この講演に対して、東京大学の学生を名乗るアカウント「差別とデマのない五月祭を」が、SNS上で抗議声明を発信した。声明では、神谷氏および参政党の言説を「差別的・非科学的」と問題視し、講演における当該言論の自粛を求めていた。
これに呼応する形で、日本共産党員でカウンター活動家とされる家登みろく氏が、五月祭当日の抗議活動をSNS上で呼びかけた。これにより、神谷氏講演をめぐる問題は、単なる一企画の是非にとどまらず、東大の学生自治、外部活動家による介入、反差別運動、参政党批判といった複数の論点を含むものとなった。
私は五月祭の直前、この問題について、東大の学生自治に対する外部介入という観点から文章を書いた。そこでは、神谷氏講演の是非そのものよりも、正規の五月祭企画として扱われている学生企画に対し、外部の政治活動家ネットワークが直接行動を通じて圧力をかけようとしている点を1つのテーマとして論じた。
ところが、実際の展開はその範囲に収まらなかった。
5月16日、五月祭常任委員会および特定の企画団体に対して、爆破予告が届いた。これを受けて、五月祭初日の企画は中止され、来場者の退避や安全確認が行われた。中止されたのは、神谷氏講演だけではない。五月祭初日全体である。
つまり、当初は「参政党代表を大学祭に呼ぶことの是非」「抗議活動の妥当性」「学生自治への外部介入」という局所的な対立だったものが、爆破予告によって、五月祭全体、東京大学全体、さらには公共的イベントの安全管理一般に関わる問題へと一気に拡大した。
講演を主催した学生団体、五月祭常任委員会、そして講演とは無関係な多数の学生が、大きな損失を被った。
問題の次元は変わった。つまり、「保守」vs「リベラル」、「参政党」vs「カウンター勢力」という対立構図に平然と爆破予告をする「ネットのヤバいやつ」が登場してきたのである。
今回の件で見えたのは、政治的対立が激化したというより、政治的対立の外側から、違法行為も厭わない、いわゆる「ネットのヤバいやつ」がゲーム盤そのものをひっくり返せるという問題である。
たとえるなら、裏町の喧嘩にいろいろな勢力が加勢し、誰と誰の戦いなのか分からなくなったところに「加勢するぜ」と言いながらセスナ機で突っ込んでくるやつが現れた、という話である。裏町の喧嘩が、つまり局所的でマイナーな紛争が街全体を焼け野原にさせたのである。
しかも、そのセスナ機の操縦者は、必ずしもどちらかの陣営に本気で肩入れしているわけではない。単に面白がっているだけかもしれないし、すでにSNSで噂されるように大方は愉快犯(あるいは愉快犯という名の確信犯)だろう。
そうなると「暴力に抗議します」と言っても、ほとんど意味がない。相手は政治的主張の場に参加しているのではなく、場そのものが壊れることを面白がっているからである。
通常の抗議運動であれば、批判、反論、声明、対抗言論、対話、ルール整備などで対応する余地がある。しかし、匿名の爆破予告は、そのレベルの話ではない。それは言論に対する言論ではなく、場そのものを安全上のリスクとして扱わざるをえない状況に変え、停止へと追い込む行為である。
主催者が「信憑性は低い」と思っても、警察に通報すれば、警察は「問題ないのでそのままやってください」とは言えない。施設管理者の大学も、報告・相談を受けたら「安全上問題ないので続行してよい」とは言えない。
来場者を入れたまま続行し、万一何かあれば、主催者や大学の責任になる。逆に、実際には何もなくても、中止すれば「過剰反応」と批判される。だが、実務上は、過剰反応と言われるリスクより、危険を無視したと言われるリスクの方が重い。それがほとんど可能性の低い事象であっても。これはゼロリスク社会の反映ではなく、主催者と施設管理者のリスク許容度の問題であり、2日間で15万人以上が参加するイベント(公式ウェブサイト:「2日間で約15万人の方々にご来場いただくなど、全国屈指の規模を誇ります」)を預かる側としては、そのリスク許容度を下げられるはずもない。
当然、逡巡する。だから、対応が遅れても仕方ない。ポンと送られたメール、信憑性なんて皆無だろう。しかし、多くのことを考える。すると気づくのである、もう抗えないと。――結局、中止、退避、全館点検になる。
コンプライアンス社会では、自爆テロのような物理的破壊をしなくてもよい。「爆破する」と言うだけで、社会の安全管理システムが作動する。
