2005年度教師会日記

瀋陽日本人教師の会日記 2005年度

2006年9月15日 (金)  山形 達也

先刻、南本先生から伺った話だと、私たちの引っ越し先に予定されている和平区政府の孵化器ビルで水漏れがあり、その修理と改修があるので私たちの引っ越しは当初予定していた19日(来週火曜日)ではなく、10月初旬の国慶節の連休明けにして欲しいと、ビルの責任者の朱部長から連絡があったそうだ。

契約書はどうなっているのでしょう? こちらは所定の書類をとっくの昔に渡したのに。

最初の話の時には、契約書は直ぐに交換できてもう次に日には引っ越しできますよと言われて、皆ほっとして笑ったのに。

何か持って行かなくてはならないのだろうか?

ともかく、10月末までは今のところにいられることになっているので、10月の引っ越しでもいいけれど、物事を計画的に進めるのが大変なところであることを、再認識したところである。

 

9月13日 (水)  山形 達也 

和平区政府からまだ契約書が来ない。鳴海先生が何度も孵化器ビルの朱部長に電話しているけれど、まだ、なのだそうだ。

一方、資料室担当の峰村先生は業者と連絡を取って引っ越しは19日の火曜日と決めた。今度は前回とは違って、荷物の搬出から運び込みまで全て業者に任せル方針である。

ところが、契約書が交わせていないので、引っ越しの日取りも怪しくなってきた。ことによるともっと先になるかも知れない。

ところで今の開元ビルの資料室には、沈陽三洋空調公司の蔵本総経理(当時)のご好意で2台の空調が寄贈さている。西向きの部屋なので、空調の寄贈はとてもありがたいことだった。

日本人会幹事会で、引っ越すけれど教師の会では空調が買えないしという話をしたら、直ぐに蔵本さんがモニタ−になってくださいな、とおっしゃって、つまり実質的には寄贈して下さったのだ。

今度の引っ越し先の西塔近くの和平区政府所有の孵化器ビルを下見したら、空調が入っている。それで、この寄贈された空調機は不要となってしまった。沈陽三洋空調公司の蔵本総経理のご好意が、無になるわけでとても残念である。

この空調は元来、沈陽三洋空調公司のものなので、これをどうしたらよいかを蔵本さんに代わった新しい野崎総経理に伺っているところである。

 

2006年9月8日 (金)  山形 達也 

日本語資料室の移転の契約のために、和平区政府へ日本人教師の会と日本語資料室の説明が必要で、それを日本語で作成してから中文への翻訳を、伊藤忠瀋陽営業所高木所長の部下の馮さんやってくださった。

8日金曜日朝、和平区の孵化器ビルに、南本、鳴海両先生と馮さんが出掛けて先方の責任者である朱部長に出会って渡した。

これを上に上げてそして契約書の交換という手続きになるらしい。南本先生は、この夏まで瀋陽におられた小林豊朗先生入魂の教師の会の印鑑を大事に握りしめて出掛けたのだったが。

教師の会が使う週末はこのビルは本質的には休みなので、出入りが問題なくできるよう警備会社に見せるために教師の会の写真入り身分証が必要となるらしい。訪ねてくる学生や一般の利用者をどうするかという問題も協議しなくてはならない。

なお、一部屋に着き1500元、二部屋で3000元のdeposit保証金が必要という話を今日聞いて、特に財産のない教師の会は動揺した。教師の会も財産を持たなくてはいけないのだ。

 

2006年9月7日 (木)  山形 達也 

稲田登志子先生から連絡があった。

山形先生

瀋陽ではお世話になりました。大変ご無沙汰しております。

HPの係りの記録の発足についての部分を読ませて頂きました。

山形先生を始め諸先生方が教師会のためにご尽力を尽くされていらっしゃるようで、とても感動致しました。

この度の資料室の度重なる移転につきましては、本当にご苦労なさって

いることと存じます。

山形先生と教師会でご一緒した会員の中では、渡辺文江先生の次に私が古くからの瀋陽を知る者だと思います。ご協力しなければと思いつつ、ご返事が遅くなってしまい申し訳ありまん。

HPの藤原先生のお手紙に「1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があった」と書いてありましたが、確かにその頃が日本人教師会の正式な発足です。

報告書によると、96年11月3日の教師会で97年1月11日の遼寧大学での弁論大会開催が決定されたと書いてありました。それで、第一回の教師会はそれ以前に実施されていたと思います。実家にある手帳を見れば、教師会の日にちはわかるとは思いますが、家の者に手帳の確認を頼めないので、はっきりした日にちの確認は今回の申請には待ちあわないかと思います。HPへの記載のために次に帰省したときに見てみようと思います。

私は96年5月に赴任し、中国医科大で鮫島先生とご一緒しました。

鮫島先生に教師会のことをお伺いしたところ、瀋陽市内を中心に数人の日本人教師が不定期に食事会をして、仕事や生活面での情報交換をしているが、市内の日本人教師全員に呼びかけて組織化しているわけではなく、勉強会や行事の開催は行っていないとのことでした。

市内で活動していた4名の協力隊員からは教師会があるという話は聞きませんでした。また私は当時、協力隊員として、赴任当初に領事館にご挨拶に伺いましたが、当時の広報文化担当の畔津領事からは日本人教師会の紹介はありませんでした。

本格的に教師会の活動が組織されたのは、96年の新学期が始まってからでした。神奈川県派遣の遼寧大学の潮田先生や工業大学の降旗先生や医科大の鮫島先生や私を含む市内の5名の協力隊員などが市内の日本人教師に広く声を掛け、教師会を組織化することになり、遼寧大学で集まることになりました。

その時の教師会で「瀋陽日本人教師の会」という名前をつけ、名簿も作り、畔津領事に顧問をお願いすることを検討し、その後、引き受けて頂きました。

教師会の機関紙発行はありませんでした。

『瀋陽日本語クラブ』は私がいた当時は瀋陽大学の山下先生が大学内の教え子の文集として、自費で製作していて、それに時々、教師が投稿するという形で載せてもらっていました。これは私の推測ですが、山下先生の後任までで瀋陽大学に協力隊員の派遣が打ち切りになったので、その名前を教師会の雑誌に引き継いだものだろうと思います。

教師会発足の直後に日本人会会長で住三塑料の松本さんという方が日本人会として、瀋陽に貢献したいという申し出があり、私達、教師も弁論大会を開きたいが、資金がないので、協力して欲しいという気持ちがあり、意気投合し、協力して弁論大会を行うことになりました。当時は交流基金の弁論大会助成の申請は行っておらず、

費用はすべて会長が日本企業を回り、寄付を募って、行っていました。

瀋陽日本人会や教師会は中国政府に公認されていない任意団体のため、

日本人だけで、行事を開催されることはできず、中国の団体を主催にしなければならないとのことで、日本へ留学した中国人の中日同学会という団体を主催にしました。

その事務局が遼寧大学にあり、会計などの事務処理は中国側に任せることに

なり、遼寧大学で弁論大会を行うことになり、教師会も1度、医科大で行った以外は主に遼寧大学で行っていました。

これをきっかけに日本人教師会が活発に始めました。

ですから、資料室ができる前の私が赴任した2年間も、教師会では瀋陽大学で弁論大会の開催をしたり、会員のうち、数人が遼寧大学の「日本語の夕べ」したり、歓迎会、送別会をするなどして活発に活動していました。

全体では、主に瀋陽大学で月に1度は集まっていましたし、弁論大会開催直前は弁論大会担当の数人の会員を中心に頻繁に集まっていました。

当時、資料室はなかった代わりに領事館の一室に日本人が寄付した本を保管している図書室があり、教師達や日本人が利用していました。教師達が領事館を訪れたときに文化担当領事とお会いしてお話することもありました。

教師会の組織としての発足についてはこのような経緯です。

 

2006年9月5日 (火)  山形 達也 

最上先生宛の降旗郁司先生のmailが転送されてきた。1995-198年の頃の教師会の様子である。

最上久美子様

こんにちは!

東京の小林美恵子先生からメールを頂きましたので、ご返事いたします。

私が沈陽工業大学にいましたのは、1995年8月から翌年1996年7月までと

1997年8月から1998年7月まで、です。そのとき、すでに沈陽日本語教師の会が組織されており、ときどき会合がもたれました。最初は中国医科大学の

鮫島千春先生<九州・鹿児島県>が中心になって会をまとめてくださったと記憶しています。その後は遼寧大学の潮田(?)先生<神奈川県>がやってくださったと思います。

私の2回目の赴任の折は、遼寧大学の広田真二先生(神奈川県)と吉川正国先生(大阪府)が会の責任者として努力してくださいました。海外青年協力隊派遣の若い日本語の先生も数名おられて、皆一生懸命頑張っていました。その時、山形先生のメールの中に名前のある鉄嶺市の中華国際学校の藤原英弥先生(盛岡市)もおられました。

およそ10年前の事ですので、記憶が薄れていて詳細な部分については思い出しませんが、現在の沈陽日本語資料室のホームページを見て、日本語教師の会の組織や資料の整備・保管・管理など随分立派になったと感じました。

 2006年9月4日 (月)  山形 達也

1989年、1999年それぞれ1年間瀋陽で日本語教師をされた最上久美子先生から教師の会のことについて返事を戴いた。小林美恵子先生、藤井達也先生から当時の様子を書いた手記が寄せられたのも、最上先生のおかげである。

私のいた頃(1989年)は、「教師の会」というような形はできていませんでした。それ以前は連絡や活動があったかどうか、分かりません。

1989年という年は、その6月が天安門事件の年で、私の行った9月はまだ危険だという事で、外国人教師はかなり国に帰ってしまったままでした。私自身、瀋陽工業大学の3階建ての外事処の建物に、一人で住んでいました。

瀋陽市全体で外国人教師も少なかった事もあり、市や省から晩餐会(日本人だけではない)に招待されたり、正月には日本領事館から招待されおせち料理をいただいたり、2泊の旅行(丹東)に招待されたりしました。また、遼寧大学で、留学生たちも一緒に、在留婦人たちとの交流を持った事もありました。その中で、親しくなった人たちと個人的な連絡をしていました。領事の方とも親しくお付き合いできました。

渡辺文江先生は、その頃すでに遼寧大学滞在4年目だったかと思いますが、私とは個人的に親しくお付き合いさせていただき、授業の事など教えていただきましたが、あまり集まりにはおいでにならなかったように覚えています。でも、お聞きになってみてください。

一大学内でさえ、何の引継ぎも連絡もなく始めなければいけなかった経験から、次の先生方に引継ぎの連絡を持つように努力しました。幸いに続々と素晴らしい先生たちに恵まれ、工業大学においては、私の後少なくとも、平野先生、藤井先生(霜鳥先生と一緒)、小林先生、降籏先生まで確実に連絡がつながります。また、私は、1990年に帰国した後も、95年まで工業大学と関わりましたので、代々の先生方とも親しくさせていただけたと思います。

平野先生から、日本人教師の名簿ができた、と頂いた記憶がありますので、会を作る気運ができつつあったかと思います。だから教師会としてまとめて出発できたのは、藤井先生のお働きでしょうね。(この名簿は捜しているところです。)

余談ですが、工業大学のあった鉄西区は工業地で、当時市内で最も空気が悪く、他の学校の先生たちは敬遠して来てくださらず、こちらから出かけなければお会いできませんでした。

また、当時の交通は、タクシーは危なくて一人では乗れず、今よりひどい状態のバス(汚いし混んでいるのはもちろん、自転車の方が早いし、すぐにえんこして降ろされるなど)、また、当時の公安による外国人管理の面からも、私的にはちょっと動きにくかったかもしれません。

とにかく現在の教師会につながったという事は嬉しいですね。

山形先生という方を得て、日本人教師会の歴史が記録される事になり、(私の立場からは、)神様はなんと時にかなって素晴らしい業をなさるのかと、感動しています。先生、ありがとうございます。

 

2006年9月4日 (月)  山形 達也

最上先生あてに、1992-1994年に瀋陽工業大学におられた藤井達也先生が、最上先生に教師会の始まりのことについて書かれた文書を戴いた。藤井達也先生は何と、教師の会を初めて作った先生である。

