会員交流広場

長春の旧ロシア人街(寛城区)

加藤正宏

長春、その名から満洲国を想起する人が多いのではなかろうか。観光では偽皇宮と呼ばれている溥儀の宮殿や八大部といわれた旧省庁の建物がコースに組み込まれることが多い。長春は、満洲国がここに国都を定め、新京と呼び、新しい都市計画の下に街づくりが行われた都市である。日本の傀儡国家だったといわれる満洲国、それだけに満鉄の附属地を中心に道路、広場、公園、建物と日本人によって建てられたり、造られたりしたものが、今も多く残り、活用されている都市である。日本と関わりの大きかった都市である。

しかし、最初に鉄道を敷き、ここに駅を設け、近代的な町造りを始めたのは、日本でなくロシアであった。中国の東北を勢力圏にしようと狙っていたロシアは、日清戦争後の下関(馬関)講和条約で遼東半島が日本に割譲されようとすると、1895年に三国干渉を行ってそれを返還させ、翌年には露清密約で中国東北部に鉄道(東清鉄道本線)を敷設する権利を得ている。そして、更に98年には旅順と大連を租借する条約を清国と結び、ハルピンから長春や瀋陽を経て大連に到る鉄道の敷設権を得て、東清鉄道支線(全長1129キロ、38駅もつ支線)の建設を始めた。1901年に出来上がり、03年には全線開通している(但し、長春以南の鉄道の権利については日露戦争後に1905年のポーツマス条約で日本に譲り渡され、翌年には南満洲鉄道(満鉄)が引き継がれてしまっている。)

この支線建設と同時に長春の寛城子駅の建設も始まり、99年には駅は完成をみている。駅周辺には、附属貨物処、鉄路守備隊軍営、給水塔、鉄路職員住宅、鉄路倶楽部、郵便局、商店などが建てられ、これらの建物の多くはロシア風の煉瓦造りの建物であった。これらロシア風の建物が約4平方キロの地域にわたり、小さなロシアの町が出来上がっていた。その中心が現在の寛城区二道溝である。満鉄の建てた長春駅の西北に位置する。

前日と同様に大変寒かったが、天気もよかったので、講義を終えてから、旧ロシア附属地二道溝に再挑戦した(前日、アナウンスのないバスに乗って、降りそびれて終点まで往復)。駅前を出発した113路のバスは西広場で方向転換し、北上し、鉄道線路の下をくぐり、凱旋路を北上する。凱旋門を見かけてから降りて引き返してきても良かったのだが・・・・。前日の二の舞をして降りそびれるようなことがないように、朝鮮中学見かけて早めに降りた。降りたところは四中停留所で、更に凱旋路を北上し台北大街まで行き、ここから東に行ってみた。新しく開発された幅の大きい道路である。東の先には火力発電所(熱電一廠)が見える。道路表示の大きな看板を見ると、この先で亜泰大街と交差し、亜泰大街を南下し鉄道線路の下をくぐり線路の南に戻ると、東広場のあったところに出る。広場を更に東南に行くと光復街、その近くには偽皇宮がある。

目的の長盛街小学校の見当がつかず、リャカーを引く人に尋ねてみると、凱旋路をもっと北上しなければならないとのこと、凱旋路まで彼と話しながら戻り、教えられたとおり、凱旋路を北上する。長盛街と一匡街との間に目的であった小学校を見つける。

兵舎改造の校舎の一部

火力発電所

(熱電一廠)

中国の町には

似つかわしくない

凱旋路にある凱旋門

「還我河山」の地図

この小学校はロシアの兵舎を校舎として改造し、早い時期に造られた学校だ。最初は鉄道員のロシア人と中国人の子弟が通う学校であったが、1925年に白系ロシア人のための学校が二道溝三輔街の西側に造られてロシア人の子弟が移った後は、中国人子弟だけの学校になった。その後、東省特別区が管轄する学校となり、第十二小学校と改称されて、現在は長盛街小学校と更に名前を改めている。

今も兵舎改造の校舎が一部残っており、その北側の壁に一枚の地図が描かれている。中国の不平等条約を扱った図で、この3メートル強のほぼ正方形の図の上の方には「還我河山(河山を我に還せ)」とある。地図の左下に「東省特別区第十二小学 民国十八年製」とある。内容は、帝国主義列強と清朝が結んだ不平等条約だと中国人が考える11の条約とその割譲されて土地を明らかにしている。香港(英占)、澳門(葡占)は勿論のこと、1885年の愛琿条約や1881年の伊犂条約などでロシアが領有した北方、西北方についても描かれている。日本に関して言えば、台湾、琉球、澎湖列島の地などが描かれているだけでなく、北京のところには一九一九年五四運動と記載がある。学生を中心にして起った大きな反日運動の記載だ。「還我河山」は中国史上では誰にでも知られている有名な言葉だそうだ。北の金への抗戦を主張した南宋の武将であった岳飛の言葉である。中国人にとって、愛国情熱の溢れた言葉なのである。 これが描かれた1929年は満洲事変(九一八事変)の起きる数年前で、事変の起きたときにはこの壁の図の上に、「不承認二十一条」「不買日貨」「打倒日本帝国主義」などの標語が貼り出されたという。しかし、満洲事変(九一八事変)後、侵略してきた日本軍によって上から図は塗りつぶされた上、長い間に風雨に晒されて、図は模糊とした状態であったようだ。1985年の最初の教師節の前に修復され、更に現存のそれは、地図の左枠外に記載されている「二〇〇六年 五一国際労働節 再次修復」とあるように、数年前のメーデーに合わせて修復されたものだ。

ロシア将校の住宅・壁の煉瓦による装飾、木造の屋根の装飾に注目


グランドから見る

ロシア将校の住宅

この小学校のグランドの東北には6軒のロシア将校の住宅が原型を残して今も残っている。どっしりとした建物で、壁の煉瓦による装飾、木造の屋根の装飾などにロシア建築の風貌を見せている。今は民家として使われているようなのだが・・・。 ロシアは三国干渉の後、清との間に密約や条約を結び、更に北清事変(義和団事変)の時に中国に派遣した軍隊を北方に留まらせ、中国の北方に利権を拡大してきていた。鉄路守備隊の兵営として、長春では二道溝附近に南大営、北大営、そして将校営の三組が造られていたそうだ。

上記に紹介した長盛街小学校の校舎及び将校の住宅が将校営である。 南大営は二道溝附近の現在の凱旋路と一匡街の交差する辺りに三棟ありロシア風の煉瓦造りの建物で、長さは第一棟が90メートル、第二棟は80メートル、第三棟は50メートルで、幅は15メートル前後であった。全て取壊され、高層のビルが建てられて、機車廠職工宿舎になっている。

その地の呼び名に「三大棟」を残しているだけだという。 北大営は二道溝三輔街の北側に二棟あった。長さは第一棟が60メートル、第二棟は40メートルで、幅は15メートル前後であった。これも早い時期に取壊され、この兵営地に建てられたのが長新小学校だそうだが、現在はこの小学校も既にない。

寛城子駅を中心に出来上がったロシア人の小さな町も、町を代表する駅も給水塔も既に無くなってしまっている。建築面積300平方メートル強であった駅もプラットホームの一部を残しているだけ、給水塔も高さ1.5メートルの基壇を残しているだけだそうだ。それも、長春機車廠の敷地内にあり、誰でも入って見に行けるところではない。このようなことを考えると、盛街小学校の校舎及び将校の住宅が並ぶ将校営がロシアの附属地であった雰囲気を伝えてくれる代表的な場所と言えそうだ。

寛城子駅の痕跡を求めて

それでも、寛城子駅のかすかな匂いを痕跡を求めて、凱旋路の西側の路地に入り込んで、レールが残されている部分の写真を何枚か撮ってきた。1935年に満州国政府に売却されるまでロシアの管轄下にあったレールではなかろうかと考えて・・・・。 以上、2008年の長春便り第一弾である。2000年から02年の時ほど長期ではないが、07年12月末から08年2月末まで長春で日本語を教えて過ごした。寒い時期ではあったが、あちらこちらと見て歩いたので逐次御報告しようと思う。トップに戻る


東北育才外国語学校職員旅行

2005年7月24日(日)、25日(月)

前田 節子

7月22日に高1,2年は夏休みに入った。高3年は一週間余りの休みの後8月1日から最後の補習が19日まで続く。この休みの間、一泊二日の職員旅行があった。目的地は世界遺産に指定されている五女山山城などである。高句麗が初めて都を開いた所で40年間はここで政権が続いた。遼寧省の東の端、吉林省に近いところに位置している。インターネトで調べると高句麗研究家のページがあり五女山の山容の写真があった。ピークのある山ではなく、山上は平坦で勾配の急な台形の形をしている。岩山であり、敵から守るのに適した地形といえるのだろう。

