瀋陽に暮らして 第二部

第19号   第二部   目次

瀋陽「春餅」再発見

長澤裕美(東北育才外国語学校)

昨年9月に瀋陽の外れ、渾南開発区の学校内の寮に引っ越してから、ほとんど町に出ることがなくなり、再発見する機会もないのが残念なところです。普段行くレストランもお決まりになってきているので、新しいところを開拓したい気持ちだけは満々です。

一番開拓したいのは、「春餅」のお店です。以前は東北育才中学校の近くに「春餅大王」(・・・名前はあまり確かではありませんが)という小さい店があり、そこの春餅がとてもおいしくて、同僚の先生も私も、定期的に「春餅中毒症状」が出て、よく行っていました。2年ほど前に老板が変わったのか、味が落ちたのがわかりました。春餅をどうもレンジでチンして出しているようでした。それからその店に行っていません。今、慢性の春餅禁断症状がでています。ただ、春餅は簡単に作れるんです。以前、寮の管理人の女性に作り方を教えてもらいました。日本に帰り、家族と一緒に作って食べたりもしました。ただ小麦粉を熱湯でこねて、のばして焼くだけ、それに、炒め野菜やら、肉炒めやら好きな具をのせて巻いて食べるだけのシンプルな料理です。でもシンプルだからこそ、その意外なおいしさに皆びっくりします。ただ、自分で作ると少しぶ厚くなって、そのせいか、3枚目ぐらいでお腹がいっぱいになってしまいます。プロの焼いた薄~い春餅なら、7,8枚はいけます。「今度はモヤシ炒めをのせて、次は肉?(ロウス)ミックスして・・・」などと楽しんで、いやしく?食べたいのです。日本の手巻き寿司を食べる楽しさに似ています。今年はぜひ、次なる「春餅大王」を探し、いやしさ丸出しで春餅を思う存分食べたいなあ!

私の知る「瀋陽人」さまざま

渡辺文江(遼寧大學外国語学院)

私は、国、人種、言語、習慣、思想の違いを越えて、「人情」は、世界共通と信じている。

瀋陽人を語る時、特別な鎧など身に着けず、人情に触れて見たい。

私と瀋陽人との最初の出会いは、1988年春、1本の国際電話の声から始まる。「渡辺先生ですか、こちら、遼寧大學のGです。いつ、こちらへ赴任されますか。北京まで、出迎えますので」若くて、美しい声、流暢な日本語は私に安心感を与えてくれた。その彼女は、その後、日本に教師として赴任、今は、アメリカで家族と暮らしている。

爾来、17年間の瀋陽人との付き合いは、教師、学生、留学生、学者、経済人、政府役人、残留日本婦人など、もろもろの人々に至るまで、相当多い。しかし、「時の流れと人の流れは留まる所を知らず」は、いずこも同じで、これらの瀋陽人の多くが、他都市、省外へ、日本、アメリカ、韓国、カナダ、などへ出て行った。中国経済成長期の人々なので、「水は低きに流れるが、人は高きに流れる」という原則通りであると、つくづく、今、思う。思い出人の中で、何人かを語りたいと思う。

1、K先生

今年、満100歳を迎えられる老先生。今も、かくしゃくとして品性高貴、その風格は、私が心から敬愛する方である。99歳で著作を出された。私はその本の中の自拙文で、「ダイアモンドの輝きの人」と称えた。私と彼の出会いは、3度しかない。その後、年賀の挨拶を交わすのみであるのに、今も交流が続いている。数年前、先生宅を訪問した時、彼の記憶力の精緻で正確なことに驚きいった。満州国皇帝の学友だった彼が、激動の歴史の中を生き抜きながら、市井の一教師の私とも、真摯、誠意、品位で交流くださる姿は、中国人の懐の深さを実感したのである。

2、Dさん

教え子はたくさんいる。17年後の今、交流をしている人もいる。日本語専業の学生なので、多くは日本語を使って仕事をしている。助教授になった人も、副総経理をやっている人などなど。

Dさんは、大學で3年間、私の学生で、今、東京に暮らし日本人と結婚している。

中国人と日本人は、性格、考え方、行動など、全く違うと言われている。確かに、180度反対といっても過言ではない。血液型では、B型民族(中国人)とA型民族(日本人)と呼びたい。

80年代後半、市場経済が始まって10年、社会は混乱していた。男女平等を謳う中国で、競争社会で女性が打ち勝つためには、男性におとなしく負けている訳には行かない。その頃、小さなもめ事で、女性が男性に喧嘩を売っている場面を多く見た。その時、男性はたいてい女性のわめくような剣幕にたじろいでいた。「ああ、中国の女性は強いなあー」

家庭訪問をしても、来客のために忙しく料理を作っているのは、大抵、ご主人で、奥様は悠然と来客と応対している。日本では、ついぞ見かけない光景である。大學教授も、夕方、買い物篭を持って市場へ出かける。物の値段にも詳しい。これぞ、男女平等か、と思ったものである。

その当時に、しとやか、控え目、礼儀正しい、微笑みを絶やさない、思慮深い、「謙譲の美徳」を身につけている彼女は、「日本女性」そのものの雰囲気であった。その彼女が、大舞台では、はっきり意見を言う。私は、中国人がはっきりものを言う様子を見る度に、うろたえながらも、うらやましく思ったものである。私も、これは学ばなければと考え、それ以来、何事も自分の考えを正しく伝える努力をしている。「以心伝心」「言わなくてもわかるでしょう」は日本人の身勝手と思う。「言わないことはわからない」のだ。

臆測で判断しない。だから、彼らは知っていることと知らないことをきちんと区別するので、「いいえ、知りません。」「いいえ、出来ません」とはっきり言う。中国人はきついなあー、割り切りが早いなーと受け取られる面であると思う。

現在、経済発展が著しい瀋陽は、高層ビルが立ち並ぶ大都会。人口は六百万人?

見目麗しく、スタイルがよく、高級衣服で盛装した淑女が、しとやかに歩いている。言動もおだやか、微笑みも浮かべて、優雅である。人は社会的動物であることを物語っている。落ち着いた秩序が感じられる昨今である。

Dさんは、中国人なのに、日本人と見まがうほど、その言動、思考、立居振舞が似ている。

私は、国際化の現代、人々の国境もボーダーレスになってきていると思うのである。

3、О君

今から3年前、О君の会社の人に会ったので、「最近、連絡がないのですが、О君はどうしていますか。」「Оさんは、自殺しました。」「えー?」私の胸に衝撃が走った。「どうしてですか?」「仕事を失い、妻子に去られ、将来を悲観したかもしれません。」

О君は一流国営企業に働きながら、遼寧大學夜間部で日本語を学ぶ真面目で実直な青年であった。私の所へよくやって来ては、親切に世話をしてくれた。周恩来が学んだ学校を見学に案内してくれたのも彼である。自分は貧しい、顔にも自信がない、よい人が見つかるかどうかと言っていたが、ある時、健康そうで、しっかりした女性を連れてきて、近く結婚しますと言った。私は、うれしくて心から祝福した。私が91年に帰国した後も、近況を知らせる手紙が時々来ていた。「子供が生まれました」「電話をつけました」「会社が閉鎖され失業しました」「今、通訳として日本企業で働いています」 私が、時に電話を掛けると「もしもし、、、」かわいい子供の声がして、パパに代わった。幸福な生活が進んでいたと思ったのに。そして、ぷつりと連絡が途絶えた。

経済発展の華やかさの陰で見えにくい悲劇。瀋陽人の誰もが、昔は貧しかったが、今は、本当によい、生活はよくなった、何でも買うことが出来る、と言う。

О君は、大卒の優秀な人材が次々に輩出する競争社会で負けたのだろうか。再び、失業したのだろうか。妻はどうして彼のもとを離れたのだろう。まだ三十代の彼に生きる希望を失わせたものは何だったのか。

「瀋陽人」を思う時、О君のことが胸から消えることはない。

彼は、経済発展の光りと陰の犠牲者かもしれない。中国人は楽観主義者が多く、自殺する人は少ないと聞いているが、最近の統計では、増えているようである。

私は、現在、瀋陽の隣接都市の遼陽で暮らしている。遼陽人はもとより、遼寧省全域の都市や農村から集まる学生達と付き合って見て、「人情」の厚さが人一倍強い。「人情の暖かさ」それは、私が、7年も中国で暮らしている最大の理由と言えるし、中国東北人の魅力かもしれない。

2005.2、27

 

瀋陽に暮らして

小林久夫(瀋陽師範大学)

今年の8月から瀋陽師範大学のキャンパス内で暮らし始めた。いくつか雑感を書き連ねてみる。

1.突然くる停電と断水

中国に来て驚いたのが、なんの予告もなく突然停電、断水することである。停電だけとか断水だけならまだいいが、不思議なことに両方セットでいつも来る。いつ復旧するか管理人もよくわからんのでこまったものである。

停電の場合、冷蔵庫が止まるし、夜、停電だと仕事ができない。仕事をしなくてもいいならよいが、そうゆうわけにもいかないから困ったものである。停電になって、日本から懐中電灯もって来てよかったとしばしば思ったものである。でもロウソクもあればもっとよかったかも・・。

断水の場合は、トイレが流せなくなるので困る。小ならまだいいが、大の場合で水が流せないとなると臭くてしょうがない。いつ断水になってもいいように体にためないでしておけということか?

