2010年度教師会日記

瀋陽日本人教師の会日記 2010年度 山形達也

2011年06月29日(水) 瀋陽市図書館に寄付した教師の会の本の行方

梅雨の合間に思い立って、瀋陽市図書館に行ってきた。昨年の春までは、瀋陽日本人教師の会から市図書館に寄付した書籍の情報をPCに入力するなどの仕事があったが、もう1年以上出掛けていない。

わたしの心の中の印象では、瀋陽市図書館は何時も冬景色の公園の中だったが、いまは緑で静かに包まれていて、なかなか良い感じだった。

3階の外国図書閲覧室に行くと閉まっている。この部屋でPCの入力をしたし、この部屋の図書のラックも新しく増えて、寄付した図書は「瀋陽日本人教師の会寄贈」と書かれたプレート共に展示されて利用されているはずだった。

おかしいと思って訊くと2階に移ったと言うことだ。一つ下に降りると図書館の裏手に当たる一画に児童図書コーナーがあり、その隣の狭いコーナーが外国図書だった。

入り口のドアの隣がお手洗いですし、以前に比べて天井も低く、大分狭くて、倉庫を改造したみたいな感じだ。教師会の寄付した本だけでなく、日本語の図書は全部がここに移されているみたいだ。英語などの図書が少なくなっているようでした。入りきらなかったのかもしれない。

係りの人に聞いてみた。これは一時的なものなのか、このままここに置くのか。3階の閲覧室では「瀋陽日本人教師の会寄贈」と言うプレートがあったが、それはどうしたのか。

係りの人は、自分には分からないけれど、多分ここは一時的なものではないだろうとのことだった。プレートについては自分は全く知らないと言う。

責任者に聞くことだろうが、代表でもない私のすることでもないと思って、係員に丁重に挨拶をして、そのまま帰った。

2009年初めに在瀋陽日本国総領事館の斡旋で、教師の会の図書が市図書館に寄贈された。図書の情報入力のあと、昨2010年11月頃、在瀋陽日本国総領事館の領事、瀋陽市図書館、瀋陽日本人教師の会の三者が集まって寄贈の調印式が行われたそうだ。

これに参加した教師会の側は、2010年度の代表になった宇野さんだけだという。その前の代表だった多田さんは日程を知らされたけれど参加しなかったそうだが、図書入力で働いた会員たちには、わたしも含めて全くなんの知らせもなかった。

あとでこのことを知らされて、ひどい話だと思った。

当時の会員は、資料室の図書の移管に散々心を砕いて、さらに半年を越えるコンピュータへの入力作業に参加したのだ。毎週そのための手配をしたうえに、遠くから図書館に通った瀋陽師範大学の土屋さんも知らされていなかったらしい。

PCの入力のある日は土曜日の午前中なので、わたしはセミナーのため一度しか参加出来なかったが、それでも、この調印式のことは事前に知らせて欲しかった。

PC入力をした会員を含めて前年度の会員全員に、このことを知らせて、改めて労をねぎらうべきことだったと思う。

上に立つ人はこのようなことにこそ、心を砕く必要がある。自分の利益のために、代表という立場を利用するようではいけない。

2011年06月20日(月) 資料室に南本先生お二人を

昨日の日曜日、南本ご夫妻を資料室に案内した。南本先生が2006年3月に会長に推されて、その月の終わりには、第一次資料室が閉鎖されて引っ越し先を探すという事態になったのだった。

全く大変な時期に南本先生は会長だった。

伊藤忠の高木純夫所長の紹介で開元ビルが見つかって、5月に越してほっとした夏を越したのもつかの間、9月には又移転先を探して、本当にあとの時は大変な時期だった。高木さんが責任を感じて何時も一緒に探しにいってくれて、領事館の森領事も何時も同行して、瀋陽市政府との交渉をやって下さった。

人々の善意がしみじみと身に沁みたあの頃だった。

朝日新聞の古谷さんの書いてくれた記事がきっかけで、日本在住の中国人の大学の先生が日本人に世話になったからといって、友人のビルのオーナに一部屋貸すように話を付けて呉れて、その集智ビルの8階に越したが2006年の12月だった。南本ご夫妻が離任されたのが2007年夏だったので、その後の資料室の運命を直接経験していない。

というわけで、資料室が2008年に閉鎖されたままだったのを大変気にしておられたので、千品軒の一室に出来た資料室と、オーナーの劉凱さんを紹介するために、昨日お連れした。

劉凱さんはお茶屋さんを経営しながら、かつ、古代文字の研究者で、日本の古代、特に神話時代にも詳しく、南本さんと一緒の話にも、また聞き惚れてしまった。

南本さんは、資料室に7冊の本を日本から持て来て下さった。

君について行こう―女房は宇宙をめざした 向井 万起男

号泣する準備はできていた 江國 香織

ホームレス中学生 麒麟・田村裕

デッドエンドの思い出 よしもと ばなな

ネコババのいる町で 瀧澤美恵子

ダンス・ダンス・ダンス 上・下 村上 春樹

私がこの日は資料室に行っているということを、会員、会友に連絡したが、皆さんは期末で忙しいらしく、どなたも現れなかった。

ま、それでもよい。時々これからも、皆が来やすいように公開していることを連絡してから、資料室に出掛けよう。何だか、昔の石井康男先生になったみたい。。。ははは。。。

2011年06月19日(日) 南本ご夫妻を囲んで

昨日の夜は教師の会の人たちが集まって、南本ご夫妻と食事をした。集まったのは10人。

石井、石田、石橋、宇野、春日、杉島、多田、松下、渡辺、山形。

薬科大学の西側にある、さえもお気に入りだった唐萱閣の元帥府で6時から集まった。

南本先生たちが2007年に瀋陽を去られた時にも瀋陽にいたのは、松下(2006-)、宇野(2005-)、山形(2003-)、渡辺(2001-)の4人だけだ。

合計12人は、円卓を囲むにはちょうど良い人数だ。まとまって一つの話題を皆で話し合えるのがよい。

今の教師会は、来年以降も政権維持をもくろむ人たちと、彼らには任せられないと思う反対派があって、決してまとまってはいないが、温厚な南本先生を囲んで、和やかな話題は尽きず、久しぶりに心温まる集まりだった。

南本先生の教え子の卒業は今年で最後のようだ。それでは、今度日本の、恐らく来年中道先生の企画による瀋陽同窓会で会いましょう。

2011年06月15日(水) 南本ご夫妻が瀋陽再訪

昨日の夕方、日本から南本夫妻が来られた。

2007年なるに瀋陽を去ってから、2009年6月に一度、今度で二度目の訪問だ。教え子の卒業の時期に合わせている。

お二人とも2004年9月から2007年月に去られるまで瀋陽薬科大学の日本語教師だったので、教え子が多い。

2005年春学期からは瀋陽日本人教師の会の会長(当時は会長という名前)を務め、その間二回の日本語資料室の引越を経験した。当時は30人を越える会員がいたが、艱難辛苦を乗り越えて、教師の会の人たちの心が一つになった時期だった。彼はその中心だった。