24日(日)

朝5時30分、既に40名余りを乗せた大型バスが外国語学校校門に着いた。ここから乗り込むのは5,6名。ここから一路目的地に向う。2時間足らずで本渓に着く。高速道路はここまでで、あとは普通の道路だが思ったより道路が整備されている。車窓からはトウモロコシ畑、水田、その他野菜畑が続いているのが見える。その向こうには木々豊かな山並みが続いている。車内はお子さんも多くにぎやかである。3時間くらい走ったところでトイレのため小休止、といってもトイレがある訳ではない。三々五々畑の緑の蔭で用を足す。前の方から山羊?の群れが向って来ている。あわてて写真を撮った。道路端でかごに盛って香瓜を売っている。降りて買いたいが、我慢する。

10時20分、目的地のホテルに到着。三ツ星で部屋もとてもきれい。部屋から五女山が見える。形に特徴があるのですぐわかった。昼食までの1時間余り部屋でゆっくり過ごす。

昼食後バスで五女山に向う。途中で専用の小型バスに乗り換え、登山口まで運んでくれた。

直登コース、迂 コースがあるがいずれも階段が頂上まで続いている。直登コースは階段が急で汗だくだ。夏草の生茂るなかに建物の礎石、木々のあいだに石を積み上げて造った門などが残っているのみ。みやげ物の店が何軒かある。歩く途中、大きな木に赤い布を何本も巻いて結んでいるのを何本も見かけた。近寄ってみると願い事を書いている。日本でのおみくじに似ている。日本では小枝に巻くが、ここでは幹に巻いている。山上にいくつか見晴らしのよいところがある。山すそには遼寧省最大という桓龍湖が広がっているのが見える。ダム湖のようである。日本で見る景色と似ている。

下山後バスで桓龍湖の船乗り場まで移動、20分ほどで万樂島に到着。島の周りに周遊路が巡っている。仏教色が濃く、岩にはたくさんの巨大な仏像を配置している。彩色されてにぎやか、ちょっとグロテスク。2時間近くも歩き巨大な観音像を最後に、船で戻った。ホテルに戻ったときは足は棒、6時を過ぎており、お腹もすいて早速食事。

25日(月)

9時出発までに時間があるので朝食後、ホテルの前の公園に行って見た。ブランコ、シーソーはもとより20種類くらいの遊び器具、健康器具が設置している。私は金棒に歩行具を取り付けてあるもので足幅を広げる訓練をしてみた。夢中になって続けていると汗だくになり、出発前にシャワーをもう一度。

バスで東北最大という鍾乳洞、望天洞に向った。洞内は4℃と聞き、入り口で防寒衣を借りて中に入った。どうも14℃と聞き違えたようだ。距離が長いので巡っていると汗が出てくる。“地下迷宮”といわれる洞連洞、洞套洞が続く。外が見えたときはほっとした。出口は結構高いところにある。

下山後バスでこの旅行の最後、大雅河での“漂流”出発地点に向った。ゴムボートのようなものにのって川を下っていく遊び。二人乗り、それぞれ一本ずつオールを持つ。びしょぬれになると聞き、入り口のところでカッパを買って着込み、その上から救命具をつけた。出発地点はかなり流れが急、ちょっと心配になってきた。乗り込むといきなり流された。水しぶきがどっとボート内に入って来る。オールはどう使ってよいか解からない。流れまかせ、石にぶつかると方向転換。オールでうまく進むよういろいろ試したが簡単ではない。ほかのグループもボートを扱いあぐねている。ボートどうしでぶつかったり。ボートどうし、オールで水の掛けあいが始まったりである。苦闘40分位でようやく終点にたどり着いた。ズボンはびしょぬれ、靴の中も水浸し。

河の傍のレストランで昼食。ようやく一息ついた。

15時半、帰路についた。19時40分無事、外国語学校帰着。とても充実した旅行に参加させて頂き感謝でいっぱいである。

2005.7.28

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鳴海佳恵マダムの「あなた知ってる?」

2:チベット旅行記        

2005年05月20日


チベットへ行ったことのある人に感想を聞くと、十中八九苦労話を始める。

「ホテルで酸素吸ってた記憶しかない・・・」「トイレ行ってる間にバスが出発して焦ったよ~」「ゲロ袋は必携ですね」「一週間?ははは、頭いたーいって言ってる間に終わるわね。」などなど。言ってる本人は楽しそうだが、聞いてるほうはびびる。(一人だけ高山病の苦痛を真っ向から否定した旅行会社社員いわく、「大丈夫だ。ちょっと息苦しい程度だ。走らなきゃいいんだ。薬もものすごく効く。問題ない。」「行ったことあるんですか?」「いや。ない。」・・・説得力皆無。)一緒にチベット入りする6人の中で言いたくないが最長老、体力ゼロ、根性マイナスの私はチベットに行くにあたり、万全の準備をした。バファリン一箱、ビタミン顆粒一箱、ビニール袋100枚、サバイバル用毛布、大量のチョコレート、6人が5日間苦しみぬいても余裕だ・・・巨大なリュックとソフトバックを見て会心の笑みを浮かべたのが朝4時。集合は朝6時。友人の電話で目覚め、一人タクシーで空港に向かったのは言うまでもない・・・。

成都に入り、一泊して翌朝3時半(!)にホテルを出て、6時の飛行機でラサへ。飛行機でも飛行場から市内へのバスでもほとんどずっと寝ていたのであまり感動せず。ガイドさんは小柄な人で、バスの一番前でカラオケ用マイクを使い、すごいスピードで話していた。あまりに速く、またエコーが効きすぎて、聞き取れないのだが「私はガイドには小さすぎる!それはわかってる!!」と言っていたのだけは聞き取れた。確かに後部座席から彼女の姿は見えなかったが、ガイドを見に来たわけじゃないからいいんだよ・・・と思った。

ホテルは嫌がらせのように最上階。エレベーターはなく、4階まで「息吸って~はいて~」を合言葉に牛歩作戦中の野党のような速度で登ったが、一人が貧血でダウン。高度3700メートルの恐怖を感じたが、「大丈夫、私よく貧血になるから」の言葉を信じ、初日から市内をお散歩。紫外線からお肌を守る帽子やらアクセサリーやらを購入した。

ラサ2日目、羊八井というところを見に行った。温泉があるから、入りたい人は入ってもいいと言われたが、日本人が思い浮かべる「温泉」とは若干違った。荒野の中に発電所のような建物がどーんと建っていて、その横にコンクリート製浄水槽のようなプールがあり、湯気が立っている。へ?これ?確かに水はきれいだが、確かに水着を着てつかっている人もいるのだが、何かが足りない・・・情緒・・・というか、はるばるチベットまで来たな~感がないのである。それでもそこは観光地らしく、馬を連れたチベット族の集団が観光客に小銭をねだったり、乗馬を勧めたりしていた。6人でお弁当を食べながら、物乞いのおばちゃんに囲まれて、何となく悲しい気分だった。市内にも物乞いはいたが、物乞いじゃないチベット族も普通に暮らしていた。きっとこの物乞いのおばちゃんの村にも、普通に暮らしている人たちがいるんだけど、物乞いのほうがお金になるから来るんだろう・・・観光客が来なければ、この人たちはそこの暮らしに満足できていたのかな・・・。ラサに戻って自由行動。食事も団体からはずれて、ヤクバーガーを食べた。有名なポタラ宮は一日の入場者数を制限しているらしく、この時点でまだチケットが入手できない、ガイドは焦っていた。

ラサ3日目。朝方貧血を起こした子と寝不足の2人は大昭寺見学をパス、この日のメインイベント、ポタラ宮のために午前中英気を養った。昼ごはんから団体に合流し、ポタラ宮へ。ガイドは焦っていた。「入場券には時間制限もあるのよ。間に合わなかったら、もう二度と入れないのよっ。急いで~っ!」と言い残し一人ダッシュするガイド。のんきに写真を撮るツアー客。ポタラ宮の長い階段を息吸って~はいて~と登って行ったら、門のところでガイドが肩で息しながら「置いていったのは悪いけど、はぁはぁ、わ、わたしが、間に合わなかったら、は、入れなかったのよ。」と待っていた。ありがとうガイドさん。

その後ポタラ宮の長い回廊と無数の部屋をひとつひとつ中国語と英語で説明してくれたらしいが、私ともう一人は聞かずに先に進み、結果出口でシリトリをしながら待つ羽目になった。出てきた友人いわく「長かったよ~」出てきたガイドいわく「あんたたち、私のすんばらしい解説を聞かずにすんでラッキーね!」この日はツアーの中の外国人2人を含む8人で食事。翌日のツィガツェ、がんばって行こうね!と誓い合って別れた。

