加藤正宏

長春で公安警察の取り調べ

山形 達也・加藤 正宏

はじめに

山形 達也

私は中国に滞在中の2005年10月の国慶節の休暇に、同じ瀋陽薬科大学で日本語教師の加藤正宏先生に誘われて長春市を訪れた。私にとってはこれが最初で最後の長春訪問となった。

以下に記すのは滞在二日目に起こった出来事である。この事件の翌日には体調を崩して瀋陽に戻った私は、いつものように自分のブログに事の顛末を書いて載せたのだった。しかし、それを読んだ中国の親しい友人たちにこのまま残しておくとヤバイと言われて、すぐに消去してしまった。

 

消してしまったはずのブログだったが、加藤先生がこれをコピーして保存しておられたので、十五年たった今、それを目にすることになった。

 

2005年10月の長春訪問に際しての出来事は私にとっては恐ろしい体験だったが、再読してみたところ、私にも加藤先生にも、案内してくださった張さんにも、そしてその時の人民軍関係者、公安警察の当事者にとっても、格別まずいことはないように思われる。

最近、インターネットで読めるBPressに『戦後75年・蘇る満洲国(4)新京、満洲国の首都を歩く 【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて』という記事が載ったことでもあり、昔の事件だが瀋陽日本人教師同窓会のWebsiteに載せることにした。

中国に滞在された間に同じような体験をされた方々に、それらを思い出してこのWebsiteに書いて頂くきっかけになることを期待している。

 

第一部は、私の体験記。第二部は同じくその直後に書かれた加藤先生の手記である。

 

第二部 長春での偶発事案

加藤正宏

山形さんが取調べを受けている時、私は待機している公安官と軍関係者に話しかけ、写真を撮った経緯を話し、私たちは特に軍の施設の写真が欲しいわけではない、軍の詰め所に訊ねたら、道路を越えたところからなら撮ってもいいと言われたと張さんから言われて撮っただけで、許可されていなかったら撮っていない。有れば有ったほうがいいが、無くたって特に困らない、これらの写真は消去しても何ら問題は無いと話したところ、彼らも事情はとっくに知っていたようで、頷くだけで、反論はしない。とにかく、軍関係の写真を撮ると煩わしいことになるから・・・・との話であった。

軍と公安との取り決めで、軍関係の写真を撮った者については公安に報告し、公安もそれらの者を取り調べなければならない規定があるとのこと。ここまで時間を食ったのは、張さんが納得せず、省の外事所に連絡してもらい、経緯を話し、解決しようとしていたかららしい。張さんとしては、詰め所で確認し、我々に撮ってもいいと言った手前、簡単には引き下がれなかったようだ。公安の人物が我々に言っていたように、日本の友人の手前、彼も面子にこだわっていたのだろう。でも、軍と公安との規定の中で動いていてしまったものを、何も無かったことにはできないのも、当然の話で、最終的には張さんもしぶしぶ納得せざるを得なかったようだ。このような結果になったことで、居たたまれなくなったのか、日本語を話せる人が付いていくから大丈夫ですと言って、我々がこれから、どのようなことを求められるかも告げずに、(その場から逃げるかのように)去っていったのだと思う。

(写真は旧・満州首都警察庁で、現・長春市公安局・長春市国家安全局。長春吉林大学に滞在中の2001年中に入れてもらえず外から撮影した)

山形さんの取調中、公安官や軍関係者と話していると、メモリーカードから焼いた写真を持って私服の公安官がやって来た。我々が撮った軍施設の写真の他に、我々が写っている写真が数枚あった。食事の時に撮った写真だとか、人物が大きく写っている写真である。この件の当事者の写真として、参考に焼いたようだ。話を聞いている限り、特に我々の写真を撮っておく必要はなかったようだ。メモリーカードに無ければ、焼きもしなかったとのこと。

軍施設と言っても、門が写っているだけである。私もその写真を見ながら、「保密」にするところが有るとは思えない、どうして、この写真がまずいのかと、公安官や軍関係者に問いかけてみた。でも、「とにかく、軍関係の写真を撮ると煩わしいことになる」との返事しかもらえなかった。公安官や軍事関係者がこのようにしか答えられないのも仕方がないことだが、このような質問ができるくらい、写真が届いた頃には、親しく話が交わせるようになっていた。

友人が明日一日しか長春に居られないんだが、偽満(満州国)の建物が多く残っているのはどこか、見て歩きたいんだが、どこに行くのがいいかと地図を開きながら、訊ね、アドバイスなども既に受けていた。と言っても、私の方が本当はよく知っていたのだが、メモリーカードの写真のことなどもあるので、私の方から話題をそちらに振ったからだ。彼らがアドバイスしてくれたのは新民街の八大部と偽皇宮である。

それにしても、これらの会話を通じて、我々が取調べを受けているのは、規定上、必要なため形式的にやっているものであることが感じられた。

取り調べも終わり、デジカメに詳しい公安官(1982年に吉林大学の法学部を卒業した)のマイカーで、宿舎まで送られて行く時、この新民街を南に向け走っていたので、意図せずして八大部の建物を電燈の灯り下に見る幸運にも恵まれた。(写真は旧国務院夜景

(20200828)

「張さんへの手紙」

お元気にお過ごしのことと思います。私も元気に過ごしております。

10月にお会いしてから、もう2ヶ月が過ぎようとしています。すぐに手紙や写真を送るべきところ、大変遅くなってしまって申しわけありません。

張さんには、長春に住んでいた頃と同じように、この10月もいろいろと案内していただき、本当に感謝しております。山形達也教授も大変喜び感謝しておりました。山形教授は張さんと話ができたことも楽しかったし、長春が初めてだったので、良い思い出になったと話しております。彼は学生(修士、博士課程)からの緊急の電話(実験内容についての相談や指導要請)があり、翌日瀋陽に帰りましたが、もう少しじっくりと長春を見てみたかったと話しております。また、機会があれば行ってみたいとのことです。

山形教授も、私も、私たちより元気に歩かれ、案内してくださる張さんの元気さには圧倒されました。でも、あの日はハプニング(偶発事件)が起こり、張さんには晩くまでその処理にあたっていただき、大変ご面倒をかけてしまいました。張さんが、体力を消耗され、疲れきってしまわれたのではないかと二人で心配しておりました。

張さんが主張されていたことは正当な主張(写真を撮ってもいいかどうか尋ね、了解を得てから写真を撮ったのですから、問題にされることが本来おかしいことです。)ですから、張さんが執拗に軍や公安局の人たちと交渉されていたのも当然だと思います。でも、軍や公安の規律は簡単に曲げられるものではないのでしょうね。張さんが確認したときに、答えてくれた軍の門衛さんの失言だったのでしょう、きっと。

