語の勉強を続けてくれれば、この上ない幸せです。

私は今年の1月末に帰国し、4月からまた日本語を教えています。今の学校にも瀋陽から来た学生が大勢いて、よく瀋陽の話で盛り上がります。また、先生方からもよく瀋陽のこと、中国の高校のことなどを聞かれ、体験談をお話しています。

これまでもいろんな所でいろんな出会いがありましたが、瀋陽でも様々な出会いがあり、そして今の職場でもまた新しい出会いがありました。これらの出会いを生涯の宝としてこれからも大切にしていきたいと思います。

瀋陽の皆さんこの2年半本当にありがとうございました。これからも日本より皆さんのご活躍をお祈りいたします。そして、またいつかどこかでお会いしましょう。

 


瀋陽で3年間を過ごして

本保 利征(前在瀋陽日本総領事館)

私がここ瀋陽に来たのは、3年と少し前になる2001年3月17日。気候はまだ寒く、風が吹くと、ビニール袋が宙を舞い、その光景は、まるで鳥が飛んでいるかのようでした。そして、黄砂もひどく、昼間なのに車がヘッドライトを点灯し、それにも関わらず視界は10m程度だったのが昨日のように思い出されます。また、街も綺麗ではなく、道路も十分に整備されていなかったことを思えば、今は、大分過ごし易くなったと思います。


¥私は、瀋陽に来る前までは、北海道開発局で、農業土木関係の仕事をしておりました。具体的には、農地造成、用水路整備、農道建設、ダム建設といった内容です。ところが、瀋陽では、文化というこれまでとは全くの畑違いを担当することになり、日本人教師の方々には、頼りがいがないと感じられたことでしょう。この場をお借りし、お詫び申し上げます。

とは言え、私は、この瀋陽日本人教師の会の先生方とお会いでき、そして、教師会の活動に、若干ではありますが参加させていただけたことは、私自身にとって、大変有意義なものと思っております。

特に、瀋陽日本語弁論大会は、教師会の先生方が中心に半年がかりで準備なされ、その苦労は大変なものと思います。しかし、当地の日本語学習者の多さ、そして、そのレベルの高さ、さらに、それら学習者が日本を好きになっている姿を見る度に、先生方の日頃の努力と学生達との交流が、このような良い関係を作り出しているのだなと感じ、心が温まりました。そして、人と人との交流が、真の相互理解につながることを痛切に実感いたしました。

さて、この3年間、大きな事件がいくつも起こりました。2002年5月の「大連での飛行機事故」と「瀋陽総領事館への駆け込み事件」、2003年春のSARSによる混乱、夏の「黒龍江省チチハル市での旧日本軍遺棄化学兵器による毒ガス事故」、秋には「珠海での集団売春事件」、「西安での西北大学での日本人留学生らによる寸劇に対する抗議」、2004年の「鳥インフルエンザの流行」、「大阪の中国総領事館への車輌突撃事件」などいろいろありましたが、この中には、日本と中国との関係に水を差す事件がいくつもあり、それにより、教師会の日本理解と日中の交流に大きく貢献されている活動にも制約が生じたことは、残念でなりませんでした。

国が違えば、制度、習慣、考え方等あらゆるものが違うのは当然とは言え、世界で確固たる地位を築き上げようとしている国であれば、もう少し大人になってもいいのではないかと、常々感じてきました。しかし、そのような厳しい状況の中、間違いなく言えることは、教師会が行っているような活動が、これからの中国を変える原動力を養い、将来の日本と中国にとって、大きなプラスとなることです。そして、そのためにも、教師会の皆様の御健闘を心から期待し、活動がさらに順調に、そして永く進められることを祈っております。

最後に、3年の間に、お世話になった先生方、そして私の離任に際し、労働節の休日にも関わらず送別会まで催してくださいましたことに対し、感謝の気持ちをうまく言葉で表すことはできませんが、一言、今まで、本当にお世話になり、どうもありがとうございました。(2004年5月11日)

瀋陽日本語文化祭

石井  康男(遼寧大学)

昨年度はSARSの影響をまともに受けて、瀋陽日本語文化祭を中止しましたが、今年度も昨年秋に発生した西安市で生じた日本人留学生等の文化祭事件の影響を受け、これまでのように大学の判断で実施することが出来なくなり、公安に届け出ることが義務付けられました。

4月の28日の午前にこの届に関する書類を受け取り、実施10日前にあたる5月10日に提出することを要求されました。しかし、ご存知のとおり大型連休を控えており、しかもわが遼寧大学は29日から5月9日まで休暇になっていますから、どのようにしても時間的にも記載内容(プログラムなど)的にも不可能な状況にありましたので、止む無く中止をするという判断をせざるを得ないことになりました。

そして、学内でのミニ文化祭であれば実施ができるということであるから予定していた5月20日に学内ミニ文化祭として実施することにしましたが、これも5月11日になって、学内の新キャンパスへの移転問題とぶつかるので、秋の10月中旬?下旬に延期するということにいたしました。

この問題に関して小河内総領事が非常に強い関心を持たれて、中国の中でも唯一とも思われる独自の取り組みである瀋陽日本語文化祭の火を消したくない、むしろさらに発展させていくべきことであるから、次年度に向けてバックアップ体制を確立させていきたいという暖かな励ましと支援のお言葉をかけて下さいました。

このような支援もあって今回計画した遼寧大学外国語学院ミニ文化祭は新キャンパスの披露をかねて10月に開催することにいたしました。

以前から秋の新キャンパス披露行事の中で、総領事の講演会が計画されていますから秋のミニ文化祭をこの講演会に引き続いて開催出来ないものか検討をしていただくようにお願いをしています。もし実現できれば次年度の瀋陽日本語文化祭の再開に向けて大きな実績作りの役割をはたすのではないかと考えています。

この一年間の中で一番大きな出来事になってしまいましたが、これも両国の立場を考え、理解しあうために意義のあることであると前向きに考えています。

教師会の一年間を振り返ってなにか書こうと思っていましたが、文化祭のことになってしまいました。これもこの一年間の記録として残しておきたいと思いますので、ご了解ください。

中国が好きだ

 中道 恵津(瀋陽師範大学)

中国国内の旅行は、人に頼らず自分の足で歩く、というのが私達夫婦のやり方である。こんなふうにしてこれまで随分いろいろなところを歩いた。中国の老百姓(ラオバイシン)の食べる食堂で食べ、中国の人の泊まる安い宿を探し、中国の人の乗るバスに乗り、中国人の入るトイレに入り!(仕方なくね)、カルチャーショックを楽しんでいるうちに中国式の生活にすっかり慣れている自分に気付く。

「わーすごい」などと間違って褒められると困るので前もって断っておくが、中国語が全くできない夫と、ちょっとはできるといっても全くのブロークンで、それも流暢には程遠い私とのコンビだから行く先々で失敗も多い。今思うとハラハラドキドキのことも多々あった。

けれども私たちはこれまで多くの中国人から、旅先で、数え切れないほどの親切や善意からのおせっかいを受けている。老人二人の珍道中は中国の人にとって見れば危なっかしくて見ていられないからなのか。もっとも当人たちは老人という意識は皆無でバリバリの熟年と思っているのだが、ここではれっきとした老人なんだなあ。とりわけ学生たちにとっては、間違いなく老人なのである。「先生たち老人は・・」と言うのには参った。ともかく中国人は根っから善良でお人好しなのか、はたまた偶然の幸運で悪いやつに出会わなかっただけなのか、滞在5年の間に受けた無償の親切は数知れず、自分からカメラなどを中国のどこかの大地にプレゼントしてきたことは二度ほどあったが、盗まれたり騙された記憶は一度もない。だから私は中国が好きである。正確に言うと、中国が好きで興味があるからこうして5年も住み続けているのだ。

ツアーでなく夫と二人だけのはじめての中国旅行は1980年代で、学校の夏休みに北京と西安とハルビンの3ヶ所を15日間かけて回った。中国語はふるさとの町の中国語講座で習い始めてまだ半年後で、辞書を持ち歩いた。買い物のとき、習ったばかりの言葉を使ってみて通じたと喜んだ。単純なものだ。

そのとき、北京の街角の切符売り場で万里の長城と明の十三陵への一日遊覧コースを見つけて切符を買い、明くる朝6時半に前門付近の集合場所に来てみたら、なんと百台以上はあるとおもわれるバスが集合していて肝をつぶした。自分の番号のバスをやっと探し出して乗ったら、全部中国人の家族連ればかりでガイドはいない。いたとしてもチンプートンだから居ないのと同じである。ハンサムな運転手は観光の場所に来ると出発時刻を乗客に伝える。人々はそれを聞いてバスを降り、大勢の観光客が群がって歩いていく方向に目指すものがあるにちがいないということで歩き、見終わるとバスに戻ってくる。自分で見に行き自分で時間を判断して戻ってくるのだ。

私は運転手の言う時刻をじっと耳を澄まして聞き取るのだが、もし聞き間違ったら置いてゆかれるかもしれないのだから真剣だ。念のため聞き取った時刻を紙に書いて降り際に運転手に見せると、ハンサムな彼が肯いてくれるのが嬉しい。その日私の聴力は格段に進歩した。

そのはじめての旅で初対面の人のジープに載せてもらって北京の街の観光めぐりもしたしご馳走にもなってしまった。ハルビンの動物園では雨が激しく降っている中、園内で出会った係員がどういうわけか私たちをパンダの檻の中に誘導し、パンダと一緒の記念写真まで撮ってくれた。こういうことって頼んだわけではないのだが。