最上先生

ご無沙汰しております。藤井です。

「日本人教師の会」は誠に僭越ですが、私が作りました。

当時、日本人日本語教師が増えてきたのと私の瀋陽工業大学の授業が、調整が悪かったのかコマが少なくて、時間的に動けたからです。

各校訪問ということで、瀋陽工業大学や色々なところで持ち回りで食事会をしたりを1.2ヶ月ごとにしていました。食事だけではなく、部屋を見せていただいて、みんなそれぞれ不便なところで頑張っているんだなあと勇気づけられたり、生活の工夫などを学び合っていたように思います。初回の頃は社会科学院で教えていた宮沢さんという方に「言い回しのニュアンスや語法の違いを例を挙げながら説明した」という報告?をして頂いたりしたのですが、このような授業実践報告を義務的にしてしまうと集まりが悪くなるということもあり、現場や授業で苦労していることなどを話し合ったり、悩みを話し合ったりするような感じが多かったように思います。シルバーボランティアでいらしていた割と年配の方達にはたまに日本人と話すだけでもストレス解消にはなっていたように思います。

最初は領事館の文化担当の梅沢さんというかたに来ていただいて協力して頂いたりしました。北海道開発庁(当時)の出向の方だったと思います。

アルバムを見れば、みんなで撮った写真などが出てくるし、名簿も出てくるかもしれません。名簿も最初の頃は私がワープロで作りました。

私がいた頃は遼寧大学には大平先生という方がいらして、その後、佐藤栄二郎先生がいらっしゃいました。大平先生がいた頃に始めたという記憶があるので、92年の末くらいかなと思います。日記を探せばもっとわかるかもしれません。

あと、ざっとホームページを見たのですが、遼寧大学は神奈川の県立高校の先生が派遣されていて前のメールに書いた佐藤さんの次が潮田先生だと思います。

潮田先生のように今中国語の授業を持っている方とはおつきあいがあるので連絡が取れます。

私は今、高等学校中国語教育研究会・略称「高中研」の代表理事をしており、そちらでも何かお役に立てるかもしれません。

 

2006年9月3日 (日)  山形 達也

1989-1990年と、二度目は1999年-2000年に瀋陽で日本語教師をされた最上先生が色々と調べてくださった。そのおかげで、1994年-1995年に瀋陽工業大学におられた小林美恵子先生からmailがあって、その頃の様子を知らせてくださった。

小林美恵子です。

さっそくにメールありがとうございました。

私の日本人教師の会の経験は、最上先生を通じてお知らせしたとおりです。これは自分の記録を確認してお返事しましたので、日にち、場所等は間違いないはずです。教師の会の「歴史の証言」(すごいですね、なんか!)としてHPに保存してくださってもちろん、かまいません。

さらに具体的にというお話ですが、うーん、場所は遼寧大学の中でしたがどの建物・部屋かまではわかりません。その日原土先生(講演者)は奥様とご一緒でした。会費は一人50元(ははは!これは確かです。息子と2人で100元とられぎょっとした。当時としてはけっこうな額だったんですよ)覚えているのはそんなところでしょうか。

私は東京都から派遣されて94年9月から翌95年8月まで瀋陽工業大学におりました。当時小学校4年だった息子と2人で行き(何も知らずに連れていったんですが、向こうでは旅費その他も2人分負担しなくてはならないということでだいぶ顰蹙ものだったようです。)、息子は現地(鉄西区)の景星二校という小学校に1年いました。私としてはとっても楽しい1年間で、是非任期の延長をと申し出たのですが、東京都は許してくれず・・というわけです。

ただ、最初に日本人教師の会に出席したときはこれから最初の寒い冬に突入という時期で少々不安な時期だったこともあり、この会に参加していたのが瀋陽市内だけでなく少し郊外のかたも多かったようであること、その後特に親しくしていただいた中国医科大の鮫島先生一家は多分まだ赴任前だったことなどもありで、あまり個々人の先生方の印象が残っていません。

世話役は神奈川県の教員として遼寧大学に派遣されていた佐藤英二郎先生でしたが、このかたとは今はもう連絡がありません。そのほかに遼寧大学には伊豆蔵恵美子さんという方がいましたが、このかたは、私が行ってまもなくにお帰りになったように思います。前島正吾先生には多分このときお目にかかったような気もします。たしか山梨県出身のかたがいらっしゃいました。

私の赴任前、2年間工業大学にいた藤井達也先生が熱心に世話役をされていたということは佐藤先生から伺いました。彼のメールアドレスは最上先生にお知らせしましたので、多分そちらに情報が行くと思います。彼は埼玉県から派遣された方で、今は埼玉の高校で中国語を教え、中国語の雑誌などに連載をもたれるなど活躍していらっしゃいます。

そのほかに、私が当時知っていて、今も連絡先が分かる方を以下にお知らせします。ご連絡をされる場合は小林から紹介されたと書いてくだされば大丈夫だと思います。

この夏も大連から瀋陽経由で長春まででかけた知人に話をききましたが瀋陽も今は直行便もあるし、だいぶ変わったようですね。鉄西区については3年ほど前に王兵という若い監督が9時間の長編ドキュメンタリー映画『鉄西区』を作り、日本でも山形映画祭その他で数回公開されました。懐かしい?場所も写されてちょっとジーンとしましたね。できれば一度再訪してみたいもの、などとも最近は思っています。30人規模の補習校ができている、というのには驚きますし、頼もしいかぎりです。

便利になったとはいえ、いろいろ大変なこともある生活かとお察ししますがどうぞお体に気をつけてますますご活躍ください。こんどゆっくりHPも見せていただきます。それでは取り急ぎお知らせまで。

 

2006年8月31日 (木)  山形 達也

以下は和平区政府に提出する日本人教師の会の説明である。

『瀋陽日本人教師の会』

瀋陽日本人教師の会の発足の時期ははっきりしていないが、1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があったという記録がある。このときは瀋陽及び近郊(鉄嶺)の日本人教師のほか、総領事館の領事二人も出席していた。したがって、この年以前から遼寧大学の日本人教師を中心に、教師会として定期的な会合が持たれていたと思われる。教師会としての活動が形をなしてきたのは、日本語資料室が小北辺門に出来てからである。

2006年7月5日現在会員は42人である 。

1 瀋陽日本人教師の会の趣旨

この会は瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている日本人教師や研究者の集まりである。さまざまな経験や資格でここ瀋陽に来た私たちは、年齢や性別、経歴などを超えて、一人の人間、一人の日本人教師・研究者としてこの会に参加している。授業や研究を進める上で必要な情報・教材などをお互いに交換し合うこと、異国で生活する不自由さや面白さを話し合うこと、この二つが私たちのこの会に集う主たる目的である。したがって、この会の運営は会員全員で分担し合い、協力し合うことによって進めている。そして私たちの活動をささやかながらも日中友好の一助にしたいと考えている。

2 会員資格(瀋陽日本人教師の会会則より)

○      日本国籍を有し、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている人で、各教育機関から招聘状あるいは専家証を発給されている人およびその家族でこの会の趣旨に賛同される人で本会が認める人。

○      年会費を納入した人

3 瀋陽日本人教師の会の主な活動内容

日本語を教える授業やその指導方法・研究を進めるために必要な教材を作成したり、教育に携わっている教師同士がお互いに情報交換したりする。そして、教師の資質を高めるための研修会も随時開催する。

毎年9月の年度始めの定例会(本年は9月16日)でこの会の趣旨を説明・確認し、役割分担と予定を話し合いで決める。その後は原則として長期休み期間を除き、毎月第2土曜日の午後、定期集会(「定例教師会」と言う)を開催する。

以上これらの会合は日本語資料室を拠点として開催している。

会員の親睦を図るための食事会(歓送迎会を含む)や、親睦旅行等も実施する。

3-1 各種行事への協力

○ 瀋陽日本人会が開催する瀋陽日本語弁論大会への協力

中国人の学生が参加する日本語弁論大会を協賛し、その企画、運営、審査には教師の会全員が当たる。参画については別途実行委員会を組織し、主催団体(主管 瀋陽日本人会、共催 瀋陽市人民政府外事弁公室、瀋陽市教育委員会)や機関との連絡を密にして、特に弁論大会設立の趣旨の継承に努力する。

○ 在瀋陽日本国総領事館が主催する日本語文化祭への協力

領事館が開催する「瀋陽ジャパンウイーク」の期間中に1日、日本語文化祭が開催される。これは日本語を学んでいる中国人の学生の日ごろの学習の成果を発表するまたとない機会であるので、各大学等へ奮って参加するように呼びかけている。

と同時に、この行事は領事館と密接な連携のもとに、主として教師の会が事前の立案・企画から当日の運営まで携わっている。

○ 領事館の施設や設備等を活用しての自主的な行事の開催

領事館には日本文化の紹介の学習に大変役立つ日本の伝統的な遊び道具、雛人形等も取り揃えておられるので、今後、われわれ教師は、領事館とも協力して、こういった文化面の体験学習も行っていきたいと考えている。

○ その他、各種行事等への参加協力

主として領事館が関係する行事等で、中国人の日本語学習の一助になると思われるものに対しては、これを各大学の学生たちに紹介し、参加を呼びかけている。もちろん、教師だけが関係する行事には教師の会会員が積極的に参加している。

○ 日本語クラブの発行 年3回発行

○ ホームページの維持 会の広報と活動の歴史の記録

3-2 日本語資料室を教師の会の有形の財産として持ち、これの有効利用に努めている。

現状の利用形態は「瀋陽日本語資料室」の項を参照いただきたい。

4 今後の「瀋陽日本語資料室」活用について

この資料室の利用は日本人教師や日本語を学ぶ学生などに限らず、将来、中国人日本語教師、瀋陽日本人会会員はもちろん日本語の資料や図書等を必要とする人なら誰でも利用できるようにしたいと思っている。

当面は瀋陽日本人会と連携を密にして会員の方々の積極的な利用を望んでいる。その場合中国の国情に反しないようにすることは当然である。

 

2006年8月31日 (木)  山形 達也

和平区政府の施設を借りるために日本語資料室と日本人教師の会の説明が必要と言うことになった。

南本代表が先ず原案を作り、鳴海、峰村、そして山形の三人が検討し、最終的な説明が出来上がった。

8月31日は南本、峰村、山形の三人が夜3時間集まって今後の方針を検討した。和平区政府の建物が借りられようなら、今の資料室を9月中に引っ越そう!

伊藤忠の瀋陽事務所代表の高木さんが、今回の件でも仲介の労を執って下さっている。現在の場所を借りるときの契約書は高木さんが全部翻訳して下さったし、両国語に堪能なスタッフを抱えておられるので今度も翻訳をお願いした。快く引き受けて下さった。ありがたいことである。

私たちの作成した文書は、日本語では以下の通りである。

『瀋陽日本語資料室』

開元ビル6階618号室

瀋陽市和平区南五馬路135号

電話:2324−2303

「瀋陽日本語資料室」は大阪のNPO「関西遼寧協会」(1985年から遼寧省政府をはじめ多くの関係機関と友好交流している特定非営利活動法人)、「市岡国際教育協会」(在日外国人に対する日本語日常会話教室を開いている特定非営利活動法人)の支援と協力を得て2000年6月に小北辺門の日本企業の借りたビルの3階に設立されたものである(当時の住所は、大東区北関街33号1門)。

「瀋陽日本語資料室」の設立経緯及び現状については教師の会のHPの中を参照いただきたい。http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/shiryoushitsu0.html

現在「瀋陽日本語資料室」には、「関西遼寧協会」及び支援団体から送られてきた書籍、日本政府の国際協力基金から寄贈された教材と書籍、個人からの寄贈図書、ビデオテープ、各種日本語を勉強するための辞書や参考書、小説、新聞、週刊誌、指導用教具・教材等を含め約5000冊(点)ある。

われわれ教師はこれらの資料を活用して日々研鑽に努めているところである。と同時に日本語を学習している学生を主体にこれらを貸し出している。借りる希望者は資料室で氏名等を登録して「利用証」を作り、それを提示して「貸し出しカード」に記入することで、もちろん無料で借りることができる。貸し出し期間は最長2ヶ月までとなっている。2006年8月現在資料室を活用する登録者は1300人を超えている。貸し出しは我々教師の学校勤務が休みの日に限られるので、原則として土・日曜日に限られる。

この貸し出しのための管理運営は教師の会の会員全員が協力して当たっている。

2006年5月には、このビルの借り主である日本企業の都合で、日本語資料室は移転せざるを得ない状況になった。幸い、和平区の開元ビルのオ−ナ−である赫子進氏より『以前自分が日本に留学したときに日本人に大変親切にされた、今度は自分の出来るお返しをしたい』という申し出を受け、開元ビルの6階に150平方米の場所を無償提供いただき、移転することが出来た。