山口県から博多空港まで高速バスに乗ったそうだ。博多空港はよく知っているので、空港に着いたらあの店でパンを買い、隣ではケーキを買って、あそこではおにぎりを買ってなどと、瀋陽で喜ぶひとたちの顔を思い浮かべていたら、バスが渋滞に巻き込まれてしまい、最後は空港の手前から走ったとのこと。

と言うわけで、お二人のお志だけかと思ったら、朝日新聞、菓子パンに、博多ラーメン、九十九島せんぺいなど、沢山のお土産があった。

18日土曜日には、南本先生を歓迎する集まりを開こうと思って、教師の会に呼びかけている。

いまのところ、石井仁、石田薫、春日、杉島、多田、松下、渡辺先生がいらっしゃるとのこと。

参加出来ないという方々からもお返事を頂いた。粟野、大山、神山、小池、中谷(友)、中谷(豊)、任、池本先生たちだ。

こういう時、興味がないと知らん顔をする人たちが結構多い中で、不参加でも返事をきちんと頂けると、とても嬉しいものだ。

 2011.06.15 研修が始まる!

https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201106140000/

さえ:

日本人教師の会っていろいろな係りがあるでしょ。「研修係」というのもあるけれど、年に一度「文化セミナーを企画したり、何処かにバス旅行をしようかという提案をしたり、慰労会の時の何時も司会役だったり、そんなことしかこの数年やっていないのですよ。

それで、この間の土曜日の定例会で、教師の会は日本語教師の集まりだから、教える方法・技術を磨くために、だれかが前に出て実際の教え方を示して、その効果を皆が感じ取るような、本当の「研修」をやりませんか、とぼくは提案したのですよ。昔は、集まりの度にこれをやっていて、定例会の活動の中心だった感じでしたよ、って。

昔の、池本先生のさわやかな教え方がまだ眼と耳にに残っていますもの。

殆どの人は昔のことを知らないのですけれど、皆が賛成で、じゃ9月からやりましょうねと係りの渡邊さんは言っていました。

そしたら、早々と二日後に、9月の研修のお知らせという知らせがメイルで届きました。

『先生方へ 次年度9月より、例会時に適宜、研修を行うことになりました。教師会の場所も品和軒に落ち着きつつあるし、ささやかながら再スタートしたいと思います』

『第一番バッターとして青年協力隊、朝鮮二中の粟野先生が快諾してくださいました。9月10日(土)3時半頃より約一時間 テーマ「作文教育」 尚、中等教育での日本語教育の報告も併せておこないます』

嬉しい知らせですね。

私は日本語教育の門外漢ですが、先生がたによる研修は何時も勉強になりましたし、先生がたの新しい魅力を見つけるのも楽しみでした。教師は教えているときが一番輝いていますものね。

2011年06月12日(日) 随分ふざけた話

教師の会の定例会は、その時の議題を幹事があらかじめ書き出して、会員に事前に知らせて来た上に、さらにプリントにして当日配布する。

教師の会にはいろいろな係りがある。わたしは資料室の再興に関わった関係で資料室係をしている。定例会では毎回活動報告をする。

今年度は代表に宇野さんがなって以来、わたしは妻の病気のことで忙しくて殆ど定例会に出ていなかったが、やっと今年の4月に出席して、議題に「資料室係報告」がないことに気付いて、宇野さんと松下さんに、「ちゃんと『資料室係』も書いておいてくださいね」と頼んだ

その時は、資料室係の石井仁先生から報告がなされた。

5月の定例会議事予定表に、『資料室係』は入っていなかったので、幹事のひとりの松下さんに「また抜けていますよ」と言っておいた。

ところが、6月の定例会の前の議題予定表の中に、またもや『資料室係』が入っていない。それで、全員通知の予定表配布を利用して、宇野さんも含めて全員宛に「宇野さん、そりゃないでしょ。また抜けていますよ」と書いて送った。

直ぐに宇野さんから、単純うっかりミスだと詫びながら新しく『資料室係』の入った議事予定表が送られてきた。

さて、昨日の定例会当日、配布された議事予定表に、また『資料室係』が入っていないではないか。

うっかりミスも、手違いも、平気で何度もすると言うのは、人のことをいい加減に扱っているからとしか思えない。

松下さんは、「笑って許してやんなさいよ」と言っているが、松下さんも責任者の一人なのだ。人ごとみたいなことを言ってはいけない。松下さんにも、『資料室科係』が抜けていることは再度言っているのだ。

2011年06月12日(日) 教師会のファショ 自分でやる気がなけりゃ反対するな

瀋陽教師の会は今は会員がだいぶ少なくなって、今期は19人くらいのこぢんまりとした集まりだ。今期に代表をやっている宇野さんのやり方がおかしいって、この頃ここに私は書いている。

彼の不信任案を出したいところだが、小さな集まりを割ることになってはいけないと思って、昨日の、今期最後の定例会では、じっと我慢していた。

ところが、議題に「来期の教師会について「と言う項目があって、宇野さんが、「来期もし代表をやろうという方がなければ、私が続けてやりたいです」と、突然宣言をした。来期のことは来期の会員が初めて集まった時に決めることなので、この時期に自分が続けてやりたいと発現するのは異例も良いところだ。

直ちに「反対」という手が二つ挙がりました、渡辺先生と私だった。私は、いま、ここでこのような話をするのは適当な場ではない、もしも、この話を進めるなら私は反対の理由を述べると言いました。でも、これは来期のことだから、「今の宇野さんの発言は撤回して、なかったことにするのが適当ではないですか」とも言いました。

すると、副代表をやっている松下さんが立ち上がって、「私は大賛成です。昨年、代表が決まらなくて困っているときに、11月になって引き受けてくれて、ここまでやってきた宇野さんを今後支えていこうじゃないですか」と応援演説をした。

さらに「反対する人は自分でやったらいじゃないか」とまで言いだした。これは反対意見を持つ人に対する恫喝だ。自分でやる気がないのなら反対するな、とも言って、これは反対意見つぶしのファッショとしかいいようがない。

松下さんは、誠実な人だと思って信頼していたので、おどろいた。

中国の歴史を読むと、沢山の王、皇帝が、無能で、きちんとした意見を述べる大臣は排除して、代わりにおべんちゃらを言う取り巻きだけを残して最後はもろとも自滅する(と言うか殺されて排除される)という例が無数にある。

人々の言葉に謙虚に耳を傾けずに、自分の快楽しか考えていない王の目を覚まさせる役をするのかと思っていたので、松下さんにはがっかりした。

さて、わたしは彼は代表として不適当だと思うので、来期の続投は反対すり。しかし、代わりにやってやろうという先生がいないとか、宇野さんでも良いじゃないという意見が多ければ、もちろん、それも仕方ない。

