第15号

2003年11月06日発行

第15号編集後記

◎ <希望者のなかった編集係>

第1回教師会の例会時、係り分担を自己申告方式で決めたとき、なんと編集委員の希望者はひとりもいませんでした!そのうち中道秀毅が立候補しましたが、彼がパソコン音痴であることを熟知している私は内心困った!と思いました。そうしたらホームページ担当を希望なさった山形達也先生が奥様に、「何でも助けてあげるからやったら」とささやかれて、山形貞子先生が立候補。でも後に続く人がいません。やむなく力不足を承知で末端に私も名前を連ねたというわけで、今年度の編集係り誕生となりました。その後多田先生を無理やり編集係りに引っ張り、何とか陣容も整いました。

★ 私自身はこのような文集作りは大好きで、楽しい仕事と思います。実は日本での現職時代ずっとやってきたことでした。担任クラスの解散時には毎年クラスの思い出の文集を作ってきたからです。でもこれは一人一人の筆跡そのままの全くの手作り文集でした。中国に来てからも青島では学生と一緒に卒業文集を作りましたが、ワープロ使用です。パソコンでの編集は未経験ですから自信がありません。

<北は師範大学から南は薬科大学まで、瀋陽を南北に縦断するのもまた楽し>

★ というわけで、今年度は、薬科大学の山形研究室にて、実務者としての山形達也先生の腕とご夫妻の見事な連係プレーのもと、通巻15号は完成したのでありました。

☆ 今回は、今年年度会員の素顔の紹介と、私たちの拠り所となっている資料室について、先人の苦労を偲び今後のより良い発展の方向を共に考えていきましょうという企画です。 次号の特集は、日本に留学中、または留学経験のある人たちから原稿を寄せていただき、「留学」について考える予定です。皆様のご協力をお願いします。

(中道 恵津)


◎ 「瀋陽という地名と歴史について一筆。昔は「奉天」と聞き、驚き。なぜって小学時代は「修身」で、日露戦争と奉天大会戦と東郷、乃木さんが子どもたちの夢を湧かせてくれました。その雪深き荒野のイメージの地が、今の大都会瀋陽。そこで中国の若者たちに日本語を教えるということを、つらつら考えています。

★ 今回編集子は薬科大学山形研究室で編集会議をする。編集には、添削、文の構成、割り付けなどの技が欠かせない。本来ホームページ担当の山形達也先生は、傍らでコンピューターを駆使し、たちまち本号の組み立ての大半を助けてくださった。深く感謝です。

★ 続号には、会員諸氏の教育実践論や悩みなど、自由率直な意見で紙面を作りたく思います。

(中道 秀毅)


◎ 今回の資料室の作られた頃の資料を読んで、先人が大変な苦労をしつつ意気軒昂たる希望をもって始められたことを知り、こういう歴史の上に立って私たちに何ができるか考えさせられました。皆様はどう感じられましたか。

★ 今回は中道先生ご夫妻が遠いところを2度も瀋陽薬科大学までいらして下さいました。いろいろな意見交換をして日本語クラブを作り上げていく中で、親しい友人が増えていくのは嬉しいことです。なかなか大変な仕事ですが、皆で協力してなんとか1号ができました。

☆ これから日本語クラブをどういうものにしていくか、すてきなアイデイア聞かせてください。

(山形 貞子)


◎ 6月末に、その時は1ヶ月の予定で瀋陽薬科大学に来たとき、離任寸前の坂本豊先生に誘われて日本人教師の会の2002年度最終定例会議に出席しました。私たちは日本語教師ではありませんけれど、今期の講義は日本語ですることになっていました。ですから会員として半分くらいは資格があるのではないかと出席したたわけですが、実は半分腰が引けていました。

★ ところが9月に開かれた2003年度最初の会議に出席して、「会員は必ずどれかの役をやること」という内規に驚きました。これでは、会員になるかならないか二つに一つの選択しかないわけです。このような集まりには、自分が作ってきた会も含めて、今まで出合ったことはありませんでした。しかし、半端な人を出さないために、このような要求を突きつける会の態度が気に入りました。

★ それで私はHP係を志願しました。日本語クラブが載せる記事を中心にすれば私の腰が引けていても会には十分貢献できるという読みです。ところが、貞子が志望したクリスマス係は「それなりの方でないと…」とやんわり断られて、やむなく日本語クラブの編集係を志願したのは誤算でした。というのは、彼女はPCが得意でないために雑誌を編集するとなると私の手伝いが必要だからです。

★ 編集会議と作業のために、中道先生ご夫妻は瀋陽の北から南まで片道2時間近く掛けて2回も薬科大学にいらしゃって下さいました。編集のお手伝いをしながら石井先生から戴いた文献を読むうちに、日本語資料室の歩みとおぼつかない存在が分かってきて、日本人教師の会が大変身近なものとなりました。会の存続のために何か役立つことをしなくてはと思った私は、もう半端な存在ではなくなったと思います。どうかよろしく。

(山形 達也)


残念ながら15号の内容は救えませんでした