2011年度教師会日記

瀋陽日本人教師の会日記 2011年度 山形達也

2012.08.05 「信なくば立たず」

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さえ:

人はつい他人のことはよく見えるものだから、その言動をあれこれとあげつらいますよね。勿論、ぼくだってそうです。おまけに良い感情を持っていないときは、ことさらのことです。

ですから日本人教師会の代表のこともこの二年間あれこれと言ってきました。

代表は、自分が代表であることを嬉しがって行動するようでは困ります。会員があるから代表なのに、会員のことを忘れてしまってはいけません。

毎年春に開かれる弁論大会は、終わったあと懇親会と言うか慰労会を開くのが恒例でした。当然ですね。前の年の10月から全員がそのために奔走してきたのですから。

昨年の弁論大会の時は、その懇親会が在瀋陽日本国総領事館主催で開かれるという知らせがあったのですが、弁論大会のすぐ前になって、教師の会からは二人しか招ばれない、従って代表の自分と、係りの元締めの○○先生の二人が出席するという通知が宇野代表から全員のところに来ました。

本来は、全員を招くと言うことだったので、それでは立つ瀬がないので自分たちも参加しませんと領事館に返事するのが、先ず第一の選択でしょう。しかし、実際上はそうも行きませんよね。

従って、会員に対して代表の取るべき道は、領事館がこういうので、申し訳ないですが二人だけ参加します。これを認めて下さい。その代わり、残りの方々で慰労会をして下さい、自分は出席できないけれど、というものでしょう。

ですから私は代表にメイルで文句を書きましたが、とうとうそれに対して返事がありませんでした。このことは以前、書きました。

今年の6月、国際交流基金が北京で中国にあるいろいろな団体に招聘状を送って会合を開いたそうです。まだ今年度が終わっていない時期なので会員は瀋陽にいましたが、会員の誰一人にもこのことを知らせず宇野さんは交流基金持ちの会合に参加したそうです。彼の唯一の味方かもしれない○○副代表にも知らせないでですよ。

人は学習しなくてはいけません。

「あやまてばすなわち改むるに憚ることなかれ」(過則勿憚改)と孔子が三千年も前に言っています。

でも、「君子は義に喩(さと)り小人は利に喩る」(君子喩於義、小人喩於利)の通りで、小人は自分の利を計ることから逃れられません。

「小人養い難し」(唯女子與小人 、爲難養也)と言いますが、せめて、小人といえども、「信なくば立たず」(民無信不立)と言う意味を分かって欲しいものですねえ。

2012年08月04日(土) 教師の会の代表って

二年前の新学期から、瀋陽日本人教師の会はおかしくなった。

それまでの代表の多田さんが帰国してしまったが、直ぐにほかの大学で職が見つかって新学期から瀋陽に再び戻ってくることになって、多田さんがまた代表をしてくれるだろうと誰もが思っていた。

ところが着任が遅れたことと、職種が変わったことを理由に多田さんが代表継続を固辞して、代表のなり手がなかったようだ。私は、妻の病がとうとう重くなって日本に戻っていたので、教師の会に出られなくなっていた。

その時手を挙げたのが宇野さんだった。

それ以来のことは、私はあまり教師の会の集まりに出られなかったので状況ははっきりしていない。対外的には評判を落とし、対内的には、無気力集団に化しつつあるのを、時々見ていただけだ。

それで昨年の新学期が良い機会だったが、「誰もやりたがらない代表を自分で進んでやりたいという宇野さんこそ貴重な存在だ」と、その時の副代表の松下さんが強力な後ろ盾となって、宇野さんが二年目の代表に選ばれた(残念なことに私は日本出張が重なって、9月も、10月、11月も会合に出られなかった)。

そしてまた一年。教師の会はあんな代表を選んだ集団だと評判を落とし続け、集まりでは上辺だけ笑顔で繕った、白々しい付き合いが続いてきたような気がする。

私は何をしていたかというと、教師の会が日本語資料室を持ちこたえるよう、事実上たった一人で努力を続けてきた。もちろん、会員にも、資料室のオーナーの劉凱さんにも、そしてうちの大学院の学生さんたちにも助けられた上のことだが。

さて、あと一ヶ月で新学期だ。今度はどうしたものか、どうしたらよいかと思っていたら、会員の中にさすがにこのような状況に我慢できず、代表を変えようという動きが出てきたみたいだ。

教師の会の代表は会を代表する顔であると同時に、会員が快適に集まれるよういつも気を配る役だ。自分は代表なんだと嬉しがっているだけでは、皆から信任が得られるはずがない。二年間、代表をやってもそれを理解出来なかったなんて、可哀想な人と言うしかない。

2012年08月02日(木) 今日の大学は一日停電で

昨日のうちに今日は朝から夕方まで、大学は停電となるという知らせがあった。

マイナス80度とマイナス40度のフリーザーに入れるためのドライアイスを手配して、資料室の本の整理に行きたいと劉さんに連絡した。昔から大学で停電があるときは、資料室にはよく出掛けていたのだ。

いま、資料室に行きたいのは停電を逃れて快適に勉強をするためではなく本の整理のためである。

今日は朝から小雨だった。屋上の宝来(劉凱さんの飼っているゴールデンレトリーバー)は濡れた身体で資料室にやってきて、遊びたいと言って甘え掛かるものだから、こちらのズボンは何時もぬれたままだし、手は始終洗いに行かないといけないし、しかし、丸一日傍にいたので宝来もすっかりくつろいでいた。