2011年06月07日(火) 資料室の将来の位置づけは

瀋陽日本人教師の会が劉凱さんの茶房の一画を使わせて頂いて日本語資料室を再開したのは一年前の2010年の5月だった。

教師の会の持っていた図書は、資料室が2008年春に閉鎖された一年後に、瀋陽市図書館に寄付した。本が一冊もない資料室では様にならないない。

瀋陽滞在のあと帰国する日本人から図書を置いていって貰うとか、自分たちの寄付できる本を出そうとか、いろいろの案が出た。

先ず隗より始めよ、と言うわけで、わたしがここに持っている本、それに日本からもいっぱい本を送って資料室に寄贈した。多田先生も2010年夏に帰国されたとき約40冊の本を寄贈して下さった。それでいま、本は約800冊を越えた。ちなみに、市図書館に寄贈した本は5千3百冊余だ。

本の整理はISDNを利用して、本の情報を取り込み、これを使って図書目録を作った。でも昨年11月以来、わたしが資料室に行けなかったので、その後の整理がはかどっていなかった。

以前、資料室は教師の会の活動の中心だった。定例会を開くだけでなく、毎週週末の土日は当番で、先生の誰かが交代で常駐していた。

それで、資料室に行けば、本が借りられるばかりではなく、誰かに会える訳で、先生たちは日本語を学ぶ学生をよく連れて来た。学生は、自分たちの先生以外の日本人の先生ともいろいろと話が出来たわけだ。

資料室にはコンピューターもコピー機もあったので、コピー機を自分のところで利用しにくい先生たちはここを利用していた。

ビデオとその装置があったので、ビデオを広い資料室の一画で見ている学生もいた。瀋陽の日本人社会の人たちも、日本語に関心のある中国人も、この資料室を中心に交流の輪が出来ていた。

集智ビルのころの日本語資料室では、池本先生による日本映画上映会、わたしの身近な科学の解説を月に1-2回開催していた。

これは会員だけではなく、学生、瀋陽在住日本人、関心のある中国人すべてに開放していた。資料室を単に教師の活動中心としてではなく、日中交流の中心にしようという方向を私たちは見据えていたからだった。

その資料室が2008年春に消滅し、当時の状況を知っている人たちは今やほんの数人です。その頃の資料室にくらべると、今の資料室は、まだ会員の間に全く根付いていないといってよい。

問題点はいつくか挙げられよう。

「狭くて、本が少ない」

狭いのは、どうにもならない。狭くても自分たちの資料室があるというように、ポジティブに考えるしかない。本は、特別会計から本の購入費と送料を出すことになったので、これから増やしていこう。

「資料室の意味がわからない」

今の会員の殆どは以前の資料室を知らない。ここを活動の拠点に出来るよう、休みの日には資料室を開けて、誰でも来られるようにしてみたいと思っている。なじみになれば愛着が湧いて、自分たちの活動の場所という気になってくるかも知れない。

と言うわけで、将来方針は本を増やすことに尽きるが、今すぐ、出来ることとして、出来れば毎週日曜日に、せめて月一回でもこの資料室に誰でも来られるようにすることをやってみたいと、思ったりしている。

2011年06月06日(月) 日曜日の午前中資料室を開けた

昨日の日曜日午前中、資料室に行ってきた。教師の会のひとたち全員に「午前中は資料室が開いているので、本を借りられますよ」と連絡を入れておいて、10時から12時まで資料室に行った。

わたし自身の主目的は、未整理の本の情報の入力だった。ネットでアマゾンに結んで、50冊近くの本の情報入力は出来ましたが、そのあとPCの中では整理が出来ない。音を上げて、未完のままPCを大学まで持って帰った。

午前中に資料室に来られたのは、石田先生、石井先生、吉田先生の3人だった。いずれも学生の帯同なしだが、今は試験シーズン直前だからかも知れない。

吉田登美子先生に会ったのは、ほぼ一年ぶり。今年度は土日が特に忙しくなって、定例会には出席できないと言うことでずっとお休みだった。わたしだって昨年の11月から今日まで定例会に出られたのはただの一回だった。

半年ぶりに会った茶房オーナーの劉凱さんは、昨年末からついこの間まで、四川省に三回も資料の調査に出掛けてきたとのこと。三星堆遺跡という七千年前の発掘された人形の顔は極端に眼が大きく印象的だ。その石などに文字が刻まれていて、この研究が始まったそうだ。中原文化の甲骨文字とは又趣の異なった文字である。

これが解読できると楽しいだろう。でも、ロゼッタストーンなどであったように、一つは分かっている文字と並列でないと早急の解読は望み薄だ。

資料室にはまだ九百冊足らずの本しかない。しかも、自然科学とぼく好みの小説に偏っています。これからは本を増やすことが絶対必要なのでその努力もしますが、一方で、資料室をこのように休日に開けて置くと言うことを時々やってみたいと思う。

全くの徒労の連続かも知れない。

それでも、2000年に資料室を作った石井康男先生は、私たちが瀋陽に来た2003年のころ会の代表だったが、一人黙々と資料室のために尽くしておられた姿が目に浮かぶ。そう、彼は私の手本なのだ。

2011年6月2日 多田さんとお喋り

<https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201106020000/>

さえ:

昨夜、久しぶりにこの薬科大学で日本語教師だった多田先生に会って食事をしながらお喋りをしました。彼は昨年夏、この薬科大学を去って日本に戻ったのですが、秋に東北大学の日本語教師となって又瀋陽に戻ってきました。

昨年度の教師会の代表だったのですが、昨年夏に帰国したという事情で今年度はそれが続けられず、その結果、代表になる人は、いまのおかしな人しかいなかったのですね。

薬科大学では全くの初歩の日本語を教えるしかないですが、東北大学では日本語科で日本語を使う専門講師になって、卒論の指導までやっているそうです。東北育才学校(高校)にいて遼寧大学に移った松下先生も、日本語学科の担当になってすごく忙しくなったということでしたが、同じみたいです。

「卒論も良いけれど、コピーペーストで悩まされないのですか?」「その対策はどうするのですか?」

やっぱり、学生はコピーペーストをするそうです、でも余りに稚拙なので直ぐ見破って、書き直させるのですが、それもコピーペーストなんですって。

いたちごっこですが、でも、元の材料をこっち見つけるのも大変な手間ですね。労多くして功少なし、というか、学生は卒論を書いても、コピペばかりで何も身に付かないで出ていくのでしょうね。

