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2025年8月、田村智子委員長と山添拓政策委員長が出席した記者会見で、参政党が新宿で行った街宣活動に対する抗議行動が取り上げられた。その場では「共産党員を名乗る人物によるスモークの使用や中指を立てる行為」があったとされ、党としての関与や容認の有無が記者から問われている。
産経新聞はこの会見を「『極右排外主義が国会で多数を占めぬように』共産・田村委員長、街頭演説への抗議活動容認」(2025年8月22日18時48分配信)と報じ、SNSでも広く話題となった。会見の全容は党の公式YouTubeチャンネルで公開されており、そこから逐語録を作成した。
本稿ではその内容を精査し、田村氏の発言が示す姿勢と、その背後に潜む構造的問題を分析する。
会見逐語録
記者A「共産党のですね、排外主義に対する戦い方についてお伺いいたします。共産党は参議院選挙期間中もですね、その終わった後もですね、参政党を念頭にだと思うんですけれども、排外主義ですとか、その差別主義と戦うということで、参政党の言動を非常に厳しく批判をしております。共産党として排外主義、差別主義とどのような戦い方を展開していくのか。赤旗も含めて日々やっていらっしゃるかと思うんですが、まずこの点を確認させてください」
田村「私たち今、極右排外主義というふうに呼んでいます。これはこの8月15日をめぐってもですね、まさに歴史の改ざんともいえるような発言が行われているわけです。侵略戦争であるということも認めない、植民地支配ということも認めない。こういう戦争を美化するという発言も行われていますので極右ですよね。そして『日本人ファースト』と外国人に対するデマを含めた攻撃というのを繰り広げるという、このやり方については事実をもってまず対抗していきたい。侵略戦争の事実、植民地支配の事実、とても美化できるような戦争ではないんだと。そして、外国人に対する攻撃についても事実でもって私たちは常に反撃をしています。それを世論としても広げていってですね、こうした極右排外主義の主張がまさに国会の中の多数を占めないように、国政上の多数を占めることのないようにということで大きな世論形成を図っていきたいと考えます。また、直接的にですね、まさに『ヘイトスピーチ』と言われる排外主義もあります。もう『日本から出てけ』と『いらない』と。これはですね、もうその日本にいる外国の方々に対する直接的なまさに言葉の暴力であり、それは国会の中でもヘイトスピーチについては禁止の法律を私たちも賛成をして成立をさせているところです。これは全く許されないと。こういう言動は言論の自由の問題ではないと。ここははっきりさせて、そういう行動、言動を行うこと自体が許されないということは、明確に批判をしていきたいと考えているところです」
記者A「関連してなんですけれども、8月8日に参政党さんが新宿の駅前で街頭宣伝活動を行っていました。その際に参政党の主張に反対する方々が抗議活動を行っておりまして、そこに参加していた方々の一部なんですけれども、スモークを焚いてみたりですね、あるいは女性議員、梅村みずほさんが参加していたんですけれども、彼女に対して中指を立てたりですね、そういった過激とも映る抗議動をされている方もいました。その中にはですね、共産党員だという方もいらっしゃったんですけれども、こういった活動、直接行動とも言えるかと思うんです、過激な行動をですね、取る共産党員の方々を党としては許せるのでしょうか」
田村「党としての見解は今述べた通りです。個々の市民の皆さんがどういう抗議行動をするかについて私が言葉で一つ一つについてですね、述べるということは行わないと。ただどういうふうに抗議行動あるいは極右排外主義との戦いということを進めていくことが、本当にその勢力の台頭を許さないことになるのかということは、これから党の中でもよく議論をしていきたいと考えています」
