田中義一

元冠业英会話学校日本語教師(2005.12~2006.6)

元沈阳大学日本語学科日本語教師(2006.7~2007.7)

元沈阳薬科大学日本語教師(2011.8~2013.7)

流れるも姿無き時の置き土産



           

第1章   世界流鏑馬大会は我が町で(2022.10.15-16)


 或る道で数々の試練を受け、人生の真理を肌で学んだが故に、それが心身に染み込んで行った人間のお顔は清々しく、晴れがましく、それを目にする者も、その身が清められる思いがする。これは、その最終日に、私も斯くの如きの妙技を身に付け、あの様に全うに生きたい、と羨望の眼で競技者に見惚れて感じた事だった。


 我が町十和田市は、戦前戦中を通じ軍馬のメッカとして、その名を全国に馳せた。私の母校の三本木中は、今は3度目の新築をされたけど、当時の馬小屋を改築して作られた校舎だった。その長い廊下は、雨天時や真冬には陸上部の格好のマラソンの練習場となった。ちなみに、幼少時には馬肉は今と違い格安の値で手に入り、その馬肉鍋を機会有る事に賞味したものだったけど、その由縁も有って、上記の大会が年に春、秋と2回開催される様になった。その起源は、ある殿様による豊作の祈願に有ったと言われているけれど、現今のコロナ禍では、様々な祈りのために開催されている様で有る。

 この様な競技であるが、そのルールは他のスポーツと違い、一般的には分かりにくい。簡単に言えば、百メートル前後の疾走コース間に、3つの的をある間隔で並べ、それを馬上から射る競技である。的に当たれば10点で、当たっても跳ね返れば、鎧に跳ね返されたと見なされ無効。そして、その合計点で争われる。それに差が無い場合には、規定の制限時間内でやられているか、またはそのタイム差で順位を決める。その時間は、初級、中級、上級、プロ級と級が上がるにつれて短縮される。この様な競技では有るけれど、ただ見ていると普通にやっている様に見える。でも、そこまでなるには、約2年の修行が必要だそうだ。いやはや、どの道も長いなぁー、とため息をつく日だった。

 さて、実際の競技を見てみると、晴れの舞台と言う事も有って、皆さまは神に仕える神官、女官の様な衣装を纏い、艶やかな姿となって登場して来る。でも、聞けばその衣装は店頭で購入した物ではなく、色々親戚縁者等の衣服を縫い直し、手を尽くし繕った物だそうだ。だが、ナポレオンによれば、『人は着たまんまの通りになる。』と言う。これは、当たっていた様で、まさしく彼らはその一瞬、神官女官と成り得ていた(さすがはナポレオン!)。その時間は、神がかり的な所も有ってほんの9~15秒前後で有る。

異色の射手に、三沢米軍基地のネルソン・テナイヤさんと言う若き女性射手がいた。いつか、外国人射手と2ショット写真を撮りたいと思っていたけど、今回それに成功した。彼女の疾走は女神の如くで、中級で1位になった。まるで、そこから神風が吹き流れて来る様で、現今のコロナウイルスはその流れを受けて、じわりじわりと彼方へ押しやられる様であった。そして、その功が奏し始めている様で有る。 

 はたまた御年78歳の男性射手もいた。その矢射るは軍神を彷彿させ、年齢は吹き飛んで行った感じだった。努力は、邪魔をしようとする物を吹き飛ばし、その者に何かを身に付けさせようとする様だ。いやはや、何とも言えぬ甘味な雰囲気が漂っていた日だった。

                                                        

さあっーてと、この5か月後、4年ぶりの6回目のタイ行きが待っていた。が、はたまた、玄奘三蔵法師と孫悟空達が辿った天竺への奇々怪々な道を、地で行く様な旅が待っていようとは、この時はまだ思いもしていなかった。この下りを書いている時、部屋のテレビでNHK番組の『歴史探偵』(西遊記の世界)が始まるのが見えた。最後には、この世界が古代より現代まで人気を博している理由は、一重に玄奘の天竺への“情熱”に有ると、専門家は締めくくっていたが。ふむ、情熱か・・・。

第2章 お釈迦様のお招き

 

 三十数年近くに渡る数回のタイ紀行において、いつもその電話番号を探しても分からなくて、もう会うのは諦めていた方がいた。が、やっと今回の旅の準備の過程で、奇跡的にそれを探し当てた。そのお方は、1回目(この時私は32歳、彼は37歳)とその5年後の2回目のタイ行きでお会いし、その後音信不通となっていて、この新日本語クラブでも過去に登場したスラサック先生(現73歳)である。31年ぶりである。


     お会いした時は、副校長後、元工業高専校長(7年勤務)として勇退していた方で、その後も最近まで某ビジネス関係の重鎮で有ったので、随分御出世なさりましたなあと思い、私等は近しくなれる身分では無いと内心びくびくだったけど、また、うれしくも有った。そして、それが雪崩現象的に旧知の方々と出会えるきっかけとなって行った。その中のお一方に、1回目にお会いし良くお世話になった、先生の同僚の工業高専女性講師(英語)のポンティップ先生がいた。当時は26歳だったが、今回は62歳になっていて、定年後は職業訓練関係の教育に携わっていた。タイの東大のチュラロンコーン大卒のエリートだった。こちらは36年ぶりである。1回目のタイ紀行以降しばらく文通していたが、途中から途絶えてしまった。途絶えた理由は、2回目の紀行でスラサック先生から知らされたが、女史が結婚したからだった。だから、まさか先方からお会いしたいと言って来るとは思わなかった。文通時は、『田中さんが結婚したら文通はやめます。』と言っていたくらいだったから。今回のタイ行きには驚いていた様ですけど、こちらは、今回の女史の私に対する親密度が予想以上に濃かったので、それに驚いた。しかし、離婚なさっていたと後ほど分かり、残念な気持ちとなる。それにしても、36年も経つのに私を忘れないとは・・・。


     虎の威ばかりを借りた虚言虚勢の目立つ、見掛け倒しの私の何が気に入っているのだろう。1回目のタイ紀行で一緒に撮った写真をその帰国後に送ったが、まだ持っていた。今回再会した後は、常にハンドバックに入れていると、今回の帰国後に聞いた。また、その1回目の時に、お土産として差し上げた真珠のネックレスを、イミテーションでは有るが、まだ一部を今有るネックレスに取り込んでいた。


 それでは、以下、日程を追って今回の旅の詳細を述べて行こう。しかるに、1回目のタイ紀行は、4年前に天国に旅立った母が私の金沢大博士課程合格のお祝いとして、私へプレゼントしてくれた物だった。でも、それまでタイについては、タイの“タ”すら頭の中に浮かぶ事は無かった。しかし、幼き日に白黒テレビで見た、タイを舞台にしたユル・ブリンナー主演の『王様と私』の映画の最後のシーンで、タイの子供達が言った『アンナ先生(デボラ・カー演ずる)、私達を闇の中に置いて行かないで。』と言うセリフが、何故かその年まで妙に心の奥の中に残っていた。そのせいか、誰かが私を招いた見たいにタイ行きとなった。このお方は、お釈迦様?

第一節 一日千秋の思い(2月26日日曜日)

 

 この日の前の夜は、三沢19:25発、羽田20:50着の日本航空で東京に着いてから、西川口駅前のビジネスホテルに宿泊した。実はこの夜、羽田空港着陸寸前、機は急上昇を開始し旋回を始めると言う、とんでもないハップニングに見舞われていた。直後、『機は、強風のため着陸のやり直しを致します。』とのアナウンスが有った。一時、三沢空港に引き返すのかと不安になったが、どうにか左右にダッチロールしながら着陸した。いい事が有れば邪魔する物も現れると言う、いつもの私のジンクス再び。実に私の占い師の予言が当たる。また、ちなみに着陸のやり直しに出会ったのは、これで2回目。1回目は、新日本語クラブでも記したが、北京空港からモンゴルのジンギスカン空港に行く時。当地がこれまた強風のためだった。この時は北京のホテルに宿泊させられ、翌日出立。


     とにかく、タイでもまた有るかも、と当日のそれにやきもきしながら、翌朝、10:35発のタイ国際航空の機上の人となった。でも、回数を重ねて来たので、機内で以前の様に興奮冷めやらぬと言う事も無く、ごく自然体で着陸を待った。が、スワンナプーム空港着陸後、乗客の多さも有って、空港内での待ち時間がいつもより長く、また、待っているはずのタイの友人も中々見え無かった。


     だが、出口を出て通路を往復している内に、妙齢の若きタイ女性のお二方が、「タナカさん、スラサック」とカタコトの日本語で声を掛けて来た。スラサック先生の長女(46歳)、次女(41歳)だった。この方々も36年目。そして今年お二方は、目出度く御結婚の運びとなっていた。また御長女は、1回目のタイ紀行での私の歓迎会で、先生の家の庭先で踊りを披露してくれたけど、それを良く覚えていて、「ここが踊った場所よ。」と翌日指さして私に語っていた。いやーっ、よく覚えていたね。とにかく、お二方の後を付いて行くと、ついにスラサック夫妻、ハッサチャイ先生とその御家族に再会した。ポンティップ先生もいらっしゃった。

この後は、先生方のそれはそれはデラックスなお車に乗り、バンコク市内の優雅な水上レストランへと御案内された。この時、また先を越されてしまったとの思いが脳裏を過った。しかし、水辺でいただいたタイ料理は格別で、憧れていた本場のタイ料理を満喫する事が出来、夢心地となり、その焦燥感が消えた。あ~ぁ、タイはいつ来てもいい。

 

第二節 巨星は輝き続ける


 真夜中に空を見上げ、流れ星が,ヒューッ、と落ちて行くと邪推が脳裏を過る。最近はあまり意識して見ないが、タイ行きを決めてから、そんな光景を想像しながら旧知の方々の消息が気になっていた。


     この日の夜は、実は、私はスラサック先生の、今は氏の妹さんが管理しているバンコクの亡き御父母の御自宅に宿泊させてもらった。1回目のタイ紀行で泊めてもらった所でも有る。が、あの日の先生の慈父(当時小学校校長)、御母堂(主婦)、親戚のウイナイ先生(デザインの大学教官、当時ここに日本の海外青年協力隊女性隊員のルナ先生(当時26歳ぐらい)が派遣されていた。専門は織物。この時、スラサック先生の妹さんから、『ルナは、どうしているの?』と聞かれたが、『分かりません。』と答えてしまった)は、それぞれタイの星となっていた。また、1回目のタイ行きでの歓迎パーティーに来てくれた航空会社勤務の伯父さんも、タイの星となっていた。御父母については事前に知らされていたけど、後者のお二方は当日知らされた。ウイナイ先生は脳腫瘍の手術の後遺症で意識が亡くなり、10年の寝たきり後に65歳で他界。もう一方は脳卒中で最近まだ若くして他界。いずれにせよ、私より若くして星となる。ついでに、ハッサチャイ先生の妻の弟さんも、昨年肺がんで亡くなったと後で知らされる。彼は、私より若干若く過度の喫煙、飲酒をする方だった。


     前記のお二方も飲酒が過ぎた様だった。スラサック先生の母は昨年92歳で、父は過日80歳でお亡くなりになられましたけど、これはお釈迦様のお招きが有ったからだ。他の方々は、若さに任せて不摂生な生活をしたための様に思われる。ここで付け加えて、1回目のタイ紀行でお会いした、スラサック先生の奥さんの母も他界していた。いずれにせよ、日本の習慣に従い御香典を供えてタイ式の遺影に向かい、合掌して来た事は言うまでも無い。それでも、何とも言えない気の重い時間ばかりが過ぎて行き、俺は何しに来たのか、そして一瞬、これは弔問外交では無いのかといぶかった。そう思いながらも先生の妹さんの豪華な部屋で、ハッサチャイ先生と共に旅の疲れも有って直ぐ眠りこけてしまった。それにしても、昔日の喧騒感は無く寂しさばかりが漂っていた。

第3章 タイの高等放送教育

第一節 お初のベッチャブリー市(2月27日月曜日)

翌朝は、氏の家の近くの中国風のレストランで朝食を済ませた後(これもまた格別)、バンコクから南方に、約80kmのベッチャブリー市に有るスラサック先生の御新居へと、向かう事になった。車で約3時間の行程だった。ついでに、その席で1回目のタイ紀行でお会いした氏の弟さん(当時留学予定の大学生)は、現在、タイの某大学の教授でいらっっしゃる事を知らされた。並みの能力、努力では到達できない出世コースで有る。さて、その食事後、氏のお車で出発した。バンコク市内の渋滞は有名であるが、それを実体験しながら周囲の景観に見入り、異国に来た事を実感し続ける。途中、ポンティップ先生がバンコク市内で合流した。

昼過ぎに当市のタイ湾の海岸の観光地に着いたが、人影もまばらでコロナ禍の影響が感じられた。小生は、水泳と魚釣りに意気込んだが、波風が強く、また、2月下旬はまだタイでは暑さの盛りではなく、涼しい感じがした事も有って断念した。タイでは、4月が一番暑いそうだ。その後、一路先生の家へ向かったが、途中色々な所に寄ったので、夕方に市内に着いた。そのため、そこでの屋台風のレストランで夕食を御馳走になった。その時、その市内の中を行き交う人々を見ていると、1回目のタイ行きで見たタイ南部のナコンシータマラート市の夕暮れ時を思い出した。バンコクと違い、地方都市には昔の時代の名残がまだ感じられていた。そんな事を考えながら、先生の新居へと向かい、暗闇の中のそれに行き着いた。まるで、宮殿見たいな家だった。

  先生は人生の勝利者となっていた。そして、先生からは、「明日は、ホワヒン市のテレビ局へ行くから正装をしてくれ。」と言われたので、さもありなんと持って来た、これも、36年前にバンコクで高値で買った、シルクの絵柄の有る半袖シャツを準備して置いた。いやー、シルクは長持するね。でも、明日の何やら分からぬスケジュールに心が落ち着かなくなった。そう言う事も有って、タイの習慣の一つである晩のシャワーも浴びず、就寝した。


 第二節 スターウォーズの宇宙基地(2月28日火曜日)

     翌日はとんでもない、雲の上の日だった。私が来ると言う事で、それの準備もしていたとは、事が終盤になった時に知らされた。まずは、朝、私がタイの黄色いごはんのカーモッカイが好きだと言う事で、スラサックさんの奥様がその朝食を作ってくれた。他の料理も出て、何とも言えないタイ料理のうまさを堪能した一時だった。さてこの後、例の場所へと向かう事となった。あの陸路の東海岸沿いのホワヒン市に有る、先生のいた工業高専付属の遠隔学習放送局に御案内されたので有る。

     そこに入館後、見る度毎にスターウォーズの宇宙基地と見違える程の内観に、驚嘆ばかりしてしまった。御案内人は、スラサックさんの後任の女性校長先生でしたけど、もちろん、そのタイ語は分る訳は無かったけれども、何とも言えない気品の溢れる方だと思った。

     他のスタッフの方々も、映画のスターウォーズに出て来る俳優,女優と見まがう出で立ちだった。お伺いして見れば、これは農村地区等、学習困難地域への学童へ当校の授業を配信し、教育の普及拡大を狙う事業だと言う。今だ進学率の低いタイでの、利口な政策だと感心した。

     また、タイでは日本語の需要は少ないが、それでも日本語の科目も有るとの事だった。聞けば、前プミポン国王によって発足され、現国王によって運営されているとの事。タイ王国の威信をかけたプロジェクトで有った。こういう雲の上の所に、この世界に関する実務経験も、その能力も無い私の様なおっぱかバカが、何故招待されたのかと不思議に思い、ただただ、顔で笑って心で泣いての時間を過ごしていた。

     会議室では、私はお客と言う事で、中身は空っぽでも議長席に座らされたけど、まんざらでも無かった。地下の底ばかりを歩いて来て、社会的にこれと言った活躍も貢献もして来なかった、そして、自信過剰でプライドだけで生きていると非難されて来た私には、一瞬の栄光の時間だった。いわゆる、“一日校長”だったのだ。

     その時、前プミポン国王の歴訪の御様子のビデオを上映してくれましたけど、タイトルに”ようこそ”が添えて有った。初めから有ったのかなと思っていたら、「田中さんのために、あの先生が作成した日本語ですよ。」と声が掛かって来た。即座に、その先生に、「クン プーツ パーサージープン ダイマイ(日本語が話せますか)?」とタイ語で聞いたら、「いいえ、何も。」と御謙遜のお答えが返って来た。タイ人は本当の事は言わないと以前聞いていたが、ホントは上手いのだろう。とにかく、タイ語の説明は何も分からないので(でも、友人の英語で要点を把握)、ただの傍観者を地で行ってしまったが、昔のタイを知る私にとっては、日本はひょっとすると部分的に遅れを取り始めているのではないか、と思わせられた見学の一日だった。

     この日の昼は市内の屋台風食堂で、校長先生主催の昼食会となった。スタッフの方も付き添われ、庶民風のタイ料理に舌鼓を打った。一流の方々ばかりなのに、不思議と肩が凝らずゆっくりと昼ごはんを楽しめた。その後、次の予定地に向かったが、途中、かなり凝った感じの建物と思われる喫茶店に立ち寄り、一服する事となった。どう言う訳か、こう言う機会に追随者のポンティップ先生は、親しげに私に話しかけて来るのだった。最後の最後まで、こういう姿勢が止まなかった。

     私の何が気に入っていたのだろう。この年になるまで、日本人女性でさえ全く縁が無いと言うのに。昔、文通していた時は、私の好きな所を言ってくれて、『あなたの小さな唇が子供みたいでかわいい』、とは言ってくれていたけど。その英文体は、川の流れの様な流麗なタッチ。小生のは、良く言って丸っこく、が、機械がおしゃべりしている様な感じで、とはアメリカ人の評。ホントは、開拓地で生まれ育ち荒野から抜け出して来た様な小生如きは、確かにやる気は有るとは言われていても、いつもピントがずれて低能で実力も無く、不格好で人間的な魅力に欠け、おまけに不器用な男との評なので、こう言うタイを代表する様な才媛とのタイ日交流には値しないのである。まるで、映画『美女と野獣』の雰囲気がみなぎる見たいだけど、それ程の気品のない小生には、その内、それとは正反対の結末が待っている様な気がする。

     とっ、ここでまた、青森放送テレビの『世界一受けたい授業』で、ディズニーのアニメ『美女と野獣』の一部の放映が目に入る。噂をすれば影か・・。この稿に協賛している見たい。とにかく、さらにその後、ホワヒン市内のデパートに立ち寄った。ここで日本に持ち帰るお土産を買ったけど、ポンティップ先生からは、「お土産をあげる人がたくさんいるんですね。」と言われた。また、スラサック先生の奥様が、1回目のタイ紀行で、皆でバンコクのワニのショーを見に行った時、外国人は高額の入場料を取られるので、私はそれを取られない様にタイ語でタイ人だと言えと言われ、それを繰り返しても、それを取られた事などが後に笑い話になった事等を話していた。その時、36年前の事を良く覚えているなあ、と思ったりして、この後の18:00からのスラサック先生の御友人の夕食会への招待までの時間を潰した。

第三節 ローングロッホ博士との夕食会

 その時間が来たので、先生の友人のローングロッホ博士が支配人の、ホワヒングランドホテルでの夕食会へと向かった。そこは、タイの像の鼻状のマレー半島東岸に位置し、タイ湾を望むホワヒン市内に有った。博士の御招待だった。そして、そこは巨大なビルディングだった。しかし、博士は、それからは想像も出来ない小柄な方だった。聞けば、博士の娘さんはその内東京マラソン大会に出場するとか。また、御子息は米国のMITを出て、Google社に勤務とか。名士の方だった。とにかく、それは壮大なホテルで、その屋上から東海岸側に穏やかなタイ湾が一望出来た。

     さらに、また聞けば、この東側遠方に小島が有り、そこで釣りが出来る所が有るそうだ。しかし、ある程度の船をチャーターしなければならない様だけど、もしチャンスが有れば挑戦し、今回出来なかった雪辱を晴らしたいと思う。私は、ただただ遠方ばかりを虚心坦懐とは言わず、未だに人生が上手く行かないもどかしさで、見つめていた。そうこうする内に宴が始まり、女性校長先生も交えて、これまた破格のタイ料理を前にして、歓談が始まるのだった。そんな中で、時々無作法な私の所業をカバーするかの様に、博士は助けてくれた。例えば、お隣に着席させて頂いたとは言え、ナプキンを床に落とすと、私の代りに拾ってくれて丁寧にたたみ、テーブルに置いてくれた。地位におぼれずおごらず、高慢な方ではなかった。だから、従業員の皆さんは彼に付いて行き、彼を、そのホテルを、支えようとするので有ろう。ホテル勤務の経験も有る私には、その大変さが良く分かる。それにしても、なんでこんなに目もくらむ様な歓迎を、私は受け続けているのだろうか、と疑問ばかりが頭の中を駆け巡った。私は、タイ国に少しも貢献していないのに・・・。驚いた事に、ここで隣に居座ったポンティップ先生は、私の皿に料理の一部をスプーンで運んでくれていた。

 そうこうしているうちに、宴がカラオケの共演と共に速やかに終わり、一路、スラサック邸へ帰宅する事となった。着いた時は、闇夜がすでに周囲を襲っていた時候だった。それまでの道中では、途中の暗がりの中のロマンティックに赤光する町の街灯に、タイは進歩したなあー、と心の中でつぶやいていた。そして、明日はこの先生とは早くもお別れなのだと。

第4章 胸に歓喜を秘めて (3月1日水曜日)


  この日は朝4時の出立となった。列車でバンコクに戻る予定だったが、諸事情により、スラサック先生が直々にお車を運転して下さる事になった。ポンティップ先生も御同乗してくれた。朝早かったので、朝食はバンコクのドライブインでおごってもらった。うまいの何のって。無心の境地となる。小ぎれいな所だった。「タイ パッタナー クン(タイは進歩しましたね。)」とスラサック先生にその場で言ったら、「コープ クン(ありがとう。)」の御返事が帰って来た。 

     その後、忘れ物を先生の妹の家に取りに行った後、今度はハッサチャイ先生の御自宅へ向かう事となった。明日のスケジュールに合わせて、今日は安息の日とした。途中までスラサック先生とポンティップ先生にお車で見送ってもらった。お別れ間際に、ポンティップ先生は「日本に帰る時は、空港までお見送りに行くわよ。」と言ってくれた。その後は、電車とタクシーを乗り継いでハッサチャイ先生の御自宅へと向かい、そこで終日、明日の次なる出会いの方がいるナコンサワン市行きに備える事となった。

     ところで、ポンティップ先生は前記の様にエリートで有り、お父様も裁判官、親戚縁者にも法曹界の方が多く、そのせいも有って、生まれも育ちも御立派なお嬢様で貞淑な方で有られ、しかも、自分と言う物をお持ちの方だった。だから、御結婚なさったとお伺いした時は、さぞ幸せな人生を送っているだろうなあ、と思っていた。が、同僚だったエリートの前夫と20年前に離婚していた。御理由はプライベートな事なので割愛して、これを耳にした時は、こういう上流階級でも、『人生に方程式は無い(森鷗外)』と言う事が有るのかと悔しい気持ちになった。

     ちなみに、知識人は確かに社会への貢献度に優れ、がために、その賞賛こそ浴びて然るべきだが、時には、その最高峰に位置していても、その仮面を物怖じもせずに拭い、知性と倫理は一致しないと言う事実を平気で見せつける時が有る。これは、その道への過程で努力し過ぎて、一般人が普通に見聞きする物に出会えなかったためと思われるが、しかし、私等も、その挑発の火の粉を被りそうになり、柔の“地獄攻め”の構えで(単刀直入で芸、思慮不足?)、と堪忍袋の緒が切れそうになった時も有った(PTSD・・・)。

