第16号-2

初めての日本の生活

楊 志宏(瀋陽薬科大学2001年卒業)

2002年1月 神奈川県・横浜市へ

慶応大学大学院生命理工学研究科博士課程1年(バイオ分子化学・佐藤智典研究室

一昨年のちょうど今の時期、今住んでいるアパートに引っ越ししてきて、大家さんからゴミ捨て方法について説明してくれた。「可燃ゴミは火、木、土の朝九時まで出して、缶や瓶など不可燃類ゴミは水曜日の朝にしか出せない、夜の時にゴミ出すのが禁止され、、、」聞いているうちになんだかどこか聞いたことがあるのを気がした。おかしいなあ、そんなはずでは、、、と思ったら、そうだ、たしか以前中国で日本語授業の時に、似たような、むしろもっと複雑な聴力問題に会ったことがあるじゃないですかと、思い出した。その一瞬、これからの日本での生活はなんとなく恐くなくなってきた。なにしろ、人との直接のコンミュニケーションは緊張感を感じさせる聴力テープを聴くよりずっと楽だからさ。

「日本での生活は大変でしょう」などの言葉はいつも国内の友達のメールに読んだ。ん??、なんだろう、もちろん大変なところがあるが、楽しいこともいっぱいあるよ。もし私のごく普通の一日の生活を見れば、日本での留学生活は大体分かると思う。

朝7時ぐらい起きて、朝御飯済ませ、お昼の弁当を用意し、駅に着いたのは大体八時、ちょうどラッシュアワーの時期だった。電車の中ですでに人いっぱいで、もうこれ以上入られるわけがないと思ったが、ホームで待っている人々が一人一人文句言わず乗って行った。その時、人間の体の柔軟性の凄さに感心してきた。ただし、周りの香水のかおり、汗臭、髪の毛につけたスプレーの特有の匂い、、、冬の時さえこのようになって、夏の時にどんな状態になるのか皆さん御自分の想像力を発してください。よかったのは、家から学校までひと駅だけだから、このラッシュアワーの苦しみはただ2、3分に続くにすぎないが、研究室の他の学生さん達には、大体学校まで来るのが一時間から二時間までかかる上に、途中で一回か二回ぐらい乗り換えなければならない人がいっぱいいることが事実である。なぜ皆は学校の寮に住まないと言うと、そもそも日本の大学に全寮制度はないから。

公立大学には学校の付近に留学生向けの比較的安い寮が少しあるが、慶應大学のような私立大学のキャンパスには安い寮がほとんどない。ただし、東京都内で分散する大学側から借りたアパートに比較的安く入居できる。ほかに、国際会館などの政府が建てる寮があって、留学生であれば、誰でも申し込める。ただし、競争者は各大学からの各国の留学生であるため、それほど易しく入居できないと思うが、、、

つい遠回してしまった。で、九時前研究室に着いたら、まだ誰もいない。研究室は九時半からであるためだ。ちなみに、慶應大学の場合では、学部生の授業が始まるのは朝九時である。だから、いつも日本人の学生達が中国の大学に朝授業が始まるのが八時であり、六時、七時に起きるのが全然珍しくないということを聞いた時に、その想像できない表情は今でも忘れられない。全体に言うと、日本人の大学生と中国の大学生に二三時間の生活時差がある気がした。私的には、中国で大学生活を過した時に、朝六時、七時に起き、夜十時、十一時に寝るのが普通であったが、今は深夜二時ぐらい寝て、翌朝七時、八時起きるのが普通になってきた。あれっ、時差と言うより、むしろ日本でいる時に寝る時間を減らしたじゃないでしょうかと、ここまで読んできたあなたも気付いたのでしょうね。そう、日本に来て最初の時に、毎日随時に眠気に襲われ続けた。特に日本でお昼休みと言う習慣がないから、お昼御飯を食べ終わってから、すぐ仕事を始めるのがお昼休み習慣がある中国人にとってつらいしか言えなかった。もちろん眠いと感じるのは私だけではなく、日本人の学生に二時間ほどの通学時間のうちに電車の中に何をしているかと聞いたら、寝るって一言と答えるのは九十パーセント以上であった。確かに朝学校に行って電車に乗る時にも、夜帰る時に電車に乗る時にも、座っている人にしろ、立っている人にしろ、体が傾いて寝ている人が多数であった。

研究室に着いたら、実験を準備したり、論文を読んだり、真面目な一日の研究生活が始まった。日本人学生は研究上に独立性がかなり高いことが、この二年間の研究室生活を送っていたうちにつよく感じたことだ。指導教官から自分が興味があるテーマを選んで、後は全部先輩に学んだり、論文を読んで自分で試しながらすこしずつやり続けるのは普通である。研究のやり方には個人差があるが、留学生にとって、一つ大きな壁があり、それは研究室用言葉である。自分の専門に関する専門用語はもちろん大切だが、研究室での生活に欠かせない実験道具および研究室にある各小道具の名前をちゃんと覚えた方がいいと思う。「あの、あそこのホチキスちょうだい」って頼まれて、あほみたいに頭真っ白にそこに立ったままの人は楊さんであった。