2006年5月の移転までは、「瀋陽日本語資料室」は日本のNPOである「関西遼寧協会」の所有するものであり、「瀋陽日本人教師の会」はその運営を委任されているという形であった。しかし、この移転を機に、「関西遼寧協会」の所有の全ての書籍、機器、什器は、「瀋陽日本人教師の会」に所有権が移転された。つまり、「瀋陽日本語資料室」は、瀋陽で日本語教育に身を捧げる日本人教師の集まりである「瀋陽日本人教師の会」の貴重な財産となったのである。

瀋陽で日本語学ぶ学生が利用するだけではなく、「瀋陽日本語資料室」がもっと広く中日友好に役立つようにするにはどうしたらよいかを、私たちは日夜考えている

 

2006年8月30日 (水)  山形 達也

藤原 英弥先生から、教師の会が何時の頃からあったのかという問いに返事があった。

山形先生:

メール有難うございます。夏休みに医科大学の渡辺先生と盛岡でお会いして教師会のことは伺っておりました。先生のことも。

さて、ご依頼の件:

私は1996年に鉄嶺の瀋陽中華国際学校に赴任、2年間いました。その後、中国医科大学へ。

手帳を見ますと1996年10月5日に遼寧大学で在瀋陽日本語教師会があったという記録があります。私も出席、これは総会と歓迎会でした。総領事館の領事二人も出席していました。

1996年の写真を探せば出てくると思いますが、20名以上集っていました。遼寧大学の潮田先生・瀋陽大学の山下先生などすぐ思い出します。

遼寧大学の日本語教師を中心にこの年以前から日本語教師会があったようです。遼寧大学の日本語文化祭、瀋陽日本語弁論大会等を実施していました。会場は遼寧大学でした。

石井先生が遼寧大学に着任(1998年?)してから関西遼寧会等の援助で集会所等ができていった・・・・・・・・

私が鉄嶺にいた当時は春に花見の会も実施して親睦を深めておりました。

歓迎会・送別会には領事さんも招待?二次会は領事館持ち。

以上の状況報告でよろしいでしょうか。遂に今年も瀋陽訪問を果たせませんでした。

皆様によろしく、といっても両渡辺先生しか面識はありませんが。

今年の2月に岩手県の医師不足の解消策として、中国医科大学の産婦人科医師高嵩さんを招聘、現在岩手医科大学で修練医師として活躍中です。

以上簡略なご返信まで。

 

2006年8月29日 (火)  山形 達也

その後、私たちは西塔の近くにある和平区の科学技術孵卵器の建物に現場を見に行った。乗り物は全て森領事の運転される車に便乗させていただいている。この施設は和平区政府の建物である、まずここの責任者の朱部長に引き合わされた。この部長さんも肢体の美しく引き締まった30代の女性である。

ここは中小企業のventureに政府が無償で場所を貸し与え、さあやってご覧と言うための建物のようである。電話代、internet代、そして夏季の空調運転費用は自分たち持ちだが、部屋代、高熱水道費は無料だという。日系、韓国系のventureがすでに入っているという。NECの合弁も入っているとか。

聞いてみると貸し出し期間はひとまず2年で、延長もあるという。延長した例があるかと聞いてみたら、2005年から始まったので、まだ更新したことはないという返事だった。至れり尽くせりのventure育成に思えるが、どのような基準でventure企業を選ぶのだろうか。

2階の部屋を見せて貰った。一部屋30平方米くらいの広さで2部屋を貸しましょうという。二つでは狭い。3部屋欲しい。実際3部屋隣り合っている。

上の階には小部屋の会議室が3部屋と、5-60人はいるホ−ルがあり、ここも予約すれば使えるという。むしろ、それぞれの部屋に会議室を作ったりしないで、積極的に会議室やホ−ルを使うようにということだった。そういうことなら、日本語資料室も2部屋でやっていけるかも知れない。

ここで昼過ぎになった。このような施設全体の責任者に午後4時に会って細部を詰めると言うことになって、一旦ここで解散した。私たちは森領事に薬科大学まで送っていただくことになった。ありがとうございました。

さて、次は3時半に在瀋陽日本領事館に集まった。今度は教師の会の南本代表も一緒である。午前中時間を割いて交渉に当たってくださった高木さんは所用で来られなかったが、代わりに高木さんの部下の阪大卒で日本語ぺらぺらの馮さんが来てくれた。

4時に午前中訪れたビルに行くと、朱部長のほかに、科学技術局長の印さんが私たちと会って話を詰めようと待っていて下さって、約1時間余りの会談が始まった。状況の説明と橋渡しは今度は高木さんに代わって馮さんが務め、しかも彼は通訳も兼ねていた。

どのような目的でここを使うのか、日本人教師の会とは一体どのようなものか、という説明を南本代表がして、この説明を印さんは受け入れたようだ。しかし、最終的には政府の認可が必要なので、日本人教師の会の活動、日本語資料室の活動、の説明を2-3枚に書いて文書で提出しなさい。それで問題なければ受け入れましょう。

開元ビルとの契約書も見せなさい。それの内容で必要な修正を施して契約書が作れるでしょう。

ということになった。条件は朝聞いたとおり、部屋代無料、ユ−ティリティ無料、夏季はク−ラ−1台につき150元。電話、internet代金はこちら持ち。契約は2年。

2年経っても私たちはventureが育つみたいに育つ組織ではないので、心配なところがあるけれど、朝、和平区の招致局で聞かされたように熱烈歓迎なら、その先を心配することはないだろう。大事なことは、私たちの存在が役立つことであろう。

というわけで、後は私たちが教師の会と日本語資料室の活動について説明の書面を提出すれば(そして受け入れられれば)、何時でも引っ越しできると言うことのようである。

後は、全てがうまく行きますように。今回も多くの方々の好意に頼っている。ありがたいことである。日本語資料室の存在を出来ることならもっと意義のあるものにしたいものである。

 

2006年8月28日 (月)  山形 達也

今私たちの資料室の入っている開元ビルのオ−ナ−の赫さんにはじめに紹介して下さったのが日本人会副会長の高木さんだった。話が全部纏まるまで、全ての交渉に立ち会っていただいたほか、契約書の日本語訳まで綿密にやって下さって、全て高木さんにお世話になったのだった。

今回私たちの再度の移転の話では、連絡が高木さんからあっただけでなく、和平区政府の高官と会うのも、新しい場所を管理する責任者に会うのも、全て高木さんがお膳立てしてくださった。

8月18日月曜日10時、開元ビルで出会って、私たちは和平区政府に出掛けた。在瀋陽領事館の森文化担当領事、高木さん、彼の部下の馮さん、赫さんの部下の劉さん、教師の会の峰村副代表、鳴海副代表、そして私である(南本代表は受業があって来られなかった。私は何でもない立場である)。

大きな建物の和平区政府の4階の広々とした招致局の執務室に通された。紹介された局長は40歳そこそこの朱さんという美しい女性である。副局長も出席して総勢10名が部屋の隅のソファに座ってもまだゆとりのある執務室である。

朱局長は先ず今回の件で理解していること、つまり、

『日本人教師の会が運営している日本語資料室がやむを得ない事情で引っ越しせざるを得なくなくなった。元々日本語資料室が開元ビルに入居したことも知っているし、和平区政府も影で支援してきたことである。今回の移転にあたり、政府の施設のひとつである基地の一角に、その移転の場所を和平区政府が提供出来ることは大変喜ばしいことである。』

日本語資料室を和平区政府も影で支援してきたこと というのは、一任意団体の、しかも日本人の使う施設の内容と存在を人民政府が全く知らないことはあり得ず、したがってオ−ナ−の赫さんを通じて、関知、あるいは承認していたと言う意味だろう。

ここで高木さんが隣にいた私を突っついて教師の会からご挨拶が必要ですという。隣の峰村副代表を省みても、やりなさいという身振りである。ここでごちゃごちゃしているわけにも行かず、私は教師の会の代表に成り代わって、とっさにお礼の言葉を述べることになった。

朱局長は、具体的に私たちが借りる予定の建物と部屋について述べ、今回の移転で、さらに和平区政府と資料室との結びつきが強まり、教師の会を通じて和平区のイメ−ジを日本に伝えたいということだった。

また話の最後に私がお礼ご挨拶を言うことになった。高木さんの部下の馮さんは阪大工学部出身で日本語が日本人と同じように巧みで、彼が通訳をした。

日本語は中国語にすると、書いても話しても長さが3分の2くらいに短くなるのが普通である。それなのに、彼の通訳は私の言ったことより長い。きっと挨拶慣れない私が当然言わなくてはならない感謝の言葉を抜かしていて、それを補ってくれているのだろうと思って聞いていた。後で馮さんに確かめると、案の定だった。

 

2006年8月25日 (金)  山形 達也

2週間の夏休みを終えて瀋陽に戻った翌日の25日の朝、瀋陽日本人会副会長の高木さんからmailが入っていた。

『皆様のご尽力の下、5月20日に新しい「日本語資料室」が立ち上がったばかりで、誠に心苦しく存じますが、「開元大夏」オーナーの赫さんからのお話を下記連絡させて頂きます。

経緯:

ご存知の如く「開元大夏」は多くのテナントが入居しておりますが上海の「錦江集団」が、4階〜12階までの1.1万M2を18年間契約で借り受けることになった。

本集団は中国各地で経済性飯店(東横INのようなスタイル)を経営しており、本スペースも全てホテルとして使用する。

11月1日より全面改装を行うため、既存テナント(自分の執務室も含め)には10月末迄に転出頂くよう正式通知を出した。

対応とお願い:

皆様の移転先については「和平区政府」と何度もお会いし、大所高所から本資料室の意義を説明し、下記(*)のビルの3階(100M2以上)を無償で貸して頂けることになった。

移転に伴う経費負担、移転後のエアコンの設定などは責任を持ってやらせて頂くことをお約束する。

皆様には移転早々大変なご心労とご迷惑をおかけすることになってしまうが事情ご賢察の上、何卒ご了解頂きたく宜しくお願いしたい。

つきましては、早急に移転先を視察頂きたい。先ず和平区政府を訪問、担当局長に挨拶の後、現地にお連れ頂くことを考えている。

*西塔近くの「和平区国際孵化器〜」中小企業支援センターの建物』

一読してショックで言葉も出ない。今年の3月、それまでの資料室が大家の都合で移転せざるをえなくなり、資金の全くない私たちの行き先探しでは全く当てもなく大変な思いをした。幸い、状況を見た方々から温かい支援の言葉と戴いた。特に、在瀋陽日本領事館、瀋陽日本人会、朝日新聞社の方々から助けて戴き、親日家の中国人青年実業家の赫さんから実際の建物提供申し出を受けて、5月に開元ビルの6階の一画に新しい資料室として引っ越すことが出来たのだった。

6月末には関係者を招いてお礼を籠めて新しい資料室の披露を行った。その後は教師会としては直ぐに夏休みだったので、広々と気持ちの良い資料室を十分利用する間もなく、再度の引っ越しの必要に見舞われたわけだ。

ショックから醒めてみると、オ−ナ−の赫さんは私たちに無料で資料室の場所を提供してくださったばかりか、自分の都合で私たちに引っ越しをさせなくてはならなくなったにせよ、夏休みの間で教師会の誰もいない間に次の移転の場所を見付ける努力まで自らやってくださっている。

これは凄いことだ。というのも、中国で日本人教師会という非公認の一任意団体が自分たちの活動のために拠点となる部屋を借りると言うことの難しさを、この春の引っ越しの時に十分私たちは学習しているのである。

そのような状況の私たちのために、すでに和平区の政府に頼んで私たちの資料室の受け入れ場所を確保したということは、信じられないほどの厚意と実行力、及び赫さんの実力である。何しろ私たちの資料室は、任意団体が運営しているというだけでなく、150平方米の広さのテナント料が払えないというのに、その組織のために場所を確保できたのだから。

 

2006年7月29日 (土)  山形 達也

瀋陽日本人教師の会のHPの中の日本語資料室を、とりあえず、現在の状況にあわせて新しくしました。

この8月には瀋陽日本人会幹事会にでて、日本語資料室の有効な活用法について呼びかけをする予定です。そのような話をするときっとHPを見られるでしょうから、日本語資料室の案内も古くてはいけないと思いました。

但し、旧資料室の案内、地図は歴史的な資料となったと考えて破棄せずに、そのままたどれるようにしてあります。日本語資料室の設立の経緯などの資料はそのまま、新しい資料室のHPからたどれるようにしてあります。

新しい資料室が見つかって引っ越した経緯は、日本語クラブに載った文章そのまま利用できるよう、そこにリンクを張りました。

新資料室の引っ越しの時や、初めての会合の時の写真も載せました。

いずれ、新資料室の記事や写真を充実させていきましょう。まだ、閲覧室の十分な写真がありません。

 

2006年7月28日 (金)  山形 達也

日本語資料室が新しく、広く、快適になった。瀋陽在住の日本人に帰国の際には本を寄付していってください、とお願いする計画がある。

ということは私も寄付しよう、ということで6月25日に資料室に行ったときに、ブッシュの戦争(日本経済新聞社) 、ブッシュの野望(柏書房)などを含む本十数冊を資料室に寄付して来た。しかし、7月15日に行ったときこの二冊の本が見あたらなかったし、先生方の借り出し記録にも載っていなかった。

本の内容がまずいというので、係の先生に処分されてしまった可能性がある。とすれば私はずいぶん不注意だったことになる。本には(山大爺)の印鑑が押してあった。

あるいは誰かが黙って持っていってしまったのだろうか?