仮に主催者が反応しなければ、第三者を装って犯人が「爆破予告があったのに主催者は無視した」と拡散すればよい。そうすれば、今度は炎上が起きる。主催者は「危険を軽視した」と責められ、大学も対応を迫られる。つまり、実際の危険性よりも、「危険を無視したと見なされるリスク」の方が先に作動する。ここが現代社会の弱点である。
ここまで来ると、問題は東大五月祭常任委員会でも、参政党でも、抗議学生でもない。公共的な場そのものが、匿名の脅迫にどこまで耐えられるのかという話になる。
そして率直に言えば、耐えられない。
少なくとも、現在の制度設計ではかなり難しい。公共的な場は、安全確認、責任所在、説明責任、炎上リスク、コンプライアンスの束の中で運営されている。その構造は、爆破予告のような匿名の脅迫に対して非常に弱い。
もちろん、「脅迫には屈しない」と言うことはできる。
実際、東大が警察に頼らず、自分たちで警備体制を整えて五月祭を続行した、という話も出ている(朝日新聞報道「爆破予告を確認した大学職員から、署に電話で相談があったが、大学側が『自主警備をする』としたため、警察は対応に関わっていない」)。しかし、これは単純な美談ではない。むしろ、そこまでしなければ公共的な場を維持できなくなっている、という話である。
大学や学生が自前で警備し、手荷物検査を行い、警戒体制を強化して、ようやく開催できる。それ自体は立派な対応ではある。しかし、それは「これで脅迫に勝てる」という意味ではない。
なぜなら、「ヤバいやつ」は会場そのものを狙わなくてもよいからである。
たとえば、「A大学の学祭を中止しろ。さもないとB大学を爆破する」と言える。「A党の演説会を中止しろ。さもなくばB駅構内の爆弾を起動する」とも言える。「A候補の選挙運動を取り止めろ。さもなくばB市内の幼稚園を爆破する」とも言える。
こういう形になれば、主催者がどれだけ自前で警備を固めても問題は解決しない。自分の会場を守っても、別の場所を人質に取られれば対応できない。
東大が警察に頼らずに警備したという話は、「毅然と対応すれば乗り越えられる」という美談ではない。公共的な場を守ろうとすればするほど、警備、点検、説明責任、炎上対応まで背負わされる。そして、それでも「ヤバいやつ」には勝ちきれない。
どこまで対応しても、相手は脅迫対象をずらせる。会場を守れば駅を出す。駅を守れば学校を出す。学校を守れば幼稚園を出す。こちらが現実の場所と人員と責任で動いているのに対し、相手は匿名で言葉を投げるだけでよい。この非対称性が大きすぎる。
だから問題は、「東大が警察に頼らずにやり切った、よかった」という話では終わらない。それはむしろ、公共空間を維持する側が匿名の脅迫に対してどれほど重い負担を負わされるかを示している。
結局、どこまで行っても「ネットのヤバいやつ」には勝てない。少なくとも、通常の警備や危機管理だけでは勝てない。その場を守ることはできても、ゲーム盤そのものを揺さぶられることは防げない。
さらに厄介なのが、VPN(Virtual private network)という匿名化技術である。今回の犯人が実際にVPNを利用したかは不明である。ただ、昨今の知恵の回る予告犯であれば、VPNなどの匿名化技術を利用する可能性は当然想定される。
VPNは政府の検閲や監視を逃れるためにも使われる。権威主義的な国家で、市民が情報にアクセスしたり、自由に発信したりするための道具でもある。つまり、VPNは単なる犯罪者の道具ではない。むしろ、自由のための技術でもある。
その自由のための技術が、愉快犯的な爆破予告にも使われうる。ここに皮肉がある。
「VPNを規制すればよい」と簡単には言えない。検閲から逃れる市民の手段や、匿名で発言する自由にも関わるからである。しかし、規制しなければ、匿名の脅迫リスクは残る。
しかもVPNは、もはや特別な技術ではない。YouTuberが動画内で宣伝するくらい、日常的なサービスになっている。以前から「ネットのヤバいやつ」には知られていた手法が、一般的な技術環境の中で、より実行しやすくなっている。
そうなると、「相手に損害を与えるにはどうすればよいか」という発想を持つ人間にとって、匿名の爆破予告は非常に強い手段になる。
もちろん犯罪である。しかし、「犯罪だからやらない」という前提は「ネットのヤバいやつ」には通用しない。彼らは、政治的正しさにも、抗議運動の作法にも、陣営の論理にも従っていない。ただ場が壊れることを面白がる。