実験が始まると、時間が経つのは速かった。気付いた時に、もう夜十一時になった。夜なん時に帰ってもいいのかというと、それは研究室によって違い、決まりとかないですが、学生達がほとんど朝遅いから、夜は遅くまで実験をやる人が多い、時々終電に間に合わなくて研究室に泊まる人もいる。

駅に向いた途中、翌日の弁当の材料がきれたと思い出し、ついでに駅の側にあるスーパーに寄って、買い物した。日本にやってきたばかりの時に、スーパーでの商品の値段をいちいち人民弊に換算する習慣があるため、なかなか手が出せなかった:さすが物価が世界一の東京であって、150円一個のりんごの前に、思わず以前瀋陽にいた時に5元で1.5キログラムの美味しいりんごが買って、がんがん食べた時が懐かしくて懐かしくて。日本に来る意欲がある皆さん、来る前に飽きるほど果物を食べておくのがお勧めだよ。

駅から家までまだ十何分かかった。星空の下に、擦れ違ったのは残業で遅くなって急いで家に帰るサラリーマン達と塾から出て自転車で家に向かう活発な中学生、高校生達、たまには居酒屋で一杯を飲んで、千鳥足で楽しそうになにか呟いているゆっくり歩くおじさんの姿もあった。皆にきっと家に待っている人があるでしょうねと思ったら、思わず中国にいる家族と友達のことを思い出し、懐かしくなってきた。

ホームシックでくよくよするようになってしまったことも時々あるが、もっと多くの時には今の異国文化に飛び込んで、各国からの留学生や多くの日本人と出会い、仲良しになって、自分にとってこの斬新の世界を満喫していった。百聴は一見にしかず、日本に興味がある貴方は、御自分の身で我が国と一衣帯水の伝統とハイテクと共存している日本での生活を味わっていかがでしょうか。


留学生活

 王 静(瀋陽薬科大学2002年卒業)

 2002年9月 大阪府 吹田市へ

 大阪大学大学院蛋白質研究所修士課程2年(蛋白質化学構造部門・関口清俊研究室

今は多分一番苦しい時期かもしれないです。留学生活は青い空、笑顔、楽しい歌ばかりではなく 進学の圧力、高い物価、授業料、つらいアルバイト、失敗な実験、空前な寂しさなどが本当の面目です。それを耐えない人が少なくはないです。

新聞を読むとき いつも中国人犯罪が目に入ります。犯罪の人は研修生、経営者より 二十年代の就学生、留学生のほうが多いです。そのようなニュースを見て中国人としての私は心が痛いです。ある留学生はわずかの10,000円(人民幣約680元)のため 日本人のお婆さんを殺しました;ある留学生は深夜 刀を持って24時間便利店に入って お金を盗もうと思ってすぐ保安に逮捕されました;ある有名な大学の女の留学生は風俗店で非法就労のため 強制的に帰国させられました。このような情報が毎日絶えないように出ています。何是留学生の犯罪が多いのだろうか。

中国にいるとき その人たちは我々と同じような正々堂々な大学生なのに何是日本へ来て 犯人になったのでしょうか。いろいろ原因があります。その中一番と考えられるのは 経済の違いです。皆さんは日本の物価が高いのを知っていると思いますが 具体的にどのぐらい高いのか知らないと思います。普通の市内バス切符は220円(人民幣約15元)、リンゴ、トマト一つ約100円(人民幣約6.8元)、10kgの米はやすくでも3,000円(人民幣約204元);一ヶ月の家賃は大体40,000円以上(人民幣約2,720元);国立大学一年間の授業料56万円(人民幣約38,080元)、私立大学ではその3、4倍ぐらいです。就学生、留学生たちは自分の収入がない一方 普通の中国家庭もそんな高い送金ができないです。この状況で留学生たちが 次々犯罪の道に巻き込んでいるでしょう。

前に言った10,000円のため殺人した留学生は後 こう言いました:次の日授業料を支払うの締め切りです。もし授業料を払わなかったら学籍が無くなります。仕方が無く民宅に入ってお金を盗もうと思いました;風俗店で非法就労の女の大学生は来学期の授業料のため アルバイトをしなければならなかったです。しかし私立大学なので授業料は極めて高いので 普通のアルバイトでは 必死に働いていてもお金がたりなかったです。風俗店の収入が高いので だから…その若者たちは 来日前に遠大な志向を抱いて 帰国の際にもう犯人になりました。親族の期待、自分の未来も炭になりました。留学の道は太陽の光、鮮やかな花ばかりではなく 暗い隅で絶えない涙も流れています。だから 私は在日留学生として これから日本へ来ようとしている人々に もう一度真剣に考えていただきたいです。

日本へ来て 楽しい生活を過ごすためではなく やはり知識、技術を身につけるため、自分の理想を実現するためです。そして 目標のためにどんな辛さ、寂しさ、苦しさも耐える覚悟をしていなければならないです。

私は日本へ来て服、食べ物、娯楽など 国にいるほどよいわけではないです。夜遅くまで、休みなしに実験をするのは普通です。寝不足とか 誤解されるとき自分の気持ちをちゃんと日本語で説明できないとか つらい時話できる友達がいないとか 病気になっても誰も知らないとか 日本人たちが自家に帰って親族たちと楽しんでいる祝日に私は一人で国の両親、友達を思い出すとか これらが本当の留学生活じゃないかなと私は思っています。

