瀋陽に暮らして 第一部

第19号   第一部   目次

愛すべき寮生活

中原 麻実(東北育才外国語学校)

2003年9月に東北育才外国語学校に赴任し、瀋陽で生活を始めて1年半が過ぎました。赴任当時の私にとって、中国へ足を踏み入れたのも初めてなら、日本語教師として教壇に立つのも初めて、さらには親元を離れて生活することさえも初めてでした。実はとても心細かった、というのは今だから言える本音です。

さて、私がいま住んでいるのは学校の敷地内、校舎からほんの50mほどしか離れていない外国人教師寮です。この建物は私が赴任した当時で築6ヶ月という新築で、内装がとてもきれいで感動したことを覚えています。東北育才外国語学校は、瀋陽市の南のはずれ、産業開発区内に在ります。市内に出るにはかなり時間がかかり不便なところでもあります。そんなわけで、私は生活のほぼ8割以上を寮の中で過ごしています。

この学校の外国人教師は日本人ばかりでなく、アメリカ人やカナダ人、ニュージーランド人などの英語の先生たちも同じ寮で一緒に生活をしてきました。

寮の各部屋は12畳ぐらいのワンルームにユニットバスがあり、エアコン(冷暖房)も付いています。キッチンは共用で、かなり広いダイニングキッチンがあり、冷蔵庫や洗濯機なども共用です。ですから私たち外国人教師は国籍を問わず、キッチンで毎日1回は必ず誰かに会い、ひと言・ふた言を交わします。夕食を作って皆で食卓を囲むこともあります。日本料理を振る舞ったり、西洋料理をご馳走になったり…。時にはビールとクラッカーで、中国の教育と自国の教育を比較して、ああだこうだと議論したりもします。ある時は中国人さながらに、白酒を片手にトランプをしたりもしました。こんなふうにダイニングキッチンでは、他の国からの先生たちともいろいろな形で異文化交流ができるので、とても楽しいです。

キッチンが共用であるということで、他人の食事情を垣間見れることも、楽しいし良い勉強になるし、時には驚かされます。あるカナダ人の先生は何でもかんでも冷蔵庫に入れていました。開封した食べかけのクッキーも冷蔵庫に入れるし、食べ物を包むラップまでも冷蔵庫に入れていて、「なんでやねんっ」と思いました。これはまた別のカナダ人ですが、彼はパンケーキが好きで、まめに焼いていました。その時にカナダから自分で持ってきたメイプルシロップを使っていたのを見て、「あ~、私たちが日本から味噌や梅干しを持ってくるのと同じだぁ」と思いました。やっぱり時々は自分の国の味を思い出したいものなんですね。また、あるアメリカ人の先生はベジタリアンでした。彼の食事は本当に肉類を使わないことに徹底していて、とても興味深かったです。例えば、スーパーでミキサーを買ってきて、自家製野菜ジュースを作って飲んだりしていました。ジュース1杯に、こんなに手間ヒマかけるなんて、と感心しました。

こんなふうに毎日を同じ一つ屋根の下で暮らしていると、他人同士であることも忘れて、本当に一つの家族のように思えてきます。私は瀋陽に1人で来て、同じように自国から1人で来た人たちに出会って、一緒に楽しく生活できていることを、とても幸せに思います。そして私と一緒に生活してくれている先生方や、こんな素敵な寮を提供してくれている学校に感謝したいと思います。

 


中道恵津(瀋陽師範大学)

2004年2月、春節の休みを終えて日本から瀋陽に戻るときのことである。瀋陽上空まで来た南方航空cz628は、「瀋陽桃仙空港は滑走路の状況が悪いため、機はこれから大連に向かいます。」というアナウンスとともに急旋回して大連の空港に向かった。思わぬ展開に乗客は慌てた。私も慌てた。というのは瀋陽桃仙空港には、大学から外事処の迎えの車が来ることになっているからだ。勤務先の瀋陽師範大学は瀋陽市の北の端、空港は南の端だから車で1時間近くかかる。一刻も早く連絡を取らなければ無駄足させてしまう。

大連の空港に着陸後、コノミークラスの乗客はかなり長い間機内に待機させられた。それから乗務員の指示に従って横殴りの冷たい雨と吹き飛ばされるほどの強風の中、タラップを降りた。空港ビル内でトランジットチケットを貰い、出てくる荷物を受け取ったあとは、航空機会社から何の指示もないまま時間ばかり過ぎていった。乗客は空港ビル内の椅子もない通路に固まって、いつ出るかわからない指示を待っているよりほかなかった。

大連から瀋陽まで汽車なら5~6時間だ。少数の気の早い人たちは飛行機を諦め消えていった。あの人たちはきっと汽車で瀋陽に向かうのだろうと思いながら、夜の汽車があれば今日中に瀋陽に着くことができるし、私も駅にいってみようか、どうしようかと心は揺れ動いていた。学校へ連絡すると、瀋陽はこの日朝からひどい吹雪だったそうで、心配した外事処は飛行場へ連絡を入れて私の乗った飛行機が大連に向かったという情報をすでに得ていた。

この間、誰とはなしに自然に話しを始め、乗客同士の間に一種の連帯感のようなものが生まれていった。だいぶ経ってバスに誘導され近くのホテルに行くことになった。

こうして不安な中にも夜泊まるところがはっきりしてくると、私も、明くる朝飛行機が出るかどうか不明だが汽車の切符も手に入るかわからないのだから成り行きにまかせようと腹を決めた。

結果を言えば、次の朝再び同じ飛行機に乗ることができて、大連から瀋陽まで水いっぱいのサービスもないまま、とにかく無事に瀋陽に帰り着いた。

乗客の中にたどたどしい妙な日本語で話しかけて来る同年輩の婦人が二人いた。どこで日本語を覚えたのか問うと、二人とも「私は日本人。」と言って、パスポートを見せてくれた。

ひとりは東京は江戸川区に住み、昭和20年の敗戦直前の生まれ、帰国者自立協会副会長の名刺をくれた。「残留孤児なの?」と聞くと「そうそう。」と言う。もう一人は神奈川県相模原市在住で昭和22年生まれという。

「私は?」と聞くから「17年生まれよ。」と言ったら「お姉さんね。」ときた。私には彼女たちのほうがずっとお姉さんに見えたのだが・・。

20年生まれの方は瀋陽にいる養父母に会いに、もう一人の22年生まれの方は吉林省延吉にいる夫のところに会いに行くという。この二人は年齢が近いという親近感からか、瀋陽につくまでずっと私に関心を示し、気遣ってくれた。今度必ず電話するからというので電話番号を交換しあって別れた。日本人だが、中国語の方が堪能な日本人だった。

残留孤児関連のニュースが日本で連日新聞をにぎわしていた頃、それらの記事を私は夢中で読んだものだった。年齢から言えばちょうど私とそう変わらない人たちが、筆舌に尽くし難い長い苦労の末に肉親探しのために日本にきていた。私の両親は満州とは関わりのない人生を送ってきたのだったが、まかり間違えば私だって同じ境遇になり得たのだと思うと、どうしても他人ごととは考えられなかった。

私の教え子の中には祖母が日本人という学生がいる。私は学生以外の一般の中国人と日常的なふれあいを持つ機会は残念ながら少ないが、瀋陽には満州時代の日本人と深いかかわりのあった人は当然のことながら多いはずで、残留孤児を育ててくれた中国人も少なからずいたと聞いている。そういう人たちの苦労も、振幅の大きい中国現代史の中で、またきっと想像できないほどのものがあったに違いない。

この都市と日本との戦争がらみの歴史に由来する深い因縁について考えさせられた2日間であった。

乗客の中に偶然知り合いのご家族がいた。ご夫婦とも瀋陽師範大学の先生で、3年前に日本での研究生活を打ち切って帰国したが、東京にまだアパートを借りていて、ご主人の方は東京医科歯科大学と共同研究のために今でも年に数回日本に行く。そのときも春節休みに家族で日本に行ったその帰りだった。

10年間の日本留学期間中はご家族で東京に住み、その間娘さんは小学校から高校2年まで日本の学校で教育を受けている。帰国後の今は両親と同じ瀋陽師範大学の生物専攻の学生だ。その日は丁度彼女の19歳の誕生日だった。娘さんはなかなか中国の暮らしに馴染めなくて、寮生活も親の権威を利用して免除してもらい家から通学している。授業でも教師の板書する崩し字の中国語が書き写しきれない。帰国後ずっと家庭教師をつけたりして苦労している。図書館に日本語の雑誌や小説を読みに行く。というのも中国語より日本語のほうが苦労なく読めるからだ。お父さんが日本へ行くときに同行する機会を待ち焦がれている。

日本ではテレビ漬け、漫画三昧らしい。このときも、日ごろ貯めたお小遣いをはたいて、BOOK OFFなどで仕入れた50冊の漫画や日本のテレビ番組を録画したたくさんのテープを宝物のように大切にバッグに入れてきた。親はそういう娘を「あきれた、気が知れない。」という。東京でのご両親は大学で毎日遅くまで研究に余念がないというのに、娘のほうは夜中までテレビやビデオを見ていて、昼過ぎまで寝ていたそうだ。遅く帰るご両親のために食事の支度をしてあげたのと聞くと、首を振る。

大連のホテルで彼女と同室になり、所在無いのに任せて遅くまでおしゃべりしたが、お刺身大好き。中国の浴槽は浅すぎる。お風呂は首までしっかりつかることのできる日本式でないと入った気がしない。パウンドケーキなど焼きたいが、中国には作る道具が手に入れにくいのでつまらないなど、全く日本人、いや今どきの日本の高校生だなと思う。親との会話も所々に自然な日本語が入る。同じ期間日本で暮らした両親の方はまだ流暢な日本語とは言えないのに。

大学で知り合ったもう一組のご家族のことを紹介しよう。奥さんが師範大学の社会学の先生で、ご主人のほうは内科の医者である。このご家族もご主人が山梨医科大に留学期間の6年間、長男は小学校から高校1年まで日本の学校教育を受けている。帰国後2年目だから今高校3年生。日本で生まれた次男はまだ小学校1年生だ。