今日は、日本の女流作家の本に黄色ラベル(と、小説の時は緑のラベル)を付けて著者の頭文字を書き入れ、中国関係には赤いラベルを付けた。

サイエンスものには青色のラベル。いつの間にか右手の親指の腹には四筋の切り傷が出来てしまった。痛い。

朝8時から夕方5時まで仕事をして、あとは翻訳もの、日本語の勉強関係のもの、コミックスのラベル貼りが残っている。

あとはどういう色の組み合わせにしたものか。研究室で昔使っていた色ラベルの残りを利用しようと思いついて、最初から出たところ勝負みたいに始めたのだ。白いラベルが使いにくいのが分かって使える色ラベルが一色減ってしまった。

帰りにうちに寄ってシャワーを浴びてから、ラボに来た。設計しなくてはいけないPrimerがまだ幾つかあるが、今日は疲れたから、明日にことだ。大して意味のないブログを書きに来ただけ見たい。こんな日もありってところだ。

2012.07.13 大連の教師会は会員が多すぎて動けない?

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さえ:

大連の実吉老師のことを書きます。

水曜日の朝、「昼ごろ、出向きますのでよろしく」というメイルを受け取ったので、これは一緒に昼を食べようと言うことだと思いました。

日本の先生の訪問ですから、うちの学生にも会わせたいと思って、研究室の人たちに昼を一緒に食べに行きましょうと誘ったのですよ。

でも、11時には現れないし、11時半になってもまだだし、とうとう12時10分に、足止めしていた学生たちに謝って食事に行って貰いました。ぼくもトマトを食べて昼ご飯にして、結局、1時前に実吉さんは現れたのです。

ぼくは彼に何も言いませんでしたが、「昼ごろ」というのはいい加減な表現ですね。昼時に現れないつもりなら、「昼過ぎに」と書くべきですよね。

瀋陽の日本人会の会員は三百人足らずですが、実吉さんが今いる大連は日本の企業も多く日本人は3万人はいるらしいし、日本語教師も三百人近くいるのではないかと言うことでした。

大連日本人教師の会という組織はありますが、実際には殆ど活動をしていないと言うことです。そうでしょうね。300人の会員が毎月集まれるわけがありません。集まる場所だってないでしょう。

日中友好協会の図書館というのがあって、教師の人たちが帰国するときに置いていく本をここで預かっているそうです。それこそ、山のように溜まっていると言うことでした。

しかし、教師の会の組織が動いていないので、本を責任を持って貸し出すことが出来ず、活用されていないとのことでした。

数年前の、瀋陽日本人教師の会は三十人を越す会員がいましたから、土日には当番を作って、資料室の本の貸し出しに当たっていました。いまは会員が二十人を切っていますから、当番など作れず、従って資料室は動いていません。

会員が少なすぎてここでは活動できないのに、大連では多すぎて活動できないなんて、ね。

実吉さんは、今度「本を貸し出せるように当番制を提案しよう。自分は本が好きだから、自分が毎週末の当番を買って出てもいい」と言って帰って行きました。

2012年06月29日(金) 教師会における資料室と私の立ち位置

資料室の移転は、お店の契約が8月末までなので未だ先のことかと思っていたら、6月中に店を明け渡したいとのこと。

従って資料室の本を運べるように段ボールの箱に詰めないといけない。それで、教師の会の人たち数人に当たってみたのですが、今は学期末で講義、試験、採点で大忙しでそんな時間は取れない、7月に入ればねという大方の返事だった。

この間資料室に行ったとき、ちょうどあった空き箱の本を入れてみて、この大きさの段ボールが20個あれば全部収まるという計算をした。その時本を詰めた感覚に基づけば20個くらいなら私だけでも詰められるかな。教師の会の人たちが来なくても、やるしかないと思った。

それでも院生の暁艶の助けを仰いで、水曜日の朝資料室に行った。

ぼくたちが行くとお大喜びの宝来はもう7ヶ月の青年で、成犬なみの体格に育っている。大きな檻が前後に大揺れで、早く出してくれとせがむので、しばらく宝来と遊んで作業に取りかかった。

本を段ボールの箱に詰めるのは、確かに大したことはないすが、この本を詰めた箱を動かさないといけない。それが大変。直ぐに気付いたオーナーの甥の于さんが、運び役を買って出てくれたが、最初数回運んだだけでも、それがそのあとずっしりと身体に応えた。

以前は本だけで6千冊近くあったし、本棚、什器、諸々の財産が沢山あって、資料室の移転はおおごとだった。今は幸いスリムで、ぼくたち二人と于さんが2時間強働いただけで、パッキングは終わった。

日本語の教材として紙芝居みたいに絵が描いてある厚い紙が沢山あったし、カセットテープも沢山出てきた。この二年間全く使われていなかったようなので、処分することを提案しよう。

それにしても、この二年間を思い返してみると、以前とは資料室の位置が変わってきたようだ。つまりみんなの心の中で大きな位置を占めなくなったみたいである。一つには集まることの出来る大きな部屋がないこともあるし、生活スタイルが変わったためだろう。

以前は中国で教師をすることは大変なことだったと思う。その中で顔を合わせて助け合うことは大きな意味があったに違いない。でも、中国が変わってきて、ここで暮らすことに大袈裟な決意が必要ではなくなったのだ。

資料室の意味を考え直すときが来たのかも知れない。

実際、資料室の移転のために本を詰めたこと、移転は業者に依頼すること、移転の後の本の整理にお手伝いをお願いしたいことを書いて会員に送ったが、丸一日半経った現在、誰からも、何の音沙汰もない。