しかし 私は全然後悔していないです。日本へ来て 視野が一段に広げられたと思います。今 私は沢山の機会でレベル高い学会に参加することができて 各国からの学者と会え いろいろな世界的に有名な先生の講演を聴くことができます。 最初の時は 本当になんにも分からなかったです。しかし そのうち段々分かるようになって世界的な視野を育ち 今私は高い目標を目指して努力しています。そして 留学生としての私は 日本人の家でhome stayする機会を得られ 地元の人々と交流し 日本歴史、文化を学び また 様々な国からの留学生たちと友達になって いろいろな話をして この世界は本当に思うより広い、面白いと分かりました。

留学の苦しさも、楽しさも人生の第一財産ではないのでしょうか。

自分の留学経験を皆さんに紹介して やはり皆さんが本当の留学生活を十分に理解して 冷静に考える上で 自分の目標を確立し 留学するかしないかを決めていただきたいです。留学生活は楽しいことばかりではないです。




幼い時、中国で「世界各地」という世界各地方の風俗習慣を紹介するテレビ番組があった。富士山、桜、新幹線はその番組から得た日本の最初のイメージである。故郷は中国東北地方にある大連という綺麗な臨海都市であり、日本と“一衣帯水”の近隣である。毎年開催されている大連国際服装節の舞台に日本のデザイナーの作品が大活躍している。私は、そういうことから日本を知り始めた。

なぜ留学先に日本を選んだのか

 婁 Weiwei(瀋陽薬科大学2002年卒業)

 2002年8月 静岡県 静岡市へ

静岡県立大学大学院薬学研究科修士2年(生薬学・野口博司研究室

大学時代の最初の専攻は漢方薬学であったが、成績が優秀であると、個人の希望により大学三年目から日本語クラスに入ることができた。私は迷うことなく日本語のクラスを選択し、勉強し始めた。二年間に渡って日本語と日本の歴史や文化などを勉強し、美しい着物を試着したり、歌を歌ったり、芝居を上演したりして、日本という国をとても身近に感じることができた。日本人の先生方が親切にまた熱心に教えてくださったお蔭で、日本語のレベルが急速に上がり、クラスの学生達のほとんどが短期間で日本語能力試験(一級)にも合格することができた。しかもその後の、日本語クラスの薬学専攻の授業は日本語で行われ、日本の大学院へ進学することは当然の夢であり、憧れであった。 また、瀋陽薬科大学では、多くの先生方や先輩達が日本の大学に留学したことがあり、日本の薬学研究者との交流が非常に密であるため、日本の薬学分野が世界の最先端レベルにあることをよく認識させられた。私の夢は、将来、世界的な大きな視野を持つ優秀な薬学研究者になり、今後の社会に備え、また広く世界の人々の健康のために貢献できる者になりたいということである。

日本に来てちょうど一年経った。日本の社会の文化や生活の便利さに驚き、また、親切な日本人の心の温かさも印象に残っている。「日本に来て本当に良かった!」

奈良にての一年

張 暁寧 (瀋陽師範大学外国語学院日本語科教師)

私は2002年10月から2003年10月までの1年間、中国政府派遣研究員として日本の奈良女子大で日本近代文学を研究しました。

一、研究について

まず私の日本滞在の第一の目的であった日本文学の研究についてお話したいと思います。

私は川端康成を専門に研究しており、日本でも彼の研究を中心としました。中国でもノーベル賞受賞者である川端康成についての資料は比較的充実していましたが、やはり本場日本では、中国ではなかなか入手できない資料を容易く収集することができました。また、沢山の研究論文に触れ、日本の最新の研究動向を把握することができました。これら豊富な資料や情報は、今後の私の研究をスムーズに進める上で大変役立つでしょう。また中国国内に留まらない視点を与えてくれることでしょう。

また奈良女子大学文学部教授の弦巻先生の講義を受けて、先生の多角的な視点、研究対象に対する独特な着眼点、切り口の鋭さに驚かされました。私は弦巻先生から学ぶことは大変多くあることを実感し、それを帰国までにできるだけ吸収しようと努力いたしました。

その結果、私は研究対象をより広い視野をもって捉えることができるようになり、また、様々なアプローチができるようになりました。そして、新しいテーマを発見することもできました。

それは泉鏡花です。日本の近代文学研究には、“近代文学は近代自我の問題や、リアリズム系の文学などを展開して来た”という傾向があったために、研究者達は芸術至上主義の泉鏡花を等閑視してきました。しかし、近年の研究では、彼の豊かな創作力、感覚的印象的な麗筆を再評価していますし、弦巻先生をはじめ、泉鏡花を取り上げる研究者は次第に増え、彼の作品には明治時代の日本人の理想と現実が盛られていることを認めています。そして、近代文学上大きな影響力を持った作家であったと実証されています。しかし、中国の研究ではまだ泉鏡花を傍流の作家として、彼を研究する研究者は少なく、代表作以外は紹介されていないという状況です。私は、この見過ごされて来た泉鏡花という作家が、日本文学史で本来占めるべきであった位置を検討し、正しい評価をもって彼を中国に紹介したいと思っています。そうすることで、中国においての日本文学研究が公平なものとなり、欠落した部分を補うことができるのだと思います。