さて、そのツィガツェ、ガイドは初日から警告していた。「あのね!片道10時間かかるのよ!それも、こんな舗装道路じゃないんだから!!ほっんとに大変なのよっ。やめる人、今のうちよ。」しかし、地○の歩き方にはラサから280キロ、チベット第二の都市。片道7時間と書いてある。も~、ガイドさんってば、行きたくないからってオーバーね~っ。当日体調をくずしラサに残った2人以外、4人はそう思っていた。しかし、そう思わない人が大多数だったらしく、30人以上いたツアー客は11人に減っていた。そして彼らの判断は正しかった。

出発から6時間後、「ちーたん、大丈夫?!」の声で目が覚めた、ふと見ると、呼ばれた友人は「あのね、ちょっと息苦しくて、手がね、麻痺してるみたい・・・」その手は肉屋で売ってる鶏の手みたいに指がぴーんと突っ張ってるのである。これには焦った。「い、息してっ。ガイドさーん、すわぁんすー!」酸素、と言いたかったのだが、正確には中国語では?気=ヤンチーと言うらしい。それはともかく、事態が事態だけに、誰の目にも酸素が必要なことは明白で、客の数人が外に出て周囲の車に酸素を携帯していないか聞いて回り、何本か調達してくれた。その一本はスペイン人の手でなぜか寝起きの悪い私の鼻につっこまれたが、ともかく、チームワークの美しさが身にしみた。ここで、ん?周りの車?と気づいたあなた、するどいですね。そう、車は高度4000メートルで渋滞にまきこまれていたのである。ありえない。それまで寝ていたので気が付かなかったが、すでに2時間が経過していたそうで、客もガイドも苛立っていた。原因は山の頂を走るぎりぎり2車線道路。ヘアピンカーブで大型バスとトラックが立ち往生、どっちがバックするの、どっちが前進するのでもめ、どっちかがバックしたらなぜか後ろから来た4WDが突っ込む、どうやらその繰り返しらしく、このままここで夜になったらどうしよう・・・という絶望的状況で鶏になっちゃった友人、ああ、どうしよう?と思ってふと振り向くと、もう一人の友人も顔面蒼白、唇紫状態でぼーっと中空を見つめている。ま、まずいんじゃないの?ガイドさんが対向車線の車をとめて頼み、2人はラサに戻ることになった。これでツアーは9人に・・・。車はいっこうに前進せず、見かねたスペイン人が飛び出して交通整理を始めた。2車線なのに交通整理が必要ってどういうこと・・・?と思いつつ、渋滞をぬけてスペイン人が帰ってきたときには乗客から熱烈な拍手が起こった。

渋滞を抜けて、3時間ぐらいまではツアー一同ご機嫌だったのである。スペイン人の勇気をたたえ、帰っていった日本人の安否を気にしつつ、お菓子を食べたりなんぞしていたが、5時間を過ぎるころから黙り込み、7時間後に舗装道路に入るまで静まり返っていた。そしてラサを出てなんと14時間後にツィガツェに着いたときには、誰もがぐったり疲れていた。ガイドの脅しは嘘じゃなかったのである。これでツィガツェが大したことなかったら浮かばれない・・・ツィガツェの名所を再チェック。タシルンポ寺、ツィガツェ故城、シャル寺・・・しかし、帰りも14時間とすると、昼には出発しなくては・・・。

翌朝9時出発、ツィガツェの名所パンチェン・ラマの寺タシルンポ寺を見学。熱心な信者がろうそくに供えるバターを持って大勢詰め掛けていた。おお、いい感じ。やっぱりラサほど観光客がいないせいか、物乞いも少なく、いい雰囲気である。この調子で故城・・・と思ったら、11時にバスに乗り込み「さ、帰るわよ!」えぇっ!!14時間バスに乗って、寺見て終わりかい!スペイン人が「残った人たちは正しかったね・・・ゆっくり買物したり、おいしいもの食べたりしてるんだろうね・・・」と悲しくつぶやく。そう、明日帰るのである。帰りの便はまだ聞いていないけど、きっとまた早朝の便だな・・・買物もできなかった・・・しんみりする私。バスに乗っていても、最終日。何か有意義なことをしなくては。その時から私はヤク・ハンターと化した。通りすがりの村々で農耕作業をする赤いリボンのヤクたちをカメラに収めるのである。幸い座席は右も左も使い放題。スペイン人も前を見ながら「お、次右にヤク。」「あ、左にヤク」と協力的で、結果普通の牛を含む42頭をカメラに収めたのである。すばらしい功績に拍手。

ヤクを撮りながら、広大な土地と用水路、牛と共に畑を耕す人、固まって弁当を食べる人、バスに向かって笑顔で手を降る人、観光地では見れなかった、本当の生活を車窓から少しだけのぞかせてもらうことができた。また、トイレ休憩で降りた岩だらけの大地で、用を足す私に近づいてくる小鳥や、岩陰から覗く野鼠などもすぐ近くで見れた。はー、はるばるチベットまで来た感じ・・・。ツィガツェ、行ってよかったよ。の思いを込めて、スペイン人に「日本人の友達(ラサに残った)にツィガツェどうだった?って聞かれたら『むっちゃよかったわ~っ』って言うんやで。」と教え、ラサまでの12時間、「むっちゃよかったわ~!」「ほんま?」などなど関西弁講座をしながら楽しく過ごした。が。ラサまで2時間の時点で携帯の電波が届くようになり、蒼白で帰った友人から一報が入った。「かずちゃん、入院しちゃったんですよ。」「え~っ!なんで??」「病院によると、肺水腫らしいんですよ。で、手術しようって言われたけど、断りました。」「げ~っ!!やばいやん!」「まあ、中国の医者は切りたがりますからねぇ。」余裕の友人、焦る私、もっと焦ったのはガイドである。「か、帰ったら、すぐ病院に行くから!ああ、どうしよう!!」ラサに戻り、食事をして、ホテルに帰って3人から事情を聞き、ガイドと深夜の病院へ。嫌がらせのように最上階、「西蔵高山病心血管病研究所」と、ものものしい看板のかかった集中治療室で、友人は酸素を吸いながら眠っていた。退院手続きのために一階に下りながらガイドがつぶやく。「ラサのガイドは・・・大変なのよ。病気になる人多いしさ・・・。私もうこの仕事辞めようかなぁ・・・」なにせ深夜の暗い病院である。実感こもっている。しかし、退院手続きをして、病室に戻り、目覚めた友人が「迷惑かけて、ごめんね・・・」とつぶやいた時、ガイドは「これが私の仕事だから!気にしないで!!」と陽気に答えた。プロである。 

翌朝は早朝6時半の飛行機に乗るため、4時半出発。4時にガイドと病院まで友人を迎えに行った。酸素枕(というのがあるのである・・・枕に酸素を詰め込んで、抱きしめながら吸う。巨大な枕が15分程度でしぼむ。)を4つ用意して飛行場へ。飛行場にて未練がましく買い物。そして成都へ。チベット5日間の旅はこうして終わった。

ここまで書いて、やっぱり苦労話をしている自分に気が付く・・・寺も街も人も自然も、それなりに印象深いのよ?でもね、それを上回るインパクトでトラブルがわいてくる、それがチベット。ポタラ宮を駆け上がったガイドなみに高度になじみ、じっくりチベットを味わうには、やはり1週間では足りない。師範大学N先生、頭いたーい、では終わりませんでしたが、おっしゃる通りです。これからチベット旅行をご計画の皆さん、余裕を持ったプラン作りを!

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1:芸術写真への誘い

2004年12月06日


撮らない人は一度も撮らず、撮る人は何度も撮る「芸術写真」その楽しみをご紹介しよう


なぜ芸術写真を撮るのか、それはやはり「変身願望」を満たすためであろう。「え!誰だか分からなかった!!」と、人に言われるだけでは物足りない、「え!これが私?」と、自分で思えるような写真が撮りたい。そんな理想を抱いて、撮る人は何度も撮る。しかし現実的にはやはり「私は私」なのである。いや、むしろ、化粧で強調された私は私以上に私らしかったりする。 

寧夏にいたころ、カンボジア帰りの友人を撮影室に連れて行った。南国の太陽でこんがりと焼けた顔にも体にもベビーパウダーがはたきこまれ、短い髪と黒い肌を隠すためにレースのブーケで頭から顔まですっぽり覆われた彼女の写真は、まさし「え!!これがあなた?」であった。

羨ましくて羨ましくて、1週間後に同じ撮影室で同じドレスを着て写真を撮ることにしたのだが、同じドレスなのに、化粧も髪型も(そしてもちろん出来上がった写真も)似ても似つかない代物だった。何しろただでさえ多い髪にウィッグを折り込み、ソフトクリーム上に20センチも持ち上げた髪の毛にチョウチョが3匹飛んでいる。ただの馬鹿である。「ちょっと!何このチョウチョ?せめてお花にしてよ!」と抗議したが、メイクさんはひるまない。「撮影したらきれいに映るんだから、ごちゃごちゃ言うんじゃないわよっ」と一蹴され、できあがった写真はやはりただの馬鹿であった。

髪に関しては言いたいことは山ほどある。私の髪は多い。そして太い。美容院で「こんな多い髪は切れない」とカット拒否されたこともあるのだ。(もちろん中国で)私の願いはただ一つ、髪はコンパクトにまとめて、すっきりした頭にして欲しい。それだけで「これが私?」気分を味わえるではないか。しかし、どこに行ってもウィッグが登場する。外につけるのではなく、中に折り込んでボリュームを出すために・・・なぜ?それでなくても多いのに、なぜ?