それぞれが期末で忙しいのだおるけれど、これが教師の会における私と資料室の立ち位置を暗示しているように思える。

2012年06月28日(木) 資料室の四度目の引越

瀋陽日本人教師の会の資料室は、いまは中国人である劉凱さんのお店・千品軒に置かせてもらっているが、このお店の不動産の持ち主が代わったので、千品軒自身が追い立てを食ってしまった。

劉凱さんによるとお店は別の場所を探そうにも、瀋陽は今でも不動産景気がつづいていて何処も異常に高値の上に、しかも再開発が常に進行している。今度お店を出す場所はその先変わらないことを見極めたいので、簡単ではないとのことだ。いずれ、次のお店にも資料室を一緒に置くつもりだけれど、その店を探すのは時間を掛けたいと言うことである。

一方で、千品軒の劉凱さんは北の方に住んでいるが、都心の交通事情が悪化して、年年通うのに時間が掛かるようになったし、犬も飼っているので自宅を引っ越したいと言って、探していた。瀋陽市の南を流れる大河の近くに、十二年前に開発された住宅団地があり、そこが気に入って、部屋を借りることにして5月末には越した。

六階建てで、屋上がありこの一部は六階の住人に附属しているので、つまり屋上庭園付きで借りられる。

今瀋陽で一戸建てに住む人は政府高官以外にはあり得ない。それでも市内で、このように庭園を持てるなんてすばらしいことだろう」。

案内していただいたが、百平方メートル以上の広さの屋上に東屋も造ってあるし、リンゴ、桃、杏などの果樹が育って果物を付けているし、自分が食べる野菜を育てるには十分な広さの畑もあるし、ゴールデンレトリーバーの宝来が走り回れる広さだって十分あるし、宝来の身になってすっかり嬉しくなった。

さらに屋上に一部屋あって、ここに、資料室の本を入れることは可能ですという提案があった。本をここに置けば本は活きるが、一方で人が出入りして迷惑を掛けることになる。それで資料室の閉鎖の間はうちの教授室に置くしかないかと思っていた。

でも教授室が60平方メートルあるといっても、本を本棚に入れて閲覧を可能にする空間は取れない。6月の定例会では、一応そうやって資料室は閉鎖と言うことになったが、本が生きることに飛びついて、私の独断で決めて(あとは事後報告で)、新居の一室を本を置くのに使わせていただくことにした。

バス停からも近いし、安全性抜群な立地ですので、ここに来る教師たちの安全も大丈夫である。

この新居の佇まいがすっかり気に入って、私もこういうところに住みたい。家賃を尋ねたところ、毎日、水だけで活きていくならば住めそうだ。

2012年05月19日(土) 教師会の宇野代表はその職にふさわしいか

先週の土曜日には教師の会の定例会があったが、体調が良くなくて欠席した。4月の弁論大会は教師の会挙げての支援行事なので、参加してお手伝いしたが、責任者でもないので欠席しても良いと思ったのだ。

そのあと、撫順の学校で日本語教師をしている鈴木貞夫先生から電話があった。

鈴木先生は今年度、つまり昨年9月からの会員で、私は11月の集まりにやっと出席したくらいだったでお互い知っている程度の関係である。

「この間の集まりに、先生、出なかったでしょ?」「ええ」と、返事。

  「私も出席しなかったのですがね、そのあと、出席した先生から、宇野代表が、『今日は山形先生も、鈴木先生もいなかったので、スムースに出来ました』と言ったと聞いたのですが、知っていますか?」「いいえ」

つまり、非常に失礼なことだと言って怒っている。

会の代表が公式に皆の前で発言して良い科白ではないだろう。あとの食事会で隣の人にささやいたのでろうか。それなら、まあ、笑って済ませて良いことだ。実際、本当のことだろうし。

でも、そう言うと、「いえ、公式の発言の途上で言ったと言うことです。こりゃ、怒って良いことですよね」

公式発言なら、問題にして良い、当然。

この次、皆が集まったところで、このような発言があったかなかったかを確認するところから、始まるのだろう。

でも、今の代表の宇野さんならそう言うことを言いかねない人だし、良識のない人だからそれがいけないことだと分からない人だし、そうなると、辞めるよう不信任を突きつけることになる。

二十人弱の集まりで、こんな風にごたごたするなんて残念だが、資質のない人が代表でいることが問題なのだろう。

 2012.04.24 多様な意見から進歩・改革が生まれる?

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さえ:

今年の瀋陽日本語弁論大会の高校生の部では、同率一位というのが三人でました。

記憶にある限り初めてのことです。集計室では、すでに封筒で用意してある賞金、1位千元、2位7百元、3位五百元の中身を、一様に千元に入れ替えて、封筒に改めてすべて一位と書き入れました。

同率1位が二人出ると、2位がなくてつぎが3位が一人ですね。あるいは、3位に二人いると同率で二人が受賞してきました。この取り扱いはごく常識的なことでしょう。1、2、3位で三人、同率ということを考えて賞金の予備を一寸用意しておく。3位が同率なら合計4人まで用意しておくのが普通です。

今回は1位が三人という空前のことがありました。

可能性としては、1位が同率三人ではなく、五人ってことだってあり得るのですね。1位が一人、2位が一人、そして3位が残り全部15人が同点と言うこともあり得るはずで寸ね。そこまで考えて賞金を用意しませんけれど。