このハプニングは、私たちに一般ではできない経験をさせてくれました。派出所に行ったのも、公安局本局に行ったのも、公安局の車に乗ったのも初めてです。調書を取られたのも初めてです。張さんには大変ご苦労をかけていましたが、私たち二人は、調書を取られたとき以外は待っているだけだったので、特に不安になることもありませんでした。むしろ、一般には入ることのできない公安局本局(偽満首都警察庁旧址)に入れたことなど、一般には入れない場所に入ることができたのは幸運だったと思います。当局と交渉しておられた張さんには申し訳ないですが、公安局本局(偽満首都警察庁旧址)で待っているとき、窓の形や、戸の形や、床などを見ながら、中国的な要素と日本的な要素がどこに見られるかなど話していました。今から考えると、便所へ行きたいと言って行かせてもらえていれば、玄関だけでなく、もう少し内部も観察できただろうと、残念に思えてくるくらいです。

私は、翌日は古玩城の友人たちを訪ね、そのなかの友人の1人と昼食をとり、吉長道尹公署や汪精衛の駐大使館、偽皇宮などを見て歩きました。その翌日には、文廟や民主路の8大部の建物を見て歩きました。8大部の建物以外はほとんど観光のために、形が変わって新しくなっていました。観光化された建物には歴史が感じられず、残念です。

張さん、健康に十分気をつけてお過ごしください。いつか妻と共に長春に行き、張さんにまたお会いできるのを楽しみにしています。

加藤正宏(2005・11・28)



1986年(三十数年前)頃の中国西安

その7 路上で見かけた職業

加藤正宏

西安の街中を自転車で出歩いていて、路上で見かけた職業を紹介してみよう。

蒲団綿ほぐし人

細での大きな弓のようなもので、豪快に綿をほぐしていく。どんどんと綿がふんわりと軟らかくなっていく。綿埃も立つのだが、機械でやるほどには気にならない。

猿廻し

日本でも猿回しは行われているが、現在の日本のそれは舞台やテレビ行われているのではなかろうか。1970年代の西安では道路で盛んに行われていた。

飴細工職人

日本の縁日などでも見かけたことがあるが、悟空や八戒など、色も鮮やかに作っていく。見事と言うほかはないくらい。見とれていた覚えがある。

身長体重計測

計測器を前にして、じっと客を待つ老婆を見かけて、ほんとに客が現れるのだろうかとしばらく眺めていたが、客は現れなかった。でも、これも仕事として成り立つから、このように待っているのだろう。

 

茶水売り老婆

机の上に茶の入ったガラス・コップを置き、コップの上に小さなガラス板を載せ、茶水を売っている。誰もが作っている茶水が商品になっているのを、私が見た最初であったように思う。現在の日本では、茶水は自動販売機のメイン商品であり、コンビニでも欠かせなくなっている。老婆は先見の明を持っていた人物だったと言えようか。

殺鼠剤売り

毛並みのしっかりした鼠の遺体が何体も並べられ、その奥に液の入った瓶や粉末の入った瓶が並べられている。道路前面に並べられた鼠の遺体は薬の成果の証なのであろう。

路上歯医者

歯医者というより、抜歯専門なのだろうか。抜歯した歯が、これ見よがしに並べられ、あたかも証はこれこのようにと示しているかのようだ。

裁縫屋

繕いをする女性たちが集まる路上の一角があり。中には手動式の機械とも道具ともいえないものを持参している者も居る。布鞄なども修理している。依頼する客たちもそこ目途にやって来る。

鍵造り屋

門扉だけでも何重にも鍵をかける中国人にとって、鍵ほど大切なものは無いようで、腰に多くの鍵をぶら下げ、ガシャガシャさせているのをよく見かけたものだ。しかし、それだけ何重にも鍵をかける必要がある処に、問題の本質があるのだろう。

路上西瓜売り

路上に山積みした西瓜は一日や二日では売り切れない。そうなると、盗まれぬように寝ずの番をしなければならなくなり、簡易ベッドを用意し、何日もここで過ごすことになる。

代書屋

大きな郵便局の門前には代書屋が何人も待ち構えている。農村の人だけでなく、街中にも文盲の人たちが居た1970年代、手紙を書いてもらうために、また読んでもらうために、郵便局の門前の代書屋は無くてはならないものだった。

21世紀の現在はこのようなことはなくなっているのではないだろうか。

自転車預かり人

大きな店舗や観光地近くの道路には、ロープで仕切った自転車預かり場所が必ず存在する。自転車の行動が多かった私には便利で、安くて、安心できるものであった。でも、一度だけ、慌てふためいたことがある。西安に赴任してあまり月日が経っていない頃、大雁塔の見学に出かけた。じっくりと数時間かけて、見学して戻ると、そこにはロープの仕切りも、預かり人のおばさんも、もちろん自転車も何もなかったのである。ほんとに驚いて、あちらこちらと聞きまわってみたところ、客足が絶え始めたので、より人が来そうなところへ、預かり人のおばさんが勝手に移動していたのだ。

自転車修理屋

赴任直後に、大学を卒業したばかりの日本語教師の同僚が半坡遺跡見学に誘ってくれた。二人は大学の自転車を貸与して、半坡遺跡に向かった。半時間走った頃、彼の自転車はパンクして、走りづらくなった。彼は慌てることなく、道路脇の自転車修理屋に修理を依頼し、待つこと半時間弱、修理を終えた自転車に乗って、目的であった半坡遺跡の見学を実現させてくれた。

道路はでこぼこで荒れてはいるし、大学の貸与してくれる自転車も整備もされていない年期ものだし、頻繁にパンクしているのであろう。大学だけでなく、このような自転車が多く使用されていて、パンクも珍しくなく、修理を必要とする者も、またそのような機会も多く、どの道路にも自転車修理人が陣取っている感じだ。

路上豆本貸出し

小さなトン(上に登、下に几の一字)ズ(子)という簡便な椅子に座り、壁に立てかけられた棚から豆本を選び、その場で読み終え、少額の読み賃を支払うのが路上豆本貸出しであった。中には大人も混じっていることがあった。

後日、豆本を私は収集しているが、中国古代の故事(劉邦など)、清末の故事(孫文、西太后、太平天国の乱の洪秀全など)、中国革命の故事(毛沢東や周恩来、朱徳など)、西遊記の故事、近代中国文学(阿Q正伝など)の豆本などと共に、日本のテレビ・ドラマを豆本化したものがいくつも見られた。山口百恵の「赤い疑惑」の「血疑」、「お信」の「阿信」、「聡明的一休」、「阿童木(アトム)」、「柯南(コナン)」などである。中国でシャンコウ・バイホエと言って山口百恵が、人気があったのも肯ける。