 

2006年7月20日 (木)  山形 達也

中道先生がまた遠くから訪ねてこられたので、2回目の伝授。中道先生は明後日土曜日朝の帰国の予定である。もう、これっきり、ここでの仕事を辞めてのご帰国。

彼女も中国に滞在している間に、膨大な量の書きためた文章があってこれをwebに発表したいと言うことである。お手伝いして、こういうことに役立つならよろこんで。

旅行の文ひとつで新しいページを作成。そのページの中でリンクを張って、小見出しに飛ぶ方法も教えた。目次からは別のページの中の特定の場所に飛ぶ方法である。

写真の載せ方の基本方法二つも。ついでにPhotoshopも。

そして最期に、サーバーに載せてOK。これで基本技術は全部伝授した。

http://www.geocities.jp/nakamichi20062002/

これで、internetの愛弟子二人が相次いで誕生。こちらはまともなwebisiteを持っていないというのにね。

今日の昼ご飯は、恵津先生お手製の「五目ご飯のおにぎり」だった。久しぶりにご飯を食べて嬉しかった。ご飯は嫌いではないけれど、何時も帰りが遅いのでうちではご飯を炊くことがない。妻と私の二人はご飯を食べなくても平気で過ごせるが、やはりご飯は嬉しい。

ああ、鰻どんが食べたいなあ!!!

それはともかく、中道先生。一路平安。

瀋陽に来て、教師の会に入って良かった。先生たちと知り合うことが出来て、どんなに私たちの人生の幅が広がったことでしょう。ありがとうございました。また、瀋陽にいらっしゃいね。

 

2006年7月19日 (水)  山形 達也

日本の加藤先生からmailが届いた。

「いろいろとアドバイスありがとうございます。第1作品も手直しし、全部写真を入れられました。位置だとか行間隔には問題がありますが・・・。

現在のところ、第3作品までHPに載せることができました。明日は目次に入れた2作品を載せようと思っています。

ゲストコーナーの先生の文は消去しました。しかし、十分読まずに消去の手続きをしたため、保存できませんでした。よく読むと、画面から消去しても保存ができるのですね。以後はそれを活用しようと思います。

泳げなかった私に手ほどきし、背の立たない深みに連れてゆき、放り出してくださった達也先生に感謝いたします。」

何だか、近頃刑期を勤めて釈放されたヨットスクールの某校長みたいな気がしてきた。泳げないのに深みに放り出して、おぼれる加藤先生の頭を櫂でたたいたりして。。。

webを見るとページのレイアウトも写真も綺麗である。見事、見事。立派に泳いでいますね。後はゆっくりと泳ぎながら今まで書き貯めた文章を、見やすくwebに載せていって下さい。

なお、ゲストコーナーには「頑張れ頑張れ加藤先生!!」とエールを二回も送ったつもりだったのに、消されてしまったのは残念でした。

 

2006年7月18日 (火)  山形 達也

7月17日夕方、瀋陽の街の北の方にあるレストラン「九香堂」に集まった。今は学校も夏休みに入って帰国される先生もあり、残された人たちの憂さ晴らしと、暑気払いを兼ねて、「教師の会・夏の分科会」を計画したのだった。

集まったのは、中道恵津、秀毅(今週末帰国予定)、峰村洋・尚代(18日帰国)、安部玲子(18日帰国)、森林久枝、池本千恵、山形達也・貞子の9人だった。

「九香堂」は教師の会の会員の一人のお友達がオーナーとなって始めた店で開店してからまだ1ヶ月である。店のインテリアも良くできていて落ち着いた雰囲気の店だ。

店の真ん中にテーブル二つをくっつけて9人で囲んで食事。食事は、コロッケ、とりの唐揚げ、トンカツ、拉皮、茄子の揚げ物、日本豆腐(玉子豆腐)の煮物、驢馬肉の煮付け、などなど、ビールを飲みながら。最後は日本ソバ。

この日本ソバは、そば粉6、小麦粉4で、この店のオーナーが自分で打ったもので、そばつゆも自家製。もう満腹だというのにお代わりまでして、舌鼓を打った。

机の大きさも、集まった人数も適当だったので、話が別々に進むこともなく一緒の話題で盛り上がり、楽しい時間だった。

教師の会の定例会の後など、「さあ、帰りに一緒に食事をしませんか」と誘って皆で出掛けると何時も大人数で、だいたい私の座るテーブルは年長組ばかり集まって、若い女性たちから何時も敬遠されている。

教師の会の送別会の時のように座る机が指定されていても、丸いテーブルは大きすぎて(座る人数は多いし、向かいは遠いし)皆でひとつの話題と言うこともないわけである。今回みたいなことは滅多にない。

つまり、言いたいことは、昨晩は若い女性を交えて一緒の話題で話しが出来て、楽しかったと言うこと。まだ、興奮しているみたい。アハハ。

8時にお開き。この次には人数が減るけれど、7月29日帰国という小林先生を囲んで、その前の晩あたりに同じように招集を掛けて一晩集まることを提案しよう。

 

2006年7月14日 (金)     山形 達也

中道恵津先生にホームページの作り方の基本を教えた。

彼女は青島で2年、瀋陽で4年、合計6年の中国滞在を終えてこの夏帰国の予定で、将来は自分の書きためたものを発表するためにHPを作りたいというので、ごく基本の技術を教えた。

北の師範大学から1時間以上の遠路はるばるを越えて、彼女は11時頃到着した。先ず、ソフトウエアをinstallしながら昼ご飯。何しろ暑いので外に出る気にもならず、いつものパン、チーズ、トマトの昼食に付き合わせた。パンは好利来の1個8元のパンである。

デザートは薬科大学の日本語教師の高山先生から差し入れられた「ぜんざい」。美味しい。高山先生ご夫妻は3年の滞在を終えてあと数日で帰国される。その忙しいさなかにこのようなものを作って、しかも人にあげられるなんて、凄いことである。自分たちのことを考えると信じられない。感謝ひとしお。

先ず最初にHPの登録。Yahoo で作成した。

HPの構成はもう考えてあるので、表紙を先ず作る。彼女の手持ちの写真から世界園芸博覧会の時の緑の写真を背景において、落ち着いた表紙が出来上がった。タイトルは「気の向くままに」である。

これは、「気の向くままに生きてきた私」でもいいし、「気の向くままに生きていきたい」でも、何とでも取ることが出来る。

目次は、今まで書きためた文章を、青島、瀋陽、忘れられない旅、などの旅行記などに分けていれる。表紙のタイトルの下に、目次を作った。

「忘れられない旅」の目次を作り、その一部の文章をhtml文書にした。写真の載せ方も教えた。それぞれの文書にリンクも張った。

ここまでで、夕方の7時。そういっては加藤先生に悪いけれど、彼よりも筋がよい。パソコン歴が加藤先生から長いから当然かも知れないね。

さあ出来た、というので、HPのアドレスにアップロードしたがうまくいかない。出来たものを見られないのは口惜しいので、私のアドレスが使っていないので、そこに送った。問題なくサーバーに送ることが出来て、しかも見ることが出来た。

というわけで、本質的なことは今日の一日で教えることが出来た。あとは、「掲示板」「日記」「カウンター」などを表紙に付けることだから、大した問題ではない。代わりにやって置いてもいいことである。

秀毅先生に電話して「一人でご飯食べていてね」ということで、大学の招待所餐庁に行って一緒に夕食してから、分かれた。

次回に会うのは月曜日17日。

 

2006年7月11日 (火)  山形 達也

や っと、日本語クラブ23号をHPに載せた。

土曜日からはじめて4日間。時間にして24時間くらい時間を掛けた。今日だって、朝7時から取りかかって、もう今は夕方の7時半だ。日本語クラブの印刷原稿(Word)から作ったhtml文書のあちこちがおかしく、結局、印刷用の原稿を一度text fileにしてからhtml文書を作成することでやっと問題を回避できた。

しかし、それでも随意にフォントが変わったり、サイズが変わったりするので、それらをhtml文書上で直すのに時間が掛かった。

まだおかしなところはあちこちで目に付くけれど、勘弁して貰おう。

あとひとつ、中国文字が出てこないのも困ることだ。internet上では「?」になってしまう。

ともかく、もうお終い、もう、やらない。自分の本職に食い込みすぎる。

 

2006年7月10日 (月)  山形 達也

延び延びになっていた日本語教育校の記事の更新を全部終えた。

係の高山敬子先生からそれぞれの学校の先生たちが原稿を頼まれて、書いて送って下さったものを、HPに載せたのだった。半分くらいは届く度にやっていたが6月になって研究室が忙しくなって中断。やっと、作業を終えた。

まだ届いていない学校は、東北大学、航空学院、瀋陽大学、実験中学、瀋陽師範大学、など。

6月3・4日の玉旅行の日程の詳細(参加者に配ったもの)、参加者名簿、そして最後に中道先生の手による旅行企画・実施のノウハウを教師の会のHPに載せた。

次回の旅行企画があったら、その時は参考になるはずである。

何処かに印刷して置いておくと散逸して見つからないかも知れない。しかし、HPに載せておけば安心、という考えである。勿論、印刷物は確実に残るが、internetの情報はどうなるか分からないという心配も本当である。

私としては、Yahooが続くなら、internetの教師の会をクリックすれば全ての情報がつまっていて、直ぐに誰でも手に入れられると言うのが好きである。

 

2006年7月10日 (月)  山形 達也

土曜日の午前中はいつものように研究室のセミナーがあって、午後からは懸案の「日本語クラブ23号」をHPに載せる作業に取りかかった。

 今度の日本語クラブは本文66頁という、いつもの倍近い長さである。「鬼の編集長」である中道恵津先生が、何時も何時も「原稿を」と催促されるのにとうとう皆鋭敏に反応するようになって書くのが当たり前という雰囲気になったこと、3年間続いた「中道体制」の締めくくりとして今回は編集部編纂の特集という目玉が組まれたこと、などがこれだけの大部に仕上がった背景にあるだろう。

ところが、これをHPに載せる方としては、大変なことである。大体Word で作られて写真も入った原稿を、そのままHP用につかうわけにはいかない。

写真は全て外して、それぞれの写真に半角の英数字の名前を入れる。

前回の日本語クラブ22号の時から、wordで入っている写真が動かなくて大変手こずった。今回はどの写真もびくとも動かないのだ。Wordのversionが

変わったのかも知れない。

ともかく、今回は編集部に頼んで写真を全て外した原稿を作ってもらった。写真は別に受け取ることになった。

本文をHPBに入れて、改めて写真を入れていく。

目次も印刷原稿を流用できない。これも新たに作り直しである。

それぞれの人の文章には、目次から飛ぶようにリンクを張る。本文があまりに長いのでを三つに分けたが、それでもそれぞれ200kb以上ある。

原稿では一見問題ないように見えても、internetにすると、活字のサイズが変わったりフォントが変わったり、全く予期しないことが起こる。原稿の量が増えればトラブルも比例して倍増する。

そのたびに原稿をhtml文書にして1字1字を見ながら間違いを探して直すことになる。

土曜日6時間、日曜日3時間、そして今日の月曜日3時間を使って、やっと「日本語クラブ23号」第1部が出来た。後の二つは何時出来ることやら。

「日本語教育校」の原稿も集まっていて、これもページ更新をした。2005年度会員紹介も更新。

やれやれ。来期からは「日本語クラブ」のHPへの収録は。編集係にやって貰いましょうね。

 

2006年7月09日 (日)  山形 達也

日曜日、中道先生たちが加藤先生に案内して貰って中街の古物市をみて歩くというので、ご一緒にと誘われた。加藤先生は明日の月曜日には飛行機に乗って帰国である。1週間前に帰国できたのに、この週末まで滞在を延期して古物市巡りに固執したところが加藤先生らしい。