1999年、寒い最中の12月に、物好きにも黄河の河口(入海口)を見に行った。暖房どころか隙間風が、吹き込むおんぼろバスに2時間も揺られていたとき、自分の着ている緑色の大衣を脱いで、寒い寒いと震えている夫に着せ掛けてくれた若者もいた。

2000年夏、西域カシュガルとウルムチを繋ぐ、完成間もない鉄道が時ならぬ砂漠の雨に流されて不通になったときのこと、カシュガルでチャーターしたボロタクシーが砂漠の真中でパンクした。おまけにスペアのタイヤを積んでいなかった。運転手がタイヤを買い求めにヒッチハイクでカシュガルに戻っていった間の4時間、砂漠の中に放置されて不安に包まれていたそのとき、近くで道路を修復していた工事の大型トラクターが帰りかけて向きを変え私たちに接近してきた。彫りの深いウイグル族のひげ面大男がトラクターから降りてきた。緊張する私たち。彼は言ったものだ。「水はあるか、食い物はあるか。」なぜそんなことを聞くのか分からずに、水はあるが食べ物は余りないと答えた。彼はそのまま何も言わずにトラクターに乗り込み、砂煙を上げて帰っていった。

約30分後、再び砂塵と共にトラクターが姿を現した。降りてきたのは先ほどのひげもじゃ大男。新疆方面の人々の主食、ナンと呼ぶ大きな堅パンをにゅっと差し出したのには感激した。土地の人の人情が嬉しくて涙が出そうになった。

例を挙げればまだまだきりがない。そして今に至るまで、見ず知らずの人から数え切れない親切を受け続けている。時に人の心が信じられなくなる日本と違って、ここではまだ人間が信じられる。私は今そう思う。私たちは来たばかの時よりは中国の事情にも詳しくなったが、私の中国観は変らない。今私も、私のできる限りのことをしてその親切に報いたいと思いつつ暮らしている。


久しぶりの旅行

昨年5月の黄金周はSARS流行のため、学内に缶詰にされていただけでなく、休暇そのものがなくなり、いつもと変らない授業となった。今年は瀋陽に来てはじめての黄金周だ。厳しい冬が去って緑の美しい季節、出掛けないという手はない。だがいつもの相棒の夫は今期は日本だ。はたと困った。今までずっと二人旅だったから気が付かなかったが、女一人の旅はしにくいのだ。第一つまらない。

ふと思いついて長春大学の友人に声を掛けてみた。長春に5年も居る彼女も今回は何の計画も無いという。一緒に旅行する話はすぐ決まった。どこに行くかは会ってから相談しようということになった。こういうところ段々大胆になっている自分に気付く。

5月2日朝7時の高速バスでとりあえず長春に向かう。あいにくの雨だ。長距離バス駅に出迎えてくれた彼女とまっすぐ火車駅に向かう。黄金周だからどの窓口にも行列ができている。地図によれば長春から行ける方向は、ハルビン経由で牡丹江に行くか、或いはチチハル方面だ。吉林は近すぎるからその時は考えなかった。まず大声で牡丹江行きの汽車があるか聞く。なぜ大声かって?もたもたしていると後ろに並んでいる人に押しのけられそうだからだ。以前のこと、背の低い私の頭越しに金を掴んだ手が窓口に伸びてきたことがあった。そのとき私はその手をぐっと上に押しのけた。後ろの男は何も言わず引っ込めた。こういう点やはり迫力が必要だ。オドオドしていたら金輪際買えない。中国では切符を買うときには淑女になっていてはだめだ。並んでいても割り込まれる。そういうときは排隊(パイトイ)!と言うとテキは大抵ひるむが、発車まで時間がないとか何とかいい訳をしながらしつこく迫るのもいる。

さて係員は機械的に「今晩10時56分」と答えた。え?今点晩上的有?黄金周の当日券があるって?その幸運がちょっと信じられなくて硬臥鋪があるかと念を押す。面倒臭そうに頷く係員に「要二張!」と威勢良く答える。このときチチハル行きの汽車のことは聞きそびれた。というよりそんなことを聞ける余裕のある窓口ではなかったというほうが正しい。

こうしてその晩は友人の宿舎に泊まる予定が、急遽瀋陽発牡丹江行き夜行寝台車の客になってしまった。出発が遅い時刻だったから友人の宿舎で入浴も済ませ、歯も磨いて来たので、眠るだけだ。友人には敬意を表して下鋪を譲り、私は頭が天井につかえる上鋪だ。

古い列車だからトイレの水は流れず、シーツも灰色だがそんなことを気にしていたら中国の旅はできない。明くる5月3日、朝8時過ぎに牡丹江の駅に到着。いつものように街の地図を求め、店員に見所を尋ねる。これが私のいつものやり方である。時折晴れ間も出るがすぐまた傘が必要になる空模様のなか、街の南の牡丹江のほとりにある公園に「八女投江記念碑」を見に行く。凛々しい8人の乙女たちの表情が胸を打つ大きな迫力のある群像だった。抗日戦争の最中、必死で抵抗したが包囲の輪を縮められて、最後に全員牡丹江に身を投げたというエピソードにもとづく。

駅前に戻り「東京城」という町へのバスに乗る。持参の地図帳に拠れば、牡丹江はこの東京城を拠点にさらにその先30分の鏡泊湖風景区という国家4A級の名勝地がメインだと判断したからだ。

さて東京城とはいったいどんな町かといえば、私たちはここに一泊したあと、そこから鏡泊湖風景区に行って美しい自然を楽しみ一泊してまた東京城に戻ってきたので、この町について結構詳しくなってしまった。駅前近くの十字路から東西南北の各方向に商店街が並んでいるが、暫く歩くとすぐに途切れて、家はまばらになり畑が広がる。商店は種子や肥料店、農機具店などが目立つ。通りには可愛いてんとう虫を連想させる赤い三輪タクシーがひしめいている。

物価はべらぼうに安い。これは嬉しいことだ。着いてすぐ町を歩いてホテル探しをしたのだが、4軒ほど見せてもらったうち一番高かったのが一部屋50元、安いのが20元。鉄路賓館とか農機賓館など外から見るとかなり大きく見えたが、中は差不多で、まあどれも安いだけのホテルではある。そこで私たちが選んだのは20元のホテルだった。一人10元!洗い晒しの皺だらけのシーツがかかっていた。今まで安いホテルにたくさん泊まったが最低でも50元だった。今回のは記録更新だ。

風呂は無いがその代わり宿の人の入れ知恵で近くにある大きなお風呂屋さんに行った。3階建てのその建物は清潔でお湯も豊富な銭湯で、なんと本職の按摩もやってもらえるという。風呂3元、全身按摩が10元。寒いその晩、ゆっくりと暖かいシャワーを浴びたあと45分間、上手なマッサージで疲れがほぐれたところで向いの小さな食堂でビールを飲みながら食事をした。こしがあり掛け味噌も美味しいジャージャー麺と、量がたっぷりの炒菜。ふたりで12元のささやかな夕食だが味は抜群で心から満足した。瀋陽でこの味にはなかなかお目にかかれない。この日は私の誕生日で、友人が祝って乾杯をしてくれた。

町の郊外の渤海という村には渤海国上京竜泉府遺跡というのがある。てんとう虫タクシーの運転手の人懐こい笑顔が外地人の緊張感を緩ませてくれる。丸顔が温かみのある人柄を感じさせ、好感が持てる。ハンドルを握ったまま、時々横や後ろを向いて大きな声で説明してくれるから、田舎だといっても危なくてしょうがない。日本人を乗せたのはこれで2回目だと言う。何ヶ所かの見学が終わるまでいやな顔ひとつせず待っていて東京城に戻ってくるまで1時間以上かかった。いくら?と聞くと例の人懐こい笑顔で「随便(いくらでも)」という。「じゃ15元でどう?」というと首を振る。ん?と思ったが、「いくらか言って」と言うと「20元」という。私たち二人同時に「好!」と言ってしまった。なんだか値切れない感じのいい運転手だったのだ。1時間で20元!

ホテルの1階にある食堂には食欲をそそる料理が無く、餃子でも食べようということになった。が、餃子は無いという。若い服務員は私たちを餃子が食べられる離れたところの店まで案内してくれた。

鏡泊湖からまた東京城に戻り、次の牡丹江行きのバスの出発まで、聞くとあと25分ある。昼食がまだだった私たちは近くの食堂に入った。バスは30分に1本あるから、間に合わなかったら次のにしようとゆっくり面条を食べていたら、バスの車掌さんがわざわざ探しに来て、入り口から顔をのぞかせた。バスが出るという。まだ食べ終わってなかったので「次のにします。」というと笑顔で頷いて出て行った。ここのもこしのある美味しい麺だった。

田舎の小さな町である東京城は、ただ物価が安いだけでなく、こうして出会う人々が素朴で皆親切だった。加えてホテルは汚くても安いし、町には気持ちのいいお風呂があったし、料理は美味しいし、私たちふたりとも何となく好感をもって町を去ったのだった。