このような事から、中国の日本近代文学研究は、何十年もの研究歴史があり、幅の広い研究がなされているけれど、何らかの偏向のために正当な評価を得ていない作家、研究の盲点となっている事柄は他にもまだまだあるということに気付きました。私はこれらのことを再検討し、そして、日本で養った広く多角的な視野を生かして、中国の近代文学の発展に貢献したいと思っております。

二、忘れられない奈良の方々

私は日本に行ったばかりの頃、初めてのことにただ戸惑うばかりでした。いくら日本文学を専門にし、日本語の教師といっても、中国で身に付けたものですので、日本文化や風俗・習慣、生きた日本語には精通していませんでした。それに、末期の肺癌で病床にある父親、母親を偲んでいる息子、医者である夫など、祖国に残して来た家族のことも気がかりでした。こんな中、私は国から期待されているのだから頑張らなくては、と自分を奮い立たせる一方、重いプレッシャーに押しつぶされそうでした。

そんな時、奈良市国際交流ボランティア協会主催の散策や、奈良県、奈良市日中友好協会などが主催した様々なイベントなどで多くの日本の方に会いました。そして、来日してから今までそれらの方々に大変お世話になりました。私はそれらの方々から、優しさや親切心といった恩恵をたくさん受けたおかげで、祖国を離れても充実した生活を送ることができ、研究にも専念できたのです。

奈良教育大学の田渕先生は日本文学を専門とする私のために歌舞伎、能楽、民謡や、若草山山焼きといった日本の伝統文化に生で触れる機会を与えてくださったり、広島など各地を見学させてくださいました。奈良市役所の西手さんご夫婦は、貴重なお休みの日に私を京都の国立国会図書館に連れて行ってくださいました。その上、私に不自由があったらいつでも力になると言ってくださいました。国際交流ボランティア、日中友好協会の方々は、様々なイベントを開催して歓迎してくださいました。

これらの方々は私のように祖国を離れて心細い思いをしているものに、思いやりを持って接してくださいました。それも物質だけでなく、精神的なもの、「知」への乾きをも癒してくださいました。私はこれらの行為は「雪中に炭を送る」ような温かい思いやりを持つ素晴らしい人間性、そして文明的に洗練されている高尚な精神に由来しているのだと気付きました。

私は一年の奈良滞在中において、研究者としても、一個の人間としても得たものは数多く、それらは必ず私の人生に大きなプラスとなるでしょう。きっと終生忘れられない経験となるに違いありません。

私は、中国の一介の大学教師ですので、今までお世話になった方々にはなんの恩返しもできないかもしれません。しかし、一年間の日本での研究生活を通して日本という環境・風土や日本人に生で触れ合いその中で得たものを、今後大学の教壇でより多くの学生に伝えていきたいと思います。

日本の印象

呉 輝(瀋陽師範大学外国語学院日本語科教師)

1回目留学1996年(2か月)

2回目留学2001年4月?2003年3月

日本についての最初の印象は成田空港から北浦和にある日本語国際センターへ向かう途中で見た風景でした。車の流れに巻き込まれて高速道路なのに進まない時もありました。バスの中に座っているわくわくしていた私は車窓から自分の目で東京の風景を眺めました。印象深かったのは二階建ての家と家の間にスペースがほとんどないことでした。東京は混んでいるなあ、1200万人がどういうふうに生活しているでしょうか。国際的都市である東京はどこへ行ってもめちゃくちゃ混雑ではないでしょうか、という疑問が湧いてきました。

二ヶ月の研修生活が始まりました。授業のほかに、東京見物するのがメイン。上野、新宿、銀座、渋谷、原宿……人が多いのは確かですが、びっくりしたのは無秩序なところはぜんぜんないのです。エレベーターに乗る時、ちゃんと右側を空けていて、聞いてみたら急ぐ人のためだそうです。電車に乗る時、先に着いた人が列を作って待っています。電車が1分も遅刻しないで必ず時間通りに到着。たいへん感心しました。東京駅は毎日どれほどのお客さんが通ったか分かりませんが混乱の風景がまったく見られないのです。ホームへの通路は迷路のように見えますが、矢印が付いていて外国人一人でも迷わずちゃんと電車に乗れます。これは素晴らしいなあと思っています。ディズニーランドに行った時、待つ時間は一時間だと書いてある所から測ってみると確かに一時間でした、間違いなく。みんな静かに待っていて気が短くて割り込もうとしている人が一人もいなかったのです。トイレの待ち方も初めて体験しました。入り口の所で一列で順番に入るのに感心させられました。

あらゆる所へ行ってみてどこも一糸乱れずに整然と行進しているようです。研修が終わっていろいろ考えさせられました。日本人は皆、枠の中で行動して他人に迷惑をかけないように常に気をつけています。誰もが規則をよく守っていますからこそ秩序ある社会を築き上げたのではないでしょうか。よく耳にする言葉は「すみません」と「ありがとうございます」なのです。財布を電車の中に忘れていて慌てて急いで探しに戻ってみたところ、そのまま駅員の机の上にあったのは普通です。こんな日本が大好きです。