弁論大会の準備会の時日本人会側の委員が、いろいろの可能性を考えて、賞金の予備は用意しているという発言がありました。

それを聞いた教師の一人が、受賞は合計3人と決めているけれど、1位が二人出たら、次は2位は空席が普通だけれど、2位として賞金を出して、そして3位の一人の合計4人まで賞金を出したっていいじゃないか。もし3位が同点で二人いたら、もちろんその二人に3位の賞金を上げたらどうでしょう。だって、弁論大会は参加者に励みをあげるものだから。と発言しました。

これは常識的な賞金の出し方ではないですね。でも、スポンサーが賞金を沢山出す用意があるというなら、新しい方法で受賞人数を増やしたって良いじゃないか、とその教師は主張しました。

でも殆どの人は、面食らってしまい、そんなやり方は例がない、今までの方式に従おう、という反対意見ばかりでした。

確かに今までのやり方と全く違う方法を提案していて、誰も納得しがたいと思っているようですが、反対の根拠は、今までその方式は例がない、その方式はなじみがないという理由で反対しているけれど、それ以外に、この方法がこれまでの方式に比べて良くない理由を示す必要があるのではないですかと、ぼくは発言しました。

今まで例がないなんて言うのは、反対意見の根拠になるとは思えないのです。

でも、新しい見方を提案した教師がそれを取り下げてしまったので、話はそれ以上進まず、私の提言も宙に浮いたまま消えてしまいました。

どうでしょう、何処でも今までなじんできた方式がありますが、それに反するからという理由で新しい考え方を退けている、つまり新しい考え方を拒んでいることがいかに多いのではないでしょうか。

普段の生活でも、政治でも、組織でも、さらには生命科学ですら、そうではないかと思います。新しい見方の提案を明確な根拠で論破できずに、今までやってないことだから、と反対する後ろ向きの生き方が多すぎると思いませんか。

2012.04.23 第16回瀋陽日本語弁論大会

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さえ:

4月22日の日曜日は第16回瀋陽日本語弁論大会が、フラマホテルで開かれました。もう、16回なんですねえ。

2004年の始めに大連のフラマホテルに一泊したことがあるでしょ。2003年末のクリスマスパーティーの景品で、フラマホテル一泊券が当たって、汽車で出掛けて、ついでに大連にあるタカラバイオを訪ねたのでしたね。そう言えば、あれっきり大連には行っていません。

あの大連の豪華ホテルと同じで、豪華で、会場は狭かったのが難点でしたけれどホテルは流石という設備とサービスでした。

ぼくの役割は、点数の集計係。審査員の評価をPCに打ち込んで、点の一覧と順位を付けるのです。

審査員ごとに纏められた評価票を、発表順と名前を確認しながら、発表者ごとに纏めます。

PCへの入力は、評価票をぼくが読み上げ、前川先生が打ち込み、次いで彼女がPCから復唱して読み合わせます。次いで再度、ぼくがPCのデータを見つめる側に回って、前川先生が評価票を読み上げ、PCの記載をチャックするという二重のダブルチェックをしました。そしてPCをセーブ。USBにコピーをとりました。

この最初に評価票を整理して読み上げる方は一人でやるのでは無理で、幸い、4月から参加の森先生が役をひきうけて、それで三人のチームで今回は支障なく捗りました。

ぼくが来た頃は、この集計室は秘密の砦で、審査員が付けた点数をある方法で加工して最終結果を出していました。その加工法と理由は、この集計室担当の人たち以外は、実行委員の人たちにも知らされず、長い間教師会の会員相互の間のわだかまりになっていました。

この秘密の砦の元ととなった教師が去って、すべてが公開され、それ以来教師会の雰囲気が格段によくなりましたね。

というわけで、秘密でなくなった秘密の砦での、ぼくにとっては初仕事です。

今は審査員の点数を入力をすると、一瞬にして成績と順位が出て(以前のことは知りませんが、今回の優れものは前川先生の作です)、これが最終結果です。誰もがそれを受け容れられるのに、どうして以前は、それが出来なかったのでしょうね。砦の主による中国式の権力誇示なのでしょうか。

さて、集計室には作文発表はともかく、特に、即席スピーチでは、たとえば大学一部の出場者17人に対する審査員6名分の評価が一挙に来るのです。成績が出るまでの時間は、午前中の大学一部でやってみると20分強掛かりました。

コンテストの最後が大学二部で、それが済んで集計が終わってから結果発表となりますが、発表するまでに、集計、計算、順位づけ、賞状に記入ということをやるので、間違いなく、しかも遅れないよう、三人で力を合わせて頑張りました。

集計室には先生たちの荷物があるので部屋を空けることが出来ず、結局、作文発表を聴いたのは飛び飛びに三人分だけでした。

それ以外は、興味深い講評も聴けず、結果発表・表彰式も、もちろんアトラクションも、景品抽選会も、一切見ることは出来ずに集計室にいるだけで終わりました。

でも、他の先生たちの話しによるととても良い雰囲気の弁論大会だったそうで、何かしら役立った感じがあって嬉しいでした。

終わって慰労会が計画されていなかったのは一寸残念でした。

実行委員会の人たちが最後まで残って後片付けをしていました。彼らだけは慰労会をしたかも知れませんが、他のすべてのメンバーを含めて計画したら、皆の心が一つになる折角の機会ですから、良かったのにと思います。

お疲れさま。

2012.04.15 早とちりの発言

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さえ:

昨日の午後、教師の会の定例会が市図書館であったでしょ。この集まりでは一週間先の弁論大会の準備がすべてでした。

当日の詳細な予定表が配られて、みると来賓と書かれた欄に日本人会会長、副会長の名前が入っていました。

弁論大会の主催が日本人会なのに、そこの会長が来賓だなんておかしいですよね。

ぼくたちが教師の会に参加した2004年の弁論大会で、ぼくは司会者をやっていたので、あらかじめ渡された原稿の中の来賓紹介に、日本人会会長の名前が載っていてびっくり仰天。でも、その場でおかしいというわけにも行かず、そのまま呼び上げました。あとの反省会で、おかしいと申し入れて、翌年からそのような馬鹿なことはなくなりました。

しかし、この数年弁論大会から遠ざかっていたので、またおかしなことが復活したのかなと思って、これ変でしょ、と発言しました。

ところが、掛かりの神谷先生から早速、「よく見て下さい、来賓10名プラス主催者2名とちゃんと書いてあるでしょ、くっつけて書いてありますが、間に線が引いてありますし、来賓扱いではありません」と言われました。ちゃんと見ると、その通りでぼくの早とちりでした。

そのあと直ぐ、薬大の杉崎先生からもからかわれました。

歳をとると、脳の回路が何処かでショートして、こういう早とちり、誤解に基づいた行動をとることが増えるのでしょうね。

これからは、何か思いついたら一旦時間を置いて再吟味して、それから発言なり、行動に移すようにしましょう。

2012.04.14 もう直ぐ瀋陽弁論大会

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さえ:

4月に入って瀋陽は毎日暖かくなって、昨日の13日の朝はまだ堅いつぼみだと思っていた桃の花が昼から咲き出しました。そして今日は、もう満開という感じです。

瀋陽に桜はないですけれど、桃の花も綺麗ですね。今、文化路の車道沿いには桃の花が並んでいて、道が薄く桃色に煙っています。

今日の午後の教師会は、一週間後に迫った瀋陽弁論大会の準備の説明会という感じでした。責任者が遼寧大学の、神奈川県派遣の神谷先生で、この先生が緻密でしっかり者なのですね。準備委員会で検討した、弁論大会当日の段取りが詳しく説明されて、大いに感銘を受けました。

でもその中の一つで、弁論大会の選手は登壇するときに「荷物を持っていてはいけない。だから貴重品は身につけて、カバンなどは、集計室においても良い」というのがあって、気になりました。

規定では登壇して演説をするとき何も見てはいけないので、何も持っていてはいけないのは当然ですが、荷物を集計室で預かるとなると、集計室で点数の集計をしている二人の先生が、荷物の管理を引き受けなくてはいけません。

学生が荷物を置くのはいいとしたら、誰が持ち出すかを管理できない以上、荷物の紛失が起きたときに、管理責任が問われます。

だけど、誰が荷物を置いて、誰が荷物を取りに来たかなんて、ちゃんと札を付けて管理しない限りできないことですね。もし置いた荷物がなくなったら、とても不愉快な事件に発展します。

これを避けるには、荷物を集計室で預からないことですよね。

結局、荷物をどうしても置きたい学生もいるだろうから、その時は、置いてもいいけれど、一切は自己責任だという張り紙を出すことになりました。

そしたら教師の会の先生たちの荷物はちゃんと預かってくれるのでしょうね、と誰かが言いました。

何時も誰かが部屋にいるので、集計室に荷物を置いてもいいですが、それだって、自己責任ですよね。面倒をみるのが当たり前なんて思って貰っては困ります。

ま、教師の会にはいろんな人がいるってことですね、堪忍、かんにん。

2012年03月13日(火) 石井先生が定例会に出席

気が進まないながらも昨日の午後は教師の会の3月の定例会に出てきました。

ちょうど日本から、石井康男先生が訪ねてこられたので、出席して良かったと思います。

石井先生は1998年から瀋陽の遼寧大学に勤務して、2000年には資料室を作り上げた先生ですよね。ぼくたちが瀋陽に来て教師の会に参加したときの代表が石井先生でした。

会員に対する思いやりに満ちた接し方、自分の責任で始めた資料室を黙々と整備して教師の会の使用に供していた石井先生の献身ぶり、をずっとみながら手伝ってきたのが、今のぼくの資料室への思い入れに繋がっています。

この資料室があったことが、この瀋陽の教師会が中国で唯一、教師の会としてまとまった活動を続けていられる原点であるとぼくは認識しているのです。それと、石井先生の背中をみて育ったという自覚が、一旦消滅した資料室の再興に、朱紅飛さんから一室の提供の申し出を受けて、傾注しているのだと思います。

こういったことなどを思い出せば、教師会からぼくが離れてはいけませんね。

石井先生は今年の1月8日にそれまでの寧波の学校での日本語教師を辞めて日本に戻ったそうです。

でも、中国の留学生が中間業者に搾取され、しかも、日本の大学院を目指しながら研究生という段階で留め置かれたままふるい落とされる現状を憂えて、その改善のために日本の日本語学校で無駄に時間を金を捨てないよう、そして目指す大学院を受験できるような道筋をきちんと付けようと、今は努力中だとのことでした。

定例会のあとの懇親会でも石井先生の話を聞いて、多くの先生たちは深い感銘を受けたようでした。ぼくよりもずっと年上の石井先生の頑張りに、ぼくも大いに刺激を受けました。人生は終わりのない旅。。。

2011年12月24日(土) 久しぶりに資料室で

教師の会は仲好しクラブなので、長年ずっと会計監査の必要もなしにやってきた。

私は長らく執行部を助けてきましたけれど、昨年度に新しい代表が立候補して選ばれて以来、会の運営に全く関係がなくなった。会員は平均二年で変わる。それで、会の統一見解というか、決まりというか、モラルを受け継ぐために、古い会員のわたしは必要なときに色々と思うところを述べてきた。