5月5日、牡丹江駅に戻った。時刻は15時10分になっている。持参の時刻表は2年前のだが、それによると吉林行きは15時20分発だ。間に合うわけがない。次の汽車というつもりで、吉林行き切符があるかと聞くと、「有」ときた。長春駅での会話とまったく同じ場面再現だなと思いつつ、何時のが「有」か聞くと、15時38分で硬臥鋪もあるという。ここでも思わず「エーあるの!」と叫んでしまった。ラッキー!というわけで、私たち二人は牡丹江始発のその列車に乗るべく、プラットフォームに急いだ。中国で出発28分前に寝台車が買えたというのも、私にとって新記録だ。ところで汽車の横腹を見たら、牡丹江―長春になっているではないか。長春大学の友人の部屋には本などの荷物を置いてきてある。私たちはとにかく最後は長春に戻らなければならないのだ。何だ長春が終点なのか、じゃ長春まで買えばよかったと思った。なぜって持参の2年前の時刻表に拠れば、この汽車は吉林が終点になっているので吉林までといって買ったのだ。吉林・長春間はバスでも2時間だから何とかなるだろう、着いてから考えようというわけだった。車掌さんに、吉林までの切符だが長春まで行くことができるか聞く。「没問題」という。それじゃ吉林に近づいて雨が降っていたら降りるのをやめよう、吉林着は朝の5時ごろだし、そんなに早く降りても寒いだけだしと、いつもの随便でいくことにして、連日歩き回って疲れていた私たちは例の灰色のシーツにくるまって休みながら、長いおしゃべりを楽しんだ。もっともこのときのベッドはふたりとも中鋪だったので、下鋪に若いアベックがいて、その二人の様子が見たくなくても目に入ってくるので困った。男性は、カップラーメンを女性の口に運んで食べさせたり、まるで赤子の世話をするごとくベタベタと女性の世話を焼いている。友人いわく、「なんだかシャキっとしない魅力のない男性ね。」やがてふたりはそれぞれのベッドに横になったと思ったら、互いの顔を見ながら手をしっかりと握り合っているものだから、ポットのお湯を取るのも憚られた。そのうちに、まだ夕方6時そこそこだというのに男性は女性のベッドに移って横になり、シッカと顔をくっつけて抱き合っている。通路に人が行き来しても完全に二人だけの世界に入ってしまっているのだ。「オイオイ、まだ消灯じゃないよ。暗くなってからにしてよね。」と思ったが、口には出さなかった。彼らはまだ若いのだ。

明くる朝、車掌に足をたたかれて起こされた。まだ5時にならない。吉林だ。大勢の乗客が降り支度をしている。友人とどうしようかと言いつつ、こんなに早く降りてもどうしようもないよねと、再び布団の中にもぐりこんで、プラットフォームを行く人の波を眺めていた。

やがて乗降客は誰もいなくなった。汽車はまだ動き出さない。突然友人が、「雨が上がっているわよ。」という。空が明るい。「降りようか。」と私。「降りよう。」と友人。

それから大慌てで、ズボンを穿き、上着を着、リュックサックを担いで飛び出した。入り口で車掌が「又来了!」と一度上げた鉄のタラップを慌てて下ろしてくれた。誰もいないプラットフォームに下り立ってふと見ると、友人はいつも着ているコートを着ていない。「コートは?」と聞くと、彼女慌てて「忘れた!」と車内に突進。このとき、開車まで後5分というアナウンスがあった。友人はベッドの上から無事にコートを持ち帰ってきた。この間、車掌は呆れ顔で、重い鉄のタラップを上げたり下ろしたり。

吉林の駅で洗面を済ませ、いつものように地図を買い、近くの食堂で温かい朝食をとり、駅の売店で朝鮮人参を売っているサービス精神満点のお姉さんを相手に時間をつぶし、1元のバスに乗って隕石博物館に行く。8時半の開館まで15分位ある。雨は時折止むが、又激しく降り出す。風もかなりあり、外は猛烈に寒い。手先が凍えそう、まさに冬だ。博物館では切符売り場の人が来るまで中で待機させてもらった。

吉林省では1976年3月8日に隕石の雨が降ったらしい。たくさんの隕石の展示に工夫を凝らしたかなり立派な博物館で、大きいのは1770kgもあり、解説によるとこれは世界最大だそうだ。

さて既に紙面は尽きている。旅の終点の長春も目の前だ。吉林から長春間でも一波瀾あったが、それは今後に譲ることにして、この辺で熟年女二人のてんやわんやの旅の報告を終わろうと思う。

「漂亮だろ、これ」

山崎 えり子(東北育才外国語学校)

皆さんは、タクシーのメーターにこんなフリルがついているのを見たことがありますか。

この写真は教師会に向うべく、タクシーに乗った時、見かけて、写真を撮らせてもらいました。実は、こんなフリルの付いたメーターを見たのは、これが初めてではありません。ある日など、とてもおっかなそうなオジサンの車のメーターにも。たぶん女の人の髪を止めるものだと思いますが、いったい、どんな考えでしたことなんでしょうね。

「へぇー」って感じで、見ていたら、「きれいだろう」って返事がきました。造花で飾っているのも見たことがあります。日本じゃあ、見かけたことがないんですが、私。

あ、でも、キティちゃんグッズで飾り立てたタクシーの話題を日本にいたとき、TVで見たっけ。

瀋陽は第二の故郷

渡辺 文江(遼寧大學外国語学院)

私は1988年-1991年の3年間、遼寧大學へ赴任していた。その時の私は、瀋陽という都市が世界地図の上にあることも知らない、又、知人は全くない、通訳の女性の国際電話の声だけを便りにこの街へ来た。中国の有名な都市へ赴任したかったけれど、女性だから、東北地方の人情の厚い所がいいですよ、と県の人に言われ、瀋陽に決まったとか。

今も忘れないが、4月6日の到着の翌日は、1日中、雪。夜のように暗い空から、雪が降り続く。キャンパスには、人の気配も全くない、怖いような静けさ、すごい所へやって来たなあ、が第一印象である。

しかし、この3年間に、中国人の人情に触れ、教え子をはじめ、同僚、知人、友人を、多く持ち、楽しい教師生活が送れたことは、私の人生に、又とないよい経験と思い出を作ってくれた。

1989年の天安門事件も、自分の耳目で経験した。

2年の任期が3年になり、いよいよ帰国の時には、私は、「瀋陽は私の第二の故郷です」と片言の中国語を言うまでになり、泣きの涙で皆と別れを惜しんだ。

それから10年。私は毎年のように訪問はしていたが、瀋陽の発展と変貌ぶりは、文字通り、日進月歩、日中交流も、桃仙空港が出来てからは急激に進み、航空路も開かれ、人の往来も激しくなった。

今では、1990年頃の瀋陽の姿が、はるか彼方に霞みつつある。その頃は、瀋陽駅、遼寧賓館、中興デパート、展覧館、テレビ塔が堂々として立ち、北駅、五里河体育場が新しく出来たばかり。1989年は瀋大高速道路が中国で初めて出来た高速道路として遼寧人の自慢であった。それが現在、これらすべてが高層ビル群に圧せられて、小さく見える。高速道路は全国網の目に張り巡らされた。日本企業も、確か1,2社、駐在員1名位だったと思うが、今は数百社。だから、在留日本人も留学生、教師が50人位だった。

1991年の帰国の時、私は実感として、こんなことを思った。「今後、私が、中国へやって来ることがあっても、多分、<浦島太郎>だろうなあ」と。

2001年、私は、定年退職後、遼寧大學へ再びやって来た。ゼロからの出発。

<浦島太郎>が生活に慣れるまでに、1年以上かかった。3年過ぎた今、違和感はほとんどない。中日の往復も、一衣帯水の言葉通り、隣国の繋がりと親近感を感じ、距離感も、随分縮まった。

今、古都、遼陽に住んで3年。2300年の歴史を誇り、大清国の祖先が眠るこの街には、東京陵、京都デパート、大正スーパーなど、日本に馴染みの名称がある。私は、この名称と日本との関係を、時に思うが、まだわからない。

「遼陽は私の第三の故郷です」 最近、こんな言葉が私の口に出る。キャンパスに植えた日本の桜がすくすく育っている。教え子達もたくさん育った。私は、この頃、私の健康と気力が続く限り、この教壇に立ち続けたいなあと思うようになった。

それにしても、中国の経済や社会がこんなに発展しても、教育に対する厳しさは、以前と同じ、又は、それ以上である。生活面や思想の規律、全寮制による融和と団結、専門レベルの高い要求、徳、智、体の完全要求など。私は、このことを、大変よいことと考えている。社会が少し豊かになったからといって、青少年の教育が甘くなってはいけない。若者は厳しい鍛錬の中から、芽を出し、逞しく成長してゆくと思うからである。

 


瀋陽に来てもうすぐ1年

山形 貞子(瀋陽薬科大学)

瀋陽に来て良かったことはなんと言っても熱心な学生達と一緒に論文を読み、実験の計画を立て実験をし、その結果を検討できるということです。私たちの研究室の学生達はとても優秀ですので話し合っているととても楽しいのです。

私たちの研究は実験科学ですからいろいろな物が必要です。日本から持ってきた物、こちらで買った物などありますが、それでも足りないと学生達は“自己動手、豊衣足食”といって自分たちで何でも作ってしまいます。

暗室が欲しいと言いましたら五愛街で布を買ってきて部屋を仕切っている壁に掛け、どこからか持ってきた台とシンクを組み立てて小さな流しを作り、窓には黒い紙を貼って暗室をつくってくれました。しかし、実際に使ってみるとあちこち光が漏れフィルムは感光してしまいます。学生と私は器械の下にもぐりこんで漏れてくる光を自分たちの体で防いで現像をしたのですが、それを見ていて今度はカーテンの付け方を変えようと太いパイプを買ってきました。そしてカーテンの上部をパイプが通るように縫い直して壁にとりつけました。そして一つ一つ光の漏れをチェックして漏れている部分には黒い紙を貼って、完璧な暗室作り上げました。