卒論の予聴会では先生たちが学生に結構厳しい質問をしたそうです。でも、内容が何処かのコピーであるとか言うことは問題にしないんですって。

そうでしょうね。他の先生の学生のコピペを指摘して問題視すると自分のところに、そのまま返ってきてしまいますものね。

幸い、うちの研究室では卒業論文コピペに悩まされることはありません。大学に出す論文の序文に関しては、幾らコピペしても、私は気にしません。

ジャーナルに投稿する論文を学生が先ず書いてくるときは、うるさく、コピペをするな、決してするな、と言っています。

ジャーナルに既に載っている英語の論文の、これはという文章一つでも、そのままコピペされると、英語にも、内容にも問題はないので、そのままこちらは使ってしまうことになります、気付かぬうちに人の文章の丸取りと言うことになります。英語人で、分かる人は、あ、これは人まねの文章だな、ということになって恥さらしです。

最初からすべての研究論文をこちらが書けば問題は起きませんが、学生に先ず書かせるのも教育ですからね。全く意味不明の英語を見て苦吟しつつ、共同で論文を書き上げ、同時に書き方を教えるというのが理想的ですね。

というわけで、関さんの論文はその方式で進めているので、未だに苦労しています。自分で書いてしまった方がよほど速いですけどね。

2011年05月16日(月) ドジな教師会の執行部

瀋陽日本語文化祭というのがある。むかし石井先生が遼寧大学で始めて、西安の日本人不品行問題で一度中止になって、今度は反日デモで中止の憂き目と言うときに、当時の小河内総領事が瀋陽総領事館で開催してくださって続いてきた。

当時、総領事館の担当は森信幸領事だったが、その後を引き継いだ菊田領事がまるで不熱心で(民間に対してふんぞり返っている悪い官僚の見本だろう)、総領事館が開催を見送ろうとしたので、教師の会が全面的に引き受けて今に至っている。

瀋陽日本語文化祭開催の詳細はGoogleの瀋陽日本人教師の会のHPに載せているが、二年以上ここからはアクセスできないので、どうなっているだろう?

私は教師の会の、3月、5月と定例会の出席を休んだので、そろそろ文化祭かなと思って気にしていても、通知は来ていないし、やっと見つけたのが教師の会の議事録の3月のところだった。

「日本語文化祭は、5月22日に開かれる予定。場所は何処かまだ決まっていない」と書いてある。

議事録は、書記会計係の先生がきちんと書いていて下さっているが、その後は記載がない。

日本語文化祭は瀋陽日本人教師の会が主体的に実施している日本語を学ぶ学生のお祭りだというのに、そして、もう開催まで一週間ないと言うのに、会員に知らせが来ていない。

定例会に都合で出ていない会員も数名あるし、会友の数人も定例会にはおい休みのことが多いから、日本語文化祭の日時、場所、プログラムの連絡を、全員宛に出してくれると良いのに。

スポンサーの日本人会には、きちんと日本語文化祭の知らせは出しているのだろうか、心配なことだ。

2011年05月10日(火) 人の発言を無視する宇野代表

4月の弁論大会の二週間前の定例会では、大会の終了後の懇親会は今回は総領事館で開かれるという話だった

大会の5日くらい前、代表の宇野さんから「総領事館への招待は教師の会から二名、とあります。」

「このようなことですので、教師会から参加するのは私、宇野と弁論責任者である××先生と言うことになります。」

と言うメイルが全員に届いた。

これに対して、私は以下のように異議を書いて、彼と全員に送った。

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宇野先生

私はこの通知に異議があります。

教師会が「総力を挙げて」お手伝いしている日本語弁論大会は教師の会の行事の中でも主要なものと位置づけられます。

その大会の終了後、何もしないで解散と言うことは私の知る限り過去一回もありませんでした(日本人会の主催で晩餐会が開かれました)。

今回丹羽大使が北京から来られて総領事館で会食があるところに教師の会の弁論大会関係者が招かれています。

人数限定で二名だけという招待です。宇野代表としては、これを断るか、あるいは全員を招待させるべきでした。

この弁論大会のために全力で働いたのはこの二人だけではありません。この二人はどういうつもりで総領事館の会食に顔を出すのですか?

自分たちが選ばれた代表だとでも?

この二人が丹羽大使に会うことが大事なのですか?

自分たちが教師の会で今回の弁論大会の責任者だと考えているなら、大会のために寝食も忘れて努力した先生たちの当日の慰労を真っ先に考えるべきでした。

この通知を見て、とても残念です。

なお、私はまことに申し訳ないことですが、当日の弁論大会に参加いたしません。

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この楊に異議を書けば、恐らく宇野さんは、

「総領事館に全員を招かせるのは、時間的にも、物理的にも、不可能でしょう。招待を断るのも穏当を欠きます。

自分たち二人だけが出席することを皆様から了承を得るべきところでしたが、失念して申し訳ありません。

又弁論大会のあとの懇親会の用意をすることを忘れていましたが、副代表にお願いしますので、今回の措置はどうかお許し下さい」

と言ってくるかと思った。そうしたら、OKする積もりだった。

ところが、今日まで何の返事もない。

そして次の今週末の、つまり5月の定例会の開催通知が、とどいている。つまり、私の異議に対して黙殺を持って応じたのだ。

人は、人という社会的動物は、存在を黙殺されると腹を立てる。私も例外ではない。

これは、教師会を束ねる存在である代表としては、やってはならないことだろう。

腹を立てると、この宇野さんの欠点ばかり次々と思い浮かぶ。こんな、リーダーシップに欠けるこの人に教師の会をの運営を任せられなという気に、ますますなってくる。

さえ、どうしよう。クーデターを起こそうか。

こころを鎮めて考えよう。

2011年04月21日(木) 明日は、瀋陽弁論大会

明日が瀋陽日本語弁論大会の日となった。商貿飯店(名前が変わって、盛貿飯店)で開催される。

4月の定例会では、弁論大会当日の役割分担表が配られて担当者から説明がありました。でも、私の名前は入っていなかった。

ショックだった。20人もいない会で名前が忘れられてしまうなんて。

文句を言ったら、集計係りに入って欲しいと言うメッセージが届いた。でも、いてもいなくて良い役だし、行く気がなくなった。

実はもっと重大なことがある。

弁論大会は教師の会が総力を挙げて「お手つだい」している。主催は日本人会だが、教師の会に丸投げだ。

当日の大会が終わると日本人会の主催で慰労の晩餐会が開かれるのは当然のことだろう。

今回は北京から丹羽大使が瀋陽に来て弁論大会も覗くと言うことだ。そのためか、総領事館で晩餐会があるので、日本人会主催の慰労会はないが、代わりに総領事館で開くということだった。

それが先週、「教師の会からの参加者は二名にしてくれという連絡が総領事館からあったので、宇野代表と、弁論大会係の責任者の神山先生の二人が出る」という通知が、今期の代表をやっている宇野さんから届いた。