中国の路上で見られ、日本でほとんど目にしないものに、バイク・タクシーがあるが、これは21世紀の瀋陽でも見かけた。路上理髪店、路上歯科医も瀋陽で見かけている。当時、大いに気になったのが路上の四つ辻などで胸にプラカードをぶら下げ、その日のその日の求職を求める人たちが居たことだ。「立ちん坊さん」として、当時の瀋陽で発行されていた『日本語クラブ』に紹介した覚えがある。ご存じの方もいらっしゃるかも知れない。

 (20200401)

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1986年(三十数年前)頃の中国西安

その6     街中で気になった事柄いくつか

加藤正宏

西安の街中を自転車で出歩いていて、気になったことがいくつかあった。

狗肉

自転車に積まれ市場に持ち込まれようとしている狗肉には度肝を抜かれた。皮をはいだだけの姿は肉というより、狗そのものであった。東北だけでなく、西安でも狗の肉をごく普通に食べている人たちがいた。

あるとき、ある学生が私を自宅に招待してご馳走してくれた。

中国では客に満足してもらうためにテーブルいっぱいにご馳走が並べられる。会員諸氏の皆さんも、残してはいけないと考える日本の礼儀と違い、中国ではそれぞれ手をつけながら、用意されたご馳走を残すのが礼儀に叶っていることをご存知だと思う。残すことで、十分用意されていて、満足していることを示すのである。

肉だけでも何種類もの皿が用意されていて、請喫吧(チンチィバ)、請喫吧(チンチィバ)と私の皿に各自の箸で盛り付けてくる。招待してくれた学生が、それぞれの肉の皿から、この肉の味はどうですかと、次々と肉を私の取り皿に盛りながら、訊ね、最後にどの肉が一番美味しかったですかと問う。どれも、美味しかったと応える私に、この皿の肉は何肉かと一つ一つ更に念を押すように尋ねてくる。牛かな、豚かな、羊かななどと応えていく私に、くだんの学生は「老師(先生)、この皿の肉は狗肉なのですよ。」と言う。

私は知らないうちに狗肉を食べていたのである。講義のとき、日本人は狗肉は絶対食べない、食べる習慣がない、私も食べたことが無いし、これからも食べないと公言していたのだ。学生にしてやられてしまったという結果になった。

別の学生に招かれて、青蛙の料理も、西安では食している。25年後の江西省萍郷市でもこれらを食料として市場で見かけた。

参照:中国地方都市の日本語教師のつぶやき

「これも食べよう!!!」

http://blog.livedoor.jp/mmkatofu75/archives/9422746.html

「狗肉、まさにその姿 その2」

http://blog.livedoor.jp/mmkatofu75/archives/9422740.html

便所

扉もなく、横並びに存在する便所。義父と義母に中国旅行をプレゼントしたとき、義母の帰国一声が、「観光地の便所ではアメリカ人と横並びで屈んでやるのよ」との報告であった。とんでもない経験をしてきたという報告である。義母の言うアメリカ人とは西洋人一般を指す言葉だが、観光地であっても当時の中国はこのようなものであった。

西安の街の公衆便所も、同様であった。西安の街中で、更に私には奇異に思えたのが男子の立ち小便する所に大きなポリタンクが並んでいたことである。小便はそのポリタンクに向かってするのである。 後日、中国人の方から聞いたのだが、これらは回収されて化学薬品の原料として活用されるというのだが、私には驚きでしかなかった。

幼児のズボン

ズボンの股間が割れている。冬の時期のズボンもやはり、股間部分が割れている。屈むとおちんちんが諸に現れる。幼児にとって、便利なことは便利なんだろうが、日本では見られない光景だった。

参照:兵庫通信「日本おちんちんが見えていた」―兵庫県立青雲高等学校https://livedoor.blogimg.jp/mmkatofu75/imgs/1/5/1505accb.png

トラック遠足

すし詰めになった荷台の子供たちたちの姿を見ながら、日本では見られない光景に驚いたものだ。でも、子供たちはカメラを向けている私の方に、むしろ驚き、注目していているかのよう表情を見せている。荷台に多くの学生が乗せ、高考(大学入試統一試験)の試験場に送り込んできた高校のトラックも見たことはある、・・・・。

街路に乾される穀物(玉米)や果実(棗)

軒や樹木に乾される玉米(とうもろこし)だけでなく、広く道路にも玉米が広げられる。瀋陽でも棗が道路に広げていたのを避けて歩いた覚えがあるから、さほど珍しいものではなかったのかもしれない。自動車の走る道路に穀物を広げ、脱穀するのを見た覚えもある。

道路上の煎餅のごとく薄く加圧された鼠(ネズミ)

煎餅のように薄くなった鼠を道路上で幾つも幾つも見たことがある。道路を渡り切れずに自動車に轢かれた頓馬な鼠もいるものだと思っていたが、その数があまりにも多く、中国人知人に訊ねてみた。知人曰く、捕らえた鼠が二度と鼠になって来世も生まれてこないようにと、捕らえたり、薬殺した鼠を道路に放り出し、自動車に何度も何度も轢かせて鼠の形や姿を完全に失わせ、鼠への再生を阻むためだとのこと。

(20191005)

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1986年(三十数年前)頃の中国西安

その5    街路に描かれた唐詩

加藤正宏

赴任した当初、大学から貸与された自転車で、講義の終わった午後や休みの土日には、独り西安の街並みを駆け巡っていた。西安城内では古い町並みが壊され始めた時期であった。

それでも、四合院(東西、南北に対面した家屋の中央に中庭がある家屋)や胡同(路地)があっちこっちに残っていた。その路地の建物の壁に以下のような唐詩を幾つも見かけた。さすがに中国の都市だとその時は単純に感心したものだが、今考えるとどんな意図があったのだろうと不思議に思われてくる。描かれた詩には1986年に描かれたものが多かった。

当時の小学生課本にも多くの唐詩が紹介されていたし、書店などでも、多くの幼児用や小学生用の詩の冊子やテープが出版されていて、私もそれらを多く買い求め、今も手元に置いている。

街路で写真に収めた唐詩をご覧いただき、どなたか、その意図を解き明かしていただけないものだろうか。文革が終了して10年、海外から技術や知識を導入しようとしていた時期である。

『静夜思』 李白(701-762)牀前看月光 疑是地上霜 擧頭望山月 低頭思故郷

書き下し文

牀前(しょうぜん) 月光を看(み)る

疑うらくは是(これ) 地上の霜かと

頭(こうべ)を挙(あ)げて 山月を望(のぞ)み

頭を低(た)れて 故鄕を思う

『楓橋夜泊』 張継(8世紀中頃)月落烏啼霜満 江楓漁火對愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声到客船