     それはさて置き、今は、30代の息子、娘と暮らしていて、辛いけれど楽しい生活をしていると言う。また、この日、ハッサチャイ先生の御長女の旦那さんとも、初めてお会いした。38歳ぐらいとかだと言うけれど、いれば私の息子ぐらいで、凄みの有る青年だった。翌日、この方から、バンコク駅まで自家用車で送ってもらい、そこからハッサチャイ先生とナコンサワン市に向かった。この夜は、ハッサチャイ先生の御自宅で眠りに就いた。ついでに、この旅の2か月後、米国ミズーリ州のカンザスシティーに住むアメリカ人が妻の御長男に、2番目の孫が誕生すると言うお目出たが、小生との一時後、渡米した彼を待っていた。

第5章 いとしの母国タイ

    今回の予期せぬ再会をもう一つ。これから登場するジンタナさん(64歳)(改名パッキニー)は、1回目のタイ紀行(日本語クラブ43号に名が登場)のバンコク市内観光で、同伴してくれたナコンシータマラート師範学校(現ラジャパ総合大学)の保健体育の先生だった(今回の旅では、ナコンサワン市内の大学を定年後非常勤講師)。私より若干若い方(当時28歳)だった。その5年後、女史は弘前大学教育学部の、新日本語クラブで度々紹介した佐藤武司教授の所へ1年の予定で留学した。

     当時、佐藤先生は、弘前大の国際交流委員も兼務なさっていたけど(今回の事後報告をお電話にて、広島在住の御年90歳の先生にし、『すごい事をやっている。』との賛辞を頂く)、が、しかし、女史はホームシックになり、1年目の正月直前に突如帰国してしまった。だが、この時とんでもない事件が発生していた。それは、その日の夜の事だった。突然夜中に、佐藤教授の御自宅のお電話が鳴り響いた。それは、期せずして成田空港の空港職員からの緊急連絡だった。曰く、「先生の所に留学していたジンタナさんと言う方が、今、空港の事務所にいます。どうやらスーツケースを盗まれた様です。今直ぐ来てくれませんか。」だった。これを聞いた佐藤先生は、研究室の学生を連れて即座に夜行列車に飛び乗り、成田空港へ急いだ。そして、朝方、事務所の机の上でうつ伏せになっていた女史と会った。先生が、「ジンタナ・・・」と声をかけると、彼女は、おもむろに顔を上げ、虚ろな目で先生を見て、「先生!うわー!」と号泣し始めるのだった。事の顛末はこうだった。成田空港に着いた彼女は、ある一瞬スーツケースの持ち場から離れた。だが、戻って来たらそれは消えていた。そしてその後、彼女はパニック状態になり、空港職員が彼女を見つけた時には、タイ国際航空の機体の車輪を虚ろな状態で撫で撫でしていたと言う。どうやってそこの駐機場まで行ったか、職員も分からなかったそうだ。人は危機的状況に陥ると、体が意に反して、当該の方向に自然に苦痛も無く進んで行く様である。その後、先生方は、無くした物を航空券も含めてすべて彼女に取り揃え、速やかに帰国させてあげた事は言うまでも無い。今回、こんな体験談の有る女史と、予想外にも36年後に再会すると言う、これまた思い出の再現見たいな事が起こった。  

第一節 見まがう異国の人(3月2日木曜日)

 あの方は本当にジンタナさんか・・・。正直、彼女の町のナコンサワン駅で再会してから、いまだにその思いが消えない。しかも、そのお名前もパッキニーと言う名に改名していた。聞けば、20年前に悪い事が多かったので相成り、その後は順調になったと言う。とにもかくにも、最初お会いした時は、私は32歳、彼女は修士号を持つ28歳の妙齢の女性だった。しかし、今回は64歳で(私は68)、夫に癌で先立たれた寡婦になっていた。一人娘はまだ22歳の法学部の大学生だと言う。どうやら高齢出産の子だった様だ。

今は定年後、近くの大学で非常勤講師をしていた。しかし、それでも御立派な家に住み、高級車を乗り回す悠々自適な生活をしていて、ここでもまた見せつけられ、私は先を越されてしまったと再度落ち込む。それにしても、何と御立派な御婦人になられていた事か。小生の様な粗品は、お付き合いに値しないのである。

      ところで、この日の朝は、ハッサチャイ先生とバンコク駅発の急行列車で、北方のナコンサワン駅へ向かっていた。時間にして約2時間、距離は240kmの所だった。異色だったのは、機内食ならぬ車内食が2回に分けて出た事だった。でも、普通車では出ないそうだ。日本ではない事だ。さて、そこを降車後、先生のお車で市内に繰り出し、夜更けまで色々な観光名所へと案内されるのだった。まずは、市内のオープンレストランで昼食を御馳走になった。

     その後、即、先生の高貴な御自宅へ招かれ、小生はその床を汚す輩と化さざるを得なかった。そして、図々しくも先生からお土産を進呈されるのだった。しかも、これに留まらず、後にも色々とデパートで買ってもらうのだった。その後、先生宅でしばらく過ごさせてもらった後、市内の高名な寺院に繰り出した。例によってタイ人の習慣で有る寺院内での礼拝を欠かさず行う。ここを済ませた後はデパートへ買い物にと、時を繋いだ。更には、中国人居住者が多い事も有って、中国風竜御殿の有る公園への夜の散策に入って行った。夜食は市内の屋台店で、タイらしい雰囲気を味わいながらだった。ホントはビールも飲みたかったが、血圧を考慮し断念。その後、午後に予約の確認をしていたホテルに向かい就寝。何とも高級なホテルを宛がってくれたものだ。VIP気分となった。

第二節 タイの母なる川―チャオプラヤー川の源流(3月3日金曜日)

     この日のホテルのバイキング形式の朝食は、抜群ね、と思いながら、まずは、この日の朝食に励まされて、パッキニー先生ご計画の御行程によるナコンサワン市郊外への観光に想いを馳せるが、詳細は分からずじまいだった。とにかく、朝食を済ませた後、待機していた先生のお車に乗り、出発進行と相成った。向かった先は、タイの母なる川、チャオプラヤー川の中流域に有る観光地だった。

     名前は分からないが、私には珍しい所ばかりで、そこに行く前に、しばらくしてから、釣り堀の沼が有る簡素な休憩所に立ち寄って、コーヒーを飲みながら話に弾んだ。そこで、先生は「どうして結婚しなかったんですか。ハンサムなのに(ホント?日本人女性は、小生に時々そっぽを向くと言うのに。外人は得てしてお世辞がうまい)。」と聞いて来た。そりゃー、色々あらーな、と言いたい所だけど、実際は収入の安定した職に就けなかったからだ、と釈明して置いた。が、実際は、今だに伴侶が現れないからだけど。

     とにかくその後、前記のチャオプラヤー川の有る観光地へと向かった。そこは、1回目のタイ行きで見た大型船も航行するバンコクのそれ(1回目のタイ行きでは、その川辺の屋台で豪華な昼食パーティーの招待を受けた)とは違い、日本の中流域でも見られる普通の流れの川で、2河川(ピン川とナーン川)の合流地点の所(ここでその名に変わる)に観光スポットが設立されている所だった。大河も最初は小さな川だったんだなあ、と何かの暗示に出会った気がした。そこには、鑑賞用の昇降階段付きの屋根付きトンネル状の通路が有って、川全体が見れる様になっていた。そして、昼頃までいて、その後市内の屋台店で昼食を取る事になった。その後、ナコンサワン駅に行って、そこからバンコクへ帰る事となった。例によって、急行列車内では車内食が出た。楽しい時間は、あっと言う間に過ぎ去る物で有る。だが、女史とは今はLINE仲間となり、タイ日交流の一役を担っている。バンコクの先生の家に戻ってからは、彼の妻と夜更けに話しもした。その時、彼女の弟さんが昨年天国に行った事を知らされた。


第6章 帰国は“宝”と共に(3月4日土曜日)

第一節 タイの星は胸の中で

     前記した様に、ハッサチャイ先生の妻の弟さんも、昨年肺がんで他界して いた。私と同年代の方で、昔、直に、またお電話で話した仲だった。最後まで独身を通していた。気さくな方だったのに。

     そこで、そう言う事も有って、この日の帰国日には、彼の住んでいた団地の近くの屋台店で昼食を取る事にした。形を変えた彼への慰霊だった。どうやらヘビースモーカーが祟ったようだ。その後、買い物のため市内の中心部のお土産店に急ぎ、所要の品を手に入れ帰国の準備を整えた。

この日の夕方は、23:15発羽田行のタイ国際航空に乗るため、ハッサチャイ先生のホテルに出勤する御長女運転のお車で、スワンナプーム空港へと向かった。翌日、羽田空港6:55着のTG682便に搭乗するためである。ちなみに、この機には搭乗口からでは無く、場内をシャトルバスで向かったが、真夜中の暗がりにうっすらと浮かび上がっていたその機は、かつて見た、まるで航空関係を題材にした、ゾンビ風タイ映画のシーンその物を彷彿させる出で立ちで有った。

     慰問の多かった今回の締めくくりに、まるで冥途の旅路へと案内している様だった。とにかく、まだ搭乗まで時間が有ったので、空港内のレストランで夕食を御馳走になった。この時、わざわざ、夜の女一人歩きの危険を承知で見送りに来てくれて、隣に居座ったポンティップ先生は、最後の最後まで親し気だった。が、このポンティップ先生にも、後日、この旅の一か月後に、ご母堂の他界と言う悲運が待っていた。敗血症だった。御年86歳。この稿を奏している時、LINEで御連絡が有った。

     この様に、今回の旅は予想外の悲喜こもごもの出来事が有ったが、内心、私はと言えば、社会的地位の安定している諸先生方と違い、未だにジタバタしている状態に焦燥感を感じていた。そんな事を帰国した後も考えている内に、『いくつになってもジタバタしてていい!』(朝日新聞「ひらり一言」:インテリ歌手加藤登紀子)と言う言葉が目に入った。後で落ち着くと励まされはするが、やはり、精進するしかあるまい。今回は、この様に今一度兜の緒を締め直した紀行だった。 

第二節 我が旅人生に悔い無し(3月5日日曜日)

     さて朝方に羽田に着き、その後、10:35発、11:55着の三沢空港行の日本航空の機上の人となる。羽田は、しばらく垣間見ていなかったので、その諸手続きのデジタル化には目を見張ってしまった。いつも離陸後に、機上から日中に見下ろす北部日本は荒野見たいで有るけれど、今回は冬の白景色となっていて、サッパリしていた。しかも、ジンクスの様に別れを惜しむ雨模様ではなく、快晴で有り、今回の旅に関して何かを暗示している様だった。今後、諸事情により海外旅行が出来なくなっても、悔いは無いとの思いを助長するかのようだった。人生をやり直した直後の1回目のタイ紀行から、あぁ―っ、36年も経ったのか・・・。でも、あの日が再び返って来たのだ。信じられなかった・・・。が、今だに人生の低空飛行をしている私は、大空高く舞い上がっている同期の方々を見上げているばかり。私はと言えば、これから老骨に鞭打ち、舞い上がらねばならぬので有る。そのためには自己の弱点に気づき、そしてそれを素直に認めかつ補強して行く作業が必要なのだ。そうしないと、三沢米軍基地の滑走路で、有事に備えてその翼を休めているFギイチ戦闘機は、部品不足のためしっかりせず、高く舞い上がる事はあるまい。そして、行く手を阻む人生の難敵をも撃ち落とせまい。

     それでは最後に、今一度、タイの星になられた友人の方々の御霊に合掌し、

この稿を終える事にしよう。目頭が熱くなって来る・・・。ワーイ(合掌・・中道先生にも・・・)。

後記

 現在、勤務している三沢米軍基地では、日本人も入れる飲食店が有る。そして、ドルも円も使えるけれど、ある日、アメリカ人専用の『エキスプレス』と言う名のスーパーで、日本人も買えるコーナーに行き、その昼下がりにホットドッグを購入し、レジに向かった。でも、いつものドル札が無くなったので、その時だけ円で支払おうとしたら、レジ係のアメリカ人は、「ここではドルしか使えない。」と言って来た。私はその事は知らなかったので、一瞬まごついて、英語で「What shall I do?」と言ってしまった。そうこうする内に、思案にくれている私に気が付いた、もう一つのレジに並んでいた中年男性の外人さんが、「私がプレゼントしてあげる。」と言って、私の代りにドルで支払ってくれた。私はすぐ様握手して感謝したけれど、実にびっくりする事2度。地獄に仏とはこの事かと思い知った。

 実は、中国でも似た様な事に出会っている。今度は自慢する訳ではないけれど、私があの外人さんの立場見たいになった出来事である。ある日瀋陽の、とあるバス停で待機していた所、隣に立っていた中国の御婦人が、おもむろに私に寄って来て、「この周囲のお店に両替のお願いに行っても、どの店にも断られてしまった。もし、良かったらお願い出来ますか。」と言う意味に取れる中国語で、私に語りかけて来た。その時、運良く1元硬貨をたくさん持っていたので、即座に両替出来た。そして、その御婦人は対面のバス停に移り、その後速やかに来たバスに乗り帰路に就いた。どうやら紙幣しかなく、バスに乗るのに手こずっていて、これでは家に帰れないと不安たらたらの御様子だった。私は、『いい事をした』と内心得意げに成り得た出来事だった。

 本物の神は、慈悲深く、いつも人間世界を天から見守って下さっていて、人々が困窮状態に陥れば、一瞬ある人間に乗り移り当該の事をさせる様で有る。

 事のついでに、上記の様な海外の方々との交流のきっかけを作っていただいた、弘前大学国際交流委員会及び瀋陽日本人教師会の諸先生方に、この場をお借りし感謝申し上げたいと思います。また今一つ。今回の旅の予約は、その6か月前だったので格安航空券で行けました。これは、意に反し、米軍基地の上司の沼山浩司さんと言う、英語のペラペラなおじさん(50歳)が、ストレス解消のため昔年のタイに行って見たら、と渋りがちな小生の背中を後押ししてくれたからでした。

おかげ様で、海外の皆様とのお付き合いで得た物は、この人生、何の功も無かった、プライドだけで生きて来た私への目には見えない、私には過ぎた人生航路上の“宝”となりました。

     思うに、時は非情にも流れ去り、しかも、人間の様に姿、形は無いが、愛くるしい人間には、物も言わずに結構な置き土産を置いて、流れ去って行く様です。でも、1回目のタイ紀行では、まだ目は上向きに遠望していたけど、上記の様な体験をして来ると、6回目では、“終わりましたなあ・・・。”の感じがして来ます。(まだまだよ!:外野)

     (完)


幸せを探しに行きます


第一部 実りはいつか

第一章 奇跡は起こる

私の母は、生前、テレビの時代劇を見るのが好きだった。特にNHKの大河ドラマは欠かさず見ていた。そんな中でも、私も小学生の時に見た緒形拳主演の『太閤記』にはぞっこん惚れ込んでいた様で、緒形拳版の”サル”には、特にその気の利いた機略には、いつも賞賛を浴びせていた。私もその時、時代劇が好きで、NHKの高橋英樹主演の『鞍馬天狗』等にも目が無く、毎回その剣さばきを楽しみにしていて、ゾクゾク感で放送を待っていた物だった。

それから、約半世紀後、それに感化されたからと言う訳では無いが、薬大赴任時代に中国のカンフーに興味を持ち始め、そして、以前の稿でも述べた様に、そこのカンフー部に入部した。でも、その中には色々な武術が有ったので、何をやろうかと迷ってしまった。その頃、私の官舎の部屋に遊びに来ていた教え子の女子学生に、その事を話したら、「先生、剣の方がいいと思いますけど。」とアドバイスしてくれた。そこで、つい女性に励まされてデレデレしてしまったのも手伝い、その剣舞を習う事にした。

そして、その練習のため、瀋陽市内のある巷の出店でアンテナ式の模造刀を買って置いた。この時は、それが安価な代物だったので、何かを教えてくれる物だとは期待していなかった。(奇跡を起こした中国剣)その剣舞の中の一つの技芸の習得には、約3か月かかった。何とも骨の折れる修行で有ったけど、その練習後は、いつも不思議と身が軽くなり足取りがスムーズになった。

どうやら、柔道の稽古は筋力を維持してくれるが、カンフーは血液の流れをスムーズにしてくれる作用が有る様だ。これは、古代中国よりそれを嗜む者が体感していて、その研鑽の原動力にもなっていたであろう。そう言う理由も有って、日本に帰ってからもその修行は続けているので、いつかは同窓会の時にも御披露したいと思っている。

と、昨年のある日の事だった。それは、薬大の教え子から送信してもらった、そのビデオを見ながら練習している時。その間に間に、気晴らしに家近くに生えているススキを、一振り二振りとその剣で切っていたが、そして、無意識に続けていたが、そのある一振りの瞬間、切ったはずのススキの先穂が、どういう訳か直ぐには切れ落ちなかった。あれ!?、と思った。が、その直後に、やっとおもむろに地面に落ちた。ハッとした。他愛もない日々の中での出来事だった。

良く、時代劇の中では、剣豪が生兵法の輩を相手にした時、その腕を知ってもらい、戦っても勝てる相手ではない事を示すため、瞬時にしてその刀を振り、その後パチーンとそれを鞘に収めるシーンが、時々有る。すると、その後、ゆっくりと、その者のチョンマゲが地面に落ちる等。しかし、これらはドラマの世界の中だけの物で有ったろう。実際の侍の時代には有り得なかった事だろう。それでも、それに近い神技は、剣客と呼ばれる剣士によって成し遂げられた事も有ったろう、と確信した。

それは、上記の様に、それに近い様な物を実体験したからだ。単調な繰り返しの中で、思わぬ時に起きた現象だった。いわゆる、武道なり、武術を目指す者は、その飛燕の早技を身に着けたいと夢を持つ。だが、それはいくら努力しても、なかなか修得出来ない場合が多いのが実情で有る。でも、今回のハプニングで、それはいつか天から落ちて来る、と希望を持てる事を知った。

これは、三十数年前、私の修士論文を指導してくれた、現九州大学教授の原隆先生(場の理論)が、”発見”と言う名の天使にはそう言う感じで出会うと言う意味で、私に授けてくれた言葉だった。そして、「あまり難しく考えず、楽しんでやってね。」だった。とにかく、これは、あッ、あれだ、これだ、と言うひらめき力やその改修力に乏しい私には、そしてまた社会の一般常識に疎く合理的思考に欠けるため、人間関係が不器用で要領が悪いと言う非難、誹りが付いて回る私には、指針で有り福音だった。とにかく、私は今回、無限回分に1回しか無い物と出会った。珠玉の七色光。人生の真理。

 

第二章 がん治療最前線

私の専門は物理であるけれど、その応用にも興味が有った。会社に就職したのも、それが、実社会ではどの様に使われているかを見るがためでも有った。そして、ひとつでも物理現象が発見されれば、その後多種多様な機器が出来る事を見て来た。でも、それは何とも金のかかる事だった。また、その理論なり数式はカッコ良く、たまには、それがステージ上できらびやかに光り輝き踊っている様にも思われ、その温かみも感じるけど、物理現象そのものは質素であり、時として泥臭く、また見かけは変なのも有る。

(でも、花はやはり美しい。昔、みちのくの弘前で、あのノーベル物理学賞の朝永振一郎博士の文化講演会が有った。その時、先生は「自然は美しく楽しい物。」とおっしゃっていた。科学への誘いの上手い語り口だった。そして、両手で輪を作り「発見すれば、こう言うメダルを貰える。」と言って、聴衆を爆笑の渦に巻き込ませていた。巷では、ユーモリストとは聞いていたけど、聞きしに勝るユーモリストだった。講演終了後、先生はその弘前市民会館の屋外で、私の左横1mの所を伏し目がちにして素通りし、足早に貴賓室に戻って行った。どこまでも謙虚な大学の先生だ、と尊敬の念を禁じ得なかった。この時は文化の日。私はまだ19歳だった。夢への道へ加速化された日。また、会場では「発見する事だけが科学か。」と疑問を投げ掛けていたけど、この様に一歩前に出た考えをする当たりは、さすがは世界的な科学者だと感嘆したものだった。でもそこには、世間の計り知れぬ秋霜の日々が有った事が推測出来た。ある時、ある科学者の奥様が神妙なお顔をして、科学者の道は厳しい、行かない方がいい、と私におっしゃった事が有るけれど、さも有りなんと、後年、その言わんとした事を実体験するのだった。

その十数年後、ひょんな事で知り合いになった以前の稿でおなじみの、そして、この稿の下りで再度登場するあの漆の権威から、助手時代のその時に、朝永先生の送迎車の運転手をしていたと言うお話を拝聴した。いやはや、人生の道に迷う事が有ったとは言え、通常の人生コースをはずれて見ようとしたら、良きにつけ悪しきにつけ奇遇ばかりに出会う。

そう言う事も有って、星雲の志でその世界を目指しても、大学を出る頃にはその道を捨て、より人間世界に近い料理や音楽等の他の道に移って行く若者もいる。私等は閉塞感を覚える様になり、それをして現在の境遇に至らしめた。ついでながら知識獲得能力は有るが、それ以上は行かないと言う私への御指摘も有った(だから、君の場合は気長にやってくれ、だと)。また、世界を股に掛けた仕事をしたいと言う野心も有った。だが、それにも能力が必要だった。高木先生等は、惜しみなく社会の賞賛を浴びて止まない素晴らしい見本。それはともかく、そうでも有った物理でも、その書を紐解くと、どう言う訳かそこから平常心だけはもらえて、それで倒れた私は再び歩ける。日々の柔道の稽古も(過日、師範から、田中さんの年で受け身が出来る人はいないとか、子供たちから、田中先生は強過ぎて稽古相手にならないとか、言われる。ホント?こんなお褒め言葉を頂いた事は、今まで一度も無し.。昔からうだつの上がらない輩。それでもガキの頃、見込み有り、との声はちらッと微かに聞こえていた。

ですから、今は趣味の一つ。近頃は、中国音楽とか他のミュージックも。とにかく、その応用までは、まずは金のかかる事業(億単位)である事を垣間見て来たが(ちなみに、この節のタイトルの重粒子線がん治療装置は150億円)、同時に実社会と言う大海に面し、自分の実力の無さに気が付き真理への道の遠きに唖然とする。そして、やっと市井の人となる。が、同時に高い教養を目指すと決意する。

ところで、今、巷に潜んでいる中で、つい先ごろ、その応用の一つである重粒子線がん治療の講演を拝聴する恩恵に浴した。題して、『日本が世界をリードする重粒子線がん治療』。講演者は、国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構 QST病院治療診断課 軟骨部腫瘍科 医師 今井礼子先生。ふーッ、何ともお長い肩書。

場所は、八戸市の八戸グランドホテル2階の大広間。衆知の様に、原子が発見されてから、世界の様相が変わって来た。そして、更に極微の世界に向かうに連れて、新たなる知見が得られて行く。そんな中で、いつか、ある日本の科学者が文部省へ予算の獲得に行った所、お役人さんから「何の役に立つ!」と言われ、間髪を入れず、「100年経てば分かる。」と答えたそうだ。が、しかし、どうだ。もう、社会の役に立っているではないか。陽子もユカワの中間子も。その時、そのお役人さんは「よし!その答えが気に入った!」と宣い添えたそうだけど、そこには社会の利に処せると御英断した日本政府の先見の明が感じられる。(壇上の左端が今井先生)