一度お誘いを受けてご家族みんなと食事をともにした。長男は物理が得意で、昨年は学校代表に選ばれて物理オリンピックのような大会に参加するため北京まで行ったのだそうだ。日本人と変わらない自然な日本語を話す。食事の後のカラオケでは桑田佳祐の歌など感情たっぷりに聞かせてくれた。

「高三なら受験の年ね。物理が得意なら、その方面の大学を受けるのかな。」と言うと、「中国の大学受験は、政治とか国語とか自信がないから無理です。」だから日本の大学を受験したいという。

 

二組のご家族とも、親は日本滞在が長く、博士でもある。中国ではハイレベルの階級に属するといえるだろう。その子供たちも優秀だ。けれど一般の中国人の子供たちが小学校1年生から学ぶ漢詩や膨大な量の故事成語などの知識を身につける機会がなかった。暗記主体の中国の教育にも慣れていない。

バイリンガルと言えば聞こえはいいが、中国人になりきることのできない彼や彼女の人生は今後どのような方向に展開するのか、興味あるところだ。感受性豊かな時期に日本の現地校で学んだ経験は、両国のよいところも悪いところも平等に見る目を養ったに違いない。日本に対するつまらないわだかまりなど持っていないから、将来日本と中国とのあいだの架け橋となってきっとよい働きをしてくれるだろう。今両国の間にあるギクシャクした問題も、頭の固い政治家たちが退き、彼らの世代になれば自然に解決に向かうだろう、そんな気がしてならない。

(2005.2.26記)

 


愛すべき寮生活   私たちの塒(ねぐら)・・師範大・四台子界隈

中道秀毅(瀋陽師範大学)

瀋陽に暮らしての発見といっても、その対象によって色々と違うだろう。馴染むこと、親しむことから発見がはじまると考えた。私の塒(ねぐら)の、まわりはどのようか環境はどうかと。

5年間で

瀋陽へは2000年の労働節に、東北旅行の時立ち寄った。師範大は街中にあり校舎は古かつた。北陵公園へ行く露天・屋台・物売り・手品師・様々な店が一杯で、活気に溢れていた。夜の食堂街も大学と隣接しており、親しめる感じだった。

2002年に再び瀋陽へ来たら、様子が変っていた。あのごちゃごちゃとした面影は消え、整然とした広い道路ができていた。北陵公園の西の黄河北大街を一直線に北に行き、立体交叉を超え、高速道路、続いて鉄道ガードをくぐった先に大学は移転していた。

初対面

この辺は郊外だ。前方の右手に綺麗な感じの建物群がみえる。見覚えがあったのは長崎のハウス・テンボス村のデザインと似ていたからだ。紅っぽい瓦、窓の縁が目立つ6階建てである。ご丁寧に屋根の上には、「瀋陽師大学生公寓」と大書きの大看板がみえる。

大学の正門が、いままで見慣れたものとは、大違いだった。一般に中国の門は、建物を象徴するかのように威猛けだかで堅牢過ぎるといえないだろうか。師範大学の門の何と斬新で軽妙なこと。というのも宇宙を思わすのかモザイクの円形状のものが、グレーの明るい守衛所の上にみえ、私はなぜか、新しい中国に触れたような、すがすがしさをおぼえたのである。

ひろい前庭をセンター道路が伸びている。右には円形で巨大な文体館で、03年には中国科学協、学術全国大会があり、バスと参加者が溢れ規模の大きさに驚いた。その奥の方には国際教育学院、留学生寮・外人教師寮がみえる。(今は、キャンパスのご案内に同行ください。私のねぐらは広大なのでして)

正門からセンター道路をまっすぐ東に直進すると建物群に囲まれている「時代広場」に行き着く。時代広場を囲むように八角形型に建物が配置されている。右側(南)には弧状をした外装がモダンな図書館で立派なのに目を見張る。そこから時計回りに弁公楼・信息技術中心・博文楼・匯文楼・美術楼・実験中心・旅遊管理学院が配置されている。中心の時代広場には時計塔と国旗掲揚台に挟まれるようにして真ん中の辺に化粧大理石を嵌め込み地下から噴水が吹き上がる手の込んだ仕掛けがある。

この噴水がいい。猛暑の夏になってからの特に夜がよかつた。噴水が10数メートルの高さをめざす。虹のような光りが水の飛沫を浴びて綺麗だ。音楽の流れと水柱の際限のない変化。米国映画にオードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」で登場し人々を魅了したことなどを思いうかべた。ローマの噴水が彼女のロマンを描きたてていたからだ。

噴水の周囲には学生たちが溢れている。顔や瞳が輝き、談笑が湧くのだ。噴水が全く弱まり真ん中の2筋だけになる。音楽もやむと静寂にかえる。有志の誰か、今のうちに、真ん中を駆け抜けませんか、愉快ですよ、と促すかのようにみえた。2人の男子が、恐る恐る出て来て、やがて、すたすたと駆けぬけた。成功だ。2人は得意なポーズ。学生たちからは拍手と歓声だ。今度は、女子と男子2人が出てきた。拍

手が起こる、歓声が湧く。脱兎のごとくに、―――無事だった。噴水は大丈夫か、気が気ではない。向こう側から入ってきた男子学生2人は、再び噴出した泉水に出会って濡れ鼠となってしまった。大爆笑だった。

夏、水、憩い、広場、光、音楽、あそびごころ、団欒。この夜は、真夏の夜の夢の饗宴であつた。

青春の真ん中にひとり佇み、サーズの外出禁止のときの忘れがたい思い出に浸るひとときだつた。若者たちよ、いつまでも元気であれ・・・。

大学の設計図のうち、美術楼、音楽楼の建てかたがよい。両者の間に池と濠を設けた構想などがおもしろい。

キャンパス

学生数1万6千人と教職員が生活する食堂を考えてみる。大食堂4棟と業者の小食堂が8軒、スーパーが3棟、学生寮が4地区に6階建て何棟かがあり、現在校舎建設中のものが何ヶ所かある。

私たちの住まいは、始めの方に書いた国際教育学院の別棟に居間、寝室、浴室、キチンで本棚3ヶ、洋たんす2ヶ。何よりよかつたことは衛星テレビでNHK海外版が見られたこと。短波ラジオとで内外の情報は?むことができたり恵まれたスタートだった。ところが2004年第3生活区の学生寮が完成すると、外人教師にも転居の指示。今度は正門まで歩いて15分強と最悪となる。

よいところはベランダのある寝室と終日陽の入る居間、ベラ ンダつきのキッチンがあること。食材、野菜の買出しは私。かみさんが腕じまんの和食をつくる。納豆、干物、インスタント稲荷寿司のもと、さつま揚げ、味噌、等々日本から持ちかえった。帰国直後は水菜の漬物もにほんのおいしいパンはあるし、ささやかな食事はこの上なくたのしい。

それに歩いて15分というのも健康のためと感謝する気持ちにもなれてきた。私のこの広大な塒{ねぐら}を息子や娘夫婦、孫たちや、うかららたち皆に紹介したいと思うのである。きつと、現在の暮らしがいかにしあわせであり、めぐまれていることかが実感され生きているということをすこしちがった角度から考えると思うからである。

広い校内を南から歩いた。グランドは、冬にはスケート・リンクで賑やかになる。横には藤棚とベンチが並ぶ。南門への道と、時代広場からのとが交叉する中央に孔子聖像が見上げるばかりに建っている。孔暦2553年・香港孔教学院院長湯恩佳敬立・公元2千零2季・徐熾書とあり。湯氏の寄贈のようだ。湯恩佳とはどういう人か、師範大との関係はなど知るよしもないが。

孔子は背丈の大きい偉丈夫であり、戦国時代に74歳で死ぬまで漂泊の旅を続けた。仁という新しい理想を求めてである。多くの弟子が慕い、交わす言葉が胸を打つ。その様子は「論語」が記している。故郷の(魯)に数年、人々と平和な時代を実現したが、殺されそうになる。千万人と言えども我は

往くと。儒の精神が中国を支え、2000年生きている。中国といわず世界中の教育家だ。師範大の学生が「論語」をどう読み、孔子から何を学ぶのかは私の深い関心事だ。

散歩の道

北門の方へ進む。雑草が茫々とした空き地であつた。今は寮棟が並ぶ。一棟男子専用があつた。門の外はポプラ並木が東西に走る。畑地が広がり、高圧線が伸びていた。左手(北)に行くと、正門前の黄河北大街道路とぶつかる。信号がないうえ、傍まで露店が張り出しているから大変な混雑ぶりである。

道義開発区と呼ばれるのは、この先のあたりだ。区画され工場や企業が並ぶが、大きいものは見あたらない。それよりも、遼寧大学が移転してくると聞く。見たくて頑張って歩いた。入り口に守衛がいる。断って入らしてもらった。広い広い敷地に驚いた。ずっと奥の方に校舎らしい建物が並ぶ。重厚で豪奢な感じの幾つかを覗いてみる。師範大と比べると、こちらのはいかにも大学然としていた。威厳があり、迫ってくる。まだ、全体の半分ほどだから勝手な印象だが、明らかに違いが感じられた。

夕暮れた道は遠い。さっきの賑わいに帰ってきた。道には露天が並び、後ろに店舗、食堂が続く。1軒のショウ・ウインドウに菓子パンが並んでいた。美味そうにみえた。目方売りのパンだ。甘い香りが漂う。かみさんが帰る私たちに何か言った。また、来てね、と言ったのだと。何回か、散歩がてらにでかけた。