二人しか出られないと言うことなので、この二人が総領事館の晩餐会に出ますが良いですか?と、あらかじめ、皆に了承をとったわけではない。

何かおかしい。

教師の会の一大事業なのた。終わったら、全員でご苦労様という会があるのが自然だろう。

当日、教師の会のその慰労会をするのが邪魔されるわけだから、断るのが筋だと思う。「主要な」二人抜きにして慰労会を開くというわけにはいかないし。

二人が代表となるのが嬉しいのか、丹羽大使に会うのが嬉しいのか、どういう神経なのか、疑ってしまう。

せめて、出られない代わりに当日の慰労会は「これこれしかじか、こんなぐあいにやりましょう」と考えるべきだろう。それでもおかしいと思うけれど。

よせばよいのに、この意見を宇野さんに送った。考え直して欲しいと思ったのだ。

これだけのことを言ってなおかつ平静な顔をして参加出来ないので、明日の会のぼくが出席を遠慮することにした。

後記:結局、宇野さんへの私のメイルは全く、無視されて、返事はなかった。弁論大会のあと、それぞれの人たちは勝手に家路に就いたという。私は教師の会の現執行部の人たちに怒りを覚える。

2011年04月10日(日) 資料室の本は

教師の会でやっと作った資料室の中核となる本を集めるために、殆どわたし一人が努力してきた。

日本に帰る人が本を置いていったらいいとか、寄付を呼び掛けたらよいとか、日本で余っている本を送ったらよいとか、皆さん言ってくれるけれど、実行するのは?ということになる。

今まで教師の会は機会があるごとに活動の基金になるようにと、会員はお金を寄付してきまた。

森領事に会食代を出し戴くことが度重なって、じゃ私たちも出して積み立てようということになったし、私も歌集を出版して収益を挙げて教師の会に積み立てた。

それがかなりの額になったが、経緯を知らない人たちが、それなら日常的に使ったらいいじゃないかと言うようになったので、一般会計と特別会計に分けた。

この特別会計も、それをなにかに使わなきゃと考える人たちが出てきたので、資料室の整備に使いましょう、と今回の集まりの時、提案を出した。

資料室に用意したい本を皆で考えてみて、「それを特別会計からお金を出して買う」。「日本で買ったときの送料も、負担する」。

候補の本をだれが買うかは問題だが、もちろん、わたしもやるつもりでいる。それでも今までは、本も、本の送料も、わたし個人で負担してきたけれど、この先は特別会計でまかなってもらおうと思う。

この提案は、本質的に了承されて、来月までにそれぞれが本の希望を出すことになっている。そしてそれ以降は資料室係に一任と言うことにもなった。

あとは資料室をどのような形で開放するかを、考えまよう。月に一度くらいなら、週末にぼくが当番をしても良いし。

2011年4月9日 教師の会の四月定例会

<https://plaza.rakuten.co.jp/tcyamagata/diary/201104090001/>

さえ:

今日は教師の会の定例会がありました。もう直ぐ弁論大会だし、と思って出掛けました。

弁論大会の時の役割り表や、進行表などが配られ、係りの説明がありました。その中にぼくの名前がないのですよ。

無視されたかと憮然としましたが、ま、役割なしだっていいかと、発言をためらっていました。

その日は、北京の丹羽大使も来られるので、夜は総領事官主催の食事会があるのだそうです。「でも、人数の関係でそれに出る人は、ここに名前のある人たちだけです」というのですよ。

それで、「弁論大会で私のやることはないのですか?」と尋ねました。

役員たちの気まずい沈黙。。。

役員のまずいことというと、集まりの終了したあと、渡辺先生が「今日の食事会はどこでするのですか?」

ぼくたちが本格的に教師の会に踏み込んでいったのは、終わったあと中道先生と食事をするようになってからです。それまでに一年近い日が経ちました。

この食事に加わる人が段々増え、とうとう南本先生が代表の時に、定例会のあとは何時も皆で食事会をしましょうということになりましたね。もちろん強制ではなく有志の参加でしたが、何時も殆どの人これを楽しみに集まりました。

それに対して、役員は「考えていません」という返事です。

考えていなくたって、今日初めて集まりに参加した新人が二人いるのですよ。その場で、「(考えていませんでしたが)、一緒に行ける人たちで行きましょう」と言ったっていいのですよね。

渡辺先生が、そう思って確認したのに対して、「いえ、やりません」という返事。

おっちょこちょいの私は、声を挙げて、「行ける人たちで、近くの店に行って食事をしましょう」と誘いました。

結局、その新人二人を入れて七人が近くの北京ダックの店に行って、楽しく食事をしました。今日出席した十八人から見ると少なかったですね。

文句のついでに:

集まりの議事予定表に、他の係りは全部入っているのに。「資料室係から」という発言予定の項目が抜けています。全く、今の役員と来たら、本当にふざけた人たちです。

2011年4月1日(金) 教師の会の代表は宇野先生

2010年10月から2011年3月初めまで、日本に戻って妻を看取った。

つまりその間、日本人教師の会の活動から遠ざかっていた。教師の会の代表は期待していた多田先生の着任が遅れたため他の人を選ばざるを得ず、9月末には会員の中から自分がなりたいといった宇野先生が代表となった。宇野さんの過去は知らないが、わたしが瀋陽に行く前から瀋陽の日本語学校の日本語教師だった人である。

2010年09月26日(日) 資料室の準備

資料室は本棚が三つ入ったし、本は今600冊を超えて集まっている。今度の資料室は、最初から書籍情報をPCに入れようと思っているので、第一回定例会のあった翌日の9月19日の日曜日も、一週間後の26日日曜日も午後は品和軒に出掛けた。研究室の陽暁艶さんが何時も快く同行して、手伝ってくれた。

最近の本は裏表紙にバーコードでISBN番号が付いている。これを、バーコードスキャナーでピッと読み取って、アマゾンにアクセスすると、アマゾンが持っている書籍情報が利用できる(私本ソフトを利用する)。

問題は、古い本で

1.ISBN番号は書いてあるけれど、バーコードが付いていないもの。

2.ISBN番号がまだない時代の本。あるいは、私本でISBN番号を持っていないもの。

3.中国で出版された本などで、ISBN番号は付いているけれどアマゾンの情報が利用できないもの。

1.については、バーコード自作というネットを利用して、自分でバーコードを作って本に貼り付けた。

2.については、全く新しい番号のバーコードを勝手に作って本に貼った。この番号を本のリストに取り込んで本の情報をPCに自分で入力した。勝手に番号を付けても、この資料室でバーコードに基づいて本を追跡できればいいのだから。

3.については、本についているISBNをそのまま利用して本のリストに登録し、情報を打ち込んだ。

このようにしてすべての本は固有のバーコードをもつことになった。この番号でPCにすべての本を登録した。 これからは、在庫の確認、本の貸し出し、返却は、PCを使って本のリストとバーコードリーダーで簡単にできるようになる。 ただし本のリストはExcelに入っている。このExcelの問題は(と言うわけではなくどのソフトでもそうだが)、アクセスしたときに内部情報が保護されていないことである。入力を間違えたら、情報が書き換えられてしまう。本の登録されていることすら、抹殺することが簡単に出来てしまう。