そう言った事に関連して、再び、私の知り合いの漆の権威の話になるけれど、氏は 、「私の親戚関係は、ちゃちな仕事を続けている内に、ある日、東京都内に5つの家を建てれた。それ程の成果を挙げた。」と話してくれた。その例も鑑み、研究室の学生さんには功を焦らず急がず、ちゃちなテーマで研究する様にとアドバイスをしていた。他の先生方から簡単過ぎる、幼稚だ、との批判を浴びながらも。どうやら、簡単な物、ちゃちな物、つまり、誰でもが出来る様な物が出来るか否かが、或いは、するかしないかが、人生の浮沈を左右している様に思われる。何となれば、そこには確かに時間はかかると言う著しい困難の見え隠れは有るけれど、その方法は簡単で楽で誰でも出来る作業なのである。

 

実は、私は若い時から無能者呼ばわりされて来た。それにもかかわらず、その出所の発端は一体何で有るかを考えようとはしなかった。しかも、咋今までその愚かさに気が付かなかった。でも、今私には上記の方法論が無く、そして、気の長い話では有るけれど、それこそは大志を抱く青年の方法論で有り、無能者の汚名を払拭する方法では無いかと考える様になった。しかし、そうは言っても今やその時は遅く、もう人生の黄昏時に来てしまった。トホホㇹㇹ・・。とどのつまり、どんなに今はやりの立派な即席式の家を持って来ても、それは”砂の上”ではキチンと立た無いのである。

つまり、私はまだ砂。だからもう、その微かな光を頼りに、その砂の一粒一粒を地固めして行く他は無い。嵐の中、梢ではためく一輪の枯葉の様にそのしゅう雨に打たれ、そして舞ながら。でも、例え固まっても、それ自体は以前として無力。でも、それはその後の発展する強固な核と成り得るに違いない。どうやら人には、超人向きでは無く、人向きの方法論が有る様だ。

あぁ、前置きが長くなった。重粒子の話に戻ろう。とにかく、この粒子は、がん治療の方法として脚光を浴びて来ている様だ。その治療成果は、まだ手術の場合と拮抗しているが、部位によっては、特にそれが初期の段階だと完治の可能性大の段階まで行っている。講師の今井先生(内科)は、この分野にお足を踏み入れる前に、その病院で骨肉腫の少年がその治療を受けた後、スタスタと歩くのを見て衝撃を受け、現在の仕事に打ち込む事を決意したと言う。陽子や中間子は素粒子の世界の物だけど、がん治療に使われている重粒子は炭素イオン線12Cで、そちらの世界から見れば宇宙的な大きさの物で、いつ何が起こるか分からない代物で有る。これは現在の所、三大がんの内の肺、大腸がんに適合されて来てはいるが(治療費は約4百万円)、まだ胃がんには手着かずの状態で有る。でも、微視的世界にして巨視的世界の事なので、まだまだヒントが隠されていると思う。下記の講演も含めすべて終了後、閉会の挨拶では財団の所長さんは「成果が有り次第また御報告したい。」とおっしゃっていましたけど、期待しています。

その講演後、六ケ所村原燃関係の講演が、環境科学技術研究所と日本海洋科学振興財団の科学者から有った。放射線がどの様に土壌に蓄積されるか、また六ケ所沖にどの様に拡散して行くかについてのシミュレーションによる研究成果が御披露された。

福島で除染作業の経験の有る私にとってはとても興味深く、その作業の意義を理解する上で役に立った。何より怖いのは、放射線による遺伝子の切断だった。そう言えば 、実は、私は福島で被爆した。検査所の係官から言われた時は一瞬ドキッとしたけど、パンツ一片の再検査後、それは外部被爆だったので、すんでの所で虎口を脱した。やはり、油断は出来ない所だった。六ケ所も。とにかく、2020年12月10日(木)の師走の候の昼下がりに久方振りに頭を使ったけど、これまた一度は夢見た世界だった。

 そして、そこはやはり百万人に一人の人間の世界だった。

 

第三章 天皇陛下は見ていた

『ギイチの晩年修学旅行』で、私の知人に漆の権威がいる事を述べた。この稿でもついさっき触れて置いたけど、紙上をお借りして、その弘前大学名誉教授の佐藤武司先生が、それらの御功績により、平成2年4月29日、天皇陛下から『瑞寶小綬章』を拝受された事をご報告させていただきます。(天皇陛下から佐藤先生への恩賜)

(こちらも身近)本業の傍ら多芸も良くし、また、留学生の世話も良くしてくれた先生で、世界的にも知己の多い方です。ちなみに先生の奥様は十和田市出身。私の出生場所から数百メートルの所。先生の御長男は、御専門はアラビア語ながらも、日本語教師として米国、韓国等の大学で教鞭をお取りになり、今は広島の大学で御活躍中。

『ギイチの晩年修学旅行』で、私の知人に漆の権威がいる事を述べた。この稿でもついさっき触れて置いたけど、紙上をお借りして、その弘前大学名誉教授の佐藤武司先生が、それらの御功績により、平成2年4月29日、天皇陛下から『瑞寶小綬章』を拝受された事をご報告させていただきます。(天皇陛下から佐藤先生への恩賜)


第二部 日本語教師道の傍らで

第一章 上達する日本語 

令和2年9,10,11月に、日本語を教えているアメリカ人のマットさんと釣りに出かけた。11月には良く釣れて、その時の釣果が掲載している写真である。9月には、八戸港へ行ったがさっぱり。10月には、十和田湖のヒメマス釣りにも行ったが、これもスコンク。そして、やっと釣れたのが3回目の11月の釣行だった。

 (大漁に微笑むマットさん)

ここで、十和田湖の名が出て来たついでに、もうご存知の方もおいでかと思われますけど、十和田湖の八郎太郎と南祖坊(なんそのぼう)との戦いの伝説について話して見たい。各種の話が有るが、ダイジェスト的に言えば、昔々、八郎太郎と言う若者がいた。それがある日、十和田湖を源流とし、今の十和田市内を通過して太平洋に注ぐ奥入瀬川のイワナを取り食べた所、急に喉が渇いたので、それを癒すためその川の水を飲み始めた。

 

すると、見る見る内に大蛇に変身してしまい、その後、十和田湖に潜み、事有る事に近くの村民をいじめる様になった。それを聞いた老僧の南祖坊は、ある日、この大蛇に戦いを挑む。その時唱えたお経の経文の漢字が、刀に変身し、大蛇に向かって飛んで行き刺さったので、その大蛇は大量の血を流しながら秋田県へ逃げた。そして、それが今の八郎潟になった、と言う物。

 

これを、マットさんに釣りをしている際中に話したら、そして、丁度、我々が釣りをしていた場所の向かい側の湖岸の崖の赤い所がその血の跡だ、と指さして言うと、「インタリステイング!(面白い)」と言ってくれた。

 

その日の昼食では、八甲田山に有るレストランで焼きそばを食べた。食べ終えた後、マットさんが日本語で、「おいしかった!」と女主人に言ったら、その方は突然、満面の笑みとなった。氏は、だんだんと日本語が上手くなって来つつある。日本語教師冥利に尽きる。2021年度2月の秋田のなまはげ柴灯(せど)祭りに行く際の、往復の新幹線の切符購入時にも、窓口ではすべて日本語で切り抜けた。そして、なまはげと会ったら、 『カッコイイ―』、と言ってあげてと言って置いた。奇しくも、旅の後の日本語のレッスンで、「妻に練習させてなまはげに言わせたら、『おおーーッ、ありがとう!ありがとう!』と言うご返事が返って来たと言う。

 

私の想像が当たった。だが、そこでのある夜、あの大震災の再来と思われる地震が来て、秋田のホテルにいたマット御夫妻をも襲うとは、微塵も想像していなかった。その時彼は、その高階の部屋で泣きついて来た妻を、いざと言う時には運命を共に出来る様にと、ドア口でしっかりと抱き離さなかったと言う。オッカネガッタネー(方言:恐かったねー)。

 

釣りの話のついでにでは有るけれど、『釣りキチ三平』の漫画家矢口高雄さんが最近(2020.11.20)亡くなられた。実は、この方は、東京在住の母の弟の妻の遠い親戚だった。血縁的にはつながりは無いけど、家系図的には私とも繋がってしまう。聞けば、有名になり過ぎたため、近隣の親戚達は寄り付かなくなったそうな。その活動を始めた初期には、全く売れずフトンの中で泣いてばかりいたとか。氏の心の中の重圧は如何ばかりだったでしょうか。有名人は、その人しか知らない重圧の人。有名人には成りたくないね。私等も学位が有るので、時々、褒めそやされ悦に入っていた。

 

だが、心の奥底では、言われて見ればそれしか無く、それに値するだけの能力の無さ、そしてその他の才芸や何なりの無さで泣くばかり。実は、科学の最先端に行くまでは意気軒昂としていたけれど、その場に立つとドスを利かされ度肝を抜かれ、そして顔が青くなって遅々として前進出来き無かった。そして心の中には、ドス黒い暗雲の透き間に、濃青白色の不気味な物が見え隠れする雲海が垂れ下がり始めていた。それはまるで、私の後半生の予兆の様だった。そして、あなたを真に生かせる道は、他の所に有るのだと言い聞かせている様だった。

 

第二章 男がいた

 私の故郷は、5千円札の肖像画の新渡戸稲造博士の祖父の新渡戸伝(つとう)によって開拓され創られた町で有る。その墓石(1871.【明治4.9.27 】78才で没)は、今も長じて父に賛同し、開拓に身を投じた息子の十次郎(1867.【慶応3.12】47歳で夭折。この三男が稲造)と共に市内の太素塚と言う所に有り、翁は市民の皆様方を見守りながら眠っている。博士も。でも、翁の功績を讃えるため、毎年ゴールデンウイークには『太素祭』がその境内で開催される。


●●●ここで逸話

稲造博士とその父は分葬。博士は東京都府中市の多磨霊園に、父は盛岡に眠っている。生前、博士は十和田で眠りたいと言っていたのを受け、当時地元の有志は、メアリー夫人にその旨を打診した。でも、諸事情により、博士生前愛用の櫛に残っていた遺髪を、御夫人の御教示により墓石に納める事で落着した。父の場合もそれに近い物を納め、分葬とした。親子孫三代が一緒でないと、さみしかろうと言う主旨の元での事だった。

 

●●●

さて、翁は見渡す限りの人っ子一人いない三本木原台地に、豊かな実りが隠れているのを見抜きそのベールを剥がすため、まずは十和田湖を源流とする奥入瀬川から水を引くための用水路を作った.

  (翁は、1855.【安政2.9】63才でこの事業に着手。1859.【安政6】5.4、通水成功。時に67才。そしてその後も、没するまで開拓を続けて行く。

うわぁーッ、何と言う男だろう!これは凄い何てもんじゃない!うむ、あの時、わが故郷には男がいたのだ!今、この草稿時に初めで知った。歴史上の人物はもちろん、現代でも隠居の歳なのに。まるで、君にも”遅いお祭り”が待っているのだ!、と言われている様だ。今ではそのやる気は、『拓魂』と呼ばれる言葉で若い人達に伝わり広がっている。)

そして、それを稲生(いなおい=稲が生いる)川と名付けた。その後、この策が功を奏し稲作が開始された。ちなみに新渡戸博士の幼名は、十和田市(三本木村、三本木町の後。三本木とは、郊外の田んぼの中に松の木が3本、ぽつねんと同じ場所から生えていた事に由来。私も幼少時それを見た)で最初に稲が取れた年に生まれたので、稲之介と命名された。が、その翌年、稲造と改名されていた。つまり、”稲造=稲を造る”とは、十和田市で稲が生育可能になった年を記念して命名された名なのである。また現在の碁盤目状の市街地は、約160年前、翁によってすでに描かれていた未来図の、そのままの姿となっている。

また、太素塚内には翁と新渡戸博士の記念館も有るが、現在、耐震性が問題になり市役所では取り壊しを決定している。が、それを拒否する子孫の新渡戸家とは係争中で、今は開館休業の状態。とにかく我が市は、特に若い人には、そこからエネルギーを吸収出来る物が少ない。でも、都会の生活に疲れた人の心を癒してくれる静寂さと、身も心も清めてくれる素朴な人情味が有る。だから、再起を計るには好適な場所なのだ。そしてそんな開拓地でも、時にはハッとする方に出会う。

(右端が新渡戸伝、真ん中が十次郎、左端が博士、左奥が新渡戸記念館) 

今現在、その場でその目的を果たすべく、日中は市内の図書館で語学等の学習中で有るけど、目の前の通りの向こう側は、私の母も亡くなった所の十和田市立中央病院。でも残念な事に、この病院に救急車が来ない日は無い。日によっては2~3台と続け様に来る事が有る。この稿を投稿する頃には、とみに急増。しかし、それは私の邪推ですけど、恐らく癌では無く、脳梗塞かそれに類した突然倒れた感じの物と思われる。体を動かす事が少ない高齢者と思われる。母の例も見ているが、やはり体を動かす事が重要と思われる。

と、ある日図書館を出たら、その玄関先に御高齢のおばあちゃんが倒れていて、女性図書館員が介護していた。すぐ様、その後救急車が来たが。いやはや、噂をすれば何とかとはこの事かと思い知らされる。どうした物か、今回の草稿時には、この様に今回の稿に関連した事が現実に前後して身近で起こっている。それは警告か、それとも何かの暗示か。(約160年前に予想された官庁街)

第三章 火が付くチョコレート

今は、孤独で暗い感じで過ごし清貧に甘んじているけれど、クリスマスイブぐらいは少し景気を付けてケーキでも食べようと思い買った。そして、付属のろうそくを立てて火を着けた。同封のメモ書きには『火を着けた後はそばで見守る様に』と有った。私は、その文面の意味する所が良く分からず、大過無いだろうと思いゴミ箱に捨て、お袋にもと、それを仏前の所に置いて部屋に戻った。その後、しばらくして、食べ頃だと思った時に戻った瞬間だった。何と、ろうそくの傍のチョコレートのかたまりに火が付いて、ちらちらと微かな火がゆらめいていた。!びっくりしたなあー、もう。でも、大事にならない様にと、すぐ様消し止めたが。そして、その疑問を解決するために、インターネットでその理由を調べた。つまり、チョコレートの原料はココアで、砂糖とミルクを混ぜ合わせて作られるが、その中の有機物で有るココアバターの油脂が燃えたのだ。この時、チョコレートは可燃物で有ると初めて知った。そのメモを甘く見たせいだった。また、母亡き後、仏前には恰好のろうそくを立てているけど、ある日、そのろうそくが倒れていて、そのまま燭台のテーブルに頭をつけて灯っていた。幸い、私が見る直前にそうなった様で、他に燃え移ってはいなかった。仏壇が、火災の火の元だったとはたまに聞くけど(稿を見直していたある日、仏壇が火元かもと言うニュースが出た。これまた身近。)この様な感じなのだなあと実体験し、ケーキや仏前にろうそくを立てる時は油断大敵なのだと教えられた。会員の皆様もお気を付けてね。でも、チョコはとっさの時の固形燃料の代用品としても使える様だ。

第四章 トルコ救援機

いやぁーっ、これまた身近。今、『家庭教師のトライ』で生徒さんに教えているけど、ひょんな事で、我が会の高木先生が巻き込まれた事件に関する英文が載っていた教科書を教える事となった。十和田工業高校3年の生徒さん(東北メディカル学院進学、作業療法士を目指す佐藤瑞己(みずき)君)だった。

何と、あのイラン・イラク戦争中に起きた、そして、高木先生もその中心的人物のお一方となったトルコ航空救援機による邦人救出作戦の事が、高3の英語教材となっていたのだ。この事については、すでに新日本語クラブで高木先生ご自身が御投稿されているし、私も以前の投稿文で紙上をお借りし筆を加えさせていただいたけれど、それはともかく、その下りに差し掛かかった時、「あッ、これは、私の知り合いの高木元伊藤忠駐在員が巻き込まれた事件だった。」と言ったら、その生徒さんは、「えっ!?」と世紀の驚きを示した。私を介して、歴史的に実在した事を実感した瞬間だった。

(邦人救出作戦に驚いたミズキ君) 

しかも、時間と空間を隔てて、私の生徒さんのお部屋で。彼は、これを実習の時のスピーチのネタにした。その当事者の知り合いが家庭教師だと。


また、高木先生のインタビューのコピーや持参した『日本、遥かなり』(門田隆将著)を読破後に、「他の家族も脱出したとは思っていなかった。すごい緊迫感でしたね。」と言って驚いていた。これは、今や、高木先生が英語教科書の中で、永遠の生命を獲得された事の証で有る。ですから、高木先生の若き日のご活躍は、それを手にする日本の生徒さん方を通じ、そのお名前は英文の背後にお隠れになっていようとも、いつまでも語り継がれる事でしょう。何せ、多くの日本人の命を救った立役者のお一方だったのだから。


 第三部 夜明け前

以前の稿でも述べたけど、2021年1月30日(土)にも再度米軍関係者の送別会に招待された。今回の主賓は女性兵士のディクソン軍曹。(今回転任するディクソン軍曹と)

下記で言及するスマホの占いの後だった。場所は三沢市の『牛角』。食べ飲み放題の所。そして、毎度の如くアメリカ人から「あなたがいないとさみしいわ。」と、特に女性兵士から言われる。女性郵便局長のマックさんからは再応募の要請を受ける。再三に渡ると、形を変えたアメリカ式三顧の礼と思わせる。そして、これ以上の心の籠った御招聘は無いと恐れ入る。しかも、あの超大国から。

面接試験は令和3年5月13日(木)に有った。予定より遅れるとの電話連絡が当局からその前に有ったけど。いい事が有る場合の不都合の発生に対しては、常に身構えてはいるが。

ともあれ、試験担当官の郵便局長のマックさんの英語がスムーズに理解出来ず、戸惑ってしまった。互いにマスクしながらとは言え、改めて語学の難しさを思い知らされる。予想違わず、また最後の土壇場で、と。やはり英会話の訓練はいつもが始まりだった。合格発表は6月9日(水)の予定だったが。 

そして・・・、合格!ヤッター!前倒しで、5月19日(水)に通知有り。が、やっぱり、私の予想は裏切ら無かった。蓋を開けて見ると、やはり有る方が定年制を理由に、私の再雇用を拒否していた。でも、有志の方々が郵便局長に進言し落着した。いつも崖から落ちた時、地面に到達する前に手の平を差し伸べるのは異国人。中国でも。

【ひょっとすると亡き父かも】

そして7月1日より任務開始となった。 毎度の事ながら、その様に人生の節目節目にいつも邪魔する物が現れているとは、市内の占い師が言ってくれた物。当っていた。私には天敵が多い。側近では母の死。今度はどんな邪魔か。ひょっとしたら形を変えて来るかも。例えば交通事故とか。と、思っていると、或る夜、家庭教師の帰り、前方にセンターラインをオーバーして来た車が見えた。私は、即座にブレーキを踏み減速した。その後、直ぐその車は対向車線に戻ったが。次はあおり運転か。そろそろ、予想していた通りカンフーを使わねばならぬ日が来るかも。剣舞も”改修”して使えるかも。(何!学無き武は匹夫の武だと!ただの猛人?!それでは、それは知性の欠如と言われぬ様に頭を磨こうっーと。)その後も、日本語レッスンの帰り、自宅近くで正面衝突の現場に遭遇した。いやはや、何故こうも悪運の予測ばかりが当たるのだろうか。かの有名な精神科医の斎藤茂太先生は、そうした諸々の困難等は、”いい事の前ぶれ”とは言っているが。”日の出前”はいつも一番暗いけど。

また、次は自身の健康問題か。そう言えば、国保の検診でコレステロール異常と腎機能低下と診断。問題の無い範囲内とは言われたが、何かの予兆の感じ。生活習慣の改善が必要だとは有ったが。少し再開した酒のせいか。

心電図では房ブロックⅠと。だが、これは害にはならずスポーツマンの勲章だとか。運動をやめれば元に戻ると。以前引っかかっていた症状(不整脈、J波によるST上昇)も仕事の量を減らしたら消えていた。やはり、年は逆らえぬ物。重い物を持つと、足腰にもピリピリ感を覚える様になった。でも、血圧は、工夫した甲斐が有って正常値になっていた。つまり、私の場合は睡眠不足の解消と早寝早起きが、その薬だった。それらの事を、今日本語を教えているあの元FBIのマットさんに話した所、それらの病名について何故か精通していた。そして、それらの詳細について話してくれた。聞けば、大卒(動物学 )後、医学研究所に約10年間勤めたそうな。通りで。その後、中途採用の募集をしていたFBIに応募したら、30代前半で中途採用されたと言う。あーぁ、また、たまげた(驚いた)。蛇足ながら、大学時代に、私が働いた米国のテキサスインスツルメンツ社製のカルキュレーターを良く使ったとか。(基地勤務開始前の検診では、上記の問題は解決されていた。心電図も異常無し。摂食、魚野菜中心の生活に変えたせいか)

また前置きが長くなったけど、還暦もとっくに過ぎていて悠々自適であるはずの私の人生は、緑寿でもこれからだ。あの翁の様に。ちなみに、令和3年4月1日より法律が改正されて定年が70歳となった。だから私はまだまだ働けるが、社会の厳しさを知っている私には、その棚からはぼた餅は落ちて来ない。とは言えスマホの占いによれば(1月時点この時まだ仕事の話無し)、この先半年以内に人生が逆転すると言う。(しかし、当たった!半年後の6月に任務開始。占いも時には信用出来る)でもストレスが障害になっていると言う(ストレス起因の毛細血管出血は周辺の細胞壊死と諸病を誘発)。これを取り除かない限り無理と言う。でも、斎藤茂太先生によれば、ストレスも逆手に取れば活力の源泉になると言う。そして例えの話、平穏な大海原の如くにストレスの無い所でこそ、とんでもない事が起こるのだと言う。

とにかく、私にも今や遅い春が到来した。そして再び米国に貢献する機会が来たのだ!私にとって、これが最後の飛躍のチャンス。ですから、これを逃さない手は無い。それでは、あの占い師の事を心の中の魔除けの守り札としてその除去に勤めながら、大きな希望と夢を胸に秘め、いざ、人生の大舞台に向かって出発進行!ギイチさーん!『ギイチ(男)の夜明け』が近いぞーーッ。(天童よしみさん)

注: 天童さんは私が金沢市在住の時に、金沢市観光会館での彼女のコンサートで拝見している。この時は何故か無料だった。何とも飾らない人柄だった。同じ年で、まだ独身で。だから、ついーーーー。(何考えてんの!)まあ、えーじゃないか。ヘヘーッ。


・・・ 私の家の縁側には亡き母の鉢植えがまだ列を作っている。が、今まで、その花が咲いたのを見た事が無かった。でも、この稿を投稿する前、気が付いたら写真の如く真紅の花が咲き誇っていた。母の我が前途へのエールだっだ(枯れて諦めていたのに)。そして奇しくも、目の前を華麗なキジがゆっくりと歩いて通り過ぎて行った・・・。未来の妻の化身・・・?