歩きながら聞いてみる。やっと金曜日から動き出した「加藤正宏のHP」には、すでに反響が二つあったそうである。ひとつはmailでひとつは公開掲示板で。

どちらも「加藤先生、大変苦労をしているそうですね。頑張って!」という内容だそうで、それを聞いて「こっちだって大変な苦労をしたのに誰も何もいってくれないよ。」と私は口をとんがらかせてしまった。ま、しょうないか。

「瀋陽1」を新しく改訂してとりかえたのと、「瀋陽10」が新しく加わったので、この二つは教師会のHPからはリンクを張るだけになった。加藤先生はまだまだ沢山載せるものがあるということなので、夏休みも頑張ることでしょう。時々覗いてみましょう。

http://www.geocities.jp/mmkato75/index.html

前々から「自分のHPを作りませんか、手伝いますよ」と誘っていた中道先生は、加藤先生が出来るようになったのを知って俄然興味津々となって、「帰国する前に教えて貰えないかしら。どのくらい時間があったらいいでしょう。」

パソコンを使い出して2年という加藤先生に比べると中道先生は年季が入っている。先ず作ってみるのに1日あれば十分。復習してしっかりと独り立ちできるまでに二日もみておけば大丈夫。かな。

ということで、近いうちにHP作成にお付き合いする可能性が出来てきた。

 

2006年7月7日 (金) 山形 達也  

教師の会のホームページは内容豊に情報を発信していて、かなり良質なホームページだと自負しているけれど、目玉のひとつに会員交流のページの中の「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」がある。

これは今まで西安、長春にそれぞれ2年、瀋陽にも2年になる加藤先生の発信している記事で、高校の世界史の先生だった加藤先生の面目躍如。中国の東北地方を占拠して満州国を作った日本の史跡をたどる物語である。

写真が多く、教師の会のホームページに許容される容量の大部分をこの「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」が占めていて容量の上限が近づいてくることが予想される2005年秋、山形達也は加藤先生に自分のホームページを持つように勧めた。

2004年秋に瀋陽に来るときに初めてパソコンを使うようになったという加藤先生は、自分のホームページ作成に全く乗り気ではなかった。

しかし教師の会のホームページ作成を預かる身の山形としては、容量がパンクするのを見ているわけにはないかないし、「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」のページも充実させたいし、どうしても加藤正宏自身のホームページ開設が必要なのだった。

それで2004年秋には彼のホームページ作成を始めた。そして実際に作成した。

http://www.geocities.jp/mmkato75/index.html

教師の会のホームページとは重複するけれど、ある程度の内容を作成し、そして加藤先生が自分自身で作成出来るように指導を始めた。

しかし、加藤先生がやっと本気で作る気になったのは2006年6月である。あと1年瀋陽滞在を決めた加藤先生は、突然あと1年しかないことに気付き、やっと自分で作ることを覚える気になったのである。

それまで彼の「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」は、教師の会のHPも、加藤正宏のHPでも、何時も山形がホームページに載せるための作業をしていたが、歴史的な2006年7月5日、夕方5時間を掛けて山形は加藤先生に「加藤正宏の瀋陽史跡探訪」の「1.」の作成を指導した。

7月5日午後からまず原稿のひとつ「1.」を使ってinternetに載せる手順まで教えた。しかし7月7日現在まだinternetには載っていない。

7日の朝、加藤先生からその次の「10.満鉄附属地補足」を新しく自分で作り始めたけれど、「うまくいかない、写真は載せたけれど、字が回り込む機能がこのソフトにはない」とう電話があった。「1.」もサーバーには送り込んだんですが、見えないのですよ。」ということだ。

「いらっしゃい、一緒にやりましょう。」ということで、加藤先生は朝7時半から山形の研究室に現れて、私の隣で頑張っている。山形は勿論、必要なことはずべて、何度も何度も何度も、何度でも何度でも何度でも、教えている。

パソコンはともかく慣れて覚えるしかないのだ。ともかく覚えて独り立ちして下さい。そうすれば教師の会のホームページから膨大な加藤関係のファイルを削ることが出来る。教師の会からはリンクを張ることで今までどおり使えることになる。

頑張れ頑張れ、カトウ!!!

頑張れ頑張れ、カトウ!!!

朝7時半から夕方4時半まで。

そして夜は食事の後8時半まで。

「1.」と「10.」は教師の会からは削って、教師の会からはリンクを張ることが出来た。

ともかく、出来ました。後は加藤先生が沢山の原稿を端から載せていくだけ。。。

 

2006年7月3日 (月)  山形 達也

7月1日の送別会では、全員の手元に歌集があったためか、それぞれが歌を歌った。その順番に歌われた歌を記録しておけば、それを見ることでその場の情景が甦るでしょう。

一人で歌われた歌もあれば、歌集を見ながら全員が参加して歌った歌もあります(先生の敬称は省略)。

元々は今期限りで瀋陽を去られる方々の挨拶、そして残る側の贈る言葉が交わされる予定でしたが、挨拶の後に、「それでは私はこの一曲」ということになり、それがこの送別会のスタイルになりました。

南本みどり 「故郷を離るる歌」

安藤知恵 「下町の太陽」

(これには途中から「自称アンディ」といって中道秀毅も参加)

長澤裕美 「なごり雪」

(途中から小林豊朗も参加。小林豊朗の大好きな歌です)

中道恵津 「贈る言葉」

(藤田 敏雄の「若者たち」を探したが歌集になかったので)

森林久枝 「古時計」

加藤正宏・林与志男 「王将」

加藤正宏 「雪の降る街を」

峰村洋 「案山子」

(全体を二部に分けて合唱、最後に合掌)

辻岡邦夫 「りんごの歌」

林与志男 「酒は涙か溜息か」

小林豊朗 「出世街道」

小林豊朗 「東京の灯いつまでも」

中村直子 「涙そうそう」

石井みどり

宇野浩司

高山敬子

森 信幸 「いちご白書」

(森さんは長髪のかつらを着けて、サングラスを掛けて恰好よかった。このときのための用意万端。2番からは、今度は小林豊朗が頭にかつらを載せて参加。森さんは木製のハンガーをギターと見なして逆手に持って右手で弦をはじく真似をしながら歌い続けた)

中道秀毅 「元寇」

山形達也 「人を恋うる歌」

(40年前に秀毅先生が歌ったに違いない歌を秀毅先生に捧げる)

山形達也 「恋の季節」

(40年前に恵津先生が歌ったに違いない歌を恵津先生に捧げる)

中道秀毅・山形達也 「山のロザリア」

山形達也 「君こそ我が命」

(今期限りで瀋陽を去られる長澤裕美先生に捧げる。やっと歌に託して気持を伝えました)

小林豊朗 「定時制の歌ー三田明」

山形貞子 「はるかな友に」

鳴海佳恵 「仰げば尊し」 全員で斉唱

そして6時にお開き。司会:渡辺文江

この会では岡沢さんが用意してあった携帯ピアノによって時々伴奏が付きました。

 

2006年7月3日 (月)  山形 達也

7月1日に2005年度教師会の送別会が東北大学招待所餐庁で開かれた。

6月いっぱいですでに、丸山羽衣、井料衛の二人は去られている。この二人の先生の送別会は6月24日の定例会の席が兼用した。6月24日の夜の「祝賀会」はお客を招いていたので、形の上では送別会ではなかった。

今回は:

安藤知恵(1年)、小林豊朗(2年)、南本みどり(2年)、高山敬子(3年)、中道恵津(4年)、中道秀毅(4年)、長澤裕美(5年)、

の7名の先生の送別会だった。

出席:

森領事、安部玲子、池本千恵、石井みどり、宇野浩司、岡沢成俊、加藤正宏、金丸恵美、河面弥吉郎、辻岡邦夫、鳴海佳恵、林与志男、林八重子、南本卓郎、峰村洋、森林久枝、山形達也、山形貞子、渡辺京子、渡辺文江、前田静子

欠席6名(岩田、片山、中野、野崎、田中、山田)

司会:渡辺文江

2005年度は、会員42名、そのうち今年度末までに去られる先生の合計は14名。

今回の送別会の特筆事項は、教師の会編集の歌集が出来てそれを全員が持ったことである。この歌集は元々は山形達也が6月はじめの旅行のために企画製作したものだった。

この会の集まりの折々ごとに中道秀毅先生が「青、赤、黄色の 衣装を付けた テントウムシが しゃしゃり出て・・・」という具合に何時も歌集片手に「しゃしゃり出て」歌を歌われた。それは、その会を限りに帰国される先生への惜別のこころを籠めた歌が多かった。その歌集は秀毅先生がもう三十年来使っておられるものだった。

山形達也は歌集が手元にあれば歌を歌う先生ももっとあるだろうに、と思った。一人一人それぞれがこのような歌集を集まりの時に持っていたら、会員の心がひとつになって会が盛り上がるのではないか。今は歌の本はない。どうすればよい? 「作ってしまえばよいのだ。」

それでinternetで歌を探して歌集作りを始めた。曲は秀毅先生にも相談した。採録する歌は増えて5百曲近くになったので、二つに分けて、戦後編と、その他(戦前の歌、童謡、寮歌、労働歌、外国の歌、コマソン)の二部にした。ひとまず作った歌集は6月はじめの旅行に間に合わせた。バスに乗っている間の無聊を歌が埋めた。

その後小林先生からも歌の推薦を受けて、7月1日には補充新版を作成して今回は会員全員に配ることが出来た。というわけで、二十数曲(歌集に載っていない歌もあった)が次々と歌われ、何と送別会は2時に始まって、終わったのが6時だった。

P.S.なお6月24日には南本先生は今期で瀋陽を去られることになっていたが、事情が変わってあと1年薬科大学に残られることになった。

 

2006年6月25日 (日)  山形 達也

日本語資料室の移転に際して多くの方々にお世話になったので、6月24日の教師の会の集まりのあとは、「日本語資料室移転開所祝賀会」と称してお世話になった方々を招いて食事会を計画した。

計画では招待が14名、こちら側が30名。44名入る場所を資料室の近くで探すというのは至難なことだった。近くの天都飯店ホテルに訊いてみてもその広さの部屋がない。私たち手分けをしてあちこちを探し、実際に行ってみて食事もして見て、最終的には新資料室に近い「香味館」にした。二つのテーブルで24名という部屋にもう一つテーブルを入れ、44名で食事をしようというのである。

招いた方々の多くは都合が最終的には付かなくて、来てくださった方々は、森領事、日本人会世古会長、高木副会長、苫谷事務局長、前の資料室の1階のカレー屋さんをやっていた張さんの5人だった。教師の会は中国語検定試験を受けに行かれた長沢、森林先生を除いて29名が参加。今期から参加の新人、前田、山田、田中の3名も加わった。

この会が最後となる丸山羽衣さんに「Love is over」を秀毅先生が捧げた。山形も乗って「ラストダンスは私に」を羽衣さんのために歌った。学生時代は長髪でフォークを歌っていたという森領事の歌「学生街の喫茶店」や、高木さんの「乾杯」も出て、会は大いに盛り上がり、8時終了の予定は9時になった。

教師の会としてはお世話なった方々に心からお礼を言いたいと思って計画した会だった。全部の方に入らしていただけなかったが、それでも貴重な時間を使っていらして下さった方々には感謝の意を表すことが出来たと思うし、さらにすすんで一緒の食事とおしゃべりで心からの深い交流できたと思う。

 

2006年6月25日 (日)  山形 達也

6月24日は6月の教師の会の定例会で、今期最後の集まりだった。5月20日に日本語資料室が引っ越して以来の初めての会議。

引っ越し以来峰村先生をはじめとする先生たちが連日のように資料室を訪ねて本の整理、整頓、清掃、本棚の製作など行い、綺麗な資料室が出来上がっていた。奥の部屋は旧資料室から運んできた大きな机の入った会議室。手前の広い部屋は本棚に囲まれた閲覧室。窓も広く明るく広々としている。

会則が変わって、会費が100元になった。今までは50元。しかし、これからは電話、電気代を自分たちで持つことになったのでこれは当然のこととして受け入れられた。新しい会員には今度の引っ越しで今の会員が特別徴収を負担したように入会金という形で50元をお願いすることも決まった。

現会長の南本先生が今期で旧に帰国されることになったので、次期会長を選出した。3人の候補の中から、薬科大工の峰村先生に次期会長をお願いすることになった。峰村先生はこれで3年瀋陽に滞在されている。今までは日本語資料室係として資料室の責任者をやっていただいていた。南本先生が去られることは痛手であるけれど、峰村先生を会長としてこの会は立派に伝統を受け継いでいけるにちがいない。