2.色移りする壁

私の部屋の壁は白色だが、うっかりさわると大変。手や服に白い粉ペンキがついてなかなか落ちない。何のために壁をぬっているのだか、まったく・・。

3.バスタブの水たまり

部屋のバスタブにはいつも水がたまっている。なぜかというと、バスタブの高いところに排水溝があって、低いところについてないからである。仕方がないから、シャワーを浴びたら、いつも足で水を排水溝に流している。それでも少量の水がたまってしまう。どういう設計をしているんだか、まったく・・。

4.不思議なADSL

12月にADSLの設定をしてくれと頼んだら、ある学生がきていろいろやっていたがどうもうまくつながらない。しまいには、英語と中国語のウィンドウズなら大丈夫だが、日本語ではうまくつながらないとか言い出した。そんなことあるものかと思ったが、ADSLの主任に聞いてみるとかで帰っていった。次の週やっぱりだめだとわけわからん返事が返ってきた。お金は返してもらうことになったが、経理のサインが必要とかで(しかも経理は出張中!)返してもらうのに10日もかかった。まったく・・。

5.不思議なテレビ

8月から今の部屋に住んでいるが、11月までまともにテレビが映らなかった。テレビをつけても、どのチャンネルも青色一色。なんだコリャ?聞いてみると工事をやっていて、テレビの線(一応ケーブルテレビらしい。でもどうして中国の放送だけなのだ。ケーブルテレビならBBCやCNNやNHKぐらいいれればいいのに。)が切断されているため、見られないとのこと。でも管理人の部屋へ行ったらテレビが映っているから、「どうしてだ!」と言ったら、自分でアンテナをつけたとのこと。「ならわしらにもアンテナをよこせ」といったら、「アンテナはこれだけしかない」とのたまうた。労働契約書にはケーブルテレビを提供するとかいてあるぞ、こら!詐欺じゃないか!と言いたいところだったが、管理人を責めてもしょうがないので、北行へ自分で外付けアンテナを買いに行った。でもあまり映りがよくないので、結局ほとんどテレビを見なかった。いまでもほとんどみていない。映るけど、映るチャンネルが少ないのでつまらん。たとえば中央テレビ台は、2、4,6しか映らない。どうして1が映らんのだ。また瀋陽テレビ台も1だけ映って、2がうつらん。遼寧教育テレビも映らない。もちろんほかの省のテレビ台なんて映るはずもない。しかたがないので、もっぱら友達の家へ遊びにいったときテレビを見ている。テレビを見ないもうひとつの理由は、テレビ番組表(テレビガイド)が入手しづらいことだ。大学の中では売っていない。どこで手に入れればいいのかよくわからん。こまったものだ。楽購にはおいてあるが、たかがテレビガイドを手に入れるために、片道40分もかけていくほど暇じゃない。

6.学生に思うこと

当然のことだが、当大学の学生寮にはテレビはない。だからテレビガイドが大学内にないのかもしれないが。でも、私の感覚では、学生にもテレビやパソコンぐらい自由に使わせたらといいたい。大学にはパソコンセンターがあるが、パソコンを使うと金を取られる。そのぐらいただにすればという気がする。おかげで、日本語科の学生は、日本語以外の知識が少ないと思われる学生が多い。そして就職活動のときに、志望動機が言えずに苦労している。もっといろいろな知識を習得させるべきだと思う。一般教養科目も、英語、体育、パソコンのほかは、思想道徳修養、毛沢東思想概論、法律基礎、マルクス主義哲学原理、マルクス主義政治経済学原理、世界政治経済、鄧小平理論というような講座が多い。もう少し幅広い教養を身につけさせられないものか。中国らしいといえばそれまでだが。もう少し専門科目も含めて、選択科目を増やせないものか。現状ではすべてが必修で1科目でも不合格になると留年するような感じになっている。日本の大学みたいに、選択科目を増やして、再履修制度を認めて、不合格になってもダメージの少ない制度にしてほしいと思う。

7.最後に・・・中国で暮らすには

中国では、日本みたいに、向こうから何かやってくれる、手配してくれるということはあまりありません。自分から動いて督促しないとまず動きません。どうしても動かなかったら、あきらめるというのも精神衛生上、大事なことだと思う。あまりたいしたことでなければ「まあいいか」という気持ちが大切だ。日本での感覚は通用しないと思う。また行事も急に決まることが多いので、自分から「○○はいつあるの、何時から、どこで・・」と聞いて回ることが大事だと思う。

なんだか、不満ばっかり書いた気がするが、慣れれば、スケジュールがぎちぎちに詰まって忙しく働かざるをえない日本の社会よりは居心地がいいと思う。遅れたのも僕のせいじゃないしね、と開き直ればまあいいかという感じである。自分から適当に動き回ればなんとかなるしね、というのを4ヶ月あまりの中国生活で学んだような気がする。みなさんはいかがですか? 完。

 

二組の少年達

高山敬子(瀋陽薬科大学)

[ そのⅠ  ]

午後の授業を終え、長くのびた夕日の中を主人と二人で、スーパーへ買出しに行く。

大学前の広い道路(文化路)をタクシーや乗用車、バスがけたたましく走っていく。その外側を自転車、自転車・・。そして人間は周りに気を配りながら、歩いていく。いつもの雑踏だ。信号でやっと止まった車の間をスイとぬうようにして、こちらの歩道へ渡って来る男の子、二人。小学六年と中学一年ぐらい。。ポケットに手を突っ込んで、周りに無関心を装いつつも、周りに目を配っている雰囲気。その目付きの鋭さが何となく引っかかる。念のため二人をやり過ごして、先にいかせる。きっちりと折り目のついたズボンをはき、薄汚れた感じはしない。二人でお喋りするでもなく、ただ油断なくまわりを見回している。

次の信号で、一瞬、全員が止まった。背の低い幼い方が動いた。後ろからスーと中年の女性が乗っている自転車に近づく。男の子は後ろから前へとまわり、買い物かごに寄りかかる。次の瞬間、信号が青に変わった。ゆっくり女性の自転車は進み、男の子は離れ、相棒と一緒に足早に去っていった。

  [  そのⅡ ]

瀋陽の11月、というともう初冬だ。乾燥した空中を ほこりが冷たい風に舞う。凍結した運河の川面をビニール袋や紙くずがひらひらと、転がっていく。道ゆく人は、オーバーやジャンパーの襟を立て、帽子、手袋姿だ。

買い物帰りに、前から買おうと思っていた手袋を探す。歩道のあちらこちらに、Ⅰメートル四方の紙を広げ、手袋や帽子を並べた露店が出ている。売り手は中年の女性が多い。2,3軒(?)覗いてみたが、今ひとつ、これという決め手に欠ける。また、次の機会に、と思い、スーパーのビニール袋を持ち直し、大通りに出る。

信号待ちをしている時、歩道の植え込みの陰に、少年が二人、手袋を並べて、店番をしているのが目に入った。アレッ、小学5,6年ぐらいだな、と思い、近づくまだ、幼さが残る顔で、なかなかかわいい。

茶色とベージュの縞の手袋を手に取ると、急いで袋を開けてくれる。紺色の方はどうかなと思い、手を伸ばすと、サッと取って渡してくれる。二人が、こちらがいいと言う様に、茶色に赤い縞の方をさかんに指差す。それを手にはめて、