どうしたらよいのだろう。誰かPCに強い人はいないだろうか。

2010年09月20日(月) 9月18日に第一回定例会

今期最初の定例会は9月18日土曜日、千品軒で開かれた。

参加者は、14名

今までの会員:松下、小池、風間、渡辺、石田、杉島、貴志、山形

新入会員:石井しのぶ(東北育才学校)、中谷友美(遼寧大学外国語学院)、粟野藍(朝鮮族二中)、神山譲(遼寧大学)、石橋さやか(遼寧省実験中学)

会員外参加者:神山譲夫人

何時もと違うことが沢山ある。毎年最初の会は、前年度の幹事で瀋陽に残った人たちが最初の会のお膳立てをしていた。何時もは複数の人たちが残ったが、今回は、私、山形だけだった。つまり、集まりのお膳立ては私一人の責任になった。

さらに、例年、前期の幹事が次年度の代表候補を推薦していた。つまり最初に集まったときに、今期の代表として○○さんが推薦されていますが如何でしょうか、と○○さんの信任を問えば良かった。今回は次期代表の心づもりが全くされていない。

前期の会員でこの最初の定例会に出られなかった人が5人もいる。実際、出席したのは7人しかいなかった(貴志さんは9-10月のみ滞在なので会友扱い)。

と言うわけで会議の進行は、今回は以下のようにした。私が司会と、進行を一人で務めたわけだ。瀋陽日本人教師の会の歴史、規約などの紹介をしたあとは、新入会員自己紹介に換えて、全員の自己紹介にしたし、例年だとあり得ない、「3.教師の会の運営についての相談」なんてのを入れて、どうしようかと相談をした。

前年度の代表を務めた多田さんは瀋陽を任期満了で去った。しかし今期また瀋陽に戻って、東北大の日本語教師になると聞いている。ただし、未到着だ。一番簡単で、かつ実際的なのは多田さんに代表になって貰うことだが、この場に不在なのに(おまけに教師会を続けることだって、土屋さんのケースを考えると、実はわからないことだ)、ここで決めるわけにはいかない。

どうしましょう。ベストの答は、今回は代表選びは保留して、白紙のまま次回に持ち越すというものだった。

OK。それでよい。しかし次回までこの教師の会が動くには責任者を決めておかないといけない、と言うわけで、私が、事務代行責任者になりましょうと自発的に引き受けた。なんと、まあ、この上ないお人好し。

この教師の会の特徴は、会員だれもが必ず何かの役を引き受けることだ。この係の説明は、以下のように行った。

研修・リクリェーション係(渡辺)

書記・会計係(石田)

ホームページ係(山形)

資料室係(山形)

日本語クラブ編集係(小池)

イベント係(小池)

最後に、ホームページ係と日本語クラブ編集係を暫定的に一緒にして今期は「広報係り」としてやってみませんか、と私が提案して了承された。そして、係の希望を募って、次のようになった。

研修・リクリェーション係:粟野、風間、杉島 松下、渡辺

書記・会計係:石井、石田

資料室係:石井、石田、山形

広報係:石橋、神山、中谷、小池、

イベント係:小池(イベント総括者として実際の係りを後に指名する)

資料室の係りとして私が最初に志願したが、初めはほかにはだれも志望しなかった。しかしそれでは資料室は運営できない。この会の一番大事なことなのに、と思うけれど、実際に資料室があってそれを知っていた人がもう殆ど今はいないのだ。改めてどなたか係りになって頂くようお願いしたところ、兼任で石井、石田先生が係りになって下さった。非常感謝。

原味齋で5時から開かれた懇親会には、

粟野、石井、石田、石橋、神山夫妻、貴志、中谷、松下、山形、渡辺。

会員外参加者:劉凱、徐帥(薬大5年生)の、合計13名。徐帥くんには、千品軒でインターネットに無線用ルータを取り付けることと、日本のうちから8月さらに送った160冊の本の書籍情報取り込み(電子情報作成)をやって貰ったのだった。

会費は一人35元。徐帥くんの分は山形持ち。

2010年09月16日(木) 資料室に本箱とテーブル椅子セットを入れた

9月14日の午後、研究室の外の廊下で全館放送の声が聞こえた。終わると直ぐに実験室から学生がやってきて、明日は午前8時から午後5時までこの実験棟一体が断水だそうです、という。

私 達のアパートもこの建物と近くて、同じ一画にあると言って良く、停電とか断水は何時も一緒である。断水で困るのはトイレが使えなくなることだ。どうしよ う、大学にもうちにもいられない。そして懐かしく思い出したのは、以前はこのような非常時には、日本人教師の会の資料室に行って一日中本を読んでいたことだった。

今は資料室がないけれど、資料室の場所はもう既に千品軒の一画に借り受けている。この部屋が出来てから、今まであちこちに分散していた会の財産が運び込まれて物置になっているけれど、そこの整備をしようか。

9月18日の定例会で集まってから資料室係りを決めて係りが相談すれば良いと思っていたが、私は前期の係りである。私がある程度やっても問題あるまい。幸い時間が出来たから、明日は、本箱や机を買いに行こうか。

それで劉凱さんに電話をした。もし明日ご都合が付くようなら、本箱やテーブル椅子セットの買い物に付き合って頂けませんか。一寸ためらっているようだったが良いですよと言って貰えた。あとで聞いたら、この日に日本語を教えることになっていた学生には断りを入れたという。

そして、9月15日。朝9時前には千品軒に行った。出掛ける直前出会った修士の学生の暁艶を誘うと、彼女も良いですよと言って一緒に来てくれた。品和軒でまず部屋の大きさを細部にわたって測った。矩形の部屋の狭い壁面の一つには、スチールの本箱が3個入る。ひとまず本箱は3個あればいい。木製にこだわらずスチールのオフィス用品にしよう。

この部屋の大きさでは、教師の会の全員は収容しきれない。椅子のテーブルのセットは、この部屋には一組あればよい。劉凱さんのほかの部屋には、籐家具を模した作りのセットがあって感じがよい。資料室もこれに合わせよう。

このような腹づもりをして、劉凱さんとまず相談をしてそれを分かって貰って、劉凱さんと彼女の甥の于さん、そして私達4人はタクシーで鉄西区にある家具の専門店に向かった。

東北家具城市は東北地方随一の大き差を誇るマーケットで、50メートルと200米くらいの大きさの3階建て。建物を支えている柱の間には仕切りはなく、間口ごとに違う個人商店の入っているマーケットだ。一階はソファ、二階には椅子、テーブルなど、見渡す限 りの家具のオンパレードである。隣の建物はワンフロアがベッド。ここでは、歩き回ることで目当てのものを見つけ、そこで交渉をする。