 (20210528)

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巷にて


第1章 私の学生は元FBI

私の人生の後半は、日本語教師の世界に入り始めてから、急展開の様相を呈して来た。特に、その世界での世に秀でた方々との出会いは、予想だにしていなかった。それまでは、未来も無く、暗澹たる気持ちで、肉体労働などでその日暮らしをしていたからだ。無論、それで人並みの社会生活が出来る様になった訳では無く、背後で、特に精神的に、私の私生活を守ってくれる、私にとっての現代版『三種の神器』の一つとなったのである。

日本に戻ってからは、陸に上がった河童。中国の大学側から、もてなしていただいた数々の御饗宴は、その日々を、天上の世界での出来事だったと悟らしてくれる。とにかく、その渇きを癒してくれるのは日本語の授業なり、同窓会の皆様とのお付き合い。


その様な中で、日本では、マイクさんと言う会社支店長の個人教授に有り付けた事は、以前の稿で述べた。しかし、氏の場合は会社出張が多く、程無くして終了と言う事になってしまった。英会話の練習に良いと思っていたのに。でも、渡りに船とやらで、今度は、アメリカで定年になり、三沢基地に転勤になった奥様に、御同伴されて来日したオエスターリン・ワット(62)さんと言う方との、個人レッスンが始まった。氏は、Main州の人口約6000人のNew Portland 村出身だった。前記のマイクさんも、同様な小さな村から来ていた。

2020年8月下旬からだった。氏は、私の基地郵便局の窓口にボランティアとして、お顔を見せていた。良く話もした。しかし、私は期間限定で速やかに退職したため、お別れとなっていた。

母は、入院直前、母が分不相応だと考えた車を運転する私を見て「似合うが、しかし、合わない。」と言っていた。本来ならば、悠々自適な生活をしている年代なのに、自家用車までも相応しくないと思った様だ。母の子に対する血のにじむ様な努力が報われなかった悔しさが、感じられた。あぁ、また、毎度の如く小言になってしまった。

第2章 思い出のグワンヤ英会話学校

初めて日本語教師として教壇に立った学校だった。瀋陽市内に有った。過去にやった受験関係の予備校でのテクニックは、役に立たなかった。また、ゼロからの出発だった。やはり、最初は評判は悪かった。状況に応じた柔軟な授業展開をしていなくて、指導書に準じた様な紋切り型だった。其の内、「先生の授業をして下さい!」との声が上がった。ここで、青森県出身で、大戦中は国民的人気歌手だった淡谷のり子の『その人でなければ歌えない様な歌が、例え下手でも、本当の歌だ。」と言っていたのを思い出す。そして、そう言う方に、のど自慢大会の審査員として、合格点を上げていた様だ。先生も、見方によれば芸能人なのであって、その先生独自の展開をするべきだと考えた。後年の薬大での授業でも、評判は良かったけど、先生は教科書の順に沿った展開で、中国の先生は独創的だった、と言う話も聞こえていた。そんな事も有ったのだが、その時はその後創意工夫をした所、「進歩した。」との声も聞こえて来て、辛うじて半年の難行苦行を切り抜けた。

話のついでに、その期間に私の生徒さんの御紹介で、そのおばさんとのお見合いをする事になった。御年38歳の分別盛りの方。日本でも働いた事が有る方で、日本語も出来た。後年、薬大赴任時での先生方とのある宴会で、当時の事を、同席した山形達也先生の今は亡き奥様、貞子先生に「あの時のお見合いの御相手は、38歳で山形先生見たいでしたよ。」と言うと、「まぁーっ、うれしい。38歳の人と比べれるなんて!」と切り返された。先生は、もうその時は、肺がんの病との戦いの最中でしたけど、励まされたのか喜色満面になられたのを覚えている。でも、惜しくも、私の母よりひと周り以上お若くして、また同じく乳がんになり闘病後、今度は運よく完治した母の妹よりお若いお年で、夭折されました。山形達也先生の御無念は、察するに余り有り、この場をお借りして、再合掌・・・。

ちなみに、子供時代は基礎医学にも興味が有り、癌の研究者にでも、との夢を抱いた事が有った。それが、有る事由で物理にしたけど。それにしも、中国で、いつか夢見た世界の本物の人間とお会い出来たとは。前記のFBIも、しかりだ。2005年12月時に赴任の事だった。

さて、その時はもう50歳だった。赴任前は、金沢でその日暮らしをしていた。そのある日、突然、瀋陽大学の先生から日本語教師としての御招聘の御連絡が下りて来た。そして、これが、その後の人生の急展開の発端となるのだった。瀋陽大学日本語学科の赴任は、2005年9月の予定だったが、諸事情が発生して次年度に先送りされ、その年の12月に上記の所に一端納まる事となった。その先生の苦肉の策だった様で、氏の同級生が経営している所だった。そして、急遽、私のための日本語のクラスを設けてくれたのだ。それから、旅以外の長期的な海外生活が始まった。

それがある日、その数か月後に氏よりお手紙が舞い込んだ。状況を案ずると共に、いつか一緒に食事をしようと言う事だった。驚いた。それで早速、三沢市内のタイ・レストラン『スーニー』で昼食会をした。この時、日本語のテキストも持参していたので、あぁ、練習したいのだな、と思い少し面倒を見た。本国で10年間独学したとは言え、基礎は有る物の実際的な日本語会話の経験が少ないと見たので、私は、週1回日本語会話のレッスンを、ボランティアでして上げる事にした。場所は、三沢駅隣接の駅前交流プラザ『ミ~クル』で、その2階には学生さん用の自習室も兼ねる待合室が有った。教材は例によって、『みんなの日本語』だ。基礎が有るため、スピーディーな進行である。これなら、基礎を確認しつつ、生の日本語に慣れさせる様なやり方がいいのではないか、と考え工夫を凝らしている。ふと、その間に間に、氏に「マットさんは、アメリカで何をしていましたか?」とお尋ねした所、「FBI]と来た。びっくりしたなあーッ、もう。「えぇ、ホント!?」

私は少年時代、わんぱく坊主で有った事も有って、一時期刑事になろうと思っていた。テレビ番組のFBIのアクションは、憧れの眼で見惚れていた物だった。それが、半世紀以上の月日を経て本物のFBIと会えるとは。しかし、氏によれば、実際は、その様なアクションみたいな物はごくわずかで、デスクワークが主だと言う。例えば、銀行詐欺等の調査資料関係の処理みたいな物が多く、時には、書類が山ほど有ったりしてうんざりする事も有ったと言う。ついでに、当時の有能な女性上司の事を褒め称えていた。氏は、謙遜してダメ部下だったとは言っていたが、いやいや、定年まで大過無く過ごせた事を見ると、その道ではエキスパートだったのでしょう。それに引き換え、あちらと思えばまたこちらの私は、お恥ずかしい限りである。『お前は、それでも男か!』と怒鳴られそう。

その初っ端に、大中紀元先生(当時68歳)と言う元中学国語教師と出会った。物すごい豪傑だった。グワンヤ提供の二十数回の高層マンションの最上階の部屋にいたけど、氏は隣室だった。と言う事も有って、夜毎に街中での晩酌に付き合わせられた。聞けば、酒豪も原因となりバツイチで、50歳で今の奥様(小学校校長)と再婚され、当時は2人の大学生の娘がいた。

前任地は上海で、退職金をはたいた外国為替が当たり、その儲けで上海でバーを経営したとか。豪遊の限りを尽くしていたようだ。まさにセレブの男。ですけれど、人当たりはソフトで人徳が感じられた。中国では、氏のそこを見込んで日本語教師として採用していた様だ。

写真は瀋陽市内の居酒屋でアメリカ人教師と。右上が大中先生

ここで半年を過ごすが、その後、雲の上の人としか見えなかった方々との出会いが、さらに待っていようとは思ってもいなかった。何せ、中国に来るまでは、ほとんど土方よろしく肉体労働の単調な毎日で、名も無い普通の方々と会うだけだったからだ。だから、その世界では、素性が知られてからは『先生』と呼ばれ始め、何故そこにいるのか不思議がられ、「ここは、あんたの来る所ではない。」と言われたりした。なので、その時の姿を、昔、大衆作家として名を馳せた山本周五郎の、その無名時代の長屋生活と重ね合わせたりした(その作家気取り?)。ともあれ、その出会いって、何って! 決まってるんじゃん、私達の瀋陽日本人教師会。

ところで、グワンヤ英会話学校での私の日本語の授業で、特に熱心な中国人が、お一方いた。30歳前後の男性でしたけど、授業後も熱心に、私に質問のシャワーを浴びせて来た。撫順からはるばる来ていた。実はこの時、グワンヤの経営陣が、私のために日本語受講生の募集の広告を、某新聞に載せてくれていた。それを見て来た様だ。聞けば、当地の日本語学校に通っていたが、ここであまり言いたくないが、そこの日本人講師はまだお若い事もあって、授業が上手くなかったと言う。将来は、日本語教師になりたいと言う。授業の最終日には、感謝の気持ちでしょう、ささやかな晩餐に招待してくれた。どうやら、私の評判は悪くなかった様だ。老若男女の和やかなクラスだった。


第3章 偶然必然

人は誰でも、偶然に何かに出会う経験はする。特に私の場合、博士号を取ってから、必然的に偶然を味わって来た。その事例は、今までの日本語クラブへの稿で述べて来た。でもまた、ふと有る事が思い出されたので、それをここで付け加えて置こう。

あれは、真冬の猛吹雪の夕暮れ時だった。三沢駅跨線橋に差し掛かった時だ。その真ん中で、私の目の前で、一台の軽四がエンコして停止していて、私の軽四の行く手を阻んだ。すると間もなく、そこから一人の初老のおばあちゃんが出て、私の所に来て「車が動げなぐなった。あそこまで、押してけねが(くれませんか)。」と言って来た。あッと思った。それは、あの時のおばあちゃんだったのだ。

それに先立つ、その年の晩春に、私は日立を辞め、ささやかなバイトをしながら、次なる道を模索していた。そして、真夏の或る日の昼下がりの出来事だった。バイクに乗り帰路に付こうとした時、その脚台で左足親指の爪を剥がしてしまった。仕方なく、その後は血を滴らせながら運転した。だが、泣きっ面に蜂で、その道中、とんでもない土砂降りに遭遇するのだった。そして、水香さは増し、泥水は親指に染みって痛む。やむなく、通りがかりの民家の軒下に避難し、一時雨宿りをする。するとその時、あの初老のおばあちゃんが家の中から出て来て「中に入って休んで下さい。」と言って来たのだ。実社会では、遠慮の美徳は、時には相手の気持ちを害する事にもなるのも体験していたので、私は素直に、その御好意をお受けする事にした。ついでに、足を怪我している事を伝えると、即座に包帯を御用意してくれた。なので、さっそくそれを親指に巻いた。そばで、無垢な女子中高生と思われるお孫さんが、心配そうに見てくれていた。

その後、どう言う訳か、雨が速やかに晴れ上がったので、一礼して再出発し、故郷の行きつけの外科医院へ急いだ。

着くと、そこの先生は、即、ピンセットで剥がれた爪を挟んで、瞬時にその爪を剥がしてしまった。痛いなんてもんじゃなかった。先生がおっしゃるには「親指の爪は2段に分けて生えて来る。」だそうで、実際その通りに生えて来たので、3か月ぐらい通院した様に思う。

ともあれ、そのおばあちゃんと2人で、近くに有った交番の広場に、エンコした車を押して行き停車させて置いた。そのおばあちゃんは、その時三沢市内のほっかほっか弁当屋に、パートの仕事に行く途中だった。「乗せてってけねが(くれませんか)。」と言って来たので、助手席に乗せて向かった。車内で「あの時はどうもありがとうございました。」とお礼を述べたら、「あの時とは比べられねー。」だった。そして、着いて降りる時、「お礼、へなぐなってしまった(出来なくなってしまった)。」と言い残して、店内に入って行った。いや、これが私からの形を変えたお礼だった。実は、あのハップニング以来、つい、その方へのお礼をするのを忘れていたのだ。恐らく、お釈迦様が、その方の善行を天上界から見ていて、私にこう言う形で恩返しをさせたのだろう。善行は、例え、その見返りを望まなくても、どこかで誰かが見ていて見逃さず、非難されるすべの無い恩返しをさせるのだろう。この時、30歳。普通ならば、新婚の適齢期なのだが。その希望も胸に秘めながらの、この後に迫り来る暗雲をも予想しながらの、2回目の失業生活中だった。


第4章 長寿遺伝子と言われる『サーチュイン遺伝子』

この稿を奏している時(2020.9)、有るテレビ番組の『ナゼそこ?』を見ていたら、65歳で結婚し、今6歳の娘がいる70歳の夫とかなり若い奥様が出ていた。私も、もう60代半ばである。まだ明日をも知れぬ身ではないが、病魔に取りつかれる適齢期でもある。それでも、この様な方に励まされ、今や遅くなしとの思いを再度強くする。

時々、私は実際の年より10年ぐらい若く見られる。そして、「どうして若く見えるの?」と聞かれる事も有る。少し前、NHKで上記に関するテレビ番組を放送していた。そこで、お腹を空かせる時間帯を作る事、魚中心の食生活をする事、大食を避ける事等を報じていた。そうすれば寿命が伸びると言う。その事が、お猿さんの実験で確かめられていた事を、ピックアップしていた。つまり、数年に渡って同期間、餌の少ないお猿さんと餌の多いお猿さんを比べて見たら、前者の方が後者より若いままだったと言う結果が出ていた。だからと言う訳ではないが、そんな事も考えて自炊?しているのですけど。その時、サーチュイン遺伝子が活性化され、寿命が伸び若さが保たれると言うから。

再び、この章の初めに戻るが、凡子多病よろしく、この年になるまで大病はしなかったが、小病を良くし、病院にお世話にならない年は無い。近頃は、そのため痴呆症に気を付けている。その専門医によれば、数々の予防法の中で、恋をする事もその一つだと言っていた。もし、これから私に有るとすれば、それは老いらくの恋である事の誹りを免れない。だが、恋を知らぬ者は、いくら大器でも底の無い大器である、と言われる。日本語クラブへの投稿文では、いつも最後尾の所で似た様な話をして来たけど、もし、ホントにいいと思ったら、ダメ元で語り掛けてみたいと思っている。その時は、大学構内で未来の妻にお声をお掛けになったと言う、かの英邁さを誇る山形達也博士の若き日の、知略的な求愛行動様式を見習いましょう。そうすれば、その御利益が当たって、事が上手く運ぶに違いない。


第5章 『グッドバイMr.G』でなかったMr.G

前回の稿で、『グッドバイMr.G』の章を設けた。だから、もう去る者は日に疎し、の心境でいた。それがある日、元同僚から「今度移転する外人さんの皆さんの送別会が、9月始に有るから、その外人さん達の頼みで出でくれないか、と言う事何ですけど。」とのお電話が入った。予想だにしていなかった御連絡で有る。

今回移転される方は、リーダー格のオルソンさん、フィリピン系のドリアさん、そして、後で移転が分かったパラオ出身の副郵便局長の女性のシンプソンさんだった。前者の方々は、私の送別会の時に豪華なプレゼントをくれた。二児の母のシンプソンさんからは、その会の終了後、「あなたがいないと、さみしい。」と言われ、そして、欲しい物は無いかと言われたので、ステーキと言った所、後日約束通りに知人を介して届けてくれた。そのステーキのうまいの、なんのって。基地内の外人専用のスーパーのカミサリーで御購入された品では有ったけど、そこでは幼少期から見ていたけど、何とも質のいい物ばかりを取り揃えている。この様な物を食しているから、アメリカ人は大きくなるのである。

所で、オルソンさんは本国へであるが、ドリアさんはドバイへ、シンプソンさんも一時的に外国の米軍基地に配置変えと言う事で、ドリアさんからは、戻って来たら、また一緒に飲もうと約束された。

彼らには、私からもプレゼントをして置いた。送別会の場所は、三沢市内の焼肉屋『一心亭』だった。定額料金で食べ飲み放題の所だった。しかし、初老の私はもう、若きの日の半分しか食えない。無理して食うと吐いたり、次の日に腹痛が襲って来る様になった。精神的に若いつもりでも、肉体は正直だ。

普通、基地の従業員は、退職後何等かのパーティーに御招待される事は無い。私もあまりその例を見聞きした事が無い。では、何故私に、しかも年配者に。今では、東南アジアを中心に、外国人の友達が複数人いるが、それに反して日本人の場合は少ない。日本人には気が付かない何かが、彼らには見えるのかも。ですから、その良さを、私にしかない何かを、次回の我が同窓会の幹事の時にも、発揮出来ればいいね。

(完)

吉報: 前回の稿でガル店長についての記事を掲載しました。その中で予告した様に、今度、2020年7月3日(金) に、その若僧さんは、札幌に居酒屋『旬味 粋彩』をオープンしました。何かの折に御当地へお出かけの方は、ついでにその店にお越し下さいませ。

所在地:札幌市中央区南3条西3丁目5-2 都ビル6F

『旬味 粋彩(シュンミ スイサイ)』

電話:011-215-0323

営業時間:17:00~23:00(月~土)日曜定休

コース料理のみの店舗で完全予約制(14席)

特別な御祝い向き

(次はモンゴルに行くの?:外野)

 (20201001)

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ギイチの晩年修学旅行

 

第1章 今も息づく明治の胎動

第1節 期待と興奮と

いやあー、ハラハラドキドキの旅でしたね。と言うのも、待ちに待った当会同窓会が今年も遂にやって来たのはいいが、そこへの道のりが、本州最北端の青森にいる私にとっては、その最南端の山口までの長旅となったからだ。が、これは一方では、ある意味では絶好のチャンスとなった。すでに、前々回の新日本語クラブへの投稿文でも述べて置いた様に、あの同姓同名の田中義一元総理の生誕地に行ける機会となったからだ。これは積年の夢だったが、叶えられるとは思ってもいなかった。それが、思わぬ幸を奏して実現された。同時に、他の明治維新の志士の遺構等も訪れ得る機会とも成った。

さて、その地に向かって出立したのは11月28日(木)の昼過ぎだった。まず、七戸十和田駅から新幹線に乗った。その足で、東京駅経由で京都駅まで行き、そこで山口県の日本海側の萩市行きの夜行直行バスに乗った。その前に、多少時間が有ったので、京都駅の近くで牛丼の夕食を取った。その時の京都の夜は、肌寒い小雨だった。そして、その後、京都を夜8時20分に出発し、萩市の最終停留所に着いたのは翌朝9時40分。降車後、タクシーで田中義一元総理別邸へと向かう。その時の女性ドライバーは、東北訛りの私の言葉が分かりづらかったらしく、「もう一度言ってくれませんか。」だった。この様な事は、この地に来て何回か有った。また、この地に降りてから、遠くから来た人間には、交通のための足が少な過ぎる様な感じがした。この市での散策後、次の乗車駅へ向かう交通便の希薄さは予想外だった。同窓会には東荻駅から乗車して向かったが、かろうじて出発1分前に乗車し得た事も、その一端を示している。会の終了後に行った太平洋側の小倉駅等が林立する瀬戸内海側とは、雲泥の差だった。


第2節 夏みかんの木

インターネットでは見てはいたが、田中元総理別邸は思っていたよりは質素で、その質実剛健の人柄が伝わって来る様な所だった。広い庭には、当時の産業育成の一貫として生育された夏みかんの木が、所狭しと生え揃い残っていた。その別邸の年月を感じさせるガラス木戸の玄関を開けると、ガイドと思われる

初老のおばさんが出て来たので、「田中元総理の別邸ですか。」と問うと、「はい、そうです。」とのご返事が返って来た。その後、1階,2階と元総理のお部屋へ案内してもらう。入場料はたったの100円。お部屋には、数々の遺品やお写真が展示されていた。陸軍大将時代の軍服は、ガラス張りのショーケースに納まっていた。元総理の御長男さんも政治家としてご活躍されたらしく、佐藤栄作元総理内閣への入閣時の写真も有った。元総理の伝記も読んだ事が有るが、個性的なエピソードも少なく、人が気が付かない内に出世街道を登り詰めた様だ。

大望は、凡人にふさわしい努力で日の目を見る事の見本だった。未だ日の当たらない人生街道上の私は、反省する事しきり。

退邸する時、そのあばさんから、可愛らしいおミカンを数個頂く。どう言う訳か、このミカンは約2か月経っても腐らなかった。そしてまた、この時間帯の入館者は私一人だった。

その後、タクシーを呼び、元総理の銅像の有る所へ向かう。着いて見て驚いた事は、その礎石の高さだった。10m前後だったと思う。普通ならば、2~3m前後なのだが。これを見て、私の父が彼の様に高くそびえてほしいと願い、同じ名前を付けた理由が分かった。つまり、社会に、この礎石の高さと同じくらいの貢献が出来る人間になってほしかったのだ。亡き母も。でも、まだ、愚かと言えども惑わずの街道を歩いている。全くのおっぱか馬鹿息子。母亡き後、朝方に母がいた居間の方から、「ギイチー!」と呼ぶ声が二度ばかり有った。遅刻しそうになった時には、この様に呼ばれていたが、生前の時の様に「うッー」と言って目が覚めた。あの世に行ってからも、バカ息子が気になる様だ。その時は、夢とも現実とも区別が出来なかった。 

第3節 何ともお綺麗な花々

ふと、あの案内人のおばさんから銅像の案内にと、手渡されたガイドマップを見ると、この小さな町に不釣り合いな程、明治維新の志士達の名が多い事に気が付き驚嘆。

伊藤博文、木戸孝允、高杉晋作、桂太郎・・・等。何故かと自問した。荻市は、元はと言えば、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が減封された地で、彼が本拠とした城下町と言う。いずれにせよ、圧巻は吉田松陰先生。小さい時から、テレビドラマ等でその名は知っていたが、実際にいたと言う実感が湧いていなかった。

しかし、今回、先生のお墓をお参りし、その子孫代々に渡るまでの墓石をその周囲に見ると、社会からの誉れ永代に渡って続いている事が感じ取られ、今度はそれを実感した。それにしても、どれも何とも言えないお奇麗な花々で飾られているではないか。未だに、社会から褒め称えられている証拠だった。だから、まだ先生が生きている感じがした。なので、これを見習い、亡き母の仏前にも地味な物は避け、綺麗な花を生ける事にした。とにかく先生は、何と言っても、日本が他のアジア諸国の様に植民地となり、日本国民が苦難の道を歩むのを未然に防いだのだ。 その後、お墓を後にし、近くの松陰神社に有る至誠館や先生の歴史館を見学した。その末路は、すでに衆知の事実で有るが、最後はお若くして、先見の明が無いため、日本が存亡の危機に瀕している事を悟れなかった幕府の役人の手にかかる。さぞかし、御無念だったろう。私などが先生の弟子になっていたら、さぞかし、このアンポンタンめ、といつも叱責されていそうな程にお堅い人物と想像された。だが、何の取柄も無い人間の中にも、その価値を見出そうとしていた先生の心の深さと広さは驚嘆に値する。その後、松陰食堂で昼食を取った。第1節で述べた東萩駅には、すぐタクシーが拾えて行けると、そこの食堂の方から聞いていたので、のんびり取っていた。

が、昼食後、タクシー会社に電話すると、「予約で次まで時間がかかります。」との返答だった。この人口の少ない、たかが4万6千人ぐらいの所で?いや、前記した様に、明治の歴史が凝縮された町であるせいだと感じた。その場所に行く観光客の多さを示していた。ケンサキイカ等の珍味も有る所のせいも。とにかく、あわてた。徒歩では約15分かかる所。競歩よろしく、息も絶え絶えに歩き着いたのは出発2~3分前。これまた慌てて切符を買い、首尾良く乗車したのは出発1分前。後、もう少しで西長門リゾートホテル到着が大幅に遅れる所だった。何せ、次の電車の乗車時間までかなりの間が有ったからだ。乗客数が減少傾向に有るための様だ。それにしても、たったの一両編成で、乗客は私と後部座席のお二方だけだった。

第2章 ♬♩♪~は~るばる来たで~山口~♪♫♬

 第1節 輝き続ける太陽

ホテルへは、無人の降車駅の阿川駅からタクシーで向かった。そこへの途中、同窓会の2日目の行事が行われる、金子みすゞ記念館、青海島の有る仙崎駅で乗り換えた後の事だった。列車は、これまた1両編成のワンマン。山陰本線の名にふさわしいとは思えぬ寂しさ。仙崎駅のホームに有った、そこの地域の案内図を見ていると、私事で行けなくなった残念さが込み上げて来た。カタン、コトン、カタン、コトン・・・。沿線沿いも単調な田園風景が続く。阿川駅に着くと、駅舎も無い侘しい所。それでも、タクシーだけは常駐していた。さっそく飛び乗り、目的地の西長門リゾートホテルに向かう。