後で聞いたのだが、この界隈には遼寧大、師範大の他にも学校の移転の計画があるそうで、瀋陽市は文教地区として位置づけているらしい。南から師範大のあたり

までまっすぐ地下鉄を造る予定もあって、この辺の地価があがっているとか、先生たちの中には今のうちに家を建てている人もいると聞いた。

出会い

師範大の南西になる四台子という部落は私たちに欠かせない。始めに紹介した黄河北大街を来る途中に3台子という地名があり、その続きの昔からの町ではないかと思われる。レンガ積みの平屋長屋が取り残された一画である。露天も並ぶが横町の店も、お粗末できれいとは言えないが野菜は、ここが一番近い。あとは街へ行くしかない。

この界隈の2,3軒の中で、いつも買いにいく小母さんの店がある。雨の翌日など軒先は泥るんでいる。教師会の先生で、こういう店で買い物をするのは自分くらいだろうなあ、と思う。でも、ここは繁盛している。と思うのは、出入りするお客が多いからだ。私たちはビニール袋は持参し、買う品ごとに入れてまとめて勘定をして貰う。客がきて3、4人続くときもあり、最初のうちは苛ついたが、我慢した。彼らは今夜の惣菜の2,3品だから直ぐにすむ。新鮮なのは街の方がいい。でもここは品数があり、手で触って選べるし、安いのもいい。気長に待つさ・・。言葉が判ったら、おもしろいだろうなあ、と思ったり。客がいなくなると、彼女はすみませんと言うようなそぶりだ。会話はだめな同士なのである。

小母さんは、いつからかメモ用紙に野菜の名と値段をメモしてくれるようになった。参考までにメモしてみよう。

玉葱2.3斤=1.7元 白菜4.6斤=2.3元  長ねぎ0.4斤=1元 椎茸0.8斤=2.7元     ジャガイモ3.5斤=2.5元  春菊0.5斤=2元 油菜0.6斤=1.5元    紫茄子0.8斤=2元青豆1.2斤=1.8元  もやし1.3斤=1元 豆腐1固まり=1元 合計19.6元

「再見」と私。彼女も談笑しながら言うのだ。この一瞬が何とも楽しく、ほっとして店をでる。

この夜は日語科4年生で家が貧しく奨学金をもらっている学生5人にカレーライスを食べる会をしようと誘ってあるという話だ。美味くて、こくのある彼女のカレーが食べられるぞと自転車のペダルを踏んだ。よし、学校の傍の露天でリンゴを買おう。

(05・3・2)

中国の鯛焼き

山崎えり子(東北育才外国語学校)

瀋陽に来て、もう2年半。でも「瀋陽再発見」というテーマを与えられて、はたと困惑した。瀋陽についてはよく知っている(つもりだ)。いろいろなところに行った。

じゃあ、いっぱい書けるじゃないか、と思われるが、いざ、パソコンに向かうと書けない。慣れてしまうと新鮮味がなくなって、感動しなくなるのかもしれない。 仕方がないので、「鯛焼き」の話題でも、って、瀋陽と関係ないけど。写真は医科大学第2病院(冬休み中に高層ビルが完成していた)の道路を挟んで向かい側にお店を出している「鯛焼き」の屋台。形は日本の鯛焼き。これ、型が日本製だかららしい。でも尻尾までアンコ(中国語で「紅豆」)が入っていない。粉の配合も違うので、皮のモチモチ感がちょっと足りない。とはいえ、3個1元は安い。そして、中国では熱々をほおばりながら、街を歩く、っていうのが堂々とできるのもいい。チョコ-レート(中国語で「巧克力」)のもあるよ。ん~、と思うのは「漢城魚餅」って屋台に書いてあること。鯛焼きだよ!鯛焼き。歌にもなった日本いしい食べ物だよ。

ばったもん

竹林和美(東北育才学校)

街に多く出回っているコピー商品のことを、私たちは“ばったもん”と呼んだりします。街を歩くと、衣料品、バック、CD、DVDなど様々な“ばったもん”に出会います。値段を見ればそれが本物なのか“ばったもん”なのかは明らかですが、品質については、本物と見間違うくらいよくできたものもあれば、一目で分かる粗悪なものもあります。

授業で「日本で映画のDVDはいくらですか。それからコピー商品はいくらですか。」と生徒に質問されたことがありました。「日本でそういうコピー商品を見たことは一度もありません。その辺の取り締まりは厳しくて、最近でも『ハウルの動く城』のコピーを路上で売っていた人が逮捕されましたよ。」と答えると、一同「おおおおお。」という驚きの声を上げました。国としてはWTOに加盟して著作権や商標権の保護をしっかりやっていこうとしていますが、生徒たちの驚きの声はやはり現状を象徴するものでしょう。おもしろいなと思いました。

いつか街からコピー商品が消える日がくるのでしょうか。国や街は日々進化し続けます。瀋陽の街も然り。“ばったもん”の行く末についてはこれからも注目していきたいところです。

あっさりステーキ

南本みどり(瀋陽薬科大学)

外食が続いたある日、夫が言いました。「あっさりしたものが食べたい。今夜はステーキにするか。」 あっさりしたステーキですと? その味覚にあきれながらも、「勅なればいともかしこし」と家楽福へ買い物に急ぐ私でした。

目指すは肉売場です。ステーキ肉はいずこ、人垣の隙間から牛肉を探すと、ありましたありました、ブロック肉がごろごろと。適当な大きさのを手に取ると「牛林」と表示してあります。今日のお目当てはヒレ肉です。それらしい名称の肉はないかと探しました。「牛柳」「牛眼」「黄瓜条」「腱」。ヒレが無ければロースでも良いのですが、どうこじつけて読んでもそれらしい響きの肉はありません。物はためしです。最初に手にした「牛林」を買ってみました。ステーキソースを作る材料は無いので、塩コショウをきつめに効かせて焼き上げたら、これが実にあっさりとして美味しいではありませんか。ただし、肉はすこぶる硬い。「サイコロに切った方がよさそうだ。」「林さんは堅ブツだから次は柳さんにしてみようか。」「腱はシチュー用に違いない。」「眼といってもあれは完璧に肉よね。」「牛のどこが黄瓜なんだろう。」中国製ブランディーを舐めながら「?」の飛び交う南本家の食卓でした。

以来、献立に詰まったときは迷わず「あっさりステーキ」に登場願い、不思議な名前の肉を順番に食べ、どれがステーキ肉にふさわしいか調査しています。でも同じ部位でも日によって激硬だったり並硬だったり、繊維が密だったり粗だったり、色が濃かったり薄かったりで順序を付けかねています。「牛肉における日中呼称の対照表」をお持ちの方は是非ご一報ください。お礼に「南本家特製あっさりステーキの夕べ」にご招待いたします。

最近の出来事

南本卓郎(瀋陽薬科大学)

 瀋陽へ来て半年過ぎたが、長春に在住したときから3年の月日が経ったせいでもあるが、面白い発見や体験、楽しいことやそうでないこと等いろいろな出来事を体験した。その一部を紹介したい。

1 今まで再入国ビザを取得して日本へ一時帰国していたが、今回から仕組みが変わり、公安局へ出向き写真を撮ったうえで「中華人民共和国外国人居留許可」をもらい、今までの居留証は返還した。

 実は新居留証の取得法が同じ遼寧省でも随分違う。大連の学院で日本語を教えている友人に聞いたところでは、公安局などには行かず、学校がすべて手続きをしてくれ、写真も不要だったそうである。学校が負担したのかもしれないが手数料等も請求されなかったそうだ。我々が授業を半日割いて写真を撮り、450元払ったのとは大違いである。

2 212路バスで終点の724正門まで行き、付近を探索した際見た光景であるが、引込み線を列車が走る際、道路との交差点では列車の方が一時停車し、安全を 確認して横切っていった。

3 日本へお土産として一つずつ小袋へ入れてある棗の菓子を買って帰ったが、その中に空気で膨らんではいるが中に棗が入っていないものがいくつかあった。

4 長春で教えた中国人で、今日本にいる留学生がよく電話を掛けてくる。授業中や買い物等不在のときが多いので宿舎の電話に繋がらないことが多いと不平を言う。そこで携帯電話に電話するように言ったら、「外国から携帯電話に掛けると、電話を受けた方からも電話料金が差し引かれるので、家庭電話に電話する」と言った。 街角等で安いIPカードを買うと、記載してある料金ほどの通話時間は入っていないで、ほんの少ししか通話できないカードもたまにあるとも聞いた。

5 妻が中国へ帰る前日(2月16日)の夜、足を骨折して新山口から博多.福岡空港.瀋陽桃仙空港と、すべて車椅子で移動した。福岡空港で瀋陽桃仙空港でも車椅子を準備して欲しいと言ったら、早速連絡をとってくれた。医者の診断書等があればよいが、なければ車椅子の使用料金がかかると言うことであった。それは仕方がないとしても、昨晩の怪我であり夜遅く救急センターに飛び込み、「骨折し、しかも 骨がずれているので即入院、翌日手術」というのを振り切って病院を出たので、診断書をもらうどころではなかったと話すと、取り次いでおくとの事であった。結果は、車椅子を準備しておいてくれ、迎えの自動車が来るまでの30分余り従業員が付き添っていてくれ、しかも代金は請求されなかった。瀋陽もだんだん国際都市になってきたと感激した次第である。翌朝一番に外事処が病院へ連れて行ってくれ、初めて中国の骨科に足を踏み入れた。診察したりレントゲンを撮ったりする都度代金を支払う仕組みになっいる。診察室にはギャラリーが大勢入り込み、プライバシーのかけらも無い賑やかさだった。

6 昨年11月、瀋陽在住の学生の紹介で暖房器具を購入した。母親が贔屓にしているという中街の有名な電気量販店を利用した。最近ファンを回すと異常音が混じるので、学生に修理依頼の電話を掛けてもらったところ、「うちでは暖房器具の修理は出来ない。」と言って他のチエーン店の電話番号を言った。そこへ掛けるとまた 他の電話番号を言って次から次へと7回ぐらいたらい回しにされ、埒が明かない。 仕方がないので使用説明書にあるメーカーの電話番号へ掛けたら、けんもほろろに あしらわれ、実費を出せば修理してやってもよいとひどい対応だったそうで学生が 憤慨していた。購入したときに貰った名刺には1年間保証すると書いてあるのだが・・・・?。