一カ所では当たりを付けただけ、次々と歩いて劉凱さんは疲れる様子もなく値段の交渉をしている。三つ目からは、劉凱さんに交渉を任せて私と暁艶は直ぐに売り物の椅子に座り込んでいた。

そして結局、スチールの本箱(二つは棚板のある本湖、一つは下に引き出し付き)3個を1000元。以前研究室のために買ったときは一つが700元した記憶がある。中国人が交渉するとこんなに安く買えるのだ。

籐家具風のテーブル椅子セットは、劉凱さんは700元以下にしたかったようだが、これはどこでも希望の値段が折り合わず、とうとう店主が勝って750元。

あと、本棚の棚板の後ろに噛ませて棚板を二重に使うようにしようと考えた。この目的のためにに発泡スチロールの厚さ6センチの大きな板を二枚。55元。

これらを品和軒に運ぶのはこれの店には全く無関係で、建物の外にたむろしている運送業者と個別に交渉をする。何をするのでも、交渉。交渉。交渉。中国人はタフでないと生きていけない。家具を買うのもこんなに大変なんだ。元気でないと中国では生きていけない。家具を運ぶトラックの運転手に60元。

そして午後は、部屋にこれらを運び込んで、本棚を使えるようにした。発泡スチールをカッターナイフで切ったあと、そのまま棚に並べるのではなく、このふたつをきれいな紙で包んで棚に載せる方が良いと、劉凱さんは提案して実行してくれた。その通り、全く見てくれが違う。

そして、ラボとうちから持ってきた本を並べた。棚を二段に使っているから、12段分を用意したことになるが、約550冊で10段分がほぼいっぱいになった。片付いて空いたスペースに梱包をほどいたテーブルと椅子を並べ、ほっと一息ついて、そこに座ったのが午後6時。

劉凱さんん、于さんのお陰で資料室の骨格が先ず出来た。私は覚悟をしていたが、劉凱さん、于さん、そして暁艶にはまるまる一日作業に付き合わせてしまった。非常感謝。

2010年09月12日(日) 資料室に515冊の本を運んだ

瀋陽日本人教師の会は、今新しく資料室を持とうとしている。

2008年の春、それまで集智ビルにあった資料室が閉鎖されて私達は行き場を失った。それから1年半「家なき子」を続けた私達に瀋陽在住の劉凱さんが全くの好意から手をさしのべてくれた。

9月5日の日記には資料室の新開設に当たって、350冊の本を用意したことを書いた。資料室に人が集まるためには、場所があるだけでなく、本が少しでも多くあった方がよい。

それで瀋陽のうちのアパートに溜まった本をさらに提供することにした。恥ずかしくない本は既に先ほどの350冊の中に入っているので、あとはろくでもない本ばかりだが、それでも、瀋陽で無聊をかこち、活字に飢えた人たちにはきっと喜ばれるだろう。

それで、結局合計515冊の本の書籍情報を、この土曜日までにPCの電子ファイルに入れることができた。さらに、これらの本には「瀋陽日本語資料室」の印鑑を押した。

これらの本は、運べる重さの段ボール箱11個になった。9月11日土曜日の午後、これを劉凱さんのお店「千品軒」に運ぶことにした。うちの研究室は女性学生ばかりである。うちの女性学生だけでは駄目なので、男子学生も動員した。

5年生になったばかりの徐帥くん、そして彼の友だちである。カートに積んでこれらの荷物を二回に分けて建物の1階の外に運び出し、さらに大学の正門の外まで二度に分けてこれらを運んだ。この大学では中にタクシーが入ることを認めてくれないのである。置いた荷物の監視にはうちの二人の女性学生が役立った。

全部の箱はタクシーのトランクに入りきらなかったが、それを私達の膝に乗せることにして、幸い私を入れて4人は一台のタクシーで「千品軒」に向かうことが出来た。

到着すると、劉凱さん、お店にいる彼女の甥の許さんも一緒に荷物を運んでくれてあっという間に資料室に入れることが出来た。

さて、もう一つの大事なことは、この夏に日本に帰任した巽さんから資料室に寄贈されたノートPCが、この図書情報の管理に使えるようにすることだった。さいわい、学生の徐帥くんは筋肉ムキムキだけでなくPCにとても強いと。

Macで作った図書の貸し出し簿がこのPCでさくさくとお動くことを調べて、次にはインターネットで書籍情報が取り込めるかどうかをチェックしてくれた。

劉凱さんは自分のPCをインターネットに直接つないでいる。それをこのPCに切り替えて、ネットから「私本管理ソフト」をダウンロードした。そして、既に資料室に届いている(30冊の本の情報入力を試みて、成功した。

インターネットを今のように、直接PCにつなぐのではなく、端末機を置いてそこからケーブル、あるいは無線でPCにつながる仕組みのターミナル機器を買えば、資料室で劉凱さんの仕事を邪魔しないで私達のPCも使えるわけだ。

それで劉凱さんと相談して、そのような装置を買うことにした。教師会で負担するのがよいだろう。今度の土曜日の午前中に、徐帥くんが機器を用意。2時より早く私が出かけていって、PCの動くことを確認しよう。2時から9月の教師の会の定例会がここで開かれる。

このあと、劉凱さんと許さんを誘ったが都合が付かないので、学生3人を連れて十一緯路にある「大清花」という満族のレストランに行き、美味な料理をたらふく食べた。そして、大いに満足した。

 

2010年09月08日(水) 土屋さんが教師会を辞めた

2010年度の新学期が始まった。瀋陽日本人教師の会も新しい顔ぶれで始まる。

9月最初の定例会の顔合わせの時に、会員の中から新しい代表を選び、その代表が補佐役の幹事数名を指名する。これが規約による建前だが、実際には前期の代表が前期のうちに次期の代表に「次期は代表をやってくださいね」と頼み込んで内諾を得ている。

規約からするとこれは間違っているが、6月末あるいは7月初めにそれまでの代表屋が離任すると、次期の教師会にものごとが伝わらないので、仕方ないだろう。

勿論9月最初の定例会では、前期の幹事(たいてい誰か残っている)が集まりのお膳立てをして、集まった会員の中から代表選びまでを司会する。前期の代表が離任しないでいても、手続きは同じである。最初の会で代表を選ぶ。

毎年、何時もはこれでうまくやってきた。

ところが今年の夏は異変が起こった。2009年度の代表を務めた多田さんは、もっと中国にいたいのに勤務先との契約は3年が限度で、ほかに探しても見つからない。それで帰国せざるを得なくなった。そして彼が次の代表候補を心に決めて交渉をした。

