2009年度教師会日記

瀋陽日本人教師の会日記 2009年度 山形達也

2010年06月24日(木) 高木純夫さんの送別会

この間の教師の会の定例会に、久しぶりにアリちゃんこと有川さんが現れた。今期で瀋陽を去るというのに、つまり公式には今日でお別れなのに、にこにこと幸せそうに顔が輝いている。

「こんにちは、久しぶりですね。あれっ、とっても嬉しそう」と声を掛けると、「そうなんですよ。来るときのタクシーでも運転手さんい、どうしてそんなに楽しそうなの?」と訊かれてしまいました。

「今日でお別れなのが、嬉しくって幸せみたいじゃない?」というと、「教師会、大好きなので、お別れは悲しいです。でも、大好きなみんなにこうやって会えるから嬉しくて幸せなのです。。。」と大きな目を、もうウルウルさせていたっけ。 別れは悲しい。でも大好きな人と会えるのは幸せで嬉しい。 6月23日の夜は、高木純夫さんの送別会を教師の会の有志が集まって開いた。高木さんは伊藤忠商事の瀋陽・ハルピン事務所の代表だ。この事務所は、ちょうど今中国大使に民間から任命された伊藤忠の丹羽宇一郎会長が、2004年に設置を決めたものだそうだ。従って高木さんは、初代所長である。

私が日本人会の幹事会にオブザーバーとして出席し始めたのが2005年の秋からだった。この幹事会は瀋陽在住の日本企業の人たちが仕切っている。研究者の 世界にずっといた私にとっては、どのようにして付き合って良いか全くわからないひとたちばかりである。

でも、その中の高木さんは、商事会社のやり手らしく人をそらさない如才なさの中に、アカデミックな雰囲気も持ち合わせ、私を煙たがらずに、あるいは、距離を置こうとせずに、相手をしてくれたのだった。つまり高木さんは、目線をこちらと同じところにおいていて、当然のこと職業も、身分も違うけれど、それとは 関係なく同じ人としてこちらと話そうという態度が気持ちよく、たちまち、かれのことを好きになってしまった。

会議での発言も、見かけも若々しい。年を聞くと私よりも一回り若い、同じ誕生日である。もっと若いと思っていたのでこれには驚いたが、私のことも若く見えると言われるので、これはお相子である。

2006年春には教師の会の小北間街にあった資料室が突然閉鎖されて、私達は途方に暮れた。3月末の日本人総会でその時会長だった南本卓夫先生が窮状を訴 え、多くの方々から支援、助言、具体的な援助を頂いた。

その中で高木さんの友人のビルのオーナーからの申し出を私達はありがたく受けて、開元ビルに125平方メートルという広い部屋を無償で貸して頂いて資料室 を再開した。

しかしこの資料室も数ヶ月で閉鎖の憂き目にあってしまったが、責任を感じた高木さんは次の場所を探すのとその交渉に全力を尽くして下さった。相手が瀋陽市と言うこともあってこれはとうとう不調に終わったが、高木さんと総領事館の森領事は3ヶ月間、私達の次の資料室探しのために奔走してくださったのだ。

12月になって、前の時に同じようにビルを貸そうといって下さった方を頼って集智ビルに資料室を開くことが出来た。この時の契約書作成は高木さんに全面的におんぶした。 2007年4月から高木さんは日本人会会長となり、教師の会と日本人会との間を近づけるためにいろいろと務めて下さった。定例会にもオブザーバーとして参加して、その後の懇親会にも出て下さったことが何度もあったし、資料室の公開セミナーにも普段着で参加されたこともある。 このように、教師の会を支えて下さった高木さんが、いよいよ6年の瀋陽滞在を終えて帰国されるという。教師の会にとっても、私にとっても親しい友が去るの を見送るのは悲しい。

しかし、一方で、高木さんとこうやって一晩一緒の食事をして、彼の該博な知識と知恵の一端に触れることはとても嬉しいことなので、悲しい送別会とは裏腹に、とても楽しい時間を過ごしたと感じられた。

参加者:

前列左から

有川 里菜 遼寧省実験中学

瀬井 康代 瀋陽大学

高木 純夫 伊藤忠

多田 俊明 瀋陽薬科大学

高澤祐一郎 瀋陽大学外国語学院

後列左から

松下 宏 遼寧大学

劉 凱 千品軒

渡辺 文江 遼寧大学外国語学院

吉田 登美子 遼寧省国際交流協会

山形 達也 瀋陽薬科大学

日時:2010年6月23日(水曜日)午後6時から9時

場所:唐萱閣 元帥府

024-23886989

瀋河区五愛街26号甲1

2010年06月23日(水) お別れ

2009年度の最後の定例会は6月19日の午後2時から劉凱さんの千品軒で開かれた。

出席:有川、石田、宇野、春日、小池、杉島、瀬井、高澤、多田、巽、土屋、松下、山形、山田、吉田、任、渡辺、

風間は懇親会から参加(撫順から来るバスで悪酔いしてしまって、ずっと休んでいたそうだ)

特別参加者:伊藤(本渓学院)

報告事項:「資料室」

資料室:資料室の閉鎖されたのが2008年3月。別の資料室がみつからなくて、とうとう書籍6千冊を瀋陽市図書館に寄付したのが2009年春。

寄付した図書の目録作成に取りかかったのが2009年12月15日。

土屋・任両先生の音頭の元で,図書入力の完成したのが今年の6月18日(つまり昨日)。

一方、2009年の10月には劉凱さんから自分の店を資料室に使わないかと言う申し入れがあった。教師の会は「資料室再興ワーキンググループ」を12月の定例会で作って資料室再興を検討してきた。2010年3月には,教師の会に資料室を劉凱さんの千品軒の一画を使わせて貰って再興することを答申して、教師の会で了承された。

教師の会と千品軒の劉凱さんとの間に、使用についての覚書を取り交わしたのが2010年6月19日で,5月に遡って使用料金1200元を支払ったことを報告した。

「資料室再興ワーキンググループ」は今後は「資料室係」となるので、今後どうかよろしく。

今回の集まりでは、劉凱さんの特別スピーチ「漢字の成り立ちとその背景 甲骨文の解読」 が企画されていた。

劉凱さんは日本語を私達と同じように読み書きできる素晴らしい人と認識していたが,彼女は甲骨文字と神話の研究も深く行っているということで、今日はその一端が披露された。

たとえば星という字の上の日は二つの星を意味しているという。星が二つというのは、二重星であるシリウスを形取ったらしい。中国では天狼星と呼ばれる一番明るいシリウスは、実は白色矮星の二連星だというのは現代の天文学の知識なのだそうだが(1862年、当時世界最高の望遠鏡によりAlvan Clarkがこのシリウスが二連星であることを発見したという),肉眼では二連星には見えないのに、どうして古代で見えたのか。

実は、と劉凱さんの話は続く。今も存在するアフリカの部族でドゴン族に伝わる神話がある。神話に曰く:

* 人間の目には見えぬ“ポ・トロ”こそ、全天で最も重要な星である。

* ポ・トロは、天空で最も明るく輝く“母なる星”の主伴星であり、その周りを50年で一周する。

* ポ・トロは楕円軌道を描いて回っており、“母なる星”はその焦点の一つに位置する。

* ポ・トロは地球上のいかなる物質よりも重い“サガラ”という金属でできている。

* “母なる星”には、ポ・トロの四倍も軽く、ずっと大きな円軌道を描くエンメ・ヤ(第3の星)が回っている。

* エン・メヤの周りには、ノンモ(魚人)の住む“ニャン・トロ”が回っている。

* 遠い昔、ノンモが地上を訪れ、人類に文明を与えた。

http://www.aritearu.com/Life/Sky/Sirius.htm

ポ・トロはシリウスしか考えられないという。つまり、ドゴン族はシリウスを信仰し、シリウスが伴星を持つこと(シリウスが連星であること、伴星はシリウスBと呼ばれる)や、その公転周期が50年であること、さらには、シリウスの伴星が白色矮星であることなどを知っていたかのような伝説を持っている。

漢字の起源では,中国と遠いアフリカと似たような古代の話を持っていることが述べられただけだが、15万年前のアフリカに住む『イブ』とあとで名付けられた女性から,今のすべての人類が派生していることを考えると,アフリカ起源の人類がその頃の神話を持ったまま中国にたどり着いて、漢字を作ったときにこのシリウス伝説を星という字にしたとは考えられないか。

劉凱さんは、そんなことはありませんと,私の考えは一蹴されてしまったが。

5時半から新南国美食で開かれた懇親会は送別会兼用だった。今年度で任地を去る先生は、二年組:有川、高澤。三年組:瀬井、多田、巽の5人。

仲良くなった仲間を見送るのは,悲しくて、淋しい。送る言葉を述べながら、涙が思わずこぼれそうだった。

2010年05月16日(日) 教師の会の『会友』

5月の定例会は千品軒で5月15日3時から開かれた。

出席は15名

石田薫、風間珠実、春日信興、小池保利、杉島和子、 瀬井康代、高澤祐一郎、 巽保隆、土屋登、 松下宏、山形達也、 山田実樹、吉田登美子、 任絵美、渡辺文江

欠席は3名

有川里菜、宇野浩司、多田俊明

全員が出席しても18名という数である。

渡辺文江先生から、瀋陽には教師の会に入っていないけれど、日本語教師として働いている日本人が数人おられる。たとえば語学学校の先生は、先日の弁論大会の審査員としてきて頂いたそうだ。そして彼女は、出来ることなら日本人教師の会に入りたいけれど、語学学校が忙しいのは週末なので、教師の会の集まりや活動と重なってしまうので、入れないとその先生の気持ちを紹介した。

そして渡辺先生は、今この会には会友という制度がある。このような、教師の会に入って会員と同じようには活動できないけれど、それでも連帯の気持ちを持ちたいという人たちに会友となって貰ったらいいのではないか、と発言された。

ところで、教師の会の会則には会友という決まりはない。

そこで私が、司会の高澤先生の許しを得て発言した。

「実は、会友というのはこの会の会則には書いてありません。あくまでも潜りのもので、名簿掛かりをしている私が勝手に始めたものです。」

  「この会の一つの大きい特徴は、全員がそれぞれなにがしかの役を持ってこの会の運営に貢献すると言うのがあります。これは素晴らしい制度です。誰か一部がこの会を運営して、それ以外の人はそれにおんぶするのでありません。つまりこの会は皆が作っているという意識の元に運営されます。」

「しかし、この理念にそぐわないことも出てきました。それは、一つには秋に来られて短期間だけこの会に (1年分の会費を払って)会員となって下さった先生があります。でも、もちろん短期間なので何かの役はありません。一時参加されたあとの期間は、日本に帰国されていますが、会費の点から見ると立派に会員です。」

「さらに、それまでの仲間だった先生が忙しくなって、何かの役を持って活動することは無理だと言ってこられたことがあります。今まで一緒の仲間だったのに、それだけのことで、はいそれではさようならとは言い難かった私は、それでは、会友というくくりにして、『役はない、会費は払う、好きなときに、何か出来ることがあったら会に出てきて会員と同様に振る舞って良い』というのはどうでしょう。と提案して、会費を頂いて、別に会友という欄を作ってそこに登録をしました。短期間だけ参加される先生もここに登録しました。」