また細胞を培養する器械が動かなくなったときがありました。細胞は生き物ですからそのままでは死んでしまうので業者に電話をかけて来て貰うつもりでしたが、直ぐに来てくれるかどうかはなはだ心細い気持ちでした。その時、女子学生達が行動を開始しました。彼女たちは自分たちの恋人達を呼んで、80キロもある器械を動かして器械をあけて直して(直させて)しまいました。その場にたまたまいなかった男子学生達は自分たちがやれなくて残念そうでした。

日本にいたら自分で買い物に行って大学の暗室を作ろうという学生はいないと思いますし、器械が壊れれば業者を呼ぶのが当たり前になっています。テイッシュペーパーも手袋も何でも研究室で必要なものは業者に配達してもらっていました。ここでは足りない物があれば自転車で街中走り回って自分たちで調達するのです。

全て分業して“自己動手”から離れた生活に慣れてきてしまった私にはこうやって自分たちで必要なものを手に入れていく態度はとても新鮮な驚きです。

これから中国でも物があふれ、分業が盛んになって自分の手を動かさない生活に変わっていくのでしょうか。それは便利さと引き替えに何かを失っていく過程かもかもしれません。そうならちょっと残念ですね。

私の瀋陽所感

佐藤 守(遼寧大学外国語学院)

中国高齢化社会というか中国人の文化や健康管理を見るのには「朝の公園に行くべし」と私の持論。

日本から来た友達や留学生を公園に必ず連れて行く、とりわけ泰山路にある北陵公園は圧巻である。何故ならばそこは清朝第二代皇帝ホンタイジの陵墓の広大なる公園である。

朝早くなら入場無料であり既に朝六時過ぎと言うのに相当な人出・・・!

高齢者が多くたまには若い人もいる皆、溌剌とした明るい顔がうかがわれる。

それぞれグループに分れて好きなことをしている、音楽にあわせ踊りながら行進しているかと思いきや隣では刀を持って太極拳をしたり、羽根のような大型の羽根を輪になって蹴ったり、朝靄の上がる冷たそうな池で寒中水泳、どれを見ても正に「奇想天外」「興味津々」

が心安らぐ、時には老人が「お前も何か書いてみないか・・・」と気軽に話しかけてくる。

私は決ってこう書くのである「日々是好日・我以外皆師・中日友好」と。

私は思う、生活や仕事で息が詰まるような時間こそ、その一方で心の解き放たれる安らぎを求めている中国人、日本の高齢者と違って何と逞しいことか・・・!!

私はまだ63歳老け込むのには早過ぎる。

「ゆず」と「みかん」

山中 晋吾(東北大学)

我が家には、沈陽っ子が2羽います。

彼等は昨年の秋頃までSARS騒ぎのために肩身の狭い思いをしてきました。ですから私の言うことは全く聞きませんが、部屋で自由に遊ばせていました。

年末には、SARSの話題も消えたかのように思ったのですが、凍てつく冬の到来です。もともとアフリカの血がはいっている彼等は、寒さには弱いのでしょう、風邪の症状も出て心配しましたが、家内の献身的な看護により無事、冬越しに成功しました。

そして春、やっと彼等がのびのびできる気候になったのに、鳥インフルエンザです。得体の知れない病気におびえる彼等がふびんでたまらなく、家内と一緒に2倍の広さの家をつくってあげました。

すると先週、全くきかんぼうだった彼等が、家内の指にとまって仲睦まじく遊んでいるではありませんか、家内の無償の愛に心打たれたのでしょうか。涙が出るほどうれしかったです。

ここでの生活は何かと大変なことも多いのですが、われわれ夫婦はこの一年、落ち込んだときいつも彼らに励まされてきたような気がします。


瀋陽おちこぼれ ~4ヶ月過ごしてみて~

峰村 洋(瀋陽薬科大学)

「親に孝」教育

2003年9月から始めた日本語教育も4ヶ月が過ぎた。後期との間に約40日間の冬休みがある。教師の習性というわけでもないが、宿題を出した。

①せっかく習った日本語を忘れぬよう、総復習せよ ②日記は15日間はつけること...と月並みを言う。そして、最後に、⑤親孝行をすること⑥簡単な食事を作れるようにすること とおかしな宿題を付け加えた。「もし、時間がなかったら、⑤⑥のみで良い」とも言った。すなわち、この二つは宿題に付帯したものではなく、むしろメインのつもりである。勉強は無理にせんでも良いと言ったが、果たして彼らはどう出るか。

⑤は、親が粒粒辛苦して一人っ子の彼らを大学にまで出してくれているのだから、感謝を態度で示そうよ。毎日孝行の一つはしなさいよ。肩たたきでもいいんだから。中山晋平作曲の「母さんお肩をたたきましょう」だってもう歌えるようになったでしょう? 薪割り、洗濯でもいいんだから。

⑥は、リンゴの皮を剥けない娘がいたので、それでは「ダメ」と言った。将来結婚して男も女も2人して食事が作れないではどうするんだ。いくら薬学博士になったといっても、餓死してしまうぞ。

学生たちを食事に誘うことが、しばしばある。また、時に学生の方から小生を誘ってくれたりもする。彼らは全寮制で自炊施設はない。“学食”で食べるのが日常だが、街の名物料理屋へも行く。いずれにしても全て外食の生活である。そこで、何回か我が家を開放して、自分たちで食事を作って楽しむ実習をしたりした。彼らが精出して作ってくれた「中華料理は」、総じて塩気が多かった。それに作る量も多すぎて余ってしまう。それにまた、結構時間がかかったにはいささか閉口した。が、彼らとの心の結びつきは一層深まった。「同じ釜の飯」も教えることができた。

 

交通機関と敬老心

一時間以上かかる遠方へ出掛ける時は列車か長距離バスがいい。

しかし、瀋陽市内なら専らバスに乗るのが一番。ほとんどが市内に限らずかなりの郊区のどこへ行くのにも一元で済むからだ。それに、事故を予想しても先ず安心だし、故意に路線より遠回りしてぼるということもない。

今の瀋陽市内のバスは、全てワンマンバスになってしまった。時間帯による押し合いへし合いは日本と同じ。夏には嫌でも肌と肌がべっとりと触れるのだろうか。

ひところの中国の「公共汽車」(乗合バス)は、風情があった。混んだ車内では、車掌さんが奥まで進めないので、大声を張り上げる「切符の無い方、お求め願います」。代金がお客の手によって車掌の所までリレーされる。次に切符がつり銭と一緒に客から客へと渡って戻ってくる。その垢にまみれたしわくちゃなちっちゃなお札は、くるくると撚られてやってくる。お札を開いてみても一度として間違いは無かったものだ。

同じ名称の「バス停」が路線によってかなり違った位置にあったりするのはおもしろい。もしどなたでも時間があったら試しに「青年公園」へでも散歩がてら行って観察されたい。公園は瀋陽の象徴の一つにもなっているテレビ塔の近くにあるので、すぐにわかる。公園の半分は湖が占めている。「湖」といっても、南運河の一部ではあるが。その公園の西側には「青年大街」が、東側には「雨壇街」という通りがある。ところが、「青年公園」という名称のバス停は双方にあるため、遠くは500メートル以上も離れて存在することになる。更に路線が違うと、全く同じ位置にありながら名称の違ったバス停であったりする。西側の「青年大街」には3本の路線バス停があり、いずれも「青年公園」となっていて不思議は無い。ところが、東側の通りへ行くと、「青年公園」(800路、4352路)の他に「交通局」(227路、270路、333路、334路)がある。更に「熱?路」(212路、222路、224路)といった3つの名称のバス停標識が10メートル以内にある。小生ごときの新米老爺泣かせこの上ない。老婆心ながら言えば、約会(おデート)の際はくれぐれもご注意を。

バスに乗ると、気持ちのいいようなちょっぴり寂しいようなことがある。それは、乗車して1元のコインを投げ込んで奥へ進むと、小生を白髪の初老と見てか、外国人と見てか、席を譲ってくれる御仁がいるからだ。時にはわざわざ小生を突っついて呼んでくれてから席を立ってくれたりする。近くに同じ位に見える年配の御婦人が立っていたりすると、申し訳なく思う。こういうふうに年寄り?を大切にしてくれるマナーが身についているのは、決まって若い女性だ。日本の「新人類」にはもはやあまり期待できまいが。

若い親切な女性といえば、一緒に道路を横断する時など、いつも手を引いてくれる教え子がいる。車優先を思わせる6車線もあるような「馬の路」では、信号があっても安心できないからだ。「手を引かってくれる」という小生の田舎言葉がまだ死語となっていないんだなと懐かしがったりする。

また、デパートへ買い物に行ったりする時など、腕を組んでくれたりもするからたまらない。人が多くて迷子にならないようにという配慮なのかどうかは定かでない。何がたまらないかって? それは、半分嬉しいような、いや、3分の1は恥ずかしいような、そして4分の1は急に年より扱いされて悲しいような、変な気分だからだ。我が奥方様にだってしてもらったことのないような初心な人間には、処し方がわからないのだ。腕をされるがままにしておこうか、せっかくの腕を自分の方から外すのももったいないしな、いや他の学生に見られでもしたら明日のビッグニュースにもなりかねないな。彼女の本心は何処にありや、等々。

上記は長野県高等学校教職員組合の機関紙「教育の広場 ながの」(2004/4)に投稿したものに加筆したものである。

文系より理系の生徒のほうが多い国へ来て

持丸 秀樹(東北育才外国語学校)

2003年4月、私は、日本語&総合科目の教師として初めてこの瀋陽に来ました。実は、その1年前、英語の勉強などのためにEnglandで暮らしていました。ですから、最初は「やっぱりアジアとヨーロッパは違うなあ!」とつくづく感じたものでした。 