書き下し文

月落ち烏(からす)啼(な)いて 霜天に満つ 江楓漁火(こうふうぎょか)愁眠(しゅうみん)に対す 姑蘇城外(こそじょうがい)寒山寺 夜半の鐘声(しょうせい) 客船に到る

『送日本國僧敬龍歸』 韋莊(836~910)扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東。此去與師誰共到 一船明月一帆風。

書き下し文

扶桑(ふそう)は已(すで)に渺茫(びょうぼう)たる中に在り 家は扶桑の東の更に東に在り。此(こ)こを去りて師(し)與(と)誰か共に到らん 一船の明月一帆の風。

*  扶桑:東海にある神木。時には日本を指す。

*  渺茫:広く果てしないこと。

街路の壁面に見たのではないが、日中の往来としてよく知られているのが、李白の『哭晁卿衡』と王維の『送秘書晁監還日本国』だと思うが、1984年に陝西人民出版社が出版した張歩雲著『唐代中日往来詩輯注』を入手している。

『送元二使安西(渭城曲)』 唐 王維渭城朝雨潤輕塵 客舎青青柳色新 勧君更盡一杯酒 西出陽關無故人

書き下し文

渭城(いじょう)の朝雨(ちょう) 軽塵(けいじん)を潤(うるお)し、客舎(きゃくしゃ)青青(せいせい)柳色(りゅうしょく)新(あら)たなり、君(きみ)に勧(すす)む更(さら)に盡(つ)くせ一杯(いっぱい)の酒(さけ)、西(にし)のかた陽關(ようかん)を出(い)ずれば故人(こじん)無(な)からん。

『黃鶴樓聞笛』李白(701~762)一為遷客去長沙 西望長安不見家 黄鶴楼中吹玉笛 江城五月落梅花

書き下し文

一ひとたび遷客(せんかく)となって 長沙(ちょうさ)に去る 西のかた長安を望(のぞ)めども家を見ず 。 黄鶴楼中(こうかくろうちゅう)玉笛(ぎょくてき)を吹く 江城(こうじょう)五月 落梅花(らくばいか)。


『塞下曲 一』 唐の常建(708~765)

玉帛朝回望帝鄉 烏孫歸去不稱王 天涯靜處無征戰 兵氣銷為日月光。

書き下し文

玉帛(ぎょくはく)は朝(ちょう)より回(かえ)って帝鄉(ていきょう)を望(のぞ)む 烏孫(うそん)歸(かえ)り去(さ)って王(おう)を稱(とな)えず 天涯靜(しず)かなる處(ところ)征戰(せいせん)無し 兵氣(へいき)は銷(き)えて日月(にちげつ)の光(ひかり)と為(な)る。

この詩については、訳文(高木正一『唐詩選 下』朝日新聞社)を付け、現代からの解釈の一つを紹介しておく。

玉帛をささげて入朝した烏孫王は、朝廷から退出したあとも、わが天子の都を慕い望み、国にひきあげてのちは、もはや国王の称号を用いなくなった。かくて、空のはての静かにひそまるところまで、討伐のための戦はなくなり、兵器の気は消え失せて、日月の光がかがやく世界となった。

*  玉帛:諸侯が天子に謁見するとき、進物としてささげる宝玉や絹布。

*  烏孫:漢代から南北朝のはじめにかけて、今の新疆ウイグル自治区の西境からソ連領イリ地方に国を建てていた遊牧民族。

そこには、これら韋莊、李白、王維の詩だけでなく、私たちの良く知っている鑑真や最澄や空海を詠んだ詩なども多数再録されている。その中から、李白、王維の詩を紹介しておこう。

『哭晁卿衡』 李白

日本晁卿辞帝都 征帆一片遶蓬壺 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧

書き下し文

日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞す。 征帆(せいはん)一片 蓬壷(ほうこ)を繞 めぐる。 明月帰らず 碧海(へきかい)に沈む 。 白雲(はくうん)愁色(しゅうしょく)蒼梧(そうご)に満つ。

*晁衡:安倍仲麻呂 *卿:尊称 *蓬壷:蓬莱の島 *蒼梧:中国の南方、中国

『送祕書晁監還日本國』 王維

積水不可極 安知滄海東 九州何處遠 萬里若乘空 向國惟看日 歸帆但信風 鰲身映天黑 魚眼射波紅 鄕樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 音信若爲通

書き下し文

「秘書晁監(ちょうかん)の日本国に還(かえ)るを送る」

積水 極む可からず

安んぞ 滄海の東を知らんや

九州 何れの處か遠き

万里 空に乗ずるが若(ごと)し

国に向かって惟(た)だ日を看(み)

帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ

鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く

魚眼は波を射て紅なり

鄕樹は扶桑の外

『望廬山瀑布』 李白(701~762)

日照香炉生紫煙 遙看瀑布挂前川 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

書き下し文

日(ひ)は香爐(こうろ)を照(て)らして 紫煙(しえん)を生(しよう)ず、遙(はる)かに看(み)る瀑布(ばくふ)の 前川(ぜんせん)に挂(か)かるを、飛流直下(ひりゅうちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)、疑(うたが)うらくは是(これ)銀河(ぎんが)の 九天(きゅうてん)より落(お)つるかと。


『春暁』 孟浩然(689-740)春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少

書き下し文

春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚(おぼ)えず、処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く、夜来風雨(やらいふうう)の声(こえ)、花落(はなお)つること 知(し)らず多少(たしょう)ぞ。

* 花落知多少:花落不知多少の不を略した形―松枝茂夫の解説。


劉根生が2017年5月15日付けの湖北日報網(ネット)で習金平が提出した「一帯一路」の「新シルクロード経済帯」と「21世紀海上シルクロード」を高く評価している。

その根拠に、常建の『塞下曲 一、 玉帛朝回望帝鄉 烏孫歸去不稱王 天涯靜處無征戰 兵氣銷為日月光。』を取りあげ、そこに描かれているように、二千年前のシルクロードの世界が平和で繁栄し、とても明るく幸せな世界が造り上げられているとし、習金平が提出した「一帯一路」を新しい発展理念の偉大な実践だとして、高く評価しているのだ。現時点では、日本人の私から見れば、湖北日報の劉根生による最高権力者に対する忖度にも見えるのだが・・・・・。