今期限りで瀋陽を去られる先生のうち、丸山羽衣、井料衛の二人の先生は6月中に瀋陽を去られるので、この席が送別会を兼ねた。

会議は4時半まで。そのあとは新資料室移転にお世話になった方々を招いて、新資料室のお披露目をしてから、近くのレストランで宴会。

「新日本語資料室」御披露目祝賀会

1.期日:2006年6月24日(土)

2.受付:16時半〜 新資料室

3.開宴:17時半〜 於「香味館」

4.会費:一人50元

5.出席予定者:総計 42名

来賓招待(12名)

赫子進(沈陽延祺投資有限公司董事長)(「開元ビル」オーナー)

尚世新(沈陽延祺投資有限公司総経理)(「開元ビル」責任者)

進藤俊一 瀋陽日本人会会長(沈陽古河電_有限公司総経理)

世古健治 同 副会長(瀋陽松下蓄電池有限公司総経理)

関屋忠彦 同 同 (ブリジストン瀋陽タイヤ有限公司総経理)

高木純夫 同 同 (伊藤忠商事KK瀋陽事務所長)

苫谷耕司 同 事務局長(全日本空輸株式会社瀋陽支店支店長)

丸尾達也 同 幹事 (東芝電梯沈陽有限公司総経理)

中山 猛 同 幹事 (沈陽普利司通有限公司総経理)

大貫 明 (多摩運輸有限公司総経理)

古谷浩一 (朝日新聞社瀋陽支局長)

張潔

ご欠席者:蔵本幹也(瀋陽三洋空調有限公司総経理)

董磊 (関西遼寧協会)

教師の会出席所定者:

南本卓郎、 鳴海佳恵、 渡辺文江、 安藤知恵、 池本千恵、

石井みどり、 井料衛、 岩田敏和、 宇野浩司、 岡沢成俊、

加藤正宏、 金丸恵美、 河面弥吉郎、 小林豊朗、 安部玲子、

高山敬子、 辻岡邦夫、 中野亜紀子、 中道恵津、 中道秀毅、

中村直子、 野崎勉、 林与志男、 林八重子、 丸山羽衣、

南本みどり、 峰村洋、 山形達也、 山形貞子、 渡辺京子、

 

次第予定

司会:野崎勉

1)    開会の辞

2)    主催者挨拶並びに来賓紹介 日本語教師会会長

3)    「開元ビル」オーナー紹介 日本人会副会長 高木純夫

4)    「開元ビル」オーナー挨拶 董事長 赫子進

5)    乾杯 日本人会会長 進藤俊一

6)    祝宴

7)    (余興)

8)    万歳三唱 瀋陽総領事館領事 森信幸

9)    お礼の言葉 日本語教師会副会長 鳴海佳恵

 

2006年6月5日 (月)  山形 達也

6月3〜4日には日本人教師の会始まって初めてという1泊バス旅行で岫岩に行きました。瀋陽から南にバスで約4時間です。

中国は玉が尊ばれるくにですが、その玉の有数の産地が岫岩で、歴史以前から中国の玉の7割以上を生産していると言うことです。瀋陽に岫岩玉を扱っている店で働いている人と知り合ったことから、山形が岫岩を訪ねる旅行を計画し、途中から中道恵津先生も幹事に加わって、家族も含めて27名の旅行という旅行が実現しました。

三つ星クラスのホテル(二人部屋で一人100元)32人乗りのバスのチャーター代金、旅行会社のガイドひとり、岫岩の博物館見学料、3食食事こみで一人450元でした。reasonableだったと思います。

3日の朝8時に遼寧賓館集合で現地到着ホテルで食事をしてから、35キロメートル離れた鉱山まで行って、世界最大の6万トンといわれる翡翠の原石を見ました。外側は茶色のべらぼうに大きい石で、一部に翡翠が露出しているところを皆で代わる代わる触りました。この鉱山への泥の道に玉の破片が沢山落ちているのです。拾うのは自由ですといわれて、皆それぞれに沢山拾ってきました。

鉱山を降りて玉器製作工場を見学し、次いで玉器製作で著名な陳さんの工房に寄りました。回転ヤスリに水を掛けながら職人が抱えた玉を削っていって、美しい三次元の様々な像を造り出します。細かな意匠を描きようもないのに立体的に削りだしてしまうのは、それぞれ名もない職人の腕に掛かっているわけで、ただただ驚きです。

ここで買い物をしたのは飾ってあった翡翠の茶器が気に入って、陳さんと値段の交渉をして見事納得できる値段を勝ち取った山形貞子先生でした。

私たち日本人はあまり玉に馴染みがないので、はじめは店に寄ってもあまり関心が持てなかった人が多かったのですが、翌日の朝、玉の市場に行った時には、それぞれに走り回って気に入った玉の首飾りなど誰もが夢中になっていました。私も餃子作りの麺棒をはじめの日は15元で、そして次の日は何と5元で買いました。麺棒といっても玉で出来ているのですよ。

この玉の岫岩では今アカシアが盛りでした。バスの道中、蜂蜜の巣箱を見付けた中道先生が、「花を追って蜂蜜を集める人たちが今ここに来ているのだわ、直接交渉をして蜂蜜や、ロイヤルジェリーを買うことが出来るかも知れない。」ということで、二日目の帰途、そのような蜂蜜集めの人を見付けてバスはストップ。ちいさなテント小屋の周りに巣箱が30個くらい。

おじさんとおばさん相手の中道先生の値段の交渉は延々30分続きました。高い値段を提示するおばさんもこれを値切る中道先生も、どちらも譲らず、これは凄い見物でした。

とうとう蜂蜜3.5kgが55元、ロイヤルジェリー500gが50元で纏まりました。おかげで何の混ざりものもない純水の蜂蜜とロイヤルジェリーが買えたのです。

今回のバス旅行は、初めて玉を身近に感じることが出来たという収穫のほか、拾ってきた玉の後で磨いたり、蜂蜜を食べながら、また旅行を思い返すというとても豊かな思い出を残す旅となりました。

 

岫岩玉見学バス1泊旅行(2006年6月3・4日)

2006年5月14日 (日)  山形 達也

日本語資料室にある書籍、ビデオをなどの大半は、瀋陽日本人教師の会のものではなく、2000年に資料室を設立した関西遼寧協会のものでした。その後個人的な寄付、国際交流基金による購入などで書籍などの備品は増えて来ましたが、大半のものは関西遼寧協会の所有でした。

資料室の場所そのものも関西遼寧協会の所有する一画に置かれていましたので、日本人教師の会はその資料室の内容の充実を図りながら資料室の運営にのみ責任を持っていました。

今回、今までの資料室の場所から移転するに当たり、関西遼寧協会から、2006年5月8日付の契約書によって、資料室に所有する書籍、ビデオ、書架、机、椅子、パソコン、プリンター、コピー機などが無償ですべて「瀋陽日本人教師の会」に譲渡されました。

この日以降は上記の物品はすべて日本人教師の会の所有であり、管理するものとなります。

関西遼寧協会を代表とする多くのボランティアの方々の好意により、今までの日本語資料室は支えられてきました。今後はそれを土台とする大きな財産を私たち瀋陽日本人教師の会が受け継ぎ、この地域の日中友好の発展に尽くしていきたいと思います。

 

2006年4月16日 (日)  山形 達也

第10回瀋陽日本語弁論大会が、市内の五つ星ホテル、商貿飯店で4月16日(日)に開かれた。昨年は上海で始まった反日デモが瀋陽にも飛び火し、とうとう4月17日に予定された第9回大会は中止となってしまった。その代わりに在瀋陽日本国総領事館で日本週間の間に弁論発表会が代わりに開かれ、最終参加者の殆どがスピーチをすることが出来たが、順位は付けられなかった。

弁論大会は日本語を教える学校に原稿募集を伝える12月の手紙から始まり、原稿が3月に集まってからすべての原稿の読み比べが行われて、大学生I部15人、大学生II部15人、高校生の部10人が選ばれ、最終予選に臨む。

第10回瀋陽日本語弁論大会はその最終予選である。聴衆の前で約5分のスピーチを行うが、事前に用意したスピーチだけでは甲乙付けがたいので、即席スピーチというものがある。これはくじで引いたテーマ二つの中からひとつを選んで5分間考え、2分以内でスピーチをするというものである。日本語能力が付け焼き刃ではこの即席スピーチをこなせない。

2年前の大会が私の聴いた初めてのそしてただひとつの大会だった。その時のスピーチのトピックスは、「お母さんありがとう」「両親に一番感謝している」というような家族ものが多く、聴いているうちに同じパターンの繰り返しで辟易した。

今回の実行委員会はこの手のテーマを避けようと決めていたので、内容は、地球環境問題、中国の交通道徳、世界の中の中国、自分たちの将来など今まで違って新鮮であった。

日本語そのものは高校の部が断然上手く、大学生I部(日本語学科のように日本語専攻)、大学生II部(薬科大学のように日本語を学ぶが専門は別に持っている)の順となるが、スピーチの内容、即席テーマの話の内容、取り上げ方などは、この順とちょうど逆になり、大学生II部が断然勝っていて、聴いていてとても楽しかった。これは日本語以外の自分たちの専門があり視野が広いということを意味しているのだろうか。

以前の中国では教条主義的な発言に終始していたと思われるが、今はもっと自由に自分の意見を述べるようになったように思える。このように意見を述べられる社会が来たことは、躍動する明るい中国の未来を示していると云えるだろう。

私は午前の部の司会をした。司会者としてジョークを飛ばしたり、明るい声援を送ったりしたいところだが、審査員(どの部も6名)に外部の声として影響してはまずいに違いないし、ただ進行だけに徹していて、実を言うと緊張しているだけで楽しくはなかったが、予定の時間通り進めるのが仕事と割り切った。

午前9時開始で11時半まで大学生I部15人、午後1時から大学生II部15人、高校生の部10人で終わったのが4時20分。その後、中国医科大学の5人の学生さんによる夜花笠音頭、瀋陽師範大学の8人の1年生による「津軽海峡冬景色」の踊りの披露があって、最後の選考の発表と授賞式が5時50分から行われた。

それぞれの部から、1等1名、2等1名、3等3名、が選ばれ、大会を主催した日本人会の会長、副会長から賞を手渡された。

これだけ見事な日本語遣いが瀋陽でこのように育っているのである。瀋陽日本人教師の会、瀋陽日本人会の長年の努力がこのように稔ったことをこの大会は示しているが、さらにこの地に日本語が根付き、広がり、両国の友好親善が進むよう願ってやまない。

 

2006年3月5日 (日)  山形 達也

3月4日の土曜日、春節休み明けの新学期初めての定例会が開かれた。何時もだと第二土曜日なのだが、今は弁論大会開催を目前に控えて、少しでも早くこちらの態勢を整える必要があってこうなった。出席は30名くらい。

多田代表が1月末で突然廈門に去られて、副連絡係による代表代行が続いていたが、改めて代表代行を努めておられた南本卓郎先生が代表に選ばれた。それに伴って,遼陽の渡辺先生が副連絡係に選ばれた。

いろいろとお忙しいでしょうが、どうかよろしくお願いいたします。

新人として東北大学に多田先生の後任の河面先生が着任。東北大学の自動化学院で2年前から研究室を開設しておられる野崎勉先生も、初めて参加された。

人が去ってもまた新しい会員を迎え、教師の会がこうして発展していくのはとても嬉しいことだ。でも、バランスからすると、平均として老化の方に傾いているみたい。

二年間会員だった竹林和美先生が3月26日に大連経由で帰国されることが発表されたので、定例会のあと、急遽有志が集まることにして大明天府という近くの手頃なレストランで送別会を開いた。個室に丸テーブルを二つ入れて貰って二手に分かれたが、全部で27名集まった食事会だった。

竹林和美先生は「これきりお別れと思うとは悲しくなるので、また会えると思ってお別れします」と話された。

仲間との別れはつらい。また何時の日か、互いに元気で、成長して会いましょう。

最後には前代表の多田先生直伝の「フレー、フレー、カズミ」が、岡沢先生により熱演された。岡沢先生の大声は初めて聴いたという人が多く、それだけで興奮ものだった。

「フレー、フレー、カズミ」

「フレー、フレー、カズミ」

なお、いつものように秀毅先生が皮切りとなって、竹林先生に送る歌(波布の港)を歌い、小林先生の(名残りの雪)がつづき、そして野崎先生の(オーソレミオ)が会場を魅了した。

この食事会では、森領事にご馳走になってしまった。

「ご馳走さまでした。」

2005年12月22日 (木)  山形 達也

137億年前に宇宙が誕生したという。

そのうち、私たちの知っている物質が4%、暗黒物質23%で、アインシュタインの予言した暗黒エネルギーが70%。

その誕生したときの宇宙の大きさは?暗黒物質って?暗黒のエネルギーとは?