「これが似合うの?」

と聞くと、日本語は分からないはずだが、うれしそうに、二人でニコッとうなずく。

けなげなチビ商人に負けて、色違いを二組買った。一組二元。これも露店の定価通りだ。

信号を渡りながら振り返ると、私が買って空いた場所へ、新しい商品を一生懸命に並べていた。

 

真夏の瀋陽で「仰げば尊し」を合唱

〈東北大学外国語学院日本語学部 第1回卒業式)

多田敬司( 東北大学 外国語学院)

一 日本語学部第一期生

私が瀋陽に来て、もう5年近くになります。昨年の7月には、東北大学外国語学院日本語学部の第一期生が卒業していきました。東北大学の外国語学院に日本語学部ができたのは2000年9月。つまりその半年前に私はこの学校に赴任してきたことになります。だから、日本語学部の第一期生の授業を1年生からずっと担当してきました。教科のほうは、主として精読、その他文学史、語言学概論などを担当しました。

現在東北大学の日本語学部の学生数は、1年生から4年生まで各学年20数名といったところです。ところが、第一期生だけは、1年目だということで1学年で54名の学生が在籍していました。教材(教科書)も彼らが進学するたびに、先生方と相談して選びました。何しろ、初めての学生ですから、すべて「一」からのスタートです。本校の日本語学部の先生方のご苦労は大変なものだったと思います。

2000年9月、2週間の軍事訓練を終え、教室で授業を始めるときの彼らには、初々しさと向学心が満ちあふれていました。私の初めての授業のとき、日本人の教員が珍しいと言う学生もいました。私たち日本人教員のほう(当時日本人教員は2人いました)も新鮮な感動をおぼえました。そして、彼らは紆余曲折を経て、懸命に努力を積み重ね、自己の目標に向かって、昨年の7月に東北大学日本語学部の第一期生として巣立って行きました。

二 卒業式を行うまで

残念ながら、東北大学にはせっかくの第一期生の卒業生を送り出すのに、特別な行事はありませんでした。私は心中、4年間付き合ってきた彼らとの別れは、何か特別な形にして残したいと思っていました。記念の集合写真だけでは寂しすぎると思ったからです。

それで、5月末の日本語学部の会議で、「この学部だけの卒業式をしませんか。日本語学部だから日本式の……」という提案をしました。日本語学部の先生方もぜひ日本式の卒業式をしましょう、と快く受け入れてくださり、教員が一体になって彼らを見送ろうということになりました。そして、6月末に卒業式を行うことが決定しました。

なにしろ、初めてのことですから、正式の日取りや場所が決まったのは、3週間前。それでも大学の代表の先生方、在瀋陽領事館・総領事や日本人会会長の来賓の皆様方が快く参加を引き受けてくださり、徐々に形が整っていきました。場所(図書館4階 学術ホール)が決まったのは、なんと10日前。いよいよ、あとは、中身です。

三 浴衣で答辞

答辞委員5名と送辞委員1名は直ぐに決まりました。問題は服装です。日本と違って真夏の卒業式です。日本的な雰囲気を出すため5人の答辞委員に着物を着せたら、という意見が出ましたが、夏物の着物などそう簡単に手に入りません。また、数もありません。そこで、浴衣ならどうだろうという意見が出ました。卒業式という一種厳粛な形式的行事の舞台に、浴衣で上がることに対してはちょっと抵抗がありましたが、時は真夏、場所は瀋陽、ということで、それもいいだろうということになりました。

私は送辞と答辞の指導に当たりましたが、彼らの能力はさすがです。1週間で仕上げてきました。もちろんすべて日本語です。また、そのとき3年生の授業を担当していたので、3年生の協力も頼みました。卒業式のBGM選びから、みんなの合唱までを、音楽が好きな3年生が担当しました。そして、みんなの合唱として選んだのが「仰げば尊し」でした。1週間前には寮でそのテープが何度も流れていたそうです。また、会場の飾りつけなども3年生が担当しました。そして、3年生の最後の精読の授業を使って3年生だけで卒業式の予行練習をしました。

幸運なことに、式前日、卒業記念写真撮影の直後に、日本語学部の先生方全員と4年生が出席して、式の予行練習ができたのです。私は日本式の卒業式の概要を先生方や学生に説明しました。汗をかきながらの卒業式の予行練習でしたが、整然と行うことが出来ました。最後に質疑応答があり、ある学生から答辞委員以外の学生はどんな服装で出席すればいいのか、質問がでました。そのとき、学院長がきっぱりと、「正式な席、そして来賓の方もいらっしゃいます。きちんとした服装、つまり、就職活動をするときのような服装で出席するのが当たり前でしょう。」と答えられました。私は、内心「そこまで…」と思ったのですが、翌日私の考えが甘かったことが分かりました。

四 2004年 6月25日(金) 卒業式当日

10時開式の予定。3年生は8時に会場に集合し、最終的な会場設営にかかりました。

答辞委員は9時前から浴衣の着付け。日本人の女子留学生と私の家内が5人の答辞委員に浴衣を着せてくれました。卒業生は9時半に図書館3階に集合。9時50分に入場。

1,2年生は9時に会場集合。送る学生は約70名

10時に来賓の方々が席に着かれると、会場後方から卒業生54名(男子学生=15名、女子学生=39名 男子学生1名日本留学中 )が入場。3年生の代表4名が卒業生全員の胸に花をつけてくれています。卒業生の男子学生はほとんどがネクタイをしています。女子学生もそれなりの服装です。Tシャツ姿は見当たりません。自然と卒業式の雰囲気が醸し出されてきます。答辞委員の浴衣姿も会場の雰囲気を盛り上げています。違和感はありません。

10時少し過ぎ、開式宣言。司会は私と日本語学部の中国人の先生。出席された先生の中には、日本語学部以外の先生もおられ、中国語の説明も必要だったからです。

式次第の通り、卒業証書授与、学長のことば、学院長(学部長の)ことば、来賓のことばが続き、いよいよ学生の出番。まず、3年生の送辞です。きちんと正確にまじめに読み上げています。卒業生は余裕を持ってその日本語に聞き入っています。次に、答辞委員の5人が壇上に登場しました。浴衣は日本語学部らしさを十分に出しています。一生懸命に答辞を読見上げている姿が、卒業生に4年間の学生生活のつらさや楽しかったことを懐かしく振り返らせたのでしょう。彼らのほとんどが目頭を熱くさせてきました。

そして、祝電の披露。1年生のとき1年間だけ日本語を教えられた日本人の女性の先生のメッセージを読み上げました。それを読んでいる時、卒業生の中からは、すすり泣きも聞こえてきました。このメッセージが1年生の入学時の不安な思いや楽しかった思い出を彷彿とさせたのでしょう。会場中、感極まる中 閉会宣言。

最後に出席者全員が起立し、「仰げば尊し」を合唱。場所は瀋陽、季節は真夏、答辞委員は浴衣姿、ですが、瀋陽に響く「仰げば尊し」は十分に卒業式の余韻を堪能させてくれました。この歌を選んでくれた学生に私は心から感謝しました。また、なぜ、最近日本では卒業式でこの歌を歌わないのだろう、と思ったりもしました。こんなにきれいなメロディーで、歌詞も悪くないのに……。

来賓、先生、在校生の拍手の中、卒業生退場。

五 卒業式を終えて

日本でも私は、何回か卒業式に参列し、いつもそれなりの感動を味わったのですが、瀋陽の卒業式はまたひとあじ違っていました。「卒業式をしよう」と日本語学部の会議で決まったとき、私は正直に言って、日本の形式美的な行事に中国の学生がなじめるかどうか不安でした。しかし、指導していく中で、その不安は徐々に消えていきました。先生方の応援も心温まるものでした。

厳粛な形式の空間だからこそ、心温まる「別れのとき」を共有できるのが卒業式。来賓の方々の励ましや在校生の祝福の中、感激しながら退場して行った卒業生の後ろ姿や、浴衣の答辞委員、一生懸命日本語の送辞を読んでいた学生の表情などには、演出がかっていない素朴で新鮮な感動を覚えました。そして、「仰げば尊し」ってなかなかいい歌だなあ、と改めて思いました。

ただひとつ残念だったのは、卒業式に全員が参加していたので、撮影係のスタッフがいなかったことです。答辞委員の浴衣姿を紹介したかったのですが……。

 

瀋陽再発見! オーダーメイドにはまる

児崎静佳(瀋陽理工大学)

瀋陽生活も4年目を迎えましたが、再発見!というテーマを与えられ、「えっ、どうしよう」とちょっと戸惑い気味です。再発見とまでは言えませんが、最近私がはまっていることをご紹介します。

最近オーダーメイドで洋服を作っています。日本の感覚で「オーダーメイド」というと「高級で高い」というイメージがあるのですが、中国ではその逆と言えそうです。生地も仕立て代も安くしようと思えばとても安くできます。これまでにズボン2本、スカート1着試してみましたが、どれも割りと成功しています。今までに利用したお店は、太原街の「中興デパート5階の布売り場」・「瀋陽北市場2階」です。

初めて作る場合は、生地はそこで選ぶとしても、自分の持ち服を持ち込み、デザインもサイズもこれと同じにしてほしいと頼むと失敗はないと思います。値段は生地の値段や仕立て方にもより

ますが、ズボン1本100元以下で作ったこともあります。日本で買うことを考えると安いと思いませんか??

