Fujiwara

藤原 英弥先生の消息

2004年9月3日の便り:

アクセスできて感激です。懐かしい教師会、資料室。

中国医科大学渡辺京子先生の前任者の藤原英弥です。現在盛岡在住です。

教師会紹介の写真昔の自分が(手前赤シャツ)、旧会員のページには私の惜別のメッセージが・・・・・・・感激しました。

レストランのおばさんたちも元気でしょうか、ライスカレーがおいしかった。資料室の私が寄贈したエアコンは役に立っていますか。

石井先生は長いですね、資料室のある限りは・・・・・?ご苦労様です。

添付の写真は去る7月3日に、中国医科大学日本語教研室主任の王禾教授が訪日したのでその歓迎会を東京でやりましたときのも<のです。旧会員の吉野牧男さん・吉崎由理子さん・私・渡辺先生と留学等で在日の医科大の日本語教師だった人たちが集まりました。詳しくは渡辺先生に聞いてください。

教師会のHPを楽しみにしています。素晴らしいHPです。

前のHPは旧会員で工業大学にいた森岡敏明さんが制作していました。彼は現在金沢?在住。アドレスは<minmings@hotmail.com>だったんだが変わったかな。

皆さんによろしく。謝謝、再見!

森岡先生は、いま北京です。HP係

 

惜別の辞:

中国は私の生まれ故郷です。現在の遼寧省本渓市橋頭で生まれた。五歳のとき河北省張家口市へ、敗戦後引き揚げた。それで、定年後は中国で仕事をしたいと思っていた。

高校の教師を定年で退職した年(1995年)の九月に山東省泰安市(現在泰山市)の泰安中西医学院(私立)に招かれ十二月まで日本語を教えたことがある。これが中国で仕事をする最初だった。ここでは医学生に日本語を教えるのだと思っていたら、さにあらず、全く日本語だけを学ぶためにきている学生に教えることになった。

中国では学校の裁量によって事業を展開してもいいことになっている。だから、外国語コースを作ったらしい。学生は遼寧省丹東の田舎から来ていた。日本だったら外国に行くくらいの遠さである。不思議なことにこの学校には院長・副院長は夫婦で、他に若干の事務員・用務員がいるだけで専任の先生はいなかった。先生は皆、公立の泰安医学院の先生である。要するにみなアルバイトの先生なのだ。

院長さんには寝食をお世話になったが、広い中国での窮屈な生活が辛かったので、途中で帰国した。しかしここでは中国人の付き合い方をいろいろ教えてもらった。酒・タバコ・宴会など中国式交際法である。大切にしてもらって今でも感謝している。

翌年、中国での生活で中国語の必要性を痛いほど実感したので、北京に語学短期留学をした。中央戯劇学院・北京郵電学院での二ヶ月・三ヶ月の留学生生活は楽しかったし、語学の研修がその後の生活に役立っている。金のかかる留学生活を続けるかどうか迷っていたころ、遼寧省鉄嶺市にある瀋陽中華国際学校を紹介された、今度も私立の学校だが遼寧省外事弁公室からの紹介だったから、教師生活をまた続けることにした。

瀋陽市の郊外にある学校ということだったが、鉄嶺市鉄嶺県大甸子鎮堡安村という本当の農村にあった。解放軍の施設あとを学校にしたと言うことだった、秘密基地だったかもしれない。高校生を教えた、一クラス20人で教えやすかったが、止めていくものが多くなり、日本語を選択する生徒も少なくなり結局課外での授業だけとなった。

ここでの生活は、学校の外は純農村だったので、農村を肌で感じるいい機会となった。

三年契約だったが二年後に中国医科大の紹介があり、僥倖にも重点大学での職を得た。紹介・仲介の労をとっていただいた先生方には感謝しきれない。

鉄 嶺の国際学校はその後消滅しましたが、そこにおったときは、日本人に会いたくて時々瀋陽に出かけていた。そして教師会に出るようになった。日本語弁論大会の第一回から審査員などで援助してきた。

その後、石井先生の資料室ができ、活動の拠点ができて教師会も飛躍的に発展した。多くの先生方との出会いがあり瀋陽での生活に彩を添えることができた。七年間教師会にお世話になり感謝しています。ますます、安定的に発展されんことを念願しています。日中友好の使命を担って、これからもいらっしゃる先生方が充分にその使命を果たされんことを祈ります。