着くと、すぐ南本御夫妻とフロントでお会いした。なので、今回も男性組では最年少のせいもあって、まるで長期の海外出張から帰って来て、慈父慈母に会ったかの様に話込む。相も変わらない、太陽の様な元気さだった。そう言えば、約12~13年ぶりでお会いした阿部玲子先生も、未だ大学生見たいで、エネルギッシュだった。後記する露天風呂から出た所、「あッ、田中先生!」と一瞬、声をかけられ、これまた、一瞬、中国の教え子かと錯覚に落ち入った。今は、威風堂々となった異国の夫とお子様を同伴しての参加だった。また先を越された、とうらやましがる小生だった

写真は同窓会の方々「右端が高木先生」)

ホテルの部屋から望む南国の外景は絶景だった。南国の地は、昔、大卒後、最初に勤めた日本テキサス・インスツルメンツ社の出張で、埼玉県鳩ケ谷市から九州の別府の近くの日出(ひじ)工場に来て以来だった。そのエキゾチックな情緒は、ヤシの木見たいな物等を見るにつけ、北国では感得出来ない物で有る。あの日は、生まれて初めて飛行機と言う物に乗った日だった。羽田から大分空港までの便。この出張命令を受けての出発前、「俺、飛行機に乗った事がないんだよ。」と言ったら、「おい、心臓大丈夫かよ。」とある上司。正直、胸が高鳴りをしていた。それはJALだった。機首部分に着席し、リッチな気分になった。別府のホテルでの料理もおいしく、おまけにお小遣い付きと来た。だから、ついでに別府湾で大群を成していたボラの釣りに興じた。帰りの羽田の荷物回転ベルト上では、私のクーラーの取っ手のベルトには、ユーモラスにも、『鮮魚』と言う札が付いていたっけ。ウフㇷ・・・。帰社後、社内でもその事が話題になった。また、入社早々、上司の御自宅に招待され、実力不相応の豪華な接待を受けた事も有った。この時も感激した。が、当時はまだ、行く末、大きな壁が待っている事が予見出来ない、社会の厳しさも知らなかった青二才だった。ある上司から、「学校のテストは、百点でも零点でもいい。しかし、社会人は完全であらねばならない。」と言われた事が有る。厳しかったが、今ではこの事が折りに触れて役に立っている。こんな事もあったので、社会人1年生は誰でもああなんだろうなあ、とその日々を同時に懐かしみ、惜しむ。そして、いつも大魚を逃すと悔いる。帰り来ぬ青春は、大切にしてあげたいものです。

第2節 その時歴史は動いた

さて、事の始めに角島散策となったが、そこの角島灯台では、高木元瀋陽日本人会会長とお二人で、その10m近くのらせん階段を登った。この時はまだ、先生が歴史的な人物で有る事を知る由も無かった。それはともかく、今でも血栓予防のためも有って、柔道の稽古をしている私は自信は有ったが、それでも半分ぐらい行くと疲れ気味になり、足取りも重くなった。

第2節 その時歴史は動いた

が、目の前の、私よりも若干年上の高木先生は、スタスタと登り続けているではないか。びっくり。しかも、登り詰めた後、その展望台をさりげなく歩き回る。当の私は、「こわい~~ッ。」と言って、すぐ様、階段の方に戻ったのだった。 お伺いすれば、少林寺拳法の嗜みがお有りとの事。道理で、お顔も現役時代のままを思わせる。何だか大学の部活動の先輩見たいな感じ。とにかく、私も瀋陽薬大のそのクラブで、少し習ったが、先生は師範の域とご察せられ、戯れにも対局すまじと恐れ入る。何となれば、瞬時に神縛りに会い、その後は言わずもがなだからだ。でも、その武道を通じて磨いた先生の人間性には、何気無い雑談の中にでも、その豊かさが感じられた。私はそれを、その他の事も含めて数々の厳しい試練を耐え抜いた後、が、しかし、黙っていても、天から人生の真理が滴り落ちて、それが口先でなく肌に沁み込んで行った者の見本で有ると考えた。ちなみに、中国のカンフーは防御のためだそうだが、実際、かじって見ると、踊りの様に舞ってはいるが、それで相手をたぶらかし、隙を見て相手の急所を一撃で突く技。もし衝撃力が強ければ、たったの1回で死に至る危険極まりない武術だった。特に、薬大のクラブにも達人みたいな学生もいた。カンフー映画とは違うその俊敏な動きに、背筋が凍る思いがしたものだった。

こんなカンフーを何故やるのかと問われるが、私は今まで4回も泥棒に入られた。その内、1回は犯人を目撃し、もう1回は泥棒だと思わず、それと話をしていた。だから、この次は・・・とエスカレートしそうなので、防御のため、きちんと技を身に付けて置く必要が有るのだ。実社会は、頭がいい、人がいいだけでは通らないので、万が一のため万全の備えをして置く必要が有る。そして、私の推理力は良く冴えていて、この次は確実に命を懸けた格闘が待っているからだ。また、柔道は柔術から危険なテクニックを取り除き、人間形成のために作り変えられた物で、見かけとは違って実戦向きではないからだ。

ところで、この段落を書いている内に、ひょんな事から、先生の新日本語クラブへのインタビュー記事を見た。そして、どんでもない人物で有る事に気が付き、2度びっくり。あのイラン・イラク戦争、天安門事件、台湾中部大地震の当事者だったとは。先生の行く先々で、先生を待っていたかの様に歴史は連動して動いたのだ。私は知らない内に、歴史的な人物のそばにいた。トルコのエルトゥールル号遭難については、以前どこかで見聞きした事が有ったけど、まさか、それに関係した方が目の前にいたとは。タイムトンネルの世界に入った感じがする。ついでに、高木先生が登場する『日本遥かなり』(門田隆将著、PHP研究所)は、早速注文し読んで見た。特に先生は、イラン・イラク戦争の時は、伊藤忠商事テヘラン支店の第一線の商社マン(当時35歳)であって、テヘランからの脱出劇(1985.3.19)は、本当に緊迫の連続でしたね。その後の2010年、トルコのアヤイリニ教会で開催された『日本・トルコ友情コンサート』での、当事者の邦人とその関係者との再会の下りでは、私も感涙した。高木先生、お疲れ様でした。


第3節 大河の如く

ともあれ、その後、ホテルに戻り入浴したホテルの大浴場での露天風呂から見た、水平線上に威厳有り有りに浮かぶ太陽は、当会の猛者の皆さんの、未だ衰えを知らぬ心意気と重ね合わさった。励まされる。また、懇親会でお酌されていただいたお酒は、今まで感じた事が無いうまさだった。

今は、断酒はしているが、母のストレス起因と思われた癌発症を見て、パーティーぐらいの時は、少しはストレス解消のため飲むようにしている。それは、南本先生のお酌。うまいはずだった。とっても高額だっただけでなく、皆さんと一緒に飲むお酒はおいしいのだ。だからと言う訳ではなかっただろうけど、その場で次回の幹事を仰せ仕る。いいでしょう。会発足以来、長きに渡って、北方では開催した事が無かったのだから。都合が続く限り四苦八苦して見たいと思う。今回は、大河の如くゆったりとした、心に落ち着きをもたらす宴会だった。これは、皆さまが心豊かな方々で有る事の証左である。

ホテルの部屋では石井先生と同室した。前回は、碩学で寸隙をも見逃さぬお目、お耳を持つ山形先生とであったけど、今回は、実務及び現実的世界での経験が御豊富な事も有って、人間関係が巧で人をまとめるのもうまい長老だった。何事にも、特に人間関係において不器用だと非難され、どこへ行っても実力の無さを指摘される私には、頭を垂れてその無類の金言を拝聴し、人生の指針とする時間帯だった。そして、期待通りの展開となり貴重な時間を過ごす。

次の朝は、阿川駅から下関駅に山陰本線で行く事ばかりを考え、その難儀を予想して気が気ではなかった。朝のバイキング形式の食事も、その味を気楽に味わう処ではなかった。が、それも徒労となった、首尾よくホテルの方が、当ホテルの下関駅までの送迎バスをご案内してくれたからだ。ので、その後、スムーズに新幹線乗り場の小倉駅に到着出来た。よって、ホッとして会を後にしたのは言うまでもない。下関駅から小倉駅の間は電車に乗った。この電車の中で見た若き乙女達は、南国の情緒を思わせる風情だった。シビれる。しばらくして一瞬暗がりになったが、それは海底の海峡トンネルだった。この地には、関門海峡トンネルの他にも、いくつかのそれ用の海峡トンネルが有った様だ。ともあれ、この会の懇親会は、いつ来ても心温まる。また、来ようと心に決めて帰路に付く瀋陽日本人教師同窓会だった。私に生きる勇気をくれる、ファンタジーの世界の一時だった。

15年前の1回目の中国行きでは、ある女子留学生の家族から瀋陽一の『龍~』とか言うレストランに招待され、雲の上の街道が始まる予感がしたものだった。北陸で、その学生を援助したからだった。今はその街道は無いが、いつかは見えて来ると思わせる同窓会だった。

 

第3章 知己有り遠方より訪ぬ

第1節 世界の漆の権威

小倉駅に着いたのは昼頃。腹ごしらえに駅内の回転ずしに入る。その後、午後1時過ぎ発の新幹線に乗った。昔、弘前大学の国際交流関係で知り合いとなり、元弘前大学教育学部教授で、今は広島市在住の弘前大名誉教授の佐藤武司先生(86)を、帰路の途中なので、この『修学』旅行の機会に表敬訪問するためだった。小倉駅構内は、東京駅を思わせる程に小綺麗だった。さて、ここでもまごついた。ホームに入れたのはいいが、所要の番線がどこか、一瞬不覚となり、今しがたの切符の所在も分からなくなった。そうこうする内に、列車がホームに入り狼狽し始めた。が、運よく、両方共察知し列車に乗り込む。いやあー、ハラハラドキドキ。

とにかく、午後3時にお会いする約束だった、が、到着して見ると約数分遅れだった。光栄にも、ご自宅の前で、御夫妻共々お待ちしていた。先生は、『あっぱれ!津軽塗り』(弘前大学出版会)の著者でもある。専門外の私も購入し拝読した。それはそれは、漆の世界を通しても、人生や社会に潜む真理を覗き込めると思わせる書物だった。また、先生の教育手法には権謀術数的な所がお見受けされ、学生にも信望の厚い教官だった。寄る年波は隠せない所がお有りだったけど、その健啖ぶりは健在だった。

先生には、まだ弘前市在住の時に、瀋陽薬大赴任前にもお訪ねし、先生独自の授業展開方法を伝授してもらった事が有る。これを、薬大の日本語の授業に応用して見た所、すこぶる評判が良く、「後、もう1年居てくれ。」と言われた。

帰り間際に、広島駅構内のお店でお好み焼きを御馳走になった。それは、青森では見た事が無い料理方法で、特に牡蠣のフライ料理は抜群のうまさだった。

そのうまさに浮かれた事も有って、次の目的地の大阪駅への新幹線には、出発時間の見誤りで、すんでのところで乗り遅れる所だった。次の目的地の大阪へ向かって乗車したのは、これまた出発1分前だった。危うい所だった。ハラハラドキドキを通り越し、断崖絶壁のそばに来た気分になった。次からは、出発時間前に十分な時間的余裕を持って待機しようと心に決める。何はともあれ、先生は、漆に関しては日本と言わず世界的な権威であられ、米国の大学等でも客員教授も歴任された。その道は奥義を極めた物であり、平々凡々たる風姿にはその秘伝が込められている。また、先生のご専門の性質上、実業界にも幅広い人脈が有り、その世界でもさり気なく渡り歩く術の持ち主であった。まずは先生から、年甲斐も無く、夢と希望を頂いたお茶の時間だった。奥様から、「また、来て下さい。主人のボケ防止にもなりますから。」と、ご丁寧なお別れのご挨拶もいただく。


第2節 ガル店長

昔、1回目の中国行きの前に、金沢で、偶然、外モンゴル人家族と知り合った。この事については、以前の日本語クラブに投稿しているので、ご存知の方もおいでだと思う。それから長き年月が経ち、今回ひょんな事から、この旅行を利用して、その次男坊と会う事になった。大阪市の居酒屋『いやさか』のガル店長(27)である。当時はまだ小学6年年で、その名は”火が旺盛に燃える子”と言う意味で、そのまま日本語名として使用していた。

さて、大阪駅に着いた。大阪には、1回、大学時代に足を運んでいるが、年月も立っているせいか大阪らしい感じがせず、どこもかしこも日本の主要駅は、東京駅見たいな感じがする様になったと思った。夜7時に会う約束だったので、早速タクシーでその店に向かう。少し遅れて彼と会ったが、それでも近くの喫茶店で談笑してくれた。いやあー、淡々とした口ぶりだった。

しかし、日本語は日本人と変わらなかった。おそらく、その業界は厳しいので、立つ者は倒らざる様にと修行を積んで来た様だ。聞けば、18歳の時に大阪で修行を始めたそうだ。今は、嫁さんももらい、一男児の父でもある。若いのはいい、とただただ感嘆する。近々、札幌市の支店に転勤になるとか。その地でも修行を積んだ。今度は青森に近くなるから、機会を見て飲みに行けるかも。 話し込んでいるうちに、アッと言う間にその1時間は過ぎた。そして、お別れとなった。 彼の父方の祖父は、モンゴルの首都ウランバートル市の国会議事堂前に有る、モンゴル独立の英雄スフバートルの騎馬像を製作した彫刻家だった。とにかく今度は慌てないようにと、東京行きの夜行バスの出発地の梅田モータープールに、1時間前に着いた。彼は、そこへ行くためのタクシー乗り場まで、私を案内してくれた。運転手さんには前記した様な事が有ったので、早目に来たのだ、と話し、そして話が弾んだ。そのバスには、若い外国人カップルが多かった。格安料金を狙っての乗車であるが、座席で雑魚寝する姿は、若い者には貧乏が似合うと思った。しかし、初老の私には似合わず、今まで何をして来たのか、ちゃんと稼いで来たのか、との誹りを免れないと思った。とにかく、朝、東京駅近くの八重洲鍜治橋駐車場に着き、早々に東京駅で青森行きの新幹線に乗り込んだ。あ~あ、また、単調な毎日が待っている。まだ、試練の日々が続くのか・・・。

 

第3節 あの日の留学生は今

英会話が出来、多種多様な職種を経験して来たと言う事で、評判を聞き、その知恵を頼って来る留学生が増えた。特に、東、東南、西アジアからの、金沢で。作家の五木寛之の出身地であり、由緒ある歴史がもたらす重厚な雰囲気が漂う町だった。私は、この地に総計約15年近く住んだので、私にとっては第2の故郷でも有る。また、そこは何だか訳の分からない希望をもたらす町だった。そこでバイトをしながら、50歳前まで海外に関した仕事につけなければ、見切りをつけて青森に帰り、星雲の志は捨てて平々凡々と生きようと思っていた矢先に、中国行きを実現させてくれたのも、この町だった。

さて、同窓会に先立つ事の10月26日(日)の東大駒場での日本語教育能力検定試験後の夜に、夜行バスで金沢に向けて出発した。そこで、金沢で知り合ったバングラデシュの、今は大学教官の方々と会うためだった。バングラデシュの大学教官のシディックさん(心理学)(左の写真はシディックさんご夫妻と)、準教授のショヘルさん(化学工学)、小松市でソフトエンジニアをしているインド人のポールさんらで有る。

シディックさんさんは、9月から11月の3か月間、金沢大の客員研究員として来日していた。いずれも、2011年に瀋陽薬大に赴任する前まで、金沢の留学生ばかりが住むアパートの北友寮で、一緒だった留学生ばかり。そこで、彼らに、バイトに役立つビジネス日本語の特訓をした物だ。経験上、漢字圏以外の方々への日本語の指導は、難しいとの意を強くした。とにかく、今や皆、妻帯者となり、一児も設け(ショヘルを除く)、順調に行っている。ははあ、また、先を越された。その夜、ショヘルの家で夕食を御馳走になる。うまい!お三方の家族一同が会しての宴。(写真はバングラデシュの主食) 

そこでは、私の嫁の話で持ち切り。以前、バングラデシュの女性の方でよさそうなのがいた、と言うと、「君に合っている!結婚しろ!」「バングラデシュの女性はかわいい!」等々、嫁さん談義に話が弾んだ事であった。帰りは、シディックさん運転のお車で、金沢駅まで送迎してもらい、これまた出発数分前だったが、東京駅まで夜行バスで帰路につく。彼らから、「また、来てください。」と声を掛けられる。乗車後、心の中で、私は彼らの成功の一助となっていたのだと一人ほくそ笑む。


第4章 グッドバイ! Mr.G!

山口への『修学』旅行から、しばらく経った12月14日(土)の宵に、勤務先の三沢基地でクリスマスの前哨戦みたいな忘年会が、基地内のO-クラブと言う大宴会場で開催された。多くの方がご参加され、私のポストオフィスの職員の皆様も、もちろん、参加した。ハッピーホリデーと言う名の行事だった。

バイキング形式の料理、抽選会、若者のダンス、各職場風景のビデオ鑑賞等々。アメリカのおねいちゃん達はキュートだし。バックグラウンドミュージックも素敵。地元では、基地の世界は羨望の眼で想像されている(写真は基地内のクリスマスパーティー)

確かに、入って見れば和やかな雰囲気ではある。しかし、彼らの社会生活自体の日々の生活苦は、私達日本人とは変わらない様である。それでも、日本にいて、手短に異国情緒の一端を感じれる空間で有る事は間違いない。こんな基地も2020年3月31日でお別れ。40代の時も含めて、約6年間のアメリカ人との勤務はもう終わる。しかし、英語の伸びには限界が有った。ともあれ、今でも憲兵隊通訳時代のあだ名のMr.G(Gは義一のGiのG)で、いつも外人さんから、そう呼ばれて勤務している。それは、米軍基地の謎の男と言う意味合いだった。しかし、それで呼ばれなくなる日はもう遠くない。基地従業員の定年は60歳であるが、その後、希望者は65歳まで1年ごとに更新出来る。その後、何かに秀でている方は、それ向けのポストが待っている。だが、私はお寒い限り。日暮れてなおも厳しい試練が続く。今こそは、正に生の英語も勉強出来る世界からのお別れだ。兵隊さんとカラオケに行く事も、もう無い。グッドバイ! Mr.G!


追記1:福島県の除染作業のルーチン業務

5年前、中国から戻って来てから短期間、福島で除染作業の仕事に就いた。国の仕事には一抹の使命感を感じる。興味の有る方には、一体どんな作業が行われているのか興味津々だと思われるので、そのルーチン業務を御紹介したいと思う。面接は環境省のトップの方とだった。

~ 5:00  :起床

5:10   : 朝食(おばさん達の手によるバイキング形式)

6:00   : 宿舎出発(南相馬市、マイクロバスにて)

7:00   : 朝礼会場到着(小学校校庭)朝礼(飯館村)約1000人集合

8:00   :各班に分かれて小学校出発

8:30   : 現場到着 ブリーフィング (川俣)

8:45   : 作業開始

10:00   : 小休止

10:30   : 作業開始

11:30   : 現場から昼食のため小学校に戻る

12:00   : 昼食(小学校校庭内作業待機所にて仕出し屋の弁当)

13:00   : 小学校出発、現場到着後作業開始

15:00   : 小休止

15:30   : 作業開始

16:30   : 作業終了、後片付け、その後宿舎へ

17:30   : 宿舎到着、その後任意に入浴、夕食(おばさん達の手による

バイキング形式)

22:00   : 消灯

作業内容:

地面の草等を削り取り、フレコンバッグに入れる作業。ただ、山での作業は斜面の登り降りが大変なので、一日中登山をしている錯覚に捕らわれる。

日当は1日1万5千円(今1万6千円)。宿舎費を引かれて手渡される。結構な額であるが、危険手当1万円が付いているからだ。休日は日曜日のみ。

部屋は相部屋。でも、ビジネスホテル並みの設備。食事はバイキング形式でとてもおいしい物ばかり。至れり尽くせりの待遇であるが、そうしなければ作業者が集まらないからだ。作業者は定職につけなかった方が多いが、その他は自営業がうまく行かなくなった場合とか、定年後、過去の仕事の経験を生かそうと来られる方もいる。作業区域は、事前にお役人さんによって設定されている。

 (20200202)

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北の守り人


今年平成31年3月27日午後10時57分、私の母は、便秘(後にスキルス胃がんと判明)の症状のため十和田市中央病院に入院中、合併症の脳梗塞が元で永眠。86歳。天寿を全うす。年齢的には悔いは無いが、小生は悔い有り。つまり、血栓が伏兵として母の体内に潜んでいた。それを見抜けなかったのだ。私の油断が母の死期を早めてしまった。

昨年一月頃、母に少し忘却の現象が見えた。調理用のまな板は未だに見つかっていない。掛かりつけの医院の看護師も、少し話がおかしい、とは言っていた。その時アルツハイマー病かなと思ったので、大病院で精密検査をさせようと考えた。が、症状が治まったので行かずじまいだった。そのため、私の優柔不断による結末が、この先で待つ事になった。

写真は「母の弟の次女の結婚式で母と」

また、その前の年から、収入の安定した三沢基地に勤め始めた事も有り、安心して寝込む様になった。がために、以前より動きが少なくなった。この時は血栓の事は一つも考えなかった。やはり老人はいくら高齢でも、ある程度緊張感を持たせた方が、血のめぐりが維持される様だ。また、孫でもいれば活性化され、病にもならなかったかも。これも私の失策の一つ。さらには、10年飼っていた野良猫もその直前に死んで、遊び相手も居なくなり、その分、動きが少なくなったせいもあるかも。がんになる遺伝子は、運動によって壊されるのだから。

昨年の秋口に、母は、娘時代からの女性友達が十和田市中央病院に入院し、その1か月後に入所したと言う悲報を耳にしてから、ストレス状態となった。次は我が身と思っての事だった。これが事の始まりだった様だ。掛かり付けの医院での月1回の検査値も、その時期を境に悪化の一途を辿って行った。その前までは順調だったのに。そこの先生は、「老衰だ。入所の必要が有る。」と入院直前におっしゃっていたが。そのためも有ったろう、私の邪推であるが、胃酸過多となりそれによるスキルス性胃がんが発症し、便秘みたいな症状になった。がために食欲不振となった。昨年12月前後に、話友達に「食べ物が胃の辺りから下に行かない。」と言っていた。弔問時、その友達が私にちらっと漏らしていて、病院行きも勧めていた。だから、飲んでいた薬もそこでストップし、体内に行き届かなくなり、そのため血栓が出来始めたと思われる。従って、物忘れもひどくなり、朝昼晩の高血圧の薬の摂取、1日1回の糖尿病のインシュリンの注射もつい忘れるようになった様だ。そして、これが最終的に母の命を奪って行った。その注射は、膵臓の老衰によりインシュリンが出なくなったため、2~3年前から始めた物だった。また、母のその友人も残念ながら、新年早々肺がんで急逝する。この時、母は電話で悲報を受け取ったが、ただただ号泣するのみだった。そして、「温かくなったら、拝むに行くべしな。」と言っていた。しかし、それも叶わなくなった。