特に女性で「瀋陽では気に入った洋服がなくて、買えない・・・」という方、いらっしゃるのではないでしょうか。ちょっと試してみてください。

 

瀋陽再発―朝鮮族の中での暮らしを楽しむ

中村直子(瀋陽市朝鮮族第一中学)

私は2004年12月に来たばかりでまだ3ヶ月しかたっていないので、瀋陽のことはあまり分からない。個人的には北京、長沙に続いて3回目の中国滞在になるが、その中でも瀋陽は少し違っている。というのは、私の学校もそうであるが、朝鮮族が多いため、韓国、朝鮮の文化が生活の半分くらいを占めるということである。

今はほとんど朝鮮語を聞き、朝鮮料理を食べ、音楽やテレビドラマなども韓国のものが多い。これは今までになかったことである。時にはここは中国だということを忘れそうになることもある。そんな影響か、今では朝鮮語も少しずつ覚え、食もすっかりキムチ漬けになっている。私にとっては中華が続くより、辛くてもあっさりした朝鮮料理のほうが口に合う。朝鮮語を聞いていても日本語に似た部分と、中国語に似た部分の両方が聞かれて、とても興味深い。この際、瀋陽にいる間ぜひ朝鮮語を勉強してみたいと思っている。

瀋陽は中国でこれまで見てきた都市の中で一番親近感のあるようにも思う。朝鮮族はやはり漢族とは少し違うようだ。朝鮮族としての誇りも高い。普段はおとなしくて真面目で熱心という印象がある。何よりもきれい好きで、学校はいつもごみ一つ落ちていない。(しかし、宴会になると恐ろしいくらい飲み、また飲まされるのだが。)そんな朝鮮族の中で生活して、今まで見てきた中国との大きな違いを発見し、少し戸惑いながらもこれからの生活を楽しんでいきたいと思っている。

 

瀋陽の並木道

小林豊朗(遼寧大学) 

  遼寧大学は昨年から文系の学部がすべて郊外の道義開発区に移転したため、私の勤務する外国語学院も新キャンパスに移った。道義開発区は236や255のバスの終点で、本部キャンパスからバスで約30分の辺鄙な所にあるが、教員宿舎は本部キャンパスにあるので私たちは毎朝教員送迎用のバスで通っている。これから開発が進んでいくのだろうが、新キャンパスは正門も未完成で周囲はトウモロコシ畑などがどこまでも広がっている。

私は授業のため教室に向かう途中、よく廊下の窓から外を眺めていた。外では常に何かの工事をしていて、トラックが走っていたり土埃がモウモウと舞い上がったりしていたが、目を遠くに向けると、中国の田舎によく見られるポプラ並木のような道があった。その並木道はちょっといい感じで、青空の下や霞んだ空の下などで様々な表情を見せてくれた。私は廊下を通る時には必ずその並木道を眺めるようになり、いつしかそれは私の密かな楽しみになっていた。

ある時、いつものようにその並木道を眺めていた私は、ふと『あの並木道を歩いてみたい』と思ったが、かなり遠くにありそうだし、どのように行ったらよいかわからないので、その時はただ思っただけだった。しかしその後、並木道を眺めるたびに『行ってみたい』という思いが募り、ある日授業が終わった後で思い切って外に出てみたが、途中でトウモロコシ畑の脇道に迷い込んでしまった。しかもその道は馬か驢馬の糞だらけで、農作業をしていた中国人が何か言っていたので逃げるように戻ってきた。

その後はまた眺めるだけだったのだが、ある天気のよい日になぜか突然『今日は絶対に行こう』という気になり、昼食後、外に出て行った。前に道を間違えたので、その日は工事をしている方に向かった。途中、工事をしている中国人が胡散臭そうな目で私を見ていたが、無視して進んでいった。ところがしばらく進むと、かなり幅の広いどぶ川にぶつかってしまい困っていると、近くにある小さな小屋から一人の中国人が出てきて、「何をしているのか」と言った(と思う)。そこで必死に「向こうに行きたいのだ」と言うと、「この先を行け」と言った(と思う)ので、礼を言ってそちらに向かった。しばらく進むと、少し川幅が狭くなったところがあり大きな石があったので、それを足がかりに何とか渡ることができた。さらに進むと広いゴミ捨て場のような所があり、悪臭を放っている。そこを小走りに通り抜け、土埃に悩まされながら広い道路を渡り、農民が牛の群れを追っているのを横目にさらに進むとようやくあの並木道が近づいてきた。

やっとたどり着いた私は、『これがいつもあの窓から眺めていた並木道か』という思いで近づいて行った。ところが何となく妙な感じがしたのでよく見てみると、その並木道には何とおびただしい量のゴミが敷き詰められていたのである。しかも野焼きをしているようで、焦げた臭いが漂っている。さらによく見てみると周囲もゴミだらけで、『並木道の端まで歩いてみよう』という気持ちも吹っ飛び、こんな所にいると身体によくないと思って、早々に写真を撮ると逃げるように戻り始めた。

236のバス乗り場まで徒歩でおよそ40分。強風で土埃の舞う道路を歩きながら、なぜだか犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」とか、ディック・ミネの「人生の並木路」のフレーズが混乱した私の頭をよぎっていた。

 

瀋陽に暮らして

森林久枝(東北育才外国語学校)

この4月で、瀋陽に暮らして一年になりました。日本にいる友人の中には外国で仕事をしているというだけで、なにやらたいそう立派なことをしていると勘違いする人もいますが、この一年で私が身に付けたものはそんなに立派なものではありませんでした。ただ、ごく当たり前の真理に気づかされたと思います。

この一年間の瀋陽での生活の中で、これまで自分が「常識」だと思っていた「常識」とは自分の頭の中だけで成立するもので、ずいぶん狭く浅い見識の上に成り立っている「常識」であることを強く認識せずにはいられない状況に追い込まれることがありました。自分が生まれ育った国で生活していても、「まあ、あの人、なんて常識はずれなことをするのかしら」と他人を批判することがあります。ある場面では、そんな風に他人を批判している自分が、ある場面においては逆に他人から批判されるような行動をとっているはずです。そのことを省みないで、自分基準の正義ばかりを振りかざそうとすると、自分で自分を苦しめ、周りの人にもずいぶん苦しみを与えることになりますよね?と、同意を求められても困ると思うのですが、私はこのことをはっきりと自覚できたことによって、ずいぶん楽になったと感じることがありました。

結局、「自分は常識的な人間であると思い込んでいる人間ほど非常識な人間はいない」ということなのではないでしょうか。なんだかどこかで見たようなフレーズですよね。それはきっとこれが真理であり、今までにいろんな人たちが語ってきたからなんじゃないかと思います。しかしながら、瀋陽に暮らした一年の中で身をもって体験してみて、やっとその意味を真に理解することができました。

 

2元の価値、1元の価値

峰村 洋(瀋陽薬科大学)

先週のある日、街へ出た。帰る段になって財布を調べてみた。一元玉が二つ、計2元だけ入っていた。果たして中国硬貨を「~だま」という言い方をするかどうか、定かでない。そんなことはこの場合どうでもいいことだ。

問題は、2元をどう使うか、ということだった。一元はバス代にしなくてはならない。すぐにオーバーズボンの右側の隠しにしまって先ず大事を確保した。残りの一元を使おうか、使うまいか。どうするか迷う所だ。もし、何かの間違いで、バスに二回乗ることになったらどうしよう。予備金も必要とならないだろうか。「まさか。」と打ち消してしまう。