黄石で撮影したときはメイクさんと大喧嘩をした。「だから、髪は小さく、シンプルにって言ってるじゃないのよ!」「あんたの顔とドレスにはこの方が似合うのよ!ぐちゃぐちゃ言わずに撮影行って来なさいよっ」有無を言わさず撮影室に追いやられ、私は泣いた。驚いたのはカメラマンである。「おい。なんで泣いてんだよ?」「か、髪はコンパクトにって言ったのに、こ、こんなに上に伸ばして、マダ~ムみたいだよぅ。」「わかった、わかった、オレがきつく言ってやるから、泣くな、な?」・・・こうして私は涙でコンパクトな頭を手に入れた。

ついでに髪飾りにも文句をつけた。「造花じゃなくて、羽飾りにしてよ。」できあがった髪型にもドレスにもすっかり満足した私は撮影の成功を確信した。が、できあがった写真、前かがみになって膝に肘を置き、顎を手の甲に乗せたその写真、背中が大きく開いたドレスの上にはドレスの中に入りきれなかったゼイ肉がどっかり乗っていた。「・・・ちょっとぉ、この肉何よ?」「しょーがないだろー、ある肉どうやって消すんだよ?」優しかったカメラマンもその日は冷たく感じた。 

こういう不幸な場合をのぞくと、撮影のキーパーソンはメイクさんとカメラマンである。モデルではない。髪にチョウチョや巨峰をつけようとするメイクさんにかかっては、どんなモデルでも沈黙するしかない。私の友人はチャイナドレスを着たとき三つ編みの先に紅葉をつけられていたが、髪を大きく膨らませ、アイラインをくっきりとひかれたチャイナドレスの私と並んで撮った写真は「置屋の女将と売られてきた田舎娘」そのものだった。

カメラマン、彼らは芸術家である。美しいものへの眼差しは等しく全てのものに注がれる。チョウチョを飛ばされた撮影室に、私は和服を持参した。自分で着付けし、日本髪とは若干違う頭にされて撮影室に入ったとき、カメラマンは私の草履に釘付けになった。「おい、それ、脱いで。」「は?」「そこに置いて。うん。その横に座って。正座。頭下げて。」草履に向かって三つ指ついてお辞儀をする私、カメラマンは満足そうだった。私は非常に不服だった。「イミワカンナイ」である。

そこまでされて、なぜ芸術写真を撮り続けるのか?激闘の彼方に「奇跡の一枚」を期待しているのである。その一枚のために、中国人と戦い、自分を磨く(?)。「わあ、これが私?わからなかったよ~。」と驚く日のために。

<これから芸術写真を撮る人のために>

☆ 値段

都市(田舎は全般的に安い)、店の立地条件や大きさ、そこで着用するドレスの数やグレード、写真の枚数やアルバムの大きさによって、下は150元前後から上は数千元まで様々。本格的な結婚写真ともなると額縁やロールスクリーンなど寝室の壁を飾るにふさわしい巨大なおまけがついてくる(正直言って日本では恥ずかしくて使えない)。

初心者・旅行者はなるべく小さな写真館に入り、10~12枚のコンパクト・アルバムにしてもらうのがおすすめ。値段は200元以内で1週間程度でできあがる。

セレブ気分を味わうのであれば、瀋陽なら中街の「時尚」「龍撮影室」「金婦人」などの大きな店に散財覚悟で挑もう。(要予約)どの店も350元程度のコースがあるが、「オリジナル化粧ポーチ(100元)」や「つけまつ毛(20元)」「ドレスのグレードアップ(50~100元/着)」など様々なオプションを追加していくと1000元近くなることもある。安いコース指定のドレスがひどく汚れていたり、デザインが今ひとつの場合もあるので、できれば事前にドレスを確認してから契約したい。

☆化粧

こればかりは担当者を選ぶわけにもいかないので、運を天に任せるしかない。センスのいい、可愛い子がついたらラッキー♪である。あまりにもひどい髪型には勇気を持って抗議しよう。(しても無駄な場合が多いが)

☆小物

これもカメラマンのセンスにかかっている。びっくりするような格好をさせられそうになったら吹き出す・怒る・泣くなどの手段を使って不満の意を表そう。

☆撮影時間

安いコースだと3時間(チマチョゴリ撮影は40分)、高いコースだと朝から晩までたっぷり一日かかる。水は出るが食事までは出ない。朝ごはんをしっかり食べてから行こう。

☆出来上がりまでの時間

撮影後1~10日後に写真を選びに行く。高いコースだと数十~百枚もある中から選ぶので半日かかることもある。殿方を連れて行くと、しびれを切らして怒り出す場合もあるので気をつけよう。選んだ写真は1週間から1ヶ月でアルバム(及び額縁)になる。

☆言葉

日本語・英語OKの撮影室は聞いたことがない。アルバムのサンプルを指差し、ドレスの枚数と値段、写真選びの日時と出来上がりの日だけ筆談で交渉できれば問題はない。はず。ちなみにフィリピン帰りの友人はドレスを選ぶ時店員に「あんた、肩幅広いし太いから、そのドレスは似合わないわよっ!!」と言われていた。「どうやら、だめらしい。」程度に理解した方が幸せな場合もある。

<役立つ表現>

芸術写真が撮りたいんですが。    厘勣田簒宝孚。(ウォー ヤオ パイ イーシュージャオ)

これでいくらぐらいですか。      宸劔謹富熱?(チェーヤン ドゥオシャオチエン?)

いつ撮影しますか。              焚担扮昨田孚頭? (シェマ シーホー パイ ジャオピエン?)

いつ写真を選びに来たらいいですか。厘哘乎焚担扮昨栖僉孚頭?      

(ウォー インガイ シェマ シーホー ライシュエン ジャオピエン?)

いつできますか。                        焚担扮昨恂挫? (シェマ シーホー ツオハオ?)

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沢野千恵子の北京通信


第三報 学生仲間が喜寿のお祝いをしてくれました

2005年4月10日

皆様方へ

どうにも時間が取れなくて毎日気にしながら今日になりました。今日は何が何でもメールしなければと打ち出しました。昨日、今日とうちのものからのメールや友人からの電話やらでこちらは初めて日本の今の様子がわかりました。こちらのテレビでは一切デモの報道がありませんので、丸でわかりませんでした。それほどここでは何もないし、逆にあまり皆が心配するので驚いています。

実は昨日何も知らないので、中関村という日本の秋葉原のような電気街に中国人学生と録音するための、MP3 Digital Playerを買いに出かけて、目的の建物の周りにズラットお巡りさんが立って 入れないし、どんどん若い人たちが そちらのほうに歩いて行くので、初めて中国人の学生も デモだと気がついてすぐ他の離れたビルで 買い物をしたのです。すでにそのビルでも 今日はデモがあると分かっていたのか日本製品のSony、National、Sanyo、Canon、東芝等などの 電気製品をしまってある所も多く、ここは日本製品が多いので デモの北京大学、精花大学の学生たちに狙われたら困るので 今日はしまってあるのだと店員たちに説明されました。

そこでは全く平常通りで 別に私が日本人だから特別な目で見られることもありませんでしたし、中国人の学生と一緒にねぎったりして、安くしてもらいました。午前中で買い物をおわったころはデモ隊の学生達は解散したのか、町は正常にもどっていましたが、まだ警官の車や警官はいくらか残っていました。その2人の学生とフランスのジャラフスパーに行き、フランスパン等買い物をして、お礼に日本食ランチをおごってタクシーで帰りました。ですからそのデモの中に入ったら勿論危険でしょうが離れたところでは全く関係ないし、この大学では全然そのような運動はありません。

唯大勢の学生達が目的の方向にドンドン歩いていくのを見たときには中国は人が多いから何かことが起こったら ワーット群衆が集まるので怖いなと思いました。中国自体も本当に大きなデモに発展して日本との間がこわれたら困るので、昨日のデモも全く普通の中国人には知らされていません。でもある程度学生の鬱憤晴らしは大目に見るのでしょう。サッカーのときも普通の人々は無関係であれも 2日ほどでおさまり、フアン以外の人はなにもないのです。勿論気をつけなければなりませんが、日本の報道も過敏になりすぎている感じがします。大丈夫だから安心してね。

