教師の会・歴史

創世記

瀋陽日本人教師の会の歴史を編纂しています。

この会で活動された先生方の証言を集めています。

これまでの会員を所属と年度で分類した表を作りました。PDFファイルになっています。取り込むと最初は小さくて読みにくいですが、いくらでも拡大できます。

2002年以前の資料が乏しくて正確ではないかも知れません。どうか情報をお寄せください。


藤井達也

瀋陽工業大学

1992年-94年

「日本人教師の会」は誠に僭越ですが、私が作りました。

当時、日本人日本語教師が増えてきたのと私の瀋陽工業大学の授業が、調整が悪かったのかコマが少なくて、時間的に動けたからです。

各校訪問ということで、瀋陽工業大学や色々なところで持ち回りで食事会をしたりを1.2ヶ月ごとにしていました。食事だけではなく、部屋を見せていただいて、みんなそれぞれ不便なところで頑張っているんだなあと勇気づけられたり、生活の工夫などを学び合っていたように思います。初回の頃は社会科学院で教えていた宮沢さんという方に「言い回しのニュアンスや語法の違いを例を挙げながら説明した」という報告?をして頂いたりしたのですが、このような授業実践報告を義務的にしてしまうと集まりが悪くなるということもあり、現場や授業で苦労していることなどを話し合ったり、悩みを話し合ったりするような感じが多かったように思います。シルバーボランティアでいらしていた割と年配の方達にはたまに日本人と話すだけでもストレス解消にはなっていたように思います。

最初は領事館の文化担当の梅沢さんというかたに来ていただいて協力して頂いたりしました。北海道開発庁(当時)の出向の方だったと思います。

アルバムを見れば、みんなで撮った写真などが出てくるし、名簿も出てくるかもしれません。名簿も最初の頃は私がワープロで作りました。

私がいた頃は遼寧大学には大平先生という方がいらして、その後、佐藤栄二郎先生がいらっしゃいました。大平先生がいた頃に始めたという記憶があるので、92年の末くらいかなと思います。日記を探せばもっとわかるかもしれません。

 

最上久美子

瀋陽工業大学

1989年-1990年

第二回目は、瀋陽薬科大学1999年8月-2001年7月

私のいた頃(1989年-1990年)は、「教師の会」というような形はできていませんでした。それ以前は連絡や活動があったかどうか、分かりません。

1989年という年は、その6月が天安門事件の年で、私の行った9月はまだ危険だという事で、外国人教師はかなり国に帰ってしまったままでした。私自身、瀋陽工業大学の3階建ての外事処の建物に、一人で住んでいました。

瀋陽市全体で外国人教師も少なかった事もあり、市や省から晩餐会(日本人だけではない)に招待されたり、正月には日本領事館から招待されおせち料理をいただいたり、2泊の旅行(丹東)に招待されたりしました。また、遼寧大学で、留学生たちも一緒に、在留婦人たちとの交流を持った事もありました。その中で、親しくなった人たちと個人的な連絡をしていました。領事の方とも親しくお付き合いできました。

渡辺文江先生は、その頃すでに遼寧大学滞在4年目だったかと思いますが、私とは個人的に親しくお付き合いさせていただき、授業の事など教えていただきましたが、あまり集まりにはおいでにならなかったように覚えています。でも、お聞きになってみてください。

一大学内でさえ、何の引継ぎも連絡もなく始めなければいけなかった経験から、次の先生方に引継ぎの連絡を持つように努力しました。幸いに続々と素晴らしい先生たちに恵まれ、工業大学においては、私の後少なくとも、平野先生、藤井先生(霜鳥先生と一緒)、小林先生、降籏先生まで確実に連絡がつながります。また、私は、1990年に帰国した後も、95年まで工業大学と関わりましたので、代々の先生方とも親しくさせていただけたと思います。

平野先生から、日本人教師の名簿ができた、と頂いた記憶がありますので、会を作る気運ができつつあったかと思います。だから教師会としてまとめて出発できたのは、藤井先生のお働きでしょうね。(この名簿は捜しているところです。)

余談ですが、工業大学のあった鉄西区は工業地で、当時市内で最も空気が悪く、他の学校の先生たちは敬遠して来てくださらず、こちらから出かけなければお会いできませんでした。 

また、当時の交通は、タクシーは危なくて一人では乗れず、今よりひどい状態のバス(汚いし混んでいるのはもちろん、自転車の方が早いし、すぐにえんこして降ろされるなど)、また、当時の公安による外国人管理の面からも、私的にはちょっと動きにくかったかもしれません。

とにかく現在の教師会につながったという事は嬉しいですね。

山形先生という方を得て、日本人教師会の歴史が記録される事になり、(私の立場からは、)神様はなんと時にかなって素晴らしい業をなさるのかと、感動しています。先生、ありがとうございます。