しかし、私の聞いたところでは、その候補に非常に強く固辞されて引き受けて貰えなかった、ということだった。やがて時間切れとなって、前代表の多田さんは (だれにも後事を託すことなく)帰国した。

さて、私は前期の幹事の一人である。代表を含めて5人いた幹事のうち今期も残っているのは、ほかには今度で瀋陽4年目になる瀋陽師範大学の土屋さんが残っているだけだ。

9月の定例会の準備はこの二人でやるほかない。それでまだ日本にいた8月半ばに、土屋さんにメイルを書いた。9月の定例会の準備のためだ。そして勿論、代表をやって貰えませんかと書いた。

ところが、土屋さんからは返事が来ない。このメイルをCCで送った前期の幹事全員からも返事がなかった。

そうこうするうちに、多田さんからメイルで、送別会までして貰って帰国したのに、また瀋陽の東邦大学で日本語教師をすることになりました、と言ってきた。そうか、そういうことを皆は知っていたから、私のメイルにだれから何も音沙汰がなかったのだな、と納得した。

そう言うことなら、多田さんに新学期の定例会を任せればいいんだ。

ところが、多田さんは9月の新学期から東北大学に赴任するつもりなのに、VISAがでない。瀋陽にまだ戻れない、という。となると、私と土屋さんが準備をするしかない。

私は9月2日、瀋陽に戻って以来毎日二回そして三日間も続けて、土屋さんの携帯に電話をし続けた。しかし応答がない。一度は電源が切ってありますと言うことだったので、電話をしていることは伝わっているはずだ。

三日後にはやむなくメイルを書いた。すると夜になって土屋さんから電話があった。そして言うには、自分は今期の教師会には出ませんよ。このことは今まで教師会の主な人には言っているんだけれどね」ということだった。

私はびっくり仰天である。私は幹事の一人だったけれど全く知らなかった。多田さんもこれを知らない証拠に、9月初めには土屋さんと私宛に引き継ぎ事項をメイルで書いてきている。

仲間だと思っていたのに、ふざけた話だ、といったんは頭に来た。しかしそう言って彼を責めてみても仕方ない。辞めたい人は辞めると決意した人だ。でも、いったいどうしてくれるんだ、頼りにしていたのに。こっちにしてみると、たよりにしていたのに、突然つっかえ棒を外された気分だ。

一つに体調が悪い、一つに大学から集まる場所が遠すぎる。一つに疲れた。と言うのが彼の言い分だ。口にはしていないが、彼が責任を負った昨年末から半年に及ぶ市立図書館での書籍情報の入力作業が大変な負担だったに違いない。

いや、作業そのものでなく、それを手伝う会員の動員の手配をしたり、その場の案配をしたり、いろいろと気を遣うことが多く、そのたびにさまざまの葛藤があって、それに疲れ果てたに違いない。

「何時何時、図書館で入力作業をしますから、ご都合の付く方はおいで下さい」と皆にメイル出したって、来る人は来ても、来ない人は知らんぷりだ。だれも来なかったときもあっただろう。ストレスが溜まり続けたにちがいない。

「もう、こんなことをやっていられるか」と思ったことが何度もあったろう。ともかくそれでも、最後まで彼は責任を全うしたのだ。

お疲れさまでした。

瀋陽日本人教師の会から瀋陽市図書館への書籍贈呈式が、在瀋陽日本国総領事館の仲介でこの秋開かれることになっている。

2010年09月05日(日) 資料室の書籍情報をPCに バーコードの利用

日本語資料室の閉鎖が2008年3月。その後資料室の物件を探しつづけたがそれが叶わず、ついに諦めて本を瀋陽市図書館に寄付したのが2009年3月。

私達は図書の情報をPCに入れていなかったが、市の図書館は図書情報の電子情報が欲しいと言った。これは彼らが書籍を電子情報として管理したいのに、日本語入力システムを持っていなかったためである。

それで、12月から今年2010年5月に掛けて、会員が図書館に出かけてPCを使って書籍情報を入力した。

このとき初めて「私本管理ソフト」が役立つと言うことを知った。今の本なら必ず付いているISBN番号をこのソフトで入れると、アマゾンに連絡が行ってアマゾンの持っている書籍情報が瞬時に取り込める。これを Excelに移してからこの中で必要なものを残せばよい。

ところで、私達は日本語資料室を2008年に失ったが、2009年末に瀋陽在住の中国人の劉凱さんが自分の店の一部を日本語資料室として使ったらと提案があったことは、以前からここに書いている。

その後、劉さんと私達は交流を深め、5月からは一部屋を資料室として使わせていただくという契約を結んだ。

さて、資料室となると、ここに集まってくる人たちに役立つ本を揃えたい。と言うわけで本を用意して、今度は最初から書籍情報をPCに入れようと思った。

それでバーコードリーダーは日本でネット経由で一つ買った。

さいわい、MacのNotebookがこの夏瀋陽を離任する会員の一人である巽先生から教師の会に寄付があった。今後これが利用できる。

9月3日の金曜日の午後、研究室の朱Tongに頼んで研究室に積み上げた書籍情報を「私本管理ソフト」とアマゾンの情報を利用して、Windowsで入力 した。幸い、古い本があまりないので、殆どはアマゾンから情報が入手できる。これをExcelに移してから、Macで開いた。

これは資料室の所有する書籍リスト原本というわけだ。

これを今後貸し出しにも利用したい。ここは瀋陽市図書館ではないから、ピピッとスマートに進むシステムは使えない。どうしたものか。

たまたま手元にあった大学図書館の貸し出しカードを見ると、バーコードが付いている。会員番号である。ためしにExcelを立ち上げて、これをこのリーダーでピッとやると番号が取り込めるじゃないか。

これだ。教師の会の会員にバーコードの番号を渡せばよい。今後の利用者にも、バーコード入りの会員証を作ればよい。

バーコードをどうやって手に入れるか?

ネットで調べると、いろいろの有償ソフトがあったが、お呼びではない。そしてみつけたのが 「バーコードの作成」である。これで、バーコードが自作でき る。

それを見るといとも簡単に、2010001 などの番号が作れた。これをMSワードに打ち出して、印刷してバーコードリーダーでなぞるとピッと取り込むではないか。

感激してこのソフトの管理人にお礼の投書をした。ただしBiglobeの会員登録をしなくてはならず、その通りやってみたが、うまく伝わったかどうか分からない。優れもののサイトである。感謝、感謝。

これで、先ほどの書籍リスト原本に貸出表の欄を付けてリストを作り、これを使うと貸し出し情報がスムースに入力出来ることになる。

と言うわけで原理的に資料室の新しい図書システムは完成した。

今ここで用意した本は約350冊。今、日本のうちからここに送っている本が約160冊。

瀋陽市図書館に寄付した本が約6千冊あった。それに比べると微々たるものだが、ともかく最初の一石だ。今後これを核にしてこれが膨らむことを期待しよう。