記者A「すみません、連続で申し訳ないです。一部の古参の長く共産党の活動に関わってきた方々は、共産党はやはり理論の党だから言論であったり平和的なデモとして、そういった排外主義と戦うべきではないかということを指摘している人がいます。一方でやっぱり過激な、ですね、直接行動的な行動に対しては非常についていけないという方々がいらっしゃる中で規約の中でも『行動の統一』ということを謳っていらっしゃるかと思うんですけれども、その規約に照らし合わせてもそういった過激な行動をとる方々の動きというのはちょっと反するんじゃないかなと思うんですけれども、その点、いかがでしょうか」
田村「8日の抗議行動というのは党として行ったものではありません。個々の市民の皆さんが自発的に行ったものですのでその一つ一つについてのコメントはしません。先ほど言ったようにそれでは党としてどういう抗議行動をしていくのかはよく党の中でもそれぞれの組織の中で議論していくことが大切ではないかと思います。暴力的な行動というのは私たちは常に否定しています。『行動の統一』というのは、排外主義に賛成するということはまさに反対なんです、それは。『行動の統一』に反します。では、極右排外主義に抗議する、戦うという時にどういうやり方でということはよく議論するということが求められているのではないでしょうか。同時に党員という方々も一人一人の市民であって、その一人一人の市民の行動の全てについて日本共産党の中央委員会が『ああしなさい、こうしなさい』ということも、またそれは違うのではないかと思います。私自身の発信としてはインスタライブやYouTubeの発信においてはね、私は党としては知性と理性をもって、そして事実をもって反論していくと。そして参政党を支持しているという人も確かにそれはおかしいよねというような、共感が広がるような、その行動をぜひ私としては取り組んでいきたいと考えているところです」
記者A「では党として参政党に抗議活動みたいなのに参加するというのは」
田村「そういう方針を示してはいません」
記者A「参加するなということも言ってないし」
田村「まさにそれは市民の・・・」
記者A「まさにそれは市民の自由だ、と」
田村「市民の活動です」
記者A「ありがとうございました」
ー ー ー ー
記者B「先ほどの参政党の件ですけれども、これは動画とかでいろいろ拡散されているところがあるんですけれども、そういった動画の様子というのはご覧になっていますか」
田村「詳しくは見ていないです」
記者B「あったということは知っていますか」
田村「それはXなどで流れてくる情報で目にしているところです」
記者B「共産党の演説だったり選挙だったりする中でそういうような直接的な行動だったり受けたりするようなこともあるのでしょうか」
田村「私たちが演説で右翼の街宣車が来て、その演説をかき消すという妨害行動は何度も受けてきましたし私たちの車の後ろをずっと追っかけてきて右翼が延々妨害するというようなことも私たち自身経験してきている」
記者B「そういう演説に対する妨害というのがよくなかろうというのは感じられますか」
田村「演説の内容を先ほどを・・・先程ね、ヘイトスピーチの問題を言いました。そのヘイトスピーチが言葉の刃になって、外国人の方々のまさに尊厳をズタズタにすると。場合によってはそれが命を奪いかねないような危険なものであるからこそ、これはもう国際社会、国連の場でおいて、ヘイトスピーチ自体が許されない。だからそういう言動自体を聞こえなくさせるって行動ですね。抗議行動、これは市民の皆さんがやってきていることを私は『これはある』というふうに思うんですよ。川崎などでね、本当にあのもうゴキブリだの出てけだの殺せだの・・・あれやってはならないスピーチですよ。そうやって扇動して、実際に歴史を見れば日本も含めて実際、殺害行動って行われてきた歴史があるわけですから、これはねやってはダメだってことを示す、市民の皆さんの行動というのは私はこれ必要だというふうに思います。問題はだから、政党の演説がそういう中身なのか、どうかというところも私は冷静に見ることが必要ではないかというふうに思っております、私としては」
記者「ヘイトスピーチに対してそれをかき消すための声であれば容認できるということだと」