私の「浴池」体験

宇野浩司(瀋陽市外国語学校)

皆さんはこちらの銭湯、「浴池」に行ったことがありますでしょうか。私は昨年の10月半ばからそこに通っております。何故かといえば、宿舎のボイラーが壊れてシャワーからお湯が出なくなっているからです。来学期がはじまる3月まで出そうもありません(それ以降も出ないかもしれませんが)。今回、私がその「浴池」で見た事や感じた事をごく簡単に皆さんに伝えたいと思います。

私が通っている「浴池」は学校から徒歩10分ぐらいのところにあります。料金は「入浴」だけでしたら4元です。それに、「垢すり」やいろいろなサービスを受ける時は別途料金が加算されます。私は専ら「入浴だけ」です。おもしろいのが「夜間休息」というのがあります。これは10元です。泊まる事ができるようですが私はまだやった事がありません。

まず、受付で料金を払います。そうするとロッカーの鍵が渡されます。そこには番号札がついています。その鍵を持って靴を預けに行きます。そこで、その番号札と同じところに靴がしまわれます。そこで、ゴム草履に履き替えて、ロッカールームに入ります。

ロッカールームに入ると(ここからは男と女に分かれています)服務員に鍵と券を渡します。そうすると番号のところまで行ってロッカーを開けてくれます。そうしたら脱衣をして、いよいよ「浴池」へ入ります。

「浴池」の中には、シャワーと浴槽とサウナがあります。シャワーは立ったままで浴びる固定式です。浴槽は日本の銭湯の半分ぐらいのものがあります。サウナですがこれは普通のサウナと同じです。私はいつも、シャワーとサウナしか使っていません。こちらでは、男用だけでしょうが、煙草を吸いながら中にはいってくる人がかなりいます。私は煙草を吸わないのでよく分からないのですが、浴室のような湿気が多いところで煙草を上手く吸うことができるのでしょうか。それに、浴槽につかりながら煙草を上手く吸う事ができるのでしょうか。そのような事ですので、床には煙草の吸殻がよく落ちています。浴槽で煙草を吸う人もその灰をそのままお湯の中に落としています。「だから、必ずゴム草履が必要なのか」と納得します。浴槽にも入る気にはなりません。煙草の灰以外にも、垢やごみが浮いています。それにお湯もそんなに熱くないので、衛生状態も気になります。でも、こちらの人はあまり気にせずに入っています。入らない人もいますが。私はまずシャワーで体や頭を全部洗って、サウナ室に入ります。程よく温まって、汗をかいたら、再びシャワーを浴びて、またサウナ室に行きます。ここでじゅうぶん体を温めて更にシャワーを浴びて、ロッカールームに行きます。そこはあまり暖かくないので、素早く体を拭いて服を着ます。最後に受付に鍵を返したら、靴も戻ってきて帰ることができます。

外国人が利用する事はまずないらしく、最初私の事を韓国人だと服務員達は思っていました。私が日本人で外国語学校の外教だと分かると(私自ら言いました)、いろいろと質問してくるようになりました。もっとも誰も日本語なんかわかる人間はいませんので、なかなか会話を成立させる事は難しいのですが、なんとかコミュニケーションをとっています。このような事でも国際交流に貢献しているのでしょうか。国際貢献とはそんなに大げさな事をしなくてもいいかもしれません。服務員達が知りたがったので、彼らにも挨拶程度の日本語を教えています。かなり気楽にしています。

基本的には「浴池」は24時間開いていて、大体夜の9時半頃行くと、ちょうど掃除をしています。しかし、ちゃんとお客が入る事もできます。つまり、「掃除をしながらの営業」になっています。ちょっと日本では考えられませんが。ここは中国ですから良いのでしょうか。

私の「浴池」に行った後の楽しみが、行き付けの小汚い料理屋に行って、餃子とビールを注文する事です。そこでも、やはり「気楽な国際貢献」がなされています。いつまで「浴池」通いが続くかは分かりませんが、これがあるのでなんとができるのです。

もうこのままずっといっても良いかもしれないとも考えています

中国の汽車

金丸恵美(本渓市衛生学校)

今回は汽車について書こうと思う。わたしが住む本渓市から瀋陽市に行くには、バスと汽車の2つの交通手段がある。バスは片道15元で、所要時間45分。汽車は片道8元で快速なら1時間半で着く。わたしはもちろん、安くて安全な汽車で瀋陽まで行っている。しかし、学生に「何で瀋陽へ行きましたか。」と聞かれると困ってしまう。なぜなら、学生が習得した語彙の中では「電車」になるからだ。そして新出単語として「汽車」を導入すると、また学生は混乱する。なぜなら、学生の母語である中国語では「汽車」の漢字は「自動車」を指すからだ。はぁ。

また中国の汽車は日本の電車とは違い、駆け込み乗車ができない。これは大変困る。本渓市の駅では発車15分前になると切符を売ってくれない。3分前からホームに入れてくれない。わたしは一度1分前に「母が瀋陽の病院にいるんだ。大変なんだ。」とめちゃくちゃなことを言って乗ったことがある。しかし、それ以降駅員に顔を覚えられ、同じ手口でぎりぎりの時間に乗ろうとしても、「又来了。」と言われ乗せてくれない。はぁ。

大好き 汽車と車掌さん

さらに中国の汽車は乗り降りが大変だ。なぜなら、割り込み乗車が多いからだ。最初前のほうに並んでいても、汽車が来るとみんな一斉に乗車口へ我先にと乗るので、結局並んでいる意味がなくなってしまう。降りる時はもっと大変だ。忘れ物がないよう座席を入念にチェックしていると、降り遅れてしまう。乗車する人の波に押されて降りられなくなってしまうからだ。はぁ。

以上ため息をつきながら中国の汽車に対する不満ばかり書き並べてしまったが、もちろんいい面もたくさんある。

例えば、車内販売なんてとてもおもしろい。飲み物や食べ物だけではなく、子どものおもちゃから靴下まで売る。その売り方も大変ユニークだ。実演をして見せてくれるのだが、思わず手をたたいて見入ってしまうほど迫力がある。兼業はサーカス団のピエロかと思ってしまうくらいだ。わたしのように一人寂しく乗っている者にはかなり暇つぶしになる。

また寝台車もかなり設備が整っていてよく利用している。特に瀋陽から出発している寝台車は、東京―大阪間を走っている寝台車よりきれいだ。中国の汽車は一般的に上中下の3段ベッドだが、瀋陽からの汽車はなんと2段ベッドなのだ。更に朝食のサービスまで付いている。わたしのお気に入りの汽車だ。

日本にいる時、電車は一つの交通手段に過ぎなかった。そのため電車に乗っている時は本を読んでいたり寝ていたりして、隣に誰が座っていたかなど記憶していないことが多い。しかし中国の汽車に乗っている時は、単なる移動する時間ではなくてひとつの「旅」になる。日本では乗り物に速さばかりを求めて、乗り物が本来もっていた何かを失ってしまったように思う。わたしはその何かを探し求めるためにまた中国の汽車に乗る。

「ヨガ」と「バレエ」に魅かれる理由

斉藤明子(遼寧省実験中学)

昨年の11月頃から、私は習い事を始めました。それは、「ヨガ」と「バレエ」です。「ヨガ」と「バレエ」は、「太極拳」のように「中国」と結びつくようなものではなく、「どうして中国で『ヨガ』なの?」とか「なんで中国で『バレエ』なの?」と日本人のお友達にはよく聞かれます。私も初めは習い事を始めるなら、「太極拳」や「中国茶」のような何か中国と結びついているものを習ってみたいと思っていましたし、中国で『ヨガ』や『バレエ』を習いたいなぁと思っていたわけでもありませんでした。けれども、今では「ヨガ」と「バレエ」はすっかりわたしの中国生活になくてはならないものになりました。

運動不足で横に成長するばかりだったので、そろそろ体を動かさないといけないなと思っていた時に、中国人のお友達がいっしょに「バレエ」を習いに行かない?と誘ってくれて、一緒にその教室をのぞいたのが「バレエ」教室に通うようになったきっかけです。私が通っている「ヨガ」や「バレエ」の教室は、20代から50代ぐらいの女性の方がいらっしゃいます。「ヨガ」も「バレエ」も共通して言えるのが、受講生のみんながみんな体が柔らかいわけではないということです。私もそのうちの一人。レッスンでは、先生に硬い体を後ろから押されたりしては、「いたたたたっ!」と情けない声を出しながらも、なんとかレッスンについていこうと頑張っています。

「ヨガ」や「バレエ」を始めたからといって、私の場合は体が柔らかくなったわけでもありませんし、決してスタイルがよくなったわけでもありませんが、「ヨガ」や「バレエ」のレッスンの時間は、私に「楽しむこと」を教えてくれる大切な時間となり、一週間のうちの私の好きな「時間」になりました。私は「ヨガ」や「バレエ」が好きです。でも、それ以上に、それらを習っている「空間」がたまらなく好きなのです。

それは、いっしょに習っている受講生のみなさんがそのレッスンの時間を思いっきり楽しんでいらして、とても生き生きしていらっしゃるからです。頑張っていらっしゃる方々のお隣で、自分も体を動かしていると、まるでそばで励ましてもらっているような気がして、自分ももっと頑張ろうと思えてくるのです。そしてなにより、その受講生のみなさんは、とても明るくて、お元気で、キラキラしていて、いつもステキな笑顔でいっぱいなのです。生き生きとした姿を見ていると、なんだか「生きてくちから」を分けてもらえているような気になります。パワーがあふれている空間にいることで、「ヨガ」や「バレエ」そのものを頑張ろうと思う気持ちだけでなく、「今日も1日頑張ろう!」「明日も頑張ろう!」「何事も楽しんで行こう!」という気持ちになり、レッスン後には、体を動かしたことでの爽快感とリフレッシュできたという精神的な落ち着きが生まれてきます。