現在、私が教えている東北育才外国語学校では、卒業後、ほとんどの生徒が日本へ行くことを前提に勉強しています。最初、この学校に来たとき「生徒の趣味は勉強かな?」と思ったくらいよく勉強していました(というより勉強させられていると言ったほうが正しいでしょう。ときどき、生徒の辞書には「resistance」という言葉はないのか?と思います)。

さて、今いる高校に来てから不思議に思うことがたくさんあります。例えば、①生徒の食堂に椅子がない ②時間割が突然変わる ③入学式も卒業式もない…。確かに「一衣帯水の隣国」とはいえ、日本と中国は所詮別の国です。ですから、違っていて当然なのですが、特に不思議に思うことは、「理系の生徒が多すぎる!」ということです。単に「多い」のではなく「多すぎる」と感じるのです。現在の3年生のうち、文系の生徒は13%しかいません。なぜかと思い生徒に聞くと「文系を選ぶと就職が大変なんです!」と言われました。では、日本はというと、女子の進学率が上がったことを考慮しても、文系のほうがかなり多いのではないでしょうか。

会話の授業で生徒に「なぜ日本へ行くの?」と尋ねると、判で押したように「日本は経済と科学技術が発達しているから」と答えます(もちろん、アメリカへ行くより学費が安いからと言う生徒もかなりいますが…)。確かに、GDP比で見れば、依然として日本は「世界第2位の経済大国」ですし、現在中国が置かれている状況を考えると、経済と科学技術の発達は不可欠です。しかし、その日本では文系の学生のほうが多いのです。つまり、将来の中国のために日本を範とするならば、文系の生徒をもっと増やすべきだと思うのです。

例えば、科学技術を例にとると、コンピューター(機械)を作るためには、当然のことながら理系の力が必要です。しかし、いくら質の良いコンピューターを作っても、売れなければ意味がありません。つまり、それぞれの経済状況の中で、①いつまでに何台作り、②ユーザーが何を求めているかをリサーチし、③できるだけ在庫を減らし…といった「経営や経済」の能力が必要とされるのです。もちろん、単に「売れば良い」のではなく、CS(Customer Satisfaction、顧客満足)が最終的には一番重要になりますし、これも「経営や経済」の範囲です。また、一般的に、中国では経済が理系の分野と考えられているようですが、簡単な数学以外、何も化学や物理まで勉強することはないはずです。さらに、国家にとって必要な「法律」、「福祉」、「環境」といった分野にも文系の力が必要ですし、さらに、その際に必要な「サービス」に至っては、文系も理系も関係ないと思います。このように考えると、これからの中国では、もう少し文系の生徒が多くなってもいいような気がします。そうすれば、現在の文系と理系の「奇妙とも思えるアンバランスな状態」が解消されて、より良い中国になっていくと思います。逆に、日本の場合は、理系の生徒が少なすぎるきらいがあります。つまり、「何事においてもバランス感覚が必要なのではないか?」ということかもしれません。このようなことを、最近感じています♪。

児崎静佳の父

児崎 静佳(瀋陽工業学院)

今年の7月で瀋陽の生活も2年半になります。2年前、東京の日本語学校からの紹介で中国・瀋陽への赴任が決まったときは、まわりの友人や親戚からとても心配されました。今の学校を紹介された時、日本語学校側から「2日で返事がほしい」と言われ、親に電話をして相談しました。すると父は「何を迷ってるんだ!行けばいいじゃないか!」の一言。去年も「今年の夏で帰国しようかと思って」と言うと「もう帰ってくるのか?!3・4年いてもいいじゃないか。」と一言。

私のふるさと宮崎は時間が実にゆっくりのんびりと流れている田舎です。女の子は、大学は遠くても福岡へ、東京へ出る女の子はそう多くありません。卒業後、親に呼び戻される友人もいました。まだまだ保守的な部分が残っているのでしょうか。そんな中、わたしたち三姉妹は自分の好きな道を自由に歩んでいます。「宮崎のような田舎にいてはだめだ。人にもまれて強くならないと。」「大学ではたくさん遊んでいいんだ。そして世間を知らなきゃ。」と大学進学の時に父が言っていました。その時は、東京どころか中国に行くとは思っていなかったのではないでしょうか。

2年前にスタートした中国生活を思い返してみると、肝心な時にはいつも父(家族)が登場していることに気がつきました。学生が書く家族愛ではありませんが、少し父のことについて書いてみました。

瀋陽の春

高山 敬子 (瀋陽薬科大学)

今日(5月12日)は久しぶりに雨が降っている。この乾燥した大地では、ほこりが洗われ、木々の緑が美しくなる。日本でなら、慈雨とでもいうのだろうか。中国では「春の雨は油のように高い」と言うのだそうだ。

学生の作った俳句に「春、雨が降ると、子供らがナベを持って走り回る」といのが出てきた。何を言っているのかさっぱりわからず、変な顔をしていると、その学生がたどたどしい日本語で一生懸命説明してくれた。それだけ春の雨は貴重なのだろう。

春と言えば、日本ではさくらを思い浮かべる人が多いと思う。瀋陽だったら、黄砂だろうか。春先(三月)になると、強い風が吹き、小さな砂のようなものが飛んでいるのを感じることがある。でも、もっと細かい粘土質の微粒子が多い気がする。晴れているはずなのに、太陽がぼんやりかすんで見えるときだ。

しかし、瀋陽の春もなかなか捨てたものではない。四月になると、一斉に花が咲き始めるからだ。まず、迎春花が黄色い花を咲かせ、校庭の木々や街路樹がピンクや白い花をつける。あんずや梨の花だそうだが、かなり大きな木が見事に真っ白になる。

運河沿いの道端には、スミレが咲き、芝生の中でも黄色や白のたんぽぽがゆれる。そして、やわらかに芽吹いた木々の間で柳絮が、ふわり、ふわりと舞う。北国の春だから一斉に花が咲くのだろう。しかし少し強い風が吹くと、ちらちらと散っていき、1週間も持たない感じがする。

5月12日の気温を比べてみたら、東京14度?21度、瀋陽13度?22度とあった。

北国の春は短く、駆け足で去り、初夏を迎えるのだろうか。

鶴間好日 わたしのベビーシッター

中道 秀毅(瀋陽師範大学)

2004年1月15日、春節休みの開始早々に瀋陽空港を発ち日本へ還った。丁度この日は私たちの孫娘の5歳の誕生日にあたる。

そのママが生まれたのが4月で、沼津の香貫山に桜が美しく咲きほこっていて桜子と名づけた。私たちは長男に続く、女の子の誕生を願っていたから、このファミリーの出現はほんとうに嬉しかった。

それから20数年が過ぎて、1999年1月、成人式の日、桜子に待望の女の子が生まれ彼女はママになった。パパの実家が富士山を仰ぐ御殿場の田舎であり、そのパパのたっての願いからママの名前の一字を取って里桜と名付けられた。名付け親は妻である。新しい家族の命名とその名の由来とは、ひそやかな愛に包まれていることを感じた。

その年の8月には私たちは山東省青島開発区の学校に赴任する。

10月、建国50周年の国慶節を、曲阜という孔子の故里の町のホテルで迎えた。テレビが、祝賀祭の花火の豪華に打ち揚げられる様子を映していたことを印象深く記憶する。この旅は、広大な中国の古い歴史や史跡、風光を訪れる旅であり、中国の人々の親切や思いやり、人情に恵まれた忘れられない旅の思い出の始まりともなった。

中国での日々は普段は日本語と日本文学の学習と読書の明け暮れであるが、時々は市場へ食料品や果実やらの買い物にでかける。学生の皆と一緒に出掛けての値引き交渉や、帰りの大勢での会食とお喋りは楽しいし、私の好きな日本の歌を皆と歌うことも楽しい。

半年が過ぎて春節休みに帰国、また半年が過ぎて夏休みに家族皆との再会。こういう時、月日の積み重ねを一番感じさせるのが、可愛い里桜の、人の子らしく、女の子らしい成長と言えるだろう。

青島での3年が過ぎ、瀋陽に移った。瀋陽からの帰国便は成田空港着となり、自宅に帰る前に立ち寄る神奈川県大和市鶴間では、里桜とのご対面が愉しみとなる。

瀋陽での2年目に、桜子から春3月に2人目の誕生予定の知らせがあった。幼稚園の友達の小さい弟妹が大好きな里桜にとっても、大きな歓びであった。

ママは産み月が近いというのに、自転車での幼稚園の送り迎え。無理というもので、早産の危険が現れ、医者に止められた。幸い何事もなくてよかった。じじと言われる私こそが適任というものだ。2月21日には、また成田から瀋陽へ還る予定であったのだが、予期せぬベビーシッターの勤めはじめであった。師範大学生との日本語の学習からの転身でもある。

登園9時、お迎えは2時、その後は園庭遊びに付き合うという日課が始まった。里桜は友達が多く、よそのお母さんからも「里桜ちゃん」と声がかかる。じじはまごまごしながら、何事も里桜に教えてもらう生活開始だ。

私の子どもの頃は家が貧しくて、幼稚園は知らない世界だ。だが友達には幼稚園へ通っていた連中がいて、子どもごころにも違和感を感じたが、それはむかしのむかしだ。

教会の運営する幼稚園は、何よりも先生達の子どもへの面倒見がよく、安心できる。毎朝門の入り口で副園長先生が笑顔で迎えてくれる。「おはようございます、お願いします。」と声を出しての挨拶など久しぶり。