理解できない。付いていけない。

地球は46億年前に誕生した。生命は35億年間に誕生したという。

瀋陽日本人教師の会は何時誕生したのだろうか。石井先生の瀋陽赴任時、つまり7年前にはあったらしい。

何時か歴史を調べよう。

私にとっては私がこの会に参加し、ホームページつくりに加わった2003年秋からこの瀋陽日本人教師の会は存在している。

ついでに書いておくと、ホームページ作成は最初は大変だった。

ホームページ作成のためにはWindows パソコンを使わなくてはならない。私は1987年からNECパソコン、1989年から切り替えてMacを使っているのでパソコンではベテランの領域にはいるけれど、Windowsは使ったことがない。ホームページ作成も経験がない。

だから、使いにくいWindowsを前にして毎日がトホホという心境だった。

2003年9月に係になって翌年の2月に相棒の河野先生が瀋陽を去って帰帰国された。それまで二人で勉強をしていたわけだが勉強だけで実際には何一つ進んでいなかった。前年度までに作られたページに更新も全く出来ていなかった。

2月半ば、日本から戻ってきた私は心機一転、ホームページビルダーに取り組み、懸案の更新に成功したが、今思い出しても、あの辛い切ない気持が甦る。

もっとも一旦出来るようになれば、やり方が違うだけでホームページ作成に困難はなくなった。それ以来、山形達也は教師の会のホームページ作成の中心となって、会員の助けを得て情報を集めながらその内容をどんどん増やしていくことになった。

ホームページを自由に作るようになったといっても、Macに比べてWindowsは使いにくく遅れている。世界中の人たちに使われていてソフトの種類も圧倒的に多いけれど、だからといってMacより優れていることにはならない。はるかに使いにくいマシンだと思う。

 

2005年12月12日 (月)  山形 達也

11日の日曜日は瀋陽日本人会の主催するクリスマス会が五つ星ホテルの一つであるマリオットホテル(万豪酒店)で開かれた。教師の会の会員は、この会には個人の資格で入っている。それでも、教師の会からも実行委員が出ていて、今年は南本卓郎先生だった。

この日までの準備はもとより、当日は赤い服を着て、受付、運営に走り回るのである。

会費は一人150元。このほかにテーブルごとの勝ち抜き試合があり、これの参加料が一人10元。

12時に、日本人会長の挨拶に引き続き在瀋陽日本総領事館の小河内総領事の今年を振り返るという講話があって、全日空窪田さんが乾杯の音頭を取っ手会が始まった。

最初の出し物は、今年発足した日本人補習学校の生徒たち17人で、岡沢先生に率いられてクリスマスソングを歌った。

日本人の子弟がこのところ急激に増えている。実際にはもっといるけれど、土曜日に開かれる補修校にはこれしか通っていない。今に日本人学校開設の要望が強まるだろう。今のところ、補習校で働いているのは、多田、岡沢両先生の二人である。

雑伎団の演技を見ながら食事が出た。

テーブル対抗は、「ドラエモンの作者は手塚治虫である「光の三原色は、赤、青、黄色である。○か×か」というような質問で振るっていって、最後に残った4テーブルでじゃんけん。買ったテーブルは1千7百何十元を手にした。

それから皆の期待に満ちた視線を浴びて。ビンゴゲーム。豪華景品が次次と幸運な人たちに配られた。

今日の総合司会は、ブリジストンの潮田さん。体育大学の元気な学生と、全日空の安藤さんが司会。

3時にお開き。お疲れさまでした。

教師の会からは、私たちの他、南本夫妻、峰村、高山、竹林、斉藤、多田先生などが参加。

 

2005年12月10日 (土)  山形 達也

今日の12月の定例会は終了後に今期で帰国する斉藤先生の送別会が予定で組まれていました。

ところが定例会の議事の最中にこの9月に代表に選ばれたばかりの多田先生が同じく今期限りでアモイに移るという発表があり、全員の胸に衝撃が走りました。7年間にて瀋陽の主だった石井先生に7月に見捨てられたばかりでした。

とりあえず南本副代表が必要なときには代わりを務めて、3月はじめの定例会で代表選出をしようと言うことになりました。短期の滞在の先生が多い中で例外的に長い石井・多田先生などを見ていると、瀋陽にずっとこのまま永久にいらっしゃるという安心感となってしまっているので、こういう現実を突きつけられると慌ててしまいます。

というわけで、送別会は斉藤先生と、多田先生が対象でした。

多田先生が何時も送られる人を「フレー、フレー」といって送るので、多田先生が斉藤先生にエールを贈り、そのあと全員で多田先生にエールを贈りました。

 

2005年12月10日 (日)  山形 達也

昨日の12月の定例会でHP係からブログの勧めがあった。

日本語教育に携わっている現場の教師の声を生々しく発信しようという試みで、これには各個人がブログを持って書きまくらなくてはならない。通常は敷居が高い。

それで、岡沢先生が各係のHP担当者に、ブログを始めなさいと勧誘、あるいは命令を出したところ、奏功して、今日現在8名9サイトが走っているというわけだ。

こんなに簡単に作れますよと言うことで、後どれだけの先生が乗ってくれるだろうか。今すでに女性教師Aさんから始まってIさんまでいる。アルファベット26文字に入りきらない数の教師の数だが、さて、どうでしょう。

 

2005年12月3日 (土)  山形 達也

今までひそかにBlogを始めていた女性教師Eさんの存在が明らかになった。彼女は今年いっぱいで瀋陽を離れなくてはならない。それで、瀋陽の教職の思い出、教室のこと、日本語教育のこと、教え子のことを書き始めたという。

これで、5人、

今朝、男性教師Bさんからmailが入っていて、新たに男性教師Fさんが加わったという。某大学の日本語学科で藤村の「破戒」を教えているというので高度の日本語教育に関わっている。

これで、6人。このプロジェクトを発足させ、声をかけ始めてから参加者が倍増した。教師の会の「瀋陽の日本語教育の現場の声」は大分声が大きくなったにちがいない。

この増加の趨勢を背景に男性教師Bさんは12月10日の定例会でBlog Projectを説明し、いっそうの勢力拡大を図るということだ。

先生方、始めるのを急がないと、男性教師Hか女性教師Hになってしまいますよ。

 

2005年11月28日 (月)  山形 達也

男性教師Bさんの熱心な勧誘によって、女性教師DさんがBlogに登場した。

これで、教師の会のHPからリンクしている個人Blogは4件になった。それぞれを訪ねれば瀋陽の日本語教育の現場がのぞけるという趣向。

男性教師Cとして登場している私は、最終的にはラクテンのblogだけに書き続けていて、あとは自然消滅。

ラクテンのblogはほかのと比べてあか抜けていないのが難だけれど、使いやすいのが気に入った。ただし、ラクテン仲間はあまりacademicではないみたいな印象を受けている。これは、教師の会のHPの中にBlogがあればよいのだから、我慢しよう。

三日坊主にならずに6日間続いたので、昨日自分のHPからもリンクを張り、Blogを持っていることもメニューに載せた。

男性教師Bさんの熱心なBlog布教に応えて、Blogがもっと増えて欲しいし、そしてその時は続けて欲しい。

ところで、日本語クラブ21号をwebに載せてから、少しずつ写真を増やした。

昨年度までの会員だった沢野美由紀先生からは、瑠璃ちゃんの写真が届いた。会合には何時も連れられて出て来ていた瑠璃ちゃんは物怖じしない性格で皆からかわいがられていた。

このほか印刷された日本クラブには入っていない写真が載っているのは、鳴海、高山、峰村、丸山、石井、加藤、金丸の諸先生の分です。

今回の21号並みに以前のページもこぎれいにしたいのですが、時間が掛かりそう。ま、引退したら、ね。

 

2005年11月23日 (水)  山形 達也

教師の会のホームページからリンクを張って、先生二人の個人的なブログにアクセスできるようにした。これは「瀋陽日本語教育現場の声」を関心のある人たちに伝えるという一大プロジェクトの一環である。

ついでに私のHPにもリンクを張った。

このようなブログを作る仲間を増やすために、仲間の男性教師Bさんに、次の時の定例会にブログの作り方の解説をして下さいとお願いした。

「 承知しました。しかし、説明をその時にしただけでは誰も始めないでしょうから、今のHP係(8人いる)が今すぐブログを始めましょう。やりかたは簡単です。ブログを始めるのがいかに簡単だったか、あるいは苦闘の様子を話すと皆にわかりやすいから、直ぐに始めましょう。」そして私にも名指しで、「HPだけではなくブログも始めなさい!!!」と、檄が飛んだ。

名指しの私は逃れようがなく、この忙しいのに、何と、ブログ造りを始めてしまった。今週の木、金、と新しい内容の講義がある。そして土曜日は研究室のセミナーで新しい論文を紹介しなくてはならない。勉強のために全く知らないカルシウムイオンチャンネルに関する論文を紹介する予定で、読むものがたくさんある。

火曜日の朝には、推薦されるままのYahooでつくったところ、出来が気に入らない(字の間隔があいてしまう)。それで夜帰ってからDoblogで作り始めた。ところがこれはアクセスに時間が掛かって、ドメインを二つ作ってしまったらしい。けれど自分のページにアクセスできない。

次にinfoseekにアクセスして、楽天にブログを作った。これはスタイルが多少田舎臭いところがあるが、初心者でも迷うところが少ない。おまけにブログへの書き込みは公開するところだけではなく非公開分も指定できる(つまり秘密の日記が書いておける)。これはあとで自分だけで見ることが可能である。

と言うわけで火曜日には3つのサイトにブログを作ってしまった上に、水曜日には私のMacについているexciteでブログを作った。これは大分スマートだし、アクセスも簡単である。問題は、カテゴリーにどのように指定したらよいのか、まだ分からないことである。

つまり今4つが走っている。まるでブログ荒らしである。ごめんなさい。二〜三日のうちにどれか一つに絞り込もうと思う。楽天かexciteになりそうである。

ほかの先生たちもやっているかなあ。

やって欲しいよなあ。こんな大爺が頑張っているんだから。

 

2005年11月20日 (日)  山形 達也

今回の日本語クラブ21号のwebへの編集ほど手間取ったのは初めてだったが、やっと午後にはサーバーにアップロードできた。

一人の先生からは、お願いした写真が来なかったが見切り発車してしまった。

字体の不揃いもなく(出来るはずのない原稿をコピーしても出てくるのが不思議)、サイズも同じで綺麗な仕上がりになった。原稿は二枚あるけれど(20号までは1部、2部と分けていた)それを感じさせない仕組みに仕上がったのが嬉しい。

HPビルダーを使い始めて1年半経って、やっとhtml文書がいじれるようになった。

夕方、二人の先生のブログを教師の会からリンクを張ってアクセスできるようにした。題して「瀋陽日本語教育現場の声」と、物々しい。

もうすこしブログを持つ先生がたが増えると良いのだけれど・・・。

 

2005年11月19日 (土)  山形 達也

土曜日の午前のセミナーが終わると週末の自由な時間が沢山あるような気がして幸せな気分になる。

それで午後は日本語クラブのwebのための編集の続きに取りかかった。今回の日本語クラブは原稿が満載で、チェックポイントが多い。

Wordの原稿に付いてきた写真は、一つ一つリサイズして(縦横の日がゆがめられているのだ)、おまけに写真の番号を付け直す(Wordで写真を載せるときにはこれを気にしなくて良いけれど、internetではそれぞれの写真に別々の英数字のtitleを付けることが必須)。

それと不思議なのは、Wordで綺麗な原稿にしても、それをHPビルダーに持って行って(その段階ではまったくおかしくない)、webで見ると字体や字の大きさが所々でおかしくなっている。

おかげで、タグを少し覚えてhtml文書として校正することを覚えたが、とても全部には手が付けられない、膨大すぎる。というわけで、すべてを綺麗な表示にできない。

Wordの日本語クラブの原稿についていた写真のうち数枚の解像度が低すぎてwebでは使えない。2枚は、どうしてかモノクロをカラーに変えられないし、リサイズも出来ない、コピーも出来ない。どうしてこうなるか不明。

それで、合計7人の先生方に改めて写真を送って欲しいと依頼した。今日までに二人以外からは写真が届いた。

今回は、原稿が長いので二つに分割しているけれど、相互に飛べるようにして原稿が二つに分かれていることが分からないようにすることに成功した。今まで、出来るはずだと思っていたのが、ファイルをたぐる記号(#)を見つけることが出来たので、初めて出来るようになった。ワーーーイ!