わたしは昨日の4月9日満77歳喜寿のお祝いを仲間13人の外国人〔2人だけ日本人夫妻)とし、NZの英語教師の Tim が 係りになって internationalなお祝いをして、英語、フランス語、ドイツ語 スペイン語、ウクライナ語 蒙古語ポルトガル語 中国語 韓国語で お誕生日おめでとうを言われ、英国のJohn の プレゼントの ギネスビールで乾杯しました。隣のオランダ人の仲良しから これまたもうひとつ MP3を貰い、これで一寸の間も絶えずテキストの 文章や単語を耳にしていることが 容易く出来るようになります。

そのほか7日には日本人留学生全員7人で お祝いをして貰い奇麗な花束やアルバムを貰い、8日には又別な仲間で食事や大きなケーキでお祝いしてたっぷり喜寿を皆に祝って頂きました。70歳の時はパリのソルボンヌの受持ちの教授がなんともいえないほど美味しい シロワインとカードをくださり教室で皆にBon Anniversaire と祝って貰いましたからこんどは 米寿まで元気でいなければね、この歳までこうして元気で沢山のいいお友達に恵まれて 勉強に励める事本当に感謝です。

私の毎日は相変わらず 勉強の虫です。、ひたすら一日80位の新単語を覚え、テキストの内容を理解し宿題をこなし、予習復習に追われる日日で、これは一体なんだろうと思いつつ とにかくやらないとクラスに出ても付いていけないので 無我夢中で目の前のその日その日の 授業に必要なことをまずやっている毎日です。

まず音を何回も聴いてそれの意味と発音と字が 自分の頭に定着しないと言葉として使えないんですよね。言葉というのは こうして自分の物になるのかと今さら感じています。苦しいけれども少しつ”つでも進歩が分かるととても嬉しいし、教室で若い皆が始めて聞いても内容をさっと理解し、また習った言葉を忘れずに さっと使えるのを見ると自分との違いに がっかりしたりの繰り返しです。そんなことでこの頃は本当に週一回の果物、パン、野菜その他買出しに行く他は どこにも出かけなくなりました。


もっともここは交通が不便で出るのが億劫のせいもあるし、一通り北京の名所旧跡は歩いたので、寒いときにわざわざという気持もあります。でも今この大学の日本語学課の学生1名と英語学課の学生1名と お互いに勉強を交換して教えたり教えてもらったりするほかに、土曜の午前ちゅうは 日本ごクラスの1年生に日本人留学生3,4人で 日本語を教えているので、随分中国の学生とも顔見知りになり、また瀋陽の繰り返しのように スピーチ大会に出るという生徒が練習にきたりして またまた先生をしています。

この冬休みには東京、京都大阪で大学受験の最後の勉強をしている私の教え子に会いに行き、10月に来日以来皆が日本にも馴れ、頑張って勉強していたし、とても明るい感じだったので嬉しかったのですが、先日のメールで なんと東大に10人、京大、東工大、一ツ橋、武蔵美大などなどまあ吃驚するような大学に、32人中5人を残して合格したと知らせてきました。この学年は前の学年より出来が悪いと言われていただけに開校以来一番合格率が良いとの事、ヤレヤレと肩の荷を降ろした感じで一人北京で大喜びしました。

こんなわけで、西洋の留学生以外にも仲間が増えてきました。でも日本語クラスの生徒たちだと、どうしても彼らは私に日本語で話したいので瀋陽と同じで中国語の勉強には余りなりません。それで日本語、英語の全く分からない普通の中国人の叔母さんに 墨画を習いに先週から週一度通い始めました。このかたは体を悪くされて家にいるため時間がたっぷりあるので、画のほかに教科書の読みをならったり、会話をしたり出来るので、まだ一回しか行っていませんが、これは役にたちそうで楽しみです。

めったに書けませんので何回分もの便りです。北京にもやっと春がきてあっというまに木木が薄翠になり、迎春花の黄色、桃の牡丹色木蓮のしろや 紫と 朝の太極拳のとき 楽しんでみています。暖かくなると早速蚊とゴキブリが活躍しはじめました。

夜中12時すぎました。速くお風呂に入って寝なければ、これで当分又ご無沙汰しますが心配しないでね。

お元気で、沢野千恵子

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第二報:最初のテストが終わりました

(2004年11月13日)

日本の皆様

すっかりご無沙汰しましたがお変わりなくていらっしゃいますか。北京にきてはや2ヶ月半近くなり学生生活にも馴れて、毎日元気に楽しく勉強に励んでいます。今日やっと中間テストが終わりすこし時間と気分に余裕ができましたので、メールをあちこちに書いています。

すっかり木々が黄葉し朝晩5度をきるようになりました。瀋陽と違いここの留学生寮には個別の空調機がついていないので、北京市が暖房を11月15日に通すまでは部屋も学校の教室も寒く、古いこの寮の一重の窓の木枠の隙間から隙間風がスースー入り、め張りをしなければとこの前から思いつつ窓枠に触るのが汚くてそのままでいるところです。この建物が古いために、電気量が少ないので、部屋でアイロンもドライアーも使えないので、電気器具は一切使えません。

でも今まだ蚊が出て夜寝られないので、天井にとりつけてぶらさがっている蚊帳を毎晩使っています。そのほかいくら薬をまいてもゴキブリが この建物から消えません。

実はこの2,3日前 韓国の女子学生の部屋にネズミが出たため、その子たち2人ショックでその日の試験休んでしまいましたが、あちこち具合が悪くてこれで1日10$なんてと私は内心思っていますが、これでも中国人学生寮の4人一部屋で、トイレ共同 お風呂は外の浴場というよりはましなんでしょう。

トイレやバスタブの水周りの故障は修理人がきても、どうしようもないことが多いので、あちこちの部屋にいつも修理人がきています。一番情けないのは共同でもいいから台所がないので、何もつくれないことですが 朝だけは自分で生野菜のサラダやハム、なるたけおいしいパンを買って日本から持ってきたインスタントのコーヒーで食べ、あとはあちこちいくつかある学食で、ご飯とオカズを買ってきて部屋でたべるか、何人かで奇麗めな学食で幾皿かとって食べるかです。

住環境は決してよくないのですが、学生として学べる事や、色々な国の人と仲良く友達になってお喋りしたり、出かけたりできることがなによりも楽しいです。

ここには驚くほど色々な国から留学生が来ています。英米、独仏、オランダ、スェーデン、オーストラリア NZ.カナダ、イラン、蒙古、中央アフリカ 韓国 シンガポール などなど まだまだ中国語で皆も話せないので、英語で付き合っていますが、少しずつ中国語も入ってきてこのごろでは英語と中国語チャンポンの楽しい会話になっています

そのほか学校からもあちこち連れて行ってくださり、自分でもガイドブックと地図を持ってあちこち行ってなるたけ多くのものを見ようとよくばっています。

そのほか学校生活は一にも勉強、二にも三にも勉強で なにしろ語彙が少ないので、4冊の、総合、聴解、会話そして文化と、教科書に出てくる一課ごとに五十近くある単語の意味と正しい四声の辞書をひくだけでイヤっというほど時間がかかり、毎日の予習と復習にそれこそ毎晩12時近くまでかかってヤットこなせる感じです。

特にこの2週間は今日まで3日間あった中間試験のために、それこそ食べる時間も惜しいほど勉強しまくって 1冊ごとに何十頁もある教科書の単語、文法、表現法などわざわざ買ったテープを聞きながら、とにかくやれるだけの準備をして、今日やっと最後の口答のテストも終ってホットして やっと気になっている皆への通信を書き始めたところです。いつも気にかかりながら時間が本当にとれなくなりました。

こ の歳になってテストを受けるのは易しい事ではなく、いくら四声を覚えてもすぐ忘れて我ながらうんざりしますが、テストのために一生懸命勉強するとそれまでの断片的なものがまとまって頭の整理が出来るし、全力を尽くした事の満足感があるので、私はパリのソルボンヌでも必ず全部うけました。勿論100点は望めませんがそれなりの成果はあがって自分では満足です。

あと来週木曜日一科目これはクラスの皆が嫌っている文化の授業で私のクラスの11人中いつも3,4人しか授業に出ないのですが、きっとテストもその3,4人しか受けないと思います。でもこれはあと1週間あるので毎日少しずつ準備をすればいいので何とかやれると気がらくです。

今中国人学生で日本語を習っている生徒が2人、私と交換でそれぞれ1週間一度一時間ずつ交換しあって日本語中国語をまなんでいます。このほかに日本人学生夫婦に頼まれて職をさがしている21歳の女の子に1時間20元で中国語を習い、その後彼女に本当の基礎日本語を教えています。