初めはダイエットのつもりだった「ヨガ」と「バレエ」ですが、今ではダイエット以外のもうひとつの目的でも習っている気がします。「ヨガ」や「バレエ」を習いながら、受講生のみなさんと同じように、生き生きとした瀋陽ライフが送れればと思っています。「ヨガ」や「バレエ」にご興味のないかたも騙されたと思ってちょっと教室をのぞかれてみたり体験されてみてはいかがでしょうか?しっとりとした世界と元気あふれるステキな世界がきっと見られることでしょう。

桜か桃か

山形貞子(瀋陽薬科大学)

瀋陽の春はきれいだ。

去年の手帳をぱらぱらとめくっていると4月7日、8日のところに続けて“桜満開”とあり、12日には“桜、レンギョウ”と記されている。

さて手帳の記録だが、私たちが桜だと思いこんでいたのは実は桃だった。ここは中国なのだから当然桃と思って然るべきだったのだけれど見事に咲いた桜色の花を見て、夫も私も桜だと思いこんでしまった。まず日本の桃の花に較べて色がうすく本当に桃色ではなく桜色だった。大学の中のあちこちに大きな木があってみごとな花を咲かせているのを見てちょっと桜とは咲き方が違う、ぼってりと玉のようになって咲く日本のソメイヨシノに較べてちらちらしているなあとは思ったが、大学正門前の文化路の並木がまた見事で、日本の桜並木を思い出させた。それでも何か違和感を覚えてさらに木の幹を調べてみたがまるで桜の幹のように横縞が入っている。やっぱりさくらだと日本にいる親戚や友人に桜満開の報をメールで知らせまくった。

 薬科大学は正門脇に花園式学校というメタルプレートが貼ってあるだけあって、正門を入ると中国的なちょっとそりのある屋根をもったどっしりとした建物を正面に、左右に芝生に花壇、ベンチが配されていて小さな公園のような雰囲気を感じる。正面の建物のその向こうは400mトラックを持つグランドで、そこここの植え込みには大小様々な木々が植えられている。

木々の葉がおちて半年、春が来て木々の芽が吹き出すとこちらの気持ちも明るくなり、花が咲くと手袋につっこんでいた手を大きく振って歩き回りたくなる。

しかしある日、外事処の李先生にあれ桜ですよねと確かめたら、とんでもないことを聞かれたと言う感じで“いいえ、あれは桃です。”と力強く宣言されてしまった。

そうだ、劉備たちが義兄弟の約束をしたのは桃園だったのだし、不老長寿のあの平たい桃、ハントウが食べられる所なのだ。ここは桃の国なのだ。

薬科大学には基地クラスという優秀な学生を集めて促成栽培するがごときクラスがある。ある日、基地クラスの学生が3週間私たちの研究室で実験をさせてほしいとやってきた。さすが基地クラスの4年生、英語はぺらぺらで元気な小柄な女子学生である。たった3週間では特別のテーマは与えられないし、それでは私の実験を手伝って貰おうということになった。目的を話し、実験方法を説明すると私の話すめちゃくちゃの英語でもカンよく理解してくれる。やれうれしやといろいろ話した後、 彼女は指導通りに実験を始めた。

ところが、いつも研究室のみんながやって来た実験なのだが、その通りにいかない。なぜだろう?と考えて疑わしい操作を点検して再度挑戦。それでも前の結果と変わらない。みんなで共通に使っている試薬が多いので、使っている試薬全てをチェックすることにした。調製した学生にどうやってつくった?と一つずつたずねていく。

みんなノートを見て大丈夫、間違っていませんとこたえる。おかしいわねえ、何かが変なんだけれど。それなら何から何まで作り直しましょうと話していたら、とても優秀だけれどちょっとおっちょこちょいのDくんが“先生、ノートにはこう書いてあるけれど実は間違えた可能性があります”と言ってきた。それじゃあまずその試薬だけ調製し直しましょうということで、作り直したらめでたし、めでたし。基地クラスの優秀な彼女も初めての実験がやっとうまくいくようになってほっと一安心。

メンツを重んじてか、なかなか自分が間違えたと言ってこない事が多いので、私が“Dくん、間違えたのは困るけどよく思い切って言ってくれたわねえ、”と言ったら側で聞いていたLさん。“先生、Dくんは偉いです。ワシントンの桃です。”と言う。

“ええっ? 何それ?”

“正直に言うのはとても大事な事です。ワシントンは桃の木を折ってしまった時お父さんに正直に言いました。”

“桃じゃあないでしょ。桜でしょ?”

“ええっ?!桃ですよー、わたしは幼稚園のとき読んだ絵本にそう書いてありました。”

“だって日本では桜っていうことになっているのよ。”

“ワシントンに桜がありますか?”と疑っている。

“勿論。ワシントン市のポトマック河畔の桜は有名よ(でもあれは日米友好の証として明治の終わり頃に東京市長尾崎行雄が送ったんだっけ!これではワシントンが桜を折ったという証拠にはならないか)。”

こんな会話をLさんとして翌日、彼女は電子辞書をもって意気揚々とあらわれた。先生見て!と言って見せてくれたのは “Cherry :  桜桃 ”。

“cherryはさくらでもももでもいいんですよ。”

“ふーん、なるほど!そうなの?”

でも直ぐ後で気が付いた。あれ“さくらんぼ”とも読むんじゃなかったっけ?

 * * * * * * * *

広辞苑で調べてみると次のようであった。

さくらんぼう:桜ん坊、桜桃

桜桃:バラ科サクラ属の落葉高木。花はサクラに似るが白い。果実はさくらんぼうと称して食用。西アジア原産で冷地を好む。セイヨウミザクラ(西洋実桜)。桜桃の名は、本来、中国原産の別種シナミザクラの漢名。

ああ、やっぱり日本人である私は何でも桜と思いたがり、そして一方中国人は桃が大好きなのだ。

孫悟空になりたくないのに

山形 達也(瀋陽薬科大学)

「前の定例会で宿題を出してしていましたよね。来年の3月に発行することになる次の日本語クラブ19号のテーマを、今日までに考えてくるという宿題にしていました。でも、今度のテーマを『瀋陽に暮らして』ということにしましょう。前には宿題ということにしていましたけれど、ごめんなさい、編集委員でこの間集まったときに勝手に決めてしまいました。」

ここは、瀋陽日本人教師の会の12月の定例会。瀋陽市の中心より一寸北に寄ったところに日本語資料室というのが日本のNGOの基金でビルの3階に作られていて,教師の会はここを拠点に活動を続けている。いま、瀋陽で日本語を教えている日本人の教師が30人近く集まったところで話をしているのは、年3回発行というこの会のジャーナル・日本語クラブの編集長を務める中道恵津先生である。

「皆さん、瀋陽に来られて、いろいろのものを新鮮な気持ちで見て、様々な体験をされて、感じて来られたことが沢山あると思います。それをそれぞれが書いて、今度の日本語クラブにしましょう。どうでしょう。これでいいでしょうか。」

「主題を『瀋陽に暮らして』と決めたあと先週皆さんにメイルを出しましたら、山形先生からは、『同じ文化背景を持ち、日本人の大半が中流という同質の暮らしをしてきた私たちは、中国に来て同じようなことに驚き、同じことに感動するでしょう。同じことを書いて、似たようなものが並んでは面白くないのではないですか。』という反対意見が寄せられました。それでも、人それぞれ見る視点が違っていますから、独自のものが書けますわね。」

彼女の言葉はメリハリがあって歯切れがよい。説得力がある。もう一度はとても反対できない。だけど、私に言わせると、皆同じテーマで書きましょうというのは、いつも生徒を相手にしている日本語教師の発想なのだ。書く人の自由な発想にまかせるのではなく、すでに方向が決められた中での発想である。これは統一テーマの下で生徒に作文を競わせて、教師が採点するのに都合がよい。もちろん、私たちが書いたものを誰も採点するわけではないけれど、読む方は見比べるじゃないか。

発想が安易だよう。みんなと同じことを書きたくないよう。

いやだ、いやだ、孫悟空みたいに恵美先生の掌の上を飛んでいるなんて厭だよ。

ぼやいてみたけれど、その場で反対意見を再び述べなかった以上、恵美先生に従わなくてはならない。大体、これは日本語教師の発想だなんて言って反対したら、この会の先生たち全部を敵に廻してしまうじゃないか。仕方ない、おとなしく、瀋陽に暮らしてどうだったのかを考えよう。それでは、もう1年半になろうとする瀋陽の暮らしを思い返してみよう。

未だに道を歩いていて、すれ違う人がガーッとたんを吐くためにのどを鳴らす音を耳にする度に、悪寒が背筋をはい登る惨めな自分がいる。一方歩道の端にはござを広げて手袋を並べているおばさんがいる。その隣には、カード売りますという看板を地べたに置いて、男が鞄をお腹の前に掛けて、寒空の中に一日中突っ立っている。彼らを見て、中国人は文字通り地面を足で踏みしめて生きているたくましい民衆なのだと感心する自分がいる。

さて、どっちの立場に立って日本語クラブに書くという宿題を果たしたらよいだろう。どちらも、いつも自分の「瀋陽だより」というホームページで書いている。いっそのこと、全く独自路線を進もうかと考えていると、「先生、乾杯の音頭をとって」と向かいに座っている学生の王麗さんに催促されて、はっと我に返ったのだった。

今日は2004年が過ぎるのを回顧し、2005年が始まるのを祝って集まった研究室のパーティだった。大学の近くのレストランの一室を借りて私たちの研究室のメンバーが集まっている。例によって私たちは、学生の恋人も一緒に呼ぶのを習慣にしているので、全員で8人の研究室なのに今は11人がテーブルを囲んでいる。

挨拶のときに思いついたことがある。2004年の日本は一字でこの年を表すと「災」が選ばれたという。沢山の台風、地震、少女誘拐殺人と厭なニュースが続いた日本でこの字が選ばれたのは仕方ないにしても、一方で次の年に懸ける期待も大きいだろう。今、ここにいる学生たちに、去る年を漢字で象徴させると、何になるだろう?そして次の来る年には何を選ぶだろう?