だから、右派にも左派にも向かいうる。参政党の講演にも、左派系の集会にも、選挙演説にも、大学祭にも、市民イベントにも向かいうる。
こうなると、政治的対立の当事者たちが「我々の主張は正しい」「相手の言論は問題だ」「抗議は正当だ」と言っていても、その議論自体が吹き飛ばされる。誰が正しいかを争っているうちに、外からセスナ機が突っ込んできて、全員まとめて焦土にされる。
今回のゲームチェンジは、そこにある。
政治的対立の勝敗ではない。抗議の是非でもない。参政党講演の是非でもない。東大五月祭の運営判断の是非でもない。
公共的な場が匿名の脅迫に耐えられないことが見えてしまったということである。
加えて、その匿名性を支える技術の一部は、自由のための技術である可能性があることである。だから対策は簡単ではない。取り締まりを強めれば自由が削られる。自由を守れば、悪用の余地が残る。このねじれの中で「ネットのヤバいやつ」がゲーム盤をひっくり返す。
もう一つ重要なのは、今回の件で、もともとの局所的な対立が、まったく違うスケールの問題になってしまったことである。
当初の対立は、かなり限定されたものだった。参政党・神谷宗幣氏を五月祭に呼ぶ学生団体がいる。それに反対する学生活動家や学外の活動家がいる。さらに、その反対に反発する人たちがいる。そういう構図だった。
いわば、東大五月祭の中の一企画をめぐる局所的な対立である。政治が一部の人間の関心ごとになってしまった現代的な感覚で言えば、マイナーな衝突、言うなれば裏町の喧嘩である。
そこでは、「参政党を大学祭に呼ぶべきか」「神谷氏の言説は問題か」「抗議は正当か」「学生自治への外部圧力ではないか」といった論点があった。それぞれに論じる余地はある。
しかし、爆破予告によって五月祭初日全体が止まり、その話が東大生全体に知られ、さらに多くの学生が巻き込まれる段階に入ると、局所的な対立の意味はかなり変わる。
それまでの当事者たちにとっては「参政党講演の是非」や「抗議の正当性」、「自治のあり方」が中心だったかもしれない。
しかし、巻き込まれた多数の学生にとってはそうではない。
多くの学生は参政党講演にも、抗議活動にも、保守系学生団体にも、反差別運動にも、直接関わっていなかった。その学生たちからすれば、これは「誰かの政治的な揉め事のせいで、自分たちの五月祭が壊れた」という経験でしかない。
ここで、政治的な対立は一気に瑣末化する。
もちろん、爆破予告をした人物が最も悪い。ただし、感情の問題としては、それだけでは済まない。「爆破予告犯が悪い」という正論だけで、準備してきた企画が中止された学生たちの感情が整理されるとは限らない。
むしろ、無関係な学生から見れば、細かい因果関係よりも、「変な政治的対立に巻き込まれた」という印象の方が先に立つだろう。その時点で、当初の局所的対立は、もはや当事者だけのものではなくなる。
この裏町の喧嘩は、東大生全体、五月祭参加者全体、さらに世間の視線の中で再評価される対象になる。そして、その再評価を決めるのは、当事者たちの声明や理屈ではなくなる。むしろ、これまで蚊帳の外にいた多数の学生の、表面化されていない感情である。SNS上のローカルな論者たちをはるかに凌ぐ量の、生きた人間の感情がすべてを飲み込んでいく。
彼らが何を思ったのか、まだよく分からない。参政党側に嫌悪感を持ったのかもしれない。抗議側に嫌悪感を持ったのかもしれない。五月祭常任委員会や大学の危機管理に不満を持ったのかもしれない。政治的なもの全般にうんざりしたのかもしれない。あるいは、ただ「面倒なことになったな」と思っただけかもしれない。
ここが見えない。しかし、見えないから重要ではない、ということではない。むしろ、表面化されていない感情にすべてが委ねられてしまったのである。
当事者たちは自分たちの言葉で説明しようとする。主催、抗議学生、常任委員会・・・。
その外側にいた学生たちは、それをどのように受け取るのか。そこが最終的な評価を左右する。そして、その評価は必ずしも論理的ではない。というより、面倒ごとを起こした連中の話をいちいち聞いて考える時間さえ、苛立ちの元になるかもしれない。それを一部の学生活動家や学生論者が強いることはできない。
しかし、それでも「なぜ」という感情は残り続ける。
そうなるとその穴を埋めるのは、断片的な情報と印象になり、すでにある構図から見てそれぞれの立場はかなり不均等な条件を与えられる。