母は、昨年12月始めより、私にも便秘だと言う様になった。それは、私は大寒波のせいも有り体を動かさないからだと言って置いた。また、血便が無いかと聞いたら、「無い。」だった。ただ、私は血便とは鮮血が見える物と解釈していた。それが、黒い物だと分かったのは後々の事だった。我が判断の愚かさよ。とにかく、この時、便秘の症状を胃がんのためだったとは見抜けなかった。入院後に分かった事であるが、すでに、スキルス性胃がんが胃下部半分に発症していて、そのために胃が動かず、次の場所に内容物が下っていなかったのだ。そのためだったが、そうとは判断出来なかったので、その後、母をとんでもない目に合わせるのだった。私は、家庭用医学事典の処方を鵜呑みにし、12月からの大寒波のせいも有って、ただただ運動不足が母の便秘の原因だと考えていた。昔、弘前大の精神科教授が、「医学部で勉強する教科書は、家庭用医学事典見たいな物だ。」、とおっしゃていたのを思い出した。その意味が、今分かった。本から得られる知識はすべてではないのだ。医術の道も遠い物だった。わが身のおごりの結末だった。嗚呼、己の愚かさよ。北の守り人の低能さよ。北の守り人失格だった。人の話を鵜呑みにする我が弱点と飛躍的思考力の無さが今回も露呈された。これは、言われて来たが、科学的創造力の無さの証拠でもある。

とにかく、この時点で、大事を取って大きな病院で精密検査をさせて置くべきだった。そうすれば、早めにその原因が分かり、初期段階で治療が出来て回復もしていたであろう。胃もそれほど詰まってもいなかっただろう。その頃、母は「わ、おがしぐなったごったよ。(私、おかしくなったみたいだわ。)」と言ったので、私は馬鹿なもので「いや、自分でおかしいと言っているのは、おかしくない証拠。」と励ましていた。実は、やはり、母の言う様に、この時はすでにおかしくなっていたのだ。胃がんと血栓が、すでに母の体を蝕んでいたのだ。それを見抜けなかった私は馬鹿だった。しかし、まさか、癌になっていたとは・・・・。その後、年が明けてからは小康状態を保ったので、いつもの様に掛かり付けの医院にも、定期の検査に連れて行った。そして、いつもの薬をもらう。

が、しかし、事が急変し始めたのは2月に入ってからだった。2月初めに鍋物を食べたいと言ったので、寄せ鍋を作ってあげた。その時。少し野菜物はまずいと言った。いつもは言わなかった事だった。箸さばきも、のろかった。その後、また、鍋物を食べたいと言ったので、3日後ぐらいに湯豆腐鍋を作ってあげた。私はこの時、いつもは鍋物は1回切りだったので、おやっと思い、ひょっとしたら最後のお別れの会食かも、と疑心を抱いた。そして、それが当たってしまった。実は、三沢基地に勤め収入が安定し始めてから、ふと、いい事が有りそうな時には、あなたを邪魔する物が現れる、と言う或る占い師の予言を思い出し始めていた。そしてそれは、今回はひょっとすると母に関係した事かもと予想していた。そして、それが現実の物となった。案の定、その後、速やかに食が細くなり、毎日の様に吐く様になった。だが、その嘔吐物は、通常の様な大量の物ではなく唾液の集合物見たいな物だけだった。そして、それを周期的に吐くだけだった。つまり、胃が動かず詰まっていたためだった。また、記憶力も急速に衰え始めた。アルツハイマー病かと思ったが、脳梗塞の初期症状だった様だ。

血栓予防の薬を、昨年12月に医院からもらった便秘の薬と共に、何も飲んでいなかった事に気がついたのは、2月17日の深夜、母が突然、「ぎいち!トイレに立てなくなった!」と叫んだ時だった。私はぎょっとし、いやな予感がした。その日まで炊事洗濯をきちんとしていたからだ。寝耳に水だった。今にして思えば、どんなに遅くても、その時点で救急車で中央病院に即入院させるべきだった。そうすれば早めに原因だけでも分かって、母を苦しめなくても良かった。私は、毎度の如くだと思い、担いでトイレに連れて行った。そして、その時は歩行がまだ可能だったので、しばらく様子を見る事にした。立てなかったのは、栄養不足のためだった様だ。少し自力歩行もしていたから。しかし、徐々に息遣いが荒くなり始めた。呼吸中枢がやられ始めていた様だった。部屋を明るくしてくれ、と言ったのもそのせいかも。つまり、そのため視野も狭まっていた様だ。また、手もガリガリになって行った。中央病院に入院後の点滴でふくらみは増したが。そして、どう言う訳か、お顔も若き日のしわの無い母の顔に戻って行った。そのせいか、病院では、私は母の夫と間違えられたりもした。いずれにせよ、その時の判断は間違いだった。

半介護状態になったので、薬も私がスプーンで入れ始めた。便秘の薬を飲ませたら、書道の墨の様に便器に排泄物の跡がついた。この時、ただ事ではないと思ったが、遅かった。胃がんによる出血が混ざっていたのだった。私は、以前として固くなった便が腸の血管を傷つけて出血し、それが排泄物に混ざったためと推測していた。家庭用医学の知識を信用していたためだ。インターネットで調べた時は、胃がんの時もそうなると有ったが、信用したくなかった。最後の行では、手に負えない時は病院に行く事と有った。実は、母はこの時すでにこの状態に有ったが、私は気を強く持ち行かさせずじまいだった。この時、母は、「なして、こうなったべ。(どうしてこの様になったのでしょう。)」と悔しがっていた。この時、私も母も胃がんが原因である事は知る由もなかった。私は、ただただ以前の様に、動く量が少なくなったからだと割り切っていた。また腹部が肥満の様な感じではなく、釣り鐘状に膨らんで左右に揺れ動くのを見て、これまたぎょっとした事だった。つまり、胃が満杯になり、ぶら下がった感じになっていたのだ。また、溝落ちの所が痛いと言ったので慢性胃炎だと思い、その薬を買い飲ませた。少し良くなったようだったが、やはり癌の痛みだった様だ。背中も痛いと言っていたが、床ずれかと思った。しかし、これも今にして思えば、がんの痛みだった様だ。

その後、自分では手に負えなくなったので、親戚縁者に介護を依頼したり、市役所の介護課に介護の申請をし介護職員にもおいで頂き、要介護3の診断をしてもらい、介護ベッドも用意してもらい、その後の迫り来ると思われる長い介護への心の準備をした。2週間後、いつもの定期健診の医院に車椅子で行った。この時はまだ立てたが、もう余り元気が無くなっていた。多分、脳梗塞の症状がじわりじわりと速やかに進行し始めていた様だ。そして、即入院と診断され紹介状を書いてもらって、2日後、3月6日、十和田第一病院に入院。そこの先生は、CT検査後、胃で食べ物が満杯状態でストップしているのを見て「初めて見た。どうすればいいか分からない。」だった。この時は麻痺性イレウスと診断されていた。この時、母は、「わ、終わりだごった(私は終わりでしょう。」と言った。覚悟をし始めていた様だった。しかし、ぎいちを産んだ時、医者から死ぬと言われたのが、86まで生きた、と年齢的には満足そうな事は言っていた。また、背中が痛いと言ったので、手でさすったが、今にして思えばこれも癌の痛みだった様だ。その後、呼吸数減少のため、その日の内に中央病院に救急搬送された。そして、CT検査後、先生は「幽門狭窄で、食べ物がそこから下部に下りない状態。しかし、癌の疑いも有り。胃カメラで見る必要が有る。だた、内容物を取ってからでないと。でも、それも長い間胃にいたので固形化していて、取るのは大変。」と診断した。それから1週間後、胃カメラ検査によって、予想通りスキルス性胃がんである事が分かり、そのため胃下部半分が動かず収縮し、食べ物が通れない状態になっていると診断された。つまり、便秘ではなく、便秘の様相を呈していたに過ぎなかった。また奇妙な事に、造影剤を入れた時、胃が動いたと言う。これは、食欲不振による栄養不足のため胃が動けなかった事を意味する。ともあれ、酒もたばこも飲まない母だったので、癌の”が”も頭に浮かんでいなかったが、意外にもそれにやられてしまった。北の守り人失格だった。

中央病院に入院後は、その療養生活は安定し始めたかに見えていた。とにかく、胃の内容物は時間をかけて取り去られた。しかし、その後ホッとしたのもつかの間、その次に伏兵の血栓がニュッと現れ、私を嘲笑うかの様に脳梗塞と言う合併症を併発させた。そして、私の油断の隙をついて、母を1週間で帰らぬ人にさせた。胃がんの方は、転移もなくステージ1で、全摘でしばらく存命出来る予定だった。だから私は、その後の在宅介護の心の準備をしていた。また当初、入院予定期間は2週間とされていたからだ。また、介護職員より入院前の自宅介護の時、要介護3と判定されていたからだ。(読者の皆様、便秘と言っても、胃の方が詰まっている場合が有るので、この症状の時は、すぐにCTスキャンの検査をする事をお勧めします。)

まさか、母が死ぬとは思ってもいなかった。逝去当日(27日水)の日中には、病院から「これからリハビリを始めますので、来週の月曜日に同意書にサインをお願いします。」とのお電話が有ったくらいだったから。掛かり付けの先生も、後日、その話を聞いて「そこまで行ったんだ。」と感嘆していたくらいだった。そして、胃の中がきれいになり、腹膜炎等の感染症が発生しない状況になってから、胃の全摘手術をすると言う段取りでいた。それが、3月22日(金)、先生に呼ばれ、「胃の内容物は完全に取った。でも、次なる問題が発生しました。元気がないので調べたら、脳梗塞でした。入院当初は、点だったが、今、右後頭部半分に血流が行き届かない状態です。同意書にサインをお願いします。」だった。その日は休みを取って、朝から母の病室で待機していた。母は、男勝りの大いびきをかいて昏睡状態だった。どうやら、持病の高血圧、糖尿病のために出来、潜んでいた心臓の血栓が、脳内の三つ又に血管が分かれる所に行き、詰まった様だと言う。通りで心臓のエコー検査も有ったと思った。その後、先生方の懸命の治療により、一時いびきは収まり静かになった。その時、母に「ぎいちだ。必ず治るからね。」と声をかけたら、唇がブルブルと震えた。意識が無くとも、耳は聞こえていた様だ。母は懸命に返事をしようとしていた様だ。3月26日(火)、今度は消化器内科の先生に呼ばれ、「今後は、誤嚥性肺炎か癌でやられる可能性が有る。右側の頸動脈も血栓で血流が無く、左側を通っている。脳の別な所にも、血栓が有る。食道下部にも少し炎症が有る。」だった。でも、この時はいびきは消えていた。3月27日(水)、前記の如く仕事中に病院から「今度リハビリを始めますから、来週月曜日に同意書にサインをお願いします。」と言うお電話がかかって来た。これから回復に向かうのかなあ、と思った。夕方、仕事帰りに病室に立ち寄ると、母はまた、いびきをかいていた。その後、看護師が「今は容態は安定しています。でも、回復は難しいようです。」とのコメントがあった。そこで、少し安心して、家業のトライの家庭教師に向かった。深夜、10時半過ぎに帰宅すると、すぐ病院から電話がかかって来た。あぁ、ヤバイと思った。「呼吸数が減っています。今、すぐ来ませんか。」だった。でも、毎度の如くだと思い、朝にしようかと思った。が、念のため駆け寄ると、母の病室からは、すでに脈拍計の警告音が「ピピピピピーーー」と聞こえて来た。実は、この音を聞くまで、母の死が現実の物になるとは思いもしなかった。数分後、それは、ピーーーー。」となり停止。深夜10時57分の事だった。私は、ただ成すすべもなく、無力感のまま立ち尽くしていた。そして、母に寄り添い、両手でその頬を押さえ、「お母さん、今までありがとう。」と声をかけた。母は、明日の朝、また目が覚めると思いながら昏睡状態になって行ったのだった。心安らかに永眠した最後だった。そのお顔は、僕が子供時代のそれになっていた。その時は涙はまだ出なかった。しかし、葬儀の各所で、号泣。最後、棺の中の母の目元に光る物が、どう言う訳か有った。火葬炉に入る直前、号泣している時だった。あるおばあちゃんが寄って来て、「涙、流してらよ。」と言われて見た時だった。やはり、ある一瞬、私の涙声が聞こえたのかも知れない。

総じて、私の”誤診”が母を死に追いやってしまった。ごめんね、お母さん。また、無意識の内に親友の後も追った様だ。心やさしい母だった。人間は、人間同士の絆なしで生きて行くのは難しい。私のある柔道の先生も、後年、奥様に先立たれると毎日酒浸りになり、程なくして、こたつで逝去。これも、その例の一つとも言える。

これからも私は涙を流して行く。たった一人の母だったからだ。もう、釣りで夜遅くなった時、心配して玄関で立って待ってくれる母はいない。釣った獲物を見せて自慢出来る母はもういない。何かある事に叱ってくれる母はもういない。その心温ままる物言いはもう聞かれない。家庭教師の姿に変身した身なりを見て、「かっこいいぞ。」とほめてくれる母はもういない。学生時代、薄給の母は飲まず食わずに私に仕送りをしてくれたものだった。全く申し訳なかった。仙台の出稼ぎ先で買ったお菓子の包み紙には、伊達政宗の絵が有った。母は、それをしばらく冷蔵庫のドアに飾っていた。この様に、母は、息子が社会の表街道を、大過無く堂々と歩いてくれる事を切に願っていたのだった。59歳で中国から帰国以来、それまで散り散りだったのが、今度は中学生時代の再来の様な日々を母と送っていた。とにかく母には、恩返しとは言わず、母なので出来る事をしてあげていた。

それが、まさかーーー。お母さん、ごめんね。今回も僕の思慮の足りなさで、お母さんにとんでもない目に合わせてしまった。高齢はあきらめの理由にはならないのだ。あッーと言う間だった。今だに実感が湧かない。せっかく今まで二人で頑張って来たのに。気の済むまで泣かせてくれ、お母さーーん!そして、いつまでも後悔させてくれ、お母さん。また、一緒に晩御飯食べようね。(完)

写真は「衆議院議員江渡あきのり先生(現衆院原子力委員会特別委員長)宅でお手伝いの時」

追記1:

酒やタバコを飲まないから癌にはならない、と信じてはいけない。ストレスもその原因となるのだ。だから、お金にケチらず適度の飲酒やその他の方法によるストレス解消も、良しとされるべきだ。適度な飲酒は、まったく飲まない人より死亡率が低いと言う医学的データも有る。これは、少量だと善玉コレステロールが増えるからだと言う。とにかく、皆様、血栓にご注意を。予防不可の癌より、予防可の血栓が今は怖い。音も無く忍び寄り、さり気無く人間の命を奪って行くのだから。血栓さえ無ければ、母はまだ生きていたのだ。その他はまだしっかりしていたのだから。命はかけがえの無い物だった。母は私に、血栓、癌、肺炎に気をつけなさい、と身を持って言い聞かせてくれた。また、想定外の病にも。母は、私に教訓を授けてくれたのだ。想定外こそ必然的だと。とにかく、喜びは分ち合えるが、悲しみは一人で耐えるしかない。

追記2:

高齢者の車の免許返納推奨が叫ばれてから久しい。だが、返納者のその後の罹患率は、未返納者の2倍強だと言う。これ等も高齢者ほど、体なり頭を使う事が健康維持につながる事を示している。だから、適度なドライブも、血のめぐりを良くさせる物の一つなのだ。

 (20191006)

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悠久の未完の人生対局


第一章 日米平和条約の権化

第一節 基地モールのカミサリー(commissary、売店)

そこは、金網状のフェンスの向こう側で、閑静で眩いばかりの緑の絨毯だった。そして、それは、物心がつき始めた幼少時の私に強烈な羨望の対象となった。

そして、それがどのくらい異国への憧憬を加速させた事であろうか。それから約半世紀後の現在、その私は紆余曲折を経て、今度はその中にいて米国に御奉公をしている。

写真「中央奥が基地正面ゲート」

子供の時はいつもワクワク感でその前を素通りした基地正面ゲートを通り抜けると、すぐ右手斜め前方に見えて来るのは、外人さん用のスーパー、レストランが内部に有る建物のカミサリー。レストランを除いて、日本人はそこでは買い物は出来ない。 約20年前、憲兵隊通訳として採用された時は、面白くて面白くて、そこの牛、豚ステーキサンドイッチを良く食べに行った。人影も多く、現在とは比べ物にならないくらいにぎやかだった。今も時々行くが、値段も高くなり頻繁には行けないけれど、行ってみるとやはり外国の気分は味わえる。日本人とアメリカ人の半々が働いているが、一生懸命に日本語を話そうとするアメリカの方もいる。この基地内には無論関係者以外は入場出来ないが、従業員の知り合いやアメリカ人の紹介であれば、ゲート前のパスセクションで手続きすれば入れる。もし、会員の方で基地を見たい方は、私に相談してくれれば手続きをして入れます。

と、そしてこの通りをまっすぐ行って突き当り左方向に曲がると左手前方に、すぐ私のいる郵便局中隊の建物が見える。朝、ここの駐車場に着くと、丁度あのマスコミをにぎわしたF35ステルス戦闘機が訓練飛行に、毎度の様に私の目の前の空へ離陸する。


第二節 人間の喜び

英語の他に、ドイツ語、フランス語、タイ語が少しだが、飛び交う郵便物の受け取り窓口。米国は人種のるつぼで有る事の証を、ここでも見る事が出来る。小生は、ただ片言の単語で意思疎通をして楽しんでいる。ニコッとするその瞬間、そこに人間の素晴らしさを垣間見る。今いる郵便局で一番の感激は、お客様が自分の郵便物を受け取り、ホッとしたかの様に喜色満面となった表情を見る時である。お客様にも落ち度がある時は規則にしばられず、「法律は人によって作られる物で有る。」と言う政治的戦略を思い出し対処する。

前々回の日本語クラブで、40代前半にアメリカのセントルイスに行った事を書いた。今、軍役を退役後、神父さんの生業の側ら、私の居るポストオフィスにボランティアで時々勤務しているオーマー神父(70)夫妻がいる。お伺いした所によれば、そのセントルイスの大学(病院経営学)を卒業後、そこで軍関係の病院で働いていたと言う。あのアーチのある所に私も行ったので、全くの奇遇だった。そこで撮った写真も見せて確認した。そして、その神父夫妻二人の国際免許更新の通訳を、青森の免許センターでする事になった。1回目は、試験の予約をしていなかったので受験が出来なかった。2回目は、私が同伴したが、住民票の写しが無くてこれまた受験不可能。しかし、書類審査だけは通り、次回、その写しだけを提出すれば即試験と言う事になった。やはり、外人さんの事務手続きには、きちんとした通訳の同伴が必要だと言う思いを強くした。そして、3回目は技能試験で不合格。4回目も。

そして、5回目に教習所での訓練の後、オーマー神父は合格。その後、御礼の気持ちとして焼肉屋での夕食会に招待された。彼らは【花は咲く】の日本語の歌詞もくれた。聞けば、仙台駅の前で教会の活動で歌ったと言う。東日本大震災で亡くなられた方々への追悼と遺族への励ましの歌だった。写真「焼き肉店でオーマー夫妻と」

ここでの兵士は皆若く小綺麗に見えるのは、ここでは、私が最年長の職員であるせいだろうか。なので、毎日、アメリカの大学の教養課程の英語の授業を受けている錯覚に落ち入っている。ああ、若いのはいい。郵便局長に御自宅でのパーティーに招待された時は、特にそれを感じた。


第三節 閑散閑居の基地図書館

ここは、郵便局中隊の任務の昼休みに足繁く通う所。ジェット機の爆音下に密やかに息づく密所ならぬ知的空間。戦時下でもホットする様な、大学図書館並みの清澄な雰囲気が醸し出されている図書棚の列。今、この様な基地図書館に足しげく英会話の語彙を増やそうと通っている。そこで、日本の漫画の翻訳版に凝っているが、特に、手塚治虫の「ブラックジャック」、「仏陀」、「鉄腕アトム」、「百鬼丸」などの翻訳版は、凝った表現が多く、英文学並みの文章が見られる。どういう訳かアメリカの漫画は置いていない。その他、一般大衆向けの書物が主で、常識的な語彙を増やすにはもってこいであるが、しかし、読みこなすのは大変である。基地での憲兵隊通訳経験から、通訳で食おうと思ったら、乱読で100冊前後の読み物を読んで,それなりの語彙の基礎を作って置いた方が、後が楽で有る事が分かった。この場合、やはり英文科出の方が優位で有る事は否めない。そうでない方は、的を絞ってそれに集中した方が無難ではないか。そんな事を考えながら、昼休みにはいつも通い、寸暇を惜しんで英文に目を通したり、借りたりして会話力を高めようとしているが、並み居る若い方々の様な感じにはならない様で惰性に甘んじている。その他、インターネット関係や今はやりの3D体験の出来る設備も有ったりする。


第四節 基地あれこれ

年に一度の楽しみはこれ。つまり、毎年の9月上旬の休日の航空ショー。基地の中が一般人に開放される時である。特に、少年時代には良く行ったもので、巨大な輸送機には興奮極まり無い感激を覚え、未来への夢を大きくした。

出店に陳列されている食べ物等は、当然ながら日本には無くて、当時まだ貧しかった我が国には、高価な感じがするものばかりだった。お小遣いはほとんど無く、イカの姿焼きも買えず、大根に味噌を付けただけ(しかし栄養はある)の飯も食っていた極貧少年だった私は、ただただ、あれは金持ち用で贅沢品だと割り切って素通りしていた。

娯楽場なり何なりで興に高ずる米国人は雲の上の存在に見えた。何しろ1ドルは360円の時代でしたからね。圧巻は、航空自衛隊機による飛行雲の演出である。そのショーの最後には、毎回ハート型と真ん中を通る矢が描かれるが、米国の星条旗の星が描かれる時も有る。子供の時は、良く連れて行ってもらってデズニーランドに行った気分を味わった物で、そこは孤高の空間と言う感じしか無かった。写真「郵便局長宅でのパーティー」

その他、ハロインパーティーとか等の月行事も折りに触れて基地内外で開催される。それは、外人さんに聞くと、家庭内からの悪魔祓いの儀式だった。仮装行列みたいで有るが、それぞれ人気のキャラクターや有名人等を型取ったお面や衣装を纏い、皆の前で一計の芸等をし、そして一同集まって宴会を楽しむと言う物。写真「持ち寄りの食事」

悪魔祓いと言えば、日本の節分の、「鬼は一外。福は一内。」に相当する様な感じがする。私も急遽、お面を基地のカミサリーで買い参加したが、普段の喧騒を忘れ得るエキゾチックな時間だった。ここで話は飛ぶが、実戦を、特に、地上戦をイラク等で経験した兵士には笑顔が見えない。話をしても、緊張感が伝わって来る。奥さんとの接触もしんみりで、昔の日本兵夫婦もこうだったのかと思わせる。平和の貴さを感じる。この場をお借りして、現在の日本の平和の礎となっている日米両国の英霊に脱帽する。

第二章 1000年に一度の大津波

第一節 寮友有り、遠方にて再会

前回のトップバッターとしての新日本語クラブへの投稿文では、福島の除染作業にも従事した事を触れた。目障りになる事を承知の上で、これにまつわるエピソードを一筆計上して置こう。

さて、ある学者が、1000年前に先の大津波と同じ物が来ていた事を突き止め、東電の経営陣らに福島第一原子力発電所の周囲に防潮堤の設置を進言していたが、心の中の片隅で『この腐れ学者の戯言めが』と一笑に付していた様なので、ついにはあの憂き目を見る事になった。