12月の定例会のときに幸い会計係から、一人で会計の全責任を負うのは負担だし、会計監査を置いた方がよいのではないかという申し出があって、定例会でその提案が認められした。誰かやる人はないかという司会の言葉に志願して、会計監査を担当することになった。

と言うわけで、教師の会に貢献することが出来るようになったが、うんと控え目にしないといけない。某国の世代交代時期の粛正を見るまでもなく、権力者はそれ以前に力を持ったものの存在を好まない。会の運営は新しい人たちに任せよう。

まだ今期が始まったばかりだが、会計係の石井仁先生は前期の終わりに帰国予定なので、今は前期の途中だが、資料室に集まった。

数年前に、会計を一般会計と特別会計に分けた。以前は教師会の会計基盤を強くするために、本を出版するなどして資産を増やす努力をした。その後は、特別会計に特に入金を計っていないので、毎期繰り越しのとき、前々期の繰越金を特別会計に入れるようにした。

今は、特別会計は資料室の本を増やすことに使って良いことになっている。今度の休みの前に、会員に本を増やす努力をお願いしよう。

資料室に集まったついでに、会員から要望のあったコピー機の修理が定例会で認められているので、私たちのいる時間に業者に来て貰った。

午後は資料室でやることを全部終えて、そしてオーナーの劉凱さんにお茶をご馳走になり、いろいろとまた古代文字の話を伺った。

あ、今日はクリスマスイブなんだ。

2011.12.14 会友の池本先生に会う

https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201112130000/

さえ:

久しぶりに池本先生に会いました。

池本先生は2005年から教師の会の仲間でしたが、2008年の資料室の閉鎖のあと仕事が忙しくなって、集まりにでられなくなりました。

しかしそのまま、それまでの大事な仲間が会員から去ってしまうのが残念でした。会友という制度を作って、会費は納めることで会員としての権利はあるけれど、役に就くという義務を免除したものを作りました。

昨年度は、池本先生はその会友の会費も納めるために集まりにでる時間もないということでしたので、ぼくが彼女の分を立て替えました。こんなことで止めて欲しくなかったからです。

今年度も、同じくぼくが立て替え。

とうとう池本先生は忙しいのに、立て替えたお金を払うために時間を作って呉れたのです。

長い間会わないうちに池本先生はますます美しくなって、眩しく輝いていました。彼女の生活が充実しているからでしょうね。

今期、教師の会ではまた研修を始めましたが、以前、池本先生の研修を聞いて、これがプロの教師だと実感したのを覚えています。

本物の教師に日本語を教わる中国人は幸せでしょう。

中国政府も、日本語の教師として日本人なら誰でもいいなんて言わずに、ちゃんとした教師を選別するようにして欲しいと、改めて思いました。

ところで明日から東京で用事があります。朝早くの飛行機で成田に向かいます。朝はブログにアクセスできませんね。そのあとはどうでしょうか。うちに行くわけではないので、インターネットにアクセス可能かどうか。。。

10月に津と名古屋に行ったときは、どこのホテルでも無料でネットに接続できました。4月に北京の豪華な国賓級のホテルに泊まったときは、一晩50元の接続料でしたっけ。

2011.12.13 ユニークな田中義一先生

https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201112130000/

さえ:

2006年から1年間瀋陽大学の日本語教師に田中義一先生がいたでしょ。覚えていますよね。今年の秋からは薬科大学の日本語教師です。

前のときは瀋陽大学の前任者の丸山先生が、「次の先生は私の部屋をそのまま引き継ぐのですよ、私が使ったシーツやタオルもそのままで良いって言って、私の発つその日にやってくるのですよお」と訴えるので、ぼくたちは初めから田中先生を「なんだか嫌らしい」と色眼鏡で見ていました。

田中先生は最初に出席した教師の会で、「私は夢がありました、一つは外国に行って仕事をすることです。それがとうとう叶いました、とても嬉しいです」と、これは、ま、結構なことですよね、夢が叶ったのだから。

続いて、「わたしには、もう一つ夢があります。結婚したいです。ずっと以前から結婚したいと思っていましたが、どうしてか叶わず、とうとう新天地の中国に夢を追ってやってきました」と、ここで教師の会の中の3分の一位を占める若い女性の先生たちを見回して、こぼれてくる笑みを抑えきれずに、「いや、もう、来て良かったです。もう一つの夢も叶いそうです」と言ったから、若い女性の先生方からは総スカンを食いました。

私たちも事前の色眼鏡が強化されて田中先生を見ていたのですが、段々と、ともかく率直な人だと分かってきたのを覚えています。

今年の秋に薬科大学に来て教師の会に出て、またしても「自分の夢は一つは叶ったけれど、もう一つの夢である結婚したいというのがまだです。中国に来て、さあ、頑張るぞ」と言ったかどうか、子細は知りませんが、結婚相手を探しているのだと宣言したそうです。公開の席でこんなことを言われたら、大抵の未婚の女性は引いてしまいますね。人は率直なだけでは、いけません。もういい加減な年なのだから、その辺のことを覚えなくっちゃ。

でも、話を聞いているとまったく無防備に無邪気ですね。12月の会のあとの懇親会では指名されて、「私が物理学で博士号を持っているって、どうして知ったでしょうねえ。薬科大学の物理学の先生が今度日本と中国の物理学に違いを話そうと言ってきたのですよ。」

