開元ビルから集智ビルへ

教師会の日記から抜粋しています

 

2006年11月23日 (木)  三ヶ月振り回されて

開元ビルにオ?ナ?の好意で入れていただいていた日本語資料室の移転が必要になったときに、開元ビルのオ?ナ?の口利きで、和平区政府が自分のところの孵化器ビルに入って良いですと言ってくれたのはこの8月だった。


 それから何度私たちは交渉に出掛け、朗報を待ち望んだことだろう。相手は和平区政府なので私たちに出来ることは何もなく、実際上は伊藤忠瀋陽支店長の高木さん(及び馮さん)と、在瀋陽日本国総領事館の森領事、川端領事が全ての交渉をやってくださっていた。


 総領事からは相手の局長宛に公文書も一度送られた(10月9日)。それでも局長は教師の会を受け入れることに首を縦に振らない。日本国阿部総領事からは瀋陽市副市長宛に「日本人教師の会はこれこれこのように御地の日本語教育のために力を尽くしている教師の親睦団体で、決して怪しいものではないことを日本政府が保証するから、和平区政府の孵化器ビルに彼らの資料室を置かせてやって欲しい」と言う公文書も送られた(11月9日)。

 

副市長はそれに和平区の局長に「よしなに計らえ」と添え書きを付けて送っている。このような状況を受けて私たちは11月16日に日本総領事館川端領事、高木さん、馮さん、日本総領事館通訳翁さん同道の元にふ化器ビルを訪ねたが、面談の約束があったにもかかわらず局長は不在だった。代わりの部長が私たちに応対して、「契約をしても良いが、契約書には、『3ヶ月以内に日本人教師の会は登録申請をする』と言う条項を入れる」と述べた。

 

日本人教師の会を何処に登録申請して、許可を貰うのか、と言うのが焦点になるが、誰も、つまり日本側も、さらには驚いたことにはそれを主張する中国側も何処に申請して何処で許可が貰えるのか、大体そんなことが可能なのかを知らないのだ。瀋陽日本人会だってその意味では「非合法団体」になるわけだ。

 

このときはそれが焦点で、しかも局長不在であり物別れだったが次の月曜日の11月20日は先方から会談を求めてきた。その時の状況はすでに20日の日記に書いているが、中国企業を保証人にしようというものだった。それでその提案を受けてその時は、めでたしめでたしで終わった。しかし実際に契約書を交わすために高木さんと馮さんが契約書の検討に入って先方と連絡を取ると、先方の躊躇がますます顕著になり、引き受けると言った中国側の総経理も弱腰になってきて、結局、ここで無理して教師の会を引き受けて貰っても、本質は日本語資料室を受け入れたくない気持が見え見えである以上、絶えず不安を抱えることになるから、断念するしかない、と言う結論が出された。

 

和平区が引き受け、直ぐにでも移って良いと言うことだったから、私たちは9月17日には荷造りをし、移転を待っていたのだった。つまりその日以来資料室は閉鎖されているのである。実際にビルの改装開始で開元ビルを最終的にでる日限は10月末日だった。

 

「瀋陽日本人教師の会は非合法団体」だから局長は自分の責任でビルに入れることを認めることが出来ないのだろう。東北三省は日本語教育に力を入れ、日本企業の進出を待ち望み、大歓迎しているにもかかわらず、日本語教育に自分の時間と身を捧げている日本語教師の集まりに、このような冷たい仕打ちしかできないのだ。

 

間に入って先頭に立って交渉をしてくださった高木さん(そして馮さん)、森領事・川添領事には、私たちはただただ感謝の言葉しかない。本当にありがとうございました。当事者でありながら私たちは当事者能力に欠けていて何も出来ずに全部頼り切りだった。

 

結果が、うまく行かず実に残念でしたし、又この先も行き先探しにお世話になりますが、どうかこの先もよろしくお願いいたします。再度、ありがとうございました。

 

 

2006年11月29日 (水)  日本語資料室の新たな移転先

日本語資料室の移転問題で、当てにしていた和平区孵化器ビルの態度が頑なで私たちを受け入れるとは思えない状況になった。私たちは他を探さなくてはならない。和平区孵化器ビルの話を持って来てくださった伊藤忠高木さんが、又他のところを探す努力をしてくださるだろうけれど、今まで教師の会は何の能力もなく、全て高木さんと領事館のかたがたに交渉をお願いするしかなかった。