 

小林美恵子

瀋陽工業大学

1994年9月から1995年8月

私が瀋陽にいたときには、1994年11月5日、遼寧大学にて瀋陽日本人教師の会が行われました。

このときは吉林大学に客員教授として来ていらした原土 洋氏が講演し、17〜8人が参加して会食をしたと記憶しております。当時の世話役は遼寧大学の佐藤英二郎先生(神奈川県より派遣)、領事館の梅沢信敏領事も参加されました。

その前年までは藤井先生がお世話をされていたと伺っているので、そのあたりは藤井先生から・・お願いします。 

このときは、この会は2〜3ヶ月に一度は集まって交流や研究をしていると聞いたのですが、実際には私の任期のうちには何人かのかたとお目にかかることはあっても、この規模の集まりはなかったと思います。ただ、翌95年の4月のはじめに、遼陽の師範大学かで「日本まつり」があり領事館のかたや日本語教師が泊まりがけででかけるという催しがありました。ただし、この時は直前になってなぜか子供連れは遠慮して欲しいと言われ、小学生を帯同していた中国医科大の鮫島先生、領事館に九州経済調査協会から派遣されていた高木さん、それに私の3人だけは閉め出されてしまいました。

余談?ですが、当時瀋陽には日本人小学生が5人おり、そのうち年齢の近かったこの3人(鮫島さんにはお嬢さん2人がいたので子供は4人)はよく中国医科大に集まって、遊んだり、1年生だったもう1人のお子さんも交えて将来は補習校を作りたいなどといいながら、勉強会のようなこともしました。

この夏も大連から瀋陽経由で長春まででかけた知人に話をききましたが瀋陽も今は直行便もあるし、だいぶ変わったようですね。鉄西区については2003年に王兵という若い監督が9時間(3部)の長編ドキュメンタリー映画『鉄西区』を作り、日本でもその年の山形映画祭その他で数回公開されました。懐かしい?場所も写 されてちょっとジーンとしましたね。できれば一度再訪してみたいもの、など とも最近は思っています。30人規模の補習校ができている、というのには驚き ますし、頼もしいかぎりです。私は子供連れでしたが、当時瀋陽には5人の小学生がいて週に1度集まって遊んだり、日本語で勉強したりしていました。将来補習校を作るための一歩になればいいね、と話し合った記憶があります。

当時親しかったのは中国医科大にいらした鮫島千春先生ご一家、同じく医科大の三好先生(女性・海外青年協力隊員)、神代先生(女性・東北育才学校)、小竹律子先生(瀋陽農業大学)などです。工業大学の私の後任は長野県からおいでになった降籏郁司先生で、鮫島先生、神代先生、降籏先生とは今も連絡が取れます。

 

降旗郁司

沈陽工業大学

1995年8月から翌年1996年7月まで、1997年8月から1998年7月まで

私が沈陽工業大学にいましたとき、すでに沈陽日本語教師の会が組織されており、ときどき会合がもたれました。最初は中国医科大学の鮫島千春先生<九州・鹿児島県>が中心になって会をまとめてくださったと記憶しています。その後は遼寧大学の潮田(?)先生<神奈川県>がやってくださったと思います。

私の2回目の赴任の折は、遼寧大学の広田真二先生(神奈川県)と吉川正国先生(大阪府)が会の責任者として努力してくださいました。海外青年協力隊派遣の若い日本語の先生も数名おられて、皆一生懸命頑張っていました。その時、山形先生のメールの中に名前のある鉄嶺市の中華国際学校の藤原英弥先生(盛岡市)もおられました。

およそ10年前の事ですので、記憶が薄れていて詳細な部分については思い出しませんが、現在の沈陽日本語資料室のホームページを見て、日本語教師の会の組織や資料の整備・保管・管理など随分立派になったと感じました。

 

当時沈陽薬科大学におられた前島正吾先生のことですが、メール・アドレスは分かりませんが、

住所と電話は以下のとうりです。

山梨県甲府市飯田4丁目3の3 電話:0552−26−7584

 

「追記」

私の住んでいる町に「以前最上先生から日本語を教えて頂いた」という中国人の母親・宋雪令が暮らしています。長女が小学生です。私は時々小学校や中学校へ出かけて、中国残留孤児の孫たち(3世)に日本語を教えたり、中国語を教えてもらったりしながら、日々を過ごしています。

不十分なご返事になったかと思いますが、以上思いつくまま記しました。

 