日本の繁栄は高いビルや新幹線などというよりこんな繁栄を支えている国民の素質のほうがもっと人を惹きつける所ではないかと思います。これすべては教育に繋がっているのではないでしょうか。明治維新以来、国民教育が重視されて大きな成果を収めました。文盲もなく、大学進学率が30%を超えて世界でもトップのほうです。日本が先進大国になったのはこういう教育のおかげではないだろうかと思います。 四年後、再び日本に来てテレビのニュースは殺人事件が多くなって世間がちょっと物騒になってきたような気がします。二十世紀の最後の一年、特に少年による犯罪が多かったです。バスジャックとかテレクラ事件とか。殺人動機を調査してみたところ、恋とかお金とかのためではなく、ただ殺したい、経験したいという理由。これはちょっと変。日本の若者は今どうなったのでしょうか。欲しいものがあったらほとんど手に入れることができて物質の面は大変豊かですが、精神的な面は何か物足りないようです。中学や高校を見学したことがありますが、先生の話によると、いじめ、学級崩壊、登校拒否など大変だそうです。今まで日本の教育は成功しましたが、今は新しい挑戦に控える時期が来ているのではないかと、最近そういう考えはよく頭の中に出てきます。教育制度をどう改革するかこれはたぶん日本の教育家たちが考えざるを得ない問題かもしれません。

日本での留学生活

葛 寧(瀋陽師範大学外国語学院日語系4年)

2002.10?2003.9

北海道教育大学留学

「人生は旅をすることである」と言うことわざが中国にある。今までの人生の中で一番大きな旅は日本に留学したことだ。その一年間の留学生活を通して、中国にできない体験と、昔なかった感想とも結構できた。振り返ってみると、楽しいことと比べると、辛いこともたくさんあった。それでも、私は留学してとても良かったと思っている。

私が日本に留学したのは2002年で、最初の頃は、日本語の練習と思って、恥知らずにも自分の周りの人に声をかけたりしていた。一番困ったのは挨拶に続けて何を話せばいいのかということだった。ちゃんと話を続けられるように、私は人と話す前に、必ず話したい話題を探して、その話題について自分が知らない単語を調べたりしていた。そうしているうちに、自分がわざわざ話題を探さなくても相手から得られるではないかと気づき、相手が喋ったことに対し、自分が疑問に思ったところや自分の意見を話せば、話し続けていけるのではないかと思った。単なる日本語の練習から、コミュニケーションを取れるようになり、自分の進歩が嬉しかった。やはり、コミュニケーションの楽しさを日本語の勉強を通して教わった。そして、様々な文化への好奇心や一人の人間としての自信も与えてくれた。自分自身がいろんな人と話し合ったり、意見を聞いたりすることにより、自分の人生観、家族観や価値観など大きく変わった。日本への、世界への理解も一層深まった。本当に日本に留学して良かった、日本語を勉強して良かったと思う。

留学していたときは、北海道教育大学の学生寮に住んでいました。初めて一人暮らしを経験しましたが、何ヶ月か後、日本語が上達になるにつれて、日本人の学生との交流もうまくでき、新しい友達ができた。いろんなことについて喋ったり、一緒にスポーツをしたりして、気持ちも、来たばかりの時の不安が消え元気になった。そして、留学生たちは12月の1カ月間はホームステイをした。日本に来てからずっと寮生活で、普通の家庭生活がわからなかったのでこれはいい勉強になった。日本人の家庭に入って、皆は私を家族の一員のように迎えてくれた。だが、最初の時、自分が外国人だから、向こうは自分をどう対するかな、と心配した。でも、皆は親しくて、私に外国人のような気持ちをずっとさせない。すごく感動した。時間が経つにしたがって、家族の皆との感情が深くなり、その後、日本の家族ができた。日本人の友達や家族の皆との交流を通して日本人との付き合いが中国にいた時に思ったほど難しくないと感じた。 いまでも、もう帰国して皆は一緒ではないが、いつもE-mailで連絡をしている。日本人は、私にとって、友達だ。

日本にいた一年間を振り返ると、それらの体験はきっと自分の将来に繋がっていると私は信じている。日本人の皆さんから、いろいろ教わった。この一年間の留学生活は、私にとって、一番大切な宝だ。日本、ありがとう!

留学体験記

謝 放(東北育才外国語学校 2002年卒業)

2002年10月 東京へ

東京工業大学開発システム工学科電気コース(情報専門)2年生

広く世界を知りたい、いろいろなことを肌で感じたい、そして、自分自身の可能性を探るために日本に留学することにしました。 2002年の10月に留学生として日本にやって来まして、2003年4月に東京工業大学に入りました。日本に来て、わずか一年間半ですが、自分の能力を以前より大幅にのばしたと思います。 今から考えると、最初日本に来たとき、わからないことがいっぱいありました。電話のかけ方とか、ごみの捨て方とか、買い物の仕方とか。全部ゼロから勉強しなければいけません。そして、日本に来ると、一番問題になるのは何でも自分でやらなければいけません。 それは「当たり前じゃない?」と思う人がいるかもしれませんが、日本での生活と中国での生活はちょっと違いがあると思います。日本で一人暮らしは毎月の電気代金、水道料金などは自分で払わなければいけません。そして、毎日自分で買い物をして、料理を作らなければなりません。中国ではそのような体験がぜんぜんありません。そして、日本の社会は世界一忙しいと言われています。本当にそう思います。