「もう3年くらい続いていると思います。当然、会で話し合わなくてはいけないと思いつつ、そのままになっています。この責任はすべて私にあります。勝手なことを始めていて申し訳ないことですが、ちょうど良い機会ですから、会友というものについてご意見を頂きたいと思います。」

さらに追加して、会友という形で仲間が増えるのはよいことだし、会の活動が出来なくても会費がいただけるというのは会にとって利点ではないか、と言う発言が渡辺先生からあった。

私も、利点を見ればそうだと思って、次回にきちんと審議できるよう、会友の定義などをまともって持ってきましょうかと言ったところ、土屋先生から「金だけ払って何もしない人が会に入ってくるなんて許せない。」とはいて捨てるような発言があった。

強い語調には驚いたが、実際、人はいろいろな意見を持っている。お互い腹蔵ない意見を述べ合って一致点を見つけるしかないのだ。

今回はこの議論をするためには時間が限られていたので、話は次回に持ち越された。

2010年04月26日(月) 第14回瀋陽日本語弁論大会が開かれた

4月25日(日)は第14回瀋陽日本語弁論大会最終審査の日だった。何時ものように、商貿飯店の3階の大会場で開かれた。主催者は日本人会で教師の会の主催ではないけれど、教師会が全面的に協力しないと開催できない一大イベントである。

教師の会のこの日の係は7時45分までに集合、それ以外の私たちは8時までに集合。全員が集まった時点で代表の多田さん、続いて弁論大会の総元締めの高澤さんが挨拶して、長い一日が始まった。9時開会まではそれぞれの係りが打ち合わせのあと互いに走り回って準備と点検、確認に忙しく、見ていて(参加してというべきだろうが)この一時間の緊張感がとてもいい。

8時半までには審査員を務める人たちが会場に到着したので、係りの松下さんは審査員控え室の一室に審査員たちに集まってもらった。採点の時のポイント、基準など詳しく皆に伝えるためだ。要点を説明し始めて暫くして、一人が入って来て席に着いた。松下さんが尋ねた、「失礼ですが。。。」

するとこの人は憤然とした面持ちで「日本人会会長です」と言い放った。 うわっ、なんだ、そりゃ。「日本人会の○○です」でいいはずだ。

主催者が日本人会なのに、会の始まりに主催者としての開会の挨拶もないことに気付いて、やっと今年から日本人会から開会の挨拶がプログラムに織り込まれた。会の運営も段々良くなる、と思っていた矢先にまた臭気を嗅いだ思いだった。というわけで出だしの気分は良くなかったが、スピーチ大会が始まると学生たちの熱演に引き込まれた。以前多かった絶叫型スピーチがほとんどなくなった。

その場で題を与えられて5分考え、2分以内のスピーチをする即席スピーチは、あらかじめ念を入れて用意した原稿を話すのと違って本人の実力が否応なく出る。毎年途中で言葉に詰まってそのまま投げ出す学生が何人かはいたものだが、今年は誰もが、至極まともにまとめているのが際だった違いだった。

即席スピーチの題が、パソコン、旅行、音楽、色、誕生日、友だち、故郷、方言、魔法、春、花、料理、携帯電話、時間、趣味、というように、奇をてらったものでなくごく日常的な話題として話が出来るものが用意されていた。学生がそれなりの勉強をしていれば、こなせる題が用意されていたと言うことだろう。

最後に行われたアトラクションと表彰式は、私はドアの閉まらない控え室の留守番として残っていたために会場を見ることは出来なかったが、声は聞こえてきた。

私が初めて弁論大会に参加したのは2004年の春だった。司会役を仰せつかった。原稿に沿って役をこなしていくのだったが、来賓紹介というのがあって、遼寧省人民政府○○様のほかに、来賓・日本人会会長○○様というのがあって愕然としたのを覚えている。主催者が日本人会なのにどうして会長が来賓なの? 運営を丸投げで背負わされた教師の会の、雇われ司会者としてはもちろん原稿のまま読むしかなかったが、これはおかしいと申し入れて、さすが翌年からはこの悪習はなくなった。

中国にいる日本人教師は、肩書きでは生きていない、教師としての実力だけだ。そのまえで、俺は日本人会長だぞ、知らないのかと力んでいる。ま、可愛いと言えば可愛いが。

やれやれ、今年の日本人会幹事会に、教師の会からオブザーバーとして出る先生は大変だろう。

「大学一部の表彰でーす。三位○○さん、二位○○さん、一位○○さん」と名前を司会者が呼び上げていたが、「若き日の、希望に燃えて、、、」というメロディが流れてくると、「それでは、選手の皆さん、前に出て。」なんて思わず司会者が言ってしまう楽しい瞬間もあった。

教師の会の会員は昨年度から半分くらい入れ替わっている上に、会員数も減っている。それなのにさしたる問題も起こらず、弁論大会としては大成功といって良い。いろいろと表に出ない問題点もあったが、それはまたいずれ。

2010年04月23日(金) 渡邊京子先生を偲ぶ

この春2月24日に6年間私たちの仲間だった渡邊京子先生が亡くなった。中国医科大学の日本語の先生だったが、医科大学に日本から留学している日本人留学生の面倒もよく見ておられた。森野さんはそのひとりである。京子先生や私も加えて瀋陽日本人医学会集会と銘打って、留学生たちが年に1-2回レストランに集まり気炎を上げてきた時の世話役である。この森野さんが京子先生への追悼文をまとめた。

2010年2月28日 山形から森野さんへ:

昨日、貴君と別れてから思い出したのですが、渡辺京子先生のその後の消息をご存じですか?

  昨年の初夏、膵臓ガンの疑いで急遽その後の滞在を取り消して帰国されました。メイルを出しても返事がなくて案じています。もしご存じでしたら、教えて下さいな。

 

2010年3月13日 森野さんから山形へ:

渡邊先生の状況がわかりました。非常に残念ですが、先月24日にお亡くなりになられたようです。

  癌をわずらってからは、瀋陽の知り合いの方に心配をかけたくないとのことで極力状態を漏らさないようにしておられたということです。私自身も渡邊先生のお見舞いに行くかどうか卒業生と話をしていましたが、滞在時間に空きがなかったのと、逆に気を煩わせてはとおもい、あえてお見舞いにいかなかったことを後悔しております。

  渡邊先生からは大学の人間関係で困ったときに幾度か助けていただいたこともありますし、お部屋に誘っていただいて幾度か元気付けてもらったことが思い出されて本当に胸の詰まる思いです。

 

2010年3月13日 山形から森野さんへ:

今日の午後、今学期初めての教師の会がありました。渡辺京子先生はどうしておられるかという話も出ました。戻ってきて、貴兄から届いた悲しい報せを読みました。

心の優しい先生でした。そして料理もお上手で、筑前煮やおはぎの差し入れを良く届けて下さいました。

瀋陽で親しくなった友人に逝かれて、心が悲しみで痛んでいます。

 

2010年3月15日 森野さんから山形へ:

今回、渡辺先生が御亡くなりになったことを知って、本来医師の家庭で育った私は人の死に対して普通より免疫力が強いものだとおもっていたのですが、思い起こして渡辺先生が損得を考えず私に与えてくださった恩を思い返すと何故だか涙がこぼれてしまいます。

天国にいる渡辺先生には届かないかもしれませんが、医科大の教え子の学生の寄せ書きを御自宅に送らせていただこうと御自宅の住所を調べてもらいました。

もしよろしければ、教師会の渡辺先生と仲の良い先生方の寄せ書きを頂いてもよろしいでしょうか。私が薬科大まで頂きに参ります。

2010年3月16日 山形から教師会の会員へ:

悲しいお知らせです。昨年夏まで私たちの仲間だった渡邊京子先生が2月27日に亡くなら れたとのことです。医科大の学生である森野さんから知らせがありました。渡邊先生は2003年秋から昨2009年6月まで中国医科大学の日本語の先生でした。

彼から受け取った新しいメイルでは、渡邊先生のご自宅に、学生たちが弔意を表して寄せ書きを送るそうです。私たちも誘われていますが、私たちが集まって一つの紙に書き込むというのには、かなりの困難を伴うと思います。

それで、渡邊先生のご家族に弔意を届けたい方は、それぞれWordにお書きになって(あるいは自筆をスキャンしてPDFファイルにし て)、森野さん宛にお送り下さいませんか。

  期限は、ひとまず今週末までと言うことにしませんか。無期限ですと、森野さんによる取り扱いも大変でしょうから。

 

2010年3月17日 森野さんから山形へ:

デザインの仕事をしている友人と相談してメッセージの送り方を決めました。

添付の印刷イメージをご覧ください。2ページしかありませんが、1ページ目が表紙で、2ページ目は内容のイメージです。

すべて縦書きで縦に閉じる小冊子にし、内容は先生方の文と学生の寄せ書きを集めたものにします。寄せ書き本という感じです。恐らく50ページ程度の本になりそうです。

特に問題なければこのまま進めさせていただきます。よろしくおねがいします。

 

 2010年4月21日 森野さんから関係者へ:

渡邊先生へ弔意の言葉を送っていただいたみなさま

  本日約90人分の弔意の言葉を載せた本ができあがりました。頁数は111ページにもなりました。添付写真のとおりです。

明日にでも渡邊先生と御家族のかたへお送りしておきます。ご協力ありがとうございました。

2010年04月11日(日) 心の優しいオオカミふうおじさん

4月10日(土曜日)に4月の定例会があった。薬科大学の食堂5階にある小部屋をを借りて3時から会議が開かれたら、まだ終わらないうちに、食事が運び込まれてきた。

会議のあと5時から食事をするからねと言うことで、この食堂の小部屋を借りて会議を開いたのである。今日の議題の中心は、4月25日(日)に迫った弁論大会の当日の運営に関するものだった。

出席は、全部で18人。有川さん、吉田さんが日本に出張中。山田実樹さん(東北育才外国語学校)が新しく加入。

終わって懇親会

弁論大会最終審査の出場者は、提出した作文で選ばれる。日本語教師がいれば、当然この出場者はそこの日本語の先生たちからいろいろと指導を受ける。しかし日本人教師のいない学校からの参加者もある。そのような学生に、翌日の11日(日)に遼寧大学の国際会館で、スピーチの指導をする予定になっている。 このような学生が13名いるそうだ。「11日に遼寧大学に来て指導できる先生は?」「多田先生、渡辺先生、山形先生はいいです」

多田先生は代表、渡邊先生は遠方、わたしは無能、というので外された中で手を挙げたのは11名。あと二人欲しいなと言うので、とうとう多田先生も参加。

この翌日の指導に参加する中に撫順市朝鮮族第一中学の日本語講師である、若い女性の風間さんがいる。若いも何も大学を出たばかりで派遣されてきているのだ。

その風間さんは、撫順は近いから最終バスは夜の10時まであるから今日は撫順に帰ります。「じゃあ明日は?」と聞かれて、「また撫順から出てきます。」

以前は、瀋陽大の女性の先生である瀬井さんのところに泊まったことがある。今日は駄目なの?と土屋さんが聞いているが、瀬井さんは今夜は学生が泊まりに来ることになっていて無理だという。

