森 信幸

元・在瀋陽日本領事館領事

現・株式会社不動テトラ



私の中国物語


以下は北海道港湾空港建設協会の会報「北のみなと」に寄稿した私の中国物語である


『私の中国物語』

森 信幸


私は、中国瀋陽市で3年間生活をしてからすっかり中国にハマり、帰国後も数回中国を訪れています。今回の執筆にあたり皆さんに紹介できるほどの趣味を持ち合わせていないため、中国生活を通じ多くの中国人と接した経験から少しだけ中国に詳しくなったので私の中国物語を本誌で紹介させていただきます


■はじまり

私の中国物語は2003年5月、札幌の北海道開発局(以下本局)から突然やってきた1本の電話から始まりました。

(本局)「森さん、中国の転勤話があるのですが行きませんか?」

(私)「広島ですか?何処の港を担当するのですか?」

(本局)「いいえ、整備局では無くて本物の中国です。外務省の出向で場所は内陸の瀋陽と言う所です。従って港湾とは無関係になります。」

(私)「話は分かりましたが、色々と相談しなければならないので即答はできません。」

(本局)「分かります。よく検討して返事をください。」

(私)「分かりました。」

当時私は本局の開発土木研究所水産土木研究室に所属していたので、先ず、上司に相談しました(年度初めの忙しい時期、内心は、これからの研究が大変になるのでお断りしなさいと言われるのを期待して)。私の予想に反して上司は、

「それは良いチャンスなので是非引受けなさい。私もザンビアに出向したが海外を経験すると格段に見識が広まりますよ。」(今では的確なアドバイス)

そこで妻に電話をして

(私)「外務省の出向で中国瀋陽の転勤話があるけど・・。」

(妻)「その瀋陽までは何時間かかるの?」

(私)「新千歳空港から直行便(当時)で3時間程度。」

(妻)「今も単身赴任生活(妻が室蘭で仕事)なので稚内や釧路の転勤よりはましじゃない?」

(今思うと何と安易な考え)また、当時は私も妻も両親は至って元気だったため、断る理由がまったく見当らず転勤を引き受ける一報を本局に入れました。

間もなくして、職場が本局港湾計画課に移動したのですが、港湾の業務を任せられる訳でも無く、もっぱら中国語の勉強に明け暮れる毎日が続きました。しかし、中学から大学まで約10年間英語を勉強しても全く英会話が出来ない私が、たかが1、2ヶ月中国語を勉強したところでマスター出来るはずもなく私のモチベーションは下がる一方で、ストレスが溜まる日々を過ごしていました。


■外務省相模大野研修所のエピソード

そんなある日、外務省から研修依頼があり相模原市にある外務省研修所で9月から3ヶ月間の外務研修が始まりました。

研修には、全国の各省庁から参集した精鋭官僚約200名が新しく外交官になるため語学や外務に関する研修を缶詰状態で行います。研修が進むにつれて自然と気の合う者同士のグループが出来てきます。私は、テニスサークル(当時は研修所内にテニスコート有り)の方と親しくなりました。仲間には刑事ドラマでしか観たことがなかった本物の美人検事(法務省)Aさん、北朝鮮の工作船と交戦し隣人が銃撃された経験を持つ海上保安部のB氏(国土交通省)、オウム真理教第7サティアンの家宅捜査時カナリヤを持ち込んだ警視庁のC氏、自衛隊のエピソード等を面白く話してくれるD氏(防衛省)、麻薬や入管時の審査について詳しく話してくれる入国管理局のE氏(法務省)等々、皆さん話題が豊富で楽しい仲間が集結しました。

休日の外出は基本的に自由(外泊は届出が必要)ですが、最初の頃は、語学の宿題や予習・復習でそのような余裕は有りませんでした。しかし、1ヶ月も過ぎると少し余裕ができ、仲間同士で休日に横浜の繁華街で遊ぶ計画が持ち上がりました。(勿論、この時だけは女性のAさん抜きで)話が進み参加者を募って居たところ、なんと警視庁のC氏も参加すると言うことなのでお互い顔を見合わせ、私が冗談交じりに、「遊んだ後に逮捕なんてことは無いですよね」と聞くと、C氏は「昔、警察で不祥事が相次いだため規制を厳しくしたら不祥事が更に多くなったので最近規制が少し緩くなりました。ただし遊ぶ場所は私に任せてください。」(飲み会の席だったので真意の程は定かでないが)かくして、警視庁を筆頭に防衛省、海上保安部、入国管理局と国家公務員の中でも超お堅いメンバー(個人はとても砕けているのですが)と横浜の繁華街に繰り出したのでした。紙面の都合もありますので、続きは個別にお話しします。