田村「ヘイトスピーチ自体は許されないやることが」
記者B「と思うんですけど、今回やった中指を立てるとかスモークを焚くっていうことは」
田村「一つ一つについてコメントしません。先ほども言うようにコメントしません。ただ日本共産党としての行動ではないですよ、ということですということです、につきます。・・・先ほども言ったように私たちは言論で理論と事実をもって、理性と知性をもって行動していくというのは私は一貫してやっていくという立場です」
記者会見で田村委員長は「暴力的な行動というのは私たちは常に否定しています」と明言した。しかし注目すべきは、暴力が具体的に何を意味するのかを定義・評価しなかった点である。中指を立てる行為やスモークを焚く行為など、記者が具体的に挙げた事例については「一つ一つコメントしない」と回答し、明確な評価を避けた。その結果、「暴力」と「抗議」の境界線は党の言葉では示されず、宙吊りに置かれることになった。
この空白は、党が「暴力とは何か」を自らの規範に基づいて裁定する権限を行使しなかったことを意味する。そうなると判断は外部の「常識」に委ねられるが、その幅は広く曖昧である。最終的には法治国家の原則上、その行為が暴力か否かは裁判所の確定判決によってしか決まらない、というのが実情となる。
このように定義・評価が空白化したことで、暴力の閾値は外部化された。党員や支持者にとって、自らの行為が「抗議」か「暴力」かは党の規律・機関で裁定されず、確定判決が下るまでの間は「これは抗議である」と自己解釈できる状況が生まれる。
会見の中でも田村委員長は「市民の行動であり、党の行動ではない」と繰り返し強調している。これは事実上、「党員」であると同時に「市民」であるという二重性を認め、その「市民」としての行為について党が一切の評価権限を持たない立場を示している。こうした態度は、党組織が本来有していた「行動の正当性を裁定する権限」を自ら放棄したことを意味する。言い換えれば、革命党が伝統的に担ってきた「党細胞」としての党員の道徳・規範の管理権(例えば、日本共産党規約第2章第5条(一)「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」)を放棄し、さらに党員に対する「力の行使」の正当化や裁定権の独占をも手放したことになる。
より重要なことだが、記者が「行動の統一」との整合性を問うた場面で、田村委員長はその意味を独特に再解釈した。田村によれば「行動の統一」とは、攻撃対象の方向性を一致させることを指す。つまり、
「誰を敵とするか(=極右排外主義と戦うこと)」については「党員」として統一を求められる。
しかし「どう戦うか(=具体的な抗議方法)」については「市民」としての自発に委ねられる。
この再解釈により、党は敵を指し示す権利を独占する一方で、抗議の具体的手段については統制から外すという切り分けを行った。すなわち党は「力の方向性」を規定する権利を独占しながら、「力の行使」そのものの判断権を放棄する構造を作り出した。
会見を通じて浮かび上がるのは、この二重構造である。
党は「理性と知性」「事実に基づく反論」という姿勢を強調する。
しかし同時に、市民による直接的な抗議行動を「必要」と評価しながら、その個別の行為については「コメントしない」と責任を回避する。
この態度によって、党は扇動と正当化の役割を果たしつつ、行為の結果責任を免れる構造を作り出している。会見でも繰り返された「市民の行動である」という言葉は、党が暴力行為(「力の行使」」)の指揮命令系統を内部に保持することではなく、それを率先して放棄する姿勢を意味する。
本来、革命党としての性格は「力の行使」を組織的に統制し、党がその独占的判断権を持つことにあった。ところが田村委員長の発言は、その権能を手放す方向へ傾いている。すなわち、
「力の行使」の判断は党が下さない。
「攻撃対象」の設定だけは党が指示する。
この切り分けによって、党は「統制組織」から「扇動装置」へと変質する。党は敵を規定し、憎悪を拡散する役割を担いながら、実際の抗議行為は「市民の自発」として外部化することでリスクを回避できるのである。