そりゃ気の毒だ、今日はうちに泊まったら、と、人畜無害を装う瀋陽師範大学の土屋さん。ベッドは一つだから、ぼくは床に寝るからさあ、だいじょうぶだよ、なんて言っている。 もちろん、風間さんは、いえ、うちに帰りますと答えている。それで、土屋さんは隣のテーブルの同じく人畜無害風の松下さんに声を掛ける。「ね、松下さん、先生のところベッド二つなかったっけ?」 松下さんは、「ベッドが二つあったって。。。」と、至極まっとうな返事をしている。

そうこうするうちに、やりとりを聞きつけた任さんが「あらうちにいらっしゃい」と言ってくれた。彼女は結婚していて、小学生の息子さんもいるが、泊める場所があるらしい。よかった。

もちろんわたしのところだって、大きな(巨大なと言っていい)ベッドのほかに、シングルベッドがあるけれど、女性を誘うわけにはいかないので、黙っていたわけだ。もし名乗り出て、「あら嬉しい、助かったわ」なんて言われたら、どうしていいか分からなくて心臓麻痺を起こしかねないもの。 土屋さんは赤頭巾ちゃんのオオカミを装いつつ、ちゃんと風間さんを助けたわけだ。わたしみたいな本当のオオカミには、とても真似が出来ない。

右は、今日の話に出てきた人たちの写真です。

2010年03月22日(月) 教師の会の負の遺産

いま教師の会の抱えているbig projectは、瀋陽市図書館に寄贈した6千冊近い書籍の目録を作ることである。市図書館の仕事じゃないかと思うけれど、市図書館には日本語の書籍を登録するシステムがない。

それで寄贈図書の目録作成が私たちに求められているわけだ。係りの土屋さんと市図書館との交渉で、MSのExcelをつかって、書籍、著者、発行所、発行年、値段などをこちらで入力することになった。この頃の書籍にはISBN番号があるので、これを入れて、Amazonのデータベースにアクセスすると書籍情報が自動的に入力出来るソフトがある。 でも、古い本ではこの番号がないものもあるし、Amazonにデータがないものもある。そうなるとすべて手入力作業だ。

図書情報の入力作業は市図書館の、外国語書籍を置いてある一部屋の一部で行う。2009年の12月から、土屋さんと高澤さんの指導でこの入力作業が始まった。 昨日、3月21日の日曜日はこの9回目で、私は初めてこれに参加した。春節休暇前の入力作業のときは、私の体調が悪かったので一度も参加出来なかった。その間に2千3百冊余が既に登録された。

  午後1時に図書館に着くと土屋さんは朝から来て入力作業をやっているという。ほかには呉松さんという瀋陽大学の学生がいた。彼は高澤さんの学生で、この作業を最初から来て手伝っているらしい。会員のそれぞれが自分で持ってきたPCがインターネットで使えるようになるには、彼しかできない作業が必要である。

  私のWindowsに呉松さんはインターネットからソフトをダウンロードしたが、アマゾンにアクセスできない。つまり、ISBN番号を入れて自動的に書籍情報を取得してほいほいという、少しは楽な道が選べないことになった。

この時点で土屋さんは、冷酷な声で(というか、ひそかに嬉しそうな声で)、山形さん、それじゃ、全部手入力して下さいという。そしてExcelの書式をわたしのPCにいれて、横に未入力の本を山と積み上げる。実際のところ、段ボール一箱分だ。やれやれ、マジかよ。初心者だぜ。おまけにもうすぐアラコウ(後期高齢者)だ。

同じく、今日が初めての吉田さんも現れて、彼女は土屋さんのPCを使って、同じく手入力作業を始めた。呉松さんは、私たちのPCの面倒を見つつ、本の整理を行い、なおそれだけでなく、私たちに自分で用意してきたお茶のサービスをしてくれる。

  さて、吉田さんと向かい合って黙々と入力作業すること2時間。ついに腰が痛み出した。もう、いい。もう止めよう。

私が入力した本は53冊。全書籍の100分の1だ。全体から見るとまだまだだけれど、少しは貢献したわけだ。そして何よりも大事なことは、土屋さんはじめ会員の苦労が身に沁みて分かったことだ。

  実を言うと、翌朝、つまり今朝は起きるとき、腰が痛くてベッドの上で輾転反側した。目が痛く、目頭を手のひらで揉み続けた。それでも頭が重くて、起き出すのに苦労した。本当に、これは大変な作業だ。この作業に携わってきた人たちに、心から素直に感謝の気持ちを抱いている。

2010年03月20日(土) 梅木愛先生の送別会

3月19日夜、東北育才学校の近くの石鍋居で梅木先生の私的な送別会を開いた。

教師の会の公的な送別会は12日に開いているので、私的なと言っているけれど、もちろん会員には公開して参加者を募った。梅木先生が19日なら空いていると言われたのに、私だけが独占しては申し訳ないというか、もったいないと思ったからである。

そしてさらには伊藤忠の高木純夫さんも誘った。高木さんも彼女の熱烈なファンの一人だと知っているからだ。ところが、なんと言うことか、高木さんはもうさっさと、18日に彼女の送別会をやっているのだ。

高木さんはいい女には直ぐ目を付ける。私だってそうなのだが、こちらは何時も振られ続けという大きな違いがある。

というわけで、残念ながら高木さんは不参加だったが、当日の参加は、石田(薬科大)、宇野(航空大)、小池(師範大)、瀬井(瀋陽大)、吉田(国際交流協会)、山形(薬科大)、そして主賓は梅木愛(東北育才学校)。 場所は歴史の長い石鍋料理で名高い石鍋居。豆腐が売り物で、豆乳もサービスで出てくる。これがとても美味しいのだ。 ただし日時は最低の日だった。前の晩から雪。午後から雨に変わって、しかし気温は零度前後なので、道は歩道も道路も、雪と水と氷で、ぐちゃぐちゃの、ばりばりの、つるつるの。。。

梅木さん、別名愛ちゃんはとても率直に自分の意見を述べる。なんと言っても、気っ風がよい。すかっとしている。うじうじしていない。並み居る男どもが、彼女のファンになるわけである。

これは彼女が射撃の名手と言うことも効いているらしい。ネットで見ると彼女は全国ランキングに何度も入っているのだ。つまり、面倒なしがらみをぱっと捨てて、すかっと物事に注意を寄せられる集中力がある。そして引鉄をためらいもなく落とすという決断力がある。

なんて、ほめ続けていると、この次の女性の会員の送別会の時、言う言葉に困ってしまうかも。

ただし、私は瀋陽7年目になるから、いままでに沢山の帰国する、あるいは転任する教師の会の会員を送ってきたが、このように私的な送別会をした女性は愛ちゃん以外、皆無と言って良い。

それだけ愛ちゃんは、たった一年半の教師の会の仲間だったけれど、私を魅了した存在だった。

どうか、お元気で。また、きっと何時か、何処かで、会いましょうね。

2010年03月16日(火) 渡邊京子先生

渡邊京子先生が亡くなった。呆然としている。

中国医科大学の学生である森野さんが3月13日に連絡が入った。彼のメイルによると、

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渡邊先生の状況がわかりました。非常に残念ですが、先月27日に御亡くなりになられたようです。

癌をわずらってからは、瀋陽の知り合いの方に心配をかけたくないとのことで極力状態を漏らさないようにしておられたということです。

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渡邊先生は2003年秋から昨2009年6月まで中国医科大学の日本語の先生だった。

私と妻と瀋陽に来て、瀋陽日本人教師の会に入れて頂いたのが2003年秋のことだった。京子先生と同期の入会だったことになる。妻と私は日本語教師ではないのにこの会に入れて頂いて、何時も隅で小さくなっていた。会の中の役割は違っていたけれど、同じ年配と言うことで京子先生は私たちにも優しく声を掛けて下さった。

そしていつの間にか仲良くなり、京子先生から手作りのおはぎや、筑前煮を何度も頂いてご馳走になった。京子先生がお得意になっている恵英旗袍にも紹介下さって、妻も私もそこで旗袍をあつらえた。レストランで何度か一緒の食事をした。レストラン東京で、大志で、新南国美食で。。。

森野さんの後便によると

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天国にいる渡辺先生には届かないかもしれませんが、 医科大の教え子の学生の寄せ書きを御自宅に送らせていただこうと御自宅の住所を調べてもらいました。もしよろしければ、教師会の渡辺先生と仲の良い先生方の寄せ書きを頂いてもよろしいでしょうか。私が薬科大まで頂きに参ります。

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教師の会の会員に知らせた。この寄せ書きは、あちこちに分散している会員が作成するのは困難なので、その意志のある方は森野さんのところに書いて送るようお願いした。

私は京子先生とのメイルのやりとりを読み返した。メイルと写真を見ながら、また涙がわき上がってくるのを抑えられなかった。

優しくて、何時も温かな心遣いに満ちていた京子先生。私にも優しく付き合って下さってありがとうございました。心から先生のご冥福を祈ります。

2010年03月14日(日) 2010年3月の定例会

定例会は3月13日2時半から劉凱さんの品和軒を借りて開かれた。

  12月の集まりから今日までに、会員二人が帰国した。石脇千代子(任期満了)、中野牧男(病気で辞職)。

  出席は、 有川、石田、宇野、梅木、春日、小池、杉島、瀬井、高澤、多田、巽、土屋、松下、山形、吉田、任、渡辺、それに新しく、 風間珠実(撫順市朝鮮族第一中学)で、合計18名の参加。

風間先生は青年海外協力隊員で、昨年大学を卒業したばかり。もちろん教師の会の最年少記録更新である。暖かい南国のタイに行きたかったのに、決まった任地は、寒い中国の撫順市。気の毒に。

  土屋先生から、瀋陽市図書館で進んでいる図書の目録作成についての状況報告があった。1月の春節休み前までに、協力してくれる学生も含めて7回集まり、図書目録の入力作業をした。それでいままでに2158冊が終了。約6千冊から見ると、前途遼遠である。土屋先生は夏までに終えられるかどうか分からないと言う弱気の発言。でも、やるっきゃない。それも次の教師の会のの新しい年度の新しい会員が来る前には終わらせなくてはいけないという発言もあった。確かにそうだ。

弁論大会では、最終瀬審査で1、2,3位の三人が選ばれて賞金を手にする。これに落ちた人たちから成績(点数、順位)を知りたいという要望があったという。どう対処するか。

いろいろな意見が出た。しかし最終的には、点数は審査員の主観的な判断で付けられるものだから、8人の審査員による総合成績を見ても、だれもが納得できるわけではない。点数と順位を発表することで、学生を傷付けることもあり得る。弁論大会は、発表した学生に「よく頑張ったねえ」、「また、もっと続けようねえ」というのが主催者のメッセージだろう、それが一番大きな目的だろう、だから、詳細な点数と順位の発表は見合わせよう。ということになった。