出来の悪い研修生でしたが無事に研修も終え中国赴任の準備をしていた3月に美しすぎる女性検事Aさんから電話があり「4月にはみんなそれぞれの国に出国して3年間は会えなくなるので靖国神社で花見をしながら壮行会をしませんか?」との提案があったので、仲間で一番フットワークの良い防衛省のD氏に花見の場所取りをお願いしました(当時長老の私が仕切り役)。

当日は快晴で絶好の花見日和、D氏が朝早くから場所取りをしてくれたおかげで花見は大いに盛り上がったので、「朝早くからの場所取り、ありがとうございました」と労いの言葉をかけると、

D氏は笑顔で「生まれて初めて場所取りの経験をしました。」

(私)「・・・?職場で場所取りするような事はないの?」

(D氏)「職場に戻ると2千人の部下がこのような仕事してくれるので・・」(確かD氏の階級は1佐) 。

研修期間中みんな楽しくフレンドリーな付合いをしてくれましたが、D氏に限らずここに居る仲間はみんな職場に戻るとすごい肩書きの持ち主なのだなぁ。今回の外務研修で1番の成果は、この研修が無ければ絶対に出会うことも無かった、このような素晴らしい仲間と巡り会えた事でした。

■中国瀋陽生活でのエピソード


4月に入って人口820万人の瀋陽市を拠点に外交官として3年間勤務することになるのですが、ここでは、中国生活を通じて日本と中国の考え方や習慣の違い等のエピソードを紹介いたします。

エピソード1

当時私は、在瀋陽日本国総領事館の広報文化領事だったので、仕事柄遼寧省や瀋陽市人民政府の文化局や外事弁公室との付き合いが多く良く食事に接待されました。

何時ものように瀋陽の政府関係者から招待を受けた某中華レストランが、1ヶ月ほど前に食器を良く洗わないで食事を提供すると新聞報道されたレストランだとわかりました。しかし、このレストランは、衛生的でないと報道されたにも係わらず1ヶ月もすると以前と変わらず繁盛しており、日本ではあり得ない光景を目にした私は、お酒の勢いもあって政府関係者に「確かこのレストランは食器を良く洗わないで不衛生だと報道されたレストランですよね?」と問うと、政府関係者は悪ぶれた様子もなく笑顔で「確かにそのような報道がされましたよ」。

私は少しむっとして「そのようなレストランに何故招待するのですか?」と尋ねました。

すると政府関係者は、「森領事、今厨房に行って観てもらうとわかります。今回の報道で厨房は食器の絵柄が剥げるくらい熱心に食器を洗っていると思いますよ。現時点で、ここのレストランは瀋陽市内で最も衛生的なレストランなのです。だから、お客も入っているでしょ。」

確かに、政府関係者の話には一理ありますが日本人には全く思いつかない発想です。2011年7月に中国浙江省温州市で発生した高速鉄道の追突・脱線事故を報道していた日本人キャスターが「このような大事故を起こしたにも係わらず大勢の中国人がこの鉄道を利用しています。信じられません。」と報道していた事を思い出します。中国人的には大事故の後なので特に安全に留意して運行するため、最も安心・安全な乗り物なので利用しているのでしょう。


エピソード2

衛生が行き届いていない中国では、水道の水はそのまま飲まない、魚貝類等、生ものは信頼できる日本料理店か五つ星ホテルのレストランで食べると決めて食中毒には特に注意を払って生活していました。しかし、妻と瀋陽市内の大型植物園を見物していると園内のレストランで大型水槽に入った沢山の毛ガニを見て、私は思わず「うわぁ、こんな内陸でも新鮮な毛ガニが食べられるなんて。明日領事館のみんなに自慢しよう!」と水槽の中の一番大きく元気な毛ガニを指さし、この毛ガニを蒸し焼きにするように頼みました。

店員はその毛ガニを水槽から捕りだしOKサインを出したので妻とレストランに入り料理を待っていると、(中国のレストランは、まず食材選びと料理法を指示して別室のレストランで食事をするのが一般的)料理が食卓に並び私の頼んだ蒸し毛ガニも皿に乗って出てきました。見た目、私が頼んだ時より一回り小さくなっていましたが、その時は蒸したので小さくなったと思い込み食べました。

半蒸し状態の毛ガニは思ったほど美味しくなく期待外れでしたが、内陸の瀋陽で新鮮な毛ガニを食べたと言うことに満足して帰路に着きました。その夜、40℃の高熱と激しい下痢・腹痛に襲われ正に食中毒症状そのものでした。

腹痛に堪えながら、新鮮な毛ガニを食べたはずなのにと思い返してみると、カニは、蒸そうが焼こうが茹でようが変色はするけど小さくなることは無い事に気づき、あの時、店員は、生きの悪い或いはすでに死んでいる別の毛ガニを提供したのではないか?確かに、生きの良い毛ガニを水槽から挙げるところまでは観ていたが、その毛ガニを料理している所までは確めていない。迂闊だったと思っても後の祭りで、一晩中食中毒に耐える最悪の時間を過ごしました。幸いなことに、この料理は私一人が食べ、妻は食べなかった事が唯一の救いでした。