 

私たちにも出来ることは何だろう。私たちで日本語資料室の移転先を見付けられるだろうか。このような状況で思い出すのは、開元ビルのオーナーの好意的な提案があったときに、別のビルのオーナーからも貸して良いという話があったことである。

 

3月末の日本人会総会で日本語資料室の移転先がないと教師会が訴えたときに、朝日新聞が「草の根交流ピンチ 日本語資料室の行き先がない」と言う記事を載せてくれた。これに対して中央大学の李廷江先生が、自分は日本人に世話になっている、自分の友人にビルのオーナーがいるからそこに話をして無料で部屋を使って貰おうと申し出て下さった。

 

4月3日に私たちがその集智ビルのオーナーに会ったところ、自分の友人の李廷江先生が日本人の窮地を見かねて無料で部屋を貸してあげて欲しいと言っている、友人の言うことだから私も無料であなた方に部屋を貸す、どの部屋でも良いが、部屋の管理をしている別の会社へ管理費・光熱費は払って欲しい。この管理費が1年約2千元と言うことだった。

 

このあと伊藤忠の高木さんの友人である開元ビルのオーナーから部屋を無料で使って良いという申し出を頂き、管理費・照明費も不要で自分の電話代だけで良いという寛大な条件だったので私たちは開元ビルを選び、そして集智ビルのオーナーには事情を話して丁重にお断りをしたのだった。

 

あれから半年経っている。再度集智ビルのオーナーに部屋を頼めるだろうか。駄目かも知れないが、私たちは部屋探しが出来るところを他に知らないのだ。先ずここから始めよう、と言うことで、鳴海さんが集智ビルのオーナーに連絡したところ、「いいよ、何平方米の部屋が要るの、見に来ませんか。」と言う返事が直ぐにあった。11月24日金曜日のことである。

 

状況を高木さんにも領事館にも報告して、27日月曜日午後4時集智ビルに私たちは出掛けた。森領事、伊藤忠からは馮さん、教師会の南本、峰村、鳴海、そして私である。オーナーは不在だったが係の人が直ぐに次々と部屋を見せてくれた。140平方米は立派で広すぎる、86や110平方米では狭いね。120平方米のところが場所もいいし、これにしよう、などと仲間内で相談して、オーナーの部屋に行ってオーナー代理と話をした。

 

部屋は前に言ったように部屋代は無料で貸そう。しかし管理費は1平方米あたり毎月3元必要で、電気代も別途払う必要があることが分かった。120平方米だと毎年4320元だ。とんでもない。一番小さい部屋が86平方米なのでこれでも毎年3096元だ。たまたま教師の会は今までの蓄積で現在は3千元を持っているが、私たちにその先毎年3千元を払う財源がない。しかし、資料室の閉鎖が3ヶ月も続いているのだから、もう選択の余地はない。

 

毎年3千元の財源は別途考えることにして、先方が良ければここを貸していただくようにお願いしよう、と私たちは即座に決めてオーナーの李暁東さんに電話をした。この電話は伊藤忠の馮さんにお願いした。馮さんは阪大工学部卒で日本語堪能な好青年である。馮さんは出張の予定があったのに、高木さんの配慮で参加して貰えたのだった。

 

オーナーは良かろう、私たちの教師の会の存在を公安と安全局が別に問題にしないなら、契約しよう、契約書については今までのひな形をこちら(教師の会)が送ってくれれば、それを検討しよう、と言ってくれた。公安と安全局には領事館に出張っていただいて別途お願いすることになっている。

 

以上のことが馮さんから高木さんに報告されて、高木さんが早速契約書のひな形を作成して下さった。高木さんがこの契約書のひな形を集智ビルのオーナーの李暁東さんに送ったところ、11月29日にはこれでいいから何時でも契約しようという返事が来た。

 

あとは両者の時間の都合をすりあわせて一緒に出会って契約書を交わすだけである。

 

教師の会の日記から抜粋

契約は2006年12月4日

移転は2006年12月9日