それにしても、それぞれの先生方の発言は、学生に対する愛情に満ちた見識のある意見がほとんどで、それぞれに一つ一つ感銘を受ける気分だった。 夜は原味齋。北京ダックの店。費用は前回の12月の懇親会費の残りでまかなった。3月23日に帰国される梅木愛先生の送別と、風間珠実先生の歓迎を兼ねた。

梅木愛先生は青森県出身で、富山県の現役の高校職員として派遣されたので、また富山の高校の先生として復帰する。ただし、前のところに戻れるかどうかは分からないとのこと。彼女は全日本のエアライフルの記録も持っていたほどの人だ。前任の高校には富山県唯一の射撃部があって、8年目には射撃部から国体選手が出たという。戻って別の高校に任命されると射撃部なしになってしまうわけだ。彼女の心情を思いやっている。

梅木先生は挨拶のとき、また瀋陽にいらっしゃいと言われて、いずれ瀋陽に戻るとしても定年になって戻って来るのが28年後です、ということだった。それを聞いて、自分のいまの歳に28を足してみて胸が突かれたのは、私だけではなかったみたいだ。

2010年03月10日(水) 日本語資料室を再開しよう

以下の文章は、瀋陽日本人教師の会が2009年1月に発行した機関誌「日本語クラブ」に寄稿したものです。

「日本語資料室は日中交流の場」

中国の各地に日本語を教える先生たちの集まりがあるけれど、自分たちの拠点を持っているのは瀋陽日本人教師の会だけだった、2008年春までは。

私が瀋陽に来た2003年夏には、既に日本語資料室が小北関街の3階建てのビル二階に出来ていた。細長い100平方メートルくらいの部屋だった。狭くて暗い階段を上がっていって、細長い部屋の両端の壁に窓が開いているだけの暗い部屋だったが、教師の会はここを拠点にして活動できた。私たちが何時でも使える城だった。

毎月の定例会の集まり。弁論大会の審査の打ち合わせのため。そして審査のため。ことあるたびにこの資料室に寄り集まった。

もちろん週末の土曜と日曜日は学生と一般の人たちに開放していた。資料室にいったん登録してカードを貰えば毎月5冊の本が借りられた。

毎週末には、教師の会の先生たちが当番となって午前二人、午後二人ずつ日本語資料室に詰めていて、責任を持って部屋に来る人たちの相手をしていた。

資料室に先生に連れて来られた日本語を勉強する学生たちは借りたい本を物色するだけでない。「日本人の先生たちにインタビューをしましょうね」なんて引率してきた先生に言われて、そこで初めて会うほかの学校の日本人教師たちを捉まえて日本語の腕試しをするのだ。

この資料室は図書室だが、おしゃべりはうるさいという雰囲気はなかった。日本語を勉強する学生に向けて開かれた、日中文化の交流の場だったのだ。

訪ねてくるのは引率の先生や学生たちだけではなく、本を借りるためや、ほかの人たちに会うのを目的にした教師も来るから、この資料室は毎週末には教師の会の日本語の先生たちの社交場としても機能していた。

 

「日本語資料室の生い立ち」

 1階にはカレーの店があった。姉妹二人が経営していた。私たちは土曜日の定例会の時、少し早めに着いてここで食事をするのが楽しみだった。豚肉カレーが8元。牛肉カレーが10元。使っているのは日本製のカレールー。ちゃんと福神漬けも付いていた。

ここでカレーを食べていると三々五々各学校から先生たちが到着する。初めて会う先生に紹介されたり、誘って一緒のテーブルで食べたり、この店から何時もの定例会が始まる感じだった。

この一階のカレー店、二階の日本語資料室、そして3階を含めて、日本の企業の借りたものだった。日本語資料室の設立の経緯は、教師の会のホームページに詳しく載せている。今は残念ながら中国からアクセスできないが、その中の「日本語資料室の歴史」に載っている。

簡単に言えば、日本語で書かれた本、辞書、辞典、日本語の教材などを必要とする瀋陽日本語教師の熱望に応えて、大阪に作られたNPO(「関西遼寧協会」および「市岡国際教育協会」)が本を集め瀋陽に送った。NPOに属していた「関西遼寧協会」の一員である日本企業・北大阪食品が瀋陽の北の一画に一部屋を用意して、日本語資料室として開設されたのだ。瀋陽日本語資料室の開所式が開かれたのが200年6月だったと記録されている。

この日本語資料室開設に力を尽くしたのが今も寧波で日本語教師を続けておられる石井康男先生(http://blog.goo.ne.jp/neihaを参照して下さい)で、彼はこのNPOの理事を兼任していて、NPOの日本語資料室を日本人教師の会が使わせて貰うという形だった。

そのいきさつで管理運営は石井先生がやっておられたが、2004年9月からは教師の会も「資料室係」を作って資料室の管理運営に自主的に参加した。2005年7月には石井先生が寧波に去られたので、教師の会が日本語資料室の運営に参加したのはとてもタイミングが良かったといえる。

「日本語資料室の移転」

私たちは石井先生が瀋陽を去られても、教師の会の日本語資料室は未来永劫この場所にあり続けると思っていた。しかし2006年3月になると関西遼寧協会が解散を決定し、1階のカレー店は閉店、そして資料室も閉鎖と決まって立ち退きを迫られた。移転費用は関西遼寧協会から出して頂くことになったが、場所は自分たちで探さなくてはならなかった。この時、日本語資料室にあるすべての書籍、什器、1階のカレー店にある客用のテーブルと椅子までも、瀋陽日本人教師の会に譲られた。

  2006年3月末の日本人会総会に私たちは出席して教師の会の窮状を訴えた。その結果多くの方々から親切な申し出をいただいた。伊藤忠の高木純夫瀋陽事務所長の友人である郝さんのありがたい申し出を受けて、5月には振興街の開元大厦の6階に120平方メートルを越える部屋を無償で貸して戴いて、日本語資料室が移設できた。

眺めの良い明るい部屋に移った私たちは幸せだった。この日本語資料室を提供してくださったオーナーの厚意に報いるために、ここを日中友好の交流の拠点にしようというアイデアが生まれた。

しかし夏にはここもオーナーに急な事情が出来て、私たちは移転する必要が出来た。幸い、これも中国の方の好意のおかげで新華広場の集智大厦の8階に82平方メートルの部屋に日本語資料室を移すことが出来た。それで、この集智大厦を拠点にして日中友好の交流をするために、「日本語資料室文化活動」を始め、さらには「瀋陽日本語文化センター企画セミナー」も始めたのである。

残念なことには2008年の春、これもオーナーの事情で資料室を閉鎖することになった。それで「日本語資料室文化活動」は4回で終わってしまったが、瀋陽日本語文化センターとしてのセミナーの企画は「日本語文化セミナー」として毎年企画され、既に5回を数えている。

 

「日本語資料室を再開したい-1」

教師会の活動の拠点となっていた日本語資料室が2008年春に閉鎖されて、私たちは新たな場所を探し続けた。でも、オリンピック景気にわく瀋陽で資金のない教師の会に部屋が見つけられるはずはなかった。

資料室の図書は段ボールに入ったまま倉庫に眠っていた。書籍は利用されてこそ意義がある。そのまま利用されないのではもったいない。在瀋陽日本国総領事館・松本盛雄総領事のアイデアで、書籍をすべて瀋陽市図書館に寄贈することになったのが2009年春である。そして6月には市の図書館に本をすべて運び込んだ。

2009年の夏を過ぎると又教師の顔ぶれが変わった。1年半前の資料室のある時代を覚えている人の数は半分になった。このまま年を重ねて行くと資料室を持っていた教師会の活動は人々の記憶から消えてしまうだろう。資料室のあることが、活動にどれだけよかったかの記憶が消えてしまう。

その記憶のある人が、資料室を再興しようと呼び掛けないといけないのだ。それで手始めに、教師の会の会計を特別会計と一般会計に分けることを訴えた。

毎年の会費100元の収入と新しい会員から頂くことにした入会費だけが教師の会の財源である。それなのに毎年の残金が少しずつ増えている。これは、教師の会の活動基金を少しでも増やそうと、今までの会員諸兄姉が寄付してきたからなのだ。このお金を一緒にしておくと教師の会の普通の活動にたちまち消えてしまうだろう。それで一般会計から特別会計を分けることにした。この特別会計を作るにあたって、たとえば資料室の再開のために使うのが特別会計の使い道だと私はつぶやいた覚えがある。

 

「日本語資料室を再開したいー2」

教師の会のある先生は日本語資料室を再開する場所のために、瀋陽でマンションを探した。有志を募ればそれなりのマンションが買えるだろう。右肩上がりの中国経済からすると10年後にはそれなりの値で売れるはずだ。それまでの間、教師の会が日本語資料室として使えば良い。

でも、これだけマンションが林立するのを見ると、マンションを買ったとして10年後に果たして無事に売れるだろうか心配になってきた。じゃ、それに代わってどうしたらよいか。答の出ない悩みを繰り返している10月半ば、瀋陽在住の劉凱さんから連絡があった。

劉凱さんは8年間日本で暮らして日本語の勉強をして、正しく日本語が書ける、話せる能力を磨き、『日本語教育能力試験』と『全養協日本語教師検定試験』にも通った人である。日本語の教育、勉強になる本をほとんど集めたほか、日本語を理解するためには日本の文化を知る必要があり、様々な種類の本を集めて来た。

瀋陽に戻って北陵近くにある自宅で本を公開して、翻訳をしながら日本語を勉強したい人に教えてきたが、自宅では思うに任せない。それで自宅の家業であるお茶を販売する店と日本語教育の拠点を一緒にして、この春、瀋陽の中心地に品和軒という店を開いた。日本語を教えているのは数人。週に二三日。中国語への翻訳は、日本神話に興味があるし、白川静の著作を紹介したい。自分自身の著作はまだないが、ブログを持っている。

劉凱さんは2007年瀋陽に戻って以来、翻訳や日本語教育をやってきたが、日本人と付き合う機会が少ないので、自分の日本語能力に自信を失いそうだ、この水準を保つために、日本人と話をする機会を作りたい。その代わり日本人教師の会の集まりに自分の店を無料で使って欲しい。この提案を戴いて、私たちは11月の定例会をお店のスペースで開かせて頂いたし、12月の定例会もその場所で開催する予定でいる。

劉凱さんはさらに、彼女の店の中にはまだ整備していない一室があるので資料室として使って欲しいと提案されている。

教師の会の現在は資料室の書籍もない状態である。現状では図書室の機能を持つ資料室を考えても意味ないが、ここを資料室再開の拠点にしたらどうだろう。時間が掛かるかも知れないが、本も集めているうちに何時かは立派な資料室になるだろう。

昨年春までの書籍のある資料室が教師の間でも、教師と学生あるいは市民との間でも文化交流に大きな役割があったことを思うと、この場所を使わせて頂くことで、資料室を両国の文化交流の拠点にするという夢を実現することが可能になるのはないか。

日本人教師の平均滞在期間は2年である。私だってここにいつまで瀋陽にいるか分からない。出来るときに出来ることをすることこそ人生なのだ。今こそ日本語資料室を再開のため立ち上がろう。