西安の壁にこの詩が描かれた1980年代当時、既にそのような意図が託されていたのだろうか。それともこの詩を壁に描いた意図は別にあったのであろうか。

2017年5月15日付けの原文は以下のようなものだ。

“一带一路”是新发展理念的伟大实践 (来源:湖北日报网 2017-05-15 作者:刘根生)

2013年9月和10月,习近平总书记在先后提出了建设“新丝绸之路经济带”和“21世纪海上丝绸之路”的战略构想,引起了国内和相关国家、地区乃至全世界的高度关注和强烈共鸣。 “玉帛朝回望帝乡,乌孙归去不称王。天涯静处无征战,兵气销为日月光。”常建的《塞下曲》,以雄健的笔力描绘出两千年前丝绸之路的和平昌盛、光明幸福的历史图景。而今,借助丝绸之路的历史符号,中国全面推进“一带一路”战略,这是一种智慧,也是一种胆识,是创新发展的中国在前进过程中迈出的重要一步。

(20190807)

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1986年(三十数年前)頃の中国西安

その4    紙銭冥銭

加藤正宏

紙銭は藁半紙に鏨で幾つもの穴を縦横にたくさん空けたもので、その穴は古銭のような円形方孔の形をしている。冥銭は玩具のような紙幣に天帝の肖像などが入れられたもので、額面は1万元とか10万、100万と現実にはない額面が記載されている。素朴な物は農家の人が版木を持っていて、それで印刷する一色刷りもので、額面は当時の紙幣の最高額面の10元であった。

1986年、私の方の事情(日本の年度替わりは3月末終了)に合わせて、西北工業大学は四月からの講義ということで私を受け入れてくれた。西安に着いた私が奇異に思えたのが、街角のあちらこちらで自転車に積んで売り歩いていåる穴の開いた藁半紙であった。

不思議に思い、同僚になった若い中国人日本語教師に、「皆さんは、あの穴の開けた藁半紙で尻を拭くのか」と尋ねてみた。写真を撮っている私に「手紙(便所紙)ではなく紙銭というものだ」と答えながら、なぜこんなものを撮るのかと訝し気な顔をしたものだ。

説明によると、清明節に墓の前で燃やすものだそうで、政府は迷信だと禁止しているそうだが、実際には民衆に根づいている風習なのだとのことであった。

後日、古老から聞いた話では、清明節の日には、墓に参って墓を清掃し、墓の前にいろいろな供物を捧げ、この紙銭や冥銭を燃やすという。この時、亡父に対しては「お父さん、沢山のことはできませんが、どうぞこのお金を受け取ってください。」と、墓に語り掛けながら燃やすのだそうだ。冥国で、亡父が経済的に困らぬようにとの家族の思いが込められているという。冥国つまり「あの世」も金次第なのであろう。

墓の前で燃やす紙銭は全部燃やしてしまわないで、数枚墓の上に置き、その上に煉瓦を載せて帰ってくるという。墓の上に紙銭が無いと身寄りのない墓だと見られてしまうからだそうである。

しかし、必ずしも墓がお参りできる距離にあるとは限らない。そういう時は、道路や広場に丸い円を描き、墓の方向だけは線を消しておく。 そして、その中で紙銭や冥銭を燃やすのである。円の切れた方向に煙が流れ、お墓まで流れて、燃やした紙銭や冥銭が届くと考えている。墓の場所を示した紙を共に燃やすこともある。清明節の翌朝などは道路という道路は円を描いた跡や焼けた残った紙幣による痕跡があちらこちらに見られた。これによく似た風習に、冬を迎えた時期に「寒送衣」というのがあった。亡くなった人に衣服を送るのだが、「お父さん、寒くなったでしょう、この服を送りますから、暖かくして過ごしてください」などと言って、少し綿を入れた紙で造った衣服を墓前で燃やすのである。

このときも、紙銭や冥銭も燃やした。 これらは中国で永年続いてきた伝統的民族風習と言えよう。唐代の杜牧の『千家詩』に取り上げられた七言絶句に、『清明時節雨粉粉 路上行人欲断魂 借問酒家何処有 牧童遥指杏花村」がある。この時期の雰囲気をあらわす詩としてよく知られている。また、唐代の詩人白居易(白楽天)には「寒食野望吟」という七言律詩があり、『烏啼鵲噪昏喬木 清明寒食誰家哭 風吹曠野紙錢飛 古墓壘壘春草綠 棠梨花映白楊樹 盡是死生別離處 冥冥重泉哭不聞 蕭蕭暮雨人歸去』と詠んでおり、どこからともなく聞こえてくる祖先を哀悼する泣声、風が吹き広野に舞い上がり飛び交う紙銭、古墓の周囲一面を覆いつくす茂った春草の緑など、下線部が伝統的な清明寒食節の様子を伝えてくれている。

いくつか由来が伝えられているが、我々には馴染みのない語句なので、清明寒食節の由来の一つを、雑誌『収集』(1986年8月号)に私が以前紹介した内容から引用しておく。

中国の春秋時代、晋の文公を助けて、国の復興を成功させた介子推は、引退し、綿山に隠居する。しかし、文公は彼を必要とし、山を下りて任官するように求めるが聞き入れられない。そこで、山を焼けば介子推も出てくるであろう、その時、直に彼に会って任官を求めようと、文公は考えた。清明節の夕方、山林に火をつけ山を焼いた。しかし、文公の予想に反して介子推は山を下りず、樹を抱いて焼死した。血詩が一首、残されていたという。その中に「肉を裂き、主君に奉仕し(苦戦していた時、食料が何一つなく、介子推が自分の腿を裂き、その肉を文公にささげたこと)、忠義を尽す、ただひたすら主君が常に清明(公明正大)なることを望む」の句があった。文公は介子推の遺詩を読み終えて、激しく心を揺り動かされた。そして、介子推が隠居した綿山を介山と改め、介子推が焼死した日(つまり清明節の前夕)は火を燃やすことを禁じ、煙草を吸うことや、火を使った食事をとることを禁じた。このようにして、清明節前夕の寒食節が生れた。そして、この寒食節には祭祀掃墓し、先祖を偲ぶ風習が生れた。

初めて赴任した中国で、このような中国の伝統的な風習の洗礼を受けたわけだが、その25年後の四度目の赴任地江西省萍郷市の或るお寺の門近くの外壁に、以下のような表題の内容掲示を見かけた。「関於規範城区喪葬秩序的通告」

公安局や民政局を含む五つもの局や室が連名で通告したもので、先ずその目的を、都市管理を強化し、都市環境を良くし、都市の品位を向上させ、全国的な文明都市を創り上げ、調和の取れた住環境を打ち立てるために、萍郷市人民政府が既に発している通知文件の精神に基づき、市内の喪の秩序に関する事項を規範して通告するものだと書いてある。