実はその時、無性に腹が減っていたのだ。お腹を少しでも満たしたい。確かスーパーへ行けば、一元のパンを売っていたはずだ。朝市では、二つで一元のもあったし・・・。

折りしも、最近オープンしたと思われるスーパーが目に入った。店内をあさってみる。しかし、なかなか一元のパンが見つからない。やっと小さなパンが見つかったが、値段は、一元20角とある。ウーン。もう少しなのに。 

昼中のことで、店内には、暇そうな店員はわんさといるが、買い物客は小生含めて三人くらいだ。どうも彼等のおしゃべりの餌食になりかねない雰囲気がした。早く店を出たい。でもどうしよう。やっと一元物が目にとまる。子どもが好きそうなお菓子が六つ入った袋だ。「ええい、ままよ。」全財産をたたき出して、逃げるように店を出た。

学校の傍に一元ショップがある。今までかなりの物をそこで買って重宝している。あんなに価値があった一元が、肝心な時にパン一つ買えないなんて。やっと買ったお菓子は瞬く間に終わった。胃袋のどこに納まったか、分からない。

スーパーがいけないのか、それとも金を十分持たぬヤツが悪いのか。

 日本の100円ショップはどうだろう。帰国すると必ず寄りたくなる店だが、思い返してみると、100円で終わったためしはない。1000円以上がほとんどだ。もっとも100円寿司とて同じだ。

もっとも、それで彼等店の人は生きているのだから。

 

エステにて

渡辺京子(中国医科大学)

瀋陽で暮らすようになってしばらくして中国の友人からエステに誘われた。日本でのエステは高価で私など行く身分ではないという先入観があり、あまり興味がなかった。

しかし友人は心身ともにリラックスしてとてもいいのだと、何度も熱心に勧めるので行って見ることにした。ところが、想像していたよりはるかに、これはいいなーと実感した。

清潔な部屋、従業員のマナーの良さ、そして心地よいバックグラウンドミュージック、ここが中国だろうか!とちょっと驚いた。

1時間以上も掛けての美顔術、簡単な全身マッサージ、日本だと最先端の機器を駆使するところだが、中国では全部手作業でなされるのだ。

それがとても気持ちがよく、私はいつも睡魔に襲われてしまう。

本当に心身ともにリフレッシュして爽快になる。

そこで一人の美容師Tさんと知り合った。初対面で何歳かと聞く。

「わたしは、36歳です。あなたは?」というのである。

きた、きた、きた‥‥と私は思った。中国では初対面で年齢を聞くのが習慣なのだ。以前、中国で観光旅行のツアーに参加したとき、皆から年齢、勤め先、給料まで聞かれて辟易した経験があるのだ。

「私は38歳よ」 と、とっさに言ってしまった。 彼女は一瞬けげんな顔をして、「騙人」と笑った。 しかし、そのあとすぐに「我的姐姐」と言ってにっこりほほえんだ。

彼女は日本語が習いたいと言う。簡単な挨拶や言葉を教えると一生懸命勉強して、次に行ったときはちゃんと覚えているのだ。日本語を覚えるのは楽しいという。

他の店員も入れ替わり立ち代り来て単語を覚えていく。

「私はいつも日本人と交流ができるので皆からうらやましいと言われる」と得意顔でいう。

先日いつものように筆談を交えてTさんと話していると、「小日本」と言う声が耳に入った。私は咄嗟に、「小日本不好」と大声を出した。

中年の女性客が私が日本人だと判って抗日戦争のことを延々と話しているのだ。

歴史教育を受けて日本嫌いになったのであろう。私は悲しくなった。こんな場所で耳にするなんて、なんともやりきれなくなってしばらく黙っていた。 するとTさんは、

「戦争は60年前に終わったこと。私も他の人も皆日本が大好きよ。」と目に涙を浮かべて、一生懸命ペンを走らせていた。

私は「日本は戦争を反省して世界の

平和と発展のために貢献しているのよ。私も中国が大好きよ」と返すと、うれしそうににっこり微笑んだ。

中国の郵便局

「日本ではこうなのに‥‥」 と中国で比較してはいけないと日頃は心に留めて、中国の習慣や仕組みを理解しようと努力しているつもりだが‥‥

郵便局だけはもう少しなんとかならないかなーといつも思う。

中国に赴任したときは外事処の係りの人が、日本から送った100キロの荷物を引き取って届けてくれたので郵便事情は良くわからなかった。

日本から荷物を送ると到着の通知書が来る。それと身分証明書をもって、自分で郵便局まで行って引き取ることになっている。

力のない私は男子学生に重たい荷物の受け取りをいつも頼まなければならない。郵便局からタクシーで運んでも、学校の門から宿舎まで距離がかなりあるので大変だ。

日本では集配して、配達までしてくれるのが当たり前なのに‥‥

あるとき、中国国内に小包を出すとき「切手は持っています」と言っているのに、郵便局員は小包にスタンプを押してしまった。そして「送料は30元」と要求された。切手は有ると何度言ってもスタンプを押したのでだめだと譲らない。中国語が通じないと思ってか、英語のできる人を呼んできて「送料30元が必要だ」を要求するのである。自分のミスを認めない。サービス以前の問題である。めんどうなので30元払ったが、なんとなく後味が悪い。

この2月、日本から持参した生チョコレートと煎餅を上海の友人に送るために郵便局に行った。その友人は日本留学経験があって、日本のお菓子がとても好きな中国人である。郵便局の窓口で荷物の中身を開けるように言われた。

きれいに包装されリボンがけされたチョコレートと煎餅である。以前から中国では荷物の中身を検査することは知っていたけれど、一目見てお菓子と分かるので大丈夫だろうと思っていたのが甘かった。調べないと発送できないと言われ仕方なくきれいに包装されたリボンをほどいた。中国の郵便局では荷物はすべて検査されるシステムなのだ。

中国は人間を信用していないということをまた新たに認識させられた。

玉の「岫岩玉」

石井康男(遼寧大学)

遼寧省は、中国国内では最上の玉と貴重な化石が採取されるところである。 岫岩玉は、岫岩満族自治県から産出されたことで岫岩玉と名付けられた。

この岫岩玉は、国内で最も古い玉器として海城県仙人洞遺跡から発見され、約一万年前の旧石器時代のものであるという。

この岫岩玉はこれまでに新石器時代から清・明時代まで墳墓から数多く発見されている。1968年、河北清城陵漢墓から発見された「金縷玉衣」は岫岩玉が2498個も使われている。

このほかにも北京博物館に収められている数々の玉器は、世界最高級のものであり、そのほとんどが岫岩玉で造られている。

この岫岩県からは、1997年に総重量6トンと推測される世界最大の岫岩玉の原石が発掘された。

岫岩玉といっても種類は多くあるが大きく分類すると、1.蛇紋石 2.透閃石 3.蛇紋石と透閃石の混合石 の三種類である。

中国では古代から玉が珍重されてきたが、その理由は石の持つ美しさだけではなく、人体に与える一定の効能があるからだといわれている。喘息・五臓・発毛などなど・・・。現代医学でも血液循環・新陳代謝の促進・睡眠不足・肩こり・糖尿病・高血圧などに対して効果があると紹介されている。

最近は健康器具として米国や韓国にも輸出されているという。

私も中国人から玉枕をいただいたことがある。夏は頭が涼やかで快眠ができるので愛用している。健康用品としてはボールよりもやや小さな玉が売られている。手のひらの中で握りしめる事で血行がよくなるといわれている。

中国人は健康と魔よけをかねて玉を身体につけている。

たしかに高級な玉は価格が高い。健康効果だけでなくステータスとしての効果も持つのであろう。

瀋陽生活の記念として、小さくても高級な岫岩玉を手に入れて帰国をしようと思っている今日このごろであります。人生最後の希望は健康ですから。

着物姿の遼寧大学の学生たち


外国語の習得

岡沢成俊(東北大学)

日本人は英語ができないとよく言われる。それをメディアが取り上げた場合には誇張や統計のウソが混じっていることが少なからずあるが、私自身大してできるようにならなかった身には切実に感じるところである。大学の第二外国語に至ってはできるできないのレベルどころか、単位さえ取れればよしといった感じで今や記憶にすら残っておらず、周りでもできるようになったという話はほとんど聞いたことがない。