留学生としての私たちはもう一つ大きな問題に直面しなければなりません。それは寂しいということです。私はたくさんの留学生の友達と話をしたことがありますが、多数の人は時々自分の存在感を感じられません。あるとき一緒に話す人が見つかりません。さびしいと思っています。

つまり、留学するといろんなことがあります。楽しいこと、つらいこと、驚くこと、うれしいこと、面白いこと、嫌なこと、苦しいこと、これらは貴重な体験になると思います。(写真は長澤裕美先生と)

日本留学の体験記

金 Linlu(東北育才外国語学校 2002年卒業)

2002年10月 京都へ

早稲田大学・商学部商業貿易金融コース2年生

私は平成14年10月に来日し、最初の半年は京都の日本語学校で過ごしました。京都は美しい自然と豊かな史跡・文化財に恵まれた町で、そこにたくさんのいい思い出が残っています。平成15年4月に東京で大学生活を始めました。今は早稲田大学に留学しています。

東京は政治・経済・文化などの面で高度な都市機能の集積を有し、私は最初東京みたいな賑やかなところに惹かれ、住んでよかったと思いました。でも、最近は同じ賑やかさに少々疲れを感じています。しかし東京で暮らすことは冒険だと認めるしかありません。 今、文京区に住んでいます。学校まで自転車で15分程度の、交通も便利なところです。朝9時ごろ大学に行って授業を受け、午後5時から図書館で勉強したり、体育会館でトレーニングをしたり(最近太りぎみなので、ダイエットに効果ありの走る機械をよく利用します)、もちろんアルバイトもします。アルバイトといえば、私はいろんな体験をしました。居酒屋での接客、ビデオの販売促進(お客さんからチップをいただいたこともあります)、作家の事務所での事業補助など。中でも池宮彰一郎という作家の事務所でのバイトはちょっと特別で、面白い想い出になりました。仕事の内容は電話応対、来客接待、昼飯仕度などで、その他に犬の世話もやりました。そのトニーという大型犬との付き合いは最初結構苦労しましたが、慣れたら私とわくわく散歩に行ったり、玩具で遊んだり、とても仲の良い友達になりました。アルバイトを通じ、貴重な社会勉強ができました。

週末は時々地図一枚だけで下北沢や渋谷などをさまよったり、お金があれば買物をしたりするのが好きです。最近は人が多い電車や繁華街が嫌になったので、家にいる時間を大切にします。面倒を見るのが苦手な私も、サボテンやアロエなどの植物を飼って、毎日家に帰ってなにか生き物が待ってくれる感じがして、一人暮らしの寂しさもなくなります。

以上は私の留学生活です。自ら選択した道ですが、母国の生活との違いもあります。学校の課題やテストに追われ、更に一瞬の精神的な隙間に乗じてやってくるホームシックに襲われる時もありますが、それらの経験はいつか大きな財産になると信じて、留学生活をよりエンジョイするように頑張ります

親切と幸福の体験(半月の研修旅行を終えて)

李 金(東北大学 外国語学院 日本語学部 4回生)

大学二年生のとき、偶然のチャンスで一度日本行ったことがある。それは半月ばかりの研修旅行で、あまり短くて、行く前に特に楽しんでもいなかった。ところが、乗った飛行機が関西国際空港に近づくにつれて、何のわけか私の心もドキドキしてきた。「もうすぐ、この足で日本の土を踏む。私と縁のあるこの土地に。」と思わずにはいられなかった。

飛行機を降りると、先ず飛行場の広さに驚いた。関西空港は埋立地の海上空港と前からも知っていたが、こんなに広いとは思わなかった。電車に乗って飛行場を出た。それから迎えのバスで、目的地の関西国際交流センターに着いた。それからの十数日は、東京、京都、奈良、広島などのところをぐるぐる回った。いずれもきれいなところで、日本特有の文化雰囲気に触れるようになった。めちゃくちゃ楽しかった。いい思いでがたくさん出来たが、今もまだ心の中に残った、酒のように醸していいにおいを漂ったいくつかのことをあげる。

それはある午後、センターから借りた自転車に乗って、カメラしか持たないで、気の向くまま、その町を回った。一所懸命橋の頂点に上って、一息するとき右の方を眺めると、広々とした海の向こうに、飛行場は夕焼けの中で西の空とともに一面に真っ赤に染められた。涼しい風が汗まみれの顔を撫でるように吹いて、ほんとにいい気持ちだった。道に迷って、その道を通ったおばあさんに聞いたら、親切に教えてくれた。後になるほど、その親切さは強く感じ取って、今はその夕焼けと海風よりも強烈に頭の中に映じてくる。

もうひとつ、センターのスケジュールに特別の活動もなかったので、私はまた一人で出かけた。スーパーとか、店とか、本屋とかなどいろいろなところに寄ったので、帰る時間はついに遅くなって日が暮れた。帰る道を覚えているかどうか自信がなかったので、焦りながら道を急いだ。やっと自分の歩きなれた道についたので、安心した。そのとたん、ある公園のようなところに、花火を楽しんでいる人が見えた。三、四人で、一家族のように見える。子供が一人、小さな花火を振っていた。ずいぶん離れていたのに、その笑い声が聞こえてくるような気がした。幸福の瞬間だ!その家族にとっても、私にとっても。