2010年03月03日(水) 瀋陽日本人教師の会のブログの引越し

瀋陽日本人教師の会というのがある。1992年頃出来たらしい。

  私は2003年秋、この会に入れてもらって、それ以来ホームページ係を務めている。最初は更新記録だったが、やがてそれを教師会日記として書くようになった。

2009年頃からこの国のインターネット事情にいろいろと問題が出てきた。

  問題というのは、この国からWebsite が見られなくなったこと。更新のためのsiteにもアクセスできなくなったこと。

教師の会のHPはYahoo.geocitiesに作っているが、2008-2009年に5ヶ月アクセスできなくなった。2009年7月からまたアクセス不能となった。

それでGoogleni新しく教師会のホームページを作り始めたが、10月12日以来、このホームページにアクセスできない。Google.siteにもアクセスできなくなっている。つまりこの国にいて、情報を見ることも、発信することも出来なくなった。

私たちはこれ以外にも、以下のサイトを持っている。

瀋陽日本語弁論大会ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/kyosikai2007

瀋陽日本語文化祭ブログ http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/

研修・レクリエーションブログ http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/

教師会活動記録 http://blog.livedoor.jp/kyoshikai_shenyang/

教師会HP係りの日記http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/

  さいわい、瀋陽日本語文化祭ブログ、研修・レクリエーションブログ、教師会活動記録は見られるが、ホームページだけでなく、教師会HP係りの日記も遮断されてしまった。

  つまり、google、yahoo、cocologは、ここでは禁じられてしまったらしい(exciteのブログも駄目)。

私たちは活動を記録して残して行きたい。それで、教師会日記のために、このamebloのサイトを使わせせていただくことにした。

長い間、書くことが出来ずにいたが、これからは、教師の会の日々の活動をタイムリーに記録していくようにしよう。

なお、瀋陽日本人教師の会ホームページ:

http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/

https://sites.google.com/site/kyosikai09/

2009年12月12日 12月の第二土曜日

<https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/200912110000/>

何時ものように午前中はJournal Clubで、笑笑と私が当番。笑笑が試験のために10時までこられないので私が先にやった。

昼には終わって、卒業研究生の姜嘉慧さんの21回目の誕生日なので一緒に食事に行こうと誘われた。彼女は朝、誕生日だと言って自分でお祝いのチョコレートなどを呉れた。行きたかったが午後は教師会の定例会である。

定例会は、劉凱さんのお店を借りて開かれた。今日は全員参加18名。それに新入の吉田登美子さん。私が今日は司会役の当番。

議題の一つとして「資料室再興ワーキンググループ」立ち上げを提案していて私が趣旨を述べた。昨年春まであった資料室を知っている会員は既に半分となった。今ここで行動を起こさなければ、このまま資料室という記憶のないことが定着してしまう。

資料室を知らない会員からは、そんなことを言われてもと言う戸惑いの反応があった。一方、以前のような機能を持った資料室が出来ない心配はあるけれど、資料室があって良かったことを思い出して、行動に移そうという意見が多かった。

数人の先生たちがワーキンググループに名乗り出てくれた。

5時半からは会場を新南国美食に移して、懇親会・忘年会・送別会。領事館からは松本盛雄総領事が所用があって出席できず、代わりに加藤主席領事、羽田領事が出席した。劉凱さんの唄を聴いた。

高級な店で安く上げようとするから、食事は美味しい料理を食べたと言うよりも、飲茶の主食系でいっぱいになったと言う感じだった。

セミナーで何十年と人前で話してきたが、今日は初めて上手く説明できなかった。定例会では司会をしながら、「専家証」と言う言葉が出てこなかったり、言い違えをつづけて指摘されたり、これは、やばい。。。

2009年12月 2日 (水) 瀋陽市高官たちと会食

11月24日午後、教師の会の幹事をしている私たちは瀋陽市人民政府の人たちに招かれて、一緒に食事をした。インターコンチネンタルホテルの横のビルにあるレストラン街のなかの店だった。

10月21日に、教師の会の幹事の一人の高澤先生が、来年度の日本語文化祭の開催に、瀋陽市の後援をお願いするために市政府まで一人で出かけた。瀋陽大学の教え子の一人が瀋陽市当局の幹部の息子という伝手をたどって訪ねたそうである。

幹部に会っていろいろと説明をしたところ、そのような催し物はとても意義がある、是非後援しようと快く引き受けてくれた上に、教師会の幹事のメンバーと一緒に歓談しようと席を設けて誘われたのだった。

市当局の人たちが4人来て、こちらは5人。5時半から8時半まで、初めて会ったのに、じっくりと落ち着いた、そして友好的な食事会だった。高澤先生はこれで会うのは二度目だが、既に先方からは朋友扱いである。私以外飲める人たちが揃っていたのも、良かったようだ。1949年以来新しい中国だが、それでも男は飲めないと英雄にはなれないみたいだ。

来年は札幌市と友好都市締結以来30周年の節目だという。このほかには川崎市と友好都市を結んでいる。どうして札幌と友好都市になったのですか?

地理的環境が似ているが、それだけではなく、これには加藤亨さん(ずっと以前は北海道道議会議員だろうか?)の貢献が大きかったという。彼は中国生まれで、瀋陽の前身である奉天に育ち、戦後は両都市交流の架け橋として活躍したという。4年前の25周年の記念式典には、92歳の加藤さんも参加して、瀋陽市の名誉市民の名誉を送られた。

この加藤亨さんについては、その後でネットで調べたが、おそらく加藤亨さんの後継者と思われる「ちば英守北海道議会議員」のサイトで、25周年の記念式典の記事を見つけたのと、加藤亨さんの名前で「瀋陽会」という日中友好促進団体があることが分かっただけだった。

(http://jp.jnocnews.jp/news/show.aspx?id=12123)

営々として築いていく人々の営みは、歴史の中にどんどん飲み込まれて、失われていく。

瀋陽市のお偉方と一緒に話していると、日本語文化祭のイメージは、学生が舞台で歌、劇、踊りを披露するだけではなく、催し物には豪華に賞品を出し、舞台では日本美術の紹介も行い、客席を外に出れば金魚すくいもあり、たこ焼きも売っている盛大なお祭りのイメージが段々ふくらんできた。こうなると必要な費用を何とかして集めなくてはならないことになる。

その翌日になって、ご馳走になった礼状を書いたときに、今中国からホームページがアクセスできない不便について書き加えた。

遮断されたので別に作ったホームページにもアクセスできないし、更新も出来ない。私たちのホームページが問題になっているのではなく、日本その他の各国からの情報流入とここからの発信が止められているのだと思う、とも書いた。

中国のサーバーを利用すれば良いと思うけれど、日本語で使えるのか、無償サーバーを利用してきた私たちとしてはいくら掛かるのか気になるし、何しろ中国語が不自由なのでなかなか踏み出せないので、適当なサーバーが会ったら紹介して欲しいとお願いした。

すると24日に会ったうちの一人から返事のメイルが届いた。

私が希望しているサーバーは、単なる日本語が使えるコンピューターなのか、もっと詳しい状況を聞いた上で、できる範囲でお手伝いしようという返事だった。

それでこちらは喜んで、長文の事情説明のメイルを書き送って、先方の反応を待っているところである。

2009年11月24日 (火) 瀋陽日本人会の幹部との歓談

教師の会の来年の弁論大会担当のイベント係が、瀋陽日本人会の弁論大会係の人たちと初めての会合を1週間前に開いた。教師の会の弁論大会係は中の希望者がやっているのに対して、日本人会ではイベントを幹事会社に割り当てるので、日本人会からの実行委員は、やれと言うから出てきたと言う違いがある。

この会合に私は出ていないのであくまで伝聞に過ぎないが、日本人会の実行委員からはおやと思う反応があった。

教師の会側から、今までの弁論大会では受付、司会、カメラマンなど教師の会でやってきたが、今年は会員数が激減したことで手が回らないから日本人会の方で手配して欲しいとお願いをした。ところが実行委員からは、大会の成功のために、今一度教師の会でも目的意識を明確にして取り組んで欲しい、教師の会で弁論大会をやりたくなければ、考え直しても良いのだ、とまで言われたそうだ。

あれれ、あれま、という感じである。瀋陽日本語弁論大会は、だいたいが瀋陽日本人会がこの地区で日本語の普及のために始めたのだ。教師の会は実際に学校で学生の指導にあたっている先生たちの組織なので、実行部隊として必要であり、日本人会の依頼を受けて動いてきたのだった。

それなのに、教師の会がやりたいから日本人会が助けてやっているんだぞみたいな言い方はおかしい。これはつまり日本人会でも、それこそ初期の目的意識が会員から消えていて、ただ毎年何時ものようにやっています、その世話係になったけれど面倒なことだ、みたいなことになっているのだろう。

実際、商貿飯店と言う一流のホテルで開く日本語弁論大会にはのべ600人を超える聴衆が集まるが、日本人会からは、数年前高木会長の時に「せめて幹事は日曜日なんだし、せめて覗きに行きましょう」という運動の結果、数人が参加しているだけである。

日本人会こそ、大金をこの弁論大会のために使っていることだし、目的意識をはっきり持って欲しい。

それとは直接関係ないことだがちょうど同じ頃、教師の会の組織がこの秋から変わったので、新しい幹事を日本人会の幹部に紹介する儀式が必要になった。

このようなことは、数年前に会長が高木さんの時に教師の会会員を食事に全員招待して下さったことが初めてあって、その後、私たち教師の会の幹事が会長と事務局長を招待したのだった。

それも二年前のことで、それ以来私もそこには気が回らなかったが、今年はこの秋幹事の顔ぶれが変わったのを機会に、在瀋陽日本国総領事館に松本総領事を訪ねたし、今週の火曜日は日本人会の会長と事務局長を私たちが食事に招いたのだ。

もちろん顔合わせが大きな目的で、一緒に食事をして歓談するのが大事なのだ。まずは、ホームページをどうしたらいいだろうという情報交換から始まった。

教師の会は自分たちのホームページにアクセスできないことで困り抜いているが、日本人会も状況は同じなのである。調べてみると中国各地に日本人会(商工会)や教師の会があるが、無事に動いているのはサーバーを中国側においているもの、中国に日本から情報を伝えたい会社の代理を請け負っている日本のサーバー、あるいは日本政府のサーバーだけみたいである。

どうしたらいいのだろう。今までみたいに無料でなく有料になっても良いけれど、それがアクセス不能になったら全く意味はない。日本人会が良いサーバーを見つけたら教師の会も相乗りさせて欲しいものだ。

もう一つは、日本語文化祭と言う、今まで日本人会には関係のない催しがあるが、この後援に日本人会が乗り気になって欲しいというお願いである。

日本語文化祭は、元々は遼寧大学で始まった日本語を学ぶ学生たちの一年に一度の日本のお祭りだった。だんだん参加校が増えて教師の会もお手伝いをするようになり、一時は領事館も主催だったこともあった。