主催した保守系学生団体の学生や五月祭を運営する常任委員会メンバーはすでに顔出ししており、取材に応じることができる。一方で、抗議する側の学生は顔を隠し、身元の特定を恐れているように見える。もちろん、顔を隠すこと自体が悪いわけではない。政治的対立が激化すれば、身元特定や嫌がらせを避ける必要はある。だから隠すという判断は合理的である。
しかし、それは主催した保守系学生団体にも言えることである。それでも彼らは顔を出して自分の声で語る。他方で、抗議学生は顔を隠し、声を出さず、文字で対抗する。
両者がメディアに登場すると自ずと印象は決まってくる。顔を出して語る側は責任を引き受けているように見える。顔を隠して抗議する側は責任の所在が見えにくくなる。実際の正否とは別にその印象差は大きい。
さらに、結果だけを見ると抗議側は実質的に目的を達成しているように見える。抗議側は神谷氏に誓約書を書かせようとしていた。しかし、主催者を超え、許可を出した常任委員会を超えて、国政政党の党首が素性の分からない学生側の書面にサインをすることは通常の感覚ではあり得ない。内容がどうであれ、である。それは事実上、講演の取り消しを求めるものだった。
そして結果として講演は中止となり、抗議学生たちが予期しないかたちで五月祭初日全体も止まった。一方で、損失を被ったのは、講演を主催した学生団体、五月祭常任委員会、そして無関係な多数の学生である。
ここに嫌な非対称性がある。
外形的には抗議側が望んだ方向の結果が出て、その負担を他者が背負ったように見えてしまう。この構図はこの事態を眺めたとき、どうしても歪な感覚を与えてくる。
もちろん、抗議学生が爆破予告を望んでいたわけではないし、それに関与したという話でもない。しかし、外形的な結果だけを見れば、当事者の中で唯一、目的に近い結果を得たのが抗議学生だったことは否定しにくい。他方で、その代償を負ったのは、講演を主催した保守系学生団体、五月祭常任委員会、そして無関係な多数の学生である。この非対称性は、責任の有無とは別に、人々の感情に引っかかり続ける。
抗議学生は、この感情をなんとかして払拭しなければならない。誠意を伝えるためには姿を明らかにする必要があるかもしれない。だが、顔を出すことにも声で語ることにもリスクがある。身元特定や嫌がらせを避けるためには合理的な判断であっても、メディア上の印象では不利に働く。その時点で、明らかに他のプレーヤーより分が悪い。
例えば無遠慮なメディアは当事者たちに討論会でもさせるかもしれない。保守系学生団体の代表は意気揚々と出てくるかもしれない。彼らは明確な被害者であるからだ。多少の瑕疵があっても、それを覆すほどの材料、たとえばとんでもない陰謀でも出てこなければ、状況はひっくり返らない。
そこに抗議学生たちは出てくるのだろうか。出てくるとしてどういうかたちで出てくるのだろうか。
「ネットのヤバいやつ」は、明らかに抗議学生を厳しい立場に追いやっている。それはゲームに負けることではない。ゲーム盤をひっくり返され、それまでゲームの外にいた人々の目に、彼らがさらされるということである。
自分たちの理屈で、勝った、負けた、正しい、間違っていると語る。しかし、最終的な評価は、すでにその外側に移っている。もはや、局所的な勝敗などどうでもよい。無関係だった学生たちが何を感じたのかが、決定的に重要になった。しかし、その感情はまだ見えていない。
声明にもならない。運動にもならない。SNSにも書き込まれない。言語化もされない。ただ、沈黙したまま残っている、その感情の先に誰が立たされるのか。
「ネットのヤバいやつ」が残していった爆弾はそれである。
五月祭の直前に、私はこの問題について、論点を整理する文章を出した。そこでは、家登みろく氏による介入、神谷宗幣氏の講演、共産党や参政党、そして東大の学生自治をめぐる問題を、時代のきっさきにあるものとして論じた。当初の論点は、東大の学生自治に対する外部介入であり、大学自治と社会運動の関係をめぐる問題だった。
実際に五月祭が終わってみて考えるに、2026年の五月祭は、文字通り時代のきっさきにあったのだと思う。ただし、時代は、私が事前に見ていたものよりも、はるかに速く、はるかに危うい方向へ動き、みろくも神谷も、共産党も参政党も、とっくの速度で追い越していった。
かなり突き放す言い方で恐縮だが、結局、時代を変えるのは「ヤバいやつ」である。誰がどれだけヤバいか。どこまで倫理観のストッパーを外せるか。その競争になっていく。テクノロジーが進歩すればするほど、最後に問われるのは、その技術をどこまで躊躇なく使えるかである。