その規範として、5つの禁止事項を掲げ、違反者に対する罰則や処置が述べられている。禁じられているのは、居住区の道路や公共の場所に棺を設置し葬儀を行ったり、死者の遺物を燃やしたり、紙銭や冥幣をばら撒いたり燃やしたり、鞭炮に火をつけて鳴らしたり、葬送の銅鑼や鐘を鳴らし、笛を吹く、大きく放送を流すなどである。また、街路で棺を担ぎ練り歩くことや、葬儀の車列を組み交通渋滞を引き起こすことなども禁止されている。

もちろん、迷信に由来するものも禁止されている。風水を見たり、のぼりを揚げて霊魂を呼ぶなど、また巫女や占い師に頼んで宗教場所以外のところで法事や、紙銭・冥幣を燃やして死者に送るなどの迷信に基づく活動、そして紙銭・冥幣などの迷信に関る葬喪用品の製作などが挙げられていた。

それぞれに処罰があるだけでなく、楽器を含め、違反した物品については没収され、公職人にあっては、提供される葬儀費用や慰問救済が停止されると記載されていた。 江西省萍郷市では、通告で禁止されている事項のほとんどが伝統的社会慣習として、2011年頃も生きていたと言える。禁止事項というものは、守られない現実があるからこそ、このように通告されるものだからだ。

そう言えば、西安で紙銭以外にも喪や葬に関して意外な見聞をしている。額から垂れ下がる白い鉢巻の帯が地面に着きそうなものから額を一回りしただけのものまで長短様々な鉢巻の帯を着け、銅鑼や鐘を鳴らした葬送の集団による行列を見たことがある。その帯の長さが葬られる人物との近しさを示しているとことだった。また、お墓の傍らで笛やラッパや太鼓が大きな音を鳴らして死者を葬っているのにも出会った。また更に、お墓の囲む人々の中に、一際大きく泣き叫ぶ女性がいて、あまりにも声が大きく大げさに泣いているので驚いたものだが、葬儀に雇われた「泣き女」だとのことであった。 萍郷市の通告を見る限り、中国の伝統的社会慣習は生き続けていっているようだが、IT革命の進む現在の中国ではどのようになって行っているのであろうか。

葬喪だけでなく、会員諸氏で冠婚葬祭に参加されたり、見聞されたりした方からの情報が寄せられることを願っている。

(20190701)


1986年(三十数年前)頃の中国西安

その3     大学内の掲示物

加藤正宏

大学内の通路には様々な掲示物が張り出され、黒板には色チョークで連絡や通達などの掲示がなされている。

黒板に書かれたり描かれたりしている色チョークの掲示の端麗さに立ち止まらせられたことも多い。日本人で、中国の大学に勤められた方なら、きっとそんな思いをしたことがおありになると思う。

この時から四半世紀を経た2011年に勤めた江西省の萍郷高等専科学校でも黒板の掲示には魅了されたものである。

IT関連が進んでいる中国にあって、これらの掲示がどのようになっているのか、現在、中国の大学でご活躍されている諸先生方からのご報告を聞かせていただきたいものと思っている。

ITの普及した現在とは異なり、様々な内容が、通告や通知や布告の名で、そこで伝えられていた。学生にとって、両側から見えるガラスに挟まれた掲示板の各種の新聞も情報源の一つになっていて、手に食器をもち食事をしながら、学生たちが入れ代わり立ち代わり両側から新聞を読んでいる姿を見かける。掲示板や黒板には、証明書偽造したことによる

学位申請資格の取り消し、学内での賭博問題の処理、窃盗による退学処分の決定、殴り合い事件の処理、教師に関した訃告、告別式の通告など、大学労働組合(校工会)の夏季休暇中の活動表、試行条例の内容、政府のスローガンなども、書かれている。それぞれの件の当事者は、学生であれ、教授あれ、所属学部や名前が明確に書かれ、人権など微塵も意識しない掲示になっていた。不正や規律違反をしたものは名前が書かれて当然だという感覚であった。一つ、二つ、例を紹介しておこう。学位申請資格の取り消しの例である。

通告 八三級航空宇宙航製造工程専業碩士研究生潘湧、在申請学位答弁的過程中、通過複印偽造了学位課程更改単和証明、弄虚作仮、情節厳重、但此事被発現后、経教育、該生尚能認識錯誤、経主管校長批准、決定給予潘湧同学記過処分併取消学位申請資格。

特此通告

西北工業大学

1986、6、2

対于白明等十一名学生参加賭博問題処理決定 この掲示には、以下の内容が書かれていた。

賭博に参加した11名全員の学生の氏名と所属班、賭博日時や回数、賭博に使用された部屋が明記され、麻雀賭博で賭けの対象は煙草、食券、金銭で、その額は数十元に及んでいたことなどが記載された後に、11名ぞれぞれの処分がこれまでのその学生の問題行動の有無や、賭博における役割などから判断され、警告に始まり、留年から退学までの処分が宣告され、これらが数枚の掲示で示されていた。その内容は実に具体的である。

当時は情報伝達の手段は学内の道路脇の掲示板や黒板でしかなかったように思う。私が延安参観学習旅行に参加するきっかけになったのも、校工会(教職員労働組合)の夏季休暇中の活動表であった。私の場合は学生からの情報と、外事処からの情報があり、道路脇の掲示板だけではないのだが、学生たちにとっては大事な情報源のようであった。

ある朝、大学賓館前にて、学生金さん(週1時間の「日本概況」で講義しているクラスの四年生)に出会う。腕に黒の腕章。家族に不幸があったのかと尋ねると、この大学で唯一の朝鮮族の大学の先生が亡くなったのだという。胸(肺)を患い、1年間この大学の病院に入院していたという。

52歳で、物理力学専攻とのこと。城外で遺体を火葬して骨にするという。大型バス一台に朝鮮族の人たちが満席になって出かけて行った。 これなども、教師に関した訃告、告別式の通告などの大学内街路の掲示によって、知ったようだった。

もう一つ、社会主義的な要素が少し感じられた掲示を紹介しておこう。

緊急通知総務処

今年我省商洛、渭南、安康、漢中四地区因令夏高温久旱不雨、受災面積達48%到61%造成人民群衆衣食很大困難、為此政府召開緊急会議、号召全市人民積極行動起来、募捐衣物(糧食由市政府統一解決)根拠張家村街道弁事処地時間安排第一批救災物資将於本月十八日運往実区、並対所属各企、事業単位、提示了募捐要求、因此希望全校師生員工積極行動起来、安排専人組織募捐、棉衣単衣新旧皆可、教職工以系、処為単位、学生以班為単位、務必於九月十七日上午以前、送総務行政科修配組(五舎対面)進行収交登記、以便打梱包装、統一上交。特此通知..