自転車でマンションを出ると10分そこそこの距離だが、こうして見る家々や、街が新鮮に見えたりした。

登園9時の間際には若いお母さんたちが、自転車の後ろの席に子どもを乗せて勢いよく集まってくる。中には前後に子どもがまたがり、背中にも赤ちゃんを背負う自転車姿もある。高校の現場しか知らなかった私には、未知の、はじめての生活感溢れる世界だ。よちよち歩きから6才までのつぶらな瞳の子どもたちの、生活感に満ちた天地だ。平和だけれど目の離せない、貴重な世界だ。

ーああ、こうしている瞬間に、イラクでは、バグダット、サマワ周辺の学校や幼稚園の子どもたちはどうしているのだろうか・・・。人質に捕われた日本人の安否はどうなのか・・・と、思いが去来するのだ。 毎日新聞の世界の記事の横わくにー人びと・民族・地球ーと、あることに気付いたのだが、本当に、二十一世紀の根本課題ではないかと考えないわけにはいかない。

夕方6時からはNHK子どもアニメの番組だが、彼女が好きだとしても、私の感覚、フィーリングにも馴染んでこなければ・・・。それが「プリンプリン物語」だった。彼女は、タイトル、主題歌がスタートすると活気付く。主人公は王女であるプリンプリン。

王女の彼女は母を探して旅している。顔は愛くるしく、髪の毛は銀のように輝いて目はキラキラと光り、首にはきれいなネックレスが、耳には小さなピアスが揺れ、唇は紅くきれい、衣裳もセンスがあり、王冠がつき、靴も輝き、スカートもひらひらと。私もエレガントな彼女には惹かれる。そこで5才の里桜との会話が始まるのである。

 

ーね、里桜よ。この仲間たちは、どうして? 

ープリンプリンは赤ちゃんの時このモンキーと一緒に箱に入れられ、流されてしまうの。

ーそうかァ、そういう不幸でも、くじけないで明るいんだね。

ーある時は魔女のために鎖にしばられたプリンプリンをブリカ殿下が助けてくれるの。

と、物語のさまざまをよく理解している。ボンボン、おさげという男の子、火星人という物識り博士など、やさしい仲間たち。一方のランカーは怪人で、顔は醜くくプリンプリンを自分の妻にしようと謀りごとをめぐらす。召使のヘドロもそれに一役かんでいる。私も何回か観るうちに主題歌も覚えてきた。

“ガランカーダ不思議な国/ちょっと気になるひびき/ガランカランラン ガランカランラン/ガラガラガラガラランランラン” と、異国的なリズムの歌を、朝の自転車で私は気分よく歌う。里桜も、ガラガラガラガラ、ランランラーと和してくる。

ーあのランカーという奴も悪いけれど、プリンプリンが好きなんだよね、じじはプリンプリンを妻に夢見て歌ううたなんかよかったよ。

などと話していると、すぐ幼稚園についてしまう。

そして、その日の帰りは、xxちゃんの家へ、ooちゃんも遊びに行くからと自転車でママたちが送って行く。私も一緒に後に従いて走っていく。西鶴間x番地xxxマンションという風にして、鶴間周辺の番地も理解し街に親しんだ。

降園後から5時までを、子供たちは友達の家で遊んで過ごす、それをママたちはまた迎えに行くのが習慣なのだ。私の子どもの頃の神社の森やら原っぱやら、遊びに事欠かなかったよき時代は都市化が変え、外で遊ぶことは危険な物騒な時代となってしまった。幼児誘拐やら殺人やらと今日の日本の凶悪な事件の多発の原因は何故なのだろうか・・・。

食事のテーブルも里桜がいると話題には事欠かないのだ。しつけがよいためか、好き嫌いが比較的少なかったが、それでも理由を言って食べないことがある。

ー里桜さん、これは食べると頭がよくなるよ。そして何でも食べるひとは美人になれるんだよ。きれいなひとはね、何でもよく食べるひとだからね。

それを一口食べた時は、おいしいねえ、ほんとに里桜さんはいい子だねえと、ほめることが気持ちよかった。ママの夕食のとりかかりがゆっくりなので、話しながら食べていると8時半や9時にすぐなってしまい、お風呂へ入って、髪をかわかしたりすると9時半がすぐ来る。

「今夜は何のお話しにしようかなあ。」と絵本を選んで寝床へ行く孫の日課の終わりを見ながら、貧乏人の子沢山の私の両親との子ども時代のことが去来したりするのだ。

ママとの話し声がしばらく続く・・・。

ーじいじ、おやすみ。また、あしたねー。

2月の11日は里桜にとってのひいばばの誕生日だ。ひいばばの1男4女の子どもたちは全員健在だ。長寿を祝って伊豆長岡の温泉旅館へ1泊する。ひ孫が2人、孫が全員そろうと20数人になる。中国からの私たちの帰国の慰労もあり、愉快な団欒だ。

旅館の部屋で見たテレビの深夜映画は、「ロードオブザリング」で、一寸見かけたら面白そう。で、皆の睡眠の妨げにならないように音量を小さくして見る。最近話題もちきりの見ごたえのある映画とはラッキーだった、寝不足になるも。次の日は娘と里桜を、里桜のパパの実家である御殿場のじいじ、ばあばのもとへ送る。車社会の日本である。

2月21日(土)春節の休みも終わり、恵津さんの瀋陽行きの日が来る。私は日本に残って、里桜の幼稚園送迎係りとなる。3月22日には無事に2人目の孫、桜季(おと)の誕生を迎え、本格的ベビーシッターの仕事に精を出す日々である。

人生快々哉。(2004.5.4)


貴州で発見!!日本の酒と餅

大久保 千恵(瀋陽市朝鮮族第一中学)

貴州には3日と続く晴天なし

3里と続く平野なし

民には3文の銭なし

2003年夏。貴州に協力隊員の同期がいるので、ちょっと遊びに行ってきました。貴州は中国でも有数の貧困地域として知られるところ。上にも書いたように、雨の日が多く、山が多く、日の当たりも良くなく、あまり開発されず、それゆえに(?)多くの少数民族が存在するところ。(聞いた話では、漢族に追いやられて移動して来たとか…。)そして観光地としては、アジア最大の滝「黄果樹」(タバコの名前にもありますね)があるところ。

飛行機を降りると、目の前には、アポロチョコレートのような形の山がポコポコ並んでいました。瀋陽にいて山はなかなか見られない、それに、日本の山とも違う、それだけで感動!!・・・貴州滞在中は、友達の案内でいろいろ体験させてもらいましたが、その中でも興味深かったのが、「黄果樹」観光コースのひとつに含まれていた、「苗族の村訪問」。

苗族の人たちは、普段はその村で、普通の格好をして過ごしているのですが、観光客を乗せたバスが来ると、そそくさと民族衣装に着替え始めます。

村に入る前に儀式としてお酒を飲まされたのですが、(お清め?歓迎?よく分かりませんでしたが、とにかく飲む振りだけでもしてくださいと一口ずつ飲まされました…)そのお酒の味は、日本酒そのもの。あらま、こんなところで出会えるなんて…。竹の節で作った器に入っていましたが、透明に澄んでいて、ちょっと辛口で、懐かしい味がしました。(友達いわく、貴州で「日本からのお土産に…」と日本酒を持っていっても、あまり珍しがられないらしいですよ。なーんだ、私たちのお酒と一緒じゃない…って。)

それから、村の中では、苗族の餅つきも見ました。まず、蒸籠でもち米を蒸して運んできました。あ、日本と同じだ!!でも、『うす』は船のような形で細長いし、『きね』もちょっと日本のものとは違うみたいだけど…。それに、うすの両側に人が立って、ペッタン、ペッタン、換わりばんこについているけど、手返しが入らない。一度も餅をひっくり返すことなく、出来上がっちゃった!!しかも、あっという間に!!

出来上がったばかりの、湯気のあがる餅を見ながら、「これ、どうやって食べるんだろう…。」と思っていたら、挽いた黒ゴマと白砂糖が出てきました。あ、黒ゴマ餅だ!!目の前に運ばれてきた大きな餅のかたまりを手で小さくちぎって、ゴマ砂糖に付けて食べました。パクッ。ほんのり甘ーい!!おいしー!!日本で食べたのと同じ味がするー!!友達と二人でかなり興奮ぎみ。「日本の餅もこれと同じ味だよ。懐かしい。おいしい。」と苗族の人に伝えると、「そう、もっと食べて。」と、たくさんくれました。ありがとう。

朝鮮族でも黄な粉餅とか、あんこ餅とかは食べますが、苗族のほど、甘くないんですよね。あー、行ってよかった、苗族の村。中国にて、ちょっぴり日本気分。

そういえば、タイ北部でも、「ヤオ族」という少数民族のところに行ったことがあるんですが、その民族は中国から来た民族らしく、ちょうど春節の時期だったので、親戚?部族?みんなで集まって過ごしていました。で、子供たちが竹馬に乗ったりとか、コマ回したりして遊んでるんですよ。(普段はやらないけど、春節にはやるそうです。)私も小さい頃は、父親手作りの竹馬に乗ったけどな…。場所は違っても、文化はつながってるんですねー。考えることが同じなのか、伝わってきたのかは分からないですが…。またいろんなところ、見に行きたいです。次はどこへ行こうかな…。

熱情、親切な中国人

長澤 裕美 (東北育才外国語学校)