このように挨拶をして、まず自分の分として2004年は『萌』を書いた。これは私の気持ちとしては文字通りゼロから始まった研究室で、この1年間で妻と二人で毎日土を耕し、肥料を入れて、播いた種に水を注いで大事に育てて、やっと芽生えが出たかなという思いを表している。次の年の2005年は『華』である。もちろん、大きく育って大輪の花を咲かせて欲しいという希望である。研究で大きな成果を挙げて、研究を遂行した本人も注目の的となり、研究室にも研究費が沢山来るような華であって欲しい。

斜め向かいに座っている胡くんは今修士2年の学生で、1年目の恋の記念日を迎えたばかりの初々しい恋人も一緒にパーティに参加している。胡くんは今年は『転行』と書いた。えっ?と聞くと、元来彼は別の天然物有機化学の研究室に進学を決めていたのを、1年半前に私たちがここに来たとき、私たちの研究室に「移ってきたからです」という説明である。その研究室は6階にあり私たちは5階なので、階を移ったとも読み取ることが出来る。

さらに考えてみると、胡くんの彼女は4階の研究室にいる。それで、「あっ、そうか。彼女が別の階にいるから、毎日階段を行ったり来たりの1年だったから『転行』なの?」ということになってしまった。それとも、「花から花へ、チョウチョウが飛び移るようになってみたいという希望かなあ?」「いえ、」と隣に彼女を置いて、胡くんはニコニコしながらいう。「先生、それはまだですよ。まだ1年しか経っていないのですからね。この字は今年のことでしょ?」

「来年は『進歩』にします」という。胡くんと彼女との関係は安定しているから、これはもちろん自分の研究を指している違いない。胡くんの研究は今の最先端の領域であり、しかもそれを特別な機器も持たない貧乏所帯の私たちが、創意と工夫で挑戦しようというものである。ホント、進歩して欲しい。こちらも神でも仏でも念じる思いである。

胡くんの彼女は『充実』が今年の字だという。うーん、なるほど。胡くんという素敵な恋人も見つけたし、最高に充実した年だったに違いない。1年前に秦くんから恋人が出来ましたと言って可愛い彼女を紹介されたときには、「胡くんは目が高いね」と私たちは口々に言ったけれど、「彼女の目が高い」とは、貞子と私の二人とも言わなかった。しかし胡くんを見ていると、私たちには見る目がなかったことを思い知らされる一年だった。

彼が研究室に来た頃は英語にまだ慣れていなかったし、英語の文献の読みかたも知らなかった。研究するということは世界中の関連した最新の情報を読んで自分の知識とした上で、新しい領域を切り開いていくものだということが分かってきてからは、彼は自ら文献を探して、端から読んでどんどん自分の学問の幅を広げているのである。胡くんは論文を読んで、よく考えて、私たちに議論を挑む。中国の千年を超える歴史のある科挙によって未だに毒されている暗記万能の学問の世界の中で、彼の考える能力はひときわ光っている。このごろでは面白い論文に行き当たると私たちに教えてくれて、議論に引きずり込みさえするようにもなったのだ。この胡くんを選んだ彼女は、実に目が高い。その彼女の来年の字は「更充実」だった。彼女も研究で挙げた成果の収穫をねらっているのだろう。

胡くんとおなじく修士2年に、中国の西の彼方の新疆から来た王麗さんがいる。彼女は幼い時から祖父母に育てられたので老人の扱いに慣れていて、私たちに対する心遣いが格段によい。私たちの中国語の先生は胡くんだけれど、日常的に愛の鞭をふるって指導をしてくれるのもこの王麗さんである。

その王麗さんの選んだ今年の字は『幸福』だった。なるほど、なるほど。よく分かる。彼女の恋人の馬くんは、彼女と大学の同級生で、気は優しくて力持ちを絵に描いたような逞しい大男で、隣の研究室にいる。二人は始終行ったり来たりしているから、王麗さんがいつも馬さんに甘えているのが分かる。自由奔放に振る舞う王麗さんを馬くんが優しく受け止めているという感じがする。彼に甘えることのできる麦都さんは毎日が幸福に違いない、と納得する。ところがその馬くんがなんと『圧力』と書いたので、皆はどっと囃し立てた。甘やかしている彼女が実は馬くんには重荷なんだろうか?

来年の字として馬さんは『昇』を選び、王麗さんは『幸福無辺(無限)』を書いた。甘え放しで重たい王麗さんを抱えて、馬くんは高みに登る苦労をしようというのだろうか。しかし、二人に字解きをして貰うと、王麗さんは今研究が気持ちよく進んでいて、毎日が楽しくて幸せなのだという。じっさい、王麗さんは私たちの研究室の中で実験が特に上手である。次々と手際よく実験を進めて、信頼できるデータを毎日出してくれる。次の年はこの研究をもっと、もっと進めたいと願っているとのことだった。

隣の研究室にいる馬くんは、今はいつも外からの圧力を感じて研究をしているけれど、早く自分の力で学問の高みに昇りたいという願望だった。恋の記念日4周年を過ぎたこの二人が、手を取り合って研究の高みに昇っていくことを少しでも応援しよう。

この秋に博士課程の学生として入ってきた新人の王Puくんは『好』という字を選んだ。王Puくんに聞くと、研究室で論文を読んで紹介することなど、ここに来るまで一度も経験したことがなかったという。私たちの所に来て初めて毎週土曜日の新着論文の勉強会に出て、3週間に1回は自分の番が回ってきて、英語で論文を紹介するという経験をして、とっても好かったといって喜んでいる。なるほど、私たちはここで好いことをしているんだ。王Puくんの来年の字は『更好』である。

やっと、今日の会に初めて連れてきた王Puくんの彼女は背の高い佳人で、選んだ今年の字が『高興(面白い)』で、来年が『好好学習』だった。『好好学習』は『天天向上・好好学習』となる対句で、毛主席の言葉である。中国の人たちはこれを机の前に張って小学生のときから猛勉強をしてきたという。

まだ、このほかにも鄭大勇くんの『長大了』と『中』、譚玄くんの『芽』と『出』、敢さんの『探索』と『収穫』、貞子の『健』と『楽』、それぞれに皆の思いの込められた字が選ばれている。

 

と書いていると、「それご覧なさい、ちゃんと『瀋陽に暮らして』というテーマで大丈夫書けるって言ったでしょ。」という中道恵津先生の声が聞こえて来る。「そりゃ、書き連ねるだけなら、いくらだって書けるけれど。でも、面白くもないし。」と返事をすると、恵津先生は「いえいえ、そんなことありませんわよ。先生にしかできない経験がとても面白く書けていますよ。」と優しくおっしゃる。でも、顔をくしゃくしゃにして一寸上にそらし気味の視線のときは、実は彼女の本心の言葉ではないのだ。


さあ、恵津先生に本当はなんて言われるだろうか。大いに気になる。やっぱり、作文を書いたあと先生の採点を待っている生徒の心境である。ぼやいた挙げ句に一人勝手に書くぞと飛びだしたけれど、結局のところ、彼女の掌の上を飛んでいただけの孫悟空に終わってしまったらしい。

瀋陽幼稚園事情

沢野美由紀(瀋陽薬科大学)

瀋陽で生活を始めて半年、いまだに何かと驚くことが多い毎日です。書きたいことは多々ありますが、今回は「日本語クラブ」にきっと今まで書かれたことがないであろう、幼稚園事情について書かせていただきます。

中国での生活を始めるに当たって、3歳になる娘の教育をどうするかというのは頭の痛い問題でした。1歳になる前から保育園に通っていたせいか物怖じせず、私の親など「本当に何でこんなに元気なんだろうねえ」と半ばあきれ気味に言うほど活発、保育園の先生にも「この子なら中国に行っても大丈夫!」と太鼓判を押していただいてはいたものの、日本人の子供が少ない瀋陽で現地の幼稚園に娘がなじめるのか、全く想像が付きませんでした。

瀋陽での幼稚園選びには2つの選択肢がありました。2つとも「インターナショナル幼稚園」ではありますが、一つはいわゆるインターナショナル幼稚園で英語が公用語、もう一つは「一応」インターナショナルで、アジア系外国人だけでなく中国の子供も通う、主に中国語を使う幼稚園でした。前者は保育時間が午前中だけでしたし、日本円にして年間100万円の授業料がかかるとのことで、後者を選ぶことになりました。

中国に来た翌日、「中国のお友達は嫌だもん、(日本の)保育園がいいもん!」と言い張る娘をなだめながら幼稚園に連れて行くと、建物もきれいで、中には至るところに絵や写真が貼ってあり楽しそうな雰囲気、日本の幼稚園と何ら変わりません。娘のクラスは6人全員が女の子、小さいテーブルをくっつけ合わせて、何か作業をしている様子でした。私たちは教室に招き入れられたものの、そこは中国、当然のことながら土足のままなのでした。上履きなどという習慣がないのは予想できますが、子供たちは私たちが話している側で床をごろごろ転がって遊び始めました。あの、とてもきれいとは言い難い道を歩いてきた靴で踏みしめた床を転がって遊ぶとは・・・。かわいいはずのぬいぐるみも心なしか汚れて見えてしまいました。

娘は中国語がわからないながらも、同じクラスに日本人のお友達がいたこともあって、少しずつ幼稚園に慣れていきました。が、あるときふと、「中国の幼稚園ねー、おしっこしても拭かないんだよー」と言うのです。なに!!あまりに驚いた私は、すぐに同じクラスの日本人のお子さんのお母さんに聞くことにしました。「そうそう、そうなのよ、先生には何度も言ってるんだけどね」とそのお母さん。「でもねー、友達が目撃したらしいけど、大人でもそんな人がいるんだって。沢野さんが教えてる学生もそうかもしれないよ。それに幼稚園のトイレって使う度に流してもくれないみたいよ。手も洗わせてくれないし」。えーっ!!そんなことがあるのでしょうか。でもまさか、自分が教えている女子学生に「トイレットペーパーは使わないの?」とか、「お手洗いで手は洗う?」などと聞くわけにもいきません。衛生観念に大きな隔たりがあるのはわかっているとはいえ、流さない、手も洗わないとなると、いくら何でも許容範囲外です。ともかく私は幼稚園の連絡帳に「絶対にそのようなことがないようにお願いします」とかなり強い調子で書いたのでした。