 

2005年11月15日 (火)  山形 達也

11月12日の定例会で承認された会則をホームページに載せた。

新人の林与志男・八重子夫妻の写真と紹介を載せた。

高山敬子先生の写真が新しくなった。可愛い〜と思わず叫びたくなるような。

新疆の民族衣装に身を包んだ鳴海マダムのすてきな近影を、会員紹介欄に載せた。

日本語クラブ21号は11月12日付で会員の手に渡った。その原稿も受け取っているけれど、ホームページに載せるための写真の処理に時間が掛かってまだ載せるところまで行かない。

もう一寸時間を下さい。

 

2005年11月12日 (月)  山形 達也

12日は2005年度第3回定例会。

会則の改正最終案が承認された。会員資格が、日本人で日本語を教える教師だけだったのが、日本語を使って教育・研究を携わっている人たちにまで広がった。

というわけで、私たちも晴れて公式の会員であることが認められたわけである。めでたし、めでたし。パチパチ。

航空学院に新任の先生二人。

日本人会と教師の会との関係が報告され。議論された。しかし、歴史的な経緯を正確に知っている人たちはいないので、現状の日本人会から受ける扱いは教師の人たちに不満を生じているようである。日本人会主催のクリスマス会が12月11日に開かれるが、参加者は減るのではないか。

瀋陽日本人弁論大会が来年4月には第10回を迎える。日本人会のほかに瀋陽市人民政府外事弁公室、瀋陽市教育委員会も主催団体だが、資金源は日本人会なので、実質日本人会主催と言って良い。

そして運営では教師の会が全面的に担当している。

問題は、たとえは弁論大会入選作品集には瀋陽日本人教師の会の名前はないことだろう。教師の会はこれに命をかけるという感じがするほど一生懸命なのに。

そして、大会で実質的に運営する教師の会が司会もする。二年前の大会では、出席している日本人会の数人の人たちを主賓として名前を読み上げたのだ。原稿を見て私は絶句したけれど、その時はそのまま読み上げた。実行委員会にこれの見直しを要求したけれど、この春は中止になったのでどのようになっているか知らないが、日本人会のこの態度も問題だろう。

明らかに両者の間に乖離がある。しこりがある。

 

2005年11月5日 (土)  山形 達也

金曜日、加藤先生が瀋陽史跡探訪の新しい記事(7番目)と一緒に現れて、二人でホームページビルダーを使って文章と写真を編集した。

土曜日には写真のtitleを変更してwebに載るようにして、無事providerにuploadした。

日本語クラブ21号(今年度第1号)の印刷が今日日本語資料室で行われると聞いている。中道編集長を悩ませ続けた原稿の集まりが遅いという問題は無事解決したのだろうか。

日本語クラブ21号は1週間先の日本人教師の会の定例会の時に配布される予定。

 

2005年11月1日 (火)  山形 達也

昨日10月31日に、日本人会の幹事会が開かれ、都合の付かなかった多田先生に代わって山形がホテルマリオットで開かれた会に出席した。

皆それぞれ忙しいだろうに、進出企業のトップの人たちが集まって、真剣に日本人会の議題を討論している姿勢に感銘を受けた。

教師の会の人たちも企業の人たちとは目的が違うが、それぞれ皆全身全霊を打ち込んでこの地でがんばっている。

 

2005年10月22日 (土)  山形 達也

第2回定例会の時に、遼寧省による外国専家表彰のことが伝わって、それがホームページに載ることになった。多田先生と、南本先生のお骨折りである。

たいへん面映ゆいことながら自分に関するニュースをアップロードした。

今年から加入された先生方の紹介記事を「会員紹介」欄に載せた。石井みどり、中野亜紀子、辻岡邦夫の三先生である。

熱のある時に届いた原稿を夢うつつのうちに扱ってどこかに失ってしまったりして、先生方にはご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。

 

2005年10月15日 (土)  山形 達也

2005年度第2回の定例会と歓迎会だった。

山形達也は10月8日から風邪に掛かり、それが酷くていつまで経っても熱が引かず調子が悪い。それで、この日は欠席してしまった。

それにしても日本語クラブ第21号(2005年度第1号)の原稿は、明日16日の締め切りである。原稿の集まりが悪いと編集長・中道先生がどんなに嘆かれるかと思うと、重い頭を抱えて内容を考えなくてはならない。

やれやれ、風邪がどんどん悪化しそう。

 

2005年9月28日 (金)  山形 達也

現会員名簿を作成。

現会員名簿をHP用にも編集をした。2003年度の会員名簿を残したので、2004年度も同じようにして残す。今後は毎年の会員名簿を保存しよう。

現会員名簿は会員紹介を付けて、membersという名に変えた。

会員紹介で二人の会員の更新が届いたので編集した。以上の作業をしたけれどgeocitiesにアクセスできず、uploadが出来ない。大学のLANが細くて外部に繋がらないことが、この頃は頻繁に起こる。研究遂行に大変困難な問題となっている。

 

2005年9月17日 (土)  山形 達也

2005年度第一回の教師会の定例会が開かれた。

新人2名、短期新人1名を加えた合計34名が今年度の会員数。

年度末で石井代表が転任された(ただし、特別会員)ので、代わりにいままでの副代表である多田先生が代表に選出された。多田代表の指名で、副代表に鳴海、南本卓郎両先生。

HP係からの提案で今年度から各係の中から1名がHP担当と言うことになり、合計10名近い大所帯でHPが運営されることになった。

HP専任:山形 達也

HP及び研修係兼任:岡沢 成俊

終了後数分間の顔合わせ。今後の方針は次回ということに。

なお、会員の懇親会は次回(10月15日)の定例会のあと。

 

2005年8月30日 (火)  山形 達也

新学期が始まるに当たって、ホームページ係を二年やってきた経験から、28日に以下の提案を会員にメイルした。

------------------------------

9月17日から新しい年度の瀋陽日本人教師の会が始まります。いままでの例ですと、最初の集まりで会の中にいろいろある係りが決まります。

教師の会の役割には、弁論大会係、ホームページ係、資料室係、研修係、日本語クラブ編集係、連絡係、などあります。このほかには、ミーティング、書記があります。全員誰もが、どれかの係をする約束になっています。

この次も私はホームページ係を希望していますが、その経験と立場から一つ提案があります。

ホームページ係が教師の会のすべてに目を配るのは、今までの経験から言って難しいものです。しかし一方で、ホームページの拡充は、この会として常に望まれていると思います。

それで提案ですが、このそれぞれの担当の係の数名の中からひとりがホームページ係も兼任する(担当する)というのはどうでしょうか。ホームページ専任の2名くらいのほかは、それぞれの係が集まってホームページを運営するという提案です。

現在のホームページのコーナーの半分以上は、専門の係が担当することになり、よりよくなると思います。各係のホームページ担当者は内容を考えて用意するだけにして、その原稿からホームページの作成と、ウェブサーバーへのアップロードということは、ホームページ専任の係が担当することにしましょう。

ホームページに「瀋陽暮らしの智慧」というコーナーが作られています。これの更新のためにこれの担当専門の係もあると良いと思っています。いかがでしょうか。

以上の提案を次回の定例会で相談していただきたいと思います。 定例会の司会がどなたか分からないので、現在の会員の方々全員にメイルしました。

------------------------------

いままではホームページ係が考えて関係者に当たっていたけれど、それぞれの人たちに任せようというものである。

ホームページ係の負担は軽くなるけれど、ホームページの更新が行われずに内容が軽くなる危険もある。

その時は、また考えよう。担当者が何もせずにいたとしても、充実したくないというのは、それも会員の意志なのだから。

 

2005年8月1日 (月)  山形 達也

7月31日に久しぶりにYahooのアドレスのメイルを開けてみたら、前田先生から学校の職員旅行記が入っていた。

31日までべらぼうな忙しさで、8月2日には帰国の予定。というわけで、1日に机を片づけながら、これの編集を行った。

写真がWordファイルに組み込まれているので、一つ一つWordから写真を外してPhotoshopで名前を付けて作成しなくてはならない。それで1時間半くらい掛かってしまった。

字体の大きさなど細かいところも直したかったけれど、今回はパス。サムネイルの写真の拡大も、別のページに飛び出すようにしたいけれど、今回はそれもパス。あしからずご勘弁下さい。

帰国中はWindowsを使わないので、原稿は送って下さって良いですが、編集とウエブの載せるのは8月25日に瀋陽に戻ってからです。

皆様どうか良い夏休みを!!!

 

2005年7月31日 (日)  山形 達也

岡沢先生

6月定例会の記録と弁論大会の記録をアップロードしてくださってありがとうございました。

個人別のページは、日本語クラブ、記録でも最初は別ページにしていたのですが、そうすると全体のファイル数が膨大になるので、今はまとめています。

ファイル数が膨大になると、係が目を廻してしまい、新人がとりつきにくくなるというマイナス面があります。もちろん、まとめると、閲覧の時に時間が掛かるという欠点がありますけど。

2005年7月30日 (土)  岡沢 成俊

寮の工事の影響&後遺症でずいぶん長い間ネットが使えなかったのですが、

ようやくつながるようになりました。

遅れに遅れていた議事録&作文集をアップしました。

作文集はこれまでと形式を変えて個人別ファイルにしてみました。

常時接続の方にとっては見やすくなったと思いますが、

ダイヤルアップの方にとっては読むのが面倒かもしれません。

弁論大会のページ本体の方の改訂は再度行います。

 

2005年7月24日 (日)  山形 達也

HP係の児崎先生から昨23日返信があった。

彼女は今期で瀋陽を離れる。26日に帰国の予定とのことで、もうこれ以上はHP係として何かやっていただくのは無理とわかった。

昨年春相棒の河野先生に去られてどうして良いかわからない私を児崎先生はほかの係をしながらも助けて下さった。おかげでHPは充実し、さらに発展させることが出来た。

児崎先生からHPへの提案は:

今後への提案としては、やはり日本語教育に関する情報が増えてほしいなあと感じています。

現在、既に弁論大会や日本語クラブ内の記事など日本語教育に関するものはありますが、現場の様子や教師の体験談など生の声を伝えるものがあると、日本語教育関係者にとってはありがたく、より興味深いものになるのではないかと考えています。

具体的な案としては、<教室でのハプニング><好評だった授業><失敗談>などテーマを設けて書いてもらうのも1つの手かと思います。気楽に書ける感じのものだと書きやすいのではないかと思います。

「児崎先生。お世話になりました。どうかお元気で。再見!」

 

2005年7月22日 (金)  山形 達也

石井康男先生から電話があった。明日帰国されるとのこと。

石井先生は7年間遼寧大学に勤める傍ら瀋陽日本人教師の会の中心となってこの会の円滑な運営に努めて来られた。この秋の活動のよりどころとなっている日本語資料室は大阪のNPOの協力で成り立っているが、これも石井先生の努力のおかげである。

「石井先生、本当に長い間この会のために尽くして下さってありがとうございました。異国の地で皆がほのぼのと楽しく仕事が出来るのも、先生を中心としたこの会のおかげです。寧波に行かれてからは寧波の日本語教弁論大会の開催に向けて努力されるとのことですので、これからも手を携えて中国における日本語教育の発展に尽くしていきましょう。」

石井先生は日本語資料室の運営資金に石井先生個人のお金を加えて資料室のコンピューターを整備してから瀋陽を去ろうという考えをお持ちのようである。資料室のPCは十分に機能しているとは言い難いので、ちゃんとしたものがあるとよい。

しかし、今まで会の中心だったからといって個人的責任を感じる必要はないと思う。今度の9月に会員が一緒に良い方向を考える必要があるだろう。

ところでホームページの仲間に、新しいゲストブックの設置、それとこの日記帳の存在のmailを出したけれど、誰からもまだ反応がない。

 

2005年7月20日 (水)  山形達也

ホームページ係の記録をつけやすくしようと思っている時にYahooのホームページ作成ツールを見つけたので,Yahooの日記帳を利用することにした。

あるいはブログでも良いかもしれない。ブログの方が若い人向きかもしれない。

ともかくやってみよう。今までの記録は「活動記録」から辿れるようにして、しまい込んだ。

さあ、係の児崎先生、岡沢先生、鳴海先生、出番ですよ。

今日やったことは、ゲストブックとホームページ係の記録のリンクをホームページの表紙に付けたこと。

ゲストブックは今までの掲示板に代わってもっと利用されることを期待している。掲示板は、本来の意味に戻り「お知らせ」でよい。

それに、この係の記録をつけたこと。

うまくいきますように。