私は二胡を習っている。遼寧歌舞団というところまで、毎週二胡を背負ってバスに乗って通っているのだが、バスの中は人々を「ウォッチング」するとてもいい場でもある。

こんなことがあった。中山公園前から231路のバスに乗って、一駅ほど走ったところで、突然私の腰から足にかけて重い衝撃があった、そして、「ごつん」と重いものが床にぶつかる音。「何事か!」と思って振り返ると、髪の長い若い女性が、私の足元にごろりと倒れている。どうも貧血か何かで失神したらしい。「あらら、どうしよう、助けおこすべきか・・・」などと考えていると、後ろの方から50代ぐらいの女性が駆け寄って、その倒れた女性の鼻の下のツボを指で「ぐぐぐ」と見るからにすごい力を込めて押したのだ。すると、その女性はふっと意識を取り戻し、近くの別の女性に助けてもらって起き上がることができた。「うわっ、すごい、魔法のようだ」・・・さすが、中国医学、按摩と針の国だと感心した。貧血の若い女性は、近くの人が口々に、念のため病院に行ったほうがいいというので、別の乗客に付き添われて、途中の医科大学で降りていった。

同じく、231路のバスの中で。後ろに座っていた女性にポンポンと肩をたたかれ、「あなたのその服、どこで買ったの?」と聞かれた。「日本で買った」というところから、「どこの人?何年中国にいるの、どこに行くの、何歳だ・・・」と始まり、話につられて、前に座っていた女性も会話に入ってきて、終いには、3、4人程で、私のことで何かしら盛り上がっている。こういう場面を見るにつけ、日本人と中国人の違いをいつも感じる。日本人はバスの中などで、よほどのきっかけがない限り、見知らぬ人同士が話を始めることはないが、中国では違う。話も唐突に、思いがけないことから始まるし、始めた当事者二人にとどまらず、どんどん近くの人が加わっていく。最初の貧血の例にしても、日本では、このような場面で、もう少し遠慮がちというか、他の人の出具合をうかがってしまうところがあるように思う。

以前の同僚の先生が、真冬にスカートに薄いストッキングといういでたちで歩いていたら、通りがかりのおじさんに「不行!」と叱られたそうだ。この寒いのにそんな服装はだめだという意味らしい。そんなの余計なお世話よと思わないでもないが、なんとなく笑いを誘うエピソードだと思う。他人に対しての関心度がやはり日本人よりも高いといえるだろう。

よく学生は「中国人は熱情で、親切です」というが、このように街で出会う人々を見ていると、この言葉の意味が実像を持ってよく理解できる気がする。ちょっとおせっかいかなと思うときもあるが、温かい。私はそんな中国の人の「熱情で親切なところ」が好きだ。

昔は麒麟のつもりでもいまは山大爺のぼく

山形 達也(瀋陽薬科大学)

「XianShen de Shen(先生の生)」の読み方って日本語では音と訓があって、それぞれ沢山あるけれど、幾つくらい言える?」

「一生、生活、生きる、生まれる、生える、生まじめ、生あし。。。」と、たちまち次々と出てくる。「生あし」なんて言葉が出るのが現代的だ。私たちの年代だと日常聞き慣れていない言葉である。「ナマあし」と聞くと「生々しくて、生つば」がでてしまう。

そういえば日本のスーパーの「さかな、さかな、さかなを食べーると」という歌の流れているコーナーに置いてある「生ガキ」に「生食」という札が付いている。いまだに、「なましょく」、「いきじき」、「せいしょく」なのか「なまぐい」なのか、あるいは「いきぐい」であるのか判断が付かない。こういうのには日本語らしく「生で食べられます」と書いて欲しいものだ。

さて、「生」の読み方が学生の口から途切れずに生み出されてきて、それが一寸止まったところで「まだ、【ふ】という読み方もあるけれど」といった途端に「芝生」という返事が返ってきた。

これが日本人の学生なら驚かないけれど、相手は中国の、瀋陽の日本語弁論大会の区分でいうと、日本語「非専攻」の大学生II部に分類される学生である。

場所は瀋陽薬科大学の私たちの研究室で、彼は日語班の出身なので学部の3年生の時一年間を掛けて日本語を勉強し、その後専門の薬学を二年間日本語で勉強して、研究室にはいってきた修士の学生たちである。

私たちが2003年の秋にこの大学で研究室を持ったときに彼等が入ってきたわけで、日本語がこれだけ自由な学生に囲まれていると、私たちは中国語を話す必要が全くない。使う必要も機会もないから中国語がちっとも話せない。話せないから、未だにどこかに出かけるときには大いに困る。 タクシーに乗るのは目的地がはっきりしているから、行き先の名前と住所を大きく漢字で書いて置いてその紙を見せればよいのだけれど、帰りが困る。「そこ、そこ、そこよ。そこの十字路の信号を右に曲がって、直ぐにUターンして戻って左のあの16階の建物の前につけて」なんてとても言えない。

何時だったかは、言おうとしているうちに、何しろ瀋陽のタクシーだから、そのまま1ブロック走ってしまい、「請停、請停」と叫んで止めて貰ってから、とぼとぼと500mを歩いて戻ったこともある。このときは、「請停」という言葉が通じたのではなく、「止めてくれ」と叫ぶ私の迫力が通じたに違いない。なぜなら「請進、請進」(ひとが訪ねてきたときに、【どうぞお入りになって】と呼びかける言葉である)と、運転手に向かって叫んでいたのだから。

この手の間違いは枚挙にいとまがない。学生がオフィスに訪ねてきたときに、話の途中で習い覚えた中国語を使ってみようと思い、意気揚々と「請問、請問」(ちょっとお尋ねしますが)を口にした。ところがなんと、ソファの上で女子学生二人は笑い転げている。

これ以上は中国語が話せない。仕方ない。日本語に切り替えて「どうしたの?」といっても、笑いが収めきれず直ぐには返事が返ってこない。やっと分かったのは、私の発音ではアクセントの位置が悪く「親吻(つまりkiss me!)」と私は叫んでいたのだった。

学生が一人だったら、本気にしたかも。二人いて良かった、ほんとに。

中国語の発音に声調があるのはよく知られている。アクセントの位置のことである。この声調のおかげで、私たち日本人にとって中国語は何とも覚えるのに難しい言語となっている。

瀋陽に赴任することは1年前から分かっていたので、私とwifeはカルチャー教室の一つ「易しい中国語入門」講座を毎週土曜日1時間ずつ受けていた。教室で一緒になった仲間は、中国に進出している企業に勤めていて自分も出かけるからとか、自分は中国で商機を掴むつもりなので勉強したいとか、中国が大好きだからとか、だれにも強烈な目的意識があり、日本のふつうの大学のだらけたクラスの印象とは全く違う。

中には韓国と宝塚大好きという可憐な女子高生もいて、私は直ちに彼女のファンクラブを作って会長に納まってしまったのだが、その話は今ここには関係ない。

中国語の先生は上海生まれで、結婚して日本に来てからもう10年になるという大柄の女性で、じつに達者な日本語で難しい中国語の初歩を親切、かつ熱心に教えてくれた。私たちふたりも一緒の仲間同様にしっかりした目的意識を持っていたけれど、新しい言葉をこの歳で覚えるのは大変つらいことだった。

「麒麟も老いては駑馬に如かず」と、ほざくのが精一杯だった。そう、今は駄目でもせめて昔は麒麟だったと言って、ひそかに自分を慰めたいのさ。

日本人は名前に漢字を使う。日本人がどういう発音の名前であるかは問題外で、中国人はこれを漢語の発音で読む。これを知ったときにはびっくり仰天したが、周恩来も魯迅も中国人の名前を私たちは日本語読みで読んでいるのだから、考えてみれば同罪というか、おあいこである。

wifeと一緒にレッスンを受けていたので二人を区別するために、私は先生から「山形達也先生」と呼ばれていた。もちろん漢語の発音である。

ちなみに「先生」は英語のMr.にあたり、何も私を尊敬して言っているわけではない。彼女のことは、教室の先生なので、小陳「老師」と呼ぶ。

つまり私は自分の名前の漢語の発音を1年も聞いてしっかりと覚えていたわけだ。だから、瀋陽に来て自分のことを漢語の発音で「わたしは山形達也です」というのは何でもないことだった。ところが、である。ところがある会合で初めて、自信を持って漢語で自己紹介をしたはずなのに、満場がどよめいて爆笑したのだ。

えっ?どうしたの?