また、教室でポップコーンを作るというので危ないなぁと思いつつも、少人数だからちゃんと見ていてくれるんだろうと思っていると、案の定帰宅した娘の腕に火傷らしき跡。しかも、痛い痛いと言っているのに何の処置も施されていません。が、特に幼稚園からは何の連絡もなく、こちらが翌日強く言ってようやく謝罪を受けました。これには驚くというよりも、ここでは自分が子どもをしっかり守るしかないんだと痛感させられました。私は中国語ができませんので、こちらの意見などは翻訳ソフトを使って中国語で連絡帳に書いたり、夫の通訳の方から連絡してもらったりしているものの、直接やりあうよりは迫力に欠けますので、どこまで聞いてもらえるのやら・・・。「韓国のお母さんたちは幼稚園に対する注文がすごくて、それで○○老師が涙ぐんでたんだよ」とは他のお母さんの弁ですが、ここではそのくらい主張しなければだめだということなのでしょう。私にとっては先生を泣かせるまで意見するなど、かなり気が重い作業です。

給食にも驚かされました。幼稚園に行くと9時前なのにみんな給食を食べています。いったい何ご飯?と思ったのですが、子供たちの多くは幼稚園で朝ごはんを食べるのだとのこと。そして、11時過ぎに給食、3時まで昼寝をして、何と4時にまた給食。時々もらってくるメニューを見ても、どんな料理なのか想像がつきにくいのですが、肉まんやら雑穀粥、餃子、ザーサイとひき肉の炒め物などがよくあるメニューで、日本の給食のようにバラエティーに富んでいるわけではありません。これに毎日果物が2種類付くものの、あまり野菜は多く使われないようです。また、これもわかっていることではありましたが、給食は配られた子から三々五々食べ始め、「いただきます」や「おごちそうさまでした」などに類する言葉は言いません。あるアメリカ人の教育者が、日本の幼稚園生の一糸乱れぬ集団行動を見て、子どもらしくないというような意味のことを言ったと聞いたことがあります。しかし、お互いが準備し終わるのを待ち、一緒に挨拶をして食べ始めるのは、他人を思いやるという点ではいいのではないかなどと思いますが、どうでしょうか。確か娘が通っていた日本の保育園では、同じ2~3歳児クラスの子どもたち25人が昨秋の運動会で一緒に何か踊ったはず。保育士の先生方もその年齢の子どもたちに同じことをさせるため大変苦労なさっただろうと思いますが、子供の頃から身につける日本人の集団行動、教師としてのみなさまのご意見をお伺いしたいものです。

幼稚園での教育内容に関しては、毎月1600元(中国人は半額です)も払っているのが関係あるのかないのかわかりませんが、なかなか盛りだくさんで、しっかり勉強をさせているという印象を受けます。毎日、遊びや歌やお絵かき、図工などの他にMathematicsやScienceの時間、英語、文字(当然「漢字」です)の時間など盛りだくさんです。母語こそ大事で、英語など子どものうちから学ばなくてもいいという主義主張の私でしたが、少なくとも娘が日本語、英語、中国語など異なった言語と、その背景となる考え方や文化があることを認識できるようになったのはいいことだと評価しています。ハローウィンやクリスマスなどの行事も、ただのお祭りではなく、かなり時間を取ってその背景などを学んだ上でパーティが行われていました。但し、幼稚園には教室3つ分ぐらいの室内運動場を設けてあるにも関わらず、娘のクラスでは自由に走り回って遊ぶ時間があまりありません。活発な娘にとって、十分に遊べないのはやはり苦痛なようで、さほど幼稚園が楽しそうではないのは気がかりです。運動の時間を増やしてくださいと先生にお願いしてみたのですが、それはできないとの答え。子供のうちは勉強よりもしっかり遊んでほしいと思っていましたが、人口が多く、その分競争も激しいであろう中国という国で子供を幼稚園に通わせている限り、それは難しいことなのでしょうか。

今年の目標、それは拙い中国語だとしても、先生に意見できるぐらいになること。今日、改めて娘に聞いていますが、今日もトイレの後拭いたり手を洗ったりはしていないようです。全く、どう言えば意見が聞いてもらえるのやら。瀋陽での生活は教師としてだけでなく、母親としての試練の場にもなっていますが、娘のために幼稚園と「闘う」覚悟でがんばろうと思います。

「立ちん坊」さん

加藤正宏(瀋陽薬科大学)

「打掃衛生」「油工」「刮大白」「刷塗料」「做防水」「力工」などの小さな看板を胸に掛けたり、手に持ったり、自転車の後部にぶら下げたりして、大勢の人が大きな道路の十字路に立っているのをよく見かける。

日本で言う「立ちん坊」のようなものだろうか。職を求めているのだということは分るのだが、あんなにも沢山の求職者がいて、毎日職にありつくのだろうか、一日、いくらぐらいになるのだろうか。以前から抱いていた素朴な疑問を質してみることにした。

南塔街と文萃路が交差する十字路で、一人に声を掛けかけようとしたところ、アッと言う間に、私の周りには人垣ができ、何が必要なのかと、口々に声を掛けてくる。それぞれの仕事内容を口にする者もいる。取り囲まれてしまったことに、驚きながらも、仕事の依頼に来たのではないことを、はっきりと告げると、少し白けて、訝しげに私を見やる。これらの眼差しに、私は慌てながらも、日本人であること先ず伝え、日本では見られない光景なので、写真も撮りたいし、話も聞かせてもらいたい、構わないかと切り込んでいった。

日本人だと告げた時、即座に「スラスラディー」と言った女性が居た。抗日戦争に題材を取ったテレビで、よく使われていた言葉だ。日本軍人が中国人を処刑する時、抜刀する場面で使われていた。これではとてもでないが、まともな応答は期待できないのではないかと少し心配になったが、私が「バッキャヤロウ」「ミシミシ」と抗日戦争題材のテレビで使われている言葉で応じ、日本では「スラスラディー」も「ミシミシ」も使わない、「飯(めし)」は使うが、「ミシミシ」とは言わないなどと説明し、これらは中国のテレビが創った言葉だ、などと話していると、外国人と話せるのが珍しいのか、件の女性も含め話に乗ってきてくれた。

「一日70元、80元ぐらいになる」と件の女性が最初に応え、周囲が同調する。毎日仕事があるのかとの問いには、それぞれから「毎日有る」との返事が返ってくる。仕事によって、値段は違うそうだが、平均して毎日これぐらいはあるというのだ。一ヶ月まるまる働いて、2100元から2400元になるところだが、一ヶ月どれくらいになるのかとの問いには、1000元から2000元だという。矛盾した数字だ。数字に差があるのは、単価がもっと安いか、仕事の無い日が何日もあるからなのだろうが、突き詰めて追求するのはやめた。件の女性には、日本人に対して自分の仕事を卑下したくなくて、少し虚勢を張り体面を保とうとしている感じがあり、周囲の者がそれに同調しているようだったからだ。写真を撮ろうとすると嫌がる者が多かった中、虚勢を張っていることもあってか、件の女性とその仲間が撮影に応じてくれた。

2400元だと、私の一ヶ月分給与(私の場合、宿舎や電気や水道料金は無料だが)とかわらない。1000元から2000元だとしても、固定の職に就いていない者にとって、まずまずの収入ではないだろうか。私の宿舎で、廊下やロビーを毎日清掃している女性Sさんは一ヶ月の給与が350元だという。ある会社の事務職をリストラされて3年になるのだそうだ。彼女に中国の「立ちん坊」さんたちの収入を話してみると、そんなに有る筈がないと言う。そんなに有れば、わたしも十字路に立つと言う。

翌日、同じ場所に出かけて行き、話を昨日した男性を見つけ、仕事に有りつけたかどうかを聞いてみた。仕事は有ったと言う。但し、20元だったと、時間が短かったからだと弁明しながら言う。他の2、3人に聞いてみたが、有ったとは言うものの、具体的には喋ろうとしない。実際は無かったのかもしれない。

別の日、別の十字路で、小看板を持った中国の「立ちん坊」さんたちに、同じようなことを訊ねてみた。仕事が得られない日が何日もあり、仕事があるのは一ヶ月のうちその半分というところがせいぜいだと、そこの「立ちん坊」さんたちは言う。平均して一ヶ月、700元から1000元の稼ぎだとのこと。リストラされて仕方なくここに立っているんだと説明してくれた。私にはこの十字路の「立ちん坊」さんの方が本音を言っているように思える。写真を撮ろうとすると、「私たちのような者が多く街角に立っているのは国家の恥だから・・・」と言われ、撮影は拒否された。そして、富める者は更に富み、貧しい者は更に貧しくなり、両極分解が起こっていると嘆き、高官の収賄に怒り、現政府の政策に対する不満を口にするが、何もできぬ無力さからか、諦め口調の怒りや不満であった。

女性Sさん(既に紹介済みの宿舎の清掃担当者)も同じ怒りや不満を口にしていた。彼女には息子が居て、現在大学の2年生だそうだ。値上がりしてきた学費と大学の生活費(中国の大学は全寮制)を合算すると、10000元を優に超えてしまうのだそうだ。このような家庭ではもちろん息子のアルバイトも必要になってくるであろう。ここにもう一つの「立ちん坊」が生まれる。紙で作った小さな看板に「家教(家庭教師)」と書いて手に持つ、学生たちの「立ちん坊」である。教える科目そのものの「数学、物理、化学」、「英語」と書いた紙を持つ者も居る。