エピソード3

翌朝、領事館の中国人スタッフを連れて中国医科大学(日本人は病気になると皆この大学を利用)に行き診察の結果、やはり食中毒で1週間の入院が必要との診断で即入院の手続きをしたのですが、病院からは、手続き上取りあえずいくらでも良いからお金を払って欲しいというので、財布にあった全額約2万円を支払い入院することになりました。

一応個室の入院部屋は日本のように綺麗な部屋では無く、コンクリート剥き出しで所々にクラックが見える部屋でした。入院中は何もすることが無く暇を持て余す中、唯一私の楽しみは、毎朝若い美人の看護師さんがやってきて日本では観たことがないような爽やかな笑顔で、ベッドメークと点滴(日本の有名な薬品メーカー名だったので一応は安心)をしてくれることでした。

ところが入院から4日目の朝、いつものように若い看護師さんが来るのを楽しみに待っていたのですが、一向に訪れる様子が無いため昼頃にナースステーションに行って事情を聞いたところ毎朝渡している明細書を観るように言われたので確認したら、最初に支払った2万円が毎朝引去りされ、4日目にはなんと赤字になっているではないか。私は、日本の病院のように退院するときに残金を支払えば良いと思っていたので明細書を気にしていませんでした。「中国では、お金が無くなるとたとえ病人でも何も治療をしていれないのか。」

早速、妻に電話してお金を持ってきてもらい入金すると、昨日までと変わらない若い看護師さんの治療が再開されました。と言うことは、この美人看護師さんの爽やかな笑顔は、私に対してでは無く私が支払うお金に対しての笑顔だったのか(当然の事ですが、チョット残念)。

確かに、ホテルの宿泊では、チェックイン時に倍位の料金を前払いし、チェックアウト時に残金を返金するシステムになっていますが、まさか病院まで徹底しているとは、中国は何とドライで分かりやすい国なのだろう。某日本の経済学者が「中国ほど資本主義?(お金至上主義)に合っている国は無い。」と語っている言葉を思い出しました。


エピソード4

領事館では、広報文化班を担当していましたが、経済班の仕事も手伝っていました。当時経済班では、中国東北部の貧しい地域に学校や病院等公共施設の建設や教材・機材提供などを日本が資金協力していました。(中国の経済発展に伴い今はこの制度は無くなりましたが)資金協力の有無を判定するため黒竜江省の某地域を視察した時、現地役人から、この地域は犬肉が有名ですが、その中でも特に美味しい犬肉料理店(30人程度で満席)で犬鍋の提供を受けることになりました。

接待で提供された料理やお酒は全て頂くのが私の主義(単に意地汚いだけ)なのですが、流石に初めての犬肉料理と隣がレンガに囲われた犬小屋で犬が悲しそうに吠えているのを聞きながらの会食、自然と箸が遠のいてしまいました。それを観ていた役人は「この犬肉は食用の犬でペットでは無いので美味しいから安心して食べてください。」と勧められたので、内心は、「犬を食べるなんて中国人は何て残酷なんだ、良くこのような環境で食事が出来るなぁ。」と思いながらも、ここは日本の外交官、接待されている身なので「とても美味しゅうございます。」と社交辞令を述べながら、アクだらけの犬肉を白酒(中国東北部の度数が高いお酒)で流し込むように頂きました。

当然大量の白酒を飲んだため、酔いが回ってしまったのは言うまでもありませんが。(犬肉を食べてからと言うもの何故か犬が私から遠ざかるようになったと感じるのは気のせいか?)

帰国後、家族と羊ヶ丘公園で、羊を観ながらジンギスカンを美味しく食べている自分を観て犬と羊の違いは有るもののこの光景は黒竜江省で食べた犬鍋と何ら変わらないことに気づき、きっと黒竜江省の役人も、私に最高の料理をご馳走したかったに違いない。自分が経験してないだけで相手を非難することは良くないよなぁ。黒竜江省の役人さん、ごめんなさい。


■おわりに

いかがだったでしょうか?日本人も中国人も同じ東洋人、言葉を話さない限り外見では区別がつきませんが、今回の投稿のように「日本人とはかなり考え方が異なるなぁ。」と感じられた方も多いと思います。私は中国生活をして中国人とうまく付き合って行くためにはこのような違いを認め合い相互理解していくことが重要だと感じています。

なお、今回は高尚な会報「北のみなと」の執筆と言うことも有り昼の部に限定した投稿になってしまいましたが、3年間の中国生活は昼に限らず夜のエピソードも同じ位経験しました。今後はもっと砕けた雑誌等で投稿の機会があれば「私の中国物語」(夜の部)をご紹介したいと思います。

 20200901

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