この構造を支えるためには党は先導のためのメディアを必要とする。「しんぶん赤旗」は長らく党組織を構成する重要なネットワークであったが、今や「敵を指し示し、憎悪を広げる情報媒体」としての性格が強まるだろう。そこには「市民」が己の衝動のままにに破壊し、辱め、打ち捨てられる対象が指し示されているからである。
しかし、近年、この機関紙のメディアとしての影響力は他の新聞がそうであるように、低下している。代わって登場したのがSNSである。日本共産党の場合、党員やJCPサポーターが「憎悪コンテンツ」を伝播させる「憎悪ネットワーク」とでも呼べるものを形成している。党はそこに「憎悪」を供給し、支持者がさらなる扇動を行うことで、責任を負わないまま「力の行使」――暴力を含む――を唆すことが可能になる。
SNSの強化は、赤旗の衰退と裏腹に、党が「憎悪伝達媒体」としての役割を維持する新たな手段であると同時に、党が直接責任を負わずに暴力を示唆する仕組みの延命策でもある。
先般、私は「新しい暴力」という概念を提示した。
そこでは、かつての「古い暴力」が党や組織によって掌握され、理念や戦略に基づき秩序立てられていたのに対し、「新しい暴力」は個々人の内面にある憎悪や衝動に依拠し、党がそれを統制するのではなく、扇動を通じて解き放つ形を取ることを指摘した。理念的暴力から衝動的暴力への転換は、党の性格そのものを変質させる。
この視角からみると、日本共産党の現在の姿勢はこの「新しい暴力」に支配されているかのようである。
田村委員長は「暴力を否定する」と明言したが、その定義を空白にし、個別の行為評価を拒否したことで、暴力の境界は外部化された。結果として、党員や支持者は確定判決が下るまで自己解釈によって「これは抗議だ」と主張できる余地を持つ。
同時に「行動の統一」は攻撃対象の一致に限定され、具体的な方法は「市民」としての自発に委ねられる構造が確立した。これにより党は、敵対勢力を指し示し憎悪を方向付ける一方で、実際の行為責任を外部化することに成功している。成果は享受しつつ、リスクは市民の行動として転嫁できる仕組みである。
この構造は、党をもはや「革命のために力を統制する組織」ではなく、「憎悪を拡散し、衝動的暴力を誘発する装置」へと変質させた。かつて赤旗が担っていた役割は衰退し、その空白を埋めるようにSNSが憎悪伝達の新たな媒体となっている。
要するに、日本共産党は「暴力否定」を掲げつつそれを空文化させ、党員を「市民」として外部化しながら、敵を指し示して憎悪を煽る「扇動装置」と化したのである。この変質は、組織的暴力から衝動的暴力への転換を示すと同時に、現代政治および現代左翼における「力の行使」のあり方を根本から揺るがす重大な兆候である。
現実的に考えるなら、抗議運動への立件を警察・検察が躊躇する現在では、「抗議」を盾にして、「党員=市民」による、かなりの実力行為が許されることを意味する。同時に立件されたとしても、日本共産党は暴力を否定しており、訴追された党員=市民は「勘違いした不良分子」として党規約に沿って除名することができる。残された「党員=市民」はその不良分子を「規約を破った裏切り者」として軽蔑し、忘却し、再び、立件されるかどうかのチキンレースに身を投じる。こうして日本共産党は暴力を無限に生み出すことができるのである。
日本共産党が参政党を「極右排外主義」と位置づけ、これと闘うと宣言することは、参政党への憎悪を一層生み出し、それがSNS上の憎悪ネットワークを介して拡散し、「党員=市民」による力の行使を唆すことにつながる。
私には、田村委員長は、この構図を理解したうえで発言しているように思える。こうした、いわば「新しいテロリズム」と呼びうる、責任が曖昧な暴力の無限増産装置こそが、衰退局面にある日本共産党にとって、旧来の党組織を最も容易に代替しうる新たな党の姿なのだからである。
田村は最もクレバーな選択をしたのである。
公開日:2025年8月24日
原稿作成にChatGPTを用いました