学生工作部

一九八六年九月十三日

(* 令夏=夏 安排=手配する 単位=所属部門、職場 上交=政府機関に納める)

異常気象による災害地区への義援の呼びかけである。学生や教師などの話では、このような呼びかけは、文字面では参加不参加は強制でなく任意な呼びかけだが、実際は不参加が許されないという。立場や職歴に応じて応分の義援が求められる。社会主義の観点から行われていた被災者へのそれぞれの同情によるものが、いつの間にか形骸化し、ノルマ化しているというのだ。

学費が必要になっている現今の学生においては、どのようになっているか分からないが、政府が一声上げれば、全ての企業や官庁は、現在でも、ある一定の比率で義援するのが一般的で、企業経営者になった元学生も企業規模に応じた義援を常にしているとのことである。その元学生の企業経営者は東日本大震災にあたって、当時、中国江西省の萍郷に赴任していた為、私ではなく、私の家族の安否を尋ねるメールを寄こしてくれただけでなく、3万元、日本に義援したという。勿論、中国政府を通じての義援に参加したのだ。

この「日本語クラブ」のメンバー各員は、大学内でいろんな掲示を見てこられたことと思う。習近平によって、中国での官僚たちの腐敗を摘発する運動が展開され始めた時、大学の掲示黒板や掲示板に色鮮やかな掲示が多数なされていることを、メールで、当時瀋陽薬科大学に勤められていた山形達也先生から頂いたことがある。まさに「打老虎、拍蒼蠅(虎も蠅もたたく)」のキャンペーンが始まった時の事である。

是非、各大学で目にされたいろんな掲示をご紹介いただきたい。これらを知ることによって、中国の大学像のイメージが、それぞれにおいて更に厚みを増したものになるものと思われるので・・・・・。(完)

(20190610)

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1986年(三十数年前)頃の中国西安

その2    陝西省中級人民法院布告

加藤正宏

身体の前後に、犯罪名、姓名、性別、年齢、民族名、居住地、職業を書き込んだ看板をぶら下げ、トラックの荷台に立たされた犯罪人たちを乗せたトラックが、城内のメイン道路をゆっくりゆっくり走行していくのを、一度だけだが見かけた。見せしめもいいところである。  聞くところによると、このように城内を引き回しした後、郊外の畑で処刑するそうである。畑に穴を掘り、三人がかりで処刑するという。処刑される者のそれぞれの左右の肩を二人が押さえ、至近距離から撃つ瞬間に離れるという。その話がほんとであれば、ドラマの江戸時代を連想してしまう。

大学講師の学生の話では、魯迅の『薬』には、その処刑された者の流した血を饅頭に着けて食べる姿が描かれているという。子供の肺病をなおすため、処刑人から饅頭を買い取る場面を「その男が片方の手のひらをひらいて、彼の前につきだした。片方の手は鮮紅色の饅頭をつまんでいる。その紅いものはなおぽとぽとと滴っていた。」と高橋和巳は魯迅の『薬』で訳している。

魯迅が小説に描いた、迷信に満ち満ちていた古い中国からの覚醒を願った時代とは、異なり血の饅頭などは1980年代後半ではありえない話ではあるが、公開処刑はされていたようだ。

街中の壁に、陝西省中級人民法院布告が張り出されていて、人々が見入っているのに何度も出くわした。下記に一例を掲げておく。

陝西省中級人民法院

布告

(86)院刑執字 第21号

故意殺人犯 薛安民、男、二十六歳、漢族、陝西省藍田人、住藍田県厚鎮辺庄村。捕前系農民。罪犯薛安民、乱搞両性関係。其未婚妻賀淑性勸其改正。薛犯競産生殺人悪念。一九八六年二月十八日、薛犯将賀淑性騙到藍田県城関、次日晨、又将賀騙到該県北関外一機井傍、乗賀不備。猛捏賀的頸部、将賀推入十八米深機井、逃離現場。賀落井呼喊、経他人発現撈救医治脱険。 

* 機井=動力付きポンプ井戸

強姦犯 賀西江、男、二十一歳、漢族、陝西省藍田人、住藍関鎮北街。一九八三年曽因流氓罪被判刑一年。捕前待業。罪犯賀西江与賀衛鋒(已判刑)于一九八五年十二月二十六日晩八時許、在藍田県天主堂、対両名女青年進行調戯、侮辱、併将其中一名女青年劫持到賀衛鋒住処。当夜、二犯以暴力手段将該女青年、多次輪姦直至天明、臨走時賀西江犯威該女青年晩上再到電影門前等他、否則、対該女青年“要放血”。

* 調戯=からかう 劫持=誘拐する 天明=夜明け 放血=痛めつける

強姦犯 劉平世、男、二十九歳、漢族、陝西省藍田人、住藍田県孟村郷華村。捕前系農民。罪犯劉平世、一九八六年三月十二晩、賭博后回家、携帯尖刀一把、干次日凌晨三時、翻墻進入、一女青年住室、対該女青年肆意猥褻侮辱持刀威脇、連続強姦両次、還持刀威脇不準告発。 * 威脇=脅迫する

上列三名罪犯罪行、事実清楚、証言確鑿。査罪犯薛安民、賀西江、劉平世、分別犯有故意殺人、強姦罪行、犯罪情節特別厳重、対社会危害極大、均応予厳懲。本院依照≪中華人民共和国刑法≫有関条款規定、分別判処薛安民、賀西江、劉平世死刑;剥奪政治権利終身。各犯提出上訴。経陝西省高級人民法院終審裁定。駁回上訴、維持原判、併依法核準死刑。

遵照陝西省高級人民法院下達的執行死刑的命令、本院于一九八六年六月二十一日、将罪犯薛安民、賀西江、劉平世、験明正身、押赴刑場、執行槍决。* 槍决=銃殺処刑にする

此布

院長 史剣青

一九八六年六月二十一日

この布告は21日付け21号の布告であるが、20日付の19号では6人、20号では7人の処刑が布告されていた。20日付の布告では強盗も処刑されていた。

上記の例に挙げた布告では、殺人犯と強姦犯を死刑と判決を下し、犯罪者が控訴したが高級人民法院で上訴も却下され、中級法院の原判決が維持され、高級人民法院の死刑執行命令により銃殺処刑したというものである。

殺人を犯しても、何年か後に出獄が許される例が多い日本と比べ、どちらが良いとも私には言えないが(殺され損、生存者優遇に私は疑問をもつ)、日本では考えられない厳しさである。故意殺人犯の薛安民は女性を18米の井戸に投げ込み殺そうとした人物だが、殺人は未遂(経他人発現撈救医治脱険)に終わっている。殺人未遂であっても死刑、強姦も死刑なのである。