陰謀論に満ちた演説も、過激なカウンター運動も、どちらも倫理観のストッパーを外したものではある。既存の価値観を、道徳を、秩序を、少しずつ壊したものたちである。
だが、最後には「本当にヤバいやつ」が全部持っていく。
ただし、それは勝利ではない。勝ったのではない。ゲームを盗んでいくのである。
誰が本当の「支配者」であるかを示すためにゲームを盗む。勝者と敗者の双方が、自分の手の上で踊るコマに過ぎないことを自覚させる。
「自分がまだそうしていないから、お前たちは争えていたのだ」
これは五月祭だけの話ではない。なぜ参政党は陰謀論に満ちた演説をできたのか。なぜ「しばき隊」的な過激なカウンターは街頭で成立していたのか。なぜ日本共産党は中央委員会に刃向かう者を除名できたのか。
答えは簡単である。
「私たちがまだ、そうしていなかったから」。より露骨に言えば、「私たちが真に安全な場所から、お前たちを面白おかしく破滅させていなかったから」である。
ここでいう「私たち」とは、政治的主体ではない。保守でもリベラルでも、右派でも左派でも、反差別運動でも反カウンターでもない。ただ、場が壊れることを面白がる者たちである。「やつ」らは、参政党を支持しているわけでもない。日本共産党と戦っているわけでもない。カウンター運動に同調も反対もしていない。政治的な意味で勝とうとしているのですらない。
ただ、ゲーム盤を盗む。それまで政治的当事者たちが、自分こそが時代を動かしていると思って争っていた盤面に、外から手を突っ込み、全員を同じ盤面ごとひっくり返す。
そのとき初めて、これまでの政治的プレーヤーたちは、自分たちが「強かった」のではなく、単にもっと「ヤバいやつ」にまだ本気で遊ばれていなかっただけだと知る。
ここが今回の肝である。参政党の陰謀論も、過激なカウンターも、日本共産党の組織的排除も、それぞれの世界の中では強い行為だったのかもしれない。だが、「ネットのヤバいやつ」から見れば、それらはまだ裏町の喧嘩でしかない。
本当に安全な場所から、匿名で、責任を負わず、社会のコンプライアンスと安全管理システムだけを作動させて場を壊す者が現れたとき、それまでの強者たちは一気に古くなる。
だから、今回見えたのは、誰が正しいかではない。誰がより危険かでもない。
むしろ、これまで「危険な政治」だと思われていたものが、さらに外側にいる本当に「ヤバいやつ」の前では、まだゲームの中の行為にすぎなかったということである。
戦いの前線は、もはや匿名掲示板でも、カウンターの現場でもない。「ネットのヤバいやつ」をどう倒すか。どう抑止するか。どう追跡するか。どう制度的に封じるか。そういう話になっている。
そしてそれは、すでにより高度で、より複雑な技術的領域に入っている。イデオロギーでは太刀打ちできない。怒りや正義感や党派性では届かない。必要になるのは、通信セキュリティに関する技術であり、捜査実務であり、プラットフォーム規制であり、国際的な開示手続きであり、匿名化技術をどう扱うかという法制度である。
それは、311以降の街頭抗議やSNS動員を中心に政治活動家たちが活躍してきたフィールドとは、かなり離れている。街頭で声を上げること。SNSで批判を広げること。声明を出すこと。カウンターに立つこと。あるいは陰謀論的な演説で支持者を熱狂させること。
そうしたものが、まったく無意味になったわけではない。
しかし、今回のように、匿名の脅迫が一つ投げ込まれただけで公共的な場そのものが停止する局面ではそれらは決定的な力を持たない。
時代はすでに別の層に移っている。そこでは「匿名化された悪意」をどう扱うかが前線になる。そして残念ながら、その前線に、日本共産党や参政党が今から参加するには、あまりに高度すぎる。
彼らが自分たちの言葉で世界を動かしていると思っている間に、世界の方は彼らの言葉が届かない場所へ進んでしまっている。
参政党が、抗議側がどちらが勝ったのか。五月祭常任委員会の判断は正しかったのか。東大生はどう応答すべきだったのか。そうした問いは残る。だが、それらはもはや中心ではない。
本当に残った問いは、誰がゲームを盗んだのか、次に誰がゲームを盗むのか、そして、誰がゲーム盤を守れるのか、ということだ。そして、その答えはまだ見えていない。
公開日:2026年5月18日
原稿作成にChatGPTを用いました