遼寧省工業展覧館の東南角道路脇に、土日なると、これらの「立ちん坊」が数十人集まり、「家教」の市ができる。彼ら「立ちん坊」の収入は少なくとも1時間15元だそうで、小学校か、中学校か、高等学校かで違うのだそうだ。高等学校の高学年になると、25元から30元が相場であるとのこと。一般に2時間が一齣だから、一日30元から60元の収入になるが、土日だけの場合では、最高でも一ヶ月500元ぐらいにしかならない。それでも、「家教」にありつくのはままならないのではないかと思われる。見ている限り、依頼者との交渉もなかなか厳しいものがあり、値が折り合わず、依頼者を逃すことも多いようだ。

しばらく眺めていたが、この「家教」市を訪れる依頼者は学生の人数に比べて少なく、「立ちん坊」をしただけで、一日が暮れてしまったということになりかねない感じだ。長春で出会った農村出身の学生のように、土曜日を除き毎日家庭教師をやり、更に、5月の黄金週間(メーデーを中心とした1週間の休暇)には、入試(6月に統一考試)直前の追い込みの高校生を相手に、稼ぎ時だとばかり、家庭教師を掛け持つことができた学生などは、まだまだ例外なのかも知れない。

三好街や五愛市場の周囲にはリヤカーや小型の運送車が群れを成し、そのリヤカーなどの傍らに立つ、「立ちん坊」さんの姿が見られる。購入した大きな品物の搬送に待機しているのだろうが、依頼の交渉を受けている姿を見たのは今までで一度だけである。これだけ待機している者が多ければ、一日を棒に振ってしまう者が大半なのではないかと思うのだが・・・。

高速道路の料金所を通過し、瀋陽の市街に入ろうとする車の、その走る道路のど真ん中で、数人の者が手に「進路」と書いた小さな看板を持ち立っている。これも「立ちん坊」さんと言えようか。外部から来た不案内なドライバーに、瀋陽市内の道案内を買って出ている「立ちん坊」さん達だ。いくらぐらいで請負っているのだろうか。

瀋陽北駅や瀋陽駅に降り立つと、宿舎の勧誘をしている大勢の「立ちん坊」さんに声をかけられる。日本の温泉町の駅前でも同様な場面に出会うが、中国では大きな病院の近くでも、小さな看板を手にした「立ちん坊」さん達があちこちに立っていて、宿舎の勧誘をしている。入院患者の見舞いや付き添いに利用される宿舎だというのだが、・・・。瀋陽薬科大学の隣には陸軍病院という大きな病院があり、大学正門近くのアパート群の前にはいつも「立ちん坊」さん達が立っている。山形達也先生に入った情報によれば、学生達の中にもこれらの宿舎を利用している者がいるとのこと(これについては、山形先生のホームページで、いつかご紹介があるのでは・・・と思っている)。

街中で同じところに何時間もずっと立っている人を、見かけることも多い。小さな看板は持っていないが、この人たちも何らかの「立ちん坊」さんなのかも知れない。それにしても、冬の瀋陽の街を歩いていて、この寒さの中立ち尽くす「立ちん坊」さんたちの姿を見ると、その忍耐力に頭が下がるような気持ちなると同時に、中国社会の歪さを感じてしまう。他人事ながら、「立ちん坊」さんたちが今日一日を無為な一日にすることなく、一人でも多く仕事に就ければとの思いが頭を過ぎっていく。

バレエ・ヨガデビュー

市原純子(東北育才学校)

私は瀋陽に来て始めての挑戦をしています。それはバレエ&ヨガです。

バレエはずっと以前からやってみたいなぁと思ってはいたのですが、日本にいる時には今更・・いう不安や恥ずかしさがありなかなか実現できないでいました。

瀋陽に来て数ヶ月経ったある日、学校の近くで偶然バレエを躍っている女性の看板を見かけ思い切って中に入ってみるとやはりそこはバレエ教室でした。しかも話を聞いてみるとそこではヨガも教えているとのこと。ヨガにも興味のあった私はとっても嬉しくなって早速その日に晩のヨガクラスを見学させてもらいました。そこでは若い女性からおばちゃままで頑張ってやっていました。

別の日、バレエクラスに行ってみるとそこでもやはり若い女性からおばちゃまがレオタード姿で踊っていました。しかも侮れないのがおばちゃま達!縦に足を広げてぺタっと床に付くほど柔らかく、棒に掴まって踊る姿も結構さまになっているのです。

バリバリ初心者の私はおばちゃま達にご指導を賜りながら夢だったバレエをここ瀋陽でやっています。瀋陽の人たちの何でも来い!の広い暖かい心のお蔭で、日本で感じていた不安や恥ずかしさは吹っ飛んでしまいました。

みなさんも是非バレエ・ヨガデビューをここ瀋陽でしてみませんか?

瀋陽新発見

鳴海佳恵(遼寧教育学院基礎教育研中心)

まだ半年しか瀋陽にいないので、再発見というより、今回私にとっての新発見=中国の春節について書きたい。

春節といえば、学校が休み、僻地派遣の協力隊員にとっては、夏休みと冬休みしか旅行のチャンスがなかったので、必然的に春節の思い出は任地ではなく、外地、それも任地よりもっと僻地だったりした。

雲南・麗江で迎えた春節は、ひたすら寒かった。友人のそのまた友人の弟という中国人が経営する宿に泊めてもらっていたが、夕刻を過ぎると、電灯ひとつない路地は真っ暗で、隣を歩いている友達の姿も見えない。無事に帰り着くのかと不安になるようなところにホテルはあった。オープンしたてで、シャワーは冷水、暖房設備もなく、夏の暑さ対策のためか、隙間だけはやたらとあった。しかも、それだけでは足りないのか、ドアというドアが全て開け放ってあった。寒かった。マージャンパイをかき混ぜながら、ひたすら寒さに耐え、12時に宿の屋上からロケット花火を飛ばした。田畑に点在するであろう(暗くて見えない)家々から、ひょろりひょろりとあがるロケット花火が目に焼きついている。

貴州の村で迎えた春節も、同じく非常に寒かった。村で一つしかない、外国人が泊まれる宿は服務員が休みをとっていて、ボイラーが動かない。シーツも洗えない。「仕方ないから諦めてくれな。」と、オーナーはにっこり笑っていった。村にはキラビヤカな春聯はなく、道ばたに机を出して、おじいさんが赤い紙に墨汁で黙々と字を書いていた。夜、オーナー家族と花火を上げたが、日本の夏にコンビニで売っているような、こじんまりとした花火だった。

確かに爆竹はうるさいのだが、全体として「寒くて、静かで、暗い。」どうも、この春節イメージが私の脳裏には刻み込まれていたらしい。そのせいか、今年瀋陽で迎えた春節は、かなり衝撃的だった。

まず、朝っぱらから爆竹爆竹、また爆竹。「夕飯前にはどこの家も爆竹を鳴らすんだよ。窓から吊るして火をつける人も多いから、道を歩くときは上に注意して歩きなさい。」火をつける人が下に注意するべきでは?と思いながら、同僚の家族と爆竹に火をつけ、ご飯を食べ、酒を飲み、餃子を作っていたら、外がいきなり明るくなった。団地の裏も表も(そして見えないけれども上も)大型花火が上がっている。四方八方納涼大会状態である。何事かと思ったら0時5分前だった。あんなに大量の花火を短時間で見たのは生まれて初めてだった。部屋から出て眺める必要もない。というより、危なくて外には出られない。ヌアンチーのついた暖かい部屋の中から、他人があげる花火を心ゆくまで眺め、茹で上がったばかりの水餃子をほおばり、中からコインを取り出してニンマリする。そうか、これが学生たちが言ってた「先生春節は家族と楽しく過ごさないと」だったのだ。中国5年目の再発見であった。


願い事を書いた赤いハチマキを古木にくくりつけると、願いがかなうそうで、同僚が「私は共産党員ですから、迷信は信じませんが、鳴海先生は外国人ですから、書いてはどうですか?」と、ハチマキ(10元也)を買ってくれました。黒マジックを握った私に、ギャラリーが口々に「快要結婚!(←自称共産党員の同僚。これが言いたかったらしい。)」「工作順利!」「家庭円満!」「身体健康!」「父母長寿!」「恭喜発財!」・・・と、出るわ出るわ。「ゴンシーのシーって、どんな字だっけ?」と聞いたら、自らの腕に太マジックで大書きしてでも教えてくれる、その熱意。誰の願い事なんだか・・・と、思いつつ、皆様の愛に包まれて幸せな一日でした。


瀋陽の雪

丸山羽衣(瀋陽大学)

2月22日、瀋陽へ戻ってきた。寮に着いたときにはすでに周りが暗くなっていたため、外の景色をじっくり眺めるなんてことはできなかった。翌日外へ出てふと気がついた。瀋陽の雪は形がおかしい。雪が積もって凍って、日光に照らされ溶け始める。別におかしなことではないし、当たり前のこと。しかし、その溶け方は少しおかしい。

雪国育ちの私は、嫌というほど雪を目にしてきた。早く雪が溶けるのを待ち焦がれた。雪が溶け始めると、固まっていた雪は不思議な形になる。でも、それが変な形だなんて思ったことは一度もない。が、瀋陽は違う。溶け始めた雪はほとんどが斜め上に尖っている。「なんで?なんでみんな上に突き出してんの?」と、疑問が湧く。

初めは橋の脇の雪を見たため、そこだけかと思っていた。だが、よくよく見ると学校やそのほか至る場所で雪が斜め上に尖っているではないか。

もしかしたら日本でも見られるものなのかもしれない。アメリカでもそうかもしれない。いや、でもアメリカに行ったときそんな雪の溶け方はしていなかった。中国はこうなの?瀋陽だけ?それともやっぱり日本でも?もしや、強い風の影響?自分が知らないだけでどこの国も実はこういった雪の現象が見られるのでは?

疑問が疑問を呼び、更に誰にこんなことを聞いていいのかも分からず、日に日に疑問は募る一方である。お願いです、誰か教えて下さい。