私はその頃の日本語文化祭に一度だけ参加したことがあるが、日本語を学ぶ学生たちのあふれるような喜びが歌、劇、踊りを通じて伝わってきて、見ているだけでもわくわくしたものだった。

弁論大会では応援の学生も駆けつけるが、本質的には個人の勝負である。それに比べると文化祭は日本語を学ぶ学生たちのはじけるような喜びがそのまま聴衆に伝わり、聴衆もそれに乗る感じで、日本語の普及にはこちらの効果の方が大きいのではないかと思えてくる。もちろんスポンサーが顔を出したってよい。

文化祭の運営に領事館が乗り気でなくなってからは、会の運営に必要な基金をどうするかという問題に直面した。昨年度は教師の会がぎりぎりの700元くらいを支援して会を開くことが出来たが、本当を言うとこの10倍欲しいところだ。

教師の会は瀋陽に進出している日本企業に日本語文化祭の意義を説いて支援をお願いしようかと考えた。ただし打診してみると、この不況で写真を減らしている記号が軒並みで、とても各企業が募金に応じられるような状況ではないだろうという。

そうなると日本人会が頼みである。日本語文化祭は日中友好親善、地域貢献事業での観点からみても、有用性だって大きいし、日本人会の事業にうってつけではないだろうか。

せっかくこうやって日本人会の幹部の方たちと顔を合わせたのだから、そのことも非公式にお願いした。正式には、幹事会でオブザーバーとして参加している教師の会の代表から申し入れることになる。

2009年11月19日 (木) 11月の定例会は

11月14日の土曜日の午後は教師の会の定例会だった。10月の薬科大学で開かれた定例会のとき次回は図書館で開催の心積もりだった。

しかし10月半ばに劉凱さんから彼女の店を教師の会の集まりに使って欲しいというメイルを戴いて24日に多田先生と山形が彼女を訪ね、今回初めて劉凱さんのお店で開いた会である。市政府の近くで瀋陽の中心にあると言っていいくらい便利な場所だ。

私たちは1時過ぎに着いて、机を並べたり床に新聞を敷いたりしようと思ったのだが、既に机は並べられていて20人くらいの会議は出来るようになっていた。

私たちは何しろ雪道を歩いてくるのでどうしても綺麗な床が汚れる。でも劉凱さんはどうせお店だから汚れるのですよ、そのままで良いのですよと言われてしまい、そのまま使わせて頂くことにした。

2時から始まった会議には、多田、瀬井、高澤、土屋、山形、小池、渡辺、梅木、巽、松下、石脇、有川、春日、石田、杉島、それに新しく参加の東北育才外国語学校の任絵美さんで、合計16人。休みは宇野、中野の二人。

はじめは、会議の場所が狭い、寒い、などと言う声も出たが、店は入り口のシャッターを閉めて営業中止で、店は私たちの会議のためだけに存在した。

狭いだけに、会議のために座っている会員同士の間隔がこんなに近かったことは未だかつてない。そのためにより親密な気持ちで話をすることが出来たのではないだろうか。全員から、もし陳丹さんの方でOKなら、この次もお願いしたいという声が出ていた。

会議の最後に陳丹さんとそのご家族(従兄弟だという)お二人の紹介。

5時の会議が終わって、陳丹さんも一緒に出かけたのはこれも陳丹さんに教わった原味齊という北京ダックの店(十一緯路店)。人数に比べて狭い部屋でテーブルは一つだったが、これを17人で囲んだ。それだけにこの時も人と人の間隔が近く、親密な雰囲気で食事会が出来た。

会員一人一人が陳丹さんに自己紹介をした。彼女の話も伺った。全員が陳丹さんの真摯な人柄に触れて、彼女のことをすんなりと友人として受け入れたように見受けられた。

次回の12月12日土曜日の集まりも彼女の店を使わせて頂くことになった。8時散会。一人40元。

2009年11月18日 信用日本人会の幹部を招く

<https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/200911180000/>

教師の会の幹事がこの秋に変わったので、日本人会の幹事の人たちに会うことを思いついた。今まで高木さんが日本人会会長だったときに一度実行したことがあるが、そのまま2年経ってしまった。

日本人会の事務所があるわけではないので、こういうとき何処で、どの人たちに会うかが問題である。問題を難しくしたくないので、会う相手は会長と事務局長の二人だけにして、こちらが食事に招待することにした。

日本人会の人たちは日本の企業を代表する人たちだから、瀋陽でも日本並みの生活のレベルを保っている。食事をするところもそうである。

私たちが普段出入りするところでは、相手に失礼なので、選定には気を遣った。

この大学のそばに実は私のお気に入りの、とっておきのレストランがあるのだ。全部が個室で、室内も清潔で綺麗である。ウエイトレスがとても洗練されていて、しかも綺麗だし、さらに料理は上を言うときりがないが、まあほどほどのものがある。地衣類を使った料理は、ほかでは見たことがないし、しかもとても美味しい。お茶は80元から上の値段である。

ここを使うことにして、私たち教師の会の幹事が日本人会の二人を食事に招待したのが昨日のことである。

6時半から1時間半、食事をしながら歓談をして、両者のぎこちなさがこれでとれて、これからは意思疎通がしやすくなっただろうなと言うところで、お開きになった。

5人で100元ずつ払うことで間に合った。ほっ。

教師の会の人たちは、皆この店が気に入ってくれた。秘境でなくなったのは残念な気がするが、繁盛してくれればこの店も長く保つだろう。でも、あの鼻がしゃくれて可愛いウエイトレスを独り占めできなくて残念。。。

2009年11月14日 (土) ホームページにアクセスできません

教師の会のホームページは現在中国からアクセス不能です。

教師の会のHPは、以下の二つです。

http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/ (2009年7月はじめまでアクセスできた)

http://sites.google.com/site/kyosikai09/ (2009年10月はじめまでアクセスできた)

教師の会だけではなく、瀋陽日本人会(fc2)、日本人補習学校(geocities)のHPも中国からはアクセスできません。

Youtubeが中国ではアクセスできないことはよく知られています。閲覧も、投稿も禁止されています。

世界的な共有Webである、Twitterも、FaceBookも今は中国からアクセスできません。つまり書き込みも、閲覧も出来ません。

Google site(GoogleがHP作成ソフトを提供して誰でもHPが出来るようにしたもの)は10月初めまで中国でも使用可能でした。教師の会の第二のHPはこれで作り始めたのです。しかし、今は全くアクセスできません。つまり当局はGoogle siteを利用して個人が情報を発信することを禁じました。

私はアパートでケーブルテレビと契約しています。この3月突然外国の放送、つまりHBOやCinemaxの外国映画の放送、FashionTV、BBC、National Geogpraphicなどがすべてここではみられなくなりました。10月の再契約の時に、相変わらず見られないことを確認しました。つまり、外国の映像は国営テレビのニュースを通じてしか見られません。

以上のことから、中国当局は自国の人々が外に向けて発信すること、情報を受信することの両者を、強い意志を持って阻止する気でいると思われます。

教師の会の活動を狙って、HPを阻害しているとは思えません。ここを間違わないようにして下さい。不安におびえる必要は全くありません。

しかし私たちが余計な情報を持ち込もうとしたり、好ましくない情報を発信したりすることを始めると問題になると思います。私たちはこの国に滞在しているお客です。いろいろな意味で自重して欲しいと思います。

以下のURLはHP以外のサイトで、アクセス可能です。どうか訪ねてみてください。

誰でも書き込み可能:

レス付き教師会掲示板

http://geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2004

瀋陽お店紹介

http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=akotan552006

資料室の掲示板

http://2nd.geocities.yahoo.co.jp/gb/sign_view?member=kyosikai2007

以下のURLでは係が書き込んでいます(limited):

教師の会日記(HP係)

http://kyoshikai-shenyang.cocolog-nifty.com/

活動の記録ブログ (書記係)

http://blog.livedoor.jp/kyoshikai_shenyang/

瀋陽日本の文化祭ブログ(文化祭係)

http://blog.livedoor.jp/kyosikai2009/

研修・レク係ブログ(研修・レク係)

http://blog.goo.ne.jp/kyosikai2009/

弁論大会係ブログ(弁論大会係)

http://blogs.yahoo.co.jp/kyosikai2007

 

2009年11月11日 (水) 市図書館に寄付した図書目録作成

11月10日は午後4時から教師の会の幹事が集まった。多田、土屋、高澤、瀬井、山形の5人。

一番大きな議題は、市図書館に寄贈した図書目録をPCで作成する方法である。

土屋先生と高澤先生がいろいろと調べて、しかも、市図書館に何度も足を運んで、教師側の目録作成作業が図書館で出来るよう、いろいろと手順、方法を考えたのだ。

本にはISBNコードが付いている。これを利用すれば、書籍名、著者、発行所、年月日など市図書館が要求する項目のほとんどが入れられるはずである。

高澤先生はネットでいろいろと調べて「私本管理」フリーソフトを手に入れた。

このソフトは、ISBN番号を手入力すると、ネットの上でAmazonとつながり(Amazonが持っているデータなら)だいたい必要なデータが手に入る。

これをExcelに移して、その上で並べ替え、さらに手入力の必要な項目を入れると、市図書館が要求する図書目録が出来上がる。

バーコードスキャナーでISBN番号番号を読み取るとたちまち上記のデータがPC上に並ぶようなソフトが欲しいと思ったが、それにはお金が要るみたいで、教師の会の手に余る。

市の図書館で持ち込んだPCからネットにアクセスするためにはLANがなくてはならないが、それは近いうちに市側が図書室に工事をするという。

それがそろえば、PCを持参して市図書館の図書室で、本を見ながらを一つ一つPCに入力をしていけばいい。どのくらい掛かるか知らないが、本は6千冊足らずだから、何時かは出来上がる。

そこで疑問がある。

本の目録(資料)ができあがってそれがPCに入ったとき、本にはどのようにして印を付けておいたらいいのだろうか。本には同時に何か書き込まないと(ラベルを貼る)、一対一の対応が付かない。

しかし、土屋先生によると、図書館側は、いいぇ、そこまでで良いんです、そこまで出来ていればあとはこちらがやりますよ、ということなのだそうだ。

私たちは大いに心配しているが、どうして没問題なのか、全く理解できない。

ともかく、4時からの集まりを私の研究室で開いたので、マイナス5度の寒空に外出しないですむ私は楽をした。ほかの4人の先生たちは大いに気の毒だ。申し訳ない気持ちを表そうと、冷たいミカンを沢山買って待ち受けた。

4時少し前に土屋さんが最初に部屋に入ってきた。彼を取り巻いて冷気がどっと押し寄せて、たちまち私は凍えた。続いて入ってきた3人もあまりの寒さに呆然という感じ。校門で来客を出迎えた多田先生も、遠くから来られた先生も、ありがとうございました。

図書の登録についての打ち合わせ、その他を6時半にひとまず終えて、近くの又一順荘に行ってあたたかな食事を楽しんだ。一人35元。

2009年10月31日 (土) 劉凱さんと会う

多田先生と二人で10月24日の午後2時、劉凱さんと家族の経営する店を訪れて、2時間くらい話をした。日本に長年滞在した陳さんから、私に手紙が届いたからである。

劉凱さんのこと:

陳さんは2000年から仕事のために日本に行ったが、行く前に覚えた日本語ではまるで役に立たず、アルクの日本語教師養成講座(通信教育)で勉強した。

2003年からはアルクアカデミー教室で勉強して、正しく日本語が書ける、話せる能力を磨いた。周囲が日本人の中で『日本語教育能力試験』と『日本語教師検定試験』にも通った。

日本語の教育、勉強になる本を沢山集めたし、日本語を理解するためには日本の文化を知る必要があり、その本も集めた。

瀋陽に戻って自宅で本を公開して、翻訳をしながら日本語を勉強したい人に教えてきたが、自分のうちの店と日本語教育の拠点を一緒にして、この春、ここに店を開いた。日本語を教えているのは数人。週に二三日。日本語の勉強では遠回りをしたので、効率的な日本語の習得方法を教えたい。

中国語への翻訳は、日本神話に興味があるし、白川静の著作を紹介したい。自分自身の著作はまだないが、ブログを持っている。

劉凱さんの提案:

瀋陽に戻ってから翻訳や日本語教育をやってきたが、日本人と付き合う機会が少ないので、自分の日本語能力に自信を失いそうだ。この水準を保つために、日本人と話をする機会を作りたい。その代わり日本人教師の会の集まりに自分の店を無料で使ってほしい。

それで、以下のことを話し合った。

1. 教師の会の集まりに使わせて頂けるだろうか。

これは先方からの熱心な申し出があり、店そのものを使って(3m x 7m くらいか)良いと言うことだった。20人くらいの会議が可能である。定例会の時は、毎月第2土曜日午後2時から3時間くらい、私たちも少し早めに出かけてセッティングを手伝う。

2. いつかは資料室を作りたい。

現状の、資料室がなく資料室の書籍もない現状で、以前の機能を持つ資料室を考えても意味ないことだが、昨年春までの書籍のある資料室が教師の間でも、教師と学生あるいは市民との間でも交流に大きな役割があったことを思うと、何時かふたたび教師の会の資料室を持ちたいという夢を忘れられない。

劉凱さんは、まだ使っていない部屋が一つあり(3m x 4mくらいだろうか)これを資料室のために使って良いと言うことだった。壁二面に本棚を置けば2-3千冊の本を入れられる。

これはすばらしい提案で、小さな部屋ながらも(開元ビルは120平方米。集智ビルは82平方米)これからここを新しく資料室の夢を育てる場所とすることは考えられないだろうか。

この先、教師の手元に集まる本は、図書館には寄付をしないでここに集めていって、たとえば陳丹図書館にする。教師も学生もここを憩いの場として日中交流のために利用させて貰う。

3. 日中草の根交流の提案。

瀋陽には日本人と中国人との積極的な交流の場、あるいは機会がほとんどない。ここを拠点にして、両者の交流のための集まりを考えるというのはどうでしょう。中国人の日本語能力を磨く機会になるのではないでしょうか。劉凱さんからこれについて少なくとも反対意見はなかった。

 

さしあたり劉凱さんにお願いしたこと:

11月14日(土)午後2-5時、定例会に使わせて下さい。

その後一人30-40元で会食できる店(一部屋に円形テーブが二つ入っていて、全員が一部屋で会食できること)を見つけて下さい。そのとき、陳丹さんもご出席下さい。

以上OKでした。

 

2009年10月23日 (金) 在瀋陽総領事館を訪ねる

おそらく教師会始まって以来はじめてのこと。10月16日午後2時に、在瀋陽総領事館の松本盛雄総領事に、教師の会の幹事の人たちで挨拶に伺った。

これは、9月に教師の会の幹事が代わったのでご挨拶と言うわけだが、6月には教師の会主催の瀋陽日本語文化セミナーに松本総領事を招いてご講演頂いたし、昨年末には教師の会のメンバーが領事公邸に招かれてご馳走になったこともある。

この1月には行き詰まっていた日本語資料質の蔵書の行方について建設的な意見を頂いて、瀋陽市図書館に書籍を寄付する手続きが進行中である。

つまり、以前の総領事よりは身近な存在と言って良い。

実際、領事館のHPで毎月更新される松本総領事メッセージは、通り一遍の、役人の挨拶だけでない心打つ文面である。

1.市図書館とのその後のやりとりの報告

2.総領事館の菊田領事と教師の会との関係がぎくしゃくしているので、その問題の検討

3.夏に交代した文化担当平柳領事の後任の足立領事にご挨拶

当日伺った当方の幹事は、多田(代表)、土屋、高澤、瀬井、山形の5人。

帰りは猛烈な土砂降りの雨で、誰もがずぶ濡れになった。

2009年10月22日 (木) 教師の会・会則改正

10月17日の定例会で会則の改正が承認された。

主なことは、会長・副会長という言葉に代えて、代表・副代表という表現にしたこと。

資料室がなくなったので資料室係の代わりに図書係。

弁論大会、日本語文化祭、クリスマス会の係を一つにまとめてイベント係にしたこと。

教師の会のホームページにアクセスできないので、ここに掲載する。

  瀋陽日本人教師の会 会則

1 この会の趣旨

この会は、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている日本人教師や研究者の集まりです。さまざまな経験や資格でここ瀋陽に来た私たちは、年齢や性別、経歴などを超えて、一人の人間、一人の日本人教師・研究者としてこの会に参加します。

私たちの職業と生活のために必要な情報・教材などをお互いに交換し、中国における私たちの滞在を有意義なものにするための会として、この会の運営はみんなで分担し合い、協力し合うことによって進め、私たちの活動を日中友好の一助にしましょう。

2 会員資格

○ 日本国籍を有し、瀋陽市とその周辺で日本語を使って教育・研究に携わっている人で、各教育機関から招聘状あるいは専家証を発給されている人およびその家族でこの会の趣旨に賛同される人で本会が認める人。

○ 年会費を納入した人

3 会費

  100人民元(半年未満の場合は50元)。その他必要に応じて適宜徴収する。新加入会員は入会時に入会金50元を徴収する。年度最初の定例会で前年度の会計報告を行う。

4 この会ですること

○ 毎年9月の年度始めの定例会でこの会の趣旨を確認し、分担と予定を話し合う。

○ 瀋陽日本語弁論大会の企画、運営に協力し教師の会全体で参加する。参画については別途実行委員会を組織し、主催団体や機関との連絡を密にして、特に弁論大会設立の趣旨の継承に努力する。

○ 情報の交換、授業や教材の研究及び親睦などは適宜に計画して行う。

5 この会の組織と役割分担

① 代表(1名):本会を主宰する。他の機関や団体との連絡に責任を持ち、本会の代表として行動する。原則として瀋陽市在任期間の長い人を選出する。

② 副代表(3名前後):代表が若干名の副代表を指名する。副代表は代表を補佐して会の連絡と調整を行い、代表に事故のあるときは、いずれかが代表の任に当たる。副代表は、渉外、広報、日本人会等との諸連絡を担当するほか、定例会の司会をかねる。代表と副代表は幹事会を構成する。

③ 研修・リクリェーション係(3名前後):会員に役立つ研修を企画するほか、会員外にも向けた日本語文化セミナーを企画・発信する。会員の親睦のためのリクリェーションを企画し実行する。

④ 書記・会計係(3名前後):定例会の記録をホームページで公開する。年会費と必要経費を徴収し、会計を記録して金銭を管理する。会計は一般会計と特別会計とに分ける。

⑤ ホームページ係(3名前後):瀋陽日本人教師の会のホームページの企画・編集・更新作業に当たる。

⑥ 図書係(2名前後):瀋陽日本人教師の会が瀋陽市図書館に寄贈した図書に関して図書館と交渉に当たる。今後も瀋陽日本人教師の会経由で瀋陽市図書館に寄贈する書籍の窓口となる。

⑦ 日本語クラブ編集係(3名前後):定期的(季刊)に機関誌「瀋陽日本語クラブ」の企画・編集・発行に当たる。

⑧ イベント係(10名前後):瀋陽日本語弁論大会では弁論大会主催団体や各機関との連絡調整を行い、瀋陽日本語弁論大会を実行する任に当たる。

日本語文化祭では幹事校を定め、その学校の学生を中心として実行委員会を組織し、文化祭の立案・計画・各学校との連絡・調整を行い、当日の運営等を担当する。

瀋陽日本人会の企画するクリスマス会ではその準備と運営に協力し、その連絡と調整を行う。

それぞれの主担当者をあらかじめ決める。

⑨ 各係から1名はホームページ担当となり、ホームページ係と共に日本人教師の会の広報に努める。

6 会則の改正

この会の会則の改正は、会員の多数が不都合と認めた項目について協議の上、改正することができる。会の性格上多数決はなじまないが、同意・調整がつかないときは「この会の趣旨」は会員数の三分の二、他の項目は会員数の二分の一以上の賛意をもって改正することができる。

細則

① 上記のそれぞれの係は任期2年くらいが望ましい。

② 研修・リクリェーション係はホームページの「活動記録」の中にある「リクリェーション記録」を更新する。

③ 書記・会計係はホームページの中の「活動記録」の中にある「議事録」更新と「年度会計報告」を担当する。

④ 図書係はホームページの中の「教師の会関係の図書」の更新を担当する。

⑤ 日本語クラブ編集係はホームページの中の「瀋陽日本語クラブ」の更新を担当する。

⑥ イベント係の弁論大会実行委員、文化祭実行委員はホームページの中のそれぞれ「日本語弁論大会」、「日本語文化祭」、「クリスマス会」の更新を担当する。

2009年10月17日改正

 

2009年10月17日 (土) 瀋陽日本語文化祭の歴史

日本語文化祭に相当する集まりが最初に開かれたのは1996年で、遼寧大学日本語を学習する学生たちが日本語で歌、劇、踊りなどを大学内で発表して、互いに楽しみ、かつ学習意欲を刺激するために「遼寧大学日本語のゆうべ」と言う名前で開催されたと記録にある。

プログラムの一部の記録が残っている2001年は、第5回瀋陽日本語文化祭と銘打って、それ以降は<瀋陽地区で日本語を学習している学生の文化祭として行われたという。参加校の数が増え、「在瀋陽日本国総領事館」が後援となり、瀋陽在住の複数の企業からも寄付を頂いて規模を拡大することもでき< たと記録されている。

2001 年には、遼寧大学外国語学院〈遼陽〉、瀋陽外国語学校〈高校〉、瀋陽大学外国語学院、瀋陽師範学院日本語科、遼寧大学外国語学院日本語科、中国医科大学臨床医学日本語学科<、遼寧中医学院鍼灸学部、瀋陽薬科大学薬学部日本語班、が参加して遼寧大学で開催されている。

この後、東北大学も参加するようになったという。

2003年の第7回瀋陽日本語文化祭はSARSのために中止になった。

2004年の第8回瀋陽日本語文化祭は、その前に起こった西安の日本人留学生による不詳事件により中止となった。

2005年は反日運動が盛んとなり、瀋陽日本語弁論大会が中止になった年である。そのとき、日本語文化祭が続けて2<回開催されずに使われなかった基金があった。ちょうど「ジャパンウイーク」を開催中の在瀋陽日本総領事館小河内総領事と遼寧大学の石井康男氏の話し合いがあり、その結果として、「ジャパンウイーク」の企画の一部として「瀋陽日本語文化祭」が総領事館の新館で開催された。