そんなこと言ったって、物理で博士号を取った話は初対面で聞いたことだし、メイルアドレスもDrtanakaで始まるのですもの、知らない人はいませんよね。

「英語と中国語も使って日本語を教えているけど、学生は拍手をしてくれるんですよ。可愛いですねえ。この間、『私とデートをしませんか』と言う文型を教えてね、それが終わってから『私とデートをしませんか』って学生に言ったら、一斉に『ノー』でしたよ。ハハハッハ」。

ぼくは田中先生の強い希望を伝えて薬科大学に彼を紹介したので、先ず何よりも学生にとって優れた日本語教師であって欲しいです。

2011年12月12日(月) 日本語は難しいけれど

12月10日土曜日に開かれた12月の教師の会の定例会では、研修が一つ組まれていた。この研修は、教師の会の昔の集まりでは、かなり頻繁にやっていた。

前期の終わりに、教師会の集まりの一体感を作るためにも、教師が瀋陽にいる目的のためにも、次期からは研修を再開しましょうと、私は全員に訴えた。

それで9月から始まったけれど、粟野先生による初回の研修にも出られず、私が研修に参加するのは今度が初めてだった。演者は東北育才外国語学校の中谷先生で、話題は「敬語について」だ。

日本語の敬語は外国人による日本語学習の中でもっとも難しいものだ。だって、それに相当するものがないのだもの。でも、この敬語の使い方が身につかないと、日本語はマスターできない。

それで、日本語教師はこの教え方に努力してきたわけだ。今日の話は、敬語の教え方を従来法と、新しい教え方に分けると、日本語学習の初心者には、新しい教え方が遙かにわかりやすいというものだった。従来法が何かはわたしは知りませんが、この新しい方法は、わたしが聞いても、すっと理解出来るものだった。

敬語は、尊敬語、謙譲語、丁寧語の三つに分けるが、この謙譲語を分からせるのに、「受け手尊敬」という考え方を導入するという。相手に対して自分を下げて(へりくだって)、相手を上げることで尊敬する言いまわしになるという捉え方だ。丁寧語は、「聴き手尊敬」と、考えるとわかりやすいらしい。

実際、説明を聞くと、なるほど、と納得できる。それにしても日本語の先生たちは新しい概念を教えるために、大変な苦心と苦労を重ねている。

聴衆のひとりから「あなた」という言葉は相手に対して失礼だと言って教えているそうだが、という発言があった。中国で日本語を教えているけれど、日本語教師が本職ではない人のようだった。

確かに、学生がやってきて「先生、あなたは、、、」なんて言われたら鼻白む。だからといってあなたは相手に対して失礼な言葉じゃなく、尊敬語だ。普通使わない理由として、知らない相手、あるいは目下と思われる人には使って良い、しかし名前も知って人には、使わないのが普通だ、と言うことだろう。

と言うわけで、会員の日本語教育に対する熱意には感心した一日だったが、宇野代表が懇親会で述べた言葉はいただけない。

懇親会で皆が挨拶をして最後が宇野代表だったが、話しの結びが、「まだ言いたいこともありますが、『他の人も色々と言ったので』、え、ま、これで。」でした。

ここの『他の人もいろいろと言ったので』は、『他の先生がたも色々とおっしゃったので』でしょうね。そうじゃないと、とても失礼なはなしだ。代表だからと言ったって、若年の宇野さんが遙かに年長の尊敬すべき先生方に言って良い言葉ではない。

宇野代表は本当に日本語教師の資格があるかどうか、疑わしい。

2011年12月11日(日) 弁論大会の結果を公示するそうだ

久しぶりに瀋陽日本人教師の会の定例会に出た。今期になって4回目の会合に初めてでたわけだ。知らない顔ばかりというのは大袈裟だが、3分の1の人は初対面だった。

会合に出られない間は、教師会の議事録のブログを見ていたが、「1. ○○について」「2. △△について」というような記述だけで、何を議論して何が決まったかが書いてない。

それでも昨日の集まりで、弁論大会に関して気になる話しが出た。大会で審査をして、1-3位を入賞と評価して表彰するが、入賞しなかった学生から、順位と点を教えて欲しいと言われたそうだ。

それで、いままで散々議論して、公表できない理由はないと言うことで、聞かれれば結果を公示することにしたという。

わたしはこの議論に参加していないので、決まったことに文句を言ってはいけないが、結果を知らされていなかったと言うことを盾にして、自分の意見を言った。

『1から3位までは恐らく6人の審査員の評価がだいたい一致するでしょう。しかしそれ以下は、審査員ごとに大分違うでしょう。つまりStudent t-testを計算すると信頼が置けない数値となるのではないかと思います。

審査員は教えるプロの日本人教師から3名、日本人会から2名、中国人教師から1名という配分ででています。日本人会からでる審査員は専門家ではなく、どのような信条で点を付けるのかは、非専門家の私には良く分かります。

つまり、教師の会が責任の持てる採点は半分の人数なのに、外部に公示してその内容に教師の会が責任を負うというのは、やり過ぎだと思います。

つまり科学者の眼から見ると、責任の追えない数値なのに、それを自分の責任で発表するのはやり過ぎなのです。と言うか、明確に言うと、間違いです。

点数を公示するとすべての参加者がそれを知り、審査会にでていた他の人たちの意見も加えて、この点と順位はおかしいではないかと言い出す可能性があります。

そんなことないでしょ、というのはナイーブすぎますね。私たちはいつもすべての可能性を想定しなくてはいけません。』

それでも、多くの人たちから攻撃を受けた。自分たちが議論して決めたことに何で門外漢が文句を付けるのかという感じを受けたのだが。

もし、学生、父兄、その先生たちから、これはおかしいじゃないと言われたときに、教師の会でない人たち半分の審査員も含めた結果の責任を教師の会がどうやって取れるのか、とれっこなないのに、今の教師の会に人たちは、とても不思議なひとたちだと思う。