事の話は、45年前のある出会いに遡る。当時、私は弘前大北鷹寮に医学部の相方(現朝日茂樹医師)と居住していた。だが、その時、その相方が、かの東日本大震災の激震に新幹線に乗車中に奇しくも福島付近で合うことになるであろうとは、そして、その後すぐ自分が,消防、警官、自衛隊らと多数の犠牲者の救出等に従事する事になろうとは(このとき医師はこの朝日先生とともうひと方だけ。朝日先生はこの時埼玉県松戸市の国府台病院外来救急科部長)、また中国からの帰国後、そこの南相馬市に宿泊し、飯館村で私が除染作業に当たろうとは、一体誰が予想していた事であろうか。

その瞬間、私は瀋陽薬科大赴任を控えながら、金沢の軽自動車検査場で交通誘導員のバイトをしていた。休憩時間に、その地震のニュースをテレビで見て、毎度の如くだねと思い、その後、とんでもない事になっているとは想像だにしていなかった。実は、その朝日先生とは瀋陽薬科大の勤務時に、ひょんなことからメールでお会いしていた。先生も、世紀の驚きだったようだ。あれから、40年後だもんね。また、後で分かったが、三沢基地の第35施設中隊にいた昨年の2月頃に、先生が親友の三沢基地内の自衛隊司令を訪ねていたそうなので、その時、約四十数年前の先生と約1kmニアミスをしていた訳である。

この機会に、今はスポーツ界では世界に覇を唱える日本体育大教授になられた先生を直接取材する栄誉に預かったので、その記録を交えて詳細を述べて見たい。その日は、2019年4月14日(日)昼12時半、東京都大塚駅ホテルベルクラシックのレストラン、ラ・コンテにて決行された。


第二節 天皇皇后両陛下(現上皇上皇后両陛下)の八戸慰問

私は早めにその場にいた。すると、予約時間直前に修行僧見たいな方がバッグを背負って、ホテル内に入って来て、即お手洗いに向かった。当の朝日茂樹先生だった。そこで、その近くに行くと、女性の方が、「田中さん?」と声を掛けて来た。秘書様でした。そして私は、「はい、そうです。」と応じ、事が進行していった。この時、正直、45年目にして他界した親戚縁者が、ひょっこりこの世に現れ、つかの間の間に、思わぬ所で私に会いに来た感じがしたので、フランス料理の内容には目もくれず、またすぐあの世に戻ってしまうのだからと、時間を惜んで話し込んだ。

今回の目的は、先生の大震災における経験談を直に拝聴するためだったので、話の合間にそれを切り出すと、「あの時は、相馬病院で医療活動をしていただけ。」とさらりと言ってのけ、その後その話は続行しようとしなかった。その病院は、私も除染作業の仕事で、時々、その近くを素通りしていた所だった。そこでも、時間を隔てて先生とニアミスをしていた。

それで、私もその話を続けようと思わなかった。よく元日本兵士に体験談を聞こうとすると、その後無言となるのと同じ現象だった。つまり、おおっぴらに公言出来る程のものでは無く、凄惨極まり無い物で有った事を無言で先生は私に伝えてくれたのだった。この場をお借りし、その各先生方への感謝の気持ちと被災者の皆様へ哀悼の意を表します。

写真「ホテルで朝日先生と秘書様と」

約2年程前、私が太平ビルサービスのパート業務で、八戸駅傍のコンフォートホテル八戸で、客室清掃の仕事をしていた時だった。事前に知らされていたので、その時間に窓から駅方面を見ると、駅構内である小集団が日の丸の小旗を振っているのが見えた。その後、地味な服装の天皇皇后両陛下が、駅長に先導されてタクシー乗り場に現れ、それに乗り、目的地に向かうのが見えた。普段の公用車はなく、しかも大歓迎も無く、側近の人影もまばらだった。恐らく、行幸の目的が被災者への慰問だったので、被災者の皆様の心情に配慮し、そう言う形で哀悼の意を表示しておられた様でした。両陛下は、無言ながら被災者の皆様に、『被災し、手も足も亡くなられたが、これからは皆様のお力でその手や足を作り、そして付け直し、その後雄々しく立ち上がり、以前にも勝る復興を成し遂げる事をお祈りします。」とおしゃっておられる様でした。お静かな慰問でした。

さて、その朝日先生(66)もいくつかの難題を背負っていた。92歳の母親は、乳がんで約10数年の闘病生活。奥様は大学の同期で、約10年前のくも膜下出血で、未だに昏睡状態。次女の男の子の孫は心臓、神経、そして片耳に聴覚障害の問題が有り、集中治療室で闘病中。先生には、若き日の意気軒昂とした所が感じられず、気落ちされている様子が垣間見られたのは、そのせいか。同窓会の皆様、先生も、もう同窓会のサイトを見られる様になっていますので、連絡帳等を通じて励ましのエールを送ってあげようではありませんか。


第三章 心の漁火なる逸話

第一節 大学浪人時の代々木学院冬期講習

事のついでに、もう一つお口汚しならぬ茶飲み話を差し出そう。と、ある若き日、一浪の憂き目に合い宅浪しながら四苦八苦してた矢先に、東京の代々木学院が大学受験冬期講習の募集をしているのを、某受験雑誌の片隅で目に入った。事情に疎い若僧だった私は、未知の都会に出るのは少し怖かったので、不安な気持ちで応募した。が、それが、今でも心に残る思い出になろうとは、当初は少しも思わなかった。それだったら、最初から行けば良かったと思ったのは、後の祭りだった。約10日間ぐらいだったと思うが、かの東京オリンピック選手村の跡地の代々木青少年オリンピックセンターに宿泊し、その中の講義室で講習は開催された。初めは悲愴な気持ちで授業を受ける事となったが、しかし、これが徐々に覆って行くとは、講義が始まるまで予期せぬ事だった。それは以下の理由による。並み居る講師陣はすべて大学教官。巧みな授業展開とその博識。立て板に水とばかりの流暢かつ弁舌さわやかな語り口と芸術品並みの板書方法。ラジオ講で有名な先生も講演に来た。実際に入試問題を作成する先生もいた。生徒さんに対する接し方もいいし。

だが、後年、予備校講師となった私は、その理由が分かった。つまり、先生は商人で、生徒さん方はお客様だったのだ。そうしないと、企業と言う車の燃料(収入)が入って来ないからだった。その世界は劇場の俳優の世界だった。百万人に一人の世界だった。そして、売れない私は、初めての教壇だった事も有り、わずか3か月でそのステージを降ろされたのだった。その後も某学院で予備校講師をしたが、危機意識ばかりで生きた心地がしなかった。そして、それがその後、至る所で蘇り今も続く。夜の家庭教師の世界で。思うに、授業展開と板書方法によって、受講者の教養のレベルの引き上がり具合が違ってくると感じている。高い金だったが、いやっー、しかし、高い料金を払った甲斐が有った講習ではあった。大都会の片隅で、名も知らぬ学校で高度な講義が聞けたとは。

中には、山形先生がご奉公された東工大の元数学助教授もいたっけ。その先生は、「何故、私は代々木に来たか。とにかく、今の政治家の様にならない様に。皆も食えなくなったら・・・云々。あれは法の盲点だな・・。良し、これから一杯、屋台で引っ掛けて行くか。」とか、夜間の授業終了後、談義をしていたっけ。


第二節 心身が澄む柔道透析

肩ほぐしにもう一言。私は、30歳で東京都国分寺市にある日立製作所武蔵工場(集積回路技術者)を辞し、残業疲れの体にまずは体力を付けるためにと、故郷の十和田市立志道館で柔道を再開した。これが功を奏し、還暦を超えても40代の体力だと周囲からほめられる。腎臓透析ならぬ柔道透析で、血液の流れが良くなる様だ。しかし、稽古日に間が有りすぎると衰えが良く分かる。その証拠に、1か月も稽古を抜くと心身共に老人臭くなり、小学生も投げられなくなる。とにかく、ついでに、この時、本等も色々買い勉強もし直した。しかし、この時はその7年後、しかも故郷から約1000kmも離れた金沢で、それらの本の中の柔道家の一人から花束を頂くことになろうとは、全く、思ってもいなかった。また、その柔道は、私の心を支えてくれる物になろうとは思ってもいなかった。つまり、これは、人生の真理、なんとなれば、社会の中で、人と仲良く、楽しく、豊かに生きて行ける方法をやる人に授けてくれる物の一つだった。それは、すべての物が消え去り往くとも最後まで残る物。例えば、人を立て人を喜ばす心は、実社会で実利的利益をもたらす柔道の教えだった。また、ある技や練習法がだめなら、あの手この手と工夫して行く必要があるのだと。いくら努力してもダメなのは、それは努力は努力でも、正しい努力ではないのだと。負けは自分の弱点を教えてくれ、自分をより正しい道に、そして、より強くなれる道に連れ戻してくれるためにあるのだと。負けた者は、何故負けたかを考えるが、勝った者は、それに甘んじて自分を振り返らない時が有る。勝ちは努力へのご褒美であるが、勝ってばかりいると自分の弱点が見えず、つい、いい気になって出すぎる。その時が一番怖危ない時なのだと。そして、それに甘んじていると、先行きどんでもない失敗をする物なのだと,等々。勝者が、他の道でも、何でも出来ると錯覚するのが恐い。だから、そこは勝って良し、負けて良しの世界だった。そこには、人生や社会に通じる珠玉のエッセーが散りばめられていた。悪条件こそは自分の物に等々も。厳しく辛い試練の後には、生きる大きな喜びが待っているのだと。

ついでに、あのプロボクシングの元WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者の輪島功一選手のある談話。『つらいぞー、つらいぞー!(だが、)金はけつから付いて来る!つらいぞー!(だが、)金は穴から付いて来る!』とは恐れ入る程の輪島節。一芸の頂点に達した者の悟りの境地の言。それ相応の物は、天で誰かが見ていて、黙っていても落ちて来る物の様だ。写真「私の柔道少年団のある試合風景」

ともあれ、やり直しを始めた頃は、ろくに中学生も投げられなかったが、スピード感も戻り、パワフルな技と褒められるまでにはなった。その後、母校の修士、金沢大博士課程で、各柔道部にお邪魔し、稽古をさせてもらった。やはり、時遅しで伸びの限界にもぶつかったが、体力の維持だけは出来た。学位取得間際に、金大柔道部で達人が顧問となった。筑波大院出身で海外協力青年隊やその他各国で指導経験をお積みになり、アイスランド人ともご結婚なさり一児の男児も設け、赴任して来た。私と同年だったので、話は合ったが、柔道のやり直しをした時に買った本の中の先生だとは、その時は思っても見なかった。また、故郷の道場の師範がすでに知っている方だとも知らなかった。後に、高段者大会で師範が先生にお会いし、また、その先生からも、「田中さんの先生とお会いしましたよ。」と言う話が有った。とにかく、この先生の指導の下、その2年後、金大柔道部は約30年ぶりで全国大会出場を果たすのだった。しかも、私よりも小兵の部員ばかりだったにも関わらず、弁慶見たいな相手を投げ飛ばして。それまでは、どの試合でも皆1回戦ボーイだった・・・。

やがて学位取得が決まり、部ではある料亭で送別会を開いてくれた。その時に先立ち、ふと、あの本の中の方と先生は似ているな、と思ったので、先生に問いただした所、「そうです。」とのお答えが返って来た。部員も驚いていたが、その後、その本にサインを頂いたのは言うまでもない。そして、その料亭では先生から花束と3段の段位を頂く事になった。私には過ぎたる物。段位の審査は先生がしてくれたが、特に、柔道の形の審査では、「田中さん、今のは休めの恰好になっていますね。」と寸分違わぬ御指摘があるあたり、さすがは世界的な大家だと感服した。後年、先生は金大助教授を辞し、奥さんの母国のアイスランド日本大使館付き武官になられ、息子さんも青年となり、世界大会にも出場する様にもなったとのお手紙を頂いたが。これもまた意外にも小説や映画のストーリーを地で行く様な話。この先生の「柔道は立っているのを投げられる。しかも、いやいやしているところを。これは、すごい技だ。」と部員におっしゃっていたのが、今でも耳元に残っている。その名は井浦義彦と言う。


第三節 奇遇が続くのは奇遇

また事のついでに、金大柔道部のある試合の打ち上げパーティーで、私がいた日立製作所武蔵工場で勤務していたと言うOBの方と隣合わせていた話。しかも、同年だった。この方から、私がいた当時の上司や同僚の近況を拝聴する事が出来た。30歳で人生のやり直しをしたが、その直前、「心を入れ替えたら、戻って来てもいい。」と言ってくれた部長はモトローラ社に引っこ抜かれていた。他の方々も元気でやっているとか。いやはや、世間は狭いね。

また、金大ドクター面接試験時。某教官(後の金大大学長)「日立に伊東とか言うの、いなかった?」。私「ああ、あの背が高くて眼鏡をかけて、素粒子のマスターを出た!」某教官「うん」。私「面白くないから辞めたいと、私の所に相談に来た事が有る。」突如、教官一同爆笑。彼は、入社早々、単調な実務に溶け込めず、「勉強がしたい」と私の所に今後の相談に来たのだった。ここでも、人脈が繫がっていた。また、某教官「どうして会社やめたの?」。私「イマジナリー(imaginary)的な物をやりたいから。」一同爆笑。だが、面接試験では、からきし答えられなかったので諦めていた。が、どう言う訳か合格した。この時32歳。実は、山の高さを知って平地に戻るためと過去の大学生活でやり残した学園生活を充填させるがためだった。しかし、その後、創造的活動の難しさに七転八倒する日々が続くのだった。そして、ドクター取得時点で、『君は知識は鵜呑みにするが、それ以上は行かない。この世界は君には厳しい。』との最終審判が下るのだった。まあ、いいでしょう。

あの大リーガーの松井秀喜の館。ここには、私がバイトで作ったダクトの一部が組み込まれている。石川県の根上町に有ったが、そこの森元首相の御子息。彼の長男坊は、私の薬大赴任直前まで、石川県会議員をやっていた。しかし、ある日、白昼堂々と金沢市近郊のコンビニ店に泥酔状態で車で突っ込み、がために議員を辞職し、その後、程なくして急性膵臓炎になり病院の集中治療室で夭折された。森さんは、「安らかに眠ってくれ。」とは言っていたが。しかし、何ともやる気のない議員さんだった事か。演説を聞いていても、のんべんだらりだった。森さんは、政界では日本一にはなったが、家庭教育の総理とは行かなかった様だ。何となれば、先生は我が子かわいさの余り、親の敷いたレールを歩かせようとして、自分の頭で考える事をさせなかったのではないか。そして、成人拒否症気味になった様に思われる。子供は、家柄が何であろうと0からスタートしなければならないのである。学問や富ばかりが、人生を左右する訳では無い事の証左で有る。教育の難しさ,恐さを垣間見る。そう言う私も、若きに理想と使命感を植え込まれたのはいいが、それも具現化されず、飯の種の事も考え無かったために今日に至る。

御曹司と言う物は、どこでも悲喜こもごもの人生を歩んでいる様だ。民主党の菅代表兼元首相の小学低学年の長男次男は、親から習い事を強制されたため、登校拒否児になったと言う。1回目の瀋陽行きで知り合った赵俠(ちょうきょう)さんと言う方も、薬大最近接の元陸軍病院院長の長男坊。当時は、各種アルバイト生活を経て大連で羊飼いを始めていた。妻は大学教官。長女は、瀋陽の某大学を出てドイツ留学をし、そこの某大博士課程にまで進学。はたまた、吉田先生と言う元北大物理学科助手。日立に一緒に中途入社、ご家族を引き連れての。しかし、予想通り、後年、学問の府に戻っていた。つまり、面接時、新調したビジネススーツの背中下の切れ目の糸綴じをはずしていなかった。これを見て、ビジネス向きの人間ではないと思い、ああ、この方も迷いを吹っ切るために来たなあ、と思った。面接時、「研究では、物理ではなくコンピューターばかりやっていたので、嫌気がした。」とは言っていたが。数年後のある日、東北大で開催された日本物理学会で再会したが、北海学園大の教官になっていた。聞けば、4年で引き揚げたと言う。社員生活の時は雲の上から降りて来た人物扱いのようだったが、「明るい職場、暗い家庭を作ってしまいました。」とある懇親会で述べていた。残業と実務の日々は、科学者には向かないので有る。科学者は、やはり、実社会では孤高の存在なのであり、思惟の世界でこそ、その本領を発揮出来るのだ。

ところで、私の以前の十和田国際交流協会の英会話教師エミー先生と、窓口で20年ぶりにお会いした。この2月中旬、窓口で郵便物を手渡した後、そのお客と、「ファーストネーム?」「タナカ」「ラーストネーム?」「ギイチ」「オー、アイム エミー。」とのやり取り。また、驚いた。実は、乳がんになり、アメリカで闘病生活を1年やって来て戻って来た所だと言う。顔中の深いしわが、がんとの格闘を物語っていた。だから、私は、最初どなたか分からなかった。でも、今は完治したと言う。これまた奇遇の再来。


第四章 我が唯一の知的パイプ

さあて、昨年度(2018年)も、今や遅しと待ち望んでいた瀋陽日本人教師同窓会の日が再び遂にやって来ていた。そして、相も変わらず前々回は最年少で、今回も中年トリオ(小林、藤平両先生、私)の一人として参加したせいもあって、参加の多くの先生方が慈父、慈母みたいな感じに見えた事であった。

同窓会には社会的にも高い所にいらっしゃる方々もお出でになり、以前には感じられなかった趣向の瀋陽日本人教師会同窓会ではあった。豪華な横浜ロイヤルパークホテルでは、世界的科学者の山形博士と同室となる栄誉にも浴し博士の傍らで、碩学の境地に到達した人間の見本を拝見していた。写真「オアシスみたいな一時」

若き日、東京でサラリーマンをやっていた時、横浜にも遊びに来て氷川丸も見学したものだが、その雄姿に再び見えるとは思いもよらず、青雲の志を抱きその周囲を散策していた日々が蘇り、あの日は良かったなあと、そして、若い日は二度と無かったことを実感しながら、さわやかな港町の情景に見惚れ、年甲斐も無い無意識の希望に胸を膨らましながら歩を進めていた。それにしても、同窓会の宴会はサラリーマンのそれとは違って、無心で頂ける時間空間。ビジネスの世界では、飲みたい酒は飲めず、飲みたくない酒を強要されるのだから。それは、やはり年に1度しかない、娑婆での乾きを癒してくれるオアシスなのだ。写真「なつかしの氷川丸」

今年は、山口県で開催される様ですけど、ここは、私の父がその名にあやかってつけた、そして八甲田の山々の様に高く聳える様にと、私の名にした田中義一元首相兼元陸軍大将の出身地。記念館も有る様だ。ぜひ、このゆかりの地に行って見たい。しかし、この名は、奇しくも瀋陽では悪名高い様で、中国人からもおおっぴらに自分の名を公言しない様に注意されたくらいの物だった。また、9・18記念館にもそれらしい物が有る様だ。いずれにせよ、今だパッとしない私は、名前負けをしてしまった様だ。


第五章 ついに来た背水の陣

その会を後にして新幹線に乗り青森近くになると、車窓から見える田畑には白い物が見え始め, 瀋陽にいた場合の様に、その余韻は長続きもせず身も心も寒々となる。天と地のギャップ。昔、中学2年の修学旅行で24時間の夜行蒸気機関車で初めて東京に行った時、夢の世界に辿り着いた感激だった。当時の校長先生は出発前に、「東京とは何だ!」と言う問題を生徒達に提起していた。帰ってから、その回答を書かせたが、今、自分は何を書いたか覚えていない。今、再度回答するとすれば、『能力が有れば飛躍のチャンスの有る所』とでも答えて置きましょうか。今はなつかしの思い出で有るが、この旅行が、その当時の少年の私をどれだけ都市生活への憧憬を増幅させた事か。

とにかく、その通路に新聞紙を敷いての雑魚寝は、眠くても眠れないものだった。トンネルでは煙突の煤も入って来たり。そして、今は新幹線で3時間、料金も特急寝台列車の10時間で2万円から1万5千円(平日特急8時間一万5千円)。青森県人にとっては逆に福音となった。それでも、再び雪々の青森に戻ると、今回の様な寂寥感に襲われる。青森は、功なり名を遂げて住むには心休まる所。しかし、これからの方にとっては、目を肥やしてくれる物が少なく、青春を爆発させるには機会が少なく、人間性を磨くにも人が少ないのが難。そのために、合理的思考に欠ける大人が出来上がる不安が募る。その老青年よろしく、この先、太平洋の向こう側には何かが、と言った若き日のロマンティックな希望とは裏腹に、私には多くの人生の困難が待ち受けている。しかし、同窓会で感得した温かみは、その厳しさに倒れんとする真にその時に、私を背後より支えてくれる事であろう。そうさ、私には一騎当千の賢い仲間達がたくさんいるのだ。

昔、若き日に、日中合作映画『未完の対局』を見た。三国連太郎主演、三田佳子、石田純一、紺野美沙子、松坂慶子等の日本の映画界をリードする豪華キャストの出演となっていた。このあらすじは、日中戦争当時、日本の囲碁の棋士と中国の棋士がその対局をしていたが、途中、憲兵隊の邪魔が入り中断される。後に、その中国人の息子の天才棋士がその日本人の娘と恋愛し結婚して一児を設けたのはいいが、その後、夫が密航時、憲兵隊に射殺され、妻はその後発狂し、やがて天に召されると言う物。そして、数十年後の日中国交回復後、その孫娘との出会いと共に、かの日本人と中国人は再会し再び対局し、当時の続きをするという物。近頃、仲邑菫(9)と言う囲碁の天才少女が、彗星の如く日本の囲碁の世界に現れたからと言う訳ではないけれど、私にも、若き日に決断した勝負の、今は傍らにそうーっと置いて有るいまだ未完かつ大いなる対局が、この先その続きを待っているとは言え、それまでの間に、これまでの様に何が起こるか分かった物ではないとの予感も有れば、開花に向かって勇気有る邁進をと言う意味合いを込めての『題字』となった。

これまた、つまり、死ぬ気でやらねばならぬ”未完の人生対局”が、この先で待っているのだ。私は、これに若き日の半分の体力、気力、感受性の低空飛行で対峙して行かなければならないのだ。『悪条件こそは自分の物に』、と言う柔道の教えを胸に秘めて、私の生命よりも大切な物のために。

同窓会の御賢者の皆様、どんな手で打って出るか見守ってくれていてね。(完)

 (20190511)

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泰国で沈阳と出会う


第一節    決死圏に突入

さぁて、あの中国生活から早5年の歳月。日本で日本語教師をしようと、その一里塚である日本語教育能力検定試験合格を目指す。が、準備周到ならざるためいつも憂き目に会う。その間、バイトや福島の除染作業、太平ビルサービス株式会社、家庭教師のトライ等で何とか生計を立てつつあすなろ的な日々を過ごす。そして、折りに触れてこの会の先生方に励まされながら。

しかし、このままではいかんと思い思い切って進路変更を企てる。そして、就活をしている内に、三沢米軍基地の期間限定、年齢制限なしの募集が目に付いた。こちらでは、他の仕事より割のいい収入が得られる。競争率の厳しい所であるが落選覚悟で応募した所、どう言う訳か採用された。面接時のアメリカ人の英語が所々分からなくて、希望は捨てていたが。受かったのは第35施設中隊。でも、積年の感から再度のハードな日々が待ち受けているとも予想していた。

やはり、とんでもない職場だった。ほとんど日本人ばかりで英語を話す事も無い。今年3月末日まで上記の職場にいたが、戸を開けばまた戸が有ったの感の毎日。世の中は甘くなかったの感で過ごす日々。良くしてくれた米軍の上司は、途中で韓国の方へ転勤になるし。その昔、ふるさとの市内で或る占い師に占ってもらった所、人生の節目節目で邪魔する物が現れて来ているとズバリ見抜かれた。今、再びその感がする。~♪~希望を捨てずに明日に生きりゃ~♪~の同じ年の天童よしみの歌に励まされて生きたが、半年の契約期間を満了し3月末日で退職。地獄から生還した感じ。パワーハラスメントのオンパレード。就職先として勧めたくない所。この話に深入りすると座が白けそうなので、このぐらいにして置こう。そして、タイ人の友人がいるタイへ行ってストレス解消をしたくなった。