原因は声調だった。「達也」はダーイエで、最初のダーは二声でイエは三声にして発音すると「達也」になるが、最初のダーが四声となってダーイエとなると「大爺」になるのだった。これは文字通り「じいさん」という意味である。わたしがあまりにもぴったりに間違えたことで、皆が大いに喜んだのはいうまでもない。

この事件以後、わたしは研究室の中でも、わたしの生化学の講義を受けている学生たちからも「山大爺」と呼ばれている。

中国語の恩師であるあの小陳老師が、わたしを「達也先生」と呼んでいたのか、あるいはいたずらで(いや、実は本気かも)「じいさん先生」と呼んでいたのか、一体どちらだったのか、考え出すと分からなくなってしまう。 

瀋陽での新生活

斉藤 明子(遼寧省実験中学)

3月末にこちらにやってまいりましたが、その頃はまだ部屋の中も寒く、とくに4月に雪が降った時には、寒いのが大の苦手な私は、やはり間違ったところに来てしまったかもしれない、と思ってしまいました。けれども、雪が降ってから一週間もたたないうちに、とてもきれいな桃の花が咲きはじめ、ぽかぽか陽気も毎日のように続き、見事な春を体中で感じることができたので、春が大好きな私は、はやくもこちらへ来てよかったなと毎日幸せを感じています。

日本語を勉強している学生たちもとても素直で、純粋で、ひたむきで、かわいく、国外で、日本語学習者に出会えてとてもよかったと思っています。学生たちは、わたしが中国語が話せないのをよく分かってくれているので、まだ日本語学習暦3ヶ月という学生でも一生懸命に日本語ではなしかけて来てくれます。そして、一生懸命にわたしの日本語に耳を傾けてくれます。また、「私は日本語の勉強が好きです。」とか「私は日本が好きです。」と、とても嬉しいことを素敵な笑顔で言ってくれます。

そんな学生の姿や笑顔に私は毎日支えられています。教師としてまだまだ一人前ではないので、学生に満足してもらえるような授業ができるように、そして、これからも毎日学生の素敵な笑顔が見られるように、貴重な一日一日を大切にし、いろんなことを勉強していきたいと思っております。中国でも日本でも日本語を頑張って勉強している学生に負けないように、私も中国語をがんばります。

私の日本語教育に寄せる思い

宇野 浩司(シェンヤン市外国語学校)

私が、ここで日本語を教えはじめて、はや一年あまりが経過しました。その間に、様々な事を経験しました。日本と中国の、学生の考え方の違いに関しての経験がいちばん今までのことで深く心に残っています。

さて、私は中国に来る前、ドイツで約2年間仕事をしていました。その中で感じた事は「日本人ほど付き合っていく事が難しい民族はいないのではなかろうか」ということです。また、「日本人は自分の考えをはっきり言わないから、何を考えているのか分からない」とも言われています。これは、全く私の個人的な考え方で申し訳ありませんが、「相手を気遣う国民性故に、何かを言う時でも必ず相手に余地を残してあげる」為だと思います。これは、私がいたドイツの人間も或いは中国人も、自分の考えをストレートに言い合う国民だと思いますので、なかなか理解ができないと思います。世界中で大部分の国の人間は、恐らくストレートに言い合う、性質を持っていると思います。

ですので、日本人と付き合うのは、上記の理由以外から考えても、いちばん難しいと思います。しかし、日本人と付き合えば、うまく付き合っていければ、世界中のどの人間ともうまくやっていけるようになると思います。確かに、日本語は使用者人口が一億二千万ぐらいで、主に使われている地域も日本だけですが、その難解な言語を理解できるようになれば、他の言語も、まあがんばれば、できるようになっていくと思います。そうすることで、日中間だけでなく、様々な国と関係したことができるようになっていきます。 今は、一国の事だけ、特定の国々との関係だけを考える時代ではないと思います。最近流行りの言葉を使えば、「グローバリゼーション」ということを考えなければならないと思います。その為に、世界の人間を理解して、うまく付き合っていく必要性があると思います。その為の手段として、理解が難しい日本人とうまく付き合えるようにして、その後にどんどん手を伸ばしていってほしいということを思って止まないのです。

ですけど、もう一つ、大げさではない事を言わせていただきますと、私は今、主に、日本へ留学を希望する学生達を指導しています。彼らが日本に行った時、私が思うのは、「日本人はどうして日本語ではなく、特に英語を中心とした外国語の方を一生懸命やろうとするのだろうか。なんで、外来語ばっかり使いたがるのだろうか」というような、ちょっとした失望感を持つのではないかという事です。日本人自身も、どちらかと言ったら、外国語の方に目が向いているような気がしてなりません。私自身もそうでした。でも、それによって、改めて自分の母国語である日本語の特徴等にも興味が沸いてきまして、この仕事に面白みを感じるようになっていますが。

ですので、一生懸命に日本語をやった人間であればあるほど、失望感を覚えそうでならないのです。そうならない為にも、私は、前に述べた事を念頭においているのです。

ここまで読んで頂いた方々には、「ちゃんと日本語を教えているか」と疑問に思われるかと思いますが、それは、私は、どんな理想を持っていても、私の職務は「日本語を教える事」ですので、「学生達が日本に行っても決してうろたえる事がない」様に、日々その指導の為の努力を怠たらず、全身全霊をもって指導しております。

「世界の人間とうまくやらせる為に、敢えて日本語を勉強させて、難解な日本人とうまく付き合えるようにする」。これが私の思いです。勿論、「日中の掛け橋」という考え方もよいと思います。まず、日本と中国との関係を考える事も重要ですので。

これをお読みになる方々は、私よりも人生経験も豊富で、或いは、世界の事をもっとご存知の方々もかなりいると思います。私の日本語教育に寄せる思いは以上ですが、いろいろな意見をお聞かせいただければ幸いです。

恐怖体験

金丸 恵美(本渓衛生学校)

本渓市へ来て、1ヶ月半が過ぎました。本渓市は人口156万人の小さな街です。その中で外国人は15人で、日本人はわたしを含め2人です。街を歩けば、外国人だということで、注目を集めることができます。そんな中、わたしは世にも恐ろしい体験をしましたので、お話ししたいと思います。

それは、赴任して三日目に見知らぬ訪問者が私の宿舎に来たことから始まりました。夜10時頃突然誰かがわたしの部屋のドアをノックしたのです。こんな時間に学生でもないし、誰だろうと思ってとりあえず「どなたですか。」と聞いてみました。そしたら、早口の(わたしにとって)中国語が返ってきました。わたしの中国語力で聴き取れたのは「水」という単語一つだけでした。その単語から頭をフル回転して推測してみました。そしたら、前任者が下の階の人が漏水の件でよく苦情に来て困ったという話を思い出しました。そのため下の階の人だろうと勝手に解釈して、「あした修理の人を呼びます」とつたない中国語で応えました。そしたら、相手はもっと早口の中国語でまくしたて始めました。その時点でわたしは冷静さを失い、恐怖におののきました。ドアから一番遠い所へ非難して、早くこの見知らぬ訪問者が去ってくれることを祈りました。でもノックする音はだんだん大きくなるばかりで、見知らぬ訪問者は一向に去る気配がありません。そんなことが30分も続いたので藁をもつかむ思いで、学校の事務所に電話をかけました。そして、知っている中国語の単語を全部組み合わせて、何とかこの状況を一生懸命説明しました。しかしその努力は空しく、「不要打開」の一言だけで電話を切られてしまいました。そうこうしているうちに、何度もドアを叩く音を聞きつけた近所の人達がドアの前に集まってきました。やっと助けがきたと一安心したのもつかぬ間、今度は近所の人達までわたしのドアを叩き始めました。わたしは半泣きになって、ドアの前で震えていました。2時間後事務所から電話をもらった日本語の先生(中国人)が駆けつけてくれて、万事解決に至りました。

結局、見知らぬ訪問者は水道会社の人で、メーターを見に来たのだそうです。前任者が本帰国してからわたしが赴任するまでの間、宿舎に誰もいなくて見に来られなかったのだそうです。わたしは死ぬほど怖い思いをしたのですが、水道会社の人も住人が部屋にいる機会を逃すわけにはいかないと必死になってドアをたたいていたそうです。わたしは中国人の仕事熱心な態度に感心した反面、あまりにも身勝手な態度に腹の中が煮えくり返る思いをしました。

その後1ヶ月半の間、日本の常識では考えられないことが多々あり、その度に度肝を抜かされました。その中で一つ学んだことは、この広大な大陸、中国で暮らしていくためにそれに負けないような寛大な心が必要なのだということです。これから中国に住む上で、中国語の勉強だけではなく、中国人の価値観を少しでも理解できるよう頑張ります。

日本人教師の会HPの紹介

(2004年5月15日・山形 達也

internetを見ると3年前の2001年 4月?11月の教師の会の活動が記録されたホームページが見つかる。会員の中には、現会員の石井・呑山・長沢・多田・諸先生の名前も見える。作製は山口智子先生である。

その後森岡先生作製によるホームページが2個独立に作られて存在していたが、一つは消滅し、残りの一つが現在のホームページに受け継がれた。

河野先生とともに山形達也がホームページの係となったのは、昨2003年9月の新学期であった。山形はWindows PCでは全くの素人だったが、河野先生も一緒だしMacの経験が長いので何とかなると思っていた、しかし、WindowsはMacから見ると極めて使いにくく、河野先生と手分けして作製を進めていたけれど、Home Page Builderというソフトでホームページの私の担当分の原型が出来たのは、何と河野先生が2月初めに帰国された後の、もっと後の春期授業の始まる頃だった。

3月11日にこれも苦心の挙げ句やっとuploadして、internetの上で初めてホームページを見たときの喜びは忘れられない。

今曲がりなりにもホームページを自由に運営できるようになってみると、数ヶ月もの間、河野先生の足をひっぱりつづけていたことを大変申し訳なく思い起こす。最初は森岡先生の原型のホームページにやっと新しい情報を付け加えただけだったけれど、今は多くの先生がたのご協力も得てどんどん内容が豊かになってきた。会員の方々に活用して頂けるよう、そして外部にとっては有益な情報源となるよう今後も努めたいので、ますますのご支援をお願いしたい。

このときのHPはGeocitiesのサイトで作られていたが、すぐにGeocitiesサイトが閉鎖されてYahooのサイトに移行された。2009年から中国でYahooサイト自由にアクセスできなくなったので、GoogleサイトにそれまでのHPの主な部分を移植した。Googleサイトへのアクセスも頻繁に干渉されたので、あちこちのサーバーにサイトを作ってHPを生きながらえさせる努力をした。

2008年から瀋陽日本人教師の会のメンバーが日本で同窓会を始めたのでその同窓会のサイトをGoogleで作った。山形達也の2014年の帰国に伴い教師の会のサイトは更新されることはなくなったが、同窓会のサイトの中に保存されてて、瀋陽日本人教師同窓会の名前のもとに運営・維持されている。

2023年12月19日 山形 達也