中国に来てまず驚いたのが中国人教師の日本語能力の高さであった。学生時代に、英米人の教師に混じって訛りのない英語で学内向けビデオ教材に"出演"していた助教授が英語圏に行ったことすらないと聞いて驚愕したことがあるが、中国にはそのような中国人日本語教師はいくらでもいそうな印象を受ける。

学生も日本語専攻の場合はもとより、第二外国語で1年間学習しただけで一部の学生はそれなりに話せるようになっていて日本とは別世界であるが、極めつけには学習歴ゼロであるにも関わらず日本語が話せる学生が数人いたのにはショックさえ感じた。

話を聞いてみると皆日本のゲームやアニメで日本語を覚えたという。特にゲームはRPGという、文章を読んで謎解きをしないと先に進めないタイプのものをやっているようで、いくら面白いと感じても「習った」ことのない言語で進めていくゲームを自分ができるだろうかと考えると、感心するやらあきれるやらといった感じである。

外国語習得の達成度に関わる要因は言語自体の性質、教育システム、社会的・経済的側面など様々なものがありうるが、この差の原因としてまず目に付くのは、中国の大学生は勉強するが日本の大学生は勉強しない、という点であろう。これもまた前出のような様々な要因の結果から成り立っており、一概に言えない。

しかし、大まかな傾向として、経済的・文化的に発達した国ほど国民が外国語に向けるエネルギーは少なくなるようである。

現在急成長中の中国が経済大国となったとき、現在の日本語学習・日本語能力の水準は維持されるであろうか。

 

五つ星ホテルで過ごす年末年始

山形 達也(瀋陽薬科大学)

1.山大爺、ひょんなことから日本人教師の会に入るのこと

中国の東北地方はかつて日本が占拠して満州と名付けた植民地を作ったところで、日本の国策に沿ってその地に入植していた人たちが、日本の敗戦の後で出合った悲惨な運命はよく知られている。私たちが今暮らしている瀋陽は、当時の首都ではなかったもののその頃から経済・物流の中心地だった。瀋陽の歴史を考えるとこの地域の人々が日本と日本人に対して良い感情を持っているはずがないと思えるけれど、瀋陽に暮らして一年以上経っても、まだ嫌な思いを一度もしたことがない。

それどころか驚くのはこの東北地方では日本語熱が盛んなのだ。一般の大学に専門の日本語学科が設けられているのは当然としても、この薬科大学には4年間で卒業できるところを5年と、1年間学業を延ばして日本語を習得し、その上で日本語で専門を学ぶエリートコースもある。市内の高校や中学でも日本語を勉強するコースがある。そのために本場の日本語を話す日本人が日本語教師として必要とされていて、この瀋陽にも日本から結構な人数が来ているということだった。

私たちが2003年夏に瀋陽に来たとき、瀋陽薬科大学で日本語を教えていた二人の日本人教師のうちのひとりである坂本先生はちょうど1年の契約が終わって帰国する直前だったが、瀋陽の暮らしを私たちにいろいろと親切に伝授して下さった。バスの乗り方、近くの良いスーパーマーケット、日本の食品、あるいは日本のものに近い食品を売っているところ、青空市場でのものの買い方など、沢山を短い時間で教えて頂いた。

坂本先生はさらに、瀋陽とその近くで日本語を教えている日本人教師の集まりがあって、その年度の最後の定例会が近々あるという。瀋陽に長く暮らす先生もいらっしゃるから紹介しましょうと言われて、教師の集まりである瀋陽日本人教師の会に初めて連れられて顔を出したのが2003年の6月の終わりだった。

悲しいくらい薄汚れた階段を3階まで上って入った部屋はぐるりと本棚に囲まれ、そこに入りきらない本が周囲に乱雑に積み上げてあった。中央には大きな机があって、その周りにはすでに二十人くらいの会員が集まっていた。大きく分けると若くて元気な、殆ど女性の先生たちと、明らかに私たちと同年代と見える先生たちの二つの年齢層から出来ていることが分かった。会の代表だとして紹介された石井先生は綺麗な白髪の温顔の先生で、「ここに長くいると言うだけで、何も知っているわけではないけれど、何か役に立つかも知れないから、そのときは何でも声を掛けて下さい」と優しい眼でおっしゃった。そのあとの会の進行は神妙に聞いていただけで、しかも日本語教育のことがもっぱら話し合われていたので、日本語の教師ではない私たちには無縁だなと思って、実は会の終わるのを心待ちにしていたのだった。

夏休みが終わってその年の9月に、この教師の会のその年度の最初の会が開かれた。私たちの研究室がまだ出来上がっていないためもあって、なんと、参加しないつもりだったのに、出かけてしまったのだ。今度は坂本先生という頼りになるガイドもなしに。これが運の尽きか、運の付きかは分からないが、私たちの運命を変えてしまうことになったのは事実である。

その年の初めての会だったので、集まった人たちのうち3分の1は私たちを含めて新人だった。初めての会員を迎えるので最初に石戸先生からこの会の趣旨、日本語資料室の沿革の紹介があった。それを聞いて日本を離れた遠隔の地でこの会を続けていくために多くの先人の努力があったのだと認識した上に、この会は会員誰もが何らかの役を受け持っていると言われてさわやかな感動を覚えてしまった。というのは、これまでにも様々の集まりに参加してきたし、私自身でも集まりを幾つも企画し運営してきたけれど、会員一人一人が何らかの役目を持つというのは初めての経験だったからである。

殆ど会に入る必要もないという傍観者の立場で来たはずなのに、この規約に感動してしまって、それなら何かの役を受け持ってこの会をお手伝いしようと思ってしまった。何しろ、石井康男先生の最初の説明によれば、この会も日本語資料室もボランティアのかすかな善意の糸でいままで細々と支えられてきたのだし、自分も何か手伝わなきゃいけないと言う気になってしまったのだ。

いくつかの役目のうち、日本語の教師でなくても出来そうなのはホームページだった。昔自分の研究室のホームページを作り掛けで挫折したことがあるし、一方今度は薬科大学の自分の新しい研究室のホームページを作る気でいたから、ここで練習できれば一石二鳥だと思った。

wifeも日本語教師とは一番関係のなさそうな役を探して、クリスマス係を志願した。ところが、その時の司会の中道恵津先生に「クリスマス係は12月半ばにやることが終わりますが、それまでは日本人会と緊密な連絡を持ちますし、先方は会社の方たちですし、若いそれなりの方を求めているみたいです」と即座に断られてしまった。wifeはすっかり傷ついてこの会に興味を失い、「何もやることがないから私はこの会に出るのは止めるわ」と彼女は私にささやく。

けれども私はこの会のやり方を面白いと思って会に参加する気になっていたので、私が全面的に助けるからという約束で日本語クラブの編集係をやってみないかと妻を説得した。それで日本語クラブの編集係は、中道夫妻とwife、およびそのお手伝いの私という構成となった。

日本語クラブの編集は直ぐに始まったけれど、コンピュータを使い慣れているのは私だけで、編集の具体的な作業はすべて私がやることになった。中道恵津先生のにこやかな「今度の日本語クラブは新人も旧人も含めて全員の自己紹介にしましょう。どなたもこのくらいはちゃんと書いて下さいますわね」と言う元気な発言を受けて、原稿が電子ファイルの形で続々と私の元に集まってきた。この作業はMacintoshを使い始めて十数年の私には、そのための時間が取られる以外何も問題はなかった。

しかし、ホームページとなるとそれまでの使い慣れたMacintoshで作るわけにはいかず、なにかのためにと思って持ってきたWindows PCが必要だった。ところがWindowsにはずぶの素人である。ホームぺージの作成ソフトに慣れるよりも、この使いにくいPCに慣れるのに大いに時間が掛かった。ホームページ係の同僚の河野美紀子先生も、この作業は得意ではなく、二人で手探りをしているうちに半年近く経ってしまった。

年度の半ばの2月には河野美紀子先生は帰国されてしまい、私一人が瀋陽に残されてしまった。半年経ってもまだ全く更新されていないホームページと一緒にである。やむなく馬力を掛けてホームページをいじり回し、やっと3月になって河野先生と私の手がけた新しいホームページが初めて日の目を見たのであった。

 

2.山大爺、日本人教師の会の中道先生夫妻と仲良くなるのこと

一方私がお手伝いしていた日本語クラブは中道恵津先生という名編集長の下で、順調に1年の間に16、17、18号を出すことが出来た。その間に一緒に出会って相談したりするほか、メイルのやりとりも頻繁に行うので、中道先生夫妻とうち解けた間柄となっていくのは自然の成り行きだった。