なお、「ジャパンウイーク」の活動の一部として、弁論大会の入賞者によるスピーチもこのとき行われた(入賞者の全員は参加出来なかった)。

最初の挨拶と祝辞は、遼寧大学外国語学院副院長・于麗萍氏と、小河内敏朗総領事が行い、最後の挨拶は瀋陽日本語文化祭実行委員会代表・遼寧大学・石井康男氏が行った。

プログラムにはこの文化祭を誰が主催したかは書かれていない。このときの費用は、それまでの遼寧大学が用意していた基金でまかなわれたと聞いている。

在瀋陽日本国総領事館小河内総領事は、瀋陽日本語文化祭の開催に意欲的で、その後は総領事館主催で行うとのことで、実際、2006年も総領事館新館で総領事館主催で開かれた。教師の会は企画と運営に参加した。

この2006年の日本語文化祭は、遼寧大学遼陽、薬科大学、航空学院、遼寧大学、東北大学、師範大学、育才外語、医科大学、瀋陽大学が参加した。

2007 年には総領事は阿部総領事に代わっていたが、ノースメディアの豪華ホールを借りて総領事館の主催として開催された。もちろん実質的な企画と、運営は教師の会の先生たちによるものであった。このときは国際交流基金に当時の森領事の示唆で申請を出し、得られた予算が大会費用に充てられたと聞いている。

2007年は東北育才学校の参加があって10校、31<種目の演目に増えて盛況であった。

2008年の開催は、直前まで危ぶまれた。総領事館の文化担当菊田領事が「教師会が計画立案し、それを受け領事館が、何ができるか、考えていく。一切の予算措置は取っていないし、金銭的援助も一切しない」ということで、予算獲得に総領事館が動いてくれると思っていた教師の会は準備不足に陥った。

2008年は5月31日(土)に在瀋陽日本国総領事館新館を借りて開催されたが、主催は「瀋陽日本人教師の会」で講演と会場提供が「在瀋陽日本国領事館」となった。

2009年は、大学数校にわたる学生が日本語文化祭実行委員会を組織して企画の中心となり、教師の会の実行委員はその支援に回るという形で、日本語文化祭は航空学院の会場を借りて開かれた。

なお同じ日に、総領事館は同じ名前で全く別の瀋陽日本語文化祭を、瀋陽師範大学で開催した。

2000年度(2001年5月23日) 第5回瀋陽日本語文化祭 遼寧大学講堂

2003年度(2004年5月20日) 第8回瀋陽日本語文化祭 遼寧大学 中止

2004年度(2005年5月28日) 在瀋陽日本国総領事館

2005年度(2006年5月31日) 在瀋陽日本国総領事館

2006年度(2007年5月26日) North Media Building

2007年度(2008年5月31日) 瀋陽日本人教師の会主催 於在瀋陽日本国総領事館

2008年度 (2009年5月23日)瀋陽日本人教師の会主催 於瀋陽航空学院

以下のURLに詳しい情報が載っています

http://www.geocities.jp/kyosikai2004/index

http://sites.google.com/site/kyosikai09/

 

2009年9月28日 (月) 教師会のHPをみんなで

9月12日に開かれた新学期最初の定例会に私は出席できなかったが、そこでHP係に若い巽先生が責任者になると申し出て下さったという。嬉しい話である。

22日には巽先生からメイルがあって、HPのことで会って相談しようということになった。場所としては私のオフィスがよい。

一番大きな目的は、教師の会のHPについて、現状のスタイル、内容、方向性がこれでよいのか、これからはどうしたらよいのかを相談することである。それと同時に目下作成中のHPに具

体的にコンテンツをどうやって載せていくかの方法を具体的に伝授する必要がある。

このHPは数年前から私一人では手に負えなくなっていたので、弁論大会係、文化祭係、日本語クラブ編集係それぞれが、弁論大会あるいは文化祭の準備、進行状況、そして当日の結果や反省を書いてアップロードするような仕組みにした。しかしこれはほとんど成功しなかった。

というのは、「ホームページビルダー」を使ったことのない人にとってはこのソフトを使うというのが大変大きな心理的バリアになるのだ。わずかに日本語クラブの編集係が1年余頑張ってくれただけである。

これらの更新されない分は私がやるか、あるいは手つかずのまま残るしかない。

さいわい、いまYahoo.geocitiesで作っていた教師の会のHPがここでアクセスできない。それで新しく作ろうとしているのがGoogle siteで、ここは特別なソフトなしにHPが作成できるすばらしいサイトなのだ。 つまりHP係の巽先生だけでなく、関係者すべてに、Google siteでのHPの作り方を一緒に伝授すれば良いわけである。さらには、新しく自分のHPを作りたい人たちにも一緒に教えられる。というわけで、巽先生が関係者、そして興味ある人たちを募って集まったのが9月26日土曜日午後のことだった。 私はそれが分かってから、新しい教師の会のHPの体裁を少しでも整えて使いやすくしようと努力した。HPの現在の姿を、今ここに写真で残しておくことにしたい、だってこの先、随分と変わるだろうから。

集まったのは、巽先生、多田先生、土屋先生、高澤先生、梅木先生、小池先生である。最初にHPの歴史と概況を話して、Google siteの説明をした。驚いたことには、なんと1時間半足らずで、Google siteでHPを作るやり方を全員が理解したのである。 こんな嬉しいことは初めてである。今まで何度かHP係に集まって貰って「ホームページビルダー」を使ってHPを作る方法を伝授したが、未だかつて一度も成功しなかった。 一部とはいえ日本語クラブのアップロードをした山田先生は元々システムエンジニアということで、PCはお手のものだった人である。

この先、日本語文化祭、日本語弁論大会、日本語クラブなど過去の教師の会の遺産をここに入れていく作業のほとんどは私が時間を掛けてやるにしても、2008年度分や、今年度分はこうやってやり方を身につけた先生がたの手に任せられそうである

Google siteは偉大である。もちろんそれを可能にする回線とHDD容量と速度の拡大があってのことだが、クラウドコンピューティングの考えが広まったのと、MSの天下にGoogleが果敢に挑戦しているからこそ可能になった技術である。

GoogleがMSに打ち勝たないと、このsiteが続かないという悪い可能性もあるわけだが、このGoogle siteの簡便性に気づいて多くの利用者が増えればGoogle siteの安泰は続くわけだ。というわけでこうやって自発的に宣伝に荷担し、Google siteの利用者がどんどん増えるよう願っている。

(右に並べてあるGoogleのHPの写真はクリックすると拡大されます。2009年10月12日以降中国からはアクセス出来ないので、私たちにとって幻のホームページになってしまいました)

2009年9月14日 (月) 教師の会のHPを新しいサイトで作り始める

私が教師の会のHPを担当することを自発的に申し出たのは、2003年の秋の新学期だった。

どのくらいPCやインターネットをを知っていたかというと、東京工業大学に構内にLANが張り巡らされ、インターネットのメイルアドレスが割り当てられたのが1994年だっただろうか。自前でメイルアドレスを持つためにプロバイダーに入ったのは東工大を辞める直前の1998年だったと思う。あの頃はインターネットで性的な画像を血眼になって探してはいても、個人のホームページもほとんどなかった。研究室のホームページですら、作ろうなどとは思いもしない時代だった。つまり何も知らなかった。

瀋陽に来て、瀋陽日本人教師の会に入ると何か役割をやらなくてはならないという規約がある。日本語の教師でもない私は戸惑いつつも、Macは1988年から使っているし、ちょうど良い、良い勉強が出来る、自分のHPが作れるようになるかもと思ってホームページ係を志願したのだった。

しかしそれまで使ったことのないWindowsを使う必要があり、ホームページビルダー7をまず手に入れた。Macのソフトに比べてのソフトはなんと使いにくいことかと、ぼやき続けた。

目の前には私が入る前に去られた瀋陽工業大学の森岡敏明先生がYahooのサーバーにHPを作ってあった。これを更新することから始めるわけだが、唯一の相棒であった河野先生は翌年の1月に帰国してしまうし、本当に泣きたい思いだった。

それから6年以上経った。その間ずっとこのHPを育ててきた。他人は知らず、私にとって瀋陽日本人教師の会のHPのコンテンツはどこよりも充実していると思えるくらい、かわいい我が子みたいなものだ。

http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/

この地ではインターネットの規制がある。ここからHPに短期間アクセスできないことはたびたびあった。昨2008年10月から今年の2月までの遮断は長期だった。

この間、何度か別のサイトに作らなくてはいけないと思いつつ、膨大な内容を移す手間に躊躇していた。そしてまた、今年の7月からアクセス不能になった。もう看過できない。

 

HP作成には特別なソフトがいるのが面倒な理由だが、ちょうど幸い、Googleが、ブログに書き込む感覚で自分のHPが作れるサイトを始めていた。これを学生の陳陽さんに薦められ、まず自分のHPをつくった。

  容量は10 GBと巨大である。Yahoono 50MBの20倍だ。アカウントごとにGmailが使えてこの容量は25GBである。始まった頃1GBの容量にたまげたものだが、今はもっと大きくなっている。

このGoogle siteは、もちろん、大容量で無料だし、htmlは不要という最大の特徴があるが、実際に使ってみると、このサイトに自分の好みのファイルをftpで送り込めないのが不便である。もちろん、写真、絵、動画を自分のファイルに付けることは自由に、簡単に出来る(この容易さと多機能ぶりはブログの中では cocologが敵うだけではないかと思う)。

いうまでもないが、別のウエブページにリンクを張るのは簡単である。私はサイトの中のファイルは、Googleのお仕着せで作られたものしか存在できないことに文句を言っているのだ。かし、これも私の知識が足りないだけで、まだ大事なことに気づいていないか、あるいはうまい方法があるのかもしれない。

というわけで、私のHPのサイトでさらに山形研究室のHPを作り、教師の会のHPも作り始めた。そして気づいた。これらはすべて一つのIDを共有している。HPが私のもののなら良いが、教師の会のHPはいずれほかの人たちと一緒に更新するようになる。そのとき私のIDでは困る。

それで、Googleで新しいIDを作り、そのサイトで教師の会のHPを新しく作り直し始めた。必要ならこのIDでまたいくつでも別のHPを作れるのだ。Googleは凄く気前の良いことを始めたと思う。

それにしても広告のスポンサーがつくだけでこれだけのものを支えていけるのだろうか。あるいはメイルの内容情報などが、実はいくらでも密かに利用出来るようになっていて、だから十分ペイするのだろうか。

理由はともあれ、このようにGoogleが私たちのニーズを何処までも満たすようになると、インターネットの巨大なプロバイダーが、メディアを支配するようになり、新聞メディアはニュースの発信機能だけしか持てずに、そしてそれでは稼げないから、消滅するしかないという話も真実みを帯びてくる。