稲田登志子

遼寧教育学院

1996年5月

私の最初の中国滞在は96年から98年までの2年間で、JICAの協力隊員として、中国医科大学に派遣されました。<中略>

当時、瀋陽市内には20名ほどの日本人教師がいて、不定期に集まっていましたが、日本人会会長が弁論大会の発足を提案し、その準備を中心に教師会の活動が活発になっていきました。まだ資料室はない頃だったので、医大の専家楼や遼寧大学の会議室を使って、たびたび全員が集まって会議をしていました。大きな大会を開催する場合には、日本人だけでは許可されないとのことで、中国の団体との共催で行いました。こうして、試行錯誤しながら、第1回、第2回の弁論大会が開催されました。

<以下省略>

今回の件で、福岡の実家に電話をし、家の者に隊員時代の報告書を調べてもらい、当時のことを確認しました。

HPの藤原先生のお手紙に「1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があった」と書いてありましたが、確かにその頃が日本人教師会の正式な発足です。

報告書によると、96年11月3日の教師会で97年1月11日の遼寧大学での弁論大会開催が決定されたと書いてありました。それで、第一回の教師会はそれ以前に実施されていたと思います。実家にある手帳を見れば、教師会の日にちはわかるとは思いますが、家の者に手帳の確認を頼めないので、はっきりした日にちの確認は今回の申請には待ちあわないかと思います。HPへの記載のために次に帰省したときに見てみようと思います。

私は96年5月に赴任し、中国医科大で鮫島先生とご一緒しました。鮫島先生に教師会のことをお伺いしたところ、瀋陽市内を中心に数人の日本人教師が不定期に食事会をして、仕事や生活面での情報交換をしているが、市内の日本人教師全員に呼びかけて組織化しているわけではなく、勉強会や行事の開催は行っていないとのことでした。

市内で活動していた4名の協力隊員からは教師会があるという話は聞きませんでした。また私は当時、協力隊員として、赴任当初に領事館にご挨拶に伺いましたが、当時の広報文化担当の畔津領事からは日本人教師会の紹介はありませんでした。

本格的に教師会の活動が組織されたのは、1996年の新学期が始まってからでした。神奈川県派遣の遼寧大学の潮田先生や工業大学の降旗先生や医科大の鮫島先生や私を含む市内の5名の協力隊員などが市内の日本人教師に広く声を掛け、教師会を組織化することになり、遼寧大学で集まることになりました。

その時の教師会で「瀋陽日本人教師の会」という名前をつけ、名簿も作り、畔津領事に顧問をお願いすることを検討し、その後、引き受けて頂きました。

教師会の機関紙発行はありませんでした。『瀋陽日本語クラブ』は私がいた当時は瀋陽大学の山下先生が大学内の教え子の文集として、自費で製作していて、それに時々、教師が投稿するという形で載せてもらっていました。これは私の推測ですが、山下先生の後任までで瀋陽大学に協力隊員の派遣が打ち切りになったので、その名前を教師会の雑誌に引き継いだものだろうと思います。

教師会発足の直後に日本人会会長で住三塑料の松本さんという方が日本人会として、瀋陽に貢献したいという申し出があり、私達、教師も弁論大会を開きたいが、資金がないので、協力して欲しいという気持ちがあり、意気投合し、協力して弁論大会を行うことになりました。当時は交流基金の弁論大会助成の申請は行っておらず、

費用はすべて会長が日本企業を回り、寄付を募って、行っていました。瀋陽日本人会や教師会は中国政府に公認されていない任意団体のため、日本人だけで、行事を開催されることはできず、中国の団体を主催にしなければならないとのことで、日本へ留学した中国人の中日同学会という団体を主催にしました。

その事務局が遼寧大学にあり、会計などの事務処理は中国側に任せることになり、遼寧大学で弁論大会を行うことになり、教師会も1度、医科大で行った以外は主に遼寧大学で行っていました。

これをきっかけに日本人教師会が活発に始めました。ですから、資料室ができる前の私が赴任した2年間も、教師会では瀋陽大学で弁論大会の開催をしたり、会員のうち、数人が遼寧大学の「日本語の夕べ」したり、歓迎会、送別会をするなどして活発に活動していました。

全体では、主に瀋陽大学で月に1度は集まっていましたし、弁論大会開催直前は弁論大会担当の数人の会員を中心に頻繁に集まっていました。

当時、資料室はなかった代わりに領事館の一室に日本人が寄付した本を保管している図書室があり、教師達や日本人が利用していました。教師達が領事館を訪れたときに文化担当領事とお会いしてお話することもありました。

教師会の組織としての発足についてはこのような経緯です。

資料室の移転では、経済効果がある企業でなく、一任意団体である教師会が和平区政府の建物を使用できることになったということで、10年前との大きな違いを感じ、区政府の開かれた姿勢にとても驚いています。

資料室の開館までご苦労が多いことと存じますが、お体にお気をつけて、お元気でお過ごしください。

 

何かございましたら、またご遠慮なくお尋ね頂ければと存じます。