第二節 終わっていた私の日

退職約1週間前ぐらいに、その職場のインターネットに古巣の基地郵便局の職員募集が偶然目に入った。しめた!と思った。でなければ、福島の除染作業に出稼ぎに行くつもりだった。が、応募締め切り1日前だった。あわてた。前回より応募者多数で若い女性の方々が多かった。面接時の英語は、やはり厳しく難関だったがどうにか受かり、また採用予定日が1か月も早まった。

以前と同じく窓口に配属される。今度は逆に、朝から夕方まで無料の英会話学級。しかし、まくし立てられると分かったり分からなかったりで、もっと勉強しなければと、語学学習はいつもが始まりである事を思い知らされる。日暮れて道遠し。そして、通訳業だけは二度とすまいと再度心に誓う。

語彙なり構文はほとんどの場合中学英語なのだが、配列が教科書的、本的ではないのだ。まさに、自信家も心細くなる世界。だが、ビジネス英語は外国人と仕事をする予定の無い、一般の英会話愛好者の方々には無用の長物と思われる。つまり、日常会話では不要だし、その前にその関係の業務内容に精通している事が必要だからだ。でないと、当のアメリカ人でさえも上手く行けない。

だから、一般の方はすぐ役に立つ英語でいいのではないか。今、時折、期待を込めて中国語にも親しんでいるが、同様の事を感じている。つまり、日常会話は初級レベルの語彙でいいのだが、でも・・・。現場の同僚の、とは言っても私の息子娘見たいな若き方々は、ネテイヴ並みの語学力。私はと言えば、受験英語止まりの文切り型。(でも、何とか通じている。受験英語も立派な英語だと言う高校教師の教えは、真理を突いていた。つまり、発展する核だった。)。もう、若い人には勝てない。伸びの限界も感じる。話ももう合わない。また、あの声高の呼び声も、足早の歩みも出でいない事にふっと気が付いた。つまり、私の日は終わっていた。積年の上司からも、「ここが最後だぞ。」と念を押されている。とにかく、今後約2年間の職務の予定ではあるが、引き際が近づいて来た様だ。20年前、英会話取得の二度と無いチャンスの場だと思い、短期とボランティアで忍耐強く2年半過ごした所、今度は、期間限定ながら正職員の待遇で、しかも、有るとも思わなかった返り咲きだったのに。だが、窓口では、私とのやりとりで、「~~、Sir !」と語尾で敬意を表す外人さんが増えて来た。以前は1回も無かった。また、往時のあだ名の”Mr.G”も残っていて、今でも私の通称になっていた。『夢をあきらめなければ、夢を実現する力が与えられる。』とは、有るオリンピックのスローガン。これからの私には支えの言葉である。所で、1か月も勤めないのに夏季ボーナスが出、しかも膨らみの有る・・・。査定・・・? Why・・・・? 一生懸命やったから?信じられない事ばかりが続く。


第三節 日本で初の日本語教師

昨年初め、日本語教師の面接試験がインターネットで有った。面接官は英語を話す韓国の米軍基地人事課勤務の女性であったが、条件が折り合わずそのポストを受け損なう。上記の三沢米軍基地のアメリカ人学級での日本語教師であったが。今や、日本語教師は花形となってしまったため、どこもかしこもその成り手は多く、そう簡単にはその座を射止める事が出来ないのが現状である。

が、天から降って来たかの様に、アメリカのCARTUSと言う語学教師派遣会社の子会社の『GCSLearn』と言う地元の日本語教師派遣会社から、或る日、突然仕事が舞い込んだ。生徒(?)さんは、55歳のマイク・パトロー氏で、基地内にあるTRANEと言うアメリカの建築会社にお勤めの方。アメリカ人に直接教えるのは、今回が初めて。英語を駆使してのレッスンは骨は折れるが、中国での経験が物を言った。聞けば、氏も2年間上海にいたと言う。が、危機感も募る。この世界での商売は、いつドタキャンになるか分からないからだ。これが一番怖い。とにかく、今年2月末より平日の仕事が終わった後、夕方にやっている。

第2章 あッ、沈阳だ!!

第一節 リニューアルの総合大学

今年(2018年)4月19日(木)から24日(火)までタイにいた。実は、次の職場は5月10日からの勤務だったので、ゴールデンウイークも避けその余暇を利用しての事だった。また、あのストレス発散のためだった。5回目で、8年ぶりのタイ。あの感激をもう一度と。今回は初めて羽田空港から、しかも0:20発の深夜便だ。毎度ながらタイ国際航空でTG661便(往復税込み¥65,290円)。が、搭乗直後に2時間の時差だけ時計を過去に戻す。そうさ、機に乗った瞬間から過去に移動し始めた。初の海外は今から約30年前。その時、夜間にバンコク空港に着陸した。その直前、機の窓からは星の様に、白熱灯が素朴に輝いているのが見えた。が、今回の未明の薄暗がりには、オレンジ灯の列が希望の朝を伝えるかの様に輝いていた。

機の客室乗務員の皆様のプロポーションも、30年前の小柄な感じから欧米人並みになっていた。この後も、行く先々でその現実を頻繁に見る。その当時、故プミポン国王が国民栄養向上政策を掲げていた。ここに来て、その政策が見事に成功している事を目の当たりにした。国王の先見の明に驚嘆。【写真:32年前の1回目のタイ行き、左から2番目が今回再開を果たしたおばあちゃんの若き日】

さて、スワンナプーム空港から乗り継ぎ先のバンコク空港にタクシーで向かう。前回と同じだと思い乗車順番券を発券機から取り乗ったはいいが、500バーツ(約1,700円、1バーツ≒3.45円、前は3円)から800バーツ(約2,700円)(約30キロの区間)と高値に変化。(タイの大学出の初任給は約20,000円)。それもそのはずのワゴン車タイプのタクシー。あわてないで民間のタクシーを探すべきだった。だが、快適だった。

空港は、いつでも人の夢を誘う。搭乗までの時間は心安らぐ幻想の世界。何となれば着いたそこで待機しながら、食欲をそそるタイ料理の陳列品を見たり、食したり。旅は、その過程が面白い。時間となったので、そこからは、ノックエア(鳥が飛ぶ)航空DD7808便10:05発で南方のナコンシータマラート空港へ約1時間(1,000バーツ=約3,400円)のフライト。降りた時はムッとした暑さは感じたが、往年感じた気温より低く、聞けば最近はそんなに熱くはないと言う。

いた、いた、が、白髪のハッサチャイ博士(66、物理学、物理計算学、ナコンシータマラート・ラジャパ総合大学)が開口一番に、「若い!」。そして、中国帰り後、ハードな日々を過して来た私は地獄で仏に会った様に感涙する。ナコンシータマラート市には昼頃に着いたので、市内のレストランでタイ料理に舌鼓を打つ事になった。いわゆる本場のタイ料理を、久しぶりに食して感激する。辛いし、汗は出るし。その後、今回の来タイ以前に、前回(8年前)お会いしていた高齢の母が他界されたとお伺いしていたので、そのお墓参りを願い出た。5年前ぐらいに93歳で亡くなられたとの事。タイ式墓地へのお墓参りと遺灰のある親戚縁者の御家庭を弔問する。この時、約30年ぶりで先生の一番下の妹さんとお会いした。私と同じぐらいの御年齢でほとんど変わっていなかった。後に記す26年目の方との出会いとは、対照的だった。また、1回目(30年前)のタイ紀行でお世話になったエビ養殖の実業家の長兄も、その事業からの引退後、2年前に脳卒中で70歳の若さで亡くなったと言う。合掌。明日は、私の好きな海鮮料理の有る、約30キロ先の海浜近くのレストランに連れて行ってくれると言う。明後日は、約180キロ西側のプーケット近くのクラビ市に連れて行ってくれると言う。実は、今回の旅に先立ち、太平洋側のスラーターニーかその反対のクラビに行きたいと打診して置いたが、先生は後者を選んだ。その理由は後で分かったが。つまり、その昔、私が会った人がいると言うからだ。とにかく、胸を膨らませながら氏の高級な家で眠りに就く。とんでもない再会が待っているとも知らずに。

翌日、試験監督のある先生に同行して、大学構内散策。図書館やその他の場所を歩き回るが、どこもきれいだった。30年前の平屋で長々とした校舎がヤシの林の中に見え隠れする光景とは違い、構内は舗装が完備され、今や王様が居住しているかと思われる建築物が増え、奥深くの中央には、そこに集まる方々を見守るかの様に巨大な金色の大仏が居座っていた。あ~あ、30年経ったのね、と心の中で溜息ばかりを付く。また、目に入る男子、女子学生の体型は、欧米人並みに変身していた。そこで、先生に『ノム コー ヤーイ(オッパイも大きいね)』と言ったら、即、「公衆の面前でそんな事を言ってはいけない!」とたしなめられた。外国人だからと言って大目に見られる事が無い言動も有るようだ。気を付けないと。その昼、大学食堂でタイの先生方との会食に同席する機会をいただいた。そこで、思わぬ程に日本語教師関係の話が出た。近い将来、日本語教師を募集すると言う。もし、良ければあなたを採用したいと言ってくれた。が、人生の難題がその行く手を阻んでいる。

この日の夕方、予定通り当大学のお二方のご参加も得て近隣の海浜の海鮮レストランでの会食となった。一方は英語が御専門の、もう一方は司書関係が御専門の教官だった。周囲のお客様には、タイ人とは思われなかった体型の方々が多く、また運び出されたお料理も格調高く、そしておいしく、再度、進歩したね、と心の中でつぶやく。宴を終えての帰宅途中、血圧に問題が無ければビールでも飲みたかったなあ、と残念がる。すぐ目の前に見えていた、漁師達の日々の生業を想起させる係留中の漁船の数々は、昔ながらで、郷愁の念が胸の中を素通りしていた。

第二節    タイの沈阳―クラビ市―

次の日、日が昇った10時前頃に、クラビ市に向かって先生運転の車で出立した。そして、ただ、のんびりと道中のヤシの木々の風景に酔う。この先、信じられない事が待っているとも知らずに。しばらくして、道路沿いのタイレストランで朝食を取る。その辛さを期待していたが、何か沈阳のレストランと似た感じの物だった。これが,この先、タイの沈阳と言っても過言ではない町が待っている事の前ぶれだったとは、後で気が付いた事だった。目指すは塗料関係のお店をしている先生の親戚の家だが、クラビ市近くになると中国語と英語併記の看板が目立つ様になり、タイ文字と外見上それ程変わらぬイスラム語併記の沈阳の看板を彷彿させた。街並みにも、沈阳で見かける物とは大差無い建物が目立った。

この日の夕方、近隣のタラート(市場)に出かけたが、沈阳のそれとは大差なかったので、一時沈阳にタイムバックした感がした。また、沈阳でもデパートのバーゲン時には、音楽会のオンステージも有ったが、ここでも例外では無く、若き乙女のエネルギッシュな歌声に酔いしれ、日本での喧騒を忘れ、年甲斐もなく夢心地になる。さらに、中国系タイ人の若い人には、スリムな方が多い中国本土とは違って、肉感的な容貌の人達が良く目に付いた。華僑の名残が見て取れた。

さて、着いた。事前に連絡して有ると言うので、早速降りてあいさつすると、お店の方々はけげんそうな表情。しばらくして、先生が降りて顔を合わすと、「あ~~あ!」と、やっと意味が分かった様だった。その中の初老のおばあちゃんが、私を見た事が有ると言う。私は、まだ皆目見当が付かなかった。着いたのは昼頃だった。その方も、「若い!」と言ってくれた。この昼食時に食したレストランも、沈阳風だった。

その後、1泊2人で800バーツ(約2,700円)のリバーサイドホテルと言う筋向いのビジネスホテルを予約し、夕ぐれ時前に、そのおばあちゃんと先生と3人で、17キロ先のスサーン・ホイのイーストライレイビーチへの散策。ここで、インターネットで事前に見た75万年前の太古の貝の化石で出来た岩板を見る。最初は沼地だったが、地殻変動で侵入して来た海水で貝が死滅し、その固まりで岩板が出来たとの事。しかし、このビーチでは、やけに若き西欧人の姿が目に付いた。次の日も、ガイドブックで目にした景勝地に運良く案内される。そして戻り、前記のごとくの時間を過ごし、明日の釣りボートの手配をして眠りに就く。あのおばあちゃんの正体が分かるとも知らずに。

第三節    26年目の再会

そのおばあちゃんは、早朝、数枚の写真を持って知り合いと共に私達を待っていた。これまた沈阳風の食堂での朝食直後だったが。それは、26年前、学位取得後の2回目のタイ紀行での、先生の妻の父の数回忌での2ショットだった。そこには、私とその日のおばあちゃんの乙女時代の姿が映っていた。実は、それは私のカメラで撮って、それを先生に送った物だった。良く保管していたものだ。信じられなかった。写真:32年前の1回目のタイ行きの写真の中に出てきた「おばあちゃん」と一緒

時さえも、その人情を消せなかったのだ。聞けば独身を通したと言う。今、タイではこう言う女性が多いと言う。特に、学位取得者、あなたの様に、と。実は、この女性とは1回目のタイ紀行で会っていた。今回の紀行の後で確認したが、その当時のスライドに若き日の彼女の姿が映っていた。丁度、日本に向けて帰国する日に見送りに来てくれて一緒に撮った物だった。

また、他の伯母さん方との写真も有った。しかし、あの2004年スマトラ島沖地震の津波で亡くなったとの事。一瞬、目頭が熱くなった。他人事ではなかった。実は当時、心配して友人に手紙を出して、当時知り合った方々の安否を尋ねていた。、プーケット近くの砂浜沿いのその家は、事前に引っ越ししていたので難を逃れたとの報告を受けて安堵していたのに・・・。「今度来たら、家ではレストランをやっているから、遊びに来てね。」と言ってくれていたのに・・・。彼女らの霊が私を招いたのかも。鎮魂の合唱。

蛇足ながら、昨年夏、教師会の辻岡先生が悪性リンパ腫が元で、帰らぬ人となってしまわれた。御入院直後には、お医者様からすぐ御退院出来ると言われていた矢先、急きょ、御容体が悪化されたと言う。その1か月前までメールのやり取りをしてくれていたのに。先生には、帰国後の就活の時には、いつも保証人になってもらった。奇異な国への御旅行がお好きだったので、タイにもお誘いしようと思っていた。後日、先生の御自宅へご焼香に上がった事は言うまでもない。けど、人に落ち着きをもたらすその清澄な語り口は、もう、拝聴出来なかった。また、天皇陛下からの学界、教育界への多大な御貢献による某勲章の授与式を、皇居で控えていたそうだ。郵便で届いていたそれは、とても威厳の有る代物だった。

なので、複雑な心境で釣りに向かう。総勢5人。私、先生、おばあちゃん、その隣人、そして、親戚の女子高生。料金は2,000バーツ(約7千円、日本は一人5千円が相場)。何はともあれ、この後、古里の図書館で見たガイドブックの中の景勝地を実際に見れるとは、少しも期待していなかった。

さて、迎えの小型トラックが来たので飛び乗り出発。が、すぐ乗船予定の木製テイルボートの係留地に着き、上船する。その後は、適度にクルーズを楽しめる時間だった。

しばらくして、小島のそばに来て早速釣り開始。先生に、「えさのイカは?」と聞いたら、「持って来なかった。」と。船頭の擬餌針によるイカのキャッチングを期待しての事だった。仕方がないので、前回先生宅に置いた行った錆びたサビキとリール竿で始める。が、さっぱり。船頭も、「いつもなら釣れるのに。」とさっぱりで、相互にあきらめムード。先生は、「今日は僧侶の日で殺傷はいかん。バチが当たる。」と慰めてくれたが。

こうして、午前中の釣りは断念して鶏状のチキン島の前を通ってタップ島に向かう。ここでは、外国人だからと言うので、400バーツ(約1,300円、タイ人は30バーツ)の入園料を取られる。多分、周囲の美観保持の管理に金がかかるのだろう。でも、そのチケット一枚で、他の島々も巡れるのだった。この島の200mぐらい先にはモ島が有って、干潮の時には映画『モーゼの十戒』の様に海が割れ、砂浜の通路が両島の間に現れる所だった。この時は、膝ぐらいだったが、何とか渡れる様だった。そして、ここでの散策後、近くのポブ島に行き昼食を取る事にした。ここのビーチでは結構ヨーロッパ人が目立ち、目のやり場に困る出で立ちでは有った。人慣れしたおサルさんもいた。

第四節    タイの好運の少女

さあーてと、帰港だ。午前のクルーズの際の様にさわやかな気分だった。そうさ、成果が有ったのだ。昼食後、再度釣りに挑戦する事になった。上船直前、どこで拾ったのか、同行の女子高生が、イカ墨のついたイカの切れ端をさっと私に差し出した。実はこの先、このおかげで、小ぶりながら入れ食い状態の釣りをする事になった。船頭も、今度は当たってせわしくイカを釣り上げていた。このイカも失敬してエサにした。

釣りの際中、釣り上げた瞬間、近くで拍手が起こった。左手を振り向くとゴムボートに乗った西洋人2人だった。私が「アメリカ人?」と聞いたら、「ポーランド!」との答えが返って来た。タイでは、アメリカ人よりヨーロッパ人の観光客が多い事は、以前から知ってはいたが。まだ、やって居たかったが、帰港時間となってしまった。先生は、「私もいつかやって見る。今度は大きいのを釣ろう。」と期待を膨らませた。

第五節    クラビに思い出を残して

帰宅後、その女子高生が自分の家に帰ろうとしたので、先生に通訳を頼んで、「イカをくれてありがとう。おかげで、たくさん釣れた。日本では、魚が釣れると、その後好運が来るジンクスが有る(いきなりの多額のボーナスがその証拠)。あなたは私に好運をくれた。」と金一封と共にお礼を述べた。また、あのおばあちゃんは、再確認するかの様に例の写真を取り出し、知り合いに見せた。そこで、私が、「ポム チュア ダイ マーイ(信じれない)!」と言ったら、『うぬーッ、このーッ。』と言う態度で、苦渋の笑みを浮かべて迫ろうとした。すぐ様、先生は、「心身共に色々苦労したのですよ。」と差し挟んだ。また、そのおばあちゃんのはるか上のお姉さんから、「また来てね。」と言われたので期待を裏切らない様に、「3年後ぐらいに、癌が専門の元大学教授と来るよ。」と言って置いた(山形先生、聞いてる!?)。

今回の旅に先生もお誘いしたが、御多忙で断念。山形博士は、癌の転移を抑えるガングリオシドー細胞表面の糖鎖GD1a―を発見したが、定年が迫りその機構の全貌の解明までには至らなかったとの事。後一歩で全世界の癌患者への福音になる所でしたね。口惜しい。先生からは、癌の浸潤についても御教示いただいたけど、これは物理の「揺らぎ」の典型的な類似現象で、この概念を利用しそのモデルを考えて、その度合を表す臨界指数を「コヒーレント異常法」(私の学位論文の御指導をしてくれた元日本物理学会会長鈴木増雄東大教授(当時)の御発見)を駆使し計算して見たいと考えているが、もうやられているかなあ? 何!、この人は博士号を鼻にかけているって(外野)! 何も無い人間と誹謗されて来た私に取っては、唯一、その防御となる物。学問の世界では免許証見たいな物で安い物だが、それにしても大変。今は最先端から身を引いているが、趣味でやっているからいいじゃないの?あッ、脱線しそうになったので、本論に戻ろうッと。【写真は第2章第3節にでてきた「おばあちゃん」のお姉さん】


とにかく、タイ人に気に入られた様でホッとした。帰路、段々、英語中国語併記の看板が少なくなり、再びタイ語だけのそれが増え始めた道中で、今だに信じられない、あの出会いは、と一人心の中でつぶやいた。今回は、もう以前の様な思わぬ出会いは無いだろうと思っていたのだから。どう言う訳か、あのおばあちゃんは、私達の車が見えなくなるまで見送ってくれた。そして、そのお姉さんも。旅の不思議さ、今一度。

第3章 つながったタイ人と日本人

第一節 コスモポリタンの前兆

翌日は、ナコンシータマラート空港10:30発のタイライオンズ航空783便でバンコクに向かう。翌々日、スワンナプーム空港からの帰国に備え、先生の長女宅に一泊させてもらうためだ。この長女には生後6か月の男子がいた。また、その御主人の弟さんは、名古屋の日本人と結婚したと言う。道理で、フェイスブックの中に、彼女が名古屋も歴訪しているお写真も有ったと思った。

そして、その父は、元トヨタの社員でタイ駐在が長く、今はバンコク市内で年金生活をしていると言う。ハッサチャイ家は、先生の日本留学30年後にとうとう日本人と血がつながってしまった。ちなみに、先生の御長男は、2つ年下のアメリカ人女性と結婚し今妊娠中。カルフォルニア市在住。御一家での米国留学20年後にアメリカ人とも。

その夕刻に、日本へのお土産を買うため、市内のデパートに長女の車で行った。ジェームズ・ボンド並みのお車だった。そのデパートは、昔日のタイを感じさせる物は一片も無く、お客様にもリッチな成り立ての様相が目立った。気分が良くなり、帰宅後に禁酒していた缶ビールを買って飲む。先生は、「どうして飲むの?」と聞いたので、「楽しいから。」と答えたのはいいが、やはり、血圧が上がり翌日は気分が悪かった。その当日は、スワンナプーム空港13:00発のタイ国際航空660便に乗ると言うのに。

その朝は、先生とタクシーで空港に直行した。普通の型だったので500バーツ(1,500円)。大空港は、平日とは言え閑散としていた。でも、搭乗した機内には心時めく客室乗務員もいたりして、旅の終わりを楽しんだ。機内食も、頼んだコーヒーも、おいしかった。


第二節 散り桜は舞い上がり易く

中国からの帰国後、雑用ばかりで食って来た私には、瀋陽日本人教師同窓会は唯一の知的空間時間。機会有るごとに、この自分と言う物を持った方々との出会いとその凝縮された次元から生きる勇気をもらう。今は休めているその翼にエネルギーを注入してもらう。まだ独身で、かの石田純一氏と同年の私は、今年第3子を持った彼に再度あやかりながら、再度婚活に希望を 持つ。ついでに、同年の西城秀樹さんは今年逝かれてしまわれた。空戦場に向かう途中、突然、目の前の隊長機が意識不明状態となり落ちて行くのを見ている感じ。涙、涙・・・。が、命のバトンタッチをして隊長の分まで戦う、の気概ももらう。私の生身の翼も、もうこれ以上強固には成り得ぬが維持は出来ると思うので、その努力は継続して行きたい。それがいつかは実を結ぶ事を信じて。

【写真:今回の旅行でお世話になったハッサチャイ博士が空港で見送ってくださった】

ところで、今回の旅で気が付いた事は、長年学習したにもかかわらず、他の仏、独、中、モンゴル語等初級レベルでも概要の分かった外国語と違って、なかなかピンと来なかったタイ語が、意外にヴァリエーションも富んで通じた事だった。タイ語は象形文字見たいで、良く外国人は日本語の漢字は絵みたいで覚えにくいと言うが、その気持ちが分かるくらいだった。が、その構造も分かり易くなった。ここに、外国語取得の秘訣の一つが見え隠れする様な気がした。日本語教育にも応用出来るのではないかと一人心の中でつぶやく。

(20181021)

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