おまけに教師会の集まりは、中道夫妻の人柄に触れる良い機会だった。中道秀毅先生は芥川龍之介に私淑する文学青年と言って良い。お歳は私たちよりちょっと上だから青年も何もないのだが、気持ちは無垢な文学青年のままといって良い。率直で開けっぴろげで、その無邪気な気風は周囲を和ませずにはおかない。飄々としながらもすべてに自分の感性と発想を大事にしてごく自然に自分の考えを口にされる。

瀋陽には瀋陽日本人会という団体がある。会員数300名くらいの会である。教師の人たちは教師会会員という特別の資格を貰って会費半額で参加しているけれど、日本の水準で給料を貰い、企業活動のための資金も潤沢な企業人と比べて、現地の中国人と同じ給料を貰って働く我々とは経済力に天と地ほどの差がある。会社人間はテニス、ボーリング、ゴルフ大会、会食などを催して親善を積み重ねられるけれど、教師の給料ではとても参加出来ない相談である。中国で暮らす教師は日本人社会に、企業人と対等の立場で入っていけないのだ。

この日本人会の幾つかの催し物のうちで、年末のクリスマス会は瀋陽日本語弁論大会と並んで最大のイベントとなっている。瀋陽日本人会の催し物のほとんどは教師には無縁なので、それだけにせめて年一回は一緒に集まろうと言うこともあって、瀋陽日本人会は教師の会も誘ってクリスマス会に力を入れている。クリスマス会の実行委員会には教師の会からも数名が参加している。

教師会の定例会のあるとき、実行委員会のメンバーから年末のクリスマス会への要望を問われて、中道秀毅先生は「クリスマス会で座る所ね。あれは私達はあちこちのテーブルにバラバラに座らされるでしょ。だから、テーブルに座っても周りは会社の人ばかりでね。会社の人たちは互いに知っているけれど、こっちは誰一人知らないから除けもんになっちゃって、ちっとも面白くないですよ。教師の会の会員でテーブルを囲むことは出来ないでしょうかね。今度は是非教師で纏まって坐れるようにして貰いましょうよ。

「きっと楽しいですよ。」とおっしゃる。

なるほど、なるほど、その通りだったと思う。昨年私達が割り当てられた席はwifeと二人のほかはすべて初対面という厳しさだった。どうも私を含めて日本人は、初対面同士がテーブルを囲んだときに全員の口がほぐれるような話題を出すのが苦手である。何とかしなくちゃと思いつつも、初対面の人に用事もなく話しかける勇気がなくて、ばつの悪い時間だけが流れる。おまけに、皆が同じように白紙ならともかく、ほかの人たちは互いに知って話が動いているのに、こちらはその話に入っていけない。やむまく隣の会社の人と話そうとしたけれど、会話はぼそぼそとして全く弾まなかった。

教師だけでテーブルを占領したら、もう一年も経った仲間だから話は通じるし、楽しいに違いない。でも、教師だけで集まったら、会社人の中に孤独に放り込まれた教師の抱く悩みは救えるけれど、今度は別の問題が生じてしまうだろう。

でも秀毅先生はまず率直に問題提起をする無邪気さを持った先生だ。「福引きの景品だってね。」と話は続く。「去年は一つ当たるとその人がもっと当たって賞品をあらかた持って行ってしまって、こっちには何一つ来なくて詰まらなかったんですよ。こっちだってクリスマス会の時は一人前に会費を出しているのにね。景品はどんどんそっちに行ってしまってね。」ここで皆がどっと笑い転げても、隣で恵津先生が「ちょっと、あなた、もういいじゃない」と袖を引っ張っても、秀毅先生は動じることがない。

「いいじゃない。言わせてよ」と話を続ける。「だけど、折角クリスマス会に行ってカレンダーの一つだって貰えれば、誰だって楽しみなんだから。全員に何かの形で当たるようにして欲しいですよね。ね、そうでしょ?」クリスマス会担当の係の先生は「はい、そうですね。これを実行委員会に伝えておきますね。」と、ニコニコして受けた。

この発言は実行委員会に伝えられて効果があったらしく、その年の会は、福引きで上位十数名には豪華賞品も出たけれど、全員が最後に袋を貰って帰ることが出来た。沢山のお土産を持った秀毅先生は同じく土産の袋を下げた先生たちから「よかったですねえ」と言われていた。

人間社会は本音の剥き出しでは生きていけず、それを仮面というオブラートで包まないと生きて行き難いところがある。しかし英樹先生は常に本音を述べて、しかも皆から好感をもって迎えられる、実に得難い、そして羨ましい性分である。

その中道夫妻に誘われて、2004年の歳の暮れを、私達は瀋陽の五つ星ホテルで過ごすことになった。日本では年末年始はホテルで過ごすのが長年のファッションとなっていても、私たちは日本にいた頃は実験の都合があって年末年始も休むことがほとんどないので、ホテルに滞在する年末年始はただの夢物語だった。

しかし、瀋陽で暮らしていると毎日がアパートと大学の往復で、朝は早くて夜が遅い上に大学はすぐ近くである。日曜日の午前中はこれも近くのカルフールにグロサリーに出かけるけれど午後はまた大学に行くというような生活をしていて、私達の生活にはあまり変化がない。これは良くない。このような日常性の繰り返しに、時には非現実的な不連続性が入り込まないと頭がおかしくなるぞと頭の中のささやきが聞こえ始めたときに、瀋陽で親しくなった中道先生夫妻から誘いを受けたのだった。

何処のホテルにするかについては、中道先生夫妻が週末を利用して瀋陽のホテル数カ所を見学して、それぞれの特色と宿泊料を調べて下さった。中山広場の瀋陽賓館は昔の大和ホテルで長い重厚な伝統があるけれど、それだけに施設は近代ホテルに比べて見劣りがする。直ぐ隣のホリデイインは明るく近代的。その隣のインターコンティネンタル(州際酒店)は五つ星で申し分なし。値段も最高。

瀋陽に五つ星ホテルは二つある。どちらもこの五?六年の間に出来たという話で、それはその頃から瀋陽が発展し始めたことを意味しているのだろう。一つはホテルマリオット(万豪酒店)で、瀋陽日本人会が毎年クリスマス会を開いているところである。瀋陽の南にある桃仙機場(空港)から瀋陽の街に近づいて来ると、群れをなす高層ビルの中で金色に輝いている建物がこれである。もう一つがこのインターコンチネンタルホテル(州際酒店)で中山広場に近い瀋陽の中心地に位置している。道を隔てて日中戦争前は満州医科大学だった中国医科大学が眺められる。 州際酒店は最高の値段だけれど、全日空のカードを持っていると割引になることが分かり、カードをお持ちの中道先生のおかげで思ったよりも安く泊まれることも分かった。大晦日の日には非日常的時間を送りたい私たちは迷うところなくインターコンティネンタルを選んだ。

 

3.山大爺、誘われて中道夫妻とホテルで年末年始を過ごすのこと

一緒に時間を過ごす友人がいるという嬉しい期待に胸を弾ませながら、2004年の大晦日の午後3時半、私たちはタクシーに乗ってホテルに到着して、入り口で中道先生お二人の熱烈な出迎えを受けた。カウンターでチェックイン。このときにまず宿泊料の二倍の人民元をデポジットとしてホテルに預けなくてはならない。中国のこの仕組みを知らないでいると、ホテルの宿泊料金に相当する金は持っていても、実際は泊まれないことになる。先日上海に行ったとき、瀋陽が大雪のために帰りの飛行機が飛ばないかも知れないと聞いてあおくなったのはこのためである。前の晩の食事に見栄を張ったので、デポジット二人分の現金が残っていなかったのだ。

州際酒店で案内された部屋は禁煙階にあって、広々と綺麗で、外の見晴らしも良い。バスルームも大きなバスタブのほかにシャワー室が独立していて清潔である。3階にも降りて行って探検すると温水プールがあり、隣りを見ると大きなフィットネスルームがあった。しかし、運動靴を履いていないので入れてくれない。持っていない人のために運動靴を売ればよいのに、中国にしては商売気がない。