この半月間ほどの旅は、初めて日本と直接に接触する経験だった。いろいろなことが、日本について鮮明な印象を与えてくれた。チャンスがあったら、またその親切さと幸福を体験してみたいものだ。

留学生活で感じたこと

馬 保彪(瀋陽師範大学外国語学院日語系教師)

2001年9月~2002年9月

北海道教育大学に国費留学

2001年9月の末頃、日本語学習者にとっては日本に留学できてうれしいなあ、という気持ちでジャパンに渡った。一年間の留学生活は楽しかった。印象深いことが沢山あった。

まず、「マイナス」の面について少し触れたい。行ったばかりの時、「ぜんぜん」慣れていない。というのは建物はほとんど灰色なので、何となく人に暗い感じがした。僕が住んでいる町と比べてちょっとなあと思っていたが、「きれい」というところから見れば確かに瀋陽よりねえ、とこういうふうに考えたこともあった

次に、「すばらしい」面についてひとつ例に出して話したい。例えば交通方面は世界でもベストスリーに入れると思っている。僕が留学していた札幌もそうだった。今後チャンスがあればまた札幌に行きたいけど、新幹線はいつ北海道にできているかな。日本はさすがに発達した国であって、いろんな面ですばらしかった。

日本に行ってから面白いことをたくさん発見した。例えば、日本料理を作るのにはまったことがある。見た目はきれいだけど、味は美味しくないさ。でも日本人の作った刺身が好きだ。刺身を中国語で言うと「生魚片」という。色は鮮やかでたべたらとても柔らかくて気持ちいい。だけど切ったままで食べたらちょっとさびしく思わない?だから、刺身に「わさび」という調味料をつけて(わさびは中国語で「芥末」という)食べると、その味は一生忘れられないものだ。

ところで、日本のテレビ局がサッカーの番組をあまり放送しないことはとっても残念だ。あるとしてもとても少ない。ほとんど野球だ。日本人はベースボールが大変好きみたいだね。テレビをつけるといつも野球番組が放送されているのだ。僕はあまり好きではない。

日本の広告はとても面白かった。独特のアイデアが入っている。だから魅力的だと思う。コマーシャルを見ると、すぐその商品を買いたくなる。それから、僕は「宇多田ヒカル」という若いガールの歌が大好きだ。彼女は作曲や作詞など、自分でやるそうだ。それに、歌には他の日本人歌手にはない独特な感じがある。

最後に留学するチャンスを下さった日本国、瀋陽師範大学、世話をしてくださった北海道教育大学の方々、ホームステイのお父さん、お母さんに心から感謝します。

深まった日本語への理解

Rui 真慧(遼寧大学3年在籍)

富山大学人文学部中国語文化コース留学中

考えてみると日本に来てあっという間にもう四ヶ月も過ごしました。まるで夢のようです。日本に来る日、乗った飛行機が富山空港に着陸した時に私は「やっと着いたなあ。」と思いました。そのときの気持ちというと嬉しさもあれば心配もありました。これから日本で勉強しながら生活するようになったと思うと本当に嬉しかったのです。でも、それと共に自分の日本語が心配になったのです。そして、一人で海外で生活するというのは今度が初めてであり、日本のみなさんとうまく付き合うことができるかなどを考えると心の中は不安でいっぱいでした。

一応、私にとって富山での生活は今まで体験したことがない新生活です。一年後、一体どうなるかは分かりません。だって、一つだけははっきり言えます。このまだ終わらなかった一年の留学生活を通して身につけたものは、私の今後の人生の道で大きな役に立つはずです。

ところで、留学生活というと楽しさもあれば苦しさもあることは言うまでもないです。富山でのこの四ヶ月間、日本人の友達だけではなくいろいろな国の友達もできて、いっしょに話し合ったり遊んだりしたような楽しい思い出があり、中国にいる家族や友達が恋しくてたまらない時もありました。でも、私はせっかく日本に来た自分に対してホームシックなどより日本語力を高めることと異文化というものを体験するほうが最も大切だということをよく知っています。私のような、日本語を勉強している人にとってこれは本当にいいチャンスです。今私が毎日話すのはほとんど日本語で、聞くのも見るのも日本語でありどんなに簡単なことでも勉強になるかもしれません。そして気をつけて観察すると、中国と日本のいろいろな違いを見つけることができます。

ところで、私が深く感じたことは日本語に対する理解でした。中国にいるとき、ある言葉について詳しく説明してもらっても十分理解できなくて、うまく使えない時がよくありました。でも、日本に来て、以前理解できなかった言葉が理解できたのです。例えば、もともと私は、「気持ちが悪い」と「機嫌が悪い」と「気分が悪い」がいったいどんな区別があるか知らなかったのです。どんな場合にどれを使ったらいいか分かりませんでした。ところが、富山に来て別にわざわざ誰かに説明してもらわなかったけど、分かるようになりました。

実はいいたい話がいっぱいありますが、考えどおりうまく進んでいかなかったようです。以上は私が日本に来て感じたものです。感想よりも自分が感じたものをそのまま書いただけです。

私の留学生活

梁 国威(遼寧大学2年)