公示しない理由は何かと聞かれて、答がないので公示することにしたというのが、理由みたい。そう言うのが理由になるのかな。

集まりで、多くのひとたちが語気も鋭くこう決めたのだとぼくにいう以上、わたしは言いたいことは言ったのだから、もう結構。

わたしは、採点結果の公示とその結果は日本人会の責任であることを日本人会に明確に伝えるようと、この会で司会と代表に念を押して、お終いにした。

2011年09月21日(水) 2011年度の代表は再び宇野さん

2011年度の教師の会の初めての定例会は、私はちょうど日本への出張の時期と重なり、出席できなかった。

年度の初めての会合で代表を決めるので、そこにいない私は代表選出については何もできなかった。あとで、前期の宇野代表がまた自薦で立候補し、ほかに立候補も、他薦もなく、宇野さんが今期の代表になったという。

9月17日付けで宇野さんからメイルが入った。

皆様

本日の定例会および歓迎会、お疲れ様でした。

よりよい教師会を作り上げていくために努力して行きたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

これに対して私は、9月21日に以下のメイルを送った。

宇野先生

ご連絡をありがとうございます。

今期も代表をされると言うことですが、前期のあなたの行動は、あなたが代表にふさわしくないことを皆に示していました。その批判を教訓に、今年は是非、成長して欲しいと思います。

代表は会員のために奉仕するための存在であることを、まず認識して下さい。会員からの声には誠実に対応して下さい。「俺は代表なんだ」と浮かれるための代表ではありません。

集まりで出合ったら、きちんと挨拶をしましょう。挨拶をしないのは今の若者だからでしょうか。しかし日本の社会では、挨拶をしないのはその人を認めていないと言うことなのですよ。大人になる訓練だと思って、教師の会ではその日に初めて会った先生たちには、目をそらさないできちんと挨拶をしましょう。心のこもった言葉で挨拶をしましょう。

瀋陽日本人教師の会は、日本語教育の(あるいは研究の)経験を積んだ、知性も品格もある先生方の集まりです。それを代表するのにふさわしく、振る舞って欲しいですし、ほかの方々、ほかの団体、組織の代表の前で、それにふさわしい話をして下さい。日本人会の人たちから、批判を聞かされて、教師の会の会員としてあなたが代表であることに恥ずかしい気持ちを何度も持ちました。

草々

山形 達也

2011.09.08 ちゃんとした人に来て欲しい

https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201109070000/

さえ:

日本の歴史教育は偏向しているとか、アジアの國から日本は始終叩かれていますね。でも、『スタンフォード大学の学者が「日米中韓台の比較研究で分かった一番公正な歴史教科書は日本」であると言う論文を雑誌サピオに寄稿している』そうです。

これを世界中に論文として発表して欲しいですね。もっとも、人々の目に触れるかどうかは、その國の政治の形で決まりますから、政府当局が好ましくないと思ったら、闇に消えてしまうのでしょうね。

『米スタンフォード大学アジア太平洋研究センターは、日中韓と米国、台湾の高校歴史教科書比較研究プロジェクトを実施し、日本の教科書は戦争を賛美せず、最も抑制的だと指摘した』と言うことです。

『日本の教科書 :今回比較した中では日本の教科書が最も愛国的記述がなく、戦争の賛美などは全くしていない 。日本の中国進出についてのくだりは全く事実をそのまま伝えており、当時の軍と政府のリーダーたちの責任だとしている 。非常に平板なスタイルでの事実の羅列であり、感情的なものがない。』

『韓国の教科書 :韓国の教科書は特にナショナル・アイデンティティーの意識の形成に強く焦点を当てている。自分たち韓国人に起こったことを詳細かつ念入りに記述している』ということです。

『中国の教科書 :歴史学の観点から見て、最も問題が多いのは中国の教科書だ。中国の教科書は全くのプロパガンダになっている。共産党のイデオロギーに満ちており、非常に政治化されている。太平洋戦争に関してほとんど記述がなく、広島・長崎の原爆投下もほとんど言及していない。 中国の教科書は2004年に改定されているが、改定後は中国人の愛国心を謳い、日本との戦いを強調している。内戦の話は後退し、抗日戦線での勇ましい描写が増えた。南京事件などをより詳細に記述するなど、日本軍による残虐行為もより強調されている。つまり中国人のナショナリズムを煽っている。』

中国でぼくたちは、子供の時からこのような教育を受けてきた学生を相手にしているわけですから、ぼくたちはある意味では感情がぶつかってくる最前線にいるわけですね。

でも、学生は子供ではありません。学校ではそういう教育を受けてきたけれどと思いながらも、じっとぼくたちの態度、考え方を見つめて観察し、日本人は普通の人間で、決して好戦的で残虐な人間として生まれてきているわけではないと理解して行くみたいです。

その意味ではぼくたち一人一人が日本を背負っているわけです。日本人の代表として、日本人は正直で、公正で、そして勤勉で優秀な民族だと、ぼくたち一人一人の態度から理解して貰うしかない現状は、本当に歯がゆいですが、ぼくたちに課せられた大事な使命です。

話は飛びますけれど、世界がグローバル化したためか、日本の就職状況が良くないからか、こんな人で大丈夫?という人たちが瀋陽日本人教師の会でも、時に見られます。少なくとも教師という、人に影響を与える職ですから、ちゃんとした人に来て欲しいですね。