判決や処刑もそれぞれ短期間で実施されているのも、驚きである。犯罪を起こした年、或いは翌年に処刑されている。冤罪なども往々にして起こっているのではないかと思えてしまう。

(20190527)

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1986年(三十数年前)頃の中国西安

その1     西北工業大学

加藤正宏

人口が多い中国にあっては規律を維持するための見せしめ無くしては、その維持は困難なのであろう。布告内にも「対社会危害極大、均応予厳懲」とある。

私は数限りないこれら壁に貼られた中級法院の布告を見つけ、その都度写真を撮ってきた。常にそこには人だかりできていた。この人だかりこそが、政府の意図する見せしめによる犯罪抑止には効果をあげさせているのだろう。

中級法院の布告だけでなく、「中華人民共和国 治安管理処罰条例図解」など、絵や漫画などにより図解した啓蒙も盛んに行われていた。

奈良や京都が模範とした碁盤状の街並みは唐の都長安を真似たものだと言われる。唐代の長安城郭は現在の城郭より更に大きく、大雁塔や小雁塔なども内に含むものであった。少し小さくなった明代の地方都市城郭が現在の西安の城郭である。西北工業大学も現在の西安城郭の外に在るが、長安の城郭内に在る。

長安の城郭内には南北に11本、東西に14本の大きな街路が交差し、これらに区画された坊ができていた。坊自体が高さ約3メートルの壁で囲まれ、坊にはそれぞれ門があり、日没時には太鼓の合図で城郭の門が閉じられると同時に、各坊の正門も裏門も閉じられ、坊はそれぞれが一つの空間をなしていたという。

1986年、大学に招聘され、日本に留学を希望する大学の先生方に日本語を教えていた西安の西北工業大学の敷地は、上記の坊のごとくに私には思えた。夜には、西北工業大学も正門も裏門も閉じられ、隔絶された一つの空間ができた。この空間に迷い込み、この大学敷地内をさ迷い歩き、一晩過ごした日本語しか話せない日本人の旅行者もいた。

敷地は一つの町と言ってよく、学生寮や全職員の住宅が立ち並ぶ居住区には、子弟の通う学校から、病院、銀行、郵便局、各種商店、食堂、それに外国人講師や大学を訪れる外国人客のための賓館までそろっていた。私はこの賓館の一部屋を貸与され、2年間ここで過ごした。時には街中のホテルが満杯で、この大学賓館に外国人ツアーを泊めることもあった。NHKの『黄河』取材班がしばらく滞在したのもその一つであった。その時には、私も親交を深めさせてもらい、その後もお付き合いが続いている方も居る。

もちろん、教学区には、多くの講義棟、実験棟、大講堂、図書館、大食堂、庭園やグランド、更にはプールなどもあった。

大学正門の黒板には大学の紹介が書かれていた。それによると、1985年1月に国務院が批准した15の重点大学の一つであり、最も古い学部は1935年に創設された飛機工程、発動機工程であるそうだ。学校の現有学生数は7000余人、その内の1000余人が大学院生だとのことである。正副教授は500余人、講師640人で、62教研室、10研究室、4研究所、15学部の規模の大学である。 

私の学生であった副教授の話では、この大学は教育部管轄の大学ではなく、航天航空部の管轄で、西安では交通大学に次ぐ二番目に大きい大学だそうだ。部は日本の省にあたる。

このような状況下で、当時の学生は専ら勉学に励むことが求められていて、夜間の教室にも夜遅くまで自習する学生たちの姿が見られたし、朝早く校内の庭を行きつ戻りつしながら、大きな声で教科書を読む学生の姿があちらこちらで見かけられた。これらの光景は今でも私の脳裏に焼き付いている。

このような状況下で、当時の学生は専ら勉学に励むことが求められていて、夜間の教室にも夜遅くまで自習する学生たちの姿が見られたし、朝早く校内の庭を行きつ戻りつしながら、大きな声で教科書を読む学生の姿があちらこちらで見かけられた。これらの光景は今でも私の脳裏に焼き付いている。

学生は高考(全国統一大学入試)に合格し、はじめて大学生に成る。1986年当時はこのようにして大学生に成れるのは、中国で同じ時期に生まれた人たちの数パーセントでしかない人たちで、超エリートであった。日本の感覚とは真逆で、幼稚園、小学校、中等学校(中学、高校)では学費が必要だったが、例えば幼稚園で年間30元前後の費用が必要であった。だが、大学生は学費は全く必要なく、むしろ助学金や奨学金が与えられ、ひたすら勉学に励むことができるようになっていた。助学金とは家庭の経済状況によって貧困順に与えられるもの、奨学金は成績に準じて支給されるもので、一般には4、5段階に分けて支給されていた。西北工業大学では8段階に助学金が細分化され、月額22元から3元までの額を支給していた。親が50元以上の収入がある者には支給されていない。この他に、年に一回だけだが、三好学生(道徳、成績、体育面の三面で最も優れた学生)をクラスで選び、賞金を与えている。西北工業大学では、その額は80元であった。新任の大学教師の給与が100元前後の時期である。

大学生がこのように好待遇であったのは、国家が中国に必要な人材を、しっかり養成して、国家発展の為に必要な部署に提供することにあったからであろう。その為に、「分配」という、卒業にあたっては、国家の指名する地区の、国家の指名する企業に就職しなければならなかった。職業や企業の選択の自由はなかったが、しかし、現在のような就職にあぶれることもなかった。

http://blog.livedoor.jp/mmkatofu75/archives/9365712.html

http://blog.livedoor.jp/mmkatofu75/archives/9365702.html

http://blog.livedoor.jp/mmkatofu75/archives/9365698.html#more

これら開いた写真の上でクリックすると、写真が左上に移動します。更にその画像をクリックすると大きな文字になります。最後の「続きを見る」もクリックしてください。

 

西安時期を伝える新聞記事 兵庫通信「欲しかった礼状一本」

https://sites.google.com/site/masakato75/documents/d11

 (20190501)








中国入試風景 神戸新聞1988年2月5日~2月27日

*参照

中国の大学入試(高考)山川出版

https://sites.google.com/site/masakato75/documents/d10

 

アルバイトなどできる状況でもなく、大学生の家庭教師なども居なかった。21世紀初めに勤めた吉林大学や瀋陽薬科大学では家庭教師をする者もいて、この間の中国社会の変化は大きい。その根本には急激に学生数の増加が図られ、学費の無料制度がなくなっていったことにあるのであろうと思う