この大晦日の夜は、「ホテルに泊まってNHKのBS放送で入る紅白歌合戦を一緒に見ましょう」というのが中道先生たちの誘いだった。紅白番組は中国の時間では7時半に始まってしまう。それで4時半にはともかく夜の食事をしよう、でもホテルの食堂は高いからと意見が一致して、寒さに備えて厳重に身拵えをして外に出た。互いに見栄を張らない付き合いの出来る友人はありがたい。というか、見栄を張らないで付き合えるから、友人なのだ。

直ぐ隣にあるホリデイインを過ぎてから裏通りに廻ると、レストランがいくつもあって、その中の一つに「○○餃子館」というのを見つけた。「大晦日だから、餃子を食べなくっちゃ。」と叫ぶ。中国の東北地方では、餃子が日本の大晦日の年越しそばに相当する。英樹先生は「あの店は客がもう入っているから」と目敏く中を見透かして、「きっとおいしいよ。こういうところが美味しいに違いないんだ。」ということで中に入った。途端に曇って全く用をなさない眼鏡を外して拭うと、ごく普通の、しかしこぎれいな店だった。この時間なのにもう数組の客が入っている。

「ご縁があって、今日は一晩ご一緒することになりました、どうかよろしく」とビールで乾杯して、普通の総菜4種類と餃子3種類を注文したけれど、どれも美味しかった。餃子はかの有名な、値段でいうことこの店より5~8倍も高い中街の老舗の老辺餃子館に負けない美味しさだった。

大いに満足して店を出る。空気は凍てきっていて肺が冷たい空気で満たされて新鮮な気分になる。すぐに身体中が冷えてくる中をホテルに戻ると、時間は丁度7時半となろうとしていた。

前の週末に近くのスーパーの家楽福(カルフール)で買い求めた駄菓子を沢山持って中道先生の部屋に行く。まるで子供たちだけが集まって週末を過ごす時みたいな胸のときめきだ。部屋には丁度ラブソファがあり私たちはこれを占拠してしまった。中道夫妻はベッドに腰掛け、背もたれなしだったので結構つらい時間だったと思う。 紅白歌合戦といっても、実はもう何十年もの間ほとんど見たことがない。私の知っている歌は「今日は赤ちゃん」や「恋の季節」の時代までで、そのあと米国に留学して歌番組との断絶があってからは興味を失ってしまった。しかし反紅白というほどのこともないから、一緒に見る気でいる。

もう紅白は始まっていたけれど、恐れたとおり私にはどの歌も、そしてどの歌手もほとんどなじみがなかった。NHKの会長が悪い事をして非難されていても、現場はしっかりと頑張っているらしく演出は綺麗である。

8時近くなると、秀毅先生が「秦の始皇帝の暗殺をしようとした荊軻を知っているでしょ?これを今ドラマでやっていてとても面白いんですよ。これを見ましょうよ。」とおっしゃる。恵津先生は「あなた、そんなことを言って。今日は紅白見ることになっていたでしょ?」と秀毅先生をたしなめているけれど、「だって、山形先生にこの面白い番組を紹介したいんだから、いいじゃないか?」と主張を変えない。

「ね、あの荊軻の話ですよ。全三十話のドラマになっているのを、いま毎日二話ずつ再放映しているんですよ。いま面白くって毎日見ていてね。今日は二十一話と二十二話なんだ。」私たちは紅白よりも、元来中道夫妻とおしゃべりをして過ごすのが主目的だし、中国の歴史の話は大好きだ。

それでチャンネルは荊軻伝奇に変わったが、私が陳舜臣の本で読んでいる荊軻の筋書きと違っている上に、中国語だから話を追うのは難しい。しかし、幸いなことに恵津先生が秀毅先生のために字幕を素早く読んで日本語にするのが聞こえるので、大体付いて行ける。

時々、せりふが簡単で分かりそうだというので彼女が手を抜くと、場面が次に移っていても秀毅先生が「今なんって言った?」と、子供が駄々をこねるのとそっくり同じなので、思わず笑ってしまう。しっかり者の恵津先生に、やんちゃな秀毅先生の組み合わせのやりとりは絶妙である。私たちは紅白を見るよりもよっぽど面白い夜を過ごしている。

ドラマの中では荊軻とは子どもの頃の友人ということになっている秦軍の将軍樊於期が、部下の見守る中で荊軻を見逃したというので罪を得て、牢に入れられた。この樊於期将軍を演じている俳優は目元がすっきりとしていて感じが良い。樊於期将軍が牢に繋がれ断罪を待っているところで、あとの話は明日になってしまった。

将軍を取り巻く情勢は深刻である。しかし秀毅先生によると「この俳優は主役の一人に違いないから、これで首を切られたらドラマが詰まらなくなっちゃう。だから大丈夫。死なない。」とのことだ。実際彼に惚れ込む女性も出てきたから、ここで首が刎ねられてはいけない。

後で調べてみると、樊於期将軍は燕の国に逃れ、燕の国の将軍となって今度は秦と戦っていたが、荊軻が燕王に頼まれていよいよ秦王の刺殺に行くとき、大きな土産がなければ秦王に会見してもらえないからといって、自刎して自分の首を土産に持たせている。

荊軻が秦王(始皇帝)の暗殺に成功しなかったことは誰もが知るとおりで、荊軻が秦の国に向かって出立するとき述べた言葉も「風蕭蕭として 易水寒し 壮士一ひとたび去って また還らず」と「史記」に記録されて以来二千有余年人口に膾炙している。

二千二百年前の話がずっと語り継がれて今も息づいている国、その始皇帝が統一して全国に制定した文字で書かれた書物が今でもそのまま楽に読める国、古代と現代、貧と富が共存している国、現代の最高設備のホテルに泊まってこのような中国に思いを馳せる贅沢を、瀋陽で出来た友人と楽しく共有できた一晩だった。

(第2・3話は山形達也のホームページに書いたものを転用しました)

満州国・朝鮮民族・日本

加藤正宏(瀋陽薬科大学)

土日の二日間、毎週のように、骨董と古書それにガラクタを販売する二か所の路上市に出かけ、特別なことがないかぎり、この週課(?)を欠かしたことがない。値の掛合いにもだいぶ慣れてきた。市は正午をまわると、出店者の中に帰り始める者が現われ、二時ごろにはぐっと店の数も減ってしまう。だから、次に行く市のことも考えて、最初に行く市には九時前に到着するようにしている。後から行く市は懐遠門(大西門)の近くで、盛京古玩城の周囲にあり、この路上市を見回った後は、古玩城に常設された幾つかのお店を訪ね、親しくなった店主と話をして帰ってくる。どうにか話せるという程度の中国語なので、もちろん筆談も加えてのことである。主に教科書(中華民国、満州国、中華人民共和国の建国期、文化大革命期のもの)を集めている。しかし、その他に教育関係を中心として、少しでも歴史の匂いを留めていて、その匂いを嗅げそうなものを探し、あまり値が張らないものは今までにも種種購入してきた。今回紹介のこの1枚の写真には50元支払った。この写真が、歴史の匂いを濃厚に漂わせ、私の心を掴んでしまったからだ。値の掛合いも忘れて,相手の言い値で購入してしまった。

前置きはこれくらいにして、写真を紹介しよう。

写真は小学生のクラス写真である。「國本先生送別記念康徳八年四月十八日」と白抜きされている。校舎の前で三段になって撮っている写真だ。

康徳八年とある「康徳」は満州国の年号である。1941年に当たる。送別とあるから、先生が転勤か退職された時であろう。中央に女の先生が座っておられる。先生の衣装はチマとチョゴリである。朝鮮の民族服である。女子生徒の多くもやはりチマとチョゴリを身につけている。満州国にあった朝鮮族の学校だと推測できる。文字と写真から次のような疑問が涌いてくる。朝鮮の民族衣服を身につけた先生の姓が、なぜ朝鮮族の固有な姓にはない國本なのか、なぜ「老師」でなく「先生」なのか、「紀念」でなく「記念」なのかと。

國本という姓は朝鮮族の人が創氏改名を強制された時に名乗った日本名の一つであった。また、中国語で使う文字の「老師」や「紀念」でなく、日本語として通常使う「先生」や「記念」になっているのは、日本語学習が強められていた満州国だからこそだと考えられる。

このようなことが頭を過ぎり、満州国と朝鮮民族と日本この三者の関係を物語ってくれる写真だとの思いが頭の中で強まり、つい、言い値の50元で購入してしまったのがこの写真だ。