関西大学文学部交換留学生

「自分自身を成長させるのにいい機会だ」と思って、私は日本への飛行機に乗り、たった一人で日本海を越えた。約3時間のフライトは、大きな期待と不安でとても長く感じた。早く日本に行きたいと思う気持ちの裏に、この先一年間日本で頑張っていけるのかという不安、私の心の中はとても複雑な気持ちでいっぱいだった。しかし、日本に着くと、景色や建物、目に入るものすべてが真新しく、感動で胸がいっぱいになった。

日本に到着した当日、私は大阪にある関西大学の国際交流館秀麗寮に入った.そして早速授業が始まった。授業の内容は、高校や大学一年生で既に習った基本文法で簡単だと思ったが、長い間日本人と会話しなかったから、最初は授業を聞くだけにも結構苦労した。そこで私はヒヤリングの大切さが分かりました。また、この学校ではいろんな国の人と知り合うことができた。そして、様々な国の文化を知るうちに、中国では当たり前の習慣が他国の人から見ればおかしなことであり、反対に、他国の習慣が私からすれば不思議に感じるなど、中国と他国の文化の違いにはじめて興味を持つようになった。そして、各国の料理を作りあったり、飲み会をしたりと、様々な国籍を持つ人々とともに過ごしたこの四ヶ月は、とても短いけれど、ものすごく充実した日々を送ることができた。

他の国から来た日本語を学んでいる留学生と交流する機会が沢山あった。彼らをはじめて見た時、中国だけでなくほかの国にも日本語を学んでいる学生が大勢いることにとても驚いた。欧米からの留学生たちはみんなとても朗らかで、物知りだった。中国に興味を持ってくれていることをとても嬉しく感じた。しかし、彼らと出会い、外国のことはもちろん、中国のことまで学んだ。というのは、私が自分の国のことを知らなすぎたのだ。基本的なことも知らずにとても恥ずかしく思った。それで、「中国について深く知る」はこれからの私のひとつの課題になった。

日本での生活は勉強が一番重要ですが、ほとんどの学生はアルバイトをしています。私も休日を利用してアルバイトをしています。アルバイトを通じてお金を得るだけでなく、日本語の聴力、会話も上達させることができた。また、日本人との付き合いを通して、日本の社会、文化も理解できるようになります。これは学校の授業で学ぶことのできないことだと思います。やっている時はきついですが、自分が段々役に立っていくのを感じて、とても満足で嬉しい気持ちになります。それに働いているうちに社会の厳しさも知るようになり、自立していくことを養うこともできます。苦しい経験も時には必要だと思います。

四ヶ月、今まで日本で生活した日々である。一年間の留学生活もあと六ヶ月。半年後、自分はどこまで成長できるかはまだ分からないですが、色々の国の人と出会い、彼らから、そして自分の目から多くのことを吸収したことにより、今まで関心のなかったことなどにも興味を持てるようになり、自分自身の視野が広がったのは確かのことです。この留学生活は辛いこと、悲しいことは沢山ありましたが、一緒に頑張って困難を乗り越える人たちがいたおかげで、それ以上に笑ったことや、楽しかったことがあったと思います。この留学生活で多くの人たちと出会い、そして得た思い出は私にとって忘れられない一生の宝です。

私が出会った日本

金 李虹(遼寧大学3年在籍)

九州国際大学留学中

日本に来てからもう4ヵ月になります。一言にその感想は言い切れません。ずっと本の中で感じた日本と実際にこの肌で感じた日本。私には日本が二つに見えたのです。先進国としてのすばらしさを見せたけど、その裏にある問題も見せたのです。

先に「それは良くないなあ」と思われる日本から話しましょう。これは日本人自体も嬉しく思わないことで、何とか頑張って難しい現実を乗り越えると信じているからです。大体は若者のことです。

例えば学生さんたちが勉強よりもバイトに夢中になっていること、女子高校生たちが電車の中で通り道に座り込んで化粧していること、学校が終わってからはスカートを短くまくこと、夜中にうるさい音を立てながら走る暴走族、ニュースで増えていく児童虐待事件等々です。込んでいる電車の中で年寄りに席を譲らず知らぬふりをしている若者たちからは礼儀正しい日本の姿はなかったんです。 でも、こんな問題はきっと消えていくと信じます。日本にはやっぱり進んだところが多かったんです。何よりも人を先に考えるその面が私に大きい感動をくれました。

中国にいるときと違って信号を渡る時はすごく気持ちが良くなります。車は赤信号には絶対止めてくれ、いつでも人優先です。バスと電車は時間通りで、遅れたりすることが珍しい方です。ワンちゃんを連れて散歩に出かけている人はちゃんとウンチはビニル袋とかに持って帰ります。銀行でもスーパーでもどの店でも店員さんは笑顔が絶えず、気持ちを込めた「ありがとうございました」を言ってくれます。道に迷ってる私に声掛けてくれ、道を教えた見知らぬおばあさんをいつまでも忘れられません。ゴミはきちんと分けて出します。最初は面倒臭いなあと思ったが、そこには地球を愛する気持ちがあったのです。

日本が好きになりました。優しくしてくれる日本人も好きになりました。言葉が違っても心は通じていることを教えてくれました。国に帰るまでいい思い出がいっぱい作れると思います。こんな日本で残りの8ヵ月を頑張りたいです。成長した姿で国へ帰りたいです。