午前中しか授業はないのですがこのように結構忙しくしています。

このほか朝6時半から30分ほど隣のオランダ人とドイツ人と3人で毎日太極拳のグループにかよって朝まず運動してきます。瀋陽で3年間毎朝中山公園に通って太極拳をしていましたので、はじめてしてすっかりはまってしまったこの外国人に比べて、わたしはとても楽に、瀋陽でのとやる事は違っても、それなりにそれぞれの型についてやっています。

やっと試験から開放されたと思ったら、この24日水曜日に外国人の中国語コンテストをやるので、成る丈大勢でるようにと一人一人声をかけられ、大変だなと思いましたが、発音を見てもらえるいい機会なので、大変でもやろうと思って自分の中国での経験を、少しまとめて、中国人学生になおしてもらったところです。これはあと10日しかないのでこれから毎日、練習して覚える努力をします。丁度瀋陽で生徒にやらせたように、今度は逆のことをやるわけですがあんなに私達のように丁寧に見てくれる先生は勿論いないので、どの程度まで発音がなおるか、それでも忙しくてもやるだけの価値はあると思います。

瀋陽と違って朝市もなくスーパーまで片道30分ほどかかるので、1週間に1回しか食品の買出しに行きませんが、校内のあちこちある店ではくだものしかないのでやはりキュウリ、トマト、キャベツ 等ほかのものとあわせて、買出しにいきます。皆若い人や、外国人なので、だれもこんな野菜まで買出しする人はいないのですが、中国人は生野菜を食べませんし、どのオカズも油でいためてあるので、やむを得ません。

朝太極拳に行く時間には、さすがに はく息が白く見えるようになってきましたが瀋陽に比べると外気はそれほどまだ冷たくなく、手袋もはめずに朝太極拳ができます。中国ではどこに行っても中高年人が太極拳をしています。ただ部屋が寒いので、セーターを重ね、こちらで 中国人より薄手のズボン下とシャツも買いそれも着て ブクブクの格好です。

皆で宿舎が汚く不便だ話しますが、私のように年齢の高い者を受け入れてくれる大学はどこもなくやむおえません。従って退職後来ている72歳、65歳などなど日本人男性4名、女性1名の高齢者もいますが、あとの日本人は大学を1年休学したり、勤めを辞めてきたり全員で15人もいます。韓国人についでの大所帯です。

明日の日曜日は韓国人のクリスチャンの女の子に中国人の教会に 連れて行ってもらいます。この前行った英語の教会はいかにもアメリカ的で、ステージの上で楽隊がつき、賛美歌も聞いた事のないものばかりで、歌の最中に 両手を上げたりする人も居て日本キリスト教団の教会とは凡そ縁遠いところでした。明日は行っても話の内容は分かりませんが中国の教会を見たいのでいきます。

中国語は一語にそれぞれ四声がつき、それが違うと全然他の意味になって通じないので本当に難しいし、時間がかかり根気くらべのようです。まあ自分が好きでこのような生活をしているのですから、文句は言えませんし、この歳で健康に恵まれ若い人と一緒に授業にでたり、色々な国のひととお喋りできる機会に恵まれている事は感謝ですよね。忙しいので思っていてもメール出来ません。

心配しないでね。 精一杯元気に楽しくしていますからね。 どうぞそれぞれ一人一人が元気でいますように念じつつ、

沢野千恵子

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第一報:北京の暮らしが始まりました

(2004年9月4日)

北京に参りましてからすぐにでもメールしたかったのですが、部屋の片付けが 終らない中に、9月1日からの授業が始まってしまい、昨日、今日の週末でや っとホットしたところです。

ここ郵電大学は北京の中心から30分位、北西に あり、一番近い地下鉄に出るのに、わたしの足では、20分位かかるバス停ま で歩き、バスで4つ目で地下鉄にのれるので、学校案内に交通の便がよいと書 いてあったのは、一寸可笑しいんじゃないのかと思ったところです。

写真は司馬台万里長城     2004.10

部屋は前いた育才よりやや狭いくらいですが、何しろ机と狭い洋服入れ以 外何も家具がなくて、3年間たまった瀋陽からの荷物をいれるのに本当に苦 労し、工夫しながらやっと今日日曜日で終りました。留学生寮には台所がない ので、それも不便ですが、毎日、洗面所、トイレと部屋のゴミを捨ててお掃除 してくれるのと、お湯がいつでも出てバスタブがあるのが嬉しいです。

ただ 前あまり便利なところで、しかも朝市が目の前というところに住んでいたの で、北京の食べ物の高いのに矢張りおどろきます。 以前のように、10元一枚持って両手一杯野菜に果物を買って感激しなが ら帰って来る喜びはもう消えうせました。

大学はこんなものかと びっくりしましたが、高い食堂から安いのまで7 つくらいあるでしょうか、郵便局から、病院、美容院から、服、自転車.靴修 理、風呂やと何でもある大きい村で、果物屋も何軒かあり、学生は桃一個、り んご一個、スイカ4分の1といった買い方をしています。

授業はテストでクラス分けをされて、今ビギナーズの次のBクラスに入れら れました。発音を始めからやりたくて、Aクラスを志望し1日出ましたが、英 国、NZ.オランダ、蒙古 カナダと漢字に全く縁の ない国からの人々10人程度のクラスで、一、二、三、四、我の発音漢字の書 き方から始めるので、さすがに我慢ができなくて、始めの通りBクラスに入り 直したら、私の程度より、やや高めなので、実はたった2日の授業の復習、予 習をするのに、昨日、今日と丸々2日机で辞書を引き続けて、やっと総合、会 話、聴解の習ったところと明日の分の予習をやり終えたたところです。

これに あと中国語文化がもう1科目あり、毎日朝8時から12時まで、5日午前中だ けの授業ですがこの固い頭に、100以上もの単語を正しい4声で、覚えるの は大変至難の業です。でも何年かぶりに学生にもどり、辞書を引きまくりなが ら一つの語が使いかたによって声調が変わる事を知ったり、今まで耳でしか分 らなかった漢字を見つけたり、新しいことを学ぶ幸せを心より楽しみ、感謝し ています。

あと有料で習字、絵画、Phonetics,HSK訓練、中国語習慣用語 と午後希望者のクラスに欲張って1,200元払って申し込みました。それに 無料で太極拳ももうしこみました。授業を受ける前にこの申込書を貰ったの で、オッチョコチョイの私はさっさとお金も払ってしまったのですが、たった 2日の授業だけで、その宿題や予習にこんなに時間がかかるとは思いもつか ず、内心ギョッとしています。

でも折角の機会ですから、なんでもやって見たい気持ちだけはあるのです が、どうなることでしょう。

わたしの隣人はオランダ系中国人で、オランダではStatesSecre taryをしていたのが、選挙で政権を追われ、今Sabatical ( 給料を貰って休暇)で、祖父母の祖国中国で中国語を学び,帰って仕事に役立 てたいそうです。政治家で、高い位置に居た人で、紳士だなと色々なことから 感じます。もう片方はJohnという英語の若い教師ですが、羨ましいことに は、お給料を貰い、英語を教えながら中国語の初心者クラスにでているので す。

この他にもう1人 TimというNZ・の23歳の青年も同じく英語の先 生兼 中国語の学生です。幸いなことにTimが私のコンピューターの据付一 切してくれたすかりました。気持ちのいい青年たちで、中国の英語科の女性徒 たちに大人気です。韓国の人も多く、日本人で退職した後いらしてすでに以前 からここで勉強している男性も3人もいます。まだ少しの人しか喋る機会がな いのですが、色々な国籍と背景を持った人々と会うのは楽しいです。

書きだすと私は何時もあれも之も書きたくて長くなりますが、明日の授業 が気になるので、之で止めてお風呂にはいります。汚い街でも私の育った瀋陽 はやはり特別な思いがあります。いつも瀋陽のお天気を見ておりますが、こちらより大分涼しいので、教師会の皆様方どうぞお風邪をひ かれませんように。

ごきげんよう 沢野千恵子

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竹林和美の中国みてある記

雲南旅行を楽しむための7つの方法

2005年04月08日


この冬、雲南省を旅しました。初めての雲南省。また中国の旅行会社主催のツアーに参加するのも初めてのことでした。まずは旅の日程を簡単に説明します。


1日目 昆明まで飛行機で移動。(昆明泊)

2日目 石林を散策。夜、大理行きの汽車に乗車(車中泊)

3日目 早朝、大理着。耳海を船で遊覧。ぺー族舞踊を鑑賞。

蝴蝶泉、三塔寺、大理古城を観光。(大理泊)

4日目 バスで麗江へ。麗江古城散策。少数民族舞踊を鑑賞。(麗江泊)

5日目 玉龍雪山散策。午後、バスで大理へ。

夜、昆明行きの汽車に乗車。(車中泊)

6日目 早朝、昆明着。飛行機で西双版納へ。原始森林公園散策。(版納泊)

7日目 植物園へ。タイ族村観光。夜、飛行機で昆明へ。(昆明泊)

8日目 昆明から飛行機で帰路につく。


 雲南旅行を楽しむための方法1

     少数民族の衣装は見て楽しむといいでしょう。むやみに着ないこと。 

【中国人ツアーでの発見】

今回参加したのは、中国人9人、日本人2人(私たち)の計11人のツアーです。8日間ずっと行動を共にすることで、いろいろ発見がありました。まず何といっても、中国人はお土産を買うのがだいすき。ツアーには、1日最低でも2、3軒は土産物店に寄ることが予定に組み込まれています。中でも翡翠(ひすい)を売る店が1番多く、この旅行でどれだけ翡翠売り場を歩いたか数えきれません。とにかく買う気がなくてもバスから降りなくてはならないのです。また翡翠か、なんてブツブツ言いながらバスから降り、ぐるりと翡翠を見たふりをしてまたバスに乗る。この一連の流れがどうしても時間の無駄に思えて、私は最後まで好きになれませんでした。ところが、中国人は違うのです。どこへ行ってもそこで買い物を楽しんでいるのです。必ず何かを買ってバスに戻ってきます。お茶屋でも、漢方薬局でも同じです。中には段ボールがいっぱいになるくらいに買う人もいます。親戚、ご近所、職場などに配るのでしょうか。

    私の友人は「中国人はお土産を買いに旅行に来ているみたいだね。」と口にしましたが、確かにそう言われても当然というくらいの買いっぷりのよさなのです。

さて翡翠店の話に戻りますが、何軒も連れて行かれているうちに、私もひとつ買ってしまいました。

雲南旅行を楽しむための方法2

    何軒も土産物店に連れて行かれても文句を言わず、中国人を見習って何でも楽しみましょう。つられて、買う気がなくても買ってしまうことがあるけれど、それもまたいいでしょう。

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さて中国人ツアーで困ったことといえば、観光案内や旅行の日程に関する連絡などがすべて中国語でなされるということ。聞き取れなくても、観光案内については、持参の「地球の歩き方」を見てなんとかなります。でも旅行の日程はしっかり把握していないと集合時間や出発時間などを間違えて、全体に迷惑をかけることになります。でも心配はご無用。中国人は世話好きで親切な人が多いのです。ガイドさんの説明をもう一度ゆっくり説明してくれたり、一緒に付き添ってくれたり、みなさんとてもよくしてくれました。その人たちにはガイドさんと同じくらい、いやそれ以上にお世話になり本当に感謝しています。

雲南旅行の楽しむための方法3

困ったときは同じツアーの中国人に頼りましょう。中国人は世話好きで親切な人が多く、あったかいのです。

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さて次はガイドさんについてです。日本のバスガイドさんを思い浮かべてください。例えば、「右手に見えますのは○○山です。みなさんこの山は何メートルくらいだと思いますか。」なんてクイズ形式にしたりして、お客さんと会話のキャッチボールをしながら観光案内をしていく人が多いですね。ところが、中国人のガイドさんは違うのです。息もつかさぬものすごいスピードで説明し続けるいわゆる「弾丸トーク」。1時間、2時間とよくそれだけノンストップで話せるものだなあと感心しながら聞いていました。

 

雲南旅行の楽しむための方法4

ガイドさんの弾丸トークに驚かないように。

お茶と言えば、プーアール茶で知られるプーアール地方は雲南省にあります。ですから雲南省ではいいプーアール茶が買えるのです。ほとんどのお茶は新しければ新しいほど「新茶」として重宝されるのに対して、プーアール茶は逆。古ければ古いほど重宝されます。これは何年ものですかと尋ねながらプーアール茶を物色するのも雲南旅行ならでは楽しみです。 


雲南旅行の楽しむための方法5

プーアール茶を買いましょう。

迷ったけれど結局買わずに帰ってきて後悔しているものが2つあります。それはろうけつ染めと刺繍品。どれも少数民族(ペー族、イ族)による手作りの品でした。特に刺繍品が心残りなのは、麗江でイ族の兄弟が営むある刺繍屋さんに入ったからなのです。その兄弟の身の上話を聞いているうちに義理買いをしそうになったのですが、結局、丁重にお断りをしてお店を後にしたのです。でもずっと気にかかっているのは事実。義理買いであろうと、やっぱり買ってくればよかったなあ、なんて思っています。でも自分で勝手に日程を変更して、引き返したりできないのがツアーの悲しいところ。全然売れなくて困っていたあの兄弟のお店。春になって少しは売れているでしょうか。そういう心残りも旅の思い出のひとつです。

 

雲南旅行の楽しむための方法6

少数民族の手による「ろうけつ染め」と「刺繍」もおすすめ。あとから後悔しなくてもいいように、お土産は思い切って買うことことも大切。

【いちばんの場所は】

10月の国慶節の休みには一週間中国人旅行社の団体旅行に入り、42人中 2人の韓国人とその両親と私の隣部屋のオランダ人6人以外は 皆中国人でしたが、親切にしてくださり私の念願だった、ウルムチ、トルハン、敦煌、嘉峡関、蘭州の1週間旅行をして、生まれて初めての砂漠地帯にかっては繁栄していたシルクロードの都市の廃墟をみたり、敦煌では丁度エジプトでみた地下の壁画のように、まだはっきりと見ることの出来る漠高窟の色鮮やかな世界遺産にもなっている壁画を見ることができ、とてもよい旅でした。

往きは飛行機でしたが帰りは汽車で、これも初めて寝台車で22時間の長旅でしたが、まわりに中国人学生や若い女の子たちが英語が大分話せたので、色々話していたので、思ったよりずっと楽に長い長い列車の旅もこなせてたくさんの中国人の暖かさにもふれる事が出来とても楽しい旅でした。

【少数民族の衣装】

雲南旅行の目玉はやはり少数民族でしょう。そこにはイ族、ミャオ族、ハニ族、ペー族、ナシ族など25の少数民族が住んでおり、彼らの生活の様子を垣間見ることができます。

民族の違いを端的に表しているのは民族衣装で、それを見ればどの民族かが分かります。色鮮やかで、デザインも特徴的なものが多い民族衣装。例えば、ペー族の女性はみな頭に帽子と冠の間の子ようなものをかぶっています。ナシ族の女性の衣装は胸のところで白い紐をクロスさせたデザインで、前からみると紐で子供をおぶっているよう見えたりします。旅の途中、レンタル民族衣装屋さんにたくさん出会いました。衣装を着て写真を撮ってもらえるというもの。何となく気になりながらどれもやり過ごしていたのですが、ちょっとした気の迷いから、3日目の蝴蝶泉でついにペー族の衣装を着てしまいました。お代は5元。ところが撮ってもらったデジカメ写真を見てがっかり。全然似合ってないのです。かわいい民族衣装が自分にも似合うと思っていたのは大きな勘違い。そのへんてこな姿に閉口し、すぐその写真は消去してしまいました。やれやれ。

民族の衣装は、そこで根をはって生活している人ものなのです。私のような“なんちゃって感覚”で着ると、“なんちゃって”で終わってしまうのです。ナカニハ、ニアウヒトモイルンデショウケド。

いろいろな衣装を目にしましたが、私はタイ族の衣装が一番美しいと思いました。シルクの光沢が上品なその細身の衣装は、ぴったりとまとめた髪とよく合います。女性を綺麗に見せてくれる衣装だと思いました。なぜかみんな美人に見えます。

  

【おすすめの品あれこれ】

その土地の名産を口にするのも旅の楽しみのひとつ。私が気に入ったのは大理で飲んだペー族の三道茶です。三道茶はペー族が客人をもてなすために入れるものです。「一苦、二甜、三回味」と言われ、3種類のお茶が順番に振る舞われます。日本の茶道のようです。

さて私は旅から帰ってきた人に必ず聞くことがあります。訪れた場所の中でどこが1番よかったかということ。同じ質問を自分自身にしてみます。うーん。どこもよかったので迷います。でも敢えて1つ選ぶとすれば、大理の「三塔寺」でしょうか。唐と大理国の時代に建てられたその3つの塔の美しさをどう表現すればいいでしょうか。下から見上げたときのしなやかな曲線。塔の白色と空の青さの絶妙なコントラスト。しばく心が時の経つのも忘れました。 


雲南旅行の楽しむための方法7

大理に行ったのに「三塔寺」に行かずに帰ってくるなんてことがないように。

 【趣味は旅ですと言ってみたくて】

ひとつの旅から帰ってくると、また次にどこか行きたくなります。旅とはそういうものです。趣味は何ですかと聞かれたときに、旅行ですと即答する人にずっと憧れていました。思い出に残るいい旅をこれからもしたいです。特に中国にいる間は積極的にいろいろ旅行しようと思います。実は、雲南省から帰って、その3日後に、今度は西安に行ってしまいました(笑)。西安の話はまたいつか。

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学生と山西省を旅する

安藤 知恵

1. 主な旅行先

〈大同〉 ユネスコの世界遺産。砂岩を切り開いた巨大な『雲こう石窟』。53の洞窟。17メートルからの数センチの51000余箇の彫像は芸術性と遊牧民的なものの融合。東洋のビーナスといわれ安らぎを感じさせる面立ちの菩薩像のある華厳寺。様々な色の瑠璃瓦で装飾され、王府の威容を物語る九龍壁などが有名だ。石炭の町で煤が舞い上がる。

〈五台山〉 膨大な数の寺院が50キロにつらなる高い山頂にある。中国仏教の聖地で巡礼者や旅行者を魅了する。4月に雪解け。9月に雪が降る。木々が茂り、谷間に清水が流れているので、種々の茸が採れる。険しい石段を登り詰めると風光明媚な景色。ロープウェイ、馬も利用できる。

〈平造〉 明代の城壁がほぼ完全に残されている文化遺産。整然と積まれた煉瓦の城壁は6キロの巡り。城内には100年以前の伝統的民間建築が多く有り、今も静かに生活している。将来、電線などが取り払われ住民も移動させられる。金融業が始められた町で、贅を尽くし建てられた商家や大邸宅は、タイムスリップしたような歴史を感じる。

〈太原〉 山西省の省都。乾燥地帯で冬厳寒、夏暑い。歴史が古く、戦いも多かった。交通の要所で各地へのバスの起点になっている。料理は油っこい。

 

2.列車

列車は120キロ位のスピードで広大な大地を走る。

建設中の所があり、時刻通りに運転されない。駅の時刻表にあっても急に取りやめになる。発車時刻があっても到着時刻が明記されないなど、日本では考えられないことが多い。

昨年、北京から成田行きの直行便で帰国するはずだった。驚くよりあきれたことに、「今日は大連経由になる」と言われた。予定より3時間遅れで日本に着き、新幹線最終便に間に合ったこともある。

本数が極端に少ないので、乗り換えに半日以上待たねばならない。また、往復切符がないので帰りの切符が入手出来ないこともある。学生は硬座席を買い夜行列車で、長時間過ごす。貧しい人や座席切符を買えなかった人は、立ったり床に座ったりで過ごすので、車内は大混雑だ。

彼らは食べ物を持ち込み、おしやべりしながらひっきりなしに食べる。食べかすや残りを捨てるので床はゴミだらけだ。車掌が第で掃くがすぐ汚れる。目に見えない挨が充満している。

私は寝台車を利用した。なぜか、駅で買えないことが多く、唯一男学生が車内で車掌と掛け合い、寝台切符を購入してくれた。硬座から寝台車に移動するのが一仕事だ。人間と荷物をかき分け揺れる車内を移動するのは、至難の業だ。学生と私の席がかなり離れるので、無事に下車出来るか不安がる私のために、学生は車掌や近くの人に、「日本人だから協力して」と頼む。

硬座寝台車は3段からなり、カーテンで覆われている。軟座寝台車は4?5人の個室だ。堅い戸を閉めると密室になる。全員の姿が.見え、落ち着かない。上半身裸で寝ている男性と2人だけの時は、安心できなかった。

日本式、あるいはカナダで利用した寝台車(狭いが一人部屋で洗面トイレ付き)を思い出した。

車内販売でインスタンラーメンが人気ある。お湯はサービスだ。寝台車にはポットにお湯が準備されている。

 

3. お手洗い

寝台車のトイレは各車両に4つあったが、鍵が掛けられ1つしか使用できない。車掌が掃除しなければならないので、施錠するようだ。中国では乗客より自分の都合を優先することがある。

列車のトイレはポトン式で停車中は使用不可。バケツの水で洗い流したいがそれが無いところもあり、かなり気を遣う。

駅の構内は溝式が多く、時々水が流れるだけで臭い不潔で日のやり場がない。また、戸が無かったり、あっても鍵が壊れ使用に耐えず安心できない。中国人はそれが当たり前で、恥じらいがない。隣同士大声で世間話をしている。それでも、どんなトイレでもあれば有り難い。目を閉じ鼻をつまんでも利用出来るから。バスの道路沿いには殆どない。お腹の調子が悪く、運転手に頼んでもどうにもならない。所変われば品変わる。郷に入っては郷に従え。苦しい旅だ。

 

4.沈陽での宿泊

沈陽では元職員のよしみで大学院生の新しい寮に、無料で5泊させて貰った。衛星放送の海外日本放送を見、ホテル並の生活を楽しんだ。学生が部屋を訪れ、再会を喜んだ。聴講生だった50代と70代の女性と街を散策したり、社宅を訪問し友情を深めた。

研究室に山形教授御夫妻をたずね、「どうして中国の学生は物怖じせずに自己主張できるのか?」など興味深い話に花を咲かせ、トロピカルフルーツをご馳走になった。最終日の夜、音楽に合わせ踊る野外の噴水を堪能した。

 

5. 慧子さんのうちに泊めて貰う

五台山では女子大生の王慧彦(日本名一慧子)さん宅に宿泊した。両親は教師。真夜中に到着した我々のために暖かい手料理でもてなしてくれた。大家族時代に建てられた東西南北の棟の中庭に、花や野菜が植えられている。そこに器が数個置かれ、雨水が溜められてある。断水なのでその水を洗面、洗濯、調理にも使うようだ。中国料理は熱した油を通すので大丈夫だろう。

旧式の大きな竃で石炭を炊き、自家製の新鮮な野菜、放し釦、の鶏の肉や卵を調理する。日本では商品にならない果物も食卓をにぎわす。

「湯水の如く。そのまま飲める水道のみず 無限にある水と温泉」日本は有り難い国だ。ここでは水は貴重品。そして電気も。。。。

夜は部屋が真っ暗。月明かりで段差を踏み外さないようにして、北棟のトイレに行く。手探りで紐を引っ張ると裸電球がともる。1間四方に板が敷いてあり、隙間から用を足すのだ。板がおれはしないか。下を見ると怖い。神経を図太くし慣れると平気に使えるようになる。節電、節水を少しは見習いたい。

汗をかいたので銭湯に行くことにした。幹線道路以外は泥んこ道だ。外灯が無いので学生と腕を組み転ばないように、ソロソロと歩く。銭湯とは名前のみ。シャワーだけだったが、気持ちよかった。弟さんが車で迎えにきてくれた。慧子さんは沈陽薬科大学の5年生を卒業した後、大学院に進む。弟さんは専門学校を出てタクシーの運転手をしている。優しく穏和な彼は観光地まで案内してくれた。中国は最近まで男尊女卑の思想だった。現在は女性も能力を発揮でき、管理職や政治家は日本を超えている。自己主張がしっかりしている。共働きなので、男性も家事を分担している。

中国の一人っ子政策には条件があるし、抜け道もある。先天性の障害、農村の第1子が女の場合、少数民族は第2子がみとめられている。金持ちや知識階級は罰金を払い、数人を産む。山間や辺都な田舎は理解が無く、幽霊人口がかなり存在するとか。

一人っ子は全寮制の大学で、柿妹兄弟のように仲良く生活し、切磋琢磨し自己を磨く。彼らは親を大切にし、老後の面倒をよく見ている。又、老人や教師を敬い大切にしている。

 

慧子さんの母親と私は意気投合した。彼女は記念に一筆書いて欲しいと、紙と筆を持ってきた。すばらしい書の国、中国で書くのはおこがましいことだが、*一期一会*と筆を運んだ。

いよいよ別れの朝、母親は桃とゆで卵、五台山の茸をみやげにくれた。肩を抱き合い涙を流し、必ずまた来ることを約束し、手をつないでバスまで歩いた。 心の琴線に触れた喜びは何事にも代え難い。再見!

平遥では学生が見つけた安宿に宿泊。そして、列車で過ごした夜。

 

6. 男ひとり、女五人の学生と

女子大生の服装は日本とかわらない。緑の黒髪、質素。プレスレッドなどのお洒落心。いざというときの自己主張。中国では買い物、タクシー宿など値段が決まっていないので、事前に交渉しなければならない。彼らは納得出来るまで、延々と交渉する。

一人の男学生は、細やかに誠実に、必要な時はビッシトした言動で私の世話をしてくれた。さわやかでぺ・ヨンジュンより感じの良い青年である。

貧富の格差の激しさで治安悪化、犯罪に染まる姿を目にする。

5年後、眠れる獅子は目覚め大きな力ある国になる。

色々のトラブルに巻き込まれた旅、現実の厳しい生活の庶民、暖かい気持ちの家族、反日抗争など全く私には縁が無く、慕